黒い石と黒い手
帰り道は、来た道をそのまま戻るというわけにはいかなかった。
理由は単純で、ユーグの馬車に積んだタールの臭気と、隙間から漏れ出す炭の粉のせいだ。
最初の検問で、役人が露骨に鼻を抑え、汚物を見るような目で一行を阻んだ。
「……その悍ましい臭気は何だ。悪しき病でも運んでいるのではないか」
執行人の紋章すら「病を振りまく不吉」という理屈の前では無力で、一行は、打ち捨てられて久しい旧街道へと追いやられたのだった。
「整備が悪いわけではないですが、少々寂しい道ですね」
ヤンが苦笑しながら地図を広げる。
「途中にモルテールという村がありますが、長居は無用かと。あの辺りは、死の大地、なんて呼ばれていまして、何十年も前から作物が育たず、飢えが慢性化していると聞きます。近寄らないのが賢明でしょうね」
アルノーは静かに頷いた。
* * *
モルテール村が見えてきたのは、昼を過ぎたころだった。
川沿いに、石造りの家が数軒並んでいる。畑らしき区画はあるが、育っているものが少ない。土の色が 妙に黒っぽく、川岸に近いあたりはごつごつした露岩が目立った。
村人が何人か、馬車に気づいてこちらを見ている。警戒しているというより疲れたような顔で、服には土汚れとは違う、真っ黒な汚れがついているのが目立つ。
馬車がその村を通り過ぎようとした時、アルノーは窓の外に広がる黒い川岸に目を奪われた。
「……止まってもらえますか」
アルノーは馬車を降り、川岸の斜面へ向かった。足元に転がる黒い欠片を拾い上げ、爪で引っかくと、指先に鈍い光沢を放つ黒い跡がつく。
「この石、手が黒くなるけど……ツヤツヤして綺麗だ」
……手に着いた黒の、この質感には見覚えがあった。
「これ、ガスパールさんが真っ黒になってたやつだ!」
思わず叫ぶと、ジュリアンが「あ」と言った。
アルノーがその勢いで近くにいた村人の一人に声をかけると、その老人は忌々し気に答えた。
「……ああ。その黒い石。ここで作物が育たないのはそれのせいだよ、嫌になる」
「なるほど。……いらないんですね、これ」
アルノーはしゃがんで、また一個拾い上げた。
「分けてもらえませんか。馬車に積めるくらい」
「は?」
思いもよらないことを言われた老人が呆気にとられた顔をしたが、アルノーは気にしなかった。
一度馬車に戻り、ヤンに声をかける。
「ヤンさん。あの石、知り合いが探してたものだと思うんです。残りのプリュノで買い取りたいので、馬車に積めるか相談させてください」
ヤンは答える前に、一度だけ川岸に目をやった。
黒い石、育たない畑。街道から外れた、誰にも見つけられていない村。
「……うちからは塩を出しましょう」
それだけ言って、荷台に回った。そしてひとつ付け加える。
「積み込みは、塩の対価として村の方々にお願いしましょう。あの石、馬車の隅々まで真っ黒にしてくれますから」
ヤンには、あの石が何なのかの見当がついているようだった。
* * *
(ヤン視点)
その夜、焚き火のそばでアルノー様は自分の手を見て困った顔をしていた。
最初にいくつか触ってしまった黒い石――黒鉛が付いてしまった手を川の水で洗ってみたものの、黒い汚れは指の節々や爪の間に広がり、洗えば洗うほど手が灰色に染まっていくのだ。
ユーグとアルノルドも興味深そうに見ているが、絶対に触ろうとはしなかった。
この二人、もしかすると黒鉛だと察したからこそ馬車から降りなかったのかもしれない、とヤンは思う。
「……落ちない。ジュリアン、これ結構しつこいよ」
「ほら、手を出してください。ヤンさんから獣脂を分けてもらいました」
ジュリアン様が呆れたように笑いながら、アルノー様の手に白っぽい脂を塗り広げた。体温で溶けた脂が黒い汚れを浮かせ、布で拭うとようやく元の肌の色が見えてくる。
横でそれを見ていたヤンは、火にかけた鍋をかき混ぜながら口を挟んだ。
「その石は油や蝋に馴染みやすい性質がありますからね。水だけじゃあ、むしろ汚れを広げるだけですよ」
「そうなんだ。詳しいですね」
「商売柄ですよ。……しかし、お土産にするにしても、もう少し綺麗な場所で拾えばよかったものを。おかげで馬車の隅まで真っ黒ですよ」
ヤンはわざとらしく溜息をついてみせた。
「帰りに、プリュノで補填するよ。今年は豊作だって兄上が言ってたから」
それであの量が積まれたのか、と思うヤンの横で、アルノーは脂でテカテカになった手を眺めながら言った。
「プリュノ、紙で包んであってよかったよね。手を汚さず食べられるから……」
夜の街道に、誰かが笑い出す声が響く。
ヤンは、プリュノの箱が開いた瞬間の、声にならないほどの歓喜に震えた村人たちの表情を少しだけ思い浮かべた。




