職人募集と乱入者
エレーヌ夫人のパンシオンを出て外を見上げれば、建物の隙間から覗く空は晴れているようだった。
けれど、無数の煙突から吐き出される煤煙のせいで、その青はどこか煤けて見える。モレル領の、あの吸い込まれるような高い空が少しだけ恋しくなった。ここは目はチカチカするし喉も痛い。
王都の昼前の時間帯というのは、一番にぎやかな時間帯だ。市場から流れてくる声と、石畳を行き交う馬の蹄の音と、焼きたてのパンの香ばしさを見つけたと思ったら、次の瞬間には隣の路地の臭気に殴り倒される。
なんとかしてほしいな、と思いながら、アルノーはマントの下に忍ばせた懐の革袋を確認した。
中に入っているのは、木箱に収められた芯切りと紙用のハサミがそれぞれ一本。見本用だ。
* * *
何でも屋は、平民街の端……というより平民街寄りの貧民街にある。もともとアルノーがヤンに提案した場所で、今は彼が中心となって切り盛りしている店だ。何でも屋と呼んではいるが、正式名称は生活改善請負所という。
最初に訪れたときより路地もだいぶ綺麗になり、建物にも少し手が入ったようだ。
看板に書かれた文字は塗り直したばかりらしくきれいだったが、周囲の壁は煤けていた。まあ、建物らしい体裁が整っただけでもだいぶ立派になったな、とアルノーは思う。
「いらっしゃ……、あ、アルノー様」
中に入ると、出てきたのはヤン本人だった。アルノーを見た瞬間、顔が少し明るくなって、それからすぐ「今日は何をやらかしに来たんだろう」という顔になった。
特に迷惑をかけたことはないはずなのだが、アルノーとしては誠に遺憾である。
「お久しぶりです、ヤンさん。少しお時間いただけますか」
「もちろんですよ。どうぞ」
奥の椅子に通され、ヤンが向かいに座ると、アルノーは早速懐から革袋を取り出し、ジルに預けた。
「見てほしいものがあって。今うちの領で作り始めた金属で作ったハサミなんです」
預かったジルが袋から取り出した木箱の蓋を開け、ヤンに見えるように持つ。
全体が深い青に沈んだ刃の面が、刃先の一筋だけ白く光を返していた。
ヤンの目が釘付けになり、思わずといった様子で身を乗り出す。身を乗り出された分、ジルが箱を少し遠ざけた。
「フォンデュ鋼、っていう名前にしたんです。まだ売り出す前なんですけど、まず商材になるかどうかヤンさんの目で見てほしくて」
「これは……美術品としての価値だけでも相当なものですね。高位貴族もこぞって求めるような品だ」
ヤンが唾を飲み込む音がする。
「ジル」
アルノーの指示で、ジルがヤンにもハサミが触れる位置に移動した。
「どうぞ、試してみてください」
おそるおそる手を伸ばし、紙用のハサミを手にしたヤンがゆっくり刃を動かした。
近くにあった厚手の紙に滑らせると、サクッという音がする。
「……なんですか、これは。水面を滑らせてるみたいだ。……これは……何なんですか?」
声が震えていた。
「今日は持っていませんが、本当は布用もあるんです。そちらもすごいんですよ」
問いには答えず、アルノーが微笑む。
「売れます、扱わせていただきたい」
ヤンが食い気味に言った。あの事件以来、シャンブル侯爵からの注文も時々入るようになり、高位貴族とのつながりも多少なりと出来たのだという。
貴族の場合、限られたルートからしか手に入らない希少品というのも、逆に価値が跳ね上がることもあり、このハサミを世に出したらもの凄い価値が生まれる、とヤンは語った。
「どれくらい作れる予定ですか」
「それが、まだ職人が足りなくて。モレル領での仕事に興味があって、口の堅い人を紹介してもらいたいんです。あ、あと物を建てる知識がある人も。住む場所も増やさないといけないので」
ヤンが少し目を細めた。
「貧民街の住人を、自領で雇用されると。これはまた……」
「ええ、大歓迎です」
貧民街の住人は、どこの領地の管理下にもないとアルノーは聞いていた。
