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第1話 死線の鑑定人

1.

午前六時三十分。スマートフォンのアラームが鳴るより三分早く、今川昇太(32)は瞼を開けた。

カーテンを開けると、見知らぬ街の曇り空が広がっている。地方都市の駅前ビジネスホテル。昨日までは九州の造船所にいたが、今いるのは東北の寂れた繊維街だ。それでも、昇太の朝は何も変わらない。

ベッドの脇に置かれた、傷だらけのリモワのキャリーバッグ。その中身は、全く同じファストファッションブランドの黒いスーツが三着、白いシャツが五枚、そして同じ下着が日数分。選択のノイズを極限まで削ぎ落とした、彼の「戦闘服」だ。

テレビをつけ、ボリュームを絞ってNHKのラジオ体操第一に合わせる。

正確なテンポで体を動かしながら、昇太は己の五感を研ぎ澄ませていく。指先の痺れはないか、呼吸に乱れはないか。これから向かうのは、文字通りの戦場だ。こちらの体調が万全でなければ、死にかけた組織の「腐臭」に呑まれてしまう。

身支度を整え、フロントでチェックアウトを済ませたところで、胸のポケットのスマートフォンが微かに震えた。

画面に表示されたのは、発信元「港区」の二文字。

「今川です」

『よく眠れたか、昇太』

低く、温度を排除した声が耳に届く。東京・港区の超高層ビルの一室から、日本中の「死にかけの企業」を値踏みし、昇太という駒を動かす男――通称「社長」。その本名も、年齢も、昇太は知らない。知っているのは、彼が提示する案件に、決して見誤りがないということだけだ。

『今回の案件は、創業八十年の老舗織物会社「羽代織物はしろおりもの」。負債総額は十一億。現預金は底をつき、銀行からの追加融資はゼロ。今月末の不渡りを免れる確率は極めて低い』

「……なぜ、僕を?」

『社長の羽代はじろという男が、まだ諦めていない。数字の上では完全に死んでいるが、現場の“肺”はまだ微かに動いている。お前なら、人工呼吸器を外すか、それとも心臓マッサージを続けるか、正しく判断できるはずだ』

社長はそれだけ言うと、一方的に通話を切った。

画面が暗転し、昇太の無表情な顔が映り込む。

「条件次第、ですね」

誰に呟くともなくそう言うと、昇太はキャリーバッグのハンドルを握り直し、小雨の降る街へと歩き出した。

2.

「羽代織物」の工場は、煤けたコンクリートの塊だった。

かつてはガチャ万(織機をガチャンと織れば一万円儲かる)と謳われた時代もあったのだろうが、今や敷地の半分は遊休地となり、錆びついたシャッターが固く閉ざされている。

社長室に通されると、そこには目の下に深い隈を刻んだ男――羽代 栄一(54)が、書類の山に埋もれるようにして座っていた。

「あなたが、東京から派遣されたという……今川先生、ですか?」

すがるような、しかしどこか諦念の混じった声。昇太はその視線を受け止めながら、一礼して対面のソファに腰掛けた。キャリーバッグは部屋の隅に、直立させたまま置いてある。

「先生と呼ばれる筋合いはありません。私はただの請負人です。羽代社長、まずは決算書と、直近三ヶ月の資金繰り表、それから従業員の名簿を」

事務的に手を差し出す昇太に、羽代は怯んだように書類の束を差し出した。

昇太はそれをひったくることもせず、丁寧に受け取ると、一枚ずつ目を通していく。

静寂が部屋を支配する。めくられる紙の音だけが、不気味なほど規則正しく響いた。

五分、十分。羽代は落ち着かない様子で、何度もネクタイの結び目を触っている。

「……なるほど」

昇太が眼鏡のブリッジを押し上げた。

「帳簿を見る限り、今月末の決済資金、あと三千万がどうしても足りない。資産の売却も間に合わない。通常のセオリーなら、ここで民事再生法の適用を申請、あるいは自己破産です」

羽代の顔から血の気が引いた。

「そんな……! 従業員はどうなるんですか! 伝統ある、うちの技術はどうなるんです! 私は、彼らの生活を守るために、これまで必死に……」

「感情論は脇に置いてください」

昇太の声は、冷徹なまでに平坦だった。

「私は数字を見ています。そして、数字は嘘をつきません。救えない会社を無理に延命させるのは、ただの苦痛の引き延ばしです。それは『優しさ』ではなく、経営者の『怠慢』だ」

「あなたに、何がわかる!」

羽代が机を叩いて立ち上がった。

「この会社には、職人たちの人生が詰まっているんだ! 泥をすすりながらでも、繋がなきゃいけない命があるんだよ!」

昇太は動じなかった。羽代の激昂を、ただ静かに見つめている。

激しい呼吸。肩の上下。その奥にある、必死の抵抗。

(……いや、まだ死んでいない)

昇太は心の中で呟いた。本当に終わっている会社の経営者は、こんな怒り方すらできない。ただ虚ろな目で、破滅を受け入れるだけだ。だが、この男の胸の奥からは、まだ泥臭い「生への執着」という名の呼吸が聴こえる。

昇太は立ち上がり、ブラインドを上げて、窓の外の工場を見下ろした。

「羽代社長。一つ、条件があります」

「……条件?」

「今から二日間、この会社の全権を私に委任してください。役員、従業員の反発をすべてあなたが抑え込むこと。それができれば――」

昇太は振り返り、真っ直ぐに羽代の目を見た。

「この死体を、もう一度歩かせてみせます」

3.

