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ブラパ THE BLACK PARADE [SCENARIO Ver.]  作者: 藤原キリヲ
SWEET REVENGE
16/21

14.Sonic Disorder




 2月14日――世間ではバレンタインデーなどと呼ばれる日。

 女性が意中の男性にチョコレートなどを贈呈し、想いを伝えるなどする日として親しまれている。

 昨今では別段好意を寄せていない相手に送る“義理チョコ”や、主として友人関係にある女性同士が相互にチョコレートを送り合う“友チョコ”などといった風の別形態へと派生し、雑多な有様を見せている。


「はい、姫。あたしからのバレンタインチョコ、あげる」

「毎年律儀ですね。有り難く頂いておきましょう」

 北区のとある喫茶店。

 相変わらず抑揚のない声音で、黒川神奈は信頼する仲間のひとり――大森しのぶからの所謂“友チョコ”を受領した。

 黒川神奈はこの日も仲間二名と集合し、報告連絡を目的とする集会を開いていたところだった。


「生憎、私の方から貴方に贈答するチョコレートの用意はありませんが」

「いいってそんなの。あたしが好きでやってんだからさ。姫はこういう形式っぽいの好きじゃないでしょ?」

「学校や職場等の公的空間において贈答的習慣として強く定着し、チョコレートを送らねば人間関係がままならないという、強迫観念めいた逃れ得ぬ雰囲気には、些か辟易するところではありますね」

 黒川神奈という人間がこういう俗物的な風習を好ましく思わないであろうことは、付き合いの長い二人でなくともなんとなく察せられるところかもしれない。

 クールで理知的な黒川神奈。やいのやいのと騒ぎながら、チョコレートを送り合う輪の中に収まる彼女の姿は、なんとも想像し難いものがある。

「要するにめんどくせえから嫌いってことだろ」

 と、そんなやり取りを横から見ていた上山裕哉が付言した。声音にはどこか呆れたような響きが混じっている。

「一概に嫌いとは断言しかねますね」と、裕哉の横槍に神奈は答える。「興味深いという言い方が適切でしょうか」

「どうだか。大体からして今こうやってチョコとかやり取りしてんのだって、元を辿ればチョコ屋の経営戦略みてえなもんなんだろ?」

「えー、そうなの?」

 露骨に嫌そうな顔をするしのぶに対して、裕哉は「知らねえの?」と返す。「チョコ屋が自分とこの商品売りてえから、バレンタインデーにかこつけて“プレゼントに最適~”みたいなこと言ってんのがはじまりだったはずだぜ」

「なんかつまんないね、それって。お金がらみの話になると、一気に冷めるっていうか。心込めても安っぽくなっちゃう感じがしてムカつく」

「がめつい大人どもの金儲け作戦に踊らされてて悔しいか、シノ?」

「うっさい。あんたのその興醒めなトリビアだってどーせチョコもらえないもんだからひがんでるだけでしょ、ユーヤ」

「……男の俺にはよこさないで姉御だけに用意するあたり、お前の性格も大概だと思うけどな」

「今更なに言ってんの? あたし、レズだから。あんたに限らずむさ苦しい男なんか、恋愛対象どころかプレゼントひとつ贈る気にもなれないし」

「そういやそうだったっけ。シノ的に姉御みたいなのはアリなの?」

「ちょっと、本人の目の前でいきなり失礼なこと言わないで!」

「へいへい、すみませんね。デリカシーのカケラもなくって」

「ムカつく!」

 今にも言い合いが始まりそうな空気になりかけるが、神奈が「こほん」と咳払いをするのを聞いて、二人はさっと冷静に立ち返った。

 神奈のまとう空気は場をクールダウンさせるような影響力がある。


 神奈としては現代日本で流行するバレンタインの風習について、商業的な思惑から本来のキリスト教の聖人に由来する祝日と乖離したものに成り果てている状況には思うところがないわけではないものの現代日本においては楽しいイベントとして既に定着している感がある以上つべこべ言わずに受認すればよいのではという主張はあったし、それはそれとして媒体とされるチョコレートの有する高い含有熱量による非常食としての有用性や、甘味とカカオポリフェノールのもたらす精神安定並びに健康効果などの優れた各種効能について語れることがないわけではなく、更に踏み込めばカカオの代表的な原産国たるガーナ等の経済的情勢や労働環境などについても述べておくべきではないかと思ったが、脱線にしても無駄話が過ぎると思い、喉元まででかけた衒学的薀蓄をぐっと飲み込むことにした。

 知は力ではある。が、ひけらかせば小物っぽく見えてしまうので濫用すべきではない。

 それが黒川神奈のポリシーだった。

 鉄の女にも自尊心はある。自意識もある。



 そもそも、彼女としては世間話は程々にしてさっさと本題について語りたいのだ。



「……それはそれとして、件の廃工場に動きがありました。ブー子の手引きによって、“最初の暗号文”が彼等の手に渡ったようです」

 彼女たちの最近の取り組み――廃工場を舞台としたフジノたちの冒険の演出について。

 その対象であるフジノたちの動向について、情報共有がなされている。

「へー、思ったより早かったね。ついこないだよーやく出してきたばっかりなのに」

「つい先程連絡がありました。偶然廃工場を訪れた地元の大学生をメッセンジャー役として利用して伝達を完了し、これより攻略に赴くそうです」

「地元の大学生? 何者だそいつ?」

「詳細は不明ですが、昨年末あたりからしばしば廃工場付近に車両利用で接近している状況が確認されていたそうです」

「その感じだと、ホントにただ流れ着いて来ただけって感じだね」

「恐らくは。気になる点があるとすれば、その人物が彼等の冒険にそのまま同行している、という部分ですが」

 神奈の提示した情報に、裕哉としのぶは一瞬顔を見合わせる。

 偶然舞台に上がり込んだ大学生――今井光明の登場は、彼等にとってイレギュラーな事態といえた。

「……いいの?勝手に仲間が増えたら想定変わっちゃうんじゃない?」

「目下、許容の範囲内と判断しました。ブー子がこの展開を予期していたのかは定かではありませんが」

「俺らに相談もなしに余計なもん混ぜやがってって感じがするけどな」

「不確定要素ではありますが、排除すべき存在であるか否かは本件を通じて判断すれば良いでしょう。現在においては歓迎すべき予期せぬ展開という部分を評価するべきかと」

「姫がいいなら、いいけどね……。念のため素性とか調べとく?ユーヤ」

「そうだな。帰る時間見計らって一回くらい追跡入れとくか」

「姫もそれでいい?今回の冒険は、あたしたちは前回みたいに介入しなくていいの?」

「構いません。元々このダンジョンは当初からあるブー子のシナリオに含まれているものです。今後の難易度設定を図る試金石として、本想定は彼等がどのようにしてダンジョン攻略を進行させていくかを測定するとしましょう」

「ブー子のお手並みもついでに拝見ってとこだな」

「その通りです。例の暗号文は動物園ひかるが退屈しのぎにブー子にやらせようと作成したもののようですが。第二以降の暗号文もそのまま転用するかどうかについても、検討することにしましょう」

「わかった」

「あいよー」

 神奈の決定に、二人は意見を述べつつも各々了解の意を示した。

 そうしてそのまま、議題は今後の冒険の先行きや、面白そうな演出に関するアイデア出しのような内容に移り変わっていった。

 元々、共同で創作活動を行っていた三名。

 議論は加熱し、ぎらぎらと楽しげな雰囲気を漂わせていく。




 一方、その頃、同店舗の前の路上。

 神奈たちの集まりとは何ら関わりのない事象ではあるが、大学生ほどの年頃の少女が携帯電話を片手に、興奮気味に通話をしている。


「え、ど、どういうこと!? なんで、急に来れないなんて……、は?秘密の急用? ちょっと――ふざけないでよ!今日、一緒に出かけるって、こないだ約束して――ねえ!ねえったら、光明――っ!!」


