最終話 亡霊の街
1.
羽田空港に降り立った今川昇太(32)は、そのままモノレールと山手線を乗り継ぎ、渋谷の喧騒の中にいた。
見上げるほどのガラス張りの高層ビル。その最上階近くにかつて存在し、五年前、昇太が救えずにその手で息の根を止めた会社――メガベンチャー「ネクスト・コア」。当時は最先端のAI開発企業として一世を風靡したが、放漫経営と技術流出が重なり、一気に債務超過へと転落。破産管財人の手によって解体されたはずだった。
「……ここが、お前の出発点であり、挫折の場所だな」
雑居ビルの一室。かつての輝きは微塵もない、薄暗いオフィスで昇太を待っていたのは、車椅子に乗った白髪の老弁護士・佐伯(65)だった。「ネクスト・コア」の破産管財人を務めた男であり、昇太に企業再生のイロハを叩き込んだ師でもある。
「佐伯先生。ネクスト・コアは五年前、私が精算の手続きを完了したはずです。なぜ今更、私を指名したのですか」
昇太はキャリーバッグを傍らに置き、いつもの平坦な声で尋ねた。
佐伯は机の上に、古びたハードディスクと一冊の分厚いファイルを置いた。
「ネクスト・コアの『知財』はすべて売却されたと思っていたが、一つだけ、当時の開発チームが命懸けで隠蔽したコア・プログラムが残っていた。医療診断アシストAI『アスクレピオス』。五年前のお前なら、ただの『金にならない不良資産』として切り捨てただろう」
昇太の眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。
「それが今、医療系ファンドから三十億の価値がついている。だが、当時の開発者たちが、その権利をファンドに渡すことを拒み、今もこの暗がりに立てこもっているんだ。彼らを説得し、知財を完全に売却して、すべての債務を精算する。それが今回の依頼だ」
「つまり、完全に息の根を止めろ、と」
「そうだ。彼らはまだ、あの会社の亡霊に囚われて呼吸をしている。お前の手で、その人工呼吸器を外してやってくれ」
五年前の記憶が、昇太の脳裏をよぎる。
数字だけを見て、泣き叫ぶ社員たちを冷酷に切り捨てたあの日。自分が正しかったと信じている。だが、その時の胸の詰まるような感覚は、今も消えていない。
昇太のスマートフォンが震えた。発信元は「港区」。
「今川です」
『最後の仕上げだ、昇太』
社長の、すべてを見透かしたような低い声。
『お前が真の合理主義者か、それともただの冷血漢か。あの場所で証明してこい』
「……条件次第、ですね。了解しました」
2.
渋谷の裏路地にある、元はサーバー室だった地下倉庫。
重い鉄の扉を開けると、そこには数日も徹夜を続けたような、目の充血した三人の若いエンジニアたちがいた。彼らの中心にいるのは、かつてネクスト・コアの天才プログラマーと呼ばれた男――阿部 蓮(28)。
「……また管財人の犬が来たか」
阿部はノートパソコンから目を離さず、吐き捨てるように言った。
「何度来ても同じだ。この『アスクレピオス』は、俺たちの命だ。金儲けしか頭にないファンドに売るくらいなら、ここでデータを完全に消去して、俺たちも死ぬ」
部屋の中に充満する、カップ麺の匂いと、逃げ場のない焦燥感。
彼らの呼吸は浅く、そして速い。追い詰められたネズミが、最後の牙を剥いているような、危険な呼吸だ。
昇太はキャリーバッグから手を離し、彼らの前に歩み出た。
「阿部さん。五年前、私があなたたちの会社を解体した時のことを覚えていますか」
「忘れるわけがないだろ! お前は数字だけを見て、俺たちの技術をゴミのように扱った!」
「そうです」昇太の声は、どこまでも平坦だった。
「当時のあなたたちの技術は、維持コストばかりがかかる『ゴミ』でした。だから私は切り捨てた。そして今、この『アスクレピオス』の価値が三十億と言いましたが、それもファンドが買うからつく数字です。あなたたちがここに籠城してデータを抱えたまま破産すれば、価値はゼロ。あなたたちに残るのは、数億の個人保証と、前科だけです」
「うるさい!」阿部が立ち上がり、キーボードの上に手を置いた。
「ワンエンターで、このサーバーを爆破(物理消去)してやる! 俺たちの五年間の魂を、お前みたいなロボットに査定されてたまるか!」
「やってみなさい」
昇太は一歩も引かなかった。
「データを消せば、あなたたちの『呼吸』はそこで完全に止まる。伝統に殉じようとした京都の老舗も、島を守ろうとしたフェリーの船長も、泥水をすすりながら形を変えて生きる道を選んだ。あなたたちは、ただ自分のプライドのために、その優秀な頭脳をここで心中させる気ですか」
「何だと……?」
「条件があります」
昇太は眼鏡のブリッジを押し上げ、三人のエンジニアを真っ直ぐに見据えた。
「今から一時間、このプログラムのソースコードを私に見せてください。私に、あなたたちの『命』の本当の価値を測らせる時間をください。それができれば――」
昇太の声に、これまでになかった、微かな「熱」が混じった。
「この亡霊を、本物の『生者』に変えてみせます」
3.