それからの四十八時間、羽代織物は暴風雨に巻き込まれたようだった。

昇太はキャリーバッグからノートパソコンを取り出すと、工場の一角に陣取り、一切の感情を排して「執刀」を開始した。

まず着手したのは、在庫の徹底的な現金化だ。

倉庫の奥で眠っていた、過去の「型落ち」とされた最高級のシルク生地。羽代たちは「ブランド価値が下がる」と抱え込んでいたが、昇太は即座に海外のデザイナーズブランドのバイヤーへ連絡を取り、相場の半値で買い叩かせた。

「こんな叩き売り、先代に申し訳が立たない!」と泣き叫ぶ古参の専務を、昇太は一瞥もせずに言い放った。

「死んで灰になれば、ブランドも伝統もありません。今必要なのはプライドではなく、現生げんなまです」

次に、全従業員三十名との個別面談。

昇太は一人につき、わずか五分しか時間を割かない。聞くのは一つだけだ。「あなたはこの会社で、何を作っている時が一番呼吸しやすいか」。

「……え?」

誰もが呆気に取られた。しかし、ある若い女性職人は、少し考えてから答えた。

「……海外の安い生地じゃ絶対に真似できない、うち独自の『立体裁断用のヨリ糸』を紡いでいる時です。それだけは、どこにも負けないと思ってます」

昇太は手元のタブレットにチェックを入れた。

削るべき贅肉コストと、絶対に傷つけてはならない骨髄コア。その境界線を、彼は超人的な速度で見極めていく。

二日目の夜。

デスクの前に座る昇太の前に、一通の書類が置かれていた。

人員整理のリスト。そこには、先ほど泣き叫んでいた古参専務をはじめ、数名の名前が書かれている。

ノックの音がして、社長の羽代が入ってきた。その顔は疲れ果てていたが、どこか憑き物が落ちたような目をしていた。

「今川さん。在庫の売却資金と、一部の売掛金の早期回収で、二千八百万円まで目処が立ちました。あと二百万……いや、しかし、このリストは……」

羽代の手が震えている。長年、苦楽を共にしてきた仲間を切る。その痛みに、経営者の心が引き裂かれそうになっていた。

昇太は、静かに言った。

「救える会社と、救えない会社の違いがどこにあるか、お分かりですか」

「……わかりません」

「それは、経営者が『血を流す覚悟』を持っているかどうかです。全員を救おうとすれば、全員が溺死する。あなたが彼らの首を切るのではない。会社という船を生き残らせるために、彼らに一度、降りてもらうんです。その返り血を浴びるのが、社長、あなたの最後の仕事だ」

羽代は深く、深く頭を垂れた。涙が、リストの紙面にシミを作っていく。

その時、昇太のスマートフォンが震えた。画面には「港区」。

「今川です」

『状況は』

「心肺蘇生は成功しました。微弱ですが、自発呼吸を始めています。コアとなる技術ラインだけを残し、不採算部門を切り離します。これで今月の決済はクリア、来月からの黒字化の絵図も描けました」

『そうか』

社長の声は、相変わらず淡々としていた。

『羽代の顔は、まだ生気を保っているか』

「ええ。自分で血を流す覚悟を決めました」

『なら、お前の仕事は終わりだ。次の現場の手配をしてある。明朝、京都へ向かえ』

「了解しました」

4.

翌朝、午前六時三十分。

昇太はいつものようにラジオ体操を終え、ホテルの部屋を片付けた。

髪を整え、全く同じ黒のスーツを着込み、ネクタイを締める。

駅へ向かう道すがら、羽代織物の工場の前を通りかかった。

まだ薄暗い中、工場の煙突から、うっすらと白い煙が立ち上っている。それは、昨日までは止まっていた、織機を動かすボイラーの煙だった。

中からは、規則正しい「ガチャン、ガチャン」という音が響いてくる。

それは、一度は止まりかけた組織が、再び刻み始めた「鼓動」の音だった。

昇太は足を止めることなく、ただ一度だけその煙を見上げ、すぐに駅の改札へと向かった。

彼の持つリモワのキャリーバッグが、アスファルトの上で静かに音を立てる。

携帯が鳴る。次のカルテ(企業データ)が送られてきた合図だ。

「今川昇太、32歳。企業再生請負人。

彼が救うのは数字ではない。その裏で、泥をすすりながらも生きようとする、人間の呼吸だ」

新幹線のホームに滑り込んできた列車のドアが開く。

昇太はキャリーバッグと共に、迷いなくその中へと足を踏み入れた。


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