 おそらく精一杯着飾ったのであろうよそ行きの服装。

 いつもよりも数割増しに華やかな、念の入った化粧。

 そして、電話を持つのと反対の手に握られた、おしゃれな装丁の紙袋。表面には目の前の喫茶店のロゴが刻まれ、中にはこの日のためにと奮発して購入したチョコレートケーキが二人分……。

 苛立たしげな、それでいて悲痛な声を発する彼女の手に握られ、哀しげに虚しく揺れている。


 2月14日。日曜日。

 今日は、バレンタインデー。


 世界中で周知されている、由緒正しい、恋人たちの愛と誓いの日。




14.Sonic Disorder




 廃工場の居住区で出会った、大学生の今井光明から謎の“暗号文”を入手した俺たちは、廃車両まで戻ってきていた。

 この暗号文が俺たちの探している“鍵”の在り処を示すもの……なのかどうかは正直言ってよくわからないけれど、フジノも亜美香もすっかりその気で、道中も解読に対してやる気満々といった雰囲気だった。


 対する俺は、謎解きとか鍵探しとかそれ自体に乗り気じゃないわけじゃなかったけれど、そこまでの流れがどうにも腑に落ちない感じで、いまひとつ乗り切れていない。

 “鍵探し”っていう冒険の目的は、廃工場を舞台にした俺たちの冒険のとりあえずの目指す場所としてフジノが決めたものだ。

 “先へ進むための鍵が道中に隠されている”なんてのはRPGのダンジョンならよくある筋書きだ。

 鍵が閉まっていて先に進めない→鍵を探す必要がある→鍵が見つからないと話が先に進まない→鍵はどこかに隠されている。

 ゲームではそうした展開上の仕様から、鍵穴の存在は鍵そのものが近くに存在することをある意味逆説的に保証しているところがある。

 けど、それはゲームの理屈だ。その理屈は現実においても全面的に適用されるようなものでは当然ない。

 確かに廃工場の奥地にある謎の建物には何重もの施錠がされているようだけれど、それを開くための鍵が廃工場のどこかに隠されているというのはフジノが勝手に言ってるだけだ。

 現実問題、鍵ってのは使用する人間が持ち歩くか、金庫や引き出しに入れて保管するのが普通だ。打ち捨てられた無人の廃墟のどこかに隠したりなんてしない。


 だから俺は、フジノの言う“鍵探し”は場を盛り上げるためというか……冒険の目的としてとりあえず設定されてるだけのもので深い意味はないと思っていて、鍵の実在については正直言えば半信半疑だった。

 だが、言わばフジノの思い付きでしかない“鍵”の在り処を示すような暗号がどういうわけか用意され、光明っていういきなり現れた未知の他人がそれを渡してきた。

 この展開に、俺はおかしなものを感じてしまう。

 しかも光明自身、その暗号文は“ブー子”とかいう謎の人物から俺たちに渡すように言われて預かってたっていうのだから、ますます胡散臭い。

 これがフジノの自作自演だっていうなら辻褄が合わないこともないが、それにしたってやり方が複雑過ぎる。見知らぬ第三者を間に何人も入れる意味がわからない。

 ――ということは、俺たちじゃない誰かが、俺たちの冒険に介入している……?

 確たる証拠があるわけじゃないが、そう考えて然るべき状況じゃないだろうか。

 一体誰が?何の目的で?

 そもそもどこで俺たちの冒険や、フジノの考えを知ったっていうんだ?

 ……そんなことを考え出すと、俺は得体の知れない何かが迫ってきている怖さだとか、俺たちの冒険に見知らぬ誰かが勝手に踏み込んできている不快感だとかで、すごく嫌な気分に苛まれる。


 その感覚が気になって、冒険の楽しさに集中できていない。



「やあ、ごめんごめん。いきなり電話なんかさせてもらっちゃって」

 廃車両の前で、俺が手持ち無沙汰にしていると、光明がそんなことを言いながらひょっこり戻ってきた。

 すらりと高い身長。にこやかで優しげな表情。


 “俺たちの冒険に同行したい”と言って着いてきた光明だったが、廃車両に着くなり「ちょっと電話だけさせてもらっていい?」と言って、ふらっとどこかへ消えていた。

 ――随分、長電話だったような気がするな……。

 逆に言えば、俺が悶々と考えを巡らせていた時間もそれだけの長時間だったということになる。

「……電話、結構長かったけど、大丈夫なのか?」

「そうなんだよ。悪いね、待たせて。まぁ、幸い冒険に出かける時間には間に合ったみたいで良かったけど」

 光明は廃車両の中をちらりと見ながら言い、俺も自然とそちらに目を向けてしまう。

 で、なんだかそれとなく話題を逸らされたようだと気が付いた。

 長電話の内容には、触れられたくないってことか?

 まぁ、会ったばかりの光明のプライベートに踏み込む気も、俺にはないから別にいいんだけど……。


 廃車両の中では、フジノと亜美香が暗号文を見ながら、ああだこうだと解読作業に勤しんでいる。

 俺も最初は一緒にいたのだが、二人の盛り上がっている空気になんとなく居づらさを感じて、「ちょっと考え整理してくる」とか言って外に出てきてしまっていた。

 とはいえ、結果的に、暗号文のことなんか考えずに、現状の納得のいかなさに関する思考ばかりしていたのだが……。



「で?どうかな?俺が渡した暗号文は。解読できそう?」

「さぁ。今、フジノと亜美香が二人でいろいろ考えてるよ」

「みたいだね。……、君は一緒にやんないの?ええと、留美、くん」

 確認するみたいな言い方で名前を呼ばれる。

 俺の名前はフジノが勝手に紹介してくれたので、一応光明にも伝わっている。

 いきなり下の名前で呼ぶのは、フジノが名前だけしか紹介してくれなかったからだ。

 最近はもう慣れてきたので、俺もなんにも言わない。


「盛り上がってるあいつら二人の間に、俺が入る余地なんてない感じでさ」

「あぁ、なるほどね。なかなか個性的な感じだもんねぇ。フジノちゃんも亜美香ちゃんも……。君もなかなか苦労してそうだね」

 苦笑いを浮かべつつ、おもねるようなことを言われる。

 俺の立場に理解を示してくれる程度に、この人は常識人みたいだ。

 というか、フジノも亜美香もいろいろぶっ飛んでて、廃車両にいると、常識って何なのかという感じになりがちなだけだが。


「俺、留美くんとは仲良くなれそうな気がするよ」と、人懐っこい笑みを崩さないまま光明は言った。「男同士、うまくやっていきたいね」

 光明の言ったことは、別にそんなにおかしいことじゃない、とは思う。

 同じ場所に居合わせた同性同士、友好的な態度を取ってくれているのだろうし。

 見るからに社交的っぽい雰囲気……この人はこうやって、初対面でもすぐに仲良くできるし、今までもそうしてきたんだろう。

 ただ俺は、さっきまで抱いていた疑念めいた思考とか、光明の漂わせる俺がどうやっても出せないような愛想の良さとか、そういうものがいろいろ気にかかって、素直にその手を取りたくない気分だった。



