プリュノの残り半分
王都から、モレル子爵邸のあるクレヴォーまでは、馬車で半日ほどの道のりだ。
馬車を降りると、領地の空気が肺に広がる。
この時季のクレヴォーを包むのは、若草の匂いを孕んだ、乾いた初夏の風だ。
街路に並ぶプリエールは重たげなほどに緑を湛え、遠くで刈られたばかりの干し草の香りがふわりと鼻先をくすぐる。
王都の淀んだ熱気とは違う、透き通るような青い風。
アルノーは思わず深く息を吸った。
ああ、帰ってきた。
夕餉の支度が始まる時間だが、外はまだ明るい。この季節は日照時間が長くて、そこもアルノーのお気に入りだった。
* * *
館に着いたアルノーは、旅の汚れを落とすのももどかしく、まっすぐフェリックスの部屋を訪ねた。
入室すると、兄はちょうど執務机から腰を浮かせたところだった。アルノーの姿を認めると、広げていた書類を端に寄せ、小さく頷く。
「おかえり。父上には会えたか」
「はい、無事に。これ、父上からです」
懐から取り出した手紙を差し出すと、フェリックスはその場で封を切った。
手紙に目を通すと、手紙を折り直しながらつぶやく。
「……やはり、フォンデュ鋼の売り出しは、父上の指示が出るまでストップか」
「はい。そのように聞いています。いい品なのに……」
「そうだな」
フェリックスが机の引き出しを開けて、小さな紙袋を取り出した。
「ほら」
「……なんですか、これ」
「干したプリュノ。お前好きだろ」
受け取った袋から一粒つまんで食べると、凝縮された甘みと酸味が広がった。王都の露店で買うそれとは比べものにならない。
「おいしい……。どこで買ったんですか、これ」
「領内の農家だよ。今年のプリュノで作ったらしい。豊作になりそうだから、早めに加工する家が多いそうだ」
「すごくおいしいです」
「それはよかった」
フェリックスが椅子に深く座り直し、向かいの席を視線で促す。アルノーは腰を下ろしながら、口の中でもぐもぐしていたプリュノを飲み込み、抱えていた懸念を口にした。
「ガスパールさんにも、早めに伝えておこうと思います。売り出しにストップがかかったことだけでも。明日、直接行くつもりですが、今から使いを出してもいいでしょうか」
「……そうだな。それがいい」
「あと……王都で、知り合いの執行人の息子さんに会ったんです。ユーグという名前の」
「……知り合いの、執行人……?」
フェリックスが眉を寄せた。
「ええ。フォンデュ鋼が医術に使えるのではないかと、興味を持っていました。いつか領地を訪ねるかもしれないと言っていたので、一応ご報告を」
フェリックスは、何かを言いかけて口をはくはくさせたあと、何故かあきらめたような表情を浮かべ、最終的に唸るような声を出した。
「……製法は渡せないぞ」
「もちろんです。ただ、もし彼が来たら、話を聞くくらいはしてもいいですか?」
フェリックスは一瞬目を閉じて思考を巡らせたようだったが、頷いた。
「それくらいならいい。許可は出せないが、話を聞くだけなら」
「ありがとうございます。報告はそれだけなんですが……そうだ」
アルノーは自前のハンカチを広げ、袋の中のプリュノを半分ほどそこへ移すと、残りの半分が入った紙袋をそっとフェリックスの机の隅に置いた。
「これ、本当に美味しいから、俺だけ食べるのもったいないです。兄上にも食べてほしいです」
悪戯っぽく笑って、アルノーはハンカチの四隅を器用に結んで持ち上げた。
「じゃあ、使いを頼んできます。また晩餐の席でお会いしましょう」
「ああ」
プリュノが入った袋を大事そうに抱えて、アルノーは部屋を後にした。
* * *
扉が閉まり、部屋に静寂が降りる。
フェリックスは机の上の紙袋を見た。
アルノーがわざわざ取り分けて行った、数粒の果実。
一粒手に取り、口に運ぶ。
……なるほど、おいしい。
甘くて少し酸っぱいそれを嚙みしめながら、フェリックスは父からの手紙をもう一度広げた。
売り出しの停止と、シャンブル侯爵への報告。それはわかった。
問題は、最後の一文だ。
——あの子が関与すると、事態がどう転ぶかわからない、頼むから、アルノーには何もさせるな。
フェリックスは手紙を閉じ、そっと机に置いた。
「……本人は、楽しそうにやってるんだけどなあ」
兄のつぶやきは、静かな部屋に溶けて消えた。




