変わったことは、なかっただろうか(ジュリアン視点)
本日二話同時更新してます。ここから読み始めた方は前の話から読んでいただけると幸いです。
護衛というのは、要するに主人の傍に付き添う仕事だ。
ジュリアン・ド・ルルーは実家に戻ったとき父にそう教わったし、先任のジルもそう言っていた。だから今日のアルノー様の領地見回りには、当然同行することになった。
アルノー様の後ろをついて歩きながら、ジュリアンは内心で首を捻った。
傍にいるのはいい。ただ、ジルの動きを見ていると、それだけではないことがわかってくる。
アルノー様が廃鉱山の縁を覗き込めば、ジルはいつの間にか斜面側に立っている。小川に近づけば、足元より先に川岸を見ている。どこを見て、どこに立つか。その判断はまだジュリアンには難しかった。
そしてもう一つ気づいたことがある。アルノー様の方も、ジルに合わせて自然に動いている。意識しているのかいないのか、ジルが動きやすいように、ごく当たり前の顔をして場所を空けているのだ。
どちらが合わせているというより、長い時間をかけて擦り合わさった形、とでも言えばいいのか。
ジュリアンには、まだその呼吸がわからなかった。
* * *
案内の領民が一人、ジルが一人、ジュリアンが一人。それだけの供を引き連れて、アルノー様は今日の朝から領地を馬で見回っている。
廃鉱山のあたりを見て、近くの小川を覗き込んで、ズリ山の石をいくつか拾い上げてはしばらく眺めた。特に何か言うわけでも、どこかに書き付けるわけでもなく。
家令の仕事とは何か。見回りとは何か。ジュリアンにはよくわからないのだが、ひとまず「見ている」のだけはよくわかった。アルノー様の目は、ただ一点を見ているというより、あちこちをゆっくりと関連付けながら追っているような動きをしている。
……何を考えているんだろう。
「いい場所なのに、なぜ使ってないんですか」
段々畑とその付近の雑草の茂った土地の前で、馬を降りたアルノー様が案内人に尋ねた。
「そのあたりは試しに段々畑にしてみたんですが、水はけが悪くて麦には向かなかったんですよ。周りも同じようにべったりした土だったんで、手付かずのままで。人がいれば、試す余裕も出るんでしょうけどね」
「もったいないなあ」
アルノー様は少しだけ唸って、それから地面をじっと見た。
ジュリアンも思わず同じ方向を見た。ただの土だ。水はけが悪そうなのはなんとなくわかる。
しばらくしてアルノー様は「ふうん」と言うと、また馬に乗った。
何かを決断した様子もないし、誰かに指示を出すわけでもない。
……これで終わり?
ジュリアンは後に続きながら、あとで手帳に書き込む内容を頭の中で吟味する。
「本日、領地を見回る。特に変わったことはなし。」
そうまとめてみた。
変わったことは、なかった。
なかったはずだ。
……なかっただろうか。
思考を中断して、ジュリアンはアルノー様の背中を見た。
* * *
帰り道の途中で、アルノー様が言った。
「ガスパールさんの新しい工房に寄ります」
聞き覚えのある名前だった。この館に来て数日、ジルから教えてもらった話の中にあった。
領地の鍛冶師で、仕切り役のような立場を半ば押し付けられているらしい。アルノー様とは子供のころから接点があるそうだ。
その新しい工房は、町から離れた場所にあるらしい。
……新しい工房とは、よほど儲かっているのだろうか、と思っていたが、近づくにつれていやでもわかった。
鼻の奥がツンと痛む。
茹で卵を腐らせたような硫黄のにおいと、生臭いような鉄錆のにおいと、焼けた石の熱気が空気を塗り潰している。これではとても街中には建てられまい。
工房の横にある事務所の重い扉を開けて中に入ると、そこで使われるインクや紙のにおいがして、ジュリアンはほっとした。香草が焚かれ、扉の隙間から流れ込んでくる重苦しいにおいが緩和されている。
工房の方からは、地鳴りのような音がして、常に床に振動があった。
なんなんだ、ここは。
自分も武器を持つ身だから鍛冶屋くらい行ったことはあるが、こんな場所じゃなかったはずだ。
この方は、なぜ平然としているんだ。
いつもと変わらぬ様子で応接ソファに腰かけたアルノーの背中を、ジュリアンは半ば呆然としながら見やった。
しばらくすると、大柄で、腕が太い男が奥から出てきた。よほどの熱気の中にいたのか、顔が火照っているのが見て取れる。
「おう、次男坊か」
「ガスパールさん、できました?」
「できてる。ほら、これだ」
彼がガスパールのようだ。用意して手に持っていた、布に包まれた何かをアルノー様に渡す。
「開けてみろ」
アルノー様が布をほどいた。
その瞬間から、少し空気が変わった気がした。
