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鷙鳥厲疾(前)①【先生のアノニマ(中)〜6】

 年が明けた。

 具衛は相変わらず、山小屋と施設と図書館の三か所を巡るだけの生活をしていた。

 相変わらずの非番日の朝。勤務終了までの待機時間は、宿直室内のテレビで朝の情報番組を見るのが毎度のお決まりだ。が、

 それにしても──

 もうすぐ鏡開きだというのに、テレビも正月気分が抜けていないせいか、娯楽要素が強くて何処か締まらない。

 何が──

 そんなにおめでたいのか。

 一番真面目そうな情報番組がこの有様だ。地上波を諦める事にした具衛がリモコンを手にすると、普段は見ない衛星放送に切り替えた。そこでもやはりニュースを選択すると、国際ニュースが雪山で猛吹雪を映している。

「うわ」

 仏語でキャスターが遭難がどうとか、いきなり寒々しい事この上ない。それはまさに、今の具衛の心境そのものだった。

 仮名とは、あの日が本当に最後だった。小晦日(こつごもり)の夜から大晦日の昼まで臥所を共にした二人は、結局一睡もしなかった。成り行きとは言え、

 ホントに──

 よかったのか。

 具衛は相変わらず、二日に一直の代わり映えしない勤務を繰り返しており、季節に心を動かす事もなく日々を送り続けている。気がついたら施設の子供達の冬休みが終わっている、という始末だった。その中で、あの夜の事を思わない日は、一日たりともない。

 暗闇の中で、聞いた事もない仮名の(なまめ)かしくも甘い声に、心臓が飛び出るのではないかと思う程鼓動が暴れた。しなやかなのに驚く程柔らかく、限りなく丸い肉感に圧倒され続けた。触れ合うところの全てが、どうしようにもなく熱を帯び、汗が止まらず妖しい湯気が立ち込め続けた。それと共に甘い芳香が鼻をつき、脳の意識が何処かへ持って行かれるような感覚を覚えた。いつぞやのように気絶するどころではない、覚醒した異常な興奮状態の中で、時を忘れて夢中になって重なり続けた。

 気がつくと闇が白み始めた。そこでようやく視覚が戻り、それまで圧倒的な美しさの影で気づく事がなかった、鼻の頭のそばかすや、背中や肩にあるあざ、腕や足にある生傷など、人並みの痕跡が目につくようになった。それらは当然極微細で、普段はそれを見せる隙などない仮名だ。それを思うとそれが堪らなく愛おしく、包み込むように抱きしめては、明るくなってからも衣擦れの音は止まらなかった。具衛は無言で(むさぼ)り続け、仮名は身を(よじ)り続けた。

 完全に夜が明けて精も根も尽きると、今度はお互い腕を相手の体に巻きつけて、窒息する程唇を吸い続けた。そうでもしないと呼吸が出来ないと錯覚する程に舌を絡め合い、唇を腫らした。それが行き過ぎ、本当に酸欠寸前になると、仮名が具衛のそんなに厚くない胸板に顔を預けて、小さく啜り泣き始めた。その頭を抱え込んだ具衛が、何度も何度も優しく髪を撫でてやると、ついには昼がきた。

「時間──大丈夫、ですか?」

「──ん」

 これが最後の会話だった。

 それぞれがそそくさと脱ぎ散らかした下着をつけて服を着ると、顔のパーツというパーツを腫らした仮名が、最後にゆるりと、もう一度具衛の身体に巻きついた。声にならない声を具衛の胸に押しつけたかと思うと、ブルブル震えながら引っぺがし、何も言わずに車に乗り込むとあっさり立ち去った。それが別れとなった。

 気がつくと、居間のちゃぶ台に一通の封筒が置かれており、その中身を確かめると一枚の見慣れない紙切れが入っていたのみ。

「はぁ──」

 以来、全く締まらない。何もかも。

 ボンヤリ見ていた遭難のニュースは、よく見れば以前のものらしかった。その慰霊式典が執り行われたとか何とかで、元仏大統領が喪服を着て弔辞をたれている様子が、輪をかけて辛気臭い事極まりない。

 そこで、宿直室のドアをノックされた。事務所の職員だ。いつもは定時ピッタリに帰る具衛だが、今日に限って帰らないから呼びに来たらしい。

「あ、すいません」

 そこで始めて左手首につけている愛用の腕時計を見ると、確かに八時半を五分も過ぎている。

「つい、テレビを見入っちゃいまして」

 と言うその内容は、外国の慰霊式典だ。それもリアルタイムではなく、呼びに来た職員が不思議そうな顔をするのも無理はない。見入るも何も、その寒々しさで呆けていた身体が更に固まっていただけだ。

 そんな調子で何かを取り繕ったつもりの具衛が、テレビを切った瞬間、

"一六年が──"

 どうこうという、テレビの断末魔を耳が捉えた。

「──あ」

 と、軽く慌てて再びテレビをつけるが、つけ直した時にはもう別の話題に変わっている。別の局をザッピングしようとしたが、その横で呼びに来た職員の視線が痛い。

「何、か──?」

 どうやら入れ替わりで、宿直室を使う用事があったようだ。

「──はい、帰ります」

 結局そのまま、いつものリュックを背負ってトボトボと、追い出されるように施設を後にした。

「──もう、一六年」

 あれ(・・)から一六年だ。

 それ(・・)に絡む、分不相応の高規格時計を眺めながら歩いていると、習慣とは恐ろしいもので、いつの間にか図書館に足が向いてしまっている。そのまま何も考えず、足の気の向くまま。色のはっきりしない薄曇りの寒空の下、寒々しい田畑を眺めつつ川土手をのらくらと歩く事約三〇分。役所出張所二階の図書館を訪ねると、利用者は誰もいなかった。これも毎度の事だ。

 窓際のカウンター席で、何の気なしに地方紙を広げて目を通していると、

「はぁあ──」

 などと、誰かが静寂を切り裂く程の音量で、盛大な溜息を吐いている。大して大きくない館内だが、館員以外には誰もおらず、外ならぬ自分の溜息だと気づくのにしばらくかかるという間抜け振り。

 ──こ、こりゃいかん。

 いくら何でも呆け過ぎだ。少し気合を入れ直した方がいいだろう。俄かに席を立ち上がり、伸びをしたそんな時。今度は何故だか、足から振動音が聞こえてきた。

「ん?」

 静かな館内では、そんな疑問の声すら大袈裟に聞こえてしまう。慌ててわざとらしい咳払いをつけ加えながら足を確かめると、外ならぬ自分のスマホが、ズボンのサイドポケットの中で震えていただけだった。

 アラームなんか──

 セットしていない筈だが、一応取り出して確かめると、何と着信だ。

「げ!?」

 驚いたのは着信相手ではなく、時刻表示の内容だった。

 ──な、何ぃ!?

 気がつくと、いつの間か昼を回っている。

 こ、こりゃあ──

 本当に重症かも知れない。新聞の内容もろくに頭に残っておらず、スッポリ記憶が抜け落ちているようなザマだ。電話の相手はいつぞやのように、

 また──?