「あら、光明。用事は済んだのかしら?」

 と、そこで、廃車両の扉が開き、車内からフジノがそんなことを言いながら出てきた。

「あぁ、突然悪かったね。ちょっと今日ヤボ用があったんで、キャンセルの連絡を入れてた」

「私たちの冒険に加わるために?それは良い心掛けだわ。見ていなさい。すぐにその判断が正解であったのだと、身をもって教えてあげる」

「期待してるよ」

 ついてくると言ったのは光明の方からだが、それで予定を変更させといてそこまで言えるフジノの豪胆さは、相変わらず強気というかなんというか、だった。


「それじゃあ、光明も戻ってきたことだし、出かけるわ。留美も、準備は良いわね?」

「あぁ……。って、ことは――」


「ええ。第一の謎が、今、解き明かされたわ」

 古文書のような紙切れ――暗号文を手に、フジノはそう告げた。


 自信に満ちたその瞳は、今日も星のように輝いている。




     ― ―




 北風吹きすさぶ寒空の下、俺たちは廃工場の敷地内の一角にやって来た。

 眼の前には一軒の家のようなものが建っている。

 古めかしいレンガの壁にはところどころに木々や蔦が生い茂り、年月の経過を感じさせる。

 町中にあれば違和感のない大きさの家一軒がここではものすごく小さく見える。

 北区の高層ビルより高い施設やら、街のように広い居住区やらがあるせいなのか、廃工場ではどうにも普通の遠近感が歪むような感じになる。

 その非日常感。冒険をしている感覚とはこういうものかもしれない。


「着いたわ。ここよ」

 建物の入口にて立ち止まり、赤い服の彼女が腕組みをしながら言う。

 冒険に際して、フジノはこういう間みたいなものを大事にしている。

 気の利いた一言もなしに、無粋に立ち入っていくような真似は決してしないのだ。

「ここは……?」

 それに合わせるわけじゃないけど、俺はそんな反応を返す。

 自分が描いた地図やら、前に高所から見下ろした時にされたフジノの説明なんかを回想しながら。

 ――この場所は、なんていう名前のダンジョンだったっけ……?

 確か――、

「そう、ここは私たちの前に立ちはだかる六つの魔城が一つ、“オモイカネ屋敷”。

 光明の入手してきた暗号が、私たちの進むべき道筋をここだと指し示したのよ」


 ――オモイカネ屋敷。

 フジノがそう名付けたことで、この場所はただの古びた建物から冒険の舞台に早変わりする。


思兼オモイカネ……、日本神話に出てくる、知恵を司る神様だね」と、光明が独り言のように口にした。

「そうなのか」

「うん。アマテラスの岩戸隠れの時に、彼女を外に出すために八百万の神に知恵を授けた、みたいな話が有名だよね」

「……よく知ってるな」

 すらすらと由来を語る光明の博識ぶりに、俺はちょっと驚く。

「……って、女神転生で言ってた」

「メガテン知識かよ!」

 思わずツッコミ。

 そういえば出てたかも知れないなという感覚とともに。

「ここに限らず、フジノちゃんがつけたダンジョンの名前は、世界中の神話の神様とかから取られてるみたいだね」

「……そう言われてみれば、そっか」

「6つのダンジョンそれぞれ、ルーツがひとつもかぶってないあたりに、妙なこだわりを感じるよねぇ」

「……」

 しみじみ言う光明を見て、俺はちょっと感心する。

 俺もフジノの言ってたダンジョンの名前を聞いて、「どっかで聞いたことある名前だな」ぐらいのことは思っていたが、ここまでのことを考えたりはしていなかった。

 ただ聞き知っているのと、知識として語れるのとは、ぜんぜん違う、と思う。

 こういうのに触れる度に、話ができるまで知ろうとするっていうだけの探究心みたいなのって、俺には、ないような気がするな……。

 ――いやま、フジノがそういうの求めてるかっつーと、ちょっと違うような気もするけど……。

 ゲームのキャラは登場する名前の元ネタとか由来にツッコミを入れるなんてメタっぽいことはしたりしないのだし。

 けど……、俺がもしそういう知識を得て、わかっていると知ったら、フジノは喜んでくれるような気がした。

 ……なんだろう。

 この、ちょっと先を行かれた、悔しさのような感覚は。



「フジノ、あの暗号からここに鍵があるって解読できたのか?」

「ええ。説明するわ」

 俺が話を振ると、フジノは待ってましたとばかりに暗号文の書かれた紙を取り出して、俺たちに示す。

 俺たち三人はフジノを囲むようにしながら、説明を聞こうと暗号文を覗き込んだ。



(文頭に、瞳の形をした時計のような記号がある)


舞台 は七人の視線の先、赤 煉瓦 の建造物。

過去 と未来を映す匣に第一 の鍵 を隠した。

時の 移りと共に・変化しう る光 明の軌跡を

見つ めよ。十六の瞳から吹 き出 す灼熱の炎

が草 木を焼き払い、暗きギ ンヌ ンガ・ガッ

プの裂け目が真実を飲み込む。暗闇 の只中で、

汝は新たなる答えを見つけ出せるの だろうか。



「ここを見て」

 フジノが指差す場所――文章の始まる手前の部分に描かれた、時計のような、瞳のような、奇妙なマーク。

「この時計の形をした瞳が、解読の鍵ね。文頭にこれがあるということは、この文章においては“目”に関する言葉が、“時計”や“時間”を示すものと推理できるわ」

 言われて見てみると、文章内に“視線”だとか“見つめる”だとか、そんな言葉が目につく。

「最初の一文にある、“七人に視線の先”は“七時の方向の先”という意味だと読み解けないかしら? 廃工場全体を時計に見立ててみると、どう? 七時の方向には何があるかしら?」

 地図を描いた俺にはここにはなくても廃工場全体の配置が想像できる。

 七時――中央から見て真下からやや左寄りの方角には……、

「ちょうど、この建物の辺りが七時になるな……」

「そう。七時の方向にある“赤煉瓦の建物”は、これしかないわ」

「なるほど……」

 俺だけでなく、亜美香や光明にとっても、異論を挟む余地はないようだった。


「というわけで、今日の冒険はこのオモイカネ屋敷の謎を解き明かすわ。

 ――題して、“シークレット・リアクション”。刮目しなさい、私たちの冒険の軌跡を」


 今までと少しだけ違う決め台詞を口にして、冒険の開始が宣言された。

 いつも言ってた例の台詞をここにきて変えてきたことについて、俺は少しだけ「あれ?」と思った。

 けど、“アニメのオープニングが二期に入って変わった”みたいなものとして、すぐに納得した。

 服が変わったから台詞もちょっと変えてきた。

 おそらく、そういう演出か何かだろう、と。




     ― ―




 ――今井光明は、冒険に憧れていたんだと思う。


 他人事のような言い方になるのは、自分が現在得ている感覚が、どうにも非現実的で、実感を伴っていない感じがするからだ。

 それは、俺という人間が得てしまった熱しにくい気質もそうだけど、この廃工場という非日常的な空間だとか、フジノという女の子の持つ独特の雰囲気とかが、どうも現実離れした感じだから、ちょっと戸惑っている部分もあるんだと思う。


