外伝4 草原の小さな剣士たち
それは、草原の香りを含んだ風が、朝露を散らしながら村を吹き抜ける、ある夏の日の出来事だった。
「……生きてる、リノ?」
一人の少年が、草の上に仰向けに倒れた少女を見下ろしていた。
少年の名はオラフ。
癖のない栗色の髪を、肩にかからない程度まで伸ばしている。大きな緑色の瞳と、まだどこかあどけなさを残す顔立ちが特徴的だった。
背丈は同年代の少年より少し高い。だが、身体が細いため、実際よりもさらに背が高く見える。
身にまとっているのは、クラウディア平原に暮らす遊牧民に伝わる簡素な貫頭衣だった。
「まだ、目がちかちかするよ……オラフ」
地面に倒れたまま答えたのは、オラフより二歳年下の少女、リノである。
背丈は同年代の少女としては平均的だったが、身体つきはひどく華奢だった。
癖のない茶色の髪を動きやすいよう短く切り、真鍮製の質素な髪留めでまとめている。
琥珀色の瞳は大きく、やや吊り上がっていた。
愛らしい顔立ちをしているが、どこか気の強そうな、野生の仔猫を思わせる少女だった。
「思い切り叩いたからね」
オラフは、手にした木刀を肩へ載せた。
「女の子なんだから、少しくらい遠慮してよ……」
リノは頭を押さえながら、ゆっくりと上体を起こした。
「ごめん、ごめん。でも、そろそろ遠慮していたら、こっちが足をすくわれそうになってきたから」
「へ……?」
リノは首を傾げた。
「それじゃあ、今までは遠慮してたの?」
「えっ。いや、その……」
オラフが慌てて言葉を濁す。
リノの目が、さらに大きく見開かれた。
「じゃあ、この前……私が初めて一本取ったときも?」
「遠慮してたっていうか……リノの力量に合わせていたというか……」
その言葉を聞いた瞬間、リノの顔から血の気が引いた。
やがて、握り締めた拳がわなわなと震え始める。
「どうして遠慮なんかするんだよ! 馬鹿にするな!」
「さっきと言ってることが違うよ、リノ……」
「違わない!」
困り果てたオラフに構わず、リノは声を張り上げた。
「結局、これで一勝百五十三敗一分けかあ……」
「百五十三勝一分け零敗だよ」
「ええ? この前のはどうなるのさ。寝てるオラフの頭を思い切り殴ったら、三日くらい目を覚まさなかったやつ」
「却下。寝込みを襲うのは勝負に数えない」
オラフは思い出すのも嫌だと言わんばかりに顔をしかめた。
「でも、リーフェルは、どんなときでも敵に対応できてこそ真の剣士だって言ってたよ」
「自宅で寝ているところへ、年頃の女の子が木刀を持って忍び込んでくる状況は、『どんなときでも』の範囲には入らない」
「だって、サシャもやっていいって言ったもん」
「あの人は、そういうところが大雑把なんだよ。それに、母さんの常識に合わせて生きていたら、いくつ命があっても足りない」
「じゃあ、どうすれば私はオラフに勝てるのさ」
「稽古」
「うう……やっぱり、それしかないのか」
リノは眉を寄せながら立ち上がった。
「もう平気?」
「まだ少しふらつく。ああ、もう。こぶになってる」
リノは頬を膨らませ、恨めしそうにオラフを睨んだ。
「少し休む?」
「駄目。さぼってたら、またリーフェルに怒られる。内出血もしてないみたいだし、これくらいなら大丈夫」
そう言って、足元に転がっていた木刀を拾い上げる。
二人は互いに寸止めを心がけていた。
だが、勢いのついた木刀が、いつも狙いどおりに止まるとは限らない。
二人の身体には、絶えず小さな痣が残っていた。時には腕や肋骨にひびが入ることさえある。
それでも、二人は毎日のように稽古をつづけた。
特にリノは、口では不平を言いながらも、この村の誰より熱心に剣を振っていた。
「じゃあ、始めよう」