領地間の職人の移動となると問題が起こるかもしれないが、彼らならその心配もないし、ヤンのように仕事が出来る人材がいるかもしれない。
使っていない土地もあるので、ゆくゆくは特産として売り出しているプリュノやプリエールを育ててもらったりしてもいいが、まずは鍛冶。それに、呼んですぐ暮らせるように、家が必要だった。
「建築と鍛冶ですね」
「はい。ただし、これを製造する鍛冶工房は環境が過酷です。その代わり、条件はしっかり整えます」
「その条件の話、後ほど詰めさせてください」
ヤンの声が、どこか神妙なものに変わった。
「お願いします」
ヤンが頷いて奥に声をかけると、帳面を手にした若い男が小走りで出てきた。ヤンは手際よく指示を出し、その男とともに書きかけの帳面を携えて、一度奥の部屋へと引っ込んでいった。
相変わらず仕事が早くて何よりである。
アルノーは、自分が考えてきた条件を頭の中で整理した。「自分が働くならこれ以下は絶対無理」という基準で弾き出した、交代制度と休憩時間、そして定時退勤の保証。
条件はこれで足りるだろうか。
誘致は成功させなければならない。これは家令としての腕の見せ所だ、とアルノーは密かに手を握りしめた。
そうやって待つこと、しばらく。
ようやく戻ってきたヤンのすぐ後ろには、なぜか見知らぬ男がぴったりとくっついてきていた。
年の頃は二十代の半ばくらいだろうか。黒ずくめのすらりとした男だ。足音もなく、気配も薄い。ヤンも気づいていない様子でするりと入ってきたその男は、部屋に入るなり、テーブルの上の箱をちらちらと怪しく窺っている。ジルの目がすっと細くなり、音もなく箱の蓋を閉めた。
それでも男の視線は、蓋をしたジルの手の上に注がれたままだ。
その間、一秒もなかっただろうか。
ジルが素早く箱を隠しながらアルノーの前に立ち、男を無言で牽制する。
同時にジュリアンが影のように男の背後へと回り込み、逃げ道を塞ぐようにして、その両腕を後ろからグイと抑え込んだ。
「……っ、痛い痛い」
男がひきつった声を漏らすが、ジュリアンは無言のまま、男が余計な動きをしないようガッチリとその体を固定している。
一瞬で室内はしんと静まり返った。
なに。誰この人!?
アルノーは状況が飲み込めず、目を白黒させる。
「……二人とも、ありがとう。でもちょっと待って。暴力はなしだよ」
アルノーの宥める声が室内に落ち、ジュリアンがわずかに腕の力を緩めた、その瞬間だった。
「おい!! 何をした!!」
衝立を蹴倒さんばかりの勢いで、大きな影が飛び込んできた。
「あ、バルテルミさん」
アルノーは思わず声を上げた。意外にも、飛び込んできたのが知った顔だったからだ。
「……ああ、坊ちゃんだったか」
アルノーと知り合い、なぜか何でも屋開設に関わった男であり、アルノーにとっては、いつか自分が処されることになった際、その職人技で一撃で仕留めてもらうために指名したいナンバーワンの、王都の執行人頭であった。
「商談中に、本当に申し訳ないことをした。これは、息子なんだ。どうにも自由に育ってしまった」
バルテルミは状況を一瞥するなり、息子であるらしい黒ずくめの肩を掴み、強引に膝をつかせた。そのまま自分も、無言で深く、深く頭を下げる。
黒ずくめの背後では、ジュリアンがいつでも捻じ伏せられるように警戒しているのが見て取れた。
相手がアルノーの知り合いの身内だと知ってもなお、主人の安全が確認されるまでは警戒を解かないというその姿勢は、護衛としての鑑である。
「……大変申し訳ございませんでした」
黒ずくめの男は、ジュリアンの殺気と父親の重圧に挟まれ、ひきつった笑みを浮かべて言った。
「……ジュリアンも、もういいよ。ありがとう」
こういうの、向いてないんだよなあ。アルノーは内心で大きなため息をつきながら言った。
ジュリアンもようやく黒ずくめのすぐ後ろから一歩退いたが、それでもジルを含めた二人の警戒が解けることはない。
……せめてこんな高価な商品の商談中でなければ、護衛の警戒もここまで上がらなかったのに。




