15.BBQ Riot Song
見慣れた道を歩き、見慣れたバス停にたどり着くと、見慣れた顔がそこにはあった。
「あ、おはよう、河野」
篠原雛。俺の幼馴染。
屈託のない笑みを向けてくる彼女に、俺は「あぁ」と曖昧な調子で挨拶を返す。
「包帯、やっと取れたんだね。よかった」
俺の顔をまじまじと眺め、柔らかな表情を浮かべる。
呼応するようにひくついた鼻筋が、受けた傷をまだじわりと痛ませた。
2月中旬のとある日曜日、俺は生まれて初めて顔面を殴られるという経験をした。
最初は些細なすれ違いだったのだろうが、そうしたものの積み重ねを経て、亜美香は怒りをあらわにしたのだ。
幸いにも怪我の程度はそこまででもなく、二週間程過ぎた先日にはギブスも外れた。
当たりどころが良かったのか、亜美香が手加減したのかはよくわからないけど。
病院の先生によれば、傷も残らなそうだし、顔が変形することもなさそうだとのこと。
長年愛用した眼鏡も壊れたが、殴られた翌日には新しいものを親に買い替えてもらえた。
微かに残った痛みも徐々に消え失せて、全ては元通りになるのだろう。
あれほどのことがあっても、何事もなかったかのように元通り。
――そう、何事も、なかったみたいにな……。
「それにしても、突然包帯巻いて学校来た時にはびっくりしたよ。転んで鼻の骨折れちゃって、眼鏡も壊れちゃったなんていうから」
篠原にも、両親にも、俺はそのような感じで嘘をついた。
――当然だ。あの廃車両は、俺たちの秘密の場所なんだからな。
その秘密を守る意味も、もう特にないようなものかもしれないけど……。
……本当のところはもっと単純で、いきさつを説明するにあたって触れなければならない俺の有様が、自分でも思い出したくないぐらいに無様だからだ。
そうなるに至った経緯も。そうなってからの行動も。
だから、言いたくなかった。
「あんまり危ないことしないでね。心配するから」
苦笑する篠原の言葉には、俺が無事だった安堵と、言葉通りの心配が滲んでいた。
両親の俺に対する発言とかも、まぁ、似たような感じで。
「うん、新しい眼鏡も、似合ってるね。今度はちょっとおしゃれなのにしたんだ?」
俺は間抜けにもうっかり転んで、ちょっとだけ大変な怪我をして、でも結果的には無事に完治しそうで良かった良かったって感じで、今回の件を受けてしばらくは大人しくしているだろう。
とか、そんな印象を持たれている感覚。
――まぁ、実際、そうする以外にないけどな。
俺には、冒険だの、喧嘩だの、そんなことをする性質も、能力も、勇気も、何もかもないんだから。
俺一人だけでは、何もできないんだから。
そして、俺にその力を貸し与えてくれる仲間も、居場所も、俺は自ら手放してしまったようなものなのであって。
そうだ。俺は、もうあそこには行けない。
……廃車両には、もう行けない。
15.BBQ Riot Song
あの廃車両から逃げ出して、退屈な日常に戻ってきてからしばらくが経つ。
その間の俺はといえば、有り体に言って、どうしようもない感じだった。
亜美香に殴られた怪我の治療のため病院に行ったり、壊れた眼鏡を新しくしたりと、最低限色々やってはいたが、あとは部屋でゴロゴロしているばかりだった。
夜遅くまでゲームをして遊んだり、昼過ぎまで惰眠を貪ったり。
刺激らしい刺激のない時間が、ゆったりと過ぎていくばかり。
そしてそれは、去年の秋、廃車両でフジノと出会う前までの俺が送っていた日常と、何ら変わるものではないことに俺は気づく。
あれだけ色々あったのに自分はまるで進歩がない。
その事実に嫌気がささないでもなかった。
けど、こうしてまたかつての日常が戻ってきて、その中にどっぷり浸かってみて思うのは、こうしていること自体への不満なんて別にないってことだ。
日々は穏やかで、平和だ。ならいいじゃないか。
成長したいけど何をすれば良いのかよくわからないとかそんな切羽詰まるような感じもなければ、冒険に出たり変なヤツら競り合ったりして危ない目に遭う恐れもない。
廃車両の日々は刺激的だったけど、俺には多分ちょっと重荷で、知らず知らず感じていたストレスがあったのだろう。
そこから離れて、解放されて、俺が、俺らしく、無理せずのんびりとしていられる毎日が訪れた。
それは見るからに怠惰だけど、よく見れば甘美だった。きっと自分に見合っている、無理のない時間だからだろう。
このつまらない、ぐうたらなだけの日常を変えたいと思っていた日があったし、それは今でも思わなくもない。
けれど結局のところ、河野留美みたいなヤツにはこういう、ぬるま湯みたいでふやけていくような、どうしようもない現実がお似合いなんじゃないかと思ってしまうのだ。
自分がいかに無力で、無能で、弱くて、臆病な人間であるかを思い知った。
廃車両にいた、フジノも、亜美香も、光明も、自分よりずっと優れていて、あの場所にいる価値がはっきりとあった。
俺には、あんな能力も、人間性も、備わってないし、ちょっと努力したぐらいで追いつけるとは、もう思えない。
亜美香に言われて、殴られて、その現実を理解させられた。
――あの場所を始めたフジノが最初に出会ったのがたまたま俺だったってだけで、あの場所に俺がいたのなんて、そもそも間違いだったんだ。
そんなことばかり考えてしまう。
亜美香の言葉や暴力が、とにかく悔しかったし、ムカついた。
けれど一番腹が立つのは、それに言い返したり、覆したりできないばかりか、立ち向かうことさえできずに、怯えて逃げ出すしかできなかった俺自身に対してだ。
だからずっと、後悔にも似た思いが消えなくて、すっきりしない。
いっそ、自分がただのクズだって認めれば楽になれるんじゃないかと思ったりもした。
けれど、俺の自意識とかプライドみたいなものが、自分を無価値なものとしてあることを許さない。
大したことない人間のくせに、やけにしっかりと機能する自分のそういう部分。
否、大したことない人間だからこそ、それがずっとコンプレックスになっていて、俺の心は声高に俺が無能であることを許さないんだ。
くだらない、とも思う。
強くならなきゃ生きちゃいけないなんて誰が決めたんだ?
