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聖人の称号を返しに行ったら、なぜかもう一枚積まれた件  作者: けものへんにまし
第二章 「仕事じゃないけど人生がかかってる」
8/9

プリュノの残り半分

 王都から、モレル子爵邸のあるクレヴォーまでは、馬車で半日ほどの道のりだ。

 馬車を降りると、領地の空気が肺に広がる。

 この時季のクレヴォーを包むのは、若草の匂いを孕んだ、乾いた初夏の風だ。

 街路に並ぶプリエールは重たげなほどに緑を湛え、遠くで刈られたばかりの干し草の香りがふわりと鼻先をくすぐる。

 王都の淀んだ熱気とは違う、透き通るような青い風。

 アルノーは思わず深く息を吸った。

 ああ、帰ってきた。

 夕餉の支度が始まる時間だが、外はまだ明るい。この季節は日照時間が長くて、そこもアルノーのお気に入りだった。


   * * *


 館に着いたアルノーは、旅の汚れを落とすのももどかしく、まっすぐフェリックスの部屋を訪ねた。

 入室すると、兄はちょうど執務机から腰を浮かせたところだった。アルノーの姿を認めると、広げていた書類を端に寄せ、小さく頷く。

「おかえり。父上には会えたか」

「はい、無事に。これ、父上からです」

 懐から取り出した手紙を差し出すと、フェリックスはその場で封を切った。

 手紙に目を通すと、手紙を折り直しながらつぶやく。

「……やはり、フォンデュ鋼の売り出しは、父上の指示が出るまでストップか」

「はい。そのように聞いています。いい品なのに……」

「そうだな」

 フェリックスが机の引き出しを開けて、小さな紙袋を取り出した。

「ほら」

「……なんですか、これ」

「干したプリュノ。お前好きだろ」

 受け取った袋から一粒つまんで食べると、凝縮された甘みと酸味が広がった。王都の露店で買うそれとは比べものにならない。

「おいしい……。どこで買ったんですか、これ」

「領内の農家だよ。今年のプリュノで作ったらしい。豊作になりそうだから、早めに加工する家が多いそうだ」

「すごくおいしいです」

「それはよかった」

 フェリックスが椅子に深く座り直し、向かいの席を視線で促す。アルノーは腰を下ろしながら、口の中でもぐもぐしていたプリュノを飲み込み、抱えていた懸念を口にした。

「ガスパールさんにも、早めに伝えておこうと思います。売り出しにストップがかかったことだけでも。明日、直接行くつもりですが、今から使いを出してもいいでしょうか」

「……そうだな。それがいい」

「あと……王都で、知り合いの執行人の息子さんに会ったんです。ユーグという名前の」

「……知り合いの、執行人……?」

 フェリックスが眉を寄せた。

「ええ。フォンデュ鋼が医術に使えるのではないかと、興味を持っていました。いつか領地を訪ねるかもしれないと言っていたので、一応ご報告を」

 フェリックスは、何かを言いかけて口をはくはくさせたあと、何故かあきらめたような表情を浮かべ、最終的に唸るような声を出した。

「……製法は渡せないぞ」

「もちろんです。ただ、もし彼が来たら、話を聞くくらいはしてもいいですか?」

 フェリックスは一瞬目を閉じて思考を巡らせたようだったが、頷いた。

「それくらいならいい。許可は出せないが、話を聞くだけなら」

「ありがとうございます。報告はそれだけなんですが……そうだ」

 アルノーは自前のハンカチを広げ、袋の中のプリュノを半分ほどそこへ移すと、残りの半分が入った紙袋をそっとフェリックスの机の隅に置いた。

「これ、本当に美味しいから、俺だけ食べるのもったいないです。兄上にも食べてほしいです」

 悪戯っぽく笑って、アルノーはハンカチの四隅を器用に結んで持ち上げた。

「じゃあ、使いを頼んできます。また晩餐の席でお会いしましょう」

「ああ」

 プリュノが入った袋を大事そうに抱えて、アルノーは部屋を後にした。


   * * *


 扉が閉まり、部屋に静寂が降りる。

 フェリックスは机の上の紙袋を見た。

 アルノーがわざわざ取り分けて行った、数粒の果実。

 一粒手に取り、口に運ぶ。

 ……なるほど、おいしい。

 甘くて少し酸っぱいそれを嚙みしめながら、フェリックスは父からの手紙をもう一度広げた。

 売り出しの停止と、シャンブル侯爵への報告。それはわかった。

 問題は、最後の一文だ。


 ——あの子が関与すると、事態がどう転ぶかわからない、頼むから、アルノーには何もさせるな。


 フェリックスは手紙を閉じ、そっと机に置いた。

「……本人は、楽しそうにやってるんだけどなあ」

 兄のつぶやきは、静かな部屋に溶けて消えた。

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