現れたのは、ハサミだった。刃が二枚重なって、支点で固定されている。それ自体は知っている形だ。布を切ったり、紙を切ったりするためのやつだ。
ただ。
刃の輝きが、まるで違った。
鉄の表面を焼き、青く染める技法があるが、こんなにむらのない深い青みは見たことがない。
薄いのに刃の厚みが均一で、ハサミの二枚の刃の間に隙間が全くなく、恐ろしいまでの精度であることがわかる。
持ち手に刻まれた美しい装飾もエッジが立ち、刃の表面に絹のような細かい刃紋が浮き出ていて、ジュリアンのこれまでの知識にある刃物とは何かが根本的に違うのだ。それはもう芸術品だった。
ジュリアンの目が……いや、ジルもだろう、目が釘付けになる。
「試してみろ。紙でいい」
ガスパールが出した紙切れにアルノー様がハサミの刃を当てると、シュッという澄んだ音がした。
まるで熱したナイフでバターをなぞるように容易く切られた紙は、鋭利で滑らかな切り口を見せていた。
「うわあ」
アルノー様が素直な声を出した。
「すごい。ガスパールさん、ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない、俺がやりたくてやった仕事だ」
ガスパールが腕を組んで、できあがった仕事を満足そうに眺めた。
「フォンデュ鋼、と名前をつけましょう!」
アルノー様が興奮したように言った。
「俺の仕事に名前をつけてくれるのか」
「だって絶対に売れますよ。売り出すなら名前があったほうがいい」
そう言いながら、ハサミをにこにこして矯めつ眇めつしていたアルノー様だったが、不意にまじめな顔になって言った。
「ただ、……このにおいと熱気、職人さんたちの環境が心配です。一日に作る量を決めて、絶対に無理はしないでくださいね」
「体力も人数も限界がある。こっちは助かるが……それで商売になるのか」
「高く売ってみせます」
アルノー様の言葉に、ガスパールの眉が動いた。
「……お前さんがそう言うなら、任せるさ」
「ありがとうございます!人員の方も、増やせないか考えてみますね」
……労働環境まで守ってもらって、礼を言うのは職人たちの方だと思うが、変わった方だと思った。
「ジュリアンさんも、ほら」
気づいたらアルノー様がこちらを向いていた。ハサミを差し出している。刃の面が光を受けて輝いた。
「持ってみてください、軽いですよ」
促されるまま受け取ると、確かに軽かった。
軽さだけではない。手の中で少し刃を動かしただけでわかる。
今までのハサミの、刃のこすれ合う感触とは全く違う。
……見た時点でうすうす思ってはいたが、この人なんかやばいもの作ってないか?
ジュリアンの背を冷や汗が伝った。
日用品としては、少し過ぎている気がした。
「……本当に、軽いですね」
軽いとかそういう問題じゃないだろう、とは思ったが、どこからどう言ったものかわからずに呆然と呟く。
「でしょう! 夢の中で、どろどろにして鉄を作っているのを見たのを思い出して。その話をしただけなのにガスパールさんたちががんばってくれたんですよ!」
アルノー様が嬉しそうに頷いた。
「ほら、断面も綺麗なんですよ。兄上にも見せなきゃ」
ジュリアンはハサミを返しながら、手帳のことを思った。
今日の報告書に何を書くべきか。
この方を放置したら大変な気がひしひしとする。
見回りに同行した。廃鉱山と小川と、段々畑と、使えない土地。それからハサミ。
ジュリアンは夜にもう一度、机に向かうことを心に決めた。
アルノー様はガスパールから、芯切りハサミと布裁ちハサミ、紙用のハサミをいくつか受け取っていたようだった。
* * *
【ジュリアン・ド・ルルーよりド・シャンブル侯爵閣下へ、謹んで申し上げます】
着任より数日が経過いたしました。調査官殿の現状を、ご報告申し上げます。
調査官殿は現在、モレル子爵領の家令見習いのような立場にて、領地の実務を担っておられます。「家令見習い」という表現が適切かどうか迷いましたが、他に適当な言葉が見当たりませんでしたので、そのように記しました。
本日は領地の見回りに同行いたしました。廃鉱山、小川、段々畑、および周囲の土地を視察されました。特段の御指示や命令を下される場面は見受けられませんでしたが、調査官殿は終始、周囲をよくご覧になっておりました。
帰途に際し、調査官殿の以前からの知人である鍛冶師ガスパール氏の工房を訪問いたしました。そこで、フォンデュ鋼と名付けられた新たな金属による刃物を受け取られました。切れ味は目をみはるものがあり、工芸品としての美的価値も高いものと思われます。
調査官殿は当該品を「売れる」とおっしゃっていました。売り先についてはまだ何もおっしゃっておられません。
以上が本日の概要でございます。
調査官殿の行動には突発的なものが多いように見受けられます。
謹言。