 大家(武智)で、気乗りしないがとりあえず出る。と、開口一番で、

「昼飯も食わずに、えー若いモンが何をしとるか」

 と言う、エスパー振りだ。

「どっ──」

 何処から見ているのか。武智は具衛の、そんな反駁する暇すら与えてくれない。

「馳走してやるから、今すぐうちに来い」


 約二〇分後。

 図書館がある出張所から武智家の豪邸までは、田園地帯を切り裂く一直線の取りつけ道路を約一kmの道のりだ。その突き当たりの正門前。

「今度は──」

 何用か。日頃ポケットに手を突っ込んで歩く事などない具衛が、ダウンジャケットのそれに両手を突っ込み、いつになくのらくらと武智邸の正門を潜る。と、その何処かの、段差とも言えない石畳の継ぎ目につまずいた。

「おっとっと」

 大きくヨロめいたが、それでもこけるようなザマはしない。が、手を自由にしておく事は危機管理の基本だ。まるでそれを誰かに指摘されたようで、

「へいへい」

 と、誰にともなく返事をした具衛が、一応殊勝に手を出して玄関へ足を向ける。そこから使用人に客間へ案内されると、思わぬ人物から声がかかった。

「気が抜けてらっしゃるのは本当のようですね」

「ユミさん!?」

 盆踊り以来姿を見なくなった、【ユミさん】こと仮名の家政士だ。広大な石庭を望む、三〇畳はある客間の一画。相変わらず慎ましく、座布団の上で背筋を伸ばして正座をしていたその人が、具衛の姿を見るなり座を外して深々と最敬礼をする。

「一体──?」

 只でも言葉足らずの具衛だ。いつも以上に言葉が続かない。それに構わず礼を怠らないユミさんが、やや置いてようやく身体を起こすと、

「高坂宗家で家政を預かっております佐川由美子と申します。その節は大変なご無礼を致しまして──」

 などと、実に滞りない口上だ。

「い、いえ──」

 こちらこそ、と返す具衛は、ようやく目が覚めたのか、慌てて正座で礼を返した。そこへ武智が顔を出す。

「お待たせ致しました。──何をトロトロしとったか?」

 さっさと座れ、と、器用に言葉を使い分け武智が、何の意図で呼び出してくれたのか。

 よー分からんが──

 高坂家絡みである事は確かだろう。何事か、許してもらえないのかも知れない。何せ大事な御令嬢絡みで、最後まで患わせた身だ。武智の口が辛辣なのも、そういう事なのだろう。

 ──まぁ。

 何でもこい。どうせ独り身だ。言われた通り、用意されている座へ座った具衛は開き直った。

「素晴らしいお庭ですね」

 と、始めるユミさんは、この庭が初めての口だ。季節柄、流石にガラス障子で仕切られた室内からは、直接それを臨む事は出来ない。が、それならそれで、ガラス越しに見えるそれは切り取った絵のようだ。田舎の事らしく、まさに奥の院を思わせる風情がある、と言い切っていい。

「ご主人様と初めてお会いしましたのは、昨秋でございましたが──」

 同じように感嘆されていた、と目を細める武智が、

「国家の佞臣(ねいしん)を前に我関せずで一歩も譲らず──」

 実に清々しい方だった、と言うそれは、演説会の折の事だろう。そんなやり取りを知らない具衛だが、如何にも仮名らしいと思っていると、同じように由美子が小さく失笑している。

「絶世独立とは、あのようなお方を言うのでしょうなぁ」

「折角でございますが、主人はまだまだ気骨稜々としたものでございまして、お褒めに預かるにはとても──」

「これははっきり仰いますなぁ」

 ハハハ、オホホと声が漏れる社交辞令がいつまで続くのか、と人ごとの具衛の前で、

「流石は名公賢佐と申しましょうか」

「実はその名公が、迷える子羊に──」

 なっているとかで、急転直下とはこの事だ。用件は、その事らしい。俄かに三人の顔が固くなる中、今回の来訪は由美子の

「──私用、ですか?」

 とかで、更に雲行きが怪しくなる。これには声色を変える武智も、どうやら突然押しかけられた口のようだった。

「誠に不躾な事で申し訳ございませんが──」

 高坂の言いつけでもなければ、里が広島の由美子だ。少し遅い正月休みの帰省がてらで、思い立っての事だとか。高坂の用では

 ないって事は──

 具衛に対する懲罰云々は、とりあえず消える。その入れ替わりで急浮上するのは、

 やっぱり──

 仮名の事のようだ。この三人の共通項など、その人の事しかないのだから、

 ──何だろ?

 急に身体がむず痒くなる。とりあえず思いつく用事と言えば、慌ただしく東京へ戻った仮名の、

 近況報告──?

 にしては、由美子の雰囲気は固く、大体が我が主の事を子羊などとぬかす訳もない。

 ──うーん。

 何となく胸騒ぎがし始めた、そんな時。

「──実は不破様にご相談がありまして、押しかけた次第なのです」

「え!? 私ですか!?」

 殆ど不意打ちのそれに、締め切られた室内で間抜けの声が響いた。が、由美子は殊勝なままだ。

「こりゃ」

「あ、すいません」

 武智に(たしな)められる前で、

「相談、と申しますか、追及と申しますか」

 と、俄かに由美子が気色(けしき)ばむ。

「──追及、ですか?」

 これは、

 どうやら──

 やはり具衛にとって、旗色が悪い場のようだ。

 ──マズい。

 近々に、身に覚えアリアリの具衛は、急に座り心地が悪い。何せ只でも、日頃座りなれない座布団の上だ。

「東京に戻られたお嬢様がどんな有様か──」

 あなたには想像も及ばない、と言う由美子の声が、言葉を発する度に辛辣さを増していく。

「アンタ、何か身に覚えがあるんなら──」

 早いところ頭を下げた方がよい、と言う武智のそれは、絶妙な助け船だ。

「す、すいません!」

 と、とりあえず言われるまま頭を下げたところで、由美子の憂さは消えない。

「このザマの男ですから、遠慮なく仰っていただいてもよろしゅうございますよ?」

 武智の言う通り、確かにネチネチと生殺しにされるよりは、何事かの事実を突きつけられる方がマシだ。と、脳内で思ったところで、

 ──事実かぁ。

 その重いフレーズに、近々の愚行が重くのしかかる。

 ──うわ。

 思い出しただけでも生唾が溢れ、ややもすると鼻血が出そうだ。

 あ、あんなの──

 死んでも言えるか。それにそれは、具衛の名誉だけではなく、仮名のそれも傷つける事になる。そう思い直すと、

 ──よ、よし。

 と、生唾の一飲みで、どうにか動揺を鎮める具衛だ。

「お陰様でお嬢様は、廃人のような有様なのです」

「廃人──?」

 と言う、また別次元のフレーズに、背中を嫌な汗が伝った。今シーズンは全国的に暖冬だ。が、季節は冬本番。室内は寒からずも決して暑くはない。が、先程来、背中に限らず、何やら汗ばんでいる。

「どこぞの罪作りなお方のせいで」

 それがこの場の他人という事はない訳で、

 ──俺?