リノが木刀を構える。
オラフも向かい合い、静かに構えを取った。
「やあっ!」
幼さの残る高い声が、長閑な村の広場に響きわたった。
*
クラウディア西部には、見渡す限りの草原が広がっている。
その草原地帯に点在する村の一つが、レーヴェだった。
人口はおよそ百人。
牧畜と農耕を主な生業とする、決して豊かではないが、静かで平和な村である。
住民の多くは、古くからクラウディア平原を渡り歩いてきた遊牧民の血を引いていた。
十五年前、ネーヤ半島全域を巻き込むクラウディア動乱が起こった。
だが、辺境に位置するレーヴェと、その周辺の村々が戦火に巻き込まれることはなかった。
そんな村の平穏に退屈したのか、かつて一組の兄妹が故郷を飛び出した。
兄の名はオラフ。
妹の名はサシャ。
二人は自ら争乱の中へ身を投じ、兄オラフは若くして命を落とした。
サシャは戦乱を生き延び、動乱が終わるとレーヴェへ帰ってきた。
やがて彼女は二人の子をもうけた。
長男には、亡き兄の名であるオラフを与えた。
長女には、かつて自分が一時期用いていた名から、セフィリアと名づけた。
サシャが村へ連れ帰ったのは、子供たちだけではなかった。
彼女は一人の女性と、その女性に付き添う有翼人の少女を伴っていた。
女性は記憶を失っていた。
自分が何者であるかはおろか、名前さえ思い出せなかった。
当初、村人たちは素性の知れない女性へ疑いの目を向けた。
しかし、サシャから事情を聞くと、その態度を改めた。
名前を失った女性に、サシャは「リア」という名を与えた。
リアは村から少し離れた丘の上に小さな家を与えられ、そこで暮らし始めた。
いつも傍らには、彼女をいたわるように寄り添う有翼人の少女、リーフェルがいた。
やがて村での生活に慣れ始めた頃、リアは一人の娘を産んだ。
その子が、リノである。
サシャの子であるオラフとセフィリア。
リアの娘であるリノ。
三人は血こそつながっていなかったが、本当の兄妹と変わらぬほど親しく育った。
そして、その年。
オラフは十六歳。
セフィリアとリノは十四歳になっていた。
*
「だあっ!」
叫び声と同時に、リノがオラフへ斬りかかった。
お世辞にも洗練されているとは言い難い、荒々しい動きである。
だが、決して遅くはない。
むしろ、全身のばねを一気に解き放ち、瞬く間に間合いを詰める動きには、生来の俊敏さがあった。
野生の猫が獲物へ飛びかかるような踏み込みだった。
しかし、オラフは慌てない。
一歩後ろへ下がると、音を立てて迫る木刀を、自分の木刀で外へ打ち払った。
同時に大きく踏み込み、体勢を立て直そうとするリノの手元を足で蹴り上げる。
ごっ、と鈍い音がした。
「うっ……!」
リノが呻く。
弾き飛ばされた木刀が宙を舞い、リノは反射的に一歩後ろへ退いた。
「はっ!」
オラフの短い呼気。
その手にある木刀が、真っ直ぐリノの喉元へ突き出される。
木刀が首を貫く寸前、ぴたりと動きが止まった。
「……百五十五勝目だね」
「あう……」
宙を舞っていたリノの木刀が、からんと地面へ落ちた。
「大丈夫?」
「う、うん……」
リノは頷いた。
だが、先ほどオラフに遠慮していたと言われたことが、まだ頭に残っているのだろう。
返事にはいつもの勢いがなかった。
「あまり、手にした剣だけへ意識を奪われないほうがいい」
オラフは木刀を下ろした。
「剣を持っていない手も、足も、頭も使える。どこからでも攻撃できる柔軟さを持つように心がけて」
リノの動きそのものは悪くない。
だが、剣を持った途端、剣だけに頼りすぎる傾向があった。
もしも彼女が、剣を単なる武器としてではなく、自分の身体の延長として扱えるようになれば。