親か?先生か? 社会全体か?
……わかってる。俺自身だ。
そうしなきゃと願うくせに、何も努力しないまま安穏と過ごしていただけの俺が、サボり続けていた自分自身をそうやって偉そうに糾弾してるんだ。
それが、イラつく。自分自身からも言われっぱなしだなんて。
このままで済ませたくはない。どうにかしたい。
――あぁ、ちくしょう、なら、俺は一体どうすりゃいいんだよ……?
それがすぐに思いつかないものだから、またしても腹立たしいのだ。
> <
バスに揺られて、学校へ向かう。
俺はいつも座る定位置にいて、すぐ後ろに篠原がいる。
バスが動き出してすぐに、篠原は「河野」と俺の名前を呼んできた。
「はい、これ」
振り返ると、綺麗に包装された小さな箱が差し出されていた。
「……? なんだよこれ?」
「バレンタインのチョコ。遅くなっちゃったけど、あげる」
俺が怪訝な顔で受け取ると、篠原は少しだけ気まずそうな苦笑を浮かべた。
――バレンタインって2月中旬くらいじゃなかったっけ……?
そういうのに縁のない俺は正確な日にちも覚えていない、が。
「おまえなぁ、もう3月になっちまってるぞ……」
「ご、ごめんね。ホントはすぐ渡そうと思ってたんだけど……ほら、河野、怪我とかしてて、大変そうだったじゃない? そんな気分じゃないかなー、って思って……」
「そりゃ悪かったけど……賞味期限とか、大丈夫なのか?」
「もう、大丈夫だよ! 作ったの昨日なんだし……、」
「え?」
「な、なんでもない」
何か言ったような気がして聞き返すが、篠原は気まずそうにそっぽを向いてしまう。
若干時期外れの突然のチョコのプレゼント。
意外な場面でもらえた嬉しさよりも違和感が勝る。
……去年まで特にそんなやり取りしてなかったってのに、どういう風の吹き回しだ? それもわざわざ俺が落ち着くのを待ってまで渡してくるなんて。
こんなの、そこまでして絶対渡さなきゃってもんでもないだろうに。
――まぁ、くれるってんなら、ありがたくもらうけどな……。
せっかくくれたものにごちゃごちゃ文句をつけるのも性格悪いと思うし。
時期をずらしたのも、俺に気を使ってくれたからっぽいし。
篠原も、俺のことを心配してくれている。
どうしようもない自分のことを、彼女は案じてくれている。
……その事実に、少しだけ救われる。
「まぁ、よくわかんねぇけど、ありがとな」
「ど、どういたしまして」
篠原はまだもじもじしている。
こいつ自身も慣れないことをしているって自覚があるみたいだ。
なんなんだか。
――ってか、もらっちまったってことは、お返ししなきゃいけねぇのか。
面倒くせぇけど、何か考えないと……、ホワイトデーって、いつだっけかな?
「河野は、その……大丈夫?」
一瞬の間を置いて、曖昧な問いかけが飛んできた。
「まぁ、まだちょっと痛い時もあるけど、我慢できないってほどじゃ――」
「あ……、そっちも、まあ、そうなんだけど、そうじゃなくて」
「ん?」
怪我の話をしてるのかと思ったがそうじゃないらしい。
「最近の河野、また元気ないかな、って思って」
「またって……」
こいつの中だと、俺はそんなしょっちゅう元気をなくしてるヤツなのか?
