第18話「翠域」
大剣が振り下ろされる。
——はずだった。
刃は、途中で空を切った。
軌道が、あり得ない角度に折れている。
巨漢の足が、踏み込んだ位置から半歩ずれ、体勢が崩れる。
「……なに」
言葉にならない声が漏れる。
次の斬撃も、その次も、届かない。
緑の花弁が、剣の軌跡の先々に先回りして浮かんでいる。
菊乃は、一歩も動いていない。
指先で花弁を一枚弾くたびに、巨漢の攻撃が虚空を裂く。
『【真翠菊】』
短く、名を呼ぶ。
花弁が一斉に座標を変え、巨漢の四肢の間合を強制的に潰した。
大剣が手から滑り、地面に刺さる。
ひび割れた膝が、音を立てて折れた。
「子八根様の……計画……
血が……必要……」
途切れた言葉を残し、巨漢は動けなくなる。
殺しはしない。
ただ、立てなくしただけだ。
琥珀は、刀の柄を握ったまま固まっていた。
今、何が起きたのか分からない。
大剣が振られ、次の瞬間には相手が崩れていた。
見えたのは、緑の花弁が舞ったことだけだ。
恐ろしさだけが、胸に残る。
姉と名乗るものの一人が、ああいうものを、ああいう速さで終わらせる。
自分が今まで生きてきた世界の外側を、初めてはっきりと見た気がした。
心桜は、刃を下ろさないまま菊乃を見ていた。
驚きと、戸惑いと、その奥に小さな興奮がある。
魔眼も斬撃も通じなかった女が、上位の個体を一瞬で沈めた。
勝ち負けの話ではない。
隣にいる人間の、桁が違うという実感だった。
『……本気、出してたの。今』
『必要な分だけだ』
『はあ、必要な分か。
……凄いね。あんた』
笑いは軽い。
だが、覆いのない方の眼は、はっきりと値踏みし直していた。
菊乃は巨漢から視線を外し、西の山を見る。
『情報は少ない。
だが、「血が必要」と「生け捕り」は確定した』
琥珀は、ようやく指の力を緩める。
刀が、鞘の中で小さく鳴った。
『……あの人、生きてますか』
『動けないだけだ。
放置する』
三人は、倒れた巨漢を残して歩き出す。
琥珀は一度だけ振り返り、すぐに前を向いた。
恐ろしさは、まだ消えていない。
なのに、足は止まらなかった。




