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ユーグという名前

「……ッ! ふざけるな! 大切な商談中に、しかも相手はアルノー様だぞ!」

 沈黙を破ったのは、ヤンの声だった。今までは驚きで声も出なかったようだが、その反動か、出てきた声は大きかった。

「関係者が無礼を働き、誠に申し訳ありません。罰は如何様にも」

 ヤンは相手を怒鳴り飛ばした後、即座にアルノーに向き直って深く頭を下げた。さすがである。

 アルノーはわざとらしく沈黙をたっぷりと取ってから口を開いた。

 こんなところで夫人の教育の成果を見せる羽目になるとは、予想外だ。

 アルノーは、まだ震えているユーグに、困ったような溜息をついて見せ、少しおっとりとした少年の微笑みを浮かべた。

「今回の件は、バルテルミさんとヤンさんの顔に免じて預けましょう。次からは気をつけてくださいね」


   * * *


 まったくとんでもないことをしてくれた。

 冷や汗をだらだら流しつつ、アルノーはジルとジュリアンの顔色をうかがった。

 多少思うところはあるかもしれないが、まあ納得はしてくれたようだ……と、思いたい。

「本当に申し訳なかった。改めて紹介させてくれ。こちらは息子だ。息子、こちらはアルノー・ド・クレマン男爵様だ」

「ユーグと申します」

 当のユーグは多少顔を白くさせているが、にこやかに名乗った。

「……名付けた覚えはないんだがな」

 バルテルミがぼそりと言う。どういうことかとアルノーが視線で問うと、

「うちは代々、当主がバルテルミの名を世襲する。当代バルテルミになるまで名前はないんだが……」

「あの日のことは忘れられません。僕は4年前に、運命の出会いをしたんです。とても素晴らしい標本だった。あんなに見事な肺は見たことがなかった!あの肺に、血管に敬意を表し、僕はあの標本の主の名前を名乗り、功績を伝えていくことにしたんです!」

 息子が満面の笑みを浮かべながら、食い気味に付け足した。

 大変に独創的な由来のお名前だった。どうも素で個性が強い御仁らしい。

 こんな時に表情を隠せる扇があればよかったのに。

 アルノーは帰る前に扇を買っていこうと心に決めながら、名を返す。

「アルノー・クレマンです」

「男爵様とお呼びしても?」

「……そうですね」

 ユーグと名乗った青年に苦々しそうな顔を向けるジルとジュリアンを見ながら、アルノーは少しの沈黙のあとに許可をした。護衛がこの様子では、しばらく姓や名を呼ばせることを許さないほうが良さそうだ。

「あの、それで」

 ユーグが我慢しきれない様子で口火を切った。

「さっき話していたハサミ、見せてもらえませんか」

「……ジル」 

 アルノーが声をかけると、ジルがまた箱の蓋を取り、ユーグからハサミが見えるように持った。

 ヤン相手のそれの時より、明らかに距離があいていたが、仕方のないことだっただろう。

 ユーグはまばたきすら忘れたかのようにハサミに見入った。

 そんなユーグを、バルテルミは少し離れたところから、ヤンはいつでもユーグを抑えられるような位置で見守っている。

 しばらくの沈黙ののち、ユーグがゆっくり瞬きをして、漂う緊張感に居心地悪さを感じているアルノーを見た。

「これは、どうやって作っているのでしょう」

「内緒です。すごいでしょ?うちの領地で作ったんです。まだ売れませんけどね」

 アルノーはにっこりと笑う。

 ユーグがまたハサミに視線を戻した。

「……なるほど」

 静かな返事のあと、何かを考えているようだったが、しばらくしてユーグは顔を上げて、真剣な顔でアルノーに言った。

「折り入ってお願いがあるのです。職人を紹介していただけないでしょうか」

「売り出せませんし、製法は教えられませんよ」

「ええ」

 ユーグが頷き、それからもう一度ハサミを見て呟いた。

「この技術があれば、医術に革命が起こせます」

「……なるほど」

 なるほど。

「いつかモレル領に来られた際は、領主館にお越しいただければ、相談に乗れるかもしれません」

 売り出しは許可されていないが、兄上に相談してみる価値はあるかもしれない。

「乗れないかもしれませんが」

 許可は下りないかもしれないので、保険に付け加えた。

「有難うございます、必ず伺います!」

 ユーグは目を輝かせて立ち上がると、挨拶もそこそこに走り去ってしまった。

 なんとなく護衛のふたりと目線を交わし、苦笑する。思うことは一緒らしい。


「……では、人の手配の話を詰めましょうか」

 ヤンが深く息をついて、帳面の男を呼んだ。

 日取りや人数、細かい段取りが素早く決まっていった。アルノーはところどころで「お願いします」「それで大丈夫です」と相槌を打ちながら、ヤンの采配を眺めた。

 なんだかどっと疲れたので、てきぱきと決めてくれるのが本当にありがたい。

「ちょうど数日後に仕入れで隊商を組む予定があります。モレル領を通るルートなので、移住希望者はそこに同行してもらう形にしましょう」

「助かります、それでお願いします」

 ヤンから「では数日後にこちらから」という言葉を受け取り、アルノーは立ち上がった。


   * * *


 何でも屋を出ると、まだ南中の刻限を過ぎた頃だった。

 アルノーの体感的には、もう夕方近くになっている気がしていたので、思わずため息を吐く。

 まずは、扇を買おう、と思った。それから、

「……近くにおいしいパイの店があるって聞いたんだ。買って、帰り道で食べようか」

 おいしいものは、こんなごちゃついた空気の中、疲れ切った状態で食べたくない。

 アルノーの提案は、護衛たちに笑顔で受け入れられたのだった。


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