第32話「千眼」
鳥居をくぐっても、里らしいものは何もなかった。
古い社殿。手入れの行き届いた参道。
木々と、石と、風の音だけがある。
人家の煙も、人の話し声も、子供の足音もない。
心桜が、周囲を見渡して肩をすくめる。
『里?
人が住んでる気配、しないね。
もしかして、アテが外れちゃったかな』
『感触は、一致している。
空気も、敵の言葉も』
『でも、何もないよ。普通の神社』
琥珀も、刀の柄に手を添えたまま首を傾げる。
『……静か、すぎます』
三人は参道を進む。
石畳の先で、水の音がはっきりしてくる。
池だった。
水面に空が映り、古い橋がかかっている。
蓮のような影が、季節外れに浮かんでいる。
歌の一節が、三人の口の中で同時に苏った。
モネの蓮が うかんでる——
『……これだ』
菊乃が、短く言った。
心桜が池の縁に立ち、さらに奥を見る。
境内の一角に、一本の桜があった。
今は花の時期ではない。枝だけが、静かに空を切り取っている。
根元が、不自然に暗い。
石と土の境が、わずかに歪んで見える。
『千の眼を持つ桜——って、あの変な女が言ってたやつ』
『ああ。千眼桜だ』
案内の小さな札に、その名が書かれていた。
幻の桜とも呼ばれ、満開はわずか数日しかない、とある。
心桜の指が、覆いの端で止まる。
『……そういえば』
『どうした』
『あたしの眼の名前。
あんたが言ってた、【千眼桜】』
短い沈黙が落ちる。
『……同じ、だね』
笑いは出ない。
ただ、名前が重なった事実が、三人の間に沈む。
琥珀が、桜の根元を見て小さく息を吸う。
『ここが……入り口、ですか』
『気配がある。
下へ続いている』
菊乃は花弁を一枚、指に挟んだ。
表向きは、ただの静かな神社。
だが、三人には分かっていた。
この先に、山奥の花が眠っている。




