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原本は普通持ち歩かない(ジュリアン視点)

 最初の検問に差しかかったのは、出発した翌日の昼前だった。

 モレル領の境は、領主代行の書状で順調に通過した。自領であるから当然ではある。

 問題が起きたのは、その先だった。

 その時、ユーグは厚手のフェルトや革で仕切られた専用の木箱を膝に抱え、一本ずつ瓶を取り出しては、光に透かしたりしていたし、その隣のアルノー様は、フェリックス様から受け取った通行証を膝の上に広げて、にまにまと眺めていた。

 先日王都でお求めになった黒い扇で顔半分を隠しているのでわかりにくいが、あれはだいぶ顔が緩んでいると思う。

 ……何がそんなに嬉しいのか。

 ジュリアンは視線だけ向けてみたが、アルノー様は特に気づく様子もなく、書状の裏書をもう一度確かめて、また満足そうな顔をした。

 兄であるフェリックス様が用意してくれた、ということが嬉しいのだろうか。そういうところは微笑ましい方なのだが……と考えながら、ジュリアンは周囲の警戒のため、窓の外に視線を移す。

 車列が速度を落とし始めたころ、後方の荷馬車から駆け寄ってきたヤンが、馬車の窓を叩いた。

「アルノー様、通行証をお預かりできますか。案内人に渡しておきます」

 アルノー様は手の中の書状に目を落とし、やや名残惜しそうにヤンへ差し出した。

 隣のボアルネ伯爵領へと入るための検問所の前で、車列がゆっくりと停まる。先頭の案内人が先に交渉を済ませるはずだったが、妙に停まっている時間が長かった。

「なにかあったのかな?」

 アルノー様が窓を開けて首を出した。

 その動きで異変に気が付いたようで、ユーグも顔を上げた。

「……役人が、領主代行の書状では、この先は通行の許可ができないと……」

 開いた窓から、幌馬車から降りたヤンに案内人が申し訳なさそうに報告しているのが聞こえた。

 しばらくして、そのまま案内人と役人のところへ向かったヤンが、眉間に皺を寄せて戻ってくる。

「ここはモレル子爵と関係も良好な領地なので、通行証でいけると思っていたのですが……どうもここの代官は融通が利かないようですね。三日ほど書状を預かって確認すると言い出しています」