一時間、地下室にはキーボードを叩く音すら消え、昇太がコードをスクロールする音だけが響いていた。
昇太はプログラマーではない。しかし、この五年間、何百という企業の血肉を見てきた。このコードの裏にある、彼らが何を救いたくて、どんな未来を夢見てこのAIを作ったのか。数字と記号の羅列から、彼らの「悲鳴」のような純粋な願いが聴こえてきた。
「……阿部さん」
昇太が画面を閉じた。
「このAI、ファンドに売却する契約書を書き換えます」
「は? 何を言ってるんだ、結局売るんじゃないか!」
「単なる知財の切り売りはさせません」
昇太はノートパソコンに、新しいスキーム(計画書)を立ち上げた。
「ファンドに権利を渡す条件として、ネクスト・コアの残党であるあなたたち三人を『最高技術責任者(CTO)および開発チーム』として、三十億の予算と共に丸ごとスピンアウト(独立)させ、新会社を設立させます。ファンドが欲しいのはデータではない、この狂気的なコードを生み出せる『あなたたちの脳』だ。ファンドの資金を使って、あなたたちの夢を継続させる。これが、私の提示する条件です」
三人のエンジニアが、呆然と顔を見合わせた。
「売却(精算)ではなく……継続?」阿部の声が震える。
「私は企業再生請負人です。死んだ会社は生き返りませんが、そこにいた人間は生きている。ネクスト・コアという器は五年前に死んだ。なら、新しい器を作ればいい。あなたたちの呼吸を、ここで止めるな」
阿部の手が、キーボードからゆっくりと離れた。
彼の目から、張り詰めていた涙が溢れ出し、キーボードの上に点々と落ちていく。地下室を満たしていた、拒絶の荒い呼吸が、安堵の深い呼吸へと変わっていった。
4.
翌朝、午前六時三十分。
港区の高級ホテルの部屋で、今川昇太はいつも通りラジオ体操を終えた。
全く同じ黒のスーツを着込み、リモワのキャリーバッグのハンドルを握る。
ロビーに降りると、そこには一台の黒い高級セダンが停まっていた。
後部座席の窓が開き、影に隠れた男の横顔が見える。この五年間、声だけで昇太を動かし続けてきた「社長」だった。
「終わったようだな、昇太」
「ええ」昇太は車の前に立ち、一礼した。「ネクスト・コアの残債はすべてクリア。新しい医療AIベンチャーとして、本日登記されました。自走可能です」
「お前は五年前の呪縛を、ようやく解いたわけだ」
社長が微かに笑ったような気配がした。
「救える会社と、救えない会社。その境界線が、どこにあるか分かったか」
昇太はキャリーバッグをしっかりと握り直し、澄んだ東京の朝の空を見上げた。
「数字の裏にある『人の呼吸』が、まだ生きようと足掻いているかどうかです。それがある限り、私の仕事は終わりません」
「結構だ」
社長は一通の新しいカルテ(企業データ)を窓から差し出した。
「次の現場だ。お前を待っている“死にかけの命”が、まだ全国に無数にある」
「条件次第、ですね」
昇太はそれを受け取ると、振り返る seat を持つことなく、駅へと歩き出した。
カツカツと、アスファルトを叩くキャリーバッグの音。
彼の背中には、もう迷いも、過去の亡霊もなかった。
あるのは、ただ次の戦場へ向かう、静かで、揺るぎない、確かな「呼吸」だけだった。
完