それとも――、
「最初は怪我したからかなって思ってたけど、なんかそれだけじゃないような気がしたの」
「……おまえって、そういうの、わかんの?」
「わかるよ。河野が不機嫌なところ、昔から見てるもん。だから、嫌なことあったのかなーとか。見てれば、なんとなくは……」
「……。そっか」
――お見通しってことかよ。
篠原の定義する“元気ない”が、俺が今抱えてるモヤモヤした気分とイコールなのかはともかく、俺の不調は取り繕っても篠原には伝わってしまうものらしい。
廃車両であった色々について、篠原は無関係だし、俺自身も思い出したくない気持ちが少なからずあったから、何事もないフリをしていたつもりだったのだが。
「なにか……悩みとか、嫌なことあったりとか、したの?」
伺うような篠原の口調に、俺はそうすることの無意味さを悟る。
それに、完全に何も知らないわけでもないのだし。
「――まぁ、その……ちょっと、喧嘩を……してさ」
俺は、正直に答えることを選択する。
全て説明する気にはなれないけれど、何があって、俺がどういう気分でいるのか程度のことは、顔を合わせる機会の多いこいつになら言っても良いように思えて。
心配してくれるこいつに対する、最低限の礼儀とでも言うべきなのか。
「それは、その……フジノ、さんと?」
おずおずと名前を挙げる篠原に、俺は「まぁ、そんな感じ」ととりあえず答えると、篠原は「そっか」と短く言った。
よくフジノだとわかったな、と一瞬驚いたが、篠原からすれば俺が喧嘩をする相手なんて両親か、フジノぐらいだと想像がついたのだろう。
実際俺が喧嘩――と呼べるやり取りだったかどうかはともかく――をしたのはフジノではないが、亜美香のことを一から篠原に説明するのは面倒だし、俺が今心に抱いている鬱屈は、フジノに対してのものもなくはないので、俺は訂正をしなかった。
――問題は、その内容をどう言ったものかってことなんだけど……。
「じゃあ、しばらくは無理して会わないほうがいいんじゃない?」
「え?」
篠原が喧嘩の理由や内容を聞く前から突然そんなことを言うので、俺はちょっと戸惑う。
「どうしたの?」
「いや、その……なんで喧嘩したのかとか、聞かねぇのか?」
「え?えっと、河野、それ……私に言いたい?」
「いや……、正直、あんま言いたくは、ねぇ……かな」
「でしょ?そうだと思ったから、聞かないほうがいいかなって」
「…………」
俺は、篠原の物言いにまた少し驚いて、すぐに納得した。
「河野って昔から、私にそういう話するの好きじゃないもんね。ごめんね、ヘンに聞いたりして。もう聞かないから。大変だったね。とりあえず今は、あんまりそのこと悩みすぎないで、違うことやって、ゆっくりしてみたら?」
篠原雛は、俺の考えてることなんて、大体わかっているのだ。
大体わかるぐらい、一緒にいる時間が長くあったのだ。
「あぁ……、気ぃ使わせて、悪いな。おまえの言う通り、しばらく、ちょっとゆっくりするよ」
「それがいいと思う。わたしにできることとか、あったら言ってね」
「……、……ありがとな」
逆に俺は、どうなんだろうか。
篠原と一緒にいた時間は長いが、俺は篠原が考えていることを、そんなに理解しているだろうか。
よくわからない。
でも、こうして話を聞いてくれたこととか、それでいて全部は聞かずにおいてくれることとか、こいつらしい言葉で元気づけようとしてくれたこととか。
そのようにしてくれるこいつの存在が、今の俺にはやはりありがたかった。
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3月になり、期末試験があった。
二学期に最悪な成績を取り、補修まで受けさせられたというのに俺というやつはその後も勉強などろくにせず、フジノのいる廃車両に入り浸ってばかりいた。
当然の結果として、今回の期末試験の点数も前回同様惨憺たる有様だった。
必然的に、試験数日後の今日、俺のスケジュールには“放課後は補習授業を受ける”という予定が脅しのような強引さをもって組み込まれることになる。
――まぁ、さすがにそろそろ、真面目に勉強するのもいいかな……。
不真面目な姿勢への反省の気持ちも、勉強に対する溢れ出すほどのやる気もあるわけではないが、やりたいことも、やるべきこともないのだし。
……それが自然な流れだから、と俺は思い込もうとしている。
そして、それに対する気の進まなさも、同時に。
以前にも触れたことだが、高校に入ったばかりの頃の俺は、勉強が得意だったし、嫌いではなかった。勉強してテストで良い点を取ったりするのは嬉しかったし、周囲の人間より秀でた部分がちゃんと自分にもあると思えて快感だったのだ。
でも、今の俺はそのテストで良い点を取ることのすごさが“学校の成績”というちっぽけな分野においてしか評価されないモノだと知ってる。
人間が持つ総体的な“すごさ”のようなモノ――傍から見てもわかる、輝くような雰囲気みたいなものを得るには、学校の勉強だけしてれば済むほど世の中甘くないことも。
フジノと出会って、廃車両で過ごして、俺の認識はそんな風に変わったのだ。
廃車両にいて、フジノと学校の勉強の話なんてしたこともない。それはその話題をする意義も、するほどの価値も、お互いが無意識に感じていなかったからだろう。でも俺はフジノをすごいと思ったし、尊敬できた。
亜美香は、一見して勉強なんかクソ喰らえみたいに思ってそうだし、学校すらまともに行ってなさそうだけど、フジノは亜美香の良さを見抜いて、ちゃんと評価していた。