 ジュリアンには、それを聞いたアルノー様の口元が、扇の陰で引き結ばれたのがわかった。

 ゆるりと扇が閉じられる。

「……三日」

 アルノー様は短く呟くと、バッ、と扇を開き直した。

「兄上が用意してくれた署名にケチをつけるのか」

 アルノー様は扇を閉じて不機嫌そうに言うと、迷いのない手つきで座席の下の重厚な箱へ手を伸ばした。

「ヤンさん、ちょっと待って。……彼らがこれを見てもなお、三日待てと言うのか、確かめてみましょう」

 いつそんなものを乗せたのか、と目を瞠るジュリアンの前で開けられた箱に入っていたのは、王の封蝋がついた、二枚の豪華な羊皮紙だった。 

「とうとう出番ですか。思ったより早かったですね」

 ユーグの口元が弧を描く。

 こいつが共犯か、とジュリアンはじろりとユーグを見た。

 ヤンはあんぐりと口を開け、赤い封蝋を眺めている。ジュリアンですらそうなのだ、平民がそうそう目にするものではないだろう。

「……原本、ですか」

「そうですけど」

「……叙爵状と任命状の、原本ですか」

「はい」

 ヤンが、ゆっくりと深く息を吸い込んで、静かに吐くことを何度か繰り返した。

「……アルノー様、これは普通、謄本を持ち歩くものなのですよ」

「そうなんですか」

「そうなんですよ」

 ジュリアンはその会話を聞くと、馬車を降りて一歩前に出た。

「ヤン殿、私が写しを作りましょう。少しお時間をいただけますか」

 ヤンが、縋るような目でジュリアンを見た。


   * * *


 検問所の脇に、役人が机と椅子を出してくれた。

 急いで用意してもらったインクと紙を前に、ジュリアンは姿勢を整える。

 写しを作るのは、さほど難しい作業ではない。丁寧に、正確に。

 ……そう思っていたが、正直認識が甘かったと言わざるを得ない。

 ジュリアンは舌打ちしたい気分だった。

 飾り文字で書かれた書状は、ジュリアンが普段書く報告書の字とは、全く別の技術が必要だ。少しでも筆圧を間違えると、インクが出すぎて書面が汚れてしまう。

 催促するかのように役人が睨んでいる前で、これらを完璧に仕上げるのは実戦以上に骨が折れる作業だった。

 字の形を確かめながら、内容を追う。

 王国安寧調査官。そうだ、この方はそういう役職だった。書状にはそれが「王国の安寧に資する者の活動を護り、あらゆる障壁をもって妨げることを禁ずる」ための職権であると記されている。

 護衛に来て日が浅い頃はよく理解できなかったが、今この文章を写しながら、その重みを改めて感じた。

 ペンを走らせながら、ちらと横を見ると、アルノー様は馬車の外に出て、検問所の様子を眺めていて、その近くでヤンが役人に何かを渡しているのが見える。

 積んだプリュノの箱の蓋が開いているから、あれを包んだのだろう。時間稼ぎをしてくれているのかもしれない。

 ジュリアンはペンを持ち直し、任命状の写しに、「原本と相違ないことを証明する」という最後の一文を書く。

 ……出来た。

 あとはアルノー様に指輪印を捺してもらえばいい。

 ほっとした気持ちでインク壺に手を伸ばして、蓋をしようとしたとき。

 机の端に当たった肘が壺を弾き、黒い液体が零れる。

 完成間近だった任命状の写しの上に。

「……っ」

 絶望が静かに広がった。

 じわじわと滲んでいくインクを、ジュリアンはしばらく呆然と眺めた。

 ……大丈夫、叙爵状は無事だ。

 深呼吸したジュリアンは、新しい紙を手に取り、再びペンを構える。

 さっきまでは威圧的だった検問所の役人が、気の毒そうにこちらを見る視線が痛かった。


   * * *


 二度目の写しが完成したのは、それからしばらく後のことだった。

 そのジュリアンの努力の結晶をヤンに渡すと、ヤンは原本と見比べて頷き、役人に差し出した。

 役人が謄本と原本を突き合わせ、忌々しげに鼻を鳴らしながら検問所の簡易印を謄本に捺す。

「……よかろう。原本は下げろ」

 これでようやく、一行は領内に入って最初の大きな街へと滑り込むことができた。

 馬の足休めをしている間に、ヤンは「念には念を」と、その謄本を持って役所へ走り、より権威のある認証印をもらってきた。

「これでこの領地を出る時も、次の領地に入る時も、もう原本を出す必要はありませんよ」

 認証が戻ってくるまでの間、ジュリアンは馬車の脇で、インクの染みた書類を小さく折り畳んで懐にしまった。

 アルノー様が近づいてきて、隣に並んだ。

「……ジュリアン、お疲れ様」

「いえ」

「机、借りられてよかった。立ったまま書くのは大変だよね」

「……ご配慮ありがとうございます」

 アルノー様は特にそれ以上何かを言うわけでもなく、ジュリアン達を降ろしてから、また街の外へ去ったユーグの乗った馬車の方向を眺めていた。


   * * *


 その夜、宿の一室でジュリアンは羽根ペンを持った。

 インクの染みた写しが、机の脇にある。捨てるべきか迷っていたが、まあいい。しばらく取っておこう。

 写しを作っていたあの時とは違う、落ち着いた気持ちで報告書に向かう。


【ジュリアン・ド・ルルーよりド・シャンブル侯爵閣下へ、謹んで申し上げます】


 本日、一行は最初の検問を通過いたしました。

 通行に際し、調査官殿は叙爵状および王国安寧調査官任命状の原本をお持ちでありました。写しは存在せず、その場で私が作成いたしました。

 インクを一度こぼしましたので、書き直しました。

 認証はヤン・ヴァランタン殿のご尽力により、近隣の役所にて取得いたしました。

 今後の道中は、通行において大きな障害はないかと存じます。


 謹言。


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