 だというのに、改めてそんなことを思うのは、俺がそんなぼんやりした感覚ながらも、現在置かれているこの状況を“楽しい”と感じていることは間違いなさそうだからだ。


 楽しいな。冒険。

 俺はずっと昔から、こういうことをしてみたかったんだ。


 ――こういう、鮮烈な刺激のようなものを、ずっと求めていたんだ。



 フジノたち一行プラス俺の四人は、“オモイカネ屋敷”――フジノがそう呼んだ建物内に入り込む。

 入り口はあらかじめ用意してあったかのように施錠もされていない無警戒な有様で、俺たちは何の苦労もなく侵入に成功した。

 あれだけ大見得切っておきながら、「鍵が閉まってて入れませんでした」ではズッコケ展開もいいところだけど、なんだかあらかじめ開けてあったようにも思えてならない。

 ……とはいえ、この子たちなら、鍵の一つぐらい躊躇なく壊してしまいそうなのだけど。


「カビくせえな」

「長い間、ここに誰も立ち入っていない証拠だわ」

 楽しげに喋りながら、彼女たちは奥へと進んでいく。

 この子たちは、口にする言葉とかがいかにも自然で、それは思ったように喋っているだけでしかなく、出来の悪い素人演劇とかTRPGみたいに、なりきって台詞を言ってる雰囲気じゃない。そういう、ごっこ遊びみたいな感じが全然しないところがすごく良い。

 俺はそんなどうでもいい感想を抱きながら、最後尾をついていく。

 彼女たちの中の位置づけは知らないけど、俺は自分の今の立場は、正式に仲間にしてもらったというより、ついて行かせてもらってるような身分だと考えている。

 なので、先陣切って歩いていくようなことはせず、今回は後ろから彼女たちの冒険を眺めて楽しもうと決めていた。


「えっと、ここが、こうで……」

 すると、ずいずい奥に進んでいこうとする女の子二人と対照的に、唯一の男子――河野留美が立ち止まって、何かをしていた。

「留美くんは何してるの?」

「ん?」と俺の問いかけに振り返った彼が手にしているのは、ノートとペンだ。「マッピングだよ。この建物がどういう構造してんのか、描いておくんだ」

 見れば、ノートには不動産のチラシによくある家の間取りのような絵が描き始められているところだった。

 入って早々いきなりそんなことをしだすなんて、普通そうに見えて結構冒険慣れしてるな、この子も。

 他二人と比べて明らかに地味だが、彼に対して俺は密かに好印象を持つ。


「なるほど。ダンジョン攻略を陰ながらサポートするレンジャー的な役目なのか君は」

「そ、そんな大したもんじゃないけどな……! マップ作るようになったのは最近からだし……、」

 褒めたつもりはなかったけれど、彼はちょっと照れたような素振りを見せた。

 それは、なんだか役割があること自体を嬉しがってるみたいにも見える。


 ……ファンタジーにおける冒険者のパーティにはそれぞれ何らかの役割が必要だ。

 戦闘を担当する戦士や魔法使いだけでなく、持ち前の技能や知識で冒険の環境を整備するレンジャーやアイテム使いだとか、結構多岐にわたる感じだ。

 ロープレだとかだとその辺は大概適当だけど、小説とか漫画とか、ちゃんと描写が成される作品であればあるほど、その分担ははっきりさせておかれることが望ましい。

 ――そうすると俺も何らかのジョブに就かないといけないことになるね。

 前を歩く女子二人の戦闘力は結構高そうだし、俺もサポート系の職業に収まっとくのが無難そうなパーティ編成ではあるな。

 ……なんてね。



 建物内は、一般的な家というより団地とかの集会所のような感じで、生活感と仕事場感が同居するような、どこかちぐはぐな雰囲気を漂わせていた。

 入り口には靴をぬぐような場所はないままタイル張りの廊下が続いていて、薄暗い廊下に置かれた用具にも、家にあるものというより会社や学校を思わせる事務用品ぽい風合いがある。

 壁には掲示板なんかがあったりして、業務に関する連絡事項だとか、なんだか不穏な感じのチラシから、いろいろなものがベタベタと乱雑に貼ったままにされていた。

 ――“雇用改善”だとか“賃金引き上げ”だとか……なんか労組関係の建物っぽいな、ここ。

 居住区まで用意された大規模な職場だったのだろうから、そういうものがあるのも、まあ、おかしくはないのだろう。



 廊下は突き当たって左に折れ、奥へと続く。

 途中に事務室のような小部屋が一つあり、フジノたちはとりあえずそこに入った。

 マッピングをしながら留美がその後を追い、俺が更に後に続く。


「暗号文の一行目がこの建物を示していることはわかったわ。二行目以降が、鍵の在り処を示しているはずよ」

「“過去と未来を映す匣”……なんのことだ?」

「ふむ……」

 暗号を見ながらフジノと亜美香が思考する。

 俺はそんな様子を尻目に室内を見回していると、あるものが目に入る。


「あれのことじゃないかな?」

 俺が声に出して一点を指差すと、全員の視線がそちらへ向いた。

 その先には、古ぼけたブラウン管テレビが設置されている。

「テレビ?」と困惑気味に留美が言うが、フジノはぽんと手を合わせて得心がいった気配。

「確かに、テレビは過去も未来も番組の中で映し出すわ」

「未来を映す番組なんてあるか?」

「天気予報は未来の話でしょう」

「まぁ、そうか……」

 なんとなくついてけてない雰囲気ながらも納得したらしい留美。

 フジノは俺に確認するみたいな視線を送ってくるので、俺は「そうそう、そんな感じ」と同意を示しておく。

「鋭いのね、光明。私よりも先にその推理に行き着くなんて」

「いやいやそれほどでもないよ。それより、このテレビの中に鍵が隠されているってことなのかな?」

 置かれたテレビは普通のテレビでしかなく、宝箱のように小気味よくパカンと開いたりする仕組みではなさそうだ。

 そうすると中を見るには分解するか破壊するしかないことになるわけだけど……。


「分解してみるか?でもそんな工具なんて今回持ってきてないし……」

「ぶっ壊すのに道具なんかいらねえだろ。あたしの出番ってことだな!」

 留美の言葉に割り込むようにして、亜美香が身を乗り出してきた。

 そうして、亜美香はそのままテレビを抱えて持ち上げ、手近な壁にめがけて乱暴に投げつけた。

 あまりにも唐突に呆気にとられる暇もなく、鳴り響く“ガシャーン!”という破壊音。ひしゃげる機体、飛び散る破片。

 予想の追いつかない展開に俺だけでなく留美もびっくりしたようで、「うわ!」と声を発して驚いている。「い、いきなりぶん投げるヤツがあるかよ!」

「うるせえな!こんなもんはな、地面と壁がありゃ充分なんだよ」

 言いながら、既にグシャグシャになりかけているテレビを持ち上げ、床だの壁だのにガンガンと叩きつける亜美香。

 箱型の接着部が壊れて隙間が見えてくると、亜美香はそこから手を突っ込んで強引にこじ開け、中の基盤やら部品やらを次々と引きずり出していく。

 まるで動物の屠殺だ。力任せに解体される機械類、引き千切られるコード。

 あまりにも乱暴な方法だけど、それは大変効率的な破壊であって、ものの数分でテレビは原型がない程にバラバラに分解されていた。

 確かに、壊すのが目的なら方法なんて別になんでもいい。合理的ではある。


 ……しかし、改めてとんでもなく粗暴な子だな。

 廃墟となった工場に風情を感じる俺などからすれば、そこにあるモノをこんな躊躇なく破壊してしまうことはできない。

 それは愛すべき風景を、自分の手で歪める行為なわけだから。

 実際、テレビがガンガン壊されていくのを目の当たりにして「ああ、もったいないなあ」と哀しい気分がちょっとだけ湧いた。


 破壊とは、非常に強い干渉だ。大抵の人間はそれを行う影響の大きさも、変質がもたらす自分含めた周囲へのストレスも理解しているから、積極的にはやらない。やるにしても背徳的な感覚や、致し方ないといった覚悟がつきまとう。

 仮にそれをためらわずやれてしまうとしたら、その人物は未成熟でそういう理解が及んでいない子供であるか、その影響力すら飲み込んでしまえるほど肝が据わっているかのどっちかだ。

 俺はどっちでもないのでやらないが、亜美香はまさしくそんなタイプに見える。

 破壊すら厭わぬ豪胆さの中に、破壊さえ躊躇なく行う純粋無垢な部分があるかのよう。


 ――にしても、テレビが一個潰れた程度じゃ廃墟の風情なんて変わるもんじゃないな。悲しむほどでもなかったか。

 元々が破壊され、汚されているものだから、そこに一つ破壊が加わった程度じゃ何も印象は特に変わらなかった。

 ――それにいちいちこだわるのは安い感傷でしかないのかもしれないな。

 そう瞬時に割り切れてしまうのは、俺が抱く愛の薄さ故だろうか?



