第3話 絶海のインフラ
1.
京都から新幹線と在来線を乗り継ぎ、さらにローカル線に揺られること数時間。今川昇太(32)が降り立ったのは、瀬戸内海に浮かぶ人口わずか八百人の小さな離島・黒ノ島の港だった。
潮の香りと、どこか気怠いウミネコの鳴き声。
目の前に停泊しているのは、白錆の浮いた一隻の小型フェリー「くろの丸」だ。島と本土を結ぶ、唯一の公共交通機関。そして、今回の再生対象である「黒ノ島渡船」のすべてでもあった。
「あんたが、東京の社長が言ってた請負人かい」
タラップの根元で昇太を待っていたのは、油染みのついた作業着を着た大柄な女性――宮本 薫(41)。この会社の社長であり、自らも船長として舵を握る男勝りの女性だ。
「今川です」
昇太はキャリーバッグを引いたまま、一礼した。
「さっそくですが、事務所へ。財務状況の確認をさせてください」
港の脇にあるプレハブの事務所。冷房の効きが悪い室内で、昇太は提示された書類に目を通した。
数分後、昇太は眼鏡のブリッジを押し上げ、いつもの平坦な声で告げた。
「……致命的ですね。累積赤字が四億。燃料費の高騰に対し、島の人口減少による乗客数の減少が止まらない。自治体からの補助金も、来期以降は打ち切りの方針が出ている。すでにエンジンは焼き付いているも同然です。なぜ、民事再生を選択しなかったのですか?」
薫はポケットからタバコを取り出そうとして、昇太の無機質な目を見て手を止めた。
「民事再生? そんなことしたら、手続きの間、船を止めなきゃならんだろうが。この船が一日止まれば、島の大人が本土の病院に行けなくなる。島の子どもが高校に通えなくなる。ここはな、ただの会社じゃないんだよ。島民の『命の綱』なんだ」
薫の言葉には、強い、地鳴りのような重みがあった。
だが、昇太の表情はピクリとも動かない。
「宮本社長。厳しいことを言いますが、ボランティアでインフラは維持できません。数字の裏付けのない使命感は、ただの無理心中です。このままでは、あと二ヶ月で燃料すら買えなくなり、強制的に全面運休になります。そうなれば、島は本当に死にます」
薫はデスクを拳で叩いた。
「だから、あんたを呼んだんだろ! なんとかする方法を考えろ!」
荒い鼻息。焦燥と、島を背負う覚悟。その奥から、ギリギリで繋がっている「必死の呼吸」が聴こえる。
昇太は立ち上がり、窓の外の青い海を見つめた。
「条件があります」
「条件?」
「今から三日間、運航スケジュールと運賃改定、そして『船の使い方』の全権を私に委任してください。島民からの大ブーイングが起きるでしょう。その矢面に、社長、あなた自身が立つこと。それができれば――」
昇太は振り返り、薫の目を真っ直ぐに見据えた。
「この船の燃料を、もう一度満タンにしてみせます」
2.
「ふざけるな! 運賃を二倍にするだと!?」
「便数を半分に減らすなんて、島民を殺す気か!」
翌朝、島の公民館に集まった島民たちから、怒号が飛び交った。
壇上に立つ薫は、島民たちの罵声を全身で受け止めながら、じっと歯を食いしばっている。
その傍らで、昇太は感情を一切挟まない声で、マイクを通して説明を続けた。
「現在、黒ノ島渡船は一日に往復十便を運航していますが、日中の乗車率は平均して一割以下です。これは、ただ海に燃料を捨てているのと同じです。明日より、朝の通勤・通学時間帯の二便、夕方の帰宅時間帯の二便、計四便に削減します。さらに、運賃は一律二倍とさせていただきます」
「そんな勝手が許されるか! 薫、お前、親父さんの代からの恩を忘れたんか!」
老人の一人が叫ぶ。薫の肩が微かに震えた。
昇太は一歩前へ出た。
「許されなくても、やります。これを拒否されるなら、黒ノ島渡船は来月、破産手続きに入ります。そうなれば、便数が減るどころか、船自体が消えます。皆さん、少し不便な生活を受け入れて船を残すか、それとも体面を気にして島を孤島にするか。選ぶのはあなた方です」
会場が、水を打ったように静まり返った。
誰もが、この冷徹な男の言うことが「残酷な事実」であることを理解したのだ。
薫がマイクを握り、声を絞り出した。
「みんな、すまん……! 泥水は私がいくらでも飲む! だから、この船を、島を死なせないために、力を貸してくれ!」
薫が深く頭を下げる。島民たちは、黙ってそれを見つめるしかなかった。
3.
「減便した日中の六時間、船と乗組員が空きますね」
事務所に戻った昇太は、ノートパソコンの画面を薫に見せた。
「これが、本当の『心臓マッサージ』です」
昇太が提案したのは、空いた時間を利用した「瀬戸内・絶景洋上オフィス&バル」という、本土の観光客やリモートワーカー向けの臨時クルーズプランだった。
「クルーズだと? こんなボロ船に誰が乗るんだよ」薫が眉をひそめる。
「この『ボロさ』がいいんです。世間は今、過剰に洗練された観光地に飽きています。必要なのは、本物の漁師町の空気と、手つかずの自然です」
昇太は東京の「社長」のコネクションを使い、大手クラウドソーシング企業と提携。さらに、SNSで影響力を持つトラベルインフルエンサーたちに「誰も知らない、瀬戸内の隠れ家ワークスペース」として、この減便中のフェリーをアピールさせた。
船内には最低限のWi-Fiを整備し、島のおばちゃんたちが作ったタコの天ぷらや地酒を提供するカウンターを急造した。
「やるよ、やればいいんだろ!」
薫は職人気質の機関士たちを怒鳴りつけ、船体をピカピカに磨き上げさせた。島民たちも、運賃値上げの悔しさを一先ず脇に置き、「船が残るなら」と地元の食材を次々と持ち込んできた。
金曜日。クルーズの初日。
本土の港から乗り込んできたのは、パソコンを抱えた若者や、カメラを持った観光客たちだった。
「うわ、レトロで可愛い!」
「海の風が最高に気持ちいいな」
静かだった「くろの丸」のデッキが、またたく間に人々の笑顔と歓声で満たされていく。島のおばちゃんたちが売る地魚の弁当は、一時間で完売した。
4.
三日目の夜。
クルーズの最終便を終え、港に戻ってきた「くろの丸」の船長室で、薫は売上データが印刷された紙を見つめていた。
「……信じられん。三日間で、これまでの月間売上の半分以上を叩き出しちまった。これなら……補助金がなくても、やっていける。減便した分の燃料費も浮いてるしな」
薫の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ、油まみれの手に落ちた。
「今川……ありがとな。お前、本当に冷てえ奴だと思ったけど……この船を救ってくれたんだな」
昇太は、いつものように感情の起伏を見せないまま、直立させたリモワのキャリーバッグのハンドルを握った。
「勘違いしないでください。私はただ、使えるリソースを最適化し、数字を動かしただけです。島民の反対を押し切って舵を握り続けたのは、社長、あなたです。あなたの呼吸が、この船を動かした」
胸のポケットで、スマートフォンが短く震えた。発信元は「港区」。
「今川です」
『瀬戸内の潮風は、お前の冷徹さを少しは和らげてくれたか』
社長の、皮肉混じりの低い声。
「いえ。数字はどこへ行っても数字です。黒ノ島渡船、自走可能になりました。インフラとしての機能も維持されています」
『上出来だ。お前の次の席を確保してある。今度は北だ。北海道の、廃校寸前の私立高校。経営陣が夜逃げしかけている』
「学校、ですか。……条件次第、ですね。了解しました」
通話を切り、昇太は船長室のドアへと歩き出す。
「今川!」
薫が呼び止めた。
「また、いつでも乗りに来いよ。あんたの席は、いつでも空けておくからな」
昇太は振り返らず、片手を少しだけ上げて応え、タラップを降りていった。
夜の港に、くろの丸が「ボーッ」と、力強い汽笛を一度だけ響かせた。それは、死の淵から生還した船が、この海で生き続けることを宣言するような、堂々たる呼吸の音だった。
小船を揺らす波の音を聞きながら、今川昇太は夜期の発着所へと歩き出す。
キャリーバッグの車輪が、港のアスファルトに新しい轍を刻んでいく。次の「命」を救うために。




