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外伝3 英傑たちが残した日常

 授業の終わりを告げる鐘が、ゲート大学の石造りの校舎に鳴り響いた。

 セフィリア・リオーネは、ふう、と小さく息を吐いた。

 周囲の学生たちが次々と席を立つ中、セシリア――親しい者からはセシルと呼ばれている少女も、机の上の荷物をまとめた。

 数冊の魔導書。筆記具。そして、藁半紙を綴じ合わせただけの粗末なノート。

 セシルは招待学生だった。

 正規の入学試験を経た学生ではなく、教授の推薦によって特別に大学で学ぶことを許された身である。

 そのため、他の学生たちと比べて、暮らし向きは決して豊かではなかった。

 魔導書は、前年に卒業した招待学生から譲り受けた使い古しだった。ノートも、あちこちから集めた紙を自分で綴じたものである。

 正直に言えば、生活は苦しかった。

 寮にいれば、寝床と最低限の食事だけは確保される。

 だが、それ以外に必要なものは、すべて自分で賄わなければならない。

 授業を終えたあと、エルフの森に近い国境で警備の仕事をしても、新品の魔導書を買えるほどの収入にはならなかった。

「……はあ」

 授業が終わっても、セシルの気分は晴れなかった。

「セシルさん」

「……?」

 自分を呼ぶ声に振り返る。

 そこには、同年代の少女たちが数人、連れ立って立っていた。

「これから、お暇ですか?」

「え……?」

「近くに、おいしいジェラートのお店があるんです。よろしければ、ご一緒にどうかと思って」

「……すみません。私、これから――」

「無理よ、レイラ」

 別の少女が、ことさら親しげな口調で割って入った。

「この子、これから仕事なんだから」

「仕事……ですか?」

「そう。国境警備」

 少女は唇の端を歪めた。

「粗末な監視小屋に籠もって、一晩中、森の暗がりを睨んでいる仕事。知ってる? この子ね――」

「……失礼します」

「あ……」

 セシルは相手の言葉を最後まで聞かず、顔を背けた。

 背を向けたあとも、少女たちの囁きと、誰かの押し殺した笑い声が聞こえた。

 それでも振り返らなかった。

 悔しかった。

 彼女たちの言葉に、自分への妬みが含まれていることくらいは分かっていた。

 セシルはまだ十四歳だった。

 この大学に集まる学生の多くは、若くとも十七、八歳を超えている。

 十四歳で大学に迎えられた例は、母の友人であり、このネーヤ魔呪大習院の教授でもあるソフィア・ヴァン・ヘレン以来だという。

 だが、そんな記録など、セシルにはどうでもよかった。

 自分に、それほどの実力があるとも思えなかった。

 ここにいられるのは、母と、その友人であるソフィアのおかげにすぎない。

 周囲の者が、自分に好ましくない感情を抱くのも無理はない。

 そして、その妬みに実力で応えられるほどの力量が、自分にはまだない。

 そのことを最もよく知っているのは、ほかならぬセシル自身だった。

 クラウディアの片田舎では、誰もが認めるほど抜きん出た資質を持っていた。

 しかし、世界各地から秀才が集うゲート魔呪大習院では、授業についていくだけで精一杯だった。

 そのうえ、夜には国境警備の仕事がある。

「……はあ」

 いつの間にか、肩をすぼめ、少し前屈みになって歩く癖がついていた。

 ため息を吐く回数も増えた。

 実地の魔術には、それなりの自信がある。

 そうでなければ、国境警備などという危険な仕事には手を出さない。

 専攻は回復魔術だったが、多少の攻撃魔術や、簡単な法術も扱える。そのため、国境を守る傭兵たちの間では、若いながらも重宝されていた。

 だが、現場で身につけた技術は、大学の成績にはほとんど結びつかなかった。

 一秒でも早く術を完成させるために、どの言葉を削り、どの動作を省くか。

 傷口を見ただけで、出血の程度と必要な術式を判断すること。

 敵に狙われながら、味方の治療を続けること。

 そうした知識は、理論を重んじる大学の講義では評価されない。

