第2話 古都の毒、老舗の枷
1.
新幹線の車窓を流れる景色が、コンクリートのビル群から、青々とした山並みへと変わっていく。京都。千年の歴史が息づくその街が、今川昇太の次なる戦場だった。
京都駅から地下鉄を乗り継ぎ、烏丸御池の静かな路地裏へ入る。目的地は「和泉屋総本店」。創業三百五十年、宮内庁御用達の歴史を持つ高級京菓子司だ。
風格ある暖簾をくぐると、おしろいのような甘い香りと、張り詰めた静寂が昇太を迎えた。
「お待ちしておりました、今川様」
奥の座敷で昇太を待っていたのは、十二代目当主、和泉屋 勘右衛門(67)。そして、その隣に座る小綺麗なスーツ姿の青年――息子の新一(29)だった。
「東京の『社長』さんからは、お噂を伺っております。どんな瀕死の会社も蘇らせる、臨終の魔術師だと」
勘右衛門は、京言葉特有の、柔らかくも刃を孕んだ笑みを浮かべた。だが、その目は完全に死んでいる。諦めと、自尊心。老舗という巨大な呪縛に押し潰された男の目だ。
「魔術など使いません」
昇太はキャリーバッグを傍らに置き、正座した。
「私はただ、数字を見るだけです。さっそくですが、帳簿を」
差し出された財務諸表を、昇太はめくっていく。
数分後、昇太の眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。
「……酷いですね」
「な、何やと!?」
新一が色めき立ったが、昇太は淡々と続けた。
「負債総額、二十五億。伝統を守るための過剰な設備投資、そして何より、売れ残った高級生菓子の廃棄ロスが年間で億単位にのぼっている。完全な債務超過です。それなのに、職人の人件費や一等地の店舗家賃は一切削っていない。この街の『体面』を保つためだけに、借金を重ねて延命している状態です。和泉屋さんは、すでに呼吸を止めています」
「無礼な!」新一が怒鳴った。「うちの菓子は、京都の文化そのものだ! 職人の技を、お前のような余所者に数字だけで測られてたまるか!」
「文化では腹は膨らみませんし、銀行の利息も払えません」
昇太の声は冷徹だった。
「新一さん。あなたがどれだけ声を荒らげても、来月末にはこの暖簾は差し押さえられます。これが現実です」
座敷に沈黙が降りる。
勘右衛門は深くため息をつき、首を振った。
「……わかっております。やれることは全てやりました。伝統の味を変えて、安い材料を使おうともした。だが、職人たちが首を縦に振らんのです。『そんなものは和泉屋の菓子ではない』と。もう、限界ですな」
昇太は、勘右衛門の肩の落ち方を見た。彼からはもう、戦う意志が感じられない。だが、隣にいる新一からは、悔しさと怒りで狂いそうな「荒い呼吸」が聴こえていた。
昇太は立ち上がり、膝のチリを払った。
「勘右衛門社長、一つ条件があります」
「……条件、ですか」
「今日から三日間、新一さんに全権を譲ってください。社長、あなたは一歩も現場に出ないでいただきたい。そして新一さん、あなたには私の『手先』となってもらいます。反発する職人たちを黙らせる泥を、あなたが被る。それができれば――この老舗の心臓を、もう一度動かしてみせます」
2.
