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コーダと、数字の山

 旅の埃を落とした翌朝、アルノーが真っ先に向かったのはガスパールの仕事場だった。

 館から少し離れた石造りの工房の扉を開けると、そこには期待していた通りの熱気と、焦げた油の匂いがあった。

「ガスパールさん、これ、受け取りました。ありがとうございます」

 作業台に向かうガスパールの背中は、旅に出る前と何も変わらない。だが、アルノーが取り出した扇の骨を取り出すと、その無骨な肩がわずかに揺れた。

「……受け取ったか」

「はい。一目で気に入りました。滑らかで美しくて、すごいですね!」

 鋼の骨は、丁寧な焼き入れによって、深い夜の海のような青い光沢を放っていた。光を当てる角度を変えれば、紫から群青へと色を変える。鋳造とは思えないほど薄く、それでいて指で弾けば、楽器のような高く澄んだ音を返した。

「鋳型から出したままじゃ、これだけのしなりは出ねえ。磨いて、焼きを入れ直して……ようやく形になったんだ」

 ガスパールが、その青い骨を一本、愛おしげに撫でる。

「これなら、不意に力がかかっても折れはしねえ。だが、忘れるなよ。そいつはもう、ただの扇じゃねえ。鋼だ」

 その言葉を合図にするように、アルノーは旅の戦利品である黒い塊を取り出し、包んでいた紙を開いた。

「ガスパールさん、探していたのって、これですか?」

 ガスパールの手がぴたりと止まり、一つ拾い上げると、ずっしりとした重みを確かめるようにしたあと、指先で表面をなぞる。

「……黒鉛。しかも、これだけ不純物のねえ塊か。こんなものをどこで……」

「いけそうですか?」

「もちろんだ。でかした、次男坊」

「お探しだったものみたいでよかったです。まだあるので、残りは運ばせますね」

 ガスパールと笑顔を交わし、アルノーはそそくさと仕事場を後にする。

 探していた物だったみたいでよかった。

 領地内のことだし、兄上の言いつけには背いていない。大丈夫。


  * * *


 兄の怒りはもっともなことだ。アルノーはアルノーなりに反省していた。


 自分が蒔いた種は、自分が刈り取らねばならない。先ほどもそのための一歩を踏み出した。ついでに、これから二歩目まで歩み出すのである。

 次に向かった先は、撒いてしまった種のひとつであるアルノルドの部屋だ。

 部屋をのぞくと、アルノルドはユーグと一緒に図面を見ながら熱く語り合っているところだった。

「居心地は悪くないですか?」

「悪くはないが、シエルンたちを放す場所が欲しい」

 シエルン。アルノルドが研究していた微小動物たちである。

 彼が本物であることを明かせるタイミングまでは快適に滞在していただきたい。アルノーとしてはそのための協力は惜しまないつもりだったので、すぐさま記憶を探る。

 水。水が貯められる場所。農民たちが困らなくて、使っていい……つまり使っていない場所。

「あ」

 アルノーは声を上げた。


   * * *


 数日後、アルノーが彼らを案内したのは、以前視察した段々畑である。

 地域の長には、誰も使う予定はないことの確認を取り、いくばくかのお金を払い、住民への周知をお願いしている。

「ここなら水も引けますし、シエルンを放流できるのではないですか?」

 街から程よく近いが、地質のせいで隣接する土地も使われていない。ここなら、二人が多少トンチキなことをしても、迷惑もかからないだろう。

 アルノルドとユーグは周りを見渡し、土を確かめると、突然抱きしめあった。

 後ろに待機していたジュリアンの肩がびくっと震えるのが視界の端に映る。

「完璧だ……! ここなら、完璧な大地のオーケストラが完成する!」

 涙目で両手を握られたアルノーは、とりあえず笑顔で頷いておいた。

 なんだかよくわからないが、喜んでもらえたならよかった。あの日の視察、役に立ったなあ。

「何かほかに必要なものはありますか?」

 衣食住を整えるのはホスト側の責任だ。

「……砂利や小石。それらを運び、穴を掘り、整えるための人足ですかね。あとはコル・ノワールで買った炭をわけていただければ」

 ユーグの言葉をアルノーは頭の中で咀嚼する。

 砂利や小石。……あの日の視察、本当に役に立ったなあ!

 ちょうど思い浮かべていたあの日の光景がよみがえって、アルノーの笑みがますます深くなった。

 脳裏に浮かべていたのは、あの廃鉱山のズリ山だ。

「ジル。悪いんだけど、俺がいなかった間に集まっていた方々がどうなっているかわかる? 集めてほしいんだ。それと、この件で窓口になっている担当者と会いたい」

 今、この領には人もいるのだ。

 これも自分の蒔いた種。何日かかるかわからないが、ポケットマネーで補填しようじゃないか。

 アルノーは、各種意匠使用料などのお小遣いを取っておいた自分に深く感謝した。


   * * *

 

 数日後。疲れ果てたアルノーは、死んだ魚の目をしたまま外に出た。

 職を求めて集まってしまっていた人々に働いてもらうことにしたものの、調整することは山ほどあった。

 幸いにも、旅に出る前に建築関係の職人も呼んでいたため、不在の間にジルが職人たちが住める集合住宅を指示してくれていた。集めた人足はそこに住まわせることができたが、賃金の問題、この仕事が終わった後のこと……、考えることはいくらでもある。

 これらの仕事をすべて、兄が一人で抱えていたのだという実感が、アルノーの胸を締め付けていた。

 本来なら、家令見習いである自分が支えなければならなかったのだ。

 ……兄上には、しっかりした補佐が絶対に必要だな。

 それは、先を見て行動しない自分の役割ではないのだろうと思うと、アルノーの眉は自然とへにょりと下がった。

 肩を落としながら馬で向かった先は、先日のアルノルドとユーグの遊び場だ。


 ……が。

 そこには、かつての泥溜まりの面影は微塵もなくなっていた。

 ユーグたちによる精密な設計と、アルノルドのなぜか人々のやる気を引き出す熱狂的な指揮。そして、奇跡的に揃った資材によって、そこには「巨大な多段式浄化装置」が鎮座していた。

 平地から下に向かって、規則正しく積まれた石垣。砂礫の層。白炭と、それに棲むシエルン。

 水の中でシエルンたちがちかりちかりと光っていて、幻想的ですらあった。

 実験用にだろう、一段目の層に不浄が放り込まれているが、下の小川に流れ込む水は見事に透き通っている。

 アルノーが石運びを頼んだはずの人々は、なぜかユーグに叩き込まれた高度な石組み技術を習得しており、無言で完璧なフィルターを構築している。

「なにこれ……」

 思わず口から飛び出た間抜けな声を拾ったのは、視線の先にいたアルノルドだった。

「……アルノー様……! 成功です! ほぼ完全に、汚水を浄化できることが証明されました」

 アルノルドが目を潤ませながらゆっくりと振り返った。声も震えている。

「これは……コーダだ」

「コーダ」

「終楽章の、最後の最後に来る、あの輝かしい締めくくりだ! 私の研究の……!」

「泣いてます?」

 ジュリアンが小声で呟いた。

「泣いてるね……」

 アルノーが小声で返し、ジルもそっと頷いた。

 二人も楽しんでいたようだし、なによりだ。

 ……あとは働いてもらった人足の給料の計算かな。

 アルノーは次に向かい合わなければならない数字の山を思い、ため息をついた。

 結局、その後机にかじりついて計算を始めたものの、案の定、夜が明ける頃にはアルノーの自信は完全に粉砕されることとなったのである。

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