 結果として、セシルの成績は、いつも落第点すれすれを低空飛行していた。

 知らず、魔導書を抱く手に力が籠もった。

 神にしか使えないとされる超高位炎系魔術の理論体系を学んだところで、この世界にそれを使える人間などいない。

 仮に使えたとしても、いったい何のために使うというのか。

 そう。

 戦争は、もう終わったのだ。

「……い、セシル」

「……」

「セシル!」

 ふいに、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 セシルは立ち止まった。

 その拍子に、後ろを歩いていた年上の学生とぶつかりそうになる。

「す、すみません」

 慌てて頭を下げ、道を譲った。

 まだ少女と呼ぶにも幼く見えるセシルに、先輩は好奇の視線を向けたまま通り過ぎていった。

 セシルはそれを気にせず、辺りを見回した。

「こっちだ、セシル」

 今度は、はっきりと聞こえた。

 中庭の噴水へ目を向ける。

 そこに、二人の見慣れた顔があった。

「お兄ちゃん……それに……」

「おーい、セシル!」

「リノ……リノなの?」

 リノが嬉しそうに、両手を大きく振っている。

 セシルは荷物を抱えたまま、二人のもとへ駆け出した。

 周囲の学生たちが何事かと振り返ったが、気にならなかった。

 立ち上がったリノに飛びつくようにして、力いっぱい抱きつく。

「へへ。元気だった、セシル?」

「うん……会いたかった。会いたかったよ、リノ……」

 久しく会っていなかった親友の身体から、かすかに故郷の草原の匂いがした。

 風に揺れる草と、乾いた土。

 馬の鬣と、日なたの匂い。

 それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが、少しずつほどけていくようだった。

「遅かったな。大学ってのは、こんな時間まで授業をやるのか?」

「お兄ちゃん……どうしてここに?」

「仕送りを届けに来た。ついでに、お前の様子も見ておこうと思ってな」

 そう言って、オラフは手にしていた封筒で、セシルの額を軽く叩いた。

「あ……そっか。もう、そんな時期なんだ」

 セシルは封筒を受け取った。

「おいおい。せっかくの仕送りだぞ。嬉しくないのか?」

「そ、そういうわけじゃないけど……」

 嬉しくないはずがなかった。

 ただ、これだけでは生活していくことができない。

 家族が暮らしを切り詰めながら工面してくれた金だと分かっている。

 それでも、もう少しだけ多ければと思ってしまう自分がいた。

 そんな自分が、ひどく浅ましく思えた。

「……ありがとう、お兄ちゃん」

 セシルは満面の笑みを浮かべた。

 精一杯の仕送りを続けてくれる家族に、心配をかけたくなかった。

 少なくとも、兄や親友の前では、明るく、何でもこなせるセシルでいたかった。

「……セシル?」

「う、うん? 何?」

「いや……お前、疲れてないか?」

「そんなことないよ」

 反射的に答えた。

「お兄ちゃんたちこそ、長旅で疲れてるんでしょ? 泊まるところは決まってるの?」

「ああ。そこは心配するな」

「そっか……」

 残念、と思った。

 だが、その気持ちを押し隠し、セシルはリノから身体を離した。

「だったら、早く休んだほうがいいよ。私は大丈夫だから……」

 そのときだった。

「ん」

 頬に、冷たいものが押し当てられた。

「ひゃあっ!? り、リノ……?」

「無理しない」

「え……?」

「セシル、顔が引きつってるよ」

 リノは、セシルの頬に当てていたジェラートのカップを地面に置いた。

 それから、空いた手でセシルの頬に触れる。

 ひんやりとした掌が、火照った肌に心地よかった。

 リノは、強張った頬をほぐすように、ゆっくりと手を動かした。

 続いて、額にも手を当てる。

「あ……」

 眉間を軽く揉まれ、セシルは思わず目を細めた。

「大変なんでしょ、セシル。ソフィアさんから聞いたよ」

「……うん」

 何を聞いたの、と尋ねかけた。

 けれど、やめた。

 何を知られていたとしても、今はあまり関係がないように思えた。