光明は、一緒にいた時間が短すぎてよくわからないし、勉強はできそうな雰囲気はあるけど、俺は成績の良し悪しで“あいつが自分より優れている”と感じたわけじゃない。もっと漠然とした、言葉とか仕草から、人間的な優秀さを感じたのだ。
俺は何かにつけて篠原のことを見下してることがあるけど、それは篠原が勉強が苦手って部分の印象ばかりが先行していて、あいつの他の能力だとか、人間性みたいな部分については評価されていない。けれどもあいつと縁を切らずにそれなりに仲良くやってこれているのは、他ならぬ俺自身が勉強以外のあいつの良さを感じ取っているからだ。
――つまり、勉強なんかどうでもいい場面なんて、世の中いくらでもあるってことだ。
できないより、できたほうが良いのは確かだろう。けど、全てじゃない。
そればかりにこだわって、それが全てみたいに考えるのは、視野が狭い。
それは、きっと、弱さだ。
井の中の蛙で、蛇に睨まれた蛙。
俺は、そんな程度のヤツで――。
「となり、あいてるー?」
と、俺はそんなことを言われて思考を打ち切った。
見れば、一人の男子生徒が俺の隣の席に座ろうとしている。
……そう、今は放課後で、俺は補習授業を受けに来ているところなのだった。
普段と違う空き教室。窓際の席。見慣れない周囲の顔ぶれ。不真面目な騒々しさ。
数ヶ月前に初めて知ったのと同じ空気の中で、俺は予習などをするでもなく、ぼんやりと思考に没頭していたのだ。
「ん、……空いてる、と思う」
一瞬自分に話しかけているのかどうかわからなくて、俺は思わず小声で答えた。仮に自分じゃなかった時の予防線でも張るみたいに。
「うぃ!さんきゅー」
と、そいつは俺の発言に屈託ない笑みと共に礼を言って、隣の空席に座ろうとして……なにかに気がついたように急にピタリと動きを止めた。
「え?」
すると今度は俺の方に向き直って、額の辺りに指を当てて「ウムム!」と突然唸り出す。
「えーっと……、待って!いま名前思い出す」
「はぁ?」
いきなりそんなことを言われて俺は戸惑う。この男子生徒はクラスも違うし、何かの行事で交流を持ったこともないし、顔も見たことも――、
――顔は、なんか見覚えがあるような、ないような……?
「思い出した! 河野留美!」
びしりと俺を指差しながら、見事に名前を言い当ててきたので、俺は驚く。
つまりはどこかで俺の名前を知る機会があったのだろう……が。
俺の方はこいつの名前なんて何一つ思い出せやしないのに。
「オレ、四組の榊慶次。覚えてる?前回もオレ、河野の隣に座った!」
と、思い出す前に名乗られて、俺は奥底にあった記憶がぼんやりと甦った。
そうだ。前回補習授業を受けた時も、こいつは俺の隣に座ってきた。その時も、やけに馴れ馴れしい感じの口調と態度で、こんな風に俺に話しかけてきたのだ。
しかし、たった一度、それも挨拶程度の短い時間を会話しただけなのに、よく思い出せたもんだな……。
「……二回連続で補修なんて、お互い馬鹿で苦労するな」
「ぐひひ。それ、前回オレが言ったセリフじゃんー。ちゃんと覚えてたな!」
俺がそんな皮肉を口にすると、榊は楽しげに笑ってそう返してきた。
別に覚えてたから言ったわけじゃなく、適当に口にしたらたまたま同じだっただけだ。というか同じだったかどうかも俺は思い出せないが、そんなことまで覚えてる辺り、どうやら記憶力は、かなり良いらしい。
……とはいえ俺と同じで二回連続で補修授業を受けているということは、勉強の方はよっぽど駄目なんだろうな。
榊慶次。会うのは二度目になるその男子に、俺はそんな印象を抱いた。
補修など受けるだけあって、普段の教室よりも数割増に騒がしい教室は、予定の時刻を過ぎても騒がしいままだった。授業を担当する教師がいつまでもやって来ないからだ。
監督者がいない教室。勉強嫌いな連中の集まりには、時間が来たからといって自然と静かになるようなお利口な雰囲気は全然ない。
「んだよー、全然始まらねーじゃん。こっちはせっかくの放課後ツブして来てやんてんのになー?河野」と隣の榊が話しかけてきた。机に伏すようにして両手を伸ばし、足をぶらぶらさせている。子供みたいなヤツだな。
「……先生も俺らのことなんか忘れてんじゃねぇの?」
「はー!?ひっでー!忘れるとか、オレらをなんだと思ってんだっつーの! バカにも人権をよこせー!」
榊は露骨な反応で怒り出し、そのまま自分の言葉を復唱するみたいに「よこせー!」と一人でシュプレヒコールを始めた。
しかしすぐに飽きたらしく、椅子に座ったまま俺の方に向き直る。
「なーなー、河野って、そんなバカなの?」
「……、それは二回も連続で補修を受けてるからって言いてぇのか?」
「うん。だってそれってオレと同じってことでしょ?相当バカだよ?それ」
「なんだよその評価は……、悪かったな馬鹿で」
「いーんじゃね?オレもバカだし」
本当に構わない、という雰囲気で、榊は「仲間仲間ー」と握手を求めてくる。俺は適当にそれをそっけなくあしらう。
こいつの無遠慮な馴れ馴れしさには、やはり戸惑う。
同じクラスにいたとしても、自分が今まで関わることのないタイプの人間――性質的に異なり過ぎて、交流が生まれる可能性がない相手。
そんな相手との間にひょんなことから生まれた、なんとも奇妙な縁。
「河野って、休みの日とか放課後とか、何やってんの?」
榊の話題は尽きない。教師が来ないのをいいことに、際限なく雑談に興じるつもりのようだった。
「え、えーっと……」
しかし、質問に対して俺は思わず答えに詰まる。
――フジノたちのことは話したくない……てか、もうやってねぇし、家でゲームとか、こいつはそんなの言われてもきっと全然興味ねぇよな……、なんて答えよう……?