 だと、言いたいらしい。

「あれ程の御仁をたらし込むような殿方ですか?」

 それはまた相当な、とあおる武智は楽しむ向きもある。好々爺面は仮面だ。その下で、人を食ったような図太さは、流石は田舎の御大尽としたものだろう。

「常々『詐欺師だ』と、申しておりましたので、その口車に乗せられたのやも知れず──」

 と、言われたそれは決定打で、

 ──ヤバい。

 理由をつけて、逃げた方がいいかも知れない。が、

「食事と入浴以外は、館の窓際で喪失状態。庭を眺めてはピクリとも動かない──」

 食事は殆ど喉を通らず、夜に目を瞑ればうなされてうわ言を繰り返し満足に眠れない。由美子を介して語られる、そんな仮名は、明らかに具衛が見てきた仮名ではない。

 何があった──?

 のか。

 ──クソ。

 それでも、近況が聞けるだけでもマシと言うか、また一目だけでも会いたいと思うとか。

「どのようなうわ言か、あなた様に想像出来ますか?」

「い、いえ」

「そうでしょうとも。あなたはそういうニブいお方です」

 人の、女の機微など一切分からない。分かろうとしない。と言う、追及というか糾弾の声は、

「激しく同感ですな」

 と、同調する武智によって、

 いつの間にやら──

 二対一の構図となっている、そんな時。

"ぐるるるるぅ"

 と、鳴ったのは具衛の腹だ。

「あ、いや、その──」

 恥ずかしがったところで、いい年の男の凄まじい間の悪さは、わざわざ怒ってくれと言っているようなものだろう。

「あなたというお人は!」

「す、すいません!」

 昼下がりなのに、何も食っていないせいだ。元を辿れば、昼メシに釣られて呼び出された経緯もある。まさか騙し打ちはないだろうが、いつまで経ってもメシを出さない武智も悪い。

「人をバカにするにも程がありますよ!」

「ホントにすみません!」

 激しく叱責される具衛が土下座に徹する中、呆れたような武智がようやく口を開いた。

「お話はごもっともですが、昼を過ぎましたし──」

 食べながらという事で、と言い終わるのがサインだったのだろう。隣室で控えていたらしい使用人が、有無を言わさず昼食を運び入れる。


 約一〇分後。

 松花堂弁当仕立ての膳は、具衛にとってはこの上ない贅沢なものだった。

 ──美味そう。

 だが、腹が減っていてもがっつけない場の重さが辛い。そこは我慢してチマチマと、膳を突きながら、残り二人の様子を伺いながらの昼メシだ。

「しかし、高坂様は気がかりですな」

「はい」

 上座に武智、下座の庭が望める奥に由美子、その向かいに具衛の配置でそれぞれが見合っている三人のうち、具衛だけが庭を背後に座っている。つまり、

 ──目のやり場がない。

 構図のそれは、暗に気を逸らす猶予を認めない、一種の査問のように見えなくもない。

 多分──

 気のせいではないのだろう。

 武智邸で食事をするのは、昨春東京から戻った折、不破家を代表して挨拶にまかり越して以来だ。何かと具衛を気にかける武智に対し、具衛にとっての武智は、済んだ事とは言え何処までいっても債権者で、

 いつ来ても──

 居心地が悪い。それに加えて忘れたかった高坂の話で、仮名の話だ。

 折角の御膳が──

 ろくに、味がしない。

 そんな事を漫然と考えながら箸を進めていると、

「うわ言で、先生先生と(うめ)いているもので」

 とかで、いきなり話の中心に引きずり込まれてしまった。

「ぶっ」

 悪い癖だ。油断している訳ではないのだが、不意を突かれてむせる。別れ際の情事のせいだろう。仮名が喘ぐ声で【先生】と連呼するのが、脳内で悶々と聞こえてくる。

「あんなお嬢様を見るのは初めてでして──」

「それは──」

 マズい、と武智が気にかけるのは、

「──高千穂先生との復縁は、進んでいるのでしょう?」

 という、その一事だ。

「はい。奥様も、お認めになられたも同じですので」

 要するに

 それって──

 高千穂の土産が整えば、すぐにでも婚約または復縁の運びになる、という事なのだろう。が、

「高坂の家中で、高千穂になびいている者など誰一人としておりません」

 と、由美子が強い口調で言い切った。呼び捨てが何よりの意思表示だ。

「──で、ございましょうなぁ」

 と言う武智も、外ならぬ選挙区後援会員。その辺りの機微は、察して余りある身だ。

「全ては、高坂の奥様のご意向次第、ですか?」

「──はい」

 口惜しそうな由美子の返事が、勝手に武智を訪ねた由美子の心境を物語っている。仮名の母高坂美也子は、事実上の高坂宗家当主だ。その意向に逆らえる者など、家中には存在しない。裏で国すら操るようなそのご婦人に対する反心は、殆ど即死と同意だろう。が、どうやら由美子は今、それに近い事を

 やろうと──?

 しているようだ。先程来、その雰囲気で満たされている客間は、俄かに具衛を責め立てている。

 今更俺に──

 何をしろと言うのか。確かに仮名の事は気になって仕方がない。が、これ以上の面倒事は御免だ。

「奥様は、平生は大変素晴らしいお方で、私が評するなど恐れ多いのですが、その──」

「信念は絶対に、曲げておいででない」

「はい──」

 それは、

 ──そうだろうな。

 高坂美也子は身一つで立身し、日本一の家へ嫁ぎ、今の地位を確立した稀代の女傑。刃向かう者に情けをかけていて成し得るその座ではない。

「何よりお嬢様がお気の毒で」

「そうでございましょうなぁ」

 それに関しては、

 ──激しく同意。

 の具衛だ。由緒正しい家柄の令嬢など、下手な公人以上に息苦しいに違いない。問題無用で家を背負わされるのは、自分の上に無理矢理殻を被せられるも同じだ。自由がない。地位と財は約束されているが、それだけだ。食っていく分は問題ないが、生き様に選択権がない。仮名の晒され振りと制約振りを見れば明らかだ。

 どっちが──

 いいのか。極端な言い方をすれば、牢屋の中で生き長らえるか、死の危険に怯えながらも塀の外で生きるか。

 ──究極の選択。

 子供の頃、周りがそんな事を言っていたのを思い出す。選べるのであれば、

 俺は問題無用で──

 後者を選ぶ。実際に具衛は、貧困の中で自ら選択して生きてきた。が、仮名はどうだったのか。後者を選択したかったようだが、最後はやはり前者を選択した女に、具衛は戦力として

