第4話 学び舎の骸
1.
瀬戸内の温暖な海から、一転して北の大地へ。
今川昇太が降り立ったのは、初夏とはいえまだ肌寒い風が吹く、北海道の地方都市だった。
駅からタクシーで三十分。広大な泥炭地の真ん中に、その学校はあった。
「私立 拓北誠和高校」。
少子化と過疎化の波に抗えず、生徒数は全校でわずか四十二名。創立者の身内である前理事長が放漫経営の末、多額の債務を残して失踪。名実ともに“夜逃げ”し、廃校寸前の生ける屍と化した学校だった。
「お待たせいたしました、今川先生」
応接室で昇太を迎えたのは、やつれた顔の女性――教頭の白石 佳代(45)。実質的に、この沈みゆく泥舟の舵取りを押し付けられた責任者だ。
「先生ではなく、今川で結構です。さっそくですが、財務データと教職員の名簿、それから生徒のカルテを」
昇太はキャリーバッグを机の脇に置き、ノートパソコンを開いた。
一時間、室内にキータッチの音だけが響く。白石は祈るように手を組み、昇太の手元を見つめていた。
「……看取るレベルですね」
昇太が眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹なトーンで告げた。
「未払いの給与と設備維持費で、負債は二億。今年度の新入生はわずか五名。この生徒数では、国や県からの補助金を算入しても、来月の教職員の給与が払えません。一般企業なら、即座に破産手続きを開始し、全生徒を公立校へ転校手続きさせる案件です」
白石の顔がサッと青ざめた。
「そんな……! ここにいる子たちの半分は、不登校や起立性調節障害などで、公立の全日制に馴染めなかった子たちなんです。この学校だから、ようやく朝、席に座れるようになった。ここを潰したら、あの子たちの居場所は本当になくなってしまうんです!」
「居場所という言葉で、借金は返せません」
昇太の言葉は容赦がなかった。
「白石教頭。あなたがどれだけ生徒を愛していても、電気が止まり、水道が止まれば授業はできません。学校は聖域ではない。持続不可能な組織は、ただの怠慢です」
「それでも……!」
白石は机に身を乗り出した。
「あの子たちの、生きようとする芽を、大人の都合で摘みたくないんです。私が、何でもしますから……!」
涙をこらえる白石の、細く、しかし千切れそうなほど張り詰めた呼吸。
昇太はそれをじっと見つめ、脳内の計算式を書き換えた。
「条件があります」
「条件……?」
「今日から三日間、この学校の全権を私に委任してください。教職員の反発、そして、私の突飛な方針に対する保護者からのクレーム。そのすべての盾に、あなたがなること。それができれば――」
昇太は立ち上がり、窓の外の寂れた校庭を見つめた。
「この学校のチャイムを、もう一度鳴らしてみせます」
2.
翌朝、全教職員が職員室に集められた。わずか八名の教師たち。
昇太は黒板の前に立ち、チョークで大きく「0」と書いた。
「来年度の、通常の『生徒募集』を停止します」
職員室が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「募集を止める!? それは学校を捨てるということか!」
「ただでさえ生徒が少ないのに、正気ですか!」
「正気です」昇太は淡々と言った。
「地方の私立高校が、定員割れのまま従来型の生徒募集を続けるのは自殺行為です。私たちがやるのは、学校の形をした『別の組織』への変貌です。白石教頭、指示通りの準備を」
白石は唇を噛みながらも、約束通り一歩前へ出た。
「皆さん、今川さんの指示に従ってください。責任はすべて、私が持ちます」
昇太が提示した再生プラン――それは、「全日制高校」としての機能を大幅に縮小し、広大な校舎と敷地をフルに活用した『引きこもり・不登校児のための、全寮制・超実践型IT農業アカデミー』への転換だった。
「今の時代、普通科の卒業証書だけでは価値がありません。特に通信制や不登校を経験した生徒に必要なのは、体面ではなく『生きていくための絶対的なスキル』です。この学校の広大な遊休地を使って最新のスマート農業を学び、同時に、作物を流通させるためのWebデザインやプログラミングを学ぶ。国からの『リカレント教育(学び直し)』の特例補助金と、地方創生資金を限界まで引っ張ります」
「そんなこと、今の生徒たちが受け入れるわけがない!」数学の老教師が叫んだ。
「彼らはすでに、既存の教育システムに息苦しさを感じてここへ来たはずです」
昇太は言い放った。
「彼らが求めているのは、大人が用意した『お仕着せの青春』ではなく、自分たちが社会で息をしていくための『酸素ボンベ』だ」
3.