「何も出てこねえな」

 無残なスクラップの小山となったテレビの残骸をガシャガシャかき分けてみるが、特殊なものは発見できない。

「……亜美香が一緒に壊しちゃって区別がつかないとかないよな?」

「んなバカなことするかよ。そうなんねえように気ィ使ってぶっ壊してんだからよ」

 嬉々としてテレビを破壊する彼女は気を使っているとはとても思えない感じだったけどなあ……。

 しかし、四人で丁寧に検分してみてもテレビの部品以外のものは何も見当たらない。

「別のテレビのことかもしれないわ。他の場所も見てみましょう」

 フジノの一声で、俺たちはひとまず作業を中断し、別の部屋を見て回ってみることに決めるのだった。



 事務室を出て、更に廊下の奥へと進んでいくと、突き当りに二階へ上る階段が現れる。

 階段を上った先の廊下には左右にそれぞれ引き戸があり、開いてみればそこはどちらも畳張りの和室。向かい合って一つずつ大部屋があるような構造ということになる。

 しかし、室内には押入れも含めてほとんど何もない。

 雨戸が壊れて開かなかったり、畳が湿気って腐っていたりはしたが、当座の目的物たるテレビはおろか、手がかりになりそうなものすら見当たらなかった。

 ……これでこの建物の中はひと通り見て回ったことになるわけだけど……。


「テレビ、ないな」

「そうね。しかも、これで建物内はひと通り回ってしまったわ」

「うーん……」

 早くも手詰まりになってきた感じの空気。

 俺たちは暗号文の文面やら、留美が描いた建物内のマップやらを眺めたりしてみる。


「おかしくねえか?」と不意に亜美香が声を発した。「河野が描いた地図だと二階には畳の部屋が二つあることになってっけど、一階のこの部分には何もないことになってんぞ?」

 亜美香の指摘は、二階には部屋が二つあるのに、一階には一部屋しかないのはおかしい、というものだった。

 留美が左右に並べて描いた一階二階のフロアマップは、どう見ても二階の方が大きい。

 縮尺が多少おかしいにしても、明らかに一階にあるべき部屋がない雰囲気だ。

「河野、この地図ちゃんと合ってんだろうな?」

「へ、変な言いがかりつけんなよ。見てきたとおり描いてるだけだよ」

「だったらこっちの和室の下には何があんだよ?部屋一個分ぐらいのでかさはあるぜ?」

「知らねぇよそんなの。階段の脇は壁で、入り口なんかなかっただろ」

 あれこれ言い合いをしている二人だったが、同行してきた俺には、どっちの意見も最もな感じがした。

 留美が言うように、部屋や扉を見落としたってことはなさそうだけど、亜美香が言うように不自然な空間を感じるのもまた事実。

「……隠し部屋って感じかな?」

 俺がそう言うと、二人は揃って「それだ!」とハモる。

 仲が良いんだか悪いんだかよくわからない二人だ。


「階段の横の壁をぶっ壊せばいい感じか?」

「まぁ、別にそれでもいいんだろうけど……それって最早謎解きでもなんでもないよね?」

「そっか、暗号文があんだからそれ見て考えるべきだよな」

 亜美香は俺の言葉を受けて素直にそのようなことを言った。乱暴なだけかと思いきや、意外とちゃんと思考できる子ではあるらしい。

「続く文章は“時の移りと共に変化しうる光明の軌跡を見つめよ”とあるわ」

「“見つめる”って、“目”に関する単語があるから“時間”にからめて考えるべきだよな」

「なあ、これは光明こうみょうって読むんだよな?」

「普通はそうだけれど、光明みつあきかもしれないわよ?」

「いやいや、そこで俺の名前が出てくるわけないでしょ……」

 俺以外の三人が暗号文を見ながら意見を交わし合っている。

 その中に混ざってもいいけど、自分なりに考えを持ってから発言すべきであると思った俺は、ひとまず一人で考えてみることにした。



 “時の移りと共に変化しうる光明の軌跡”――時間の経過で変わる光……単純に考えて太陽光のことじゃないかと思われる。“軌跡”と言うからには、光そのものというより、その光が辿る場所……日の当たる位置とかがポイントっぽいな。

 今いる畳の部屋はちょうど日が差している。最初に立ち寄った事務室にも時間帯によっては多少なら日は差すかもしれないが、一番日当たりの良い部屋というなら南向きのここになるだろう。

 ――時間……か。

 日照の話ならば時間は重要な問題になる。一口に日の当たる場所、と言ったってそれが何時の話なのかによるからだ。

 フジノたちは“目”に関する単語は“時間”と関係があるみたいなこと言ってたけど、その考えは持っとくべきだろうな。

 ちょっと判断がつかないし、次の文章も見てみようか。


 “十六の瞳から吹き出す灼熱の炎が草木を焼き払い”。

 また“瞳”だ。ってことはこれも時間の話か?十六……、十六時?

 ――なるほど。

 俺は腕時計を見る。

 期せずして、時間はそろそろ午後四時といったところだった。

 部屋を見渡すと、差し込んだ日光が、ちょうど部屋の一点を照らしている箇所がある。

 草木を焼き払う――草木は畳として、実際に焼いたら火事になっちゃうから、単純に日の当たる場所の畳をどけろって意味だと考えるべきだろう。

 ――十六時に差し込む太陽の光が当たる場所の畳をどけた下に、何かがある。


「ふむ……」

 この辺にしとくか。

 ……全部俺が考えちゃってもだしな。




「――という感じでどうだろう?」

 と、俺はひとまず思いついた自説を三人に披露してみた。

 三人はしばし考え込むような素振りを見せた後、三者三様の反応を示す。

 フジノは「やるわね」と余裕ありげに笑んでみせ、亜美香は「へー、すげーじゃん」と面白がっていた。

 反面、留美は「……」と無言で、ちょっと悔しそうな雰囲気を滲ませている。フジノたちの前で活躍したかったのに、俺がそれを奪ってしまったから面白くない、って雰囲気。

 わかりやすい反応をする子だ。面白い。からかいがいがありそうだ。

 けど、留美の反応を見て、「あー、やっぱ俺が解答しちゃうべきじゃなかったかな?」とも思えて、俺はちょっとだけ申し訳ない気分にさせられた。

 宝探しゲームはやりだすと思った以上に楽しく、自分でも予想外なほど真剣に考えてしまっていた。年長者として大人気ない振る舞いだと言われても仕方がない。

 でも、別にいいんじゃないのかな?

