第2話「掛糸」
紙切れに残された言葉は、少なかった。
山の里。
桔梗。
娘。
それだけで、菊乃の中では十分だった。
港を出た夜から、彼女は動いている。
組織には報告しない。
独断だと分かっている。
だが、あの男が命を懸けて残した情報が、自分の記憶と重なりすぎていた。
母親の手。
夜の山道。
置いていかれた感触。
六歳の自分は、確かにあのとき、誰かと一緒に走っていた。
小さな手を引いていた気がする。
もう一人、もっと小さな影もあった。
妹がいる。
少なくとも、二人は外に出た。
菊乃は裏の情報網に金を流した。
「花の力を使う女」
「桜色の髪の若い女」
「腕の立つ女」
条件を絞り、名前ではなく特徴で追う。
花の力があることだけは、血の記憶として分かっていた。
髪の色も、幼い頃の残像に残っている。
それ以上の細節は、もう繋がない。
返事は、すぐに来なかった。
一日目。
曖昧な噂だけが返ってくる。
「港の方にいた気がする」「もう移った」「金髪ではない」——どれも芯を食っていない。
二日目。
別の筋から、「桜色の髪で、仕事を選ぶ女がいる」という話が出た。
護衛を請け負うことが多く、報酬の良い案件にだけ顔を出す、とも。
居場所は転々としていて、昨夜の接点はすでに消えている。
三日目。
情報が、少しだけ輪郭を持った。
その女は、裏の護衛を専門にしている。
そして、仕事のときも、していないときも、片眼を黒いもので隠しているらしい。
菊乃は地図の上に、短い線を何本も引いた。
仕事の発生地点。目撃情報。消えた方向。
線は一つの港周辺に集中し始めていた。
捕まらないように生きている人間の、典型的な動きだ。
定住せず、仕事のたびに場所を変える。
正面から名前で追っても、掴まえられない。
なら、相手から来させる。
菊乃は、高額の護衛仕事を流すことにした。
条件は故意に甘くする。
報酬は相場の倍以上。
荷物の内容は曖昧なまま、集合場所だけを港近くの倉庫に指定する。
乗ってくるなら、金に困っているか、腕に自信があるか、そのどちらかだ。
どちらでもいい。
姿を見せれば、それでいい。
夜の机に、仕事の通達を書き終える。
筆を置いたあと、菊乃は短く目を閉じた。
感情は、まだ出せない。
出せば、領域が崩れる。
それでも、胸の奥で一つだけ確かなものがあった。
糸は、繋がり始めている。