趣味の話題。それは定番だけど、人に言える類のモノを持っていない人間にとってはとんでもない鬼門だ。
遊び慣れた奴等には、下手に隠して無趣味だと言えば退屈がられ、正直にゲームだのマンガだのと話せば無理解故に気持ち悪がられる。
初対面でそういう気配を読まれたら、陰気なインドアだのキモいオタクだのと、散々なまでに叩かれるのがオチなのだ。
だから俺は考える。なんて答えるべきなのかを。
……正直、こんな初めて喋るヤツに好かれようが嫌われようがどうでもいいはずなのだが、俺は自分でも不思議なぐらい真剣に考えを巡らせていた。
こいつにも言えそうな、俺の休日の過ごし方……、趣味……、……?
「――自転車、とか?」
俺は苦し紛れにそんな単語を挙げた。
嘘ではない。実際持ってるし、よく乗ってはいるし。
ただ、趣味と言えるほどやってるかと言われると微妙だが――、
「え、マジでッ!?」
すると、榊は教室全体に響き渡るような声を出した。
実際何人かが何事かとこっちを見る。わけもわからず注目集めて、俺は居心地の悪さを覚えるが、
「オレも自転車好きなんだよー!」と、榊はマンガのように目をキラキラさせてそんな言葉を返してきた。「うっわマジかー!こんなとこにいたかー自転車乗ってるヤツ!気づかねーわけだわー!やっべ、すっげー嬉しい!なんだよ河野、話せるじゃん!超いいヤツなー!」
そのまま強引に両手を掴まれ、ブンブンと握手をさせられる。顔は笑いが隠しきれないとばかりにニコニコだ。
――なんだかわからんけど、めちゃくちゃ喜んでる……。
苦し紛れに出した言葉が予想の斜め上をいく好反応で、俺は意味不明で思考停止しかける。
「河野はどこの自転車乗ってんの?」「え、えっと、ジャイアント……だったかな」「ほほう!手堅いねー!河野っぽい!ロード?クロス?」「え、あれは、ロード……なのかな?」「ハンドルが、こう、ぐいって下むいてるヤツ?」「いや、そういうんじゃないな、普通の、横に伸びてる……」「フラットね!クロスかなそりゃ」「そうなのか」「まー、ロードもクロスも、街乗りに関しちゃ同じようなもんだけどね!」「……、」「俺のはマングース!」「はい?」「マングースって名前のメーカー!知らない?MTBだけど!兄貴のジオスにもたまに乗らせてもらってんだけど、やっぱチャリはマウンテンのがオレは好きだね!はは!」「はは……」
そのまま畳み掛けるように質問攻めにされる。
自転車の話になった途端、元々高めだった榊のテンションはおかしいレベルにまで跳ね上がり、俺は対応しきれず苦笑混じりになる。
……というか、完全に引いてる。
要するに榊は自転車が好きで、しかし残念ながら同好の士にはあまり恵まれず、満足に話せる機会がなかった……ってことなのだろうが、だからって会ったばかりの、どんなヤツなのかもわからない俺に、こんなハイテンションで喋っちゃうのって、正直どうなんだろう。
俺は見知らぬ他人と話したり打ち解けたりが苦手なタイプで、空気を読まない発言で微妙な空気を作ってしまいがちだ。けど、俺とは間逆の性質っぽい榊だって、空気を読めているとはとても思えない……。
コミュニケーション能力が高そうなのに、“すごさ”よりも“微妙さ”を感じてしまうのは、珍しいように思えた。
「いやー楽しーわー!クラスじゃこんな話できるヤツとか全然いねーし!河野が初めてだよー! あ!ってか、オレ、自転車以外にも釣りとか山とか、アウトドア全般超好きなんだけど、もしかして河野もそういうのやるひと?」
しかし、榊は俺の反応など意に介した様子もなく、次の話題に移り始める。
――アウトドア……? キャンプとかってことか?