 ──当てにされなかったしなぁ。

 精々、籠の鳥のボディーガード程度の価値しか認めてもらえなかった甲斐性。しかもそれは、具衛の素性を知った上での答えだ。

 それならもう──

 具衛に言える事は何もない。

 一緒に逃げても──

 よかったが、仮名はそれを求めてこなかった。生来、プライドの高い女傑だ。人生の重大事を他人から与えられるなど、許せないのだろう。

「ご自身の事を籠の鳥だと──」

「ご心中はお察し致します」

 確かに、それも理解出来る。

 出来るんだが──

 具衛はそこが物足りない。

 らしくないと言うか──

 その辺りの事を才知溢れる彼の麗人は、具衛などよりも深く理解している筈なのだ。

 なのに──

 何故。

 実息を人質に取られている状況は分かる。が、それに屈するのが嫌なのであれば、

 それでも最後は──

 戦わなくてはならない。

「元々不器用な生き方をされてこられた方でしたが──」

「不自由の中で、もがいておられたんでしょうな」

 それも、分かる。

 分かるんだが──

 自由とは、自ら獲得するものだ。仮名はそれを、具衛よりも知っている筈なのだ。

 筈なのに──

 何故、戦わない。

 一見優しく見えるこの男は、これで最後の最後までそれをけしかけたつもりだった。

 だったんだが──

 仮名は立ち上がらなかった。そんなところも、

 俺の甲斐性の──

 なさなのかも知れない。

 この甲斐性なしは、これで戦いに身を投じた男だった。家族と死別後、彼は日本を出た。借金から逃げるつもりはなかったが、ヤケになっていなかったと言えばウソになる。借金返済の意思表示は、バカにされ続けた人生の、最後の意地のようなものだった。それさえ果たせば、望みの薄い人生など歩んだところで仕方がない。別にいつ死んだところで困る者などいない身だ。それなら死んだ気で、生きれるトコまで生きてみようと思った。そんな調子で生きるのなら、これ以上暗い思い出しかない狭い日本にいても、

「鬱積が募るばかりの人生で──」

「だから一時期、窮屈な日本を出られ、活躍されたのでしょう」

 そんな仮名の人生を、まるでなぞらえるような具衛は、高校を中退した直後、偶然にも渡仏した。当時身一つの、何の取り柄も持たない、本当の意味での素寒貧(すかんぴん)だった彼が選んだ職場は、事もあろうに【外人部隊】だった。仏陸軍が誇る多国籍部隊のそれだ。どうせ死んだつもりで生きるのなら、死に程近い所がいいだろう。そこで自分の中に起こる様々な化学反応を期待した向きもあるが、世界は法が行き届いておらず、未だ暴力が支配している事を既に身をもって知っていた彼は、あわよくば傭兵として生業を立てる事を思いついた。未成年ながら、親の借金取りに罵倒され倒した人生。頭を下げ続ける事で失われていく人としてのプライドの大切さを嫌という程学んでいた彼は、鬱憤晴らしに暴力を求めた。と言えば野卑に聞こえるが、突きつけられる理不尽に抗う術として、基本的なそれを学ぼうと考えた訳だ。軍隊とは、人類の最も古い歴史と共にある暴力装置の一つで、それを学ぶのに実戦経験豊富な外人部隊程適した組織も中々ない。一見大人しい具衛のこの行動には、流石の武智や山下も予想外だったようで、彼らの開いた口が塞がる前に具衛は渡仏を強行する。

 最下層の民衆が決起し、自らの人権を戦って勝ち取った歴史を持つ仏国は、国是に世界的にも有名な【自由・平等・博愛】をトリコロールの国旗に関連づけて掲げる、民主主義に敏感なお国柄だ。その一方で、個人主義にして合理性を尊び、感情や情緒より論理を重視する傾向が強いと言われる。多くの同年代の若輩者が、漫然と日本の平和に(うつつ)を抜かしていた時、

「もう諦めてらっしゃるところがございまして──」

「お立場的に、自立はお難しいのでしょうね」

 そんな無気力が世相を支配していたバブル崩壊後の日本を偶然にも脱出していた具衛は、体当たりでしぶとく確固たる自立を養った。

 人は人で──

 己は己だ。良くも悪くも個人の尊厳を尊重する。それまでの人生で、自分以外の人間という人間に散々振り回され続けた男が、初めて自分のための人生を得たのが血なまぐさい軍隊という組織である事の皮肉と言うか混沌と言うか。彼らしい波乱な在隊生活は一〇年。無事に帰国した男は、自立と共に極薄く社会と繋がり生きていく事を希望するが、日本ではこれが中々理解されない。一方的な共存型社会は、それにすがりつく無自覚な他力本願の蔓延のようで幼稚。我が親の有様に現代日本の、自由な時代の悪い面を見た男が、それを言葉に出来る程に成長した時、彼は皮肉にも子供染みた外見を帯びたままだった。

 その外見と思想が全く合致せず、容貌がマイナスに作用する事だらけの具衛が独り身なのは、資力だけの話ではない。飄然とした雰囲気の中に携える意外な鋭さは、大抵理解される前に愛想を尽かされ、時として敵を作る。当初仮名が、名乗らず山小屋を訪ね続け、具衛の防御権を侵そうとした事例などは、まさに他人の具衛に対する外見上の評価の表れだ。具衛はそのボヤけた見た目のために、他者にとって都合のよい人間だと思われがちな人生を歩んできた。分かりやすくは、

"見た目程優しくない"

"てゆーか何様!?"

 自己評価の甘さとその棚上げ、他者評価のいい加減さと厳しさを、他人から腐る程拝まされると、彼は幼稚な日本を諦めた。借金を返すまでは社会性を保ちつつも、屈折した独り身を貫く。その後は何処へでも行って好きに生きるつもりだった。

 ──のに。

 偶然にも出会った仮名は、

 こんな俺と──

 この世を繋ぐ最後の希望のようだった。仮名は皆まで聞かず理解していて、そんな聡明さが嬉しくて、最後は若干突っ込み過ぎの過干渉をしてしまったが、

 それももう──

 終わりだ。

 戦力として当てにされないのであれば、必要以上に首を突っ込まない。勝手にデッドラインを越えてしまえば、聡明な仮名の事だ。何らかのその思惑に反するかも知れないし、裏目に出ないとも限らない。

 だから俺の出番は──

 もう終わったのだ。後は何を言われようが、何を聞こうが人ごとなのだ。

 そう思わないと──

 色々と思い出して、何をしでかすか分からない。

「──本当に人ごとですねぇ、あなたは?」

 武智と由美子の間で話が進んでいたようだが、具衛はボンヤリ箸を動かしていて、まるで内容を掴んでいなかった。が、

 それ(人ごと)も──

 よく言われる。協調性を重んじる国民性のせいだろうか。それが悪い依存心を生んでいるとしか思えない、平和ボケした日本。「誰かが何とかしてくれる」という依存が達成されない時、決まって「人ごとだ」と責められる。そこで思考を停止し、かつ一方的に責めるという極めて都合のよいその言葉こそ、現代日本に蔓延する排他性と攻撃性の象徴にして、寛容で柔軟な民族性の裏の顔だ。海に囲まれた隔絶の島国は、文化文明の坩堝(るつぼ)を口しておきながら、一方で視野狭窄にして頑迷な保守思想が根強い。