そこからの四十八時間は、まさに怒涛だった。
昇太は東京の「社長」のネットワークを使い、渋谷の有名IT企業と、北海道大のスマート農業研究チームをオンラインでマッチング。拓北誠和高校を「実験場」として無償提供する代わりに、最新の機材と講師を実質ゼロ円で確保した。
「おい、これ……どうやって動かすんだ?」
午後、校庭の裏の畑で、不登校気味だった二年生の男子生徒が、ドローンを使った農薬散布のコントローラーを恐る恐る握っていた。
彼の傍らには、普段は無口な農業科の老教師が立ち、不器用ながらもドローンのGPS設定を教えている。
教室では、起立性調節障害で朝が苦手な女子生徒が、午後から始まったWebデザインの講義に、目を輝かせてパソコンに向かっていた。
「学校らしくない」と最初は反発していた教師たちも、生徒たちがこれまで見せたことのない集中力で画面や農機具に向かう姿を見て、何も言えなくなった。彼らの“死んでいた目”に、明らかな生気が宿っていく。
三日目の午後。
昇太は校長室で、ノートパソコンの画面を白石に見せた。
「特例補助金の申請が通過しました。さらに、IT企業との共同プロジェクトによる『スマートトマト』の先行予約販売で、一千万円の運転資金を確保。来月の給与は満額支払えます。債務の返済猶予も、銀行との交渉がまとまりました」
白石は画面を見つめたまま、両手で顔を覆った。ポロポロと涙がこぼれ、デスクに落ちる。
「あの子たちの居場所が……繋がったんですね。学校が、生き返った……」
「生き返ったのではありません」
昇太はキャリーバッグのハンドルを握り、立ち上がった。
「新しい肺を作ったんです。白石校長代理。これからは、あなたがあの子たちの呼吸を支えなさい」
胸のポケットで、スマートフォンが規則的に震えた。発信元は「港区」。
「今川です」
『北の国からの報告は受けている。教育現場でも、お前のメスは容赦がなかったようだな』
社長の、底の知れない低い声。
「私は数字を動かしただけです。現場の人間が、形を変えてでも生きることを選んだ」
『よろしい。お前の次の席を用意した。今度は東京へ戻れ。お前のよく知る、あの場所だ』
「……どういう意味ですか」
『お前が五年前、救えずに“殺した”、あのメガベンチャーの残骸だ。破産管財人から、お前を指名してきた』
昇太の表情が、初めて微かに硬直した。
眼鏡の奥の瞳に、過去の、忘れ去ったはずの激しい「呼吸の記憶」が蘇る。
「……条件次第、ですね。了解しました」
4.
夕暮れ時。
昇太が校門を出ると、放課後のチャイムが鳴り響いた。
かつての寂しげな音ではない。校庭からは、ドローンのプロペラ音と、生徒たちの泥まみれの笑い声が聞こえてくる。
それは、新しい時代を生き抜くための、力強い呼吸のハーモニーだった。
昇太は振り返ることなく、小雨の降り始めた北の駅へと歩き出す。
キャリーバッグを引きずる音が、冷たいアスファルトに響く。
次に向かうのは、始まりの街、東京。
己の過去という名の、最大の「死体」を解剖するために。




