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君が忘れた世界で  作者: 和泉きよ


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8/21

17歳のアン

 退院が決まった。


 病院を出るとき。

 私は少しだけ不安だった。

 記憶がないまま、知らない場所へ帰る。

 それが怖くないと言えば嘘になる。


 でも


「大丈夫ですよ」


 私は笑った。


「きっと、なんとかなります」


 ツキシロさんは何も言わなかった。


 ただ

 少し悲しそうに私を見た。


「……その言葉」


「はい?」


「無理に言わなくてもいいんじゃないか」


「え?」


「別に、大丈夫じゃなくてもいいだろ」


「……」


 私は笑顔のまま固まった。


 なぜか

 その言葉だけが胸に残った。


 ――私の家は、駅から少し離れた場所にあった。


 マンション。

 玄関を開ける。


「……ここが私の家」


「そう」


 ツキシロさんが後ろから言う。


 部屋の中は綺麗だった。

 生活感はある。


 でも

 不思議なことに


 自分の部屋なのに、他人の部屋を見ているような感覚だった。


「何か思い出す?」


「……少しだけ」


 机。

 本棚。

 ベッド。


 そして

 壁に貼られた写真。


「これ……」


 私は写真に近づいた。


 三人の少女が写っている。

 中央にいるのは私。


 その隣に

 見知らぬ女の子。


「ユナ……?」


 直感だった。

 ツキシロさんが頷いた。


「そう」


 写真の中のユナは笑っている。


 明るい笑顔。

 その笑顔を見た瞬間。

 胸が締めつけられた。


「……私」


「うん」


「この子と、仲が良かったんですか?」


「そうだった」


 過去形。


 その言葉が悲しかった。

 私は写真を裏返した。

 裏側に日付が書いてある。


 三年前。

 その下には、私の字で短い文章が残っていた。


『また三人で会おうね』


 私は指で文字をなぞった。


「……」


 また

 胸の奥が痛む。


「ツキシロさん」


「何?」


「ユナさんのこと、私は本当に大切に思ってたんですね」


「……そうだと思う」


「だったら」


 私は写真を見つめた。


「どうして私は、忘れたんでしょう」


 ツキシロさんは答えなかった。


 私は部屋の中を探した。


 何か

 三年前の自分を知るものがあるかもしれない。


 机の引き出し。

 本棚。

 クローゼット。


 そして

 一番下の引き出し。


 鍵がかかっていた。


「……これ」


「どうした?」


「鍵がかかってます」


 ツキシロさんが近づく。


「開けられそう?」


「たぶん」


 鍵は机の上に置いてあった。


 差し込む。

 カチッ。

 引き出しが開いた。


 中には一冊のノートが入っていた。


「日記……?」


 表紙には何も書かれていない。

 ページを開く。


 最初の数ページは普通だった。

 学校のこと。

 友達のこと。

 将来のこと。


 そして

 あるページで


 筆跡が変わった。


『またメイが出てきた。』


「……」


 私は息を止めた。

 次のページ。


『今日は三時間くらい、記憶がない。』


 次


『起きたら知らない場所にいた。』


 次


『メイは私より強い。』


 ページをめくる手が震える。


『怖い。』


『でも誰にも言えない。』


『また迷惑をかける。』


 さらに


『キユウに相談した。』


「……キユウさん」


 私は呟いた。


 次のページ。


『キユウは、私を助けると言ってくれた。』


 そして。


『もし私が止められなくなったら、お願いした。』


 そこで文章が途切れている。


「……お願い?」


 何を。

 私はノートをめくった。


 最後のページ。

 たった一行。


『私を止めて。』


「……」


 手からノートが落ちた。


「アン」


 ツキシロさんが拾い上げる。


「これ……」


「私が書いたんですよね」


「……そうだ」


「三年前の私が」


「うん」


「メイが何かするのを怖がっていた?」


「……」


「そして、キユウさんに助けを求めた」


 ツキシロさんは答えなかった。


「『私を止めて』って」


 私はノートを見る。


「これ、どういう意味ですか?」


「……俺には分からない」


「嘘です」


 思わず言ってしまった。

 ツキシロさんがこちらを見る。


「ツキシロさんは何か知ってます」


「……」


「ユナさんのことも」


「……」


「私のことも」


「……」


「メイのことも」


 彼は目を逸らした。


「教えてください」


「今は……」


「また今度ですか?」


 声が震えた。


「私は、いつまで知らないままなんですか?」


「アン……」


「私の人生なのに」


 その言葉を口にした瞬間。

 涙が出た。


 自分でも驚いた。

 泣くつもりなんてなかった。


 いつもなら。

 大丈夫って言う。


 笑って。

 冗談にして。

 全部終わらせる。


 でも

 今日は言えなかった。


「……怖いです」


 私は初めて

 その言葉を口にした。


「私、自分が何をしたのか分からないのが怖い」


 ツキシロさんは黙っていた。


「自分の中に、知らない自分がいるのも怖い」


 涙が頬を伝う。


「ユナさんのことを忘れてるのも怖い」


 ツキシロさんは

 ただ黙って聞いていた。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「でも」


「アン」


 彼は静かに言った。


「今は泣いていい」


 私は何も言えなかった。


 ただ

 泣いた。


 その夜

 私は日記を何度も読み返した。


 そして

 最後の一文の意味を考え続けた。


『私を止めて。』


 これは


 いったい誰に向けた言葉だったのだろう。


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