 こんな時は何も言わないか、

「はあ」

 と、惚ける事にしている。

「一つお尋ねしますが、よろしいですか?」

 予想通り呆れた様子の由美子に、具衛はとりあえず箸を止めた。

「はい、どうぞ」

 と、箸置きに箸を置くと、一応背筋を伸ばしておく。

「お名前は【ともえ】と仰るのではないですか?」

 それを耳にした具衛が小さく痙攣した。その反応を見た武智が、

「ワシは言っとらんぞ」

 と、先回りする。

「──やっぱり」

 その由美子の言葉尻が少し詰まった。

「くっ──」

 何か言いたいようだが、上手く出てこないらしい。手で謝罪を示すと、辛辣だったその人がそそくさとハンドバッグからハンカチを取り出し、それを目元に当て始める。

「──悔しいです」

 そんな声は、もう絶え絶えだ。

「こんな人でなしに、お嬢様のお気持ちが弄ばれていたと思うと──」

 それがグズグズになるのに、時間はいらない。

 ああ──

 泣き落としだ。

 密かに興ざめの具衛が、僅かに目線を下げて、それから目を逸らす。

「あのお方のこれまでの人生は、中々理解者に恵まれず、常に一人でございました」

 物語調になると、一応聞く姿勢を保っておく。それは自己を貫く担保のようなものだ。感情に流されやすい日本でそのスタンスは、特に対女で論破、面罵の原因となったが、具衛はそれを淡々と受け入れていた。

 どうせ──

 口を開いたところで理解してもらえない。つまりは諦めだ。

「『良き理解者が必要だ』と、お伝えした事があったのを、覚えておいでですか?」

「はい」

 それを聞かされたのは盆踊りの時だった。思えば

 あの時──

 間違えて、仮名にビールを渡していなかったら。帰りの運転に支障が出た事で、思いがけずその居所を知る事になった

 あれが──

 なければ。二人は、

 ──どうなってたモンかな。

 少なくとも、おたふく風邪騒動で仮名のマンションに押しかける事はなかった訳で、

 あの接吻も──

 なかったのだろう。

 ──マズいな。

 一つ思い出しただけで、この有様だ。先程来、胸騒ぎが只ならない。

 それにしても、

 また──

 過去の失態をあげつらわれて、ここぞで面罵するつもりのようだ。それもこれも、

 ──毎度の事だなぁ。

 具衛の顔から表情が消えていく。

「あれは本当の事なのです」

「そうでしょう」

「何故あなたがそう言えるのです?」

「以前、これまでの半生を聞かせていただいた事がありまして──」

 歪んだ目に晒され続けて辛かった、と、あの仮名が弱々しい事を漏らしていた、とか。彼の女を知る人間が聞けば驚くだろう。由美子もやはり、その口だった。

「そこまで聞いておきながら、あなたは一体何を──?」

「はあ」

 間抜けに見えるそのザマは、実は世に対する諦めである事を理解出来る人間の少なさだろう。大抵はそれが火に油となる事を知っている具衛だが、それが一番火勢が弱い事も知った上での事だ。

「もう一々説明するのがバカバカしいので省きましょう」

 心底呆れたような由美子も、やはりそれなりに油を注がれたようだが、よく粘っている方だろう。相手が何かを抑える様子は、蔑まれる事が多い具衛にとっては珍しい。

「あなたは、お嬢様を本名で呼んで差し上げた事がおありですか?」

「いえ、ありません」

「何故ですか?」

「素性を伏せた交流でしたので──」

 単にそういう約束だった。

「素性が分かった後も、お二人で決められた通り名で呼び合っておられたのでしょう?」

「ええ」

「何故ですか?」

「自らの素性に、苦しんでおられたようなので──」

 あえて呼ばなかった。

「まぁそうでしょうね」

「お互いに素性を明かせる時が来ればよいと、以前仰っておいででした」

 と、武智が絶妙なタイミングで口を挟む。

「余計なステータスが見えない分、人間性を直接見つめる交流は実に興味深いもので──」

 その行き着く先が年甲斐もなく気になっていた、と言う武智の興味は尽きないようだ。

「そう──それでお嬢様は、この人に移り気を」

「当初は然程深くお考えではなかったご様子でしたが?」

「確かに私もそう思っていたのですが、それがいつしか──」

「さらけ出したくなってしまわれた、と?」

 具衛が由美子に詰問されていた筈が、いつの間にか、武智と由美子がトントン拍子で話を進めているそれは、

 まるで──

 この場に居ない人間の事を暴く暴露大会めいている。

「ご本人がおられない所で、そのような暴露話は──」

 二人にしてみれば他人の話でも、具衛にとっては自分達(・・・)の話だ。しかもそれが、その片割れの心情を詳らかに

 するとか──

 それは良くも悪くも心臓に悪いし、何より小っ恥ずかしい。が、それを、

「黙らっしゃい!」

 と、由美子がここぞで痛罵してくれる。

「あなたには聞く義務があります!」

「は、はあ」

 義務と言うからには、余程の事なのだろう。

 やっぱり──

 惚けていた方が火勢は最も弱い事を改めて思い知る具衛は、今度こそ押し黙る。

「結局このニブいお方に、最後まで自分の存在を正面から受け止めてもらえなかった事が──」

 心残りだったようだ、とか。

「あそこまでのお方の素顔を見る者など、この世では数える程でしょう?」

「そうです。それをこのニブいお方は、女心がまるで分かっておられず、最後の最後まで我を通して──」

「それは元々仮名さんがそれを求めておられたからで──」

「だからあなたはニブいと言うのです!」

 いつもはもっと上手く惚ける具衛が、またしても怒鳴られる事の不思議だ。我慢出来ない今日の自分は何処か、

 ──おかしい。

 とにかく胸が騒いでいる。その理由を自分は知っているが、それを認めたくないもう一人の頑なな自分のせいだろう。

「人の心が始まりから終わりまで、ずっと同じである筈がないでしょう!?」

「ま、まぁ──」

 そうだ。逆に人心など不安定でしかない。が、何故仮名のそれに限って、そう思えなかったのか。今更ながらに、そんな疑問が浮かぶ。

「良くも悪くも感情ある生き物ですよ? それも高度な知能を持つ人間という──」

 その中でも、特に明晰な仮名だ。そのブレない強さのまま安定していると、今の今まで勝手に思い込んでいた。

 そうやって俺は──

 一方的に決めつけていたのかも知れない。

「こういう理屈っぽい説明をするまで分からないなんて。男ってどうしてこうなのかしら?」

 まるで仮名のような由美子の鋭い舌鋒は、あの主にしてまさに賢佐だ。

 そういやあ──

 お互いの素性がバレた後の仮名は、何となく仮名(かめい)から離れようとしていた。

「うわ言で『ともえさん』と──」

「え?」

「涙ながらに──」

 仮名が具衛の名前を呼んでいた、とか言う

「──女心があなたに分かりますか!?」

「い、いや──」

 それをあの仮名がする事が、俄かに信じられない。

「それは何とも──」

 男冥利に尽きる、と言う武智のそれは、具衛にとってはダメ出しで叱咤だ。

「初めて聞いた時、お嬢様のお知り合いの女性のお名前かと思いました」

 漢字表記では何処かじじくさい具衛という名前は、読んでみると女にありがち。幼少期から青年期まで、必ず名前でバカにされた具衛にとって、自分の名前は忌々しさの象徴でしかない。が、