 大学でどれほど失敗しても。

 誰に何を言われても。

 この二人の前では、自分はただの妹であり、幼馴染のセシルなのだから。

「相変わらず、無茶ばっかりして」

 リノは、くしゃくしゃとセシルの髪を撫でた。

「私たちの中で一番弱っちいくせに、いつも一人で抱え込むんだから」

 弱っちい、は余計だと思った。

 確かに背は低い。

 体格も華奢だ。

 けれど、それを言うなら、リノだって見た目は随分と細い。

 乗馬なら、兄にもリノにも負けない自信があった。

 戦場も経験している。

 もう、昔のように守られてばかりのセシルではない。

 そう言い返したかった。

 けれど。

「うん……ごめんね、リノ」

 セシルは、再びリノの胸に顔を埋めた。

 甘えてばかりではいけないと思う。

 それが嫌で、家を出たことも分かっている。

 誰にも頼らず、自分の力だけで立てる人間になりたかった。

 それでも。

 今だけは、こうしていたかった。

「セシル。今日は空いてるの?」

「あ……その、今日は仕事が――」

「もちろん、空いてるわよね」

 背後から聞こえた声に、三人は同時に振り返った。

 いや、驚いたのは三人だけではなかった。

 中庭にいた学生たちまでが、一斉に声の主へ視線を向けた。

「ソフィア様……?」

「もう。『様』は余計だって、いつも言ってるでしょう、セシル」

 ソフィア・ヴァン・ヘレンは、からからと屈託なく笑った。

 白いローブを羽織ったその姿には、今もどこか少女のような無邪気さが残っている。

 実際の年齢を知らなければ、二十代だと言われても疑う者はいないだろう。

 先の大戦で数々の功績を挙げ、大魔導士モロゾフ・コーシンから「七眼の杖」を引き継いだ魔呪學の頂点・6道士の一人。

 その名から想像される威厳とは、随分とかけ離れている。

 けれど、ソフィアが姿を現しただけで、中庭の空気は変わった。

 囁いていた学生たちは口を閉ざし、遠巻きに見ていた者たちは、慌てて視線を逸らした。

 ソフィアはそんな周囲の反応など気にも留めず、セシルの抱えていた魔導書をひょいと取り上げた。

「今日の国境警備は、お休み」

「えっ?」

「代わりの人を手配しておいたから」

「で、でも、急にそんな――」

「教授命令」

 ソフィアは、にっこりと笑った。

「学生は勉強することも大切だけれど、時々は友達とジェラートを食べることも必要です」

「そんなこと、大学の規則には書いてありません」

「今、私が決めました」

「横暴です……」

「教授というのは、時々、横暴でいいの」

 ソフィアは悪びれもせず、セシルの額を指先で軽く弾いた。

「それにね、セシル」

 声が少しだけ柔らかくなる。

「頑張ることと、一人で苦しむことは、同じではないのよ」

 セシルは、何も答えられなかった。

 喉の奥が、わずかに震えた。

 それを悟られたくなくて俯く。

 だが、右手をリノに、左手をオラフに掴まれた。

「ほら、行こうよ、セシル」

「今日は俺のおごりだ」

「仕送りを届けに来た人が、無駄遣いしないでよ」

「妹にジェラートを食わせるのは無駄遣いじゃない」

「じゃあ、二つ食べてもいい?」

「一つにしろ」

「けち」

 いつもの声。

 いつものやり取り。

 故郷にいた頃と、何も変わらない。

 セシルは俯いたまま、ほんの少し笑った。

「……私、苺がいい」

「うん。知ってる」

 リノが答えた。

 その言葉を聞いた瞬間、セシルの目に、堪えていた涙が滲んだ。

 けれど、それを見た者は誰も何も言わなかった。

 四人は並んで歩き出す。

 石造りの校舎の向こうには、夕暮れの空が広がっていた。

 

  ◆


戦争は終わった。

 英雄たちの時代も、すでに過ぎ去りつつある。

 それでも、彼らが守ろうとしたものは、こうして次の世代の日常の中に残っていた。

 ただ友と笑い、家族に甘え、明日の授業を憂鬱に思う。

 そんな、何でもない一日として。


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