 廃墟の探検だけでも楽しいってのに、暗号文付きの宝探しなんて楽しくないわけがないのだから。


 この廃工場は楽しい。

 この子たち――特にフジノは、楽しい。

 俺が久しく感じていない、鮮烈な刺激そのものだ。


 叶うなら毎日だってここに来て、彼女の冒険を眺めていたいとさえ思わせる。

 まして自分がその中に加われるとしたら。

 考えただけでわくわくする。

 この子たちは高校生ぐらいで、俺は更に歳上の大学生で、大人一歩手前の奴等が雁首揃えて何やってんだ?って言われそうだけど、ここにはそんな世間体を指摘してくるような連中すらいない。


 俺が普段、日常生活で取り繕ってる部分。

 人間関係。社会性。社交性。

 人好きのする笑みを浮かべて、自分が無害だよって主張して回ってばかりいる俺の日常。

 その努力の成果で、俺は今の所、順風満帆な人生を送っていて、それは価値ある成功だと思っているけれど、

 同時にその程度の努力でどうにかなってしまう世の中の容易さみたいなものに、がっかりしてしまう気持ちが俺の中には常にある。


 人付き合いの努力。その無意味さ。無価値な成果。

 それを理解し、でもそうする以外の生き方なんてないと諦め、漫然と“良い人”をこなすだけになっている今井光明が、それを捨て去った上で没入できる世界があると知って、無関心でいられるか?

 ――いられるわけがない。


 俺は、ようやく自分が心から楽しめる場所を、見つけてしまったのかもしれないな。


 廃工場の冒険。

 冒険する少女、フジノ。



 ああ、それと比べて俺の日常ときたらなんて退屈でつまらないし、いま付き合ってる恋人の晴香とか今日のバレンタインがどうのこうの言ってて普通すぎて全然そそらないし、大事にする価値とかあんのかと本気で思っちゃうよね。

 ……まぁ、さすがに一生この子たちと廃工場で冒険してるわけにもいかないから、そんな一気に全部捨てたりはしないけどさ。

 ――晴香への断り方も、ちょっといい加減だったしな……。

 帰りに寄ってあげるか。それで機嫌直るだろうし。

 うんうん。




「あった、これが“暗きギンヌンガ・ガップの裂け目”――隠し部屋の入り口だ!」

「畳の下が入り口とはなー、気づかなかったぜー」

 って、のんきに考え事してる間に謎解きは進んでってしまっていた。

 いけないいけない。

 今はこの空間にいられることを、もっと純粋に楽しもう。


 自分のあり方について考えを巡らすのなんて、帰り道に一人ですればいい。




     ― ―




 畳の下の隠し部屋は、亜美香が指摘した“もうひと部屋ありそうな空間”が広がっていた。

 そこは本来ならば一階の階段の脇にある普通の部屋だったようだが、どういう理由かドアごと埋め立てられて封印されている感じだった。

 ドアがあった場所――階段の脇の壁をよく見ると他とは色が不自然に異なっており、コンクリートか何かで上塗りして隠してあることが見て取れた。


 ――部屋の存在ごと抹消しちゃうなんて、よっぽどの事情があったんだな。事件か、事故か……、ヤバイ感じがするねぇ……。

 ここ、労組関係の施設なんだよな……、スト、抗議……運動、闘争……。

 どうもアレっぽいイメージっていうか、ここが稼働してた時代が時代なだけに不穏なものを感じさせる。

 内ゲバ発生からの部屋ごと証拠隠滅とか?

 考えすぎか。怖い怖い。



 そんなわけで、隠し部屋への潜入に成功した俺たちはそこで二台目のテレビを発見し、例によって亜美香がそれを破壊するものの相変わらず目的の鍵は発見に至らない。

 だが、テレビの中にはヒントらしき紙切れが入っていた。

 書かれた内容は“太陽の黒点を見つめよ”と一文だけ。

 ハズレではあったのだろうが、テレビの中にそんなメモが元々入っていたわけもないので、“テレビを見つけてソレを開ける”という発想自体は間違ってなさそうだ。

 ――“太陽の黒点”。黒点――、黒い、点……?


 新たなヒントを交えてフジノと留美が暗号の内容を考えている間、俺は建物の資材庫から縄ばしごを見つけてきて、勢い勇んで隠し部屋に飛び込んだはいいが出られなくなった亜美香を救出することに成功する。

 俺たちは四人組で、部屋に入ったのも亜美香一人だったからよかったけど、これが単独だったり、四人揃って隠し部屋に入ってしまっていたりしたら、脱出の方法が失われてしまうところだった。

 まぁ、そういうトラブルがあったりしたほうが、本物の冒険っぽいのだろうが。


「とにかく、無事に脱出できて良かったわ亜美香」

「心配することじゃねえよ。最悪、建物ごとぶっ壊しちまえば外に出れるさ」

 俺が縄ばしごを見つけてこなかったら亜美香は壁を壊し始めるつもりでいたようだ。

 それに対してフジノも「まあ、亜美香ったら」とか言って普通の反応しかしてないあたり、つくづく常識が通じない子たちだな、と思う。


「さて、それじゃあ鍵の在り処まで行きましょう」と告げるフジノ。「謎は、全て解けたわ」

「え?ホントに?すげーじゃんフジノ。名探偵だな」

「ふふ、その賞賛は鍵が見つかったところで改めて頂戴するわ亜美香。それじゃあ、まだ正解がわからない留美と亜美香のために解説してあげましょう」



舞台 は七人の視線の先、赤 煉瓦 の建造物。

過去 と未来を映す匣に第一 の鍵 を隠した。

時の 移りと共に・変化しう る光 明の軌跡を

見つ めよ。十六の瞳から吹 き出 す灼熱の炎

が草 木を焼き払い、暗きギ ンヌ ンガ・ガッ

プの裂け目が真実を飲み込む。暗闇 の只中で、

汝は新たなる答えを見つけ出せるの だろうか。



 この暗号文は文章そのものが地図になっており、合間にある妙な隙間が壁を表している。文章の左上が入り口、右側が隠し部屋といった具合に、だ。

 そして、追加のメモにあった“太陽の黒点”――文中にある二つの点が、俺たちが探すべきテレビの位置を示している。

 右側の点は隠し部屋のテレビを示しているので、鍵の在り処は左側の点ということになるのだが……、ここは最初に入った事務室で、そこに置かれた亜美香が粉砕しても何も出てこなかったはずだ。

 しかし、ここで諦めてはいけない。“太陽の黒点を見つめよ”――つまり太陽を見なくてはならない。この地図上でありながら太陽が見られる場所、つまり屋上だ。

 ……と、まぁ、フジノの解説を要約するとこんなところだ。



 そうして俺たちはフジノに導かれて屋外に出て、外壁のパイプや窓を伝って屋根の上に登ると、そこには確かにひっそりとテレビが放置されていた。

 家の屋根の上にテレビが置かれていたらすぐおかしさに気づくだろうが、下からは微妙に見えない、絶妙な位置にさりげなくそれは置いてあった。

 建物内にあったものと同時代の機種らしきそれは、雨ざらしになり、ボロボロに朽ちている。

 故に亜美香が解体ショーを披露するまでもなく、今度は簡単に開くことができ、テレビの中には奇妙なデザインをした鍵が一本、待ち受けるようにして収められていた。

「見て」と、嬉しげな表情をしたフジノが鍵を取り上げる。「――私たち、辿り着いたみたい」


 この建物のかつての利用者がこんなところにテレビをわざわざ運ぶわけがないので、これは鍵を隠して、暗号文を作成した者が設置したということだろう。

 そもそもからしてテレビを宝箱か何かに見立てて中にモノを隠したり、埋め立てられて封印された隠し部屋の天井をぶち抜いて抜け道を作ったり、随分と手が込んでいる。


 ただまぁ、俺が感じるのは、そいつの行動の不可解さなんかより、楽しい舞台を提供しようっていうエンターテイナー的な気質に対する好感のほうが勝る。

 そいつのおかげで、俺たちはこうして楽しく冒険をしたりできているのだし。

 一体何を考えてこんな暇な遊びを考えたのかなんて、興味ないしどうでもよかった。


 名前も目的も知らない何処かの誰かよ、ありがとう。

 あなたの凝った暇潰しのおかげで、俺こと今井光明は、久しぶりに真剣に、この遊びに取り組んでやろうって考えているよ。


 俺は、見てみたい。

 フジノが、彼女たちが、どんな冒険をしていくのかを。


 そして、その冒険がいつか終わる時、どんな風にしてそれを迎えるのかを。

 その結末は、果たして――劇的か? 喜劇的か?悲劇的か?

