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重ね焼きだけに

 最初に足音に気づいたのは使用人たちだった。

 ざ、と裏庭に緊張が走り、一人が素早くアルノーを見た。

 アルノーも振り返ったが、その人物を見た瞬間に、何かがヒュンッと縮み上がった。

 ド・シャンブル侯爵その人が、なぜか裏庭の入り口に立っていたのだ。

 随行の者が何人かいるが、全員が侯爵家の家紋を帯びている。どうやって裏口まで来たのかという疑問より先に、どう対処するかを考えなければならない。

 逃げ場はない。かまどの前だ。

「……アルノー・ド・クレマン殿」

 侯爵の声は、相変わらず低くてよく通る。

「はい」

 アルノーは反射的に貴公子スマイルを浮かべ、素直に返事をした。

 侯爵の視線がアルノーの上を一度走り、それからかまどへ動いた。それから周囲の使用人たち、かごに山盛りになったトフィー、リュシー、アルノルドと順に見て、また戻ってきた。アルノルドは侯爵を認めても特に驚いた様子がなく、小皿を持ったままこちらを見ていた。

「……何をしている」

「トフィー料理の試作をしていました」

 この期に及んで隠してもしょうがないので正直に言う。

 笑顔をなんとかキープしていたが、内心のアルノーは何でこんなことに、と絶叫していた。

 礼を捧げるタイミングも失った。もうどうしたらいいのかわからない。

 侯爵は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「トフィー? ドロコブではないのか」

「オストライヒでは大地の黄金卵(ウフ・ド・テール)と呼ぶそうです。地域によって名前が違うなら、私が名付けてもいいのではないかと思って、そう呼ぶことにしました。試しに植えてみたら、思ったより採れたので……今日は、そう。収穫祭ですね」

 収穫祭。そう、収穫祭だ。

 収穫祭は、皆で祝うものなのだ。

「ちょうど、焼きたてがありますよ。閣下もいかがでしょう」

 アルノーはささっとほかほかと湯気を立てる重ね焼きを取り分け、小皿を差し出した。手が震えているが、きっと閣下は気付かないと信じたい。

 侯爵の動きが止まっている。

 なんなら、周囲の全員が固まっている。ジュリアンなんか青くもなっている。

 わかる、わかるよ。侯爵閣下に対し、こんな無礼を働く現場に居合わせたことがないんだろう。アルノーだってこんなのは初めてだ。ましてや、無礼を働く側になるなんて想像だにしたことがなかった。固まることで回避できるならそうしたい。

 だが、それが許されない今。畳みかけるなら今しかない、とアルノーは鋭く思った。

「こちらも、ちょうど焼けました!」

 火にかけていたフライパンで程よくきつね色になっていた細切りチーズ焼きをカットして、侯爵の手にした小皿にのせ、追い討ちをかける。

 二つ小皿を渡すより食べやすいのではないかと思ったが、これは無礼の乗算だったな、重ね焼きだけに。

 アルノーはもう泣きたかった。

「熱々のうちにどうぞ!」

 頼む、どうにかなってくれ。アルノーは祈りを込めて渾身の貴公子スマイルを浮かべた。

「……ド・クレマン男爵。貴様、その外国の貴族と結託し、この不浄な塊を使って何を企んでいる」

 そう言いながら、眉間にしわを寄せたシャンブル侯爵は優雅にフォークを入れ、重ね焼きを口に運ぶ。

 ……あ、食べるんだ。

「トフィー料理店を開こうかと……」

 言いながら候の随行たちの様子を見ると、なぜか全員が目をそらした。

 侯爵の表情はほとんど変わらないが、三口目を食べたので、嫌いではないのだと思う。

「この畑で育てたのか」

 これ以上なく優雅に、それでいて素早く完食した侯爵が、何事もなかったかのように口元を拭きながら言った。

「はい。麦を刈り終えた土地で育てられるのが利点で、収穫量も多いようです。一つの種芋から、十個ほどは採れましたから。旅先で教えてもらった作物ですが、この土地でも育ちました」

「……麦の後か」

 侯爵の目が細くなった。

「王国安寧調査官として動かした金は、この件についてで間違いはないか」

 来た。

 アルノーは深く息を吸った。

「はい」

「鋼についてはどう思っている」

 アルノーは一瞬、返答に詰まった。ここで来るか。

「……ハサミは、生活を支える道具です」

 とっさにそんなことを答えると、侯爵の眉間に深い皺が刻まれた。

 もう消え入りたい。アルノーの貴公子スマイルが崩れ、儚い笑みになった。

「……わかった」

 何かをわかったらしい侯爵の視線が、今度はアルノルドに向いた。

「アルノルド・フォン・ロイテンベルク。少し来てもらおう。話がある」

「……はい」

 アルノルドは背筋を伸ばし、珍しく貴族らしい所作で返答した。


 裏口へ消えていった一行を見送り、残った面々は緊張から解放された反動で、一斉に崩れ落ちた。

 しばらくその場で立ったまま、深呼吸を繰り返すアルノーの隣で、リュシーが静かに小皿を手に取った。

「オーブン焼き、熱いうちに食べよう」

「そうですね……」

 アルノーは、強引にさっきの出来事から意識をそらす。

「リュシー様が、気さくな方でほっとしました」

「そう言っていただけて光栄だ」

 軽口を叩きながら、アルノーの手はまだ震えていた。


   * * *


 試作トフィー料理があらかた片付いたころ、アルノルドが戻ってきた。

「お帰りなさい。何かありましたか」

「ありましたとも!」

 アルノルドの声のトーンから、深刻なことではないとわかって、アルノーは少しだけ肩の力を抜く。

「王都で、表彰の場があるそうです。ユーグと私が、同じ場に呼ばれることになりました。公衆衛生への貢献、ということで」

「それは……おめでとうございます」

「ええ! 人生でこれほど晴れがましい日が来るとは!アルノー様もいらっしゃる晩餐会だそうですよ」

 アルノーは、笑顔のまま一拍置いた。

「……え」

 アルノルドの言葉をゆっくり飲み込んでから、言葉を連ねる。

「教えていただいてありがとうございます。……お二人の晴れ姿が今から楽しみですね」

 アルノーは微笑んだ。

 今のところ、アルノーの予定にある晩餐会、もしくはそういった公式な場は、社交界デビューのその時だけである。

 それがいつだか、具体的にアルノーは把握していなかったのだが、場が整ったのは確かなようだ。

 あとは、それぞれのパターンに対しての最適なイメトレをして、体に叩き込むのみだった。

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