「それなら、まぁ、やったことは……ある」
子供の頃にもあるし、フジノと廃車両に泊まったのも、まぁ、キャンプのようなものだろうし。
「うおーっ!やっぱり! うわ~、河野~!」
そしたら榊は泣いて喜びながら俺に抱きついてきたので俺はいよいよドン引く。
「うわっ、なんだよ!なんで泣いてんだよ!」
「やっと出会えた~、心の友よ~!」
「っ、そんな……こと――!」
そんなこっ恥ずかしいこと言うな、と言うつもりだった。
俺たちは初対面みたいなもんで、ちゃんと喋ったのだって今が最初なのに、空気も読まずに馴れ馴れしくベラベラ喋って、……挙句の果てに、心の友だなんて。
「……」
でも、なんとなく、言いたくなくなって、飲み込んだ。
理由は、……よくわからない。
榊みたいな、こんな元気で騒がしいヤツと俺は話したこともなくて、だから、戸惑いもあるけど、新鮮で、感じたことのない感覚があって――、
――結構……楽しい。
そう。楽しい。それは本当だった。
俺は人と話したり、打ち解けたりが苦手だ。だから、仲良くなるには結構時間がかかっていたし、そういうものだと思っていた。
けど、そうじゃない場合も、どうやらあるらしい。
会ったばかりでも、タイプが全然違くても、奇跡的に何かが噛み合ってすぐ仲良くなれてしまう相手ってのが、どうやらいるらしいのだった。
その後、少し遅れて始まった補習授業の最中も俺たちは喋り続けていて、俺と榊は二人して先生に怒られた。
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「なーなー留美、留美は釣具屋とか行ったことある?」
補習授業が終わって、担当教師が立ち去るよりも早く、榊は堰を切ったように喋りだした。
「いや、ない……、ってか、釣りはやったことない」
「お、マジ?オレこれから行こうと思ってんだけど一緒に行こうぜ!」
やったことないって言ってんのにこの調子だ。
榊は同好の士(ということにこいつの中ではなってるらしい)の俺を見つけたことが嬉しくて仕方がないらしい。
「んじゃアレだ。留美の竿もリールもオレが選んでやるよー!今日からやろーぜ、釣り!」
「え?いや、さすがにそんないきなり――って」
言うが早いか、榊は俺の腕をふん捕まえて、強引に椅子から立たせて走り出した。
俺はいきなりすぎる榊の行動力に面食らって、「ちょ、ちょっと待てって!そんな引っ張んな!」とか言いながらそのまま教室から連れ出されてしまう。
誰よりも先に教室を出ると、廊下には何故か篠原が立っていて、俺たちが突然飛び出してきたのに「わ!」と驚いた顔をする。
「し、篠原? 何してんだこんなところで――」
「急げー留美!オレらの放課後はこっからなんだぜー!」
篠原のことなど知らない榊は俺に質問などさせる暇も与えず、そのまま階段の方向へぐいぐい俺を引っ張っていく。
どうにか後ろを振り返ると、そこには呆気にとられた様子でこちらを見て固まっている篠原の姿があった。
――補修が終わるの、待っててくれたのかな、あいつ……?
鈍い俺でもすぐにその考えに至るが、次の瞬間階段を転げ落ちそうになって、すぐにそれどころではなくなる。
「この、猪突猛進バカが! 少しは人の話を聞けってんだよ!」
結局榊は昇降口の靴箱のあたりまでノンストップで俺を引きずりながら駆け抜け、そこまで来ると今更行かないなんて空気でもなく、俺は渋々榊の寄り道に付き合うことにするのだった。
榊のフリーダム加減に心中で文句を言いつつ靴を履き替える。
校門へ向かう最中、ようやく余裕が生まれた頭で「篠原は今回補修じゃなかったのか」とか「あいつは俺と違ってちゃんと勉強してたんだな」とか、そんなことを俺は考えていた。
「……」
――せっかく待っててくれたのに、申し訳ないことしちまったな……。
俺は後ろ髪を引かれつつ、「早く来いよー!」と急かす榊に結局そのままついていくことにする。
誘拐犯のような強引さで俺は北区の駅前にあるアウトドアショップに連れてこられていた。
榊が見たかったという釣具だけじゃなく、キャンプ用品や登山グッズなども取り揃えてある大型の店舗だ。
「そんでさー、目が冷めたらテントの屋根の布がこーんな眼の前にあってさー。危うく死にかけたよねー、あれは。ははははは!」
榊は道中も延々と俺に対してああだこうだ質問したり、自分がしたい話を喋り続けている。
今だって目的の店についたというのに関係ない話を続けているものだから、俺はそこが目的地だと理解できずに危うく店の前を通り過ぎそうになった。
「しっかし、ホントよく喋るなぁ、おまえ……」
「え?そう? 留美も結構喋ってんじゃん。考え過ぎじゃね?」
「いや、俺はおまえみたいに少しの沈黙も我慢ならないような人間じゃない」