「余りにもその口振りが切なそうで──」

 しかも、何度も繰り返されるというそれは、外ならぬ稀有の美女である事の誉れ。何より具衛自身が、心を許した愛しの人である事のもどかしさ。

「あの自信満々の高飛車なお嬢様の口から、あのような弱々しい声などかつてない事で──」

 その救済を求める声が聞こえなかったのは、諦念がもたらした頑なさのせいだろう。

「もしかしたら、山小屋の御仁の事ではないかと思い至ると──」

 いても立ってもいられなかった、と言われてしまうと、それは今の具衛も同じだ。

「何とも──」

 と、感慨深そうに嘆息した武智が、

「──どうする?」

 と、具衛を見る。

「何日か有休を頂くかも知れません」

「ああ、それなら分かり次第教えてくれればいい」

「分かりました」

 具衛はそのまま誰にともなく頭を下げると、そのまま座を外した。膳は膳で、既に食い切っている。

 ──俺は俺だな。

 もう自分の中の誰かは、仮名に対する想いを認めてしまっているのだ。

 もう──

 止められない。

 高千穂を勝手にライバル視して、知らず知らずのうちに僻んでいた自分。仮に高千穂がライバルだとしても、よく考えてみれば、高千穂はその立場を仮名に利用されただけだ。片や、

 俺は──

 既に身も心も預けられた、と言っては言い過ぎかも知れないが、限りなく親密なレベルで寄せられていた事は間違いないのではないか。こんな回りくどさこそが、

 何を今更ゴチャゴチャと──

 考えているのか、という事ではないのか。まさに由美子の言う通り、小理屈を捏ねてグズグズしていただけの自分に腹が立つ。その小理屈でさえ、既に矛盾だらけだ。人は人、己は己でやってきたのであれば、自分の素直な想いに従えばいいだけの話。誰に何と言われようと、愛しい者を救いたい。それだけだ。それ以外に理由などいるか。

 足早に玄関へ向かう道すがらでダウンジャケットを羽織った。その左袖口から愛用の腕時計が顔を覗かせると、それを見る具衛の目に、珍しくも剥き身の鋭さが宿っている。

 結局は──

 いつもこうだ。

 俺にしか──

 出来ない事がある。

 だからこそ、時を隔て場所を変え、入れ替わり立ち替わり、何物かにけしかけられる。

 ──そんな(・・・)人生。

 と思ったところで、

 ──損な(・・)人生?

 と、脳内で漢字に変換してみた。

 ──どうだかなぁ?

 自らの間の悪さに微かな自嘲を浮かべる具衛は、ポケットに手を突っ込む事なく武智邸を後にした。


 一月半ばを過ぎた。

 見た目の具衛は、何の変哲もない二日に一直を繰り返していたが、その日の非番は明けてすぐ、直近の時間のバスに乗って駅へ出た。そこから更に在来線に乗って広島駅へ向かい、そのまま新幹線に乗り換えた、その日の昼下がり。

「──うわ」

 と、人の多さに辟易しながら降りたのは、終点東京駅だった。もう当分はこの喧騒に塗れる事などないと思っていたのに、

 まさかの──

 一年経たずの再訪だ。

 その人ごみの中で更に乗り換え、中央線で西へ数十分。おやつ時に辿り着いた先は、都内の某学校だった。ちょうど授業が終わったのか、正門に立ち尽くす具衛の前を、制服姿の学生がゾロゾロ下校している。

 ──ここ、だよな?

 一人で首を捻っているその傍で、今時(・・)の高校生達が大小様々なグループで固まってたむろしている様子は、一見秩序的に見えない。

 うーん──

 東京暮らしの記憶は、まだそれなりに残っている具衛だ。その記憶では、それなりの学校だったと

 ──思ってたんだが?

 金髪にピアスは然程の事ではなく、アニメから出てきたような赤やら緑に染めたのやら、青やら赤い瞳はカラーコンタクトか。

 どうなってんだこりゃあ──?

 その今時めいた学生達に具衛がたじろいでいると、

「何か御用ですか?」

 と、その中の一人に声をかけられた。最早スタンダードレベルのピアスに金髪女子だが、意外にも物言いはスマートでしっかりしている。

「ええっと──」

 まさか声をかけられるとは思わず、驚く具衛の声が裏返ったが、それならそのついでだ。

「──シーマさんとお約束があって来たのですが」

 と、尋ねると、

"ああ──"

 とか、

"通りで"

 と、言う声が上がる。

 なっ──

 何なんだ。

「ちょうど呼んでいますので、こちらでお待ちください」

 やはり他の金髪ピアス君が、確かな物言いで答えてくれた。が、

「それは、どうも」

 と、会話が終わると、門の前でまたギャアギャアと。喧騒に塗れる始末だ。周囲のご近所に対する騒音上の

 ──脅威だなぁ。

 そんな何処かしら、チグハグな生徒達と共に待つ事数分。やはり校内から、新たなるヤンチャ者達が現れた。

 やれやれ──

 何処にでもいそうな半端者を育てるような学校ではなかった筈だが、

 ──どうなってんだろ。

 それともまさかの学校間違いか、と思い始めたそんな時。そのヤンチャ者達の中に、自分と似たり寄ったりの年齢体格の男が紛れ込んでいる事に気づく。当然、学生ではない。一見して職員風情のその男に、警戒を解いた具衛が、

「シャーさん!」

 と、叫んだ。すると具衛に呼ばれた男が、

「タクさん!」

 と、叫び返して、小走りに駆け寄って来る。

「お久し振りです!」

 具衛に似て柔な笑みを浮かべる男が、傍に来るなり具衛の両手で取ると、ブンブン振り回した。

「変わってないな!」

「タクさんこそ!」

 他人の空似か、背丈も殆ど同じなら顔つきまで似ている二人だ。

「先生、戦友か何かですか?」

 それとも兄弟? と、傍にいた生徒が茶化すのも無理はない。が、茶化された【シャーさん】はそれを気にもせず、堂々と答えた。

「そうとも!」

 掛け替えのない無二の戦友だ。が、その戦友が待っている具衛に、

「ちょっと待っててください」

 と、断りを入れると、正門から隣接する道路へ出る。どうやら、

 先生なのに──?

 生徒達の集合写真の撮影要員だ。しかも、

"しっかり撮れ"

"目が半開きだ"

"写真撮った事あるのか"

 等々。随分な言われ方をしている。

 まぁ確かに──

 具衛の記憶でも、柔い見た目のせいで、よくバカにされるシャーさんではあった。が、仮にも先生だ。

 ──少しぐらい言い返さないのかよ?