 いや、別になんだっていい。

 なんだって、刺激的なことは間違いなさそうなのだ。


 だから、俺は、見ていたい。


 ……できるだけ近くで、見ていたい――――。




     ― ―




 予想の上を行く仕掛けをどうにか解き明かして、俺たち四人は無事に鍵を発見し、廃車両に戻ってきていた。

 ――まさか屋根の上にテレビが置かれていて、その中に鍵があるなんて。

 暗号を解いて、目的の鍵を遂に見つけられた。

 そのことは素直に嬉しい。

 嬉しいが――、


 ――やっぱりちょっと、出来すぎじゃねぇか……?

 いよいよ鍵を見つけても、俺はその違和感を捨てきれない。

 素直に喜べない。

 フジノも、亜美香も、光明も、どうして無関心でいられるのかが、わからない。

 わからないし、それに……、



「今回の冒険は大成功だったわ。みんな、おつかれさま」

 廃車両に戻ってきて、フジノは俺たちの労をねぎらう。

 ようやく一つ目の鍵を見つけたとあって、表情は明るく、見るからに上機嫌だ。

「“創世神の塔”の扉を開く真実の鍵を見つけ出すことができたわ。これは私たちの冒険において、本当に大きな一歩と呼んでいいでしょうね」

「よかったな。フジノ!あたしも嬉しいよ!」

「ええ。亜美香のおかげよ。あなたの行動力、頼もしくて素敵だったわ」

「え、えへへ。そうかなあ?そりゃよかったけどさー」

 フジノに褒められて、亜美香がデレデレした。

 けど、俺が見ているのに気づいたのか、すぐにハッとして普段の表情に戻る。


「今回の大成功は、光明が素敵な暗号文を手に入れてきてくれたおかげだわ」

「……俺?」

 突然指名を受けて、光明が一瞬だけ戸惑った様子を見せたが、すぐにいつものにこやかな表情に戻って、調子を合わせた。

「俺はたまたまあの場所にいて、やって来た子から暗号文を受け取っただけだよ」

「ふふ、謙遜して。冒険者の資格は充分といったところかしら?」

「よくわかんないけど」

「今回の冒険でも、あなたの功績は大きかった。その能力を見込んで、私たちの冒険の仲間に是非とも加わってもらいたいわ」

「そう?それは嬉しいねぇ」

 笑いながら、楽しげに応じる光明。フジノのペースに面食らう様子は全然ない。


「留美も、亜美香も、光明を仲間に加える、ということで異論はないかしら?」

「別にいいけど、こいつとは決闘したりしねーの?」

「あら、そんな必要ないんじゃないかしら?光明はあなたと違って友好的だわ。敵対してこない相手に決闘を挑むほど、私は好戦的ではなくってよ」

「ちぇ、どうせあたしは好戦的ですよーっと」

「……決闘ってなんだろ?無視していいのかな?俺……」


「……」

 俺はそんなやり取りを見ながら、考えを巡らせる。

 光明は暗号文を、“ブー子”とかいう見知らぬ相手から受け取ったと話していた。

 ――“ブー子”、一体何者だ?

 俺たちのことを知ってるみたいな感じだったけど、フジノの知り合いか何かってことなんだろうか?

 ……だとすると、なんで直接渡しに来ない?

 俺とかに見られて困るようなことでもあるのか?

「……、……」

 姿の見えない、フジノの知人……、


「……なぁ、フジノ」

「なぁに?」



「――フジノって、俺の他に友達いるの?」


 と、俺はスルーしきれない疑問を晴らすべく、そんな質問を投げかけた。

 話の流れなんてすべて無視しての質問だったけど、気にしてられなかった。

 ――俺が感じたこの怪しさは、見過ごしちゃいけない類のモノだと思うんだ……。

 フジノが、俺たちの冒険が、まだ気づけてない危険に晒されてるんだとしたら、俺は……、


「突然どうしたの?留美。あなたが何を聞きたいのか、私にはちょっとよくわからないわ」

「いや、ごめん。ええとさ……」


 ……この場の俺たち以外にも、この冒険に関わっている人間が他にいるのか?

 いたとしたら、なんでそいつは俺たちの前に出てこない?

 そういう意味での質問だったのだが――、


「いつだってフジノの一番は俺だけ~、ってか? なんでんなクソどーでもいい話を今ここですんだよ?んな話してねえだろうが」

 質問の意図を履き違えた亜美香がつっかかってくる。

 鼻歌みたいなからかい混じりの口調から一転、後半は彼女が時折見せる苛立たしげな口調が滲んでいる。

「そ、そういう意味じゃねぇよ! ただ、ちょっと気になることがあって――」

「気になることがあんならそれをそのまま言えよ。まだるっこしいんだよ、てめえの話は。言いてえことがわかんなくてイライラすんだろ」

「し、知らねぇよそんなの。だいたい、俺はおまえじゃなくてフジノに喋って――」



「――あたしにわからねえような言い方してるみてえでムカつくって言ってんだ!」



「っ――!」

 俺の言葉を遮って放たれた亜美香の怒声に、俺は言葉を詰まらせた。

 いつもならどうにか返せていた言葉も、ツッコミも、すべからく怯ませ、霧散させるほどの怒気。

 それが今、他ならぬ俺に、向けられている――。


「河野、あたしはあんたたちの仲間になったんだよ。あたしは正直言ってあんたみてえな青瓢箪野郎は好きじゃねえし、仮に同じクラスになったって口も利かねえようなタイプだって思ってるけど、仲間になったからには好きになる努力をしてやろうって思ってやってんだ。あんたのことがよくわかんねえから、いろいろ見たり聞いたりして理解してやろうって思ってやってんだ。

 だってのに、なんなんだよてめえのわけわかんねえ態度はよ? 冒険には行かねえとか駄々こねやがるし、いざ来てみりゃくだらねえことばっかり言いやがるし。あたし飛び越してフジノとだけ会話しようとする意味はなんだ?あたしとそんなに喋りたくねえか? え?どうなんだよコラ!?」

「そんなつもり、ねぇよ……、ただ俺は――」

「てめえがそんなだと、こっちがせっかく仲良くしようって思ってんのに、どんどんそんな気も失せてくんだよ!バカバカしくてやってられねえだろ!」

「……いや、それは――、」

 言葉が、上手く返せない。

 亜美香の言葉を否定したい。訂正したい。言われっぱなしで悔しさもある。

 でも、なにも出てこない。

 それが余計に悔しくて、ムカついて、顔とか胸がカーっと熱くなってくる。


「何泣きそうになってんだよこの雑魚!男のくせに女に言われっぱなしで手も足も出ねえか? ちゃんと喋れよ!拳だけじゃなくて口でも喧嘩できねェのか?んなお坊ちゃんがなんでこんなとこいんだよ!? そういうとこだろうが!」

 亜美香の罵声は続く。

 てゆうか、なんで俺がここまでこっぴどく言われなきゃいけないんだ?なんか悪いことしたか?なんもしてないだろ。

 それどころか、コイツは俺の地図を台無しにして、そのことを謝りもしないで、俺の立ち振舞を批判するようなことばっかり言いやがって――、



「――――フジノの隣譲りたくなくって必死か?