「えー、そうかなー?まー、オレは喋ってっとよくクラスのヤツからも「うるせー!」って言われることあるから、喋るほうみたいだけどさ」
「いや、マジで喋ってるからおまえ。マグロは泳いでねぇと死ぬって言うけど、おまえも喋ってねぇと死ぬんじゃねぇかってくらい喋ってるよ」
「ぐひひ!なんだそれ!ウケる! 留美っておもしれーな!」
そんな面白いことを言った覚えもないのだが、榊は気に入ったらしくてその後も一人で笑っている。
かく言う俺も、心の底からやかましいと思っているわけではなく、榊の賑やかさに付き合っている時間は意外なほど楽しかった。
喋る前は完全に別次元の人間かと思っていたし、共通の話題なんかありえないと思っていたが、話してみると案外話も合う。話の通じなさを感じることも、空気感のズレにムカつくことも意外なほど、ない。
榊の発言が多いせいで、自然と俺の受け答えも数が増えているだけかもしれないが、榊相手だと俺も自然と話が浮かんで、無意識に普段よりたくさん喋っているような気がする。
その時間が、思ったよりも、楽しい。
「んで?どうすんだよ? 釣具見たいとか言ってたけど……」
「おう!まずはロッドな!そん次はルアー!もちろん釣具以外も見たいけどね!」
――単に食わず嫌いしてた、だけなのかな……。
“こいつは自分と違う”だの“俺とは本質的に合わない”だの、そういうことを俺が勝手に決めつけて、勝手に避けていた。無条件で受け入れてくれそうな、自分と似たような人間としか関わろうとしてなかっただけかもしれない。
全然タイプが違ったって、実際に話してみれば……話そうとしてみれば、意外とこうして交流できることだってある。
「あのなぁ……、俺はまだ買うなんて言ってねぇだろ」
「えー!そんなつまんねーこと言うなよー!一緒にやろーよー!絶対楽しいからさー!!」
でも、俺に関わろうという意思が全くなければ、その可能性すら生じ得ないのだ。
面倒臭がって自分の殻に閉じこもって、やり過ごしてばかりいたら、関係性なんか生まれない。
コミュニケーションは疲れるし、大変だ。苦手だし、億劫だ。
多分、苦手なのは不慣れだからだ。億劫なのは成功体験がないからだ。
それで、努力をサボっていい理由には、多分ならない。
やってやれないことはない。
――俺にも、できないわけじゃない。
こうして榊とどうにか喋れているのがその証拠だ。
その事実が、――嬉しい。
「じゃあ、例えばどんなのがおすすめなんだよ?って、うわ……これ、五万円もする……。釣り竿ってこんな高いのか……」
「ははは!そんな超たけーの買わなくていいよ。最初なんだし二千円くらいのでいいんだってー!」
それは榊が特別なのかもしれないし、誰とでも上手くやれるなんて都合のいいことは、多分ないこともわかっているけれど。
別に覚悟を決めてやってみたわけでもないし、たまたま隣の席に座った榊が妙に食い付いてくれたっていう、単なる成り行きみたいなものだけど。
「そんな安物で大丈夫か? すぐ壊れちゃうんじゃ……」
「壊れたらまた買えばいーじゃん!留美が次の買う時もオレが一緒に選んでやっからさー!」
だからこそ、俺はこの、新鮮な楽しさを、もっと続ける努力をしたいな、と何気なく思ったのだ。
「榊」
「んー?」
「おまえって、いつの間に……俺のこと名前で呼んでんの?」
……そういう努力ができる人間になっていこうかな、と思ったんだ。
「だってオレたち、もうマブダチじゃん?
親友ってのは名前で呼び合うもんだろー、留美?」
「……、……」
駅前のアウトドアショップの中に置かれた、釣具コーナー。
高校生男児ふたりの寄り道先としては、ちょっと異質な気がしないでもないけれど。
こうして男二人でバカみたいな話をしながら買い物とかして歩くなんて、
俺ぐらいの年相応の、それらしい放課後の過ごし方ではあるんじゃないだろうか。
「だから留美もオレのことは慶次って名前で呼んだほうがいいと思うぜー」
「んー……っと、榊」
「えーっ!なんだよノリ悪いなー!」
「いや、榊はなんか、榊って感じだし。そっちのほうが呼びやすいっつーか、さ」
結局この日はアウトドアショップに長居しすぎて店を出る頃には暗くなってしまったので、そのままお開きになった。
榊は最後まで「釣りに行く!」と言って駄々をこねていたのだが、次の日も学校だったし、俺も久しぶりに喋りすぎて疲れたしでさすがに限界だったから「また今度な」と約束をして、別れた。
――あぁ……疲れたけど……、今日は楽しかったなぁ……。
帰り道を一人で歩きながら、俺はそう思った。
楽しかった。
この騒がしさと賑やかさ、行動的な時間を……俺はそう感じている。そのことを自覚できている。
自分のキャラ的にも、これまでの人生的にも、あまり縁のなかった類のものなのに。
楽しいと感じてしまえるのは、何故だろう?