 今日日の学校の先生ともなれば、生徒との関係性も色々あるのだろう。と、思いきや。

「きさまらぁ──! 正門でたむろすンなっつっただろぉがぁ──!」

 と、猛烈な女が校内から突進して来るではないか。それが一見してアラサーの派手な身形で、当然生徒ではないのだろうから、

 これも──?

 先生、なのか。すると、

"うわ!"

 と、揃って声を上げたヤンチャ者共が、本気で血相を変え、文字通り蜘蛛の子を散らす勢いでチリヂリバラバラだ。

「あらまぁ──」

 呆れる具衛は、一応学校を訪ねた客なのだが、脇目も振らない女は蜘蛛の子共(・・・・・)を何処までも追いかけて行き、ついには見えなくなってしまった。

 生徒が生徒なら、

 先生も先生──?

 としたものなのか。派手な言動につい目を奪われたが、身形は生徒達とは対称的に、

 スッキリしてんのに──

 と、思い返した具衛の脈が、何の時間差か。遅ればせながら跳ねた。

 そういやぁ──

 赤い髪だったその人は、端正なパンツスーツにフラットシューズの活動的なシルエットで、おまけに残香までが鼻腔の奥の記憶と合致する

 ──とか。

 こんな所でさえ仮名を思い出してしまう具衛は、それこそ

 他人の空似にしては──

 似過ぎていると思う自分の何かを疑う一方で、密かに動揺を鎮める事に躍起だ。

「や、やれやれ」

 と、表向きはやはり具衛と似たような反応を示すシャーさんは、

「三年は、今日が卒業前の最終登校日で──」

 その記念で色々とやらかすのを止める御目付役だったらしい。最近流行りの中高一貫校の、高等部の連中らしいが、

「それにしちゃぁ──」

 シャーさんはやられっ放しのように見えたのは、決して気のせいではないだろう。その辺は具衛に似て、そういう男だ。

「ま、まぁ、鬼がいない間に入りましょうか」

「鬼?」

 と言う今度のそれは、どうやら女先生の事らしい。

「我が校は自由を尊ぶ校風でして──」

 あれで賢いヤツらばかりで色々と面倒で、と愚痴るシャーさんに肩を押された具衛は、色々と腑に落ちないまま正門を潜らされた。


「日本の諜報部も、流石にここまでは忍び込めんでしょう?」

 と嘯く、わざとらしいシャーさんが足を運んだ場所は、校庭と校舎の境目にある石のベンチだった。校庭では、運動部の生徒達が部活動を開始しており、中々賑やかだ。

 片や校舎側では、文化部の生徒達がやはり部活動に勤しんでいるのか、何処からともなく吹奏楽系の楽器の音が、風に乗って聞こえて来る。関東平野でお馴染みの空っ風も約一年振りだが、気のせいか例年より寒さを感じない。

「諜報部?」

「公安ですよ」

「諜報部って言えたモンかね?」

「勤勉さでは立派なモンでしょ」

 その、何処かしら見下した口振りは、明らかに学校関係者のものではない。それもその筈で、具衛を戦友と言ったこの男は、仏外人部隊では【安一三(アンイーサン)】と名乗っていた台湾人だった。日本語が堪能だったその後輩は、具衛と何年か苦楽を共にした友だったのだが、どういう訳か現在は米国に帰化し、【レイ・シーマ】と名乗っているらしい。しかも米空軍の現役将校というおまけつきだ。

「──少佐だっけ? 出世しましたなぁ」

「運だけですよ」

 生き残っていれば誰でもそれぐらいにはなれる役回り、とか。確かに、世界中の争い事に首を突っ込んでいる米国の事だ。戦時で生き残れば出世しやすい。それを言っているのだろう。が、それならそれで、

「一見普通の日本の学校に、米軍の出向先があるとはねえ?」

 と言う、具衛でなくとも気づくその不思議。軍人の出向先も種々様々だが、その中に普通の学校というのは余り聞かない。それも日本の学校などと、驚いて当然だ。

「まぁそれはいいとして──」

 押しかけた身の具衛だけに、それ以上の詮索を止める。本来なら電話やメールで済ませてもよい事を、わざわざ対面を希望したのは具衛の都合だった。少し前まで外相(高千穂)を敵に回して警察に追い回された身だ。通信を始めとするデジタルデータ上で、下手な痕跡を残して友に迷惑をかけてもいけない。そんな具衛に応えたシャーさんが、再会場所を現在の勤務先に指定した事による学校訪問、という経緯だ。未だにつけ回されているとは思えないし、その気配も感じない。が、仮に気づかぬ所でつけ回されているとしても、広島からこんな所までつけ回すとも思えない、そんな具衛の思惑による具衛の都合。

 確かにここなら──

 形振り構わない限り、妙な手出しは難しいだろう。広い校内は関係者以外立入禁止が原則で、外から覗こうものなら昨今の不審者対策をそれなりに講じている学校の事だ。明らかに浮いてしまう。では、近辺の建物内から覗き込む手もあるが、それならそれで、今は生徒が多く目も気も散って仕方がないだろう。木を隠すには森だ。ピンポイントの盗撮盗聴は、まず出来ない。残るは来客を装っての侵入だが、不審な来客はシャーさんがチェック済みだ。米軍人が先生をやっているような学校なら、セキュリティーに万全を期す必要があるのだろう。具衛の事情を知ってか知らずか、シャーさんは自信をもって学校で迎えてくれたようだった。

「それにしても、ホントに先生やってんの?」

「俺自身が一番意外に思ってるつもりではあります」

 と、自信満々のシャーさんは、これまでの経歴の中に教職はないらしい。

「ふーん」

「英語のALT(・・・)でして──」

 臨時講師扱いで赴任中なのだとか。正式には外国語指導補助教員と呼ばれるそれは、英語を担当するのであれば大抵欧米人だ。が、シャーさんは百歩譲って国籍は欧米人だとしても、見た目は何処からどう見ても東洋系。と言うより、黒髪の醤油顔で、日本人そのものだ。それならそれで、流暢な日本語を何処で得たのか。具衛は、仏軍時代のシャーさんしか知らなかった。

「今年は温いね」

 暖冬の影響なのだろう。今ではすっかり山奥の人間の具衛としては、寒暖よりも(すす)けた空気が気になる。

「そうなんですか?」

「うん」

 そういうシャーさんは、去年久々に日本の土を踏んだらしく、冬の東京は一昔振りらしい。やはり日本に滞在歴を有するらしいこの男の過去を、具衛は詳しく知らなかった。

「しかし、活気があるねぇ」

 流石は都内有数の名門私立、とか言う具衛の記憶と先入観が、ここへきてようやく学校の雰囲気と一致し始める。

「まぁ中等部も含めて二〇〇〇人ですからね」

 その名は全国にも轟く名門だ。が、

「片や俺の母校ときたら──」

 誰でも入れる完全無欠のポンコツ公立校。

「──生徒だけ無駄に多かったよ」

 比べるとすれば、そこしかない悲しさだ。しかも、そこでバカにされていた具衛などはポンコツ中のポンコツで、その上そこを中退したなどと、

「生粋のポンコツだったなぁ」

 と、振り返る具衛に、自虐はあっても恥はない。そもそもが、生活の基盤すらろくに整っていない、ポンコツ家庭だったのだ。学などゆとりの最たるもので、それが当たり前だろう目の前の生徒達は、具衛にしてみれば人種が違うと言っていい。

