自分の声が難なく凛と通ればいいのに、と思うと歯がゆい
「ヒラギノ」のパンなしに、最近の日常について書くことはできない。なんて言いきってしまうのはやや大げさだけれど、まだ二回しか行っていないのに、それくらいの入れ込み具合だ。
ヒラギノというのは、学校近くにあるパン屋さんで、おばあちゃんが一人きりできりもりしている小さな店だ。その存在を知っている生徒は少ないのではないかな。店先にあるクロワッサンの形をした大きな看板が目印だ。
ヒラギノを見つけたのは夜ふらりと散歩に出たときだった。当然店はもう閉まっていたけれど、温もりのあるクロワッサンの看板には惹かれるものがあった。そういえば、食パン以外のパンを最近食べていないな、と気づくと無性にパンが食べたくなった。生クリームがたっぷり入った菓子パンもいいし、ソーセージの挟まった調理パンもいい。
パンだ。
とにかくおれはパンが食べたいのだ。
次の日の放課後、おれは「パンを買いに行く」とシキトに宣言して寮の部屋を出た。テストが近づいて来ているから、それを食べながら勉強をするのがいい(勉強をすると、ちっとも動かないのにやたらとお腹が空くよね)。そうやって勉強の効率を上げることを言い訳に、足早に校舎の正門を抜けた。間食などほとんどしないおれにはちょっと思いきった行動だった。学校の正門を抜けて店へと急ぐおれは、駆けださんばかりの勢いだったと思う。
店のドアは驚くくらい軽く、開けると香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。そう広くない店内に置かれた棚には、所狭しとパンが並んでいる。店内に他にお客さんはいない。カウンターにいるおばあちゃんとおれの二人きりだ。そのおばあちゃんが着ているねずみ色(グレーではない。ねずみ色のほうがしっくりくる)のエプロンが、おれのおばあちゃんが昔持っていたものそっくりだったから、ちょっと驚いた。新聞を読む小さな姿もよく似ていたからさらに驚いた。と同時に、すごく懐かしい気持になった。両親が共働きだったこともあり、小さい頃のおれはかなりのおばあちゃん子だったのだ。
店内にはオルゴールのBGMが流れている。ドアを開けたおれは、新聞から顔を上げたおばあちゃんと向き合う格好で立っていた。
「いらっしゃい。おや、カナミズ第一高校の生徒さん?」
おれは微笑んで頷く。こういうとき、いつも喋れないということを伝えるべきかどうか迷う。これ以上会話が続くなら教えなくちゃな、と心に決めるも、会話はそれ以上続かなかった。おれは安心したような、もっとおばあちゃんの声を聞きたいような、どっちつかずの気持ちでパンを見て回った。
勉強の合間にと思うと、やっぱり甘そうなものに目が行ってしまう。表面に砂糖をまぶしてあるものはあまり好きでないから、中にクリームが詰まっていたり、果物が乗っているパイのようなものがいい。そうやって入念に選んだ五つのパンをトレイに乗せてカウンターに持って行く。多すぎだと思ったものの、それ以上絞り切れなかったのだ。シキトと分け合えば余裕で食べられる。
危うげ無い手つきで会計をこなすおばあちゃんに、このパンは彼女が作っているのか尋ねてみたくなる。自分の声が難なく凛と通ればいいのに、と思うと歯がゆい。
せめて最後くらいはと思い、パンの入った袋を受け取ったときに「ありがとう」と言った。もちろん声なんて出ていないけれど、おばあちゃんは薄くなった眉の下で目を細めて微笑んでくれた。その様子もおれのおばあちゃんと似ていて、なんだかじんときた。
そんなおれのおばあちゃんは、もう亡くなっている。
幼いおれの目の前で。
寮への帰り道、その日のことを思い出して自然とのどを押さえていた。あの日の熱が蘇ってくるような気がしたけれど、おれののどはあの頃よりもがっしりしていて、当時のように張り裂けそうなくらい内側が熱くなっても、それを外に伝えることはなさそうだった。
そして今日、おれはもう一度ヒラギノへ行った。
パンが予想以上に美味しくてシキトが喜んだというのもあるし、何よりあのおばあちゃんをもう一度見たかった。
ドアを開くと、いた。
前と変わらないその姿に、おれは思わず親しげに微笑んでしまった。おばあちゃんも微笑むと、顔の前で両手の人差し指を曲げた。その動きは手話だった。手話で「こんにちは」。昔は両親に手話で話していたけれど、最近じゃすっかり忘れかけていたから意表を突かれた。この店はおれを何度も驚かせる。けれどおれも微笑んだまま「こんにちは」を返す。そしていつものようにズボンのポケットからメモ帳を取り出すと、急いで言葉を書いた。『しゃべれませんが、耳は聞こえます』。
それを渡すとおばあちゃんは「あらまあ」と声に出した。
「若いのに大変ねえ」
もう慣れましたよ。そう心の中で言っておれは首を横に振った。
ほとんど前回と変わらないパンを選んでカウンターへ持って行くと、おばあちゃんは会計のときにパンをひとつおまけで入れてくれた。店の看板みたいなおいしそうな焦げ茶色のクロワッサン。おれは頭を下げて感謝の意を伝えた。
「傘師さんのお仕事頑張ってねぇ。わたしも大昔はカナミズ第一高校に通っていて、雲払いなんてしたものよ」
去り際におばあちゃんがそんなことを言っていたけれど、おれにとってあまり重要なことではなかった。おばあちゃんが手話を使っていたことを思い出し、もしかすると、おれのためにあの手話を覚えたのかもしれない、と考えていた。きっとそうだ。前におれが来たとき、声が出せないことに気付いて「こんにちは」だけでも覚えてくれたのだ。
そう思うとすごく嬉しかった。
そして、やっぱりおばあちゃん子なんだな、と自分のことを改めて認識した。




