黒髪の聖人
翌朝、エレーヌ夫人とパンシオンのサロンで向かい合って座ると、夫人は少し名残惜しそうに目を細めて切り出した。
「アルノー様、急なご予定の変更だとか。今日のうちに王都を発たれるのですって?」
「そうなんです。父から急ぎの使いを頼まれてしまって……。せっかく夫人に作法を教わる日なのに、バタバタと失礼する形になってしまって申し訳ありません」
アルノーが本気で済まなそうに眉を下げると、夫人はふっと柔らかな笑みを漏らした。
「いいえ、お気になさらず。役目をお持ちの殿方が忙しいのは、むしろ喜ばしいことですわ。……ですが、せめてお別れの前に、これだけは確認しておきましょうか」
そう言った夫人の膝の上にあった扇が、静かに持ち上がった。
夫人の細い指が要を捉えたかと思うと、その腕が、まるで鋭い刺突を繰り出すかのような速さで動く。
――パンッ!
乾いた、空気を爆ぜさせるような高い音がサロンに響き、直後に重い沈黙が降りた。
アルノーの目の前で、扇が垂直に立っていた。
それは仰ぐための道具ではなく、まるで抜き放たれた白刃のようだった。
顔の下半分を覆うその「壁」の向こうから、夫人の理知的な瞳だけが、静かに、射抜くようにアルノーを見据えている。
……かっこいい……!
アルノーは、呼吸を忘れて見入った。
王都の社交界で見る扇は、蝶の羽ばたきのように優雅で、どこか媚びるような甘さがある。
だが、夫人のそれは違う。
隙がない。一分の揺らぎもない。 扇ひとつで、自分と相手の間に不可侵の境界線を引いてしまうような、峻厳な美しさがあった。
「……このような使い方を、ご覧になったことは?」
「ないです。でも、」
アルノーは興奮を隠せずに続けた。
「……めちゃくちゃ、かっこいいです! 剣術の構えみたいですね」
夫人の目元が、一瞬だけ、戸惑ったように和んだ。 厳格な宮廷礼法を「かっこいい」という子供のような賛辞で土足で踏み抜かれたのが、おかしかったのかもしれない。
「……ふふ、左様ですか。これは私の故郷の、古い流儀なのです。今の王都で流行っている扇は会話を彩る『花』ですが、私たちが教わったのは、己の動揺を殺し、場の主導権を静かに握るための『盾』としての所作」
夫人が再び腕を振ると、また小気味よい音が鳴り、扇が吸い込まれるように閉じた。
「扇言葉という暗号もございますが、まずはこの『静止』から。アルノー様、要を握り込んではいけません。いつでも打ち据えられるよう、指先には遊びを。……そう、腕全体で空気を叩くのです」
言われた通りにすると、バチ、と少し音が出た。
「そうです」
夫人がまた扇を手に取り、さらりと閉じた。バシッ。音が気持ちいい。
アルノーはもう一度やってみた。バチ。
まあまあだ。
練習を続けながら、夫人が何気なく言った。
「アルノー様の成人のお披露目は、きっと賑やかになりますね」
「……どうしてでしょう?」
「今まで未成年ということで社交の場には出ていらっしゃいませんでしたから。正式なお披露目の場となるはずです。最近は、噂の聖人様とお近づきになりたいという方も多いようですよ」
アルノーの手が止まった。
「……なんて?」
「ご存じではなかったのね。かなり広まっていますよ。私にも、どの晩餐会にご出席なさるのかと探りを入れてくる方もいらっしゃるくらい」
かなり広まっている。
アルノーは扇を持ったまま、頭の中で状況を整理しようとした。
今のまま本物が現れたら、聖人ではないのに騙っていたみたいになってしまうのではないか。
いや、騙ってはいないのだが、結果として人違いをそのままにしていたわけで、それはそれでまずい。
できれば事前に本物を見つけて、うまく誤解を解いて、爵位だったりなんだったり、本来の聖人に渡るべきものをお返しして、きれいに幕引きをしたい。
うん。そうしよう。
お披露目までに、それをやりきれれば。
いや、もうお披露目の当日でもいい。失敗は許されないが、皆の前で「自分が騙そうとしたわけじゃない」と宣言できるのは、ある意味では利点と言える。
どちらの場合でも、なるべく瑕疵のないよう、自然に相手に渡すイメトレをしておけばいいのだ。
イメトレは自分を救うのだ。アルノーはそう信じてきた。
「……夫人、少しお伺いしても?」
「どうぞ」
「聖人の容姿というのは、どのように伝わっているかご存知ですか?」
夫人の目元に、ほんのりと何かが浮かんだ気がした。なんだろう、あの表情は。
「そうねえ」
夫人がゆっくりと扇を開いた。今度は優雅に、ひらりと。
「黒髪の方だと聞いています。この国の方より少し……佇まいに厳しさがある、というのかしら。静謐という言葉が似合うような立ち居振る舞いだそうですよ。若いのに、他の人が見て見ぬふりをしてきたことに向かい合う方だと、褒められているのをよく耳にするわ」
アルノーは静かに聞いていた。
なるほど。
黒髪。若い。威厳がある。
漠然と、五十代くらいの人だろうと思っていた。そうか、若い人なんだ。
情報を書き換えながら、ある部分で納得もした。
何故自分が間違えられたのかと思っていたが、黒髪か。
この国には黒髪の人が意外と少ない。隣のカスティラ帝国やオストライヒ大公国には少しいるらしいが、確かに髪の色というのはなかなかのインパクトがあるのを、アルノーは知っている。
たとえば、護衛のジュリアンだ。初対面の際、光の加減で彼の髪がやけにきらきらして見えて、アルノーは思わず「きらきらしていますね!」と言ってしまった。あの強烈な視覚的インパクトを思えば、希少な「黒髪」が聖人の記号として独り歩きするのも無理はない。
そこまで考えると、アルノーは一人頷いた。
「参考になりました、ありがとうございます」
「……お役に立てたなら」
夫人がまたあの表情をした。嬉しそうな、困ったような、複雑な。
まあいいか、とアルノーは思った。
レクチャーが一段落したところで、アルノーは荷物の中から、父に渡したのとは違う木の箱を取り出した。
「そうだ、これを。夫人に使っていただきたくて持ってきたんです」
箱の中には、全体が深い青色の布裁ちハサミが収まっていた。
「うちで新しく作り始めた金属でできているんです。切れ味が今までと全然違うんですよ。綺麗でしょう、この色」
夫人はハサミを受け取ると、静かに刃を見て、持ち手の装飾を指でなぞった。
「……まあ」
小さな声だった。
「ありがとうございます、アルノー様。大切に使わせていただきます」
「布とか糸とか、よく使われますよね。お役に立てればと思って。あ、でもまだ売るのは止められているんです。なので、内緒にしてくださいね」
「ええ、もちろん」
夫人はハサミを膝の上に置いて、少しの間そのまま見ていた。
何か考えているようだったが、アルノーには読めなかった。
「……過去に縁のある布を、一度断ち切って」
夫人が静かに呟く。
「これでようやく、今の自分に相応しい姿を仕立て直せるかもしれませんね」
「丈夫に作ってあるので、かなり厚い布でも綺麗に断てるはずですよ」
物持ちのいい方のようだから、長く愛用してもらえると嬉しい。
「……ふふ」
夫人が、珍しく声に出して笑った。銀鈴を転がすような、涼やかで、どこか悪戯っぽい笑い方だった。
「そうですね。それもいいかもしれないわ」
そう言いながら、夫人は自分の深い黒い色のドレスの刺繍をそっとなぞっていた。