 もう少し──

 まともな家庭に生まれていたら。

 俺は──

 どうなっていたのか。

 モヤモヤとそんな仮定を募らせていると、少し遠目の何処かから指笛が鳴った。

「ん?」

 その方を具衛が向くと、横では既にシャーさんが、

「うわっ!? 何だろ!?」

 と、腰を浮かし、それこそ先程の蜘蛛の子共(ヤンチャ生徒)のように、俄かに血相を変えている。

「どしたの?」

「ちょっと待っててください!」

 来客だって言ってたのに、と愚痴りながらもそそくさと向かう先を見ると、校舎の二階の窓からこちらを見る人影があった。先程の猛烈な女先生だ。

 遠目に見ても、それと分かる程目につく美人。だが、その猛烈振りが何処かチグハグ。恐らくは、校内におけるシャーさんの上役か何かに当たるのだろう。その暗さのない破茶滅茶振りが、

 ──少し羨ましい、か。

 具衛のその人(・・・)も、目が覚める程の美人だが、いつも何処かに暗さがチラつく人だった。

 あの人は──

 腹の底から笑った事があるのか。俄かに、そんな暗さに引きずり込まれていると、

「コーヒー持ってけって言われましたよ」

 と、シャーさんが戻って来た。見ると、プラスチックのカップホルダーを二つ乗せた盆を持っている。

「気を遣ってもらって悪いね」

 意外にも、気が利く女だ。

「こりゃあ雪どころか──」

 槍が降る、と言うシャーさんは、

「──何か盛ってないだろーな」

 とか、不審を募らせている。

「ホントに槍を心配しないといけない?」

 と、具衛がわざとらしく腰を浮かしてみせると、

「そ、そうですね」

 と、シャーさんも、半分以上本気で周囲をキョロキョロし始めた。

「おいおいマジかよ!?」

「普段はこんな事する人じゃないんですよ!」

 何の前触れか、と慄くシャーさんを見ていると、

 やはり──

 米軍将校が、誰と接触しているのか気になるようだ。というあの美女も、その筋の人間なのだろう。実は念には念を入れて、愛用のリュックの中にスペアナを忍ばせている具衛だ。が、校内に目立った反応はない。

 となると──

 単純に、

「──シャーさんの事が気になるんじゃないの?」

 という事だ。

「冗談じゃないですよ!?」

 色々と、いつもいつも大変らしい。その色々が謎だが、あの美女となら暗さはないのだろう。

「何か羨ましいよ」

「人の話聞いてました!?」

 何なら今この瞬間入れ替りたい、と目を剥くこの男も、具衛に似て何かと面倒を背負う悪運に恵まれていたもので、実は今回もそれを頼った具衛だったりする。外人部隊では先輩だった具衛の今は、この後輩なくして有り得なかったりした。

 具衛の在隊歴の前半は、既存の特定部隊による活躍。後半は、その活躍が上層部で注目されて司令部付。各隊の助っ人要員となった。いざという時の切り札として派遣されるスーパーサブだ。そのバディとしてつき従ったのが、約五年遅れで入隊しながらも、肉体年齢最盛期の具衛に、恐るべき実力と早さで肉薄したシャーさんだった。隊内で約三年間のバディだった二人は、殆ど兄弟のようだった。それだけ際どい状況を、共に掻い潜り続けた。【シャー】というあだ名は外人部隊でのコールサインだ。名づけ親は外ならぬ具衛で、苗字の【アン】から容易に連想される世界的な児童文学の主人公から、その名の一部分を頂戴してつけてやった。二人はそんな戦友だった。

「相変わらず、何か大変そうだ」

 そんな男を、今更また頼る事の申し訳なさが、

「込み入ってんのに悪いね」

 と、それとなく謝罪を吐かせる。

「まぁタクさんのせいじゃないですから」

「いや──」

 結局は巻き込んでいる事を思うと、やはり後ろめたさが言葉を詰まらせてくれる。が、

「水臭いですよ」

 と、色々ぶった切ってくれるシャーさんは、流石に具衛が認める戦友、と言えば何様だが、具衛に似て顔は幼く芯は図太い。

「シャーさん何歳になった?」

「三五です」

「年とったなぁ」

「そりゃお互い様ですよ」

 その中で、折角のコーヒーを啜る。と、

 ──この味!

 に目を剥いた具衛が、途端にむせた。

「大丈夫ですか!?」

 やっぱり何か混ぜ物が、と慌てるシャーさんの横で、具衛が違うと手を振る。仮名の部屋で飲ませてもらった

 まさかの──!?

 あの激ウマ(・・・)コーヒーだ。その記憶は、その前後で唇を奪われた生々しさとセットで、

 それでむせたとか──

 言える訳もない。

「エラく美味いんでビックリしてね」

「あの烈女のお気に入りなんですよ」

 それを普段はシャーさんが給仕させられているらしい。それにしても烈女などと、

「ホント、日本語上手いね」

 それはよいとして、あの見た目にしてあの猛烈振りだ。何かとお騒がせに絶えないのだろう。具衛が言えたものではないが、シャーさんも随分妙な所に収まったものだ。

「それにしても美味いねこれ」

「ええ」

 と言うシャーさんの表情は、少し暗い。

「どしたの?」

「いえその──」

 具衛に似て食い物に無頓着な男だ。それが、

「コピルアックって知ってます?」

 と、また妙な事を口にする。

「何それ?」

 外ならぬ、今飲んだコーヒーの名前らしい。ジャコウネコの糞の中から未消化のコーヒー豆を抽出して乾燥させたコーヒー豆だ。ルアックとは、インドネシアに生息するマレージャコウネコの事。コピはインドネシア語でコーヒーを意味する。産出量が少なく、その希少性故、世界一高いコーヒー豆として名を馳せるが、

「高いだけならまぁ──」

 まだしも、

「──媚薬?」

 とも呼ばれる、とか。

 コーヒー豆を食わされたルアックの体内で豆が発酵。その独特の風味は、ルアックの肛門から分泌される媚薬成分が関係しているとも言われる。

「そんなのを学校で飲んでたら、また何を言われるものやら──」

「色々大変なんだねぇ」

 愚痴が尽きないシャーさんの横で、密かにその媚薬コーヒーに驚く具衛だ。

「そうまでしてシャーさんに飲んで欲しいんだろうねぇ?」

 とはつまり、仮名にとっては当時から、

 俺もその対象だった──?

 と思うのは、短絡的だろうか。

「その手の事に鈍かった筈ですよね、お(タク)は確か!?」

 そんな洒落を利かす語彙力のシャーさんに、

「年貢納めないと後が怖いんじゃないの?」

 と、言ってみる。と、やはり、

「俺の事ですか!?」

 冗談じゃないですよ、と反駁するこの男は、これですっかり媚薬コーヒーを飲み慣れているように見えた。

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