――だって、そう、これはまるで……。
ついこの間まで入り浸っていた、廃車両での日々。
既に失われている、騒がしく、賑やかで、楽しかった日々。
フジノと過ごした冒険の毎日――今日の放課後は、その時の空気と、たぶん少しだけ似ていたからだ。
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榊と知り合い、一緒に出かけた日から数日経ったある日の昼休み。
午前中の授業が終わり、クラスの連中が学食なり購買なりに行こうとざわざわし始める。
「河野、今日のお昼はどうするの?」
「今日も学食かな……、混まないうちに行かねぇと。篠原も行くか?」
「うん、そうしようかな」
俺が篠原と昼飯の相談などしていた時のことだ。
「留美ーっ!学食にメシ食い行こっぜーっ!」
大声を張り上げて教室の戸が勢いよく開け放たれる。
教室にいた全員が何事かとざわざわする中で、俺は見慣れ始めたこのシチュエーションに呆れ果てるしかない。
「榊……、おまえもうちょっと普通に入ってこれねぇの?」
「え?なにが!? 別にどこも具合悪くねーし、ザ・健康だけど?」
「誰もおまえの体調の話なんかしてねぇよ!」
「ははは!出た、留美のツッコミ!はははは!」
一緒に遊んだあの日の翌日から、榊は俺にものすごくかまってくるようになった。
休み時間になるたびに俺のクラスに突撃してきて、こうして騒いでいるのに付き合うのが俺の日課になる。
こんな性格の榊なので、俺と違ってクラスに話し相手があまりいないなんてことはないのだろうが、榊は俺と一緒にいるほうが楽しいのだという。
そういうことを面と向かって言われて、まぁ、嬉しくないわけじゃないのだが……。
放課後は放課後で、先日のように北区に遊びに行ったり、一緒に釣りに行ったりしている。
買ったばかりの釣り竿を担いで、近所の川や池で榊の手ほどきを受けながら釣りに興じる俺なんて、ちょっと前には想像もできなかった。
二人で釣り糸を垂らしながら、喋っているのは楽しい。そうしていると全然釣れないことも多いのだが、家で一人でぐだぐだしているより、俺はずっと有意義だと感じている。
「あ、あはは……こ、こんにちは、榊くん」
「あ!篠原さんも一緒に行く?昼メシ」
そんなわけでいつも榊と一緒にいる最近の俺なので、必然的に榊と篠原も知り合いになる。
最近は三人で昼飯を食いに行ったり、休み時間を一緒に過ごすことも増えてきた。
「今日はチキン焼き鳥定食とかだったよーな気がする!オレ的に!」
「チキン焼き鳥定食ってなんだよ……、チキンと鳥で意味かぶってんだろ……」
「やっぱり……ちょっと意外だな……」
自然な調子で会話する俺たちを眺めて、篠原が呟いている。
篠原は俺がいきなり榊みたいなヤツとつるむようになったことに相当驚いたらしいが、その雰囲気はクラス全体からもひしひしと感じる。
前はよく一緒にいた大賀と川村などは榊のハイテンションに完全に引いてしまっていて、榊が近くにいる時は近寄ってすらこなくなったし、特に交流のないクラスメイトも俺を取り巻く人間関係の唐突すぎる変化に怪訝そうにしているのが察せられた。
……嫌な注目のされ方だと思っているから、毎回騒々しすぎる登場は正直ちょっとやめてもらいたいのだが、このバカは俺の言うことなんてまるで聞きやしない。
「でも、そうしてると二人って、なんだか、ずっと一緒にいる友達同士みたいだね」
ああだこうだと言い合いをする俺たちは、そんなことを言われて一瞬黙って顔を見合わせるが、沈黙に耐えられない榊がすかさず変顔をして俺を笑わせようとしてくる。
「おい!その顔ムカつくからやめろ!」
「人の顔見てムカつくとか言うな!」
五秒と持たずまた言い合い。だが本気で喧嘩する時のような険悪さはない。
少し前じゃ考えられなかったけど、気づいたらこんな空気が自然になっていて、榊がこうして絡んでくることに、鬱陶しさを全く感じていない。
「河野って、こんな感じの……男の子の友達とか、今までいたことあったっけ?」
「人を友達いないみたいに言うなよ……」
「でも、実際そうじゃない?私も、その……あんまり人のこと言えないけど」
「まぁ……」
明確に言葉にされると少々痛いが、その通りだ。
榊みたいなタイプが、というより、こんな垣根のない感じの交友は俺には経験がない。
「イエーイ!男同士の友情ー!」
「うるせぇって!ひっつくな暑苦しい!」
それをこんな短期間に形成できたことや、不慣れながらもどうにか俺がそれを履行していることが、ちょっと……誇らしいみたいな気分だ。
篠原のさっきの「ずっと一緒にいる友達みたい」という感想も、内心ちょっと嬉しかった。
……まぁ、恥ずかしいから、言葉にしたりはしないが。
そうして俺と榊と、あと篠原の三人は学食に向かう。
教室を出て廊下を歩いている時も、学食の列に並んでいる時も、榊は相変わらずべらべらと喋っていて、俺がそれに反応したりツッコミを入れたりし、篠原はそんな俺たちのやり取りを見守るようにしながら時々会話に混ざる。
……こんな空気が、ここ最近の俺の日常になっていた。
そして、これから先もこんな日常が続いていくんだろうな、と思う。
それは楽しげで、つまらなくなんてなく、決して悪くない。
「……ははっ」
むしろ俺は、廊下を三人で歩きながら、この何気ない時間と交流が、なんだかとても尊いもののように感じられた。
自分で、どうしようもないと思っていた自分。
その自分を、一番に理解してくれて、助けて、穏やかに見守ってくれている“幼馴染”の少女。
その自分に、あまりにもあっさり出来てしまった“親友”と言ってくれる少年。
自分のような人間には一生得られるわけがないと思っていたその関係性を、今日限りの嘘にはしたくなかった。
そうだ。現実の世界にだって、自分にだって、そんな相手がいてくれた。
すぐそばにいたのに気付けなかった。やっと見つけることができたんだ。
――大切にしよう、と思った。
誰かのことをそんな風に改めて考えるなんて、生まれて初めてだ。
でも、紛れもない本心だ。
傷ついて、失った後でも、何かを得られる未来までが失われるわけじゃない。
そう、世界は退屈な景色だけじゃないのだった。
部屋に閉じこもってばかりじゃ、決して見つけられない光。
ワクワクするような出来事や、楽しい時間はいつだって、ちょっと頑張れば届く距離にあるのだから。
俺はそのことを、もう知っているのだから――。




