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閣下によろしくお伝えください(ジュリアン視点)

 見覚えのあるボアルネ伯爵領の検問所が視界に入ったとき、ジュリアンの手は自然と、懐の奥にしまっていたインクで真っ黒に染まったあの失敗作に触れていた。

 だが今の馬車には、ヤンが街の役所で取り付けてきた、一点の曇りもない公式な認証印がある。

 検問に現れた代官は、行きと同じ、石像のように融通の利かなそうな男だった。

 その姿を視界に収めたアルノー様が静かに呟いた。

「行きに、兄上の署名にケチをつけた人だ」

 独り言のようだったが、扇がゆっくりと開かれるのをジュリアンは見た。

 ヤンが恭しく謄本を差し出すと、男はそれを無言で受け取り、認証印を確かめる。その視線が赤い剣の紋章を刻んだ馬車、そして窓からこちらを眺めるアルノー様へと移り、わずかに固まった。

 行きに難題を押し付けた相手だ、と思い出したのかもしれない。

「……通行を許可する」

 男の苦々しい声と共に、重い横木が音を立てて上がった。

 このまま何事もなく通り過ぎれば、それで終わりだ。だが、馬車がゆっくりと動き出した瞬間、アルノー様が指先で窓枠を軽く叩いた。

「少しだけよろしいでしょうか」

 御者が手綱を引く。立ち去りかけていた代官が、弾かれたように振り返った。

 アルノー様は扇を閉じたまま、穏やかな声音で言った。

「この先のモルテール村のことなんですが。あそこは、あのような状況がずっと放置されているのですか?」

 代官が言葉を失い、顔色が悪くなっていくのがわかった。

「川岸に黒い石が大量に露出していて、村の方々は食うに困り、絶望しておられましたよ。……ボアルネ伯爵閣下ほどの慈悲深いお方が、もしこれを知れば、さぞやお心を痛められるでしょうね」

 アルノー様の言葉は、告発ですらない。「伯爵様はきっと知らないんですよね?」という、純粋すぎて残酷な問いかけだ。もし伯爵が知らなければ、それは代官の怠慢であり、もし知っていて放置していたなら、伯爵の悪評となる。

「お忙しいところ失礼しました。閣下によろしくお伝えください」

 パチリ、と軽やかな音を立てて扇が開かれた。

 それが合図であるかのように、馬車が再び滑り出す。

 ジュリアンは窓から視線を外さなかった。砂埃の中に立ち尽くす代官の背中が、みるみる小さくなっていく。


 ふと、御者台から、ひどく機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてきた。

 風に乗って流れてくるその声は、ヤンのものだ。

 ジュリアンからは彼の顔を見ることはできないが、手綱を捌く小刻みな振動と、速度を上げる馬車の勢いだけで、ヤンがいま、どれほど満足げに口角を上げているかが容易に想像できてしまう。

 アルノー様が放ったあの一言が、この領地でどれほどの波紋を広げ、そして商人の手元にどれだけの手札を握らせたのか。


 それを想像して、ジュリアンは小さく溜息をついた。

今日は短めです。

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