「今日から、今川さんの指示は僕の指示だ!」
翌朝、本社の作業場に新一の怒声が響いた。
集まった職人たちは、不快感を隠そうともしない。特に、職人頭である貞治(62)は、昇太を睨みつけたまま動かなかった。
昇太は白衣に着替え、いつものように感情を排した声で命じた。
「これより、製造ラインの『聖域』を撤廃します。まず、宮内庁御用達である最高級羊羹『紫雲』の製造を、本日をもって一時停止します」
「何だと!?」貞治が一歩前に出た。「『紫雲』は和泉屋の看板だ! それを作らんとは、暖簾を汚す気か!」
「看板ですが、利益率は最低です」
昇太はタブレットの画面を職人たちに向けた。
「原材料の厳選、手作業による長時間の練り。一棹一万円で売っても、原価と人件費でほぼ赤字です。さらに、売れ残った際の廃棄リスクが高すぎる。伝統という名の自己満足のために、会社を殺すわけにはいきません」
「お前に何がわかる! あの練りの塩梅は、何十年もの修行で培った――」
「職人頭」
昇太は貞治の言葉を遮り、その目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの技術は素晴らしい。ですが、その技術は『会社が存続して初めて価値を持つ』ものです。あなたが守っているのは伝統ですか? それとも、自分のプライドですか?」
「お前……!」
貞治が拳を握りしめる。その時、新一が二人の間に割って入った。
「貞治さん、頼む……! 悔しいのは僕も同じだ! でも、このままじゃ来月には、和泉屋の菓子そのものがこの世から消えるんだ! 僕に、和泉屋を守らせてくれ!」
新一が床に両膝を突き、頭を下げた。プライドの高い老舗の跡取り息子が、職人の前でプライドを捨てた瞬間だった。
職人たちの間に、動揺が走る。貞治は悔しそうに歯を食いしばり、やがてぷいと背を向けた。
「……好きに、しなはれ」
「ありがとうございます」
昇太は一礼すると、すぐに新一に指示を出した。
「新一さん、休止したラインを使って、すぐにこれを製造させます。レシピと企画書です」
昇太が提示したのは、和泉屋の伝統的な白餡の技術をベースに、京都産の宇治抹茶とミルクを掛け合わせた『賞味期限の長い、個包装の和洋折衷タルト』だった。
「これじゃ、お土産物屋の安い菓子と同じだ……」新一が絶句する。
「違います。中身の白餡は、和泉屋の本物の技術です。私たちがやるのは、伝統の切り売りではない。伝統の『翻訳』です。若い世代や海外の観光客が、今すぐ口に運びたくなる形に翻訳するんです」
昇太は、和泉屋が持つ最大の資産――「名前」と「確かな技術」を、今の市場が求める「利便性」と「即金性」に強引に結びつけたのだ。
3.
そこからの四十八時間は、時間との戦いだった。
新一は不眠不休で職人たちを説得し、慣れない洋菓子の製造ラインへの組み替えを指揮した。貞治は露骨に嫌な顔をしながらも、新一の必死さに動かされたのか、白餡のクオリティだけは一切妥協せずに仕上げてみせた。
昇太は東京の「社長」のルートを使い、京都駅の主要な土産物店、および主要ECサイトの特設ページへ、この新商品『和泉の雫』をねじ込んだ。
「老舗・和泉屋、三百五十年目の革新」
そのキャッチコピーと共に売り出されたタルトは、初日から爆発的な売り上げを記録した。一個二百円という手軽さ、そして「あの和泉屋の餡が使われている」というブランド力が、瞬く間にSNSで拡散されたのだ。
三日目の夜。
事務所のパソコンに表示された受注データは、未だに右肩上がりを続けていた。
「今川さん……やりました。これなら、今月の不渡りは確実に回避できます。それどころか、来期までの運転資金も確保できる……!」
新一はパソコンの前で崩れ落ちるように涙を流した。
そこへ、奥の座敷から勘右衛門がゆっくりと歩いてきた。その目は、数日前のような死んだ目ではなく、自らの息子を、そして和泉屋の新しい息吹を、しっかりと見つめていた。
「新一。お前が、和泉屋の新しい形を作ったんやな」
「親父……」
「今川さん、おおきに。伝統にしがみついて窒息しかけていた我々に、もう一度空気を吸わせてくれた」
勘右衛門が深く頭を下げる。
だが、昇太はいつものように、感情の起伏を一切見せずに自分のリモワのキャリーバッグのハンドルを握った。
「お礼には及びません。私は条件通り、新一さんに泥を被ってもらい、数字を動かしただけです。……これからは、この新しい呼吸を止めないよう、お二人で経営を」
昇太のスマートフォンが震える。発信元は「港区」。
「今川です」
『京都の件、片付いたようだな』
「ええ。老舗のプライドを捨て、新しい肺を手に入れました。自走可能です」
『結構だ。次のカルテを送った。次は、瀬戸内海の小さな離島のフェリー会社だ。明日の朝一番の便で向かえ』
「条件次第、ですね。了解しました」
通話を切り、昇太は白衣を脱いで、いつもと同じファストファッションの黒いスーツに身を包んだ。
「今川さん、もう行かれるのですか?」新一が尋ねる。
「ええ。私の仕事はここまでです」
暖簾をくぐり、夜の烏丸通りへ出る。
振り返ると、和泉屋の作業場からは、夜通しタルトを焼き上げるオーブンの熱気と、職人たちの活気ある声が漏れ聞こえていた。
(古い皮を脱ぎ捨てて、中身を守る。それも一つの生き方だ)
昇太はキャリーバッグを引きながら、京都駅へと歩き出す。
同じ服、同じルーティン、同じ孤独。
だが、彼の足取りは、次の「死線」へと向かって、どこまでも真っ直ぐに伸びていた。




