これは呪術ではないな?(フェリックス視点)
クレヴォーの検問所は、モレル領の東の入り口にある。
隣のボアルネ伯爵領との境に設けられたそこは、常に何かしらの荷馬車が列をなしているが、今日ばかりはフェリックスの目には、その全てが爆発寸前の火種に見えていた。
フェリックスがここで待つようになったのは、今朝のことだ。
この二か月。その短い間に、彼の執務机は物理的に「アルノーという名の広域災害」に占拠されていた。
父上からは「機密保持のため陞爵の準備が進んでいる、粗相のないように」との連絡。
王都からは「例の鋼を軍需品として優先供給せよ」という、実質的なハサミの生産停止命令。
そして極めつけは、ボアルネ伯爵領の代官からの、紙の端々から嫌味が滴るような一通だ。
『貴殿の弟君は、我が領の検問において、公的な認証印を……まるで幼子が玩具を自慢するかのような、いささか礼を失した態度で掲げられた。モレル家の教育方針について、一点お伺いしたい』
……お前の教育方針こそ、その陰険な筆致に現れているぞ、代官殿。
読んだ際の苛立ちを思い出し、フェリックスはこめかみを指で押さえた。
アルノーを守るための外堀を埋めるべく、この二か月、北の国境を守る辺境伯とも胃を焼くような交渉を続けてきた。弟の成人のお披露目を平和に終わらせるための盾として、辺境伯令嬢をパートナーに迎える約束を取り付けたのは、つい昨日のことだ。
処理すべき書類の山と、複雑怪奇な政略の糸。
二か月前の父の手紙にあった、「アルノーには何もさせるな」の言葉に、旅に出ていれば、領地を思うあの子の気持ちを無碍にすることなく、大人しくさせられると考えたのだが。
じくじくと痛む頭で、フェリックスは願った。
無事に。もうそれだけでいい。何も持ち帰らなくていい。ただ、これ以上ややこしい火種さえ連れてこなければ。
だが、その願いは、街道の先に現れた異形によって打ち砕かれた。
「……フェリックス様、あれは。火事でしょうか」
役人の怯えた声に、フェリックスは重い瞼を持ち上げた。
街道の先、初夏の眩しい陽光を塗りつぶすように、どす黒い靄が迫ってくる。
最初、彼は本当に火災か、あるいは悪魔の行進かと思った。だが、近づくにつれて、その黒い靄の正体が、馬車から漏れ出す大量の粉末であることに気づく。
先頭は、執行人の家紋を掲げた漆黒の馬車。
その後ろに続く幌馬車からは、車輪が跳ねるたびに、不吉な黒い煙が吐き出されている。
さらに最後尾の荷台には、夏の熱気に炙られて異様な臭気を放つ樽が積まれていた。
隊列全体が、うっすらと黒い。
「……待て。抜剣するな。……多分、あれだ」
フェリックスは、駆け寄ろうとした護衛を力なく制した。
見覚えがある。あの冗談みたいな黒の塊の中に、一人だけ不自然にキラキラとした、危機感の欠片もない笑顔が見えたからだ。
馬車が止まり、顔を黒く汚したヤンが降りてきた。
「フェリックス様。……このたびは、その……大変ご迷惑を」
「ヤン殿。まず一つ聞こう。これは、呪術の類ではないな?」
「炭と、木タールでございます。用途のある品ですので……」
用途、という言葉がフェリックスの脳内で虚しく響いた。
続いて、馬車からアルノーが飛び出してきた。
少し日焼けし、服は旅塵で白んでいるが、その瞳は驚くほど澄んでいる。
「兄上!」
弾むような声。二か月分の苦労が、その一言で一瞬だけ霧散しかける。
……無事だった。
フェリックスは、込み上げてきた安堵を、領主代理としての理性で無理やり押し込めた。
「……アルノー。お前は」
「はい!」
「……元気そうだな」
結局、最初に出たのは労いの言葉だった。自分でも甘いと思う。
だが、弟の背後から降りてきた人物を見た瞬間、安堵は急速に冷え切った。
「はじめまして! アルノルド・フォン・ロイテンベルクと申します。素晴らしい弟君をお持ちですね!」
朗々と響く、外国訛りの貴族的な声。
フェリックスは天を仰いだ。
オストライヒの伯爵家。三男。放蕩者と名高いが、血筋だけは本物だ。
なぜ、隊商に混ざって旅に出ただけの弟が、外国の貴族を黒い煙を上げる隊列に混ぜて連れ帰ってくるのか。
「兄上、顔色が悪いですよ。お疲れですか?」
覗き込んできたアルノーが、純粋に心配そうな顔をする。
「お前のせいだ。……いや、もういい。帰るぞ」
怒鳴る気力も、説教する順序を組み立てる知性も、今のフェリックスには残っていなかった。
今はただ、この不吉な黒い隊列を領民に見られる前に、一刻も早く館の門を閉めねばならない。
「兄上! ガスパールさんが欲しがってた粉の元も拾って来たんですよ!それから――」
「アルノー。……お前が、元気なら、今はそれでいい。……一度に話すな」
フェリックスは馬を進めた。
後ろでは、得体の知れない外国の貴族と、真っ黒になった弟が楽しげに笑い合っている。
館に戻ったら、まずは強い酒を飲もう。
それから、ボアルネの代官に「弟は外国の貴族をエスコートして帰還した。そちらの検問で不備はなかったか?」と、最大限に脚色した嫌味な報告書を叩きつけてやるのだ。
それだけを心の支えに、フェリックスは前だけを見て馬を走らせた。




