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鷙鳥厲疾(前)②【先生のアノニマ(中)〜7】

 しばらくたわいもない話をしていた二人だったが、部活動が佳境に入って来たところで、

「こんな所でもなければ大話が出来ない件ってのは──」

 と、シャーさんが切り出した。

「──例の件ですよね?」

「うん──」

 その後ろに続けたい今更の謝罪を、ここは堪えて飲み込む具衛だ。

 こんなところで──

 遠慮するようなら、今後の計画など到底完遂出来ない。シャーさんは、その第一歩だった。

 由美子と再会した日以降の約一週間は、まずシャーさんを探すところから始めなくてはならなかった。これが予想通りの苦戦を呈す。外人部隊から米空軍まで辿れたのは奇跡と言っていい。その最大の理由は、

「偽名だらけの名前をよく辿ってこれましたね?」

 と、シャーさんが改めて驚く名前にあった。

 外人部隊には、【アノニマ】と呼ばれる匿名制度がある。隊員を守るためのそれは、それ程までに中身の濃い(・・・・・)在隊期間を送る故だ。外人部隊での偽名は、彼らの別人格と言ってもいいだろう。

「俺は、安一三(アンイーサン)って人しか知らなかったからなぁ」

「それを言うなら俺だって、武智次郎(たけちじろう)って人しか知りませんでしたよ」

 と、シャーさんが漏らした名前こそが、具衛が外人部隊で使っていたアノニマだった。サカマテ(仮名の会社)を訪ねる時にも使ったその名は、具衛のもう一人の自分にして、戦友と言う事も出来た。

「今思えば、連絡先を交換しとけばよかったよ」

 アノニマの有効性を身をもって知った具衛だったが、

「いや、どうですかねぇ──」

 その後国籍すら変わったようなシャーさんだ。

「多分、音信不通になったと思いますよ?」

「やっぱり?」

「ええ」

 先に除隊した具衛の軍役は外人部隊で打ち止めだが、シャーさんはその後も戦いの場に身を置き続けている。それが何故だが、日本の学校に出向させられているような男だ。未だややこしい任務で身を削っている事を思うと、

「改めて、迷惑かけるね」

 と、やはり、一つや二つぐらい詫びを重ねておかなくては、罰が当たる。

「しかし、今度は何に首を突っ込んだんです?」

「いや、大した事じゃないんよ」

「今更ご褒美(・・・)ねだる人がですか?」

「まぁねぇ」

 そのご褒美こそが、具衛という男の意外性の真髄という事も出来るだろう。

「まぁ今回の俺は只の連絡役(・・・・・)なんで──」

 と言うシャーさんが、

「──俺はもうバディ組みませんよ?」

 と、ここぞとばかりの嫌味だ。

「その節は迷惑かけたねぇ」

「その節()ですよ」

「いや、手厳しい」

「タクさんは、人が()過ぎるんですよ!」

「そうかねぇ?」

「そうですよ!」

 俄かに説教染みるシャーさんを前に、一国家の防衛政策とその契約に絡む一大企業の陰謀に首を突っ込みかけているなど、口が裂けても言える訳もなく。

「まぁ俺はこれ以上聞きませんけど──」

 今更感が気になって仕方がない、と言うシャーさんも、具衛に負けず劣らずのお人好しだ。

「──後戻り出来ませんよ?」

「人生いっつもそうだよ」

「そりゃそうですが!」

 絶対また面倒臭い事に首突っ込んでるよアンタ、と言う戦友の声が諦めに変わる。

「俺も米軍に行きたくなったかなぁ」

「一緒にALTやるつもりですか?」

 米軍ならば、それなりの