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もう帰りたい

 呼ばれた。

 なぜ。


 アルノーの頭の中に、不協和音が鳴り響く。

 デビュタントの宣告はさっきやった。成人のお披露目という意味での場は、もう済んでいるはずだ。では何故もう一度名前が呼ばれているのか。

 アルノーは一瞬、自分の聴覚を疑った。しかし、周囲の視線が一斉にこちらに集まっているので、間違いではないらしい。

 動かそうと思ったわけではないはずだが、足が勝手に動いたので、仕方なく前に向かって歩き出す。


 侍従が巻物を改めた。

「王国安寧調査官アルノー・ド・クレマン男爵の功績を、ここに読み上げる」

 アルノーは、完璧な立ち姿のまま、表情だけを丁寧に整えたが、挙げられた功績とやらの第一声から意味がわからなかった。

 貧民の雇用と職人育成による民生の安定——これは、ヤンに人の手配をお願いしたやつだ。職人が集まってくれたのはよかったが、失敗ばかりだったし、なにより聖人活動とは関係がない。

 国内の衛生環境改善に向けた先駆的行動——何かしただろうか。衛生関係というなら、あの二人が趣味でやっただけで、自分は何も関わっていなかったはずだ。

 外国名家との関係構築という外交的成果——心当たりはアルノルドだが、彼とは普通に話しただけで、外交なんかしようとした覚えはない。しかもどちらかというと兄上には怒られた。


 読み上げが続く。

 アルノーは、その間ずっと微笑んでいた。微笑む以外の選択肢が、今この瞬間には存在しなかった。

 やがて侍従の声が一段低くなり、区切りを打つような間が来た。

 今だ。

 アルノーは、一歩、前に踏み出した。

 このまま「本来の功績はアルノルド・フォン・ロイテンベルク殿に帰すべきもので」という言葉を、一息で言い切るつもりだった。イメトレ通りに。

 口を開きかけた、その瞬間。

「加えて、民に聖人と称えられるその行いは、王国安寧調査官の職にまことにふさわしく——」

 次の文が続いてしまった。

 踏み出していたアルノーの足が、半歩引っ込んだ。

 ……聖人。今、聖人と言った。

 会場がざわりと揺れる。それはよい意味のざわめきだった。感嘆、とでも言うべきか。

 アルノーは、反射的に手に持っていた扇を握りしめた。

 本来、王太子殿下の前でこれを開くのは禁忌だ。だが、今の自分は「聖人」なのだという。ならば、この噴き出しそうな冷や汗と「誰か助けて」という絶望を、貴族の嗜みというヴェールの下に隠すしかない。

 パチン、と。

 扇を顔半分まで持ち上げ、ゆっくりと開く。

 ……どうしよう。どう思われたにせよ、さっきの一歩踏み出した動作はかなり気まずい。

 アルノーは扇の向こうで、静かに目を閉じた。

 外側は何も変わっていない。完璧な貴公子の顔が、そのまま維持されているはずだ。

 侍従が殿下に差し出したベルベットのクッションの上で、シャンデリアの光を反射して白く輝くものがあった。

「アルノー・ド・クレマン男爵。君の無私無欲な献身と、民を慈しむその清廉な魂を称え、ここに『白百合慈愛勲章』を授与する」

 王太子殿下自らが勲章を手に取った瞬間、会場のざわめきがぴたりと止まった。

 ……待って。デビュタントのついでに勲章? そんなノリで渡していい代物じゃないでしょ、それ!

 内心では大騒ぎだったが、アルノーの顔面は完璧なまでの静寂を保っていた。王太子が一歩近づき、アルノーの左胸にピンを刺す。ずっしりとした金属の重みが、アルノーの細い肩にのしかかった。

 王太子は満足げに頷くと、アルノーの目をじっと見つめて告げた。

「アルノー・ド・クレマン男爵の、今後のさらなる活躍を期待する」

 その言葉は、アルノーにはもう逃げ場はないぞという、慈悲深い宣告に聞こえた。

「……謹んで、お受けいたします」

 アルノーは膝を折り、深々と頭を下げた。

 下を向いているので、誰にも絶望に染まった顔を見られずに済むのが、今この瞬間における唯一の救いだった。


   * * *


「アルノー様!」

 戻ろうとしたアルノーに、声がかかった。

 振り向くと、アルノルドが人をかき分けてこちらに向かってくるのが見える。あの大きな声で呼んだので、周囲の視線が一斉に集まった。

 アルノーは扇を閉じた。

「このような場を設けていただき、本当にありがとうございます」

 アルノルドは、立ち止まるなり深く頭を下げた。芝居がかった人だが、その礼は、アルノーが今まで受けた中で一番重かった。

「コル・ノワールで声をかけていただかなければ、今日はなかった。あなたが差し伸べてくれた手がなければ、私はまだ川べりで水を眺めていたでしょう。……本当に、惜しみない助力に感謝しています」

 惜しみない助力。

 アルノーは、その言葉を頭の中で繰り返した。

 惜しみない。助力。

 アルノルドさんを誘ったのは、本物の聖人たる彼に聖人の称号と付随するものを返すためだった。

 惜しみなく助けた覚えは、とくにない。

「……喜んでいただけて、よかったです」

 でも、返上は今じゃない。

 アルノーはそう判断した。感謝されているその最中に「実は私ではなくあなたのほうが聖人です」と言うのは、この状況では文脈が合わない。返上するどころか、謙遜と受け取られて終わるだけだ。

 扇を開いた。

 今の自分には、それしかできることがなかった。

「アルノルドさんの研究が、多くの人の役に立つといいですね」

「必ずや!……ああ、そうだ、そうそう!」

 アルノルドが急に声のトーンを上げた。

「ユーグが何か言いたそうにしていますよ。ほら、そこに」

 指された方向に視線を向けると、ユーグがいつもの変人具合を一切出さず、落ち着いた顔でこちらを見ていた。

 ユーグは人の輪をするりと抜けてアルノーの前に立ち、真面目な顔でゆっくりと頭を下げた。

「お礼を言う機会をずっと探していました。……執行人の家の者が、公の場で功績を認められるなど、父の代まで考えたこともなかった。あなたが関わってくださったから、そのきっかけができた」

 ユーグは一度言葉を切ると、その透明感のある瞳でアルノーの胸の勲章をじっと見つめ、淡々と続けた。

「……もともとは、牢獄の衛生環境を整えるために興味を持った技術でした。死刑囚が処刑の前に感染症で死んでしまうのは、執行人としての私の職務を全うできないことと同義ですから。ですが、アルノー様。あなたがそれを『世界の汚水を浄化する希望』へと広げてくださった。……感謝しています」

 ……衛生環境への興味は、そっちからなんだ……。

 アルノーは、もう一度だけ言葉を探したが、見つからない。

 何を言っても、それは全部別の意味になってしまう気がした。

「……ユーグさんの技術が、世界を変えますよ」

 ようやく捻りだした言葉に、ユーグが顔を上げて目を細める。

 アルノーは扇で口元を隠し、視線だけで笑い返した。

 何より厄介なのは、今回については、だいぶ真実からは程遠いが、すべてが嘘でもない、ということだった。

 以前の誤解ぶんを返上したところで、今回が重なってしまった以上、もう意味がないということがアルノーにもわかってきてしまった。


「……もう帰りたい」

 アルノーはぽつりと呟いたのだった。


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