第1話「翠菊」
夜の港は、潮の匂いと錆びた鉄の匂いが混じっていた。
男は走っていた。
正確には、走るというより、足を引きずりながら逃げていた。
体の内側で、何かが壊れていく。
息を吸うたびに、胸が焼けるように痛む。
——間に合え。
頭の中で、同じ言葉が繰り返される。
花の血筋。
長女。
菊乃。
名前しか知らない。
顔も、居場所も、確かなものなどほとんどなかった。
裏の世界で細く繋がる糸を、一本ずつ手繰るようにして、男はここまで辿りついた。
倉庫街の外れで、足が止まる。
そこに、白い髪の女が立っていた。
月明かりの下で、彼女はほとんど動かない。
ただ、静かにこちらを見ている。
目は緑色で、感情の色がほとんどなかった。
「……あなたが、菊乃か」
男の声は、すでに掠れていた。
女は小さく頷いた。
肯定とも、否定ともつかない、短い仕草。
「聞いてくれ。時間がない」
男は膝をつく。
懐から、血で汚れた紙切れを取り出した。
「里だ。……山の里だ。
計画が、進んでいる。
母親は……桔梗。
娘を、守るために残った」
言葉を吐き出すたびに、息が浅くなる。
「三人を逃した。
だが、まだ——」
そこで、男の言葉が途切れた。
影が動いた。
倉庫の屋根から、黒い装束の者たちが降りてくる。
目が白い。
肌には、不自然なひび割れが走っている。
菊乃の表情が、初めてわずかに変わった。
男は、自分の末路を理解したように、力なく笑った。
「……間に合わなかった、か」
次の瞬間、刃が男の胸を貫いた。
血が、夜の地面に広がる。
菊乃はすでに動いていた。
緑の花弁が、周囲に舞い始める。
『——邪魔をするな』
静かで、冷たい声だった。
花弁が空中で止まり、刺客の軌道が狂う。
刃は空を切り、次の瞬間には菊乃の後ろにあった。
彼女は無駄な動きをしない。
ただ、正確に、間合を潰していく。
一人目が膝から崩れる。
二人目の刃が花弁に吸い込まれ、消える。
三人目が下がったところを、座標をずらして足元を崩した。
殺しはしない。
動けなくし、口を封じる前に退かせる。
残った者は、互いに目配せをすると、闇の中へ溶けた。
「子八根様の——」と聞こえた言葉は、途中で切れた。
静かになった港に、菊乃は一人残された。
足元には、情報を残して死んだ男がいる。
紙切れには、血で滲んだ文字が残っていた。
山の里。
桔梗。
娘。
菊乃は紙切れを折りたたみ、懐に収めた。
幼い頃の記憶が、胸の奥で一度だけ疼く。
母親の手。
夜の山。
置いていかれた感触。
小さな手を引いていた気もする。
もう一人、もっと小さな影もあった。
妹がいる。
少なくとも、外に出た者がいる。
彼女は目を閉じ、すぐに開いた。
感情は、出せない。
出せば、領域が崩れる。
『……これで、終わりにはできない』
短く呟き、菊乃は夜の港を後にした。
残された糸を、手繰るために。