 そんなにあたしや光明コイツにフジノ取られたくねえか? 自分の立場なくなってきてんの察して焦ってんだろ? どうなんだよ河野留美!?」


「っ、おまえッ――!?」

 内心を見抜かれたような物言いに、俺も思わず声を荒げる。

 亜美香はそんな俺の反応を見て、嘲るように鼻で笑った。


「おーおー、図星突かれてようやく喋ったな。だったら不貞腐ったりしてねえで最初っからそう言ってりゃいいんだ。女々しすぎて反吐が出んだよ!」

「――ッ!」

 ……勝手なことを言うな、と思った。

 おまえが俺の何を知ってるんだ、と思った。


「違いねえだろ?てめえはいつだってダンマリで、なんか言いたげにウジウジあたしら見てるだけだからな。なんであたしがてめえのソレに付き合って、気持ち汲んでやんなきゃならねえんだ? 世界中の人間が全部てめえのママだと思ってんじゃねえぞ!」

「そんな――!」

 ……そんな甘ったれ呼ばわりするな、と思った。

 馬鹿にするのもいい加減にしろ、と思った。


「んだその目は?言いたいことあんならちったあ喋れよ!わかるかよそれで!フジノ相手だと出てくる得意の能書きをあたしにも垂れろ!

 それとも何か?会ったばっかでどこまで喋っていいかわかんねえとでも言うつもりかコラ? こっちはそういう遠慮がムカつくって言ってんだ!あたしがいつあんたにそういうお伺いみてえな態度取った?いつあんたに気を使うようなこと言った? そういうめんどくせえのすっ飛ばしてさっさと本音ぶつけあって仲良くなろうっつってんのになんでてめえはやらねえんだよ!?」

「……」

 そう、思うだけなら簡単なんだ。

 けど、俺はこいつの言うように口喧嘩すらまともにしたことがない。

 そんな俺が亜美香ほどのヤツの怒りを正面から叩きつけられたって、体より先に心が竦んで、怯えて、何も言い返せやしなかった。


 けど、それだけじゃない。

 俺を黙らせたのは恐怖だけじゃなかった。


 亜美香の言ったとおりなのだ。

 俺は、この廃車両の冒険が、自分とフジノだけで楽しんでいたものから少しずつ変わってきているのが嫌だった。

 ――亜美香と光明に、フジノが取られてしまいそうなのが嫌だったんだ。

 ――――フジノが俺“だけ”に構ってくれないのが寂しかったんだ……!


 それが、ここ最近ずっと、俺がイライラしていた原因の正体。

 けど俺はその理由があまりにもダサくてお粗末だったから、それに気づかないフリをして、認めようとしなかった。

 それで、色々と他の理由をごちゃごちゃこねて、亜美香の言動や、フジノの対応にまで批判的な思考ばかり繰り返していた。

 けどそれも本質的なところじゃないから、結局答えは出ないままで、俺は言葉にも出さず、苛立って、モヤモヤして……、


 それが今、亜美香によって指摘され、露呈させられた。

 俺自身でさえ蓋をして見ないようにしていた思考が、ぶちまけられた。


 俺はそれが、悔しくて、恥ずかしくて、情けなくて、もうなんだかわけがわからなくて――、

 だってそうだろ?

 俺だってフジノの役に立ちたいし、フジノに喜んでもらいたかったさ。

 そうあれるように成長したかったさ。

 そこに、亜美香みたいな自分より強いヤツが現れて、光明みたいな自分より優れたヤツが現れて、自分がいかに非力で無能な一般人だと思い知ってしまった。

 こんな場所で冒険だなんて、自分如きがやってけるわけないんじゃないかと疑ってしまった。

 だから――、



「こんな頭のイカれたやつとなんて、そもそもやってけるわけなかったんだよ……」


 ――俺はそんな、完全に言ったら駄目なことを口走っていた。

 しかも直接言うでもなく、独り言のように捨て吐いて。


 そしてそんな俺の台詞を聞いた亜美香は、


「この、だから――ッ、言いてえことがあんならあたしの目を見てあたしに言えって、――何度あたしに言わせりゃ気が済むんだ、てめえはよォ!!」


 と、今日一番の怒声でもって吠えて、


 俺は次の瞬間、吹き飛ぶようにして後ろに倒されていた。

 何が起きているのかも理解できずに。


 衝撃と、痛みと、驚愕で、一瞬意識が飛びかけて、気が付いた後も頭がぐるぐるしっぱなし。

 空を見上げて倒れていて、遅れてやってくる鼻筋のずきずきとした痛みに喘ぎながらも、その理由や経緯がまるでわからない。

 けれど、やけに視界がぼんやりしていて、そういえばいつも鼻の上に乗っている眼鏡モノが、見たこともないおかしな形に歪んでいるところが目に入って、俺はやっと、自分が何をされてこうなったのかを理解した。



 ――俺は、亜美香に顔面をぶん殴られていた。

 鼻血が流れて止まらない程に強く、かけていた眼鏡がめちゃくちゃに壊れる程に強く。

 それほどの暴力を真っ向から喰らったのなんて、生まれてはじめての経験で、

 理解も納得もできない展開への混乱と恐怖に俺の頭脳はほとんど機能していなくて、


 でも、それだけの暴力に及ばせるほど、俺はこいつを怒らせたのだということだけは、かろうじて把握した。

 それはもう、救いようがないほどに。




「……ッ!」

 どういう判断が身体にそうさせたのか、俺は反射的によろよろと立ち上がってから、そのまま背を向けてその場から走り去った。

 眼鏡がないからよく見えなかったけれど、見ている暇すらないほど素早く。


「――留美っ」

 最後に、フジノが名前を呼んだような気がするが、応ずるだけの余裕は俺にはもうなかった。

 呼び止めにも応えず、後ろ髪すら引かれることなく。


 それは、出会って早々眼の前でわけのわからない喧嘩を繰り広げてしまった光明に対する羞恥心であり、

 それは、更なる暴力を加えてくるかもしれないという亜美香に対する恐怖心であり、


 殴り飛ばされた無様な俺をフジノにこれ以上見せたくない自尊心でもあり、


 こうする以外にもうどうしようもできない、無力な自分に対する惨めさでもあった。




 そんな、色々な、理由から、

 俺は今まで冒険をしてきた廃車両から、あっさり逃げだしていた。



 脇目も振らずに。痛みも忘れて。

 殴られた箇所から滴り落ちる血や、壊れて使い物にならなくなった眼鏡がぐらぐら揺れるのも気にしないで、ただ、ひたすらに、逃げていた。



 ……俺は、今まで当然のようにしてそこにいた。

 フジノと一緒に冒険する俺。廃車両で過ごしている俺。


 その“当然”に、僅かばかりの疑問を抱いて、俺は少しだけ考えを変えた。

 そうして、もっと成長しようと志してはみた。

 けど、俺が成長するよりも早く、その“当然”は、崩れ去ってしまって、

 そうなってしまった時、俺はもう、積み重ねてきた思いも、積み上げ始めた努力も、すべて放り捨てて、


 ……無様に、逃げ出すことしかできなかった。




 ――物語は、続行不能ゲームオーバーだ。




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