壁の染みで行きます
大広間の扉というのは、なぜこんなに重いのだろう。
物理的な重さではなく、概念的な重さだ。この扉を一歩くぐれば、自分は正式に社交界に存在する人間になる。それはつまり、今夜の計画を実行する舞台に上がる、ということでもあった。
入場を待つ控えの間で、アルノーは今一度、己の装いを確認した。
今日のために新調したのは、絶妙に地味な銀鼠色のアビだ。華美な金刺繍や原色を避け、あえて鳩の羽のような淡いグレーを選んだのは、会場の壁と同化して目立たないようにするためだった。刺繍は、今後のトフィー料理店の宣伝が出来るかもしれない、と選んだトフィーの花や葉っぱのモチーフだ。
一方、隣に立つ兄フェリックスは、夜空のような深い濃紺のベルベットに金細工のボタンが光る、これ以上ないほど正統派の貴族然とした装いだった。
アルノーの靴のバックルと兄のクラヴァットピンが同じフォンデュ鋼で誂えられており、さりげなくお揃いの青い光を放っている。
後方に立つジュリアンが、なぜかアルノーの装いを何度も見ている。地味すぎて心配なのかもしれない。アルノーはジュリアンに、大丈夫だよ、と声をかけてあげたくなった。聖人返上ののちは、これが大正解の装いになるのだから。
隣に立つフェリックスが、静かにアルノーの肘を取った。
「緊張しているか?」
「兄上がいるから、大丈夫です」
フェリックスが小さく息を吐くのが聞こえた。
「まあいい……来るぞ」
扉が開いた瞬間、溢れ出したのは数百本の蜜蝋キャンドルが放つ熱気と、高価な香水の、噎せ返るようなにおいだった。
「春の豊穣と安寧を祝う王室晩餐会」。正式な場だから「ド・クレマン男爵」と読み上げられた名前に、アルノーは一瞬だけむずがゆさを覚えたが、それを顔の奥に押し込めた。
会場がざわついた。
誰かが「聖人様だ」と呟く声が聞こえる。
アルノーは、丁寧に作った微笑みを顔に貼り付けたまま、フェリックスとともに歩みを進めた。
廊下のような長い通路を進みながら、視線を無理のない速度で流す。
貴顕への挨拶は、何度も練習した。身分順に、一人ひとりの顔を見て、過不足のない礼を。
名前を呼ばれるたびに、頭の中でチェックを入れていく。
楽団が奏でるメヌエットが、アルノーの鼓動を急かす。
読み上げられた「ド・クレマン男爵令息」という名。アルノーは、脳内で『左足から、三歩。角度は十五度、視線は王太子の胸元より三寸下』と、夫人に叩き込まれた呪文を繰り返した。
王太子殿下への挨拶は、完璧にこなせた、と思う。
殿下は若く、物腰が穏やかな方で、アルノーが礼を捧げると「噂はかねがね」と言って少し目を細めた。
……その「噂」とやら、今日解決する予定ですので、どうかご期待ください。
* * *
開幕のダンスの前に、リュシーが近づいてきた。
この辺境伯令嬢のドレス姿というのは、なかなか新鮮だった。いつも動きやすさ優先の出立ちをしている彼女が、グランヴァル家の象徴である光沢のあるアイスブルーの生地に、銀糸で刺繍が施された礼装に身を包んでいる。本人は居心地が悪そうだったが、それでも堂々としているあたりがリュシーらしい。
髪には、鋼の板を糸のように細く透かし彫りにし、星の形に打ち抜いた小さなパーツを無数に繋ぎ合せた、フォンデュ鋼の髪飾りが輝いている。宝石のような色の輝きではなく、光そのものを反射する純粋な明かりが、彼女の凛とした美しさを際立たせていた。
同じ星が兄のクラヴァットピンにもあしらわれていたから、兄が贈ったものだろう。
音楽が変わった。アルノーが手を差し伸べると、リュシーは迷いなくその手を取った。コルセットを忌み嫌う彼女だが、体幹の強さは並の貴族を凌駕しており、そのステップは驚くほど淀みがない。
子爵邸滞在時にも何度か練習相手を務めてもらっていたので、呼吸も合わせやすい。
「その後、兄上への印象はどうですか」
ターンの合間、アルノーが笑顔で問うと、リュシーは不敵に、しかし満足げに口角を上げた。
「君とも気は合うが、兄君のほうが男性としては好みだな。……ああ、誤解するなよ。騎士として背中を預けるなら、という意味だ」
「それが一番大事なやつですよ、我が家にとっては」
リュシーが笑う。その視線が、会場の端で自分たちを見守るフェリックスに向けられるのをアルノーは見逃さなかった。
軽やかなメヌエットの旋律に合わせ、二人は流れるように位置を入れ替える。リュシーはアルノーの腕の中で、ふと楽しげに目を細めた。
「それにしても、お前たち兄弟はいささか睦まじすぎるのではないか?」
嫌味ではなく、ただ目についた事実を述べるような、彼女らしい率直な問いだった。アルノーはステップを乱さないよう細心の注意を払いながら、これ以上ないほど模範的な微笑みを返した。
「兄上は私を慈しんでくださいますし、私も兄上を深く敬愛しております。ですがリュシー様、それは貴女が兄上と共に築かれるものとは、全く別の領分ですよ」
アルノーとしては、遠慮なく兄上と仲良くしてくださいねという気遣いのつもりだったのだが、リュシーは一瞬だけ驚いたように目を見開くと、低く喉を鳴らして笑った。
「……なるほどな。私への配慮か、それとも兄への独占欲か。どちらにせよ、ド・クレマン男爵の愛というのは、なかなか重くて心地よいものらしい」
「……?」
アルノーには、彼女がなぜそんな「良いものを見た」と言わんばかりの顔をしているのか、さっぱりわからなかった。