「剣術を上達させることだけ考えるんじゃない。どんな手を使ってでも、目の前の相手を倒すことを考えたほうがいい。特に、リノはね」
リノには、天性の素質がある。
だが、それは純粋な剣術の才能ではなかった。
基本的な身のこなし。
しなやかな身体。
優れた反射神経。
そして、相手を倒そうとする本能的な強さ。
彼女の資質は、剣術だけではなく、あらゆる格闘術に通じるものだった。
それを剣術という狭い枠へ押し込めることは、彼女の長所を損なうだけである。
かつて同じ壁にぶつかったことのあるオラフには、そのことがよく分かっていた。
「うん……」
リノは木刀を拾った。
だが、オラフの言葉を理解しきれないのか、その目には、彼女には珍しい迷いが浮かんでいた。
無理もない、とオラフは思う。
口で言うほど、簡単なことではない。
「少し休もう」
オラフが言うと、リノも素直に頷いた。
二人は近くの木陰へ移動した。
リノはオラフの隣へ腰を下ろし、小さく息を吐く。
「暑くなってきたね……」
汗で上気した頬を服の裾で拭い、空を仰いだ。
オラフはリノから木刀を受け取り、自分も空を見上げる。
「夏だね」
「そうだね」
どこまでも続く青い空。
クラウディアの空は、ネーヤ半島のどこよりも澄んでいる。
幼い頃、母サシャからそう教えられた空だった。
かつて存在したクラウディア公国の旗には、その土地を象徴する三つの色が使われていた。
青は、クラウディアの空。
緑は、平原と森。
そして中央には、黒い烏の紋章が刻まれていた。
クラウディア公国は、動乱のさなか、わずかな期間だけネーヤ半島の中枢を担った国である。
国そのものは、すでに存在しない。
それでも、その旗と黒い烏の紋章は、現在もクラウディア地方の至るところで目にすることができた。
国が滅びても、旗は残った。
烏は今も、クラウディアに暮らす者たちの象徴でありつづけている。
「もうすぐ収穫祭だね」
リノが言った。
「うん」
「今年はセフィ、帰ってこられるかな」
「どうだろう……」
セフィ――セフィリアとは、半年ほど会っていない。
オラフの妹であり、リノにとっては幼い頃から一緒に育った親友である。
セフィリアは前年から本格的に魔導を学ぶため、山を越えた先にあるゲート共和国へ渡り、その首都にあるゲート大学へ通っていた。
「オラフ、セフィと連絡取ってる?」
「いや。最近は手紙も来ない。ソフィアさんからは、時々連絡が来るけど」
「都会の暮らしが楽しいのかな。だから、私たちのことなんて忘れちゃったのかも」
「そうならいいんだけどね」
「へ?」
リノがオラフの顔を見る。
「あいつのことだから、大学の生活に馴染めなくて、手紙を書く気力もなくしているのかもしれない」
オラフの声が少し沈んだ。
「一度会いに行ったときも、あまり元気がなかったんだ。あいつ……」
「オラフ、心配してるんだ」
「一応、普通の兄妹と同じくらいには心配しているつもりだけど。そうは見えない?」
「ううん。ものすごく心配そう」
リノは唇を尖らせた。
「私が目を回して倒れてるときより、ずっと」
「それはそうだよ。リノの石頭は、この村で一番固いから」
「な、何よ!」
リノが咄嗟に掴みかかろうとする。
だが、オラフは素早く身を翻して立ち上がった。
「こら、オラフ! 逃げるな、馬鹿!」
「それだけ怒鳴れるなら、もう大丈夫だね」
「うう……!」
リノは顔を赤くして睨みつけた。
「その勢いを稽古でも出せばいい。もう一本やる?」
「絶対に後悔させてやるからね」
リノは木刀を正眼に構えた。
その表情からは、先ほどまでの迷いが消えている。
オラフも、わずかに口元を緩めた。
そして、ゆっくりと木刀を構え直した。
*
「お。頑張ってるな」
「え……?」
背後から聞こえた声に、リノが振り返った。
「隙あり」
「いたっ!」
ごん、とオラフの木刀がリノの頭を小突いた。
「ちょっと! 今のは卑怯だよ!」
「稽古の最中に余所見をするほうが悪い」
「ははは。相変わらずだな、お前たちは」
「変わらないのは、ルルトのほうだよ」
リノが嬉しそうに笑う。
その笑顔につられるように、二人の背後に立っていた女性も微笑んだ。
「久しぶり、リノ。オラフも」
声の主は、一人のエルフだった。
褐色の肌を持つ、森の一族の女性である。
長い髪を頭の上でまとめ、バンダナで留めている。身につけているのは、旅に適した質素な服だった。
すぐ近くには、彼女が乗ってきたらしい馬がつながれていた。
鞍には、長く使い込まれた弓と矢筒が掛けられている。
「お久しぶりです、ルルトさん」
オラフが丁寧に頭を下げた。
その仕草を見て、ルルトは苦笑する。
「相変わらず、母親に似ない息子だね、あんたは」
「それは褒め言葉ですか?」
「ははは。あとでサシャに言いつけるぞ」
「……それだけは勘弁してください」
「ねえ、どうしたの、ルルト。何かあった?」
リノが尋ねると、ルルトは表情を少し改めた。
「ああ。まあな」
一瞬、言葉を選ぶような間があった。
「リアたちに話がある」
「お母さんなら、家にいると思うけど……。どうしたの?」
「お前たちにも関係のある話だ。あとで一緒に話す」
そう言ってから、ルルトは馬に積んだ荷物へ目を向けた。
「それと、サシャに頼まれた物を持ってきた。もうすぐ収穫祭だから用意してくれって言われたんだけど、リノは聞いてないのか?」
「母さんが? 何か頼んだんですか?」
オラフが首を傾げる。
ルルトは苦笑交じりに首を振った。
「聞いてないなら、気にするな」
「そう言われると気になるよね、オラフ」
「いや。あまり気にしたくない」
オラフは嫌な予感がするように眉をひそめた。
「どうせ、酒か何かでしょう?」
「さすが、よく分かってるな」
ルルトは愉快そうに笑った。
「私の住む森の近くで造られた、極上の酒だ」
「はあ……」
やはりそうか、と言わんばかりに、オラフは深いため息をついた。
「それで、サシャはどこにいる?」
「家だと思います。それか、いつもの場所で村の子供たちに乗馬を教えているか」
「それなら、先にそっちへ寄ってみるか」
ルルトは馬の手綱を取った。
「邪魔したな、二人とも」
「ええ。もう行っちゃうの?」
「またあとでな」
「久しぶりですから、明日にでも手合わせをお願いしたいんですが」
オラフが言った瞬間、リノが小さな悲鳴を上げた。
「えっ!?」
その反応を見て、ルルトはくすくすと笑う。
「そんなに心配しなくても、明日にでもゆっくり相手をしてやるよ」
「よかったね、リノ」
「あは……あははは……」
引きつった笑みを浮かべるリノに背を向け、ルルトは馬を引いて村の中心へ歩いていった。
「……馬鹿オラフ」
その背中を見送りながら、リノは小さく呟いた。
*
夕刻。
オラフと別れたリノは、一人で家路についていた。
クラウディアの夏は、日が長い。
夜が近づいても、地平線の彼方にはいつまでも光が残り、淡い夕日が草原を照らしている。
空にはまだ眩しい太陽が浮かんでいた。
リノは、村から少し離れた丘の上に建つ家へ向かい、ゆっくりと歩いていく。
リノは母リアと、姉代わりの有翼人リーフェルの三人で暮らしていた。
丘の上に建つ質素な家。
その煙突から、細い煙が空へ昇っている。
母が夕食を作っているのだろう。
「お腹すいた……」
リノは呟き、ほんの少しだけ歩調を速めた。
ルルトが持ってきた話が、彼女たちの穏やかな日々を大きく変えることになるとは、このときのリノはまだ知らなかった。




