第57話「真碧」
菊乃が、足を止めた。
緑の花弁が、広間いっぱいに広がる。
座標が固定され、蒼慈のクナイの軌道が初めて大きく外れた。
「——領域か。
【真翠菊】だな。知っている」
蒼慈は即座に花霞を濃くし、座標の外へ逃げようとする。
教え子の技だ。
対策の手順も、頭の中にある。
『知っている、か』
菊乃の声は、静かだった。
『それは、古い話だ』
次の瞬間、広間の時間が、わずかにずれた。
蒼慈の踏み込みだけが遅れる。
花弁の落下は通常のままで、クナイを振る腕だけが半拍遅くなる。
自分の体が、自分の意図に追いつかない。
「……なんだ、これは」
『【真碧菊】。
領域内の、時間だ』
蒼慈の表情が、初めて崩れる。
「時間を——? そんな技、教えていない」
『教える側が、全部を知っているとは限らない』
紅華が、その隙間に槍を突く。
蒼慈は花弁で防ごうとするが、腕の速度が追いつかない。
石突が肩を打ち、クナイが手から滑る。
それでも彼は下がらない。
「……まだだ。
紅華を、止める。任務を、果たす」
青いプルメリアが再び咲き、毒の花弁が四人へ散る。
傷を負いながらも、クナイを拾い、突きを繰り出す。
時間のズレに体がついていかず、軌道はことごとく外れる。
なのに、足は止まらない。
菊乃の花弁が刃となり、武装を内側から剥がしていく。
紅華の槍が側面を抉り、心桜の小太刀が退路を塞ぐ。
琥珀の先読みが、最後の毒花の軌道を告げる。
蒼慈の体が、何度も弾かれる。
装束は裂け、ひび割れた肌の下から血が滲む。
それでも、最後の一歩を紅華へ向けた。
「……裏切るな……紅華……」
言葉の途中で、膝が折れた。
クナイが床に落ち、青い花が散る。
傷だらけのまま、意識を失って横たわる。
広間に、荒い呼吸だけが残る。
紅華が、一歩近づきかける。
師の傷だらけの横顔を見て、手が伸びそうになる。
——そして、止めた。
『……もう、いい』
短く、そう言っただけだった。
心配する声は、喉の奥で飲み込んでいる。
敵として立ちはだかった師を、今さら弟子の顔で見ることはできない。
菊乃は花弁を収束させ、短く息を吐いた。
『終わった』
心桜が刃を下ろし、琥珀は紅華の肩を支える。
青白花の残骸と、倒れた師の姿だけが、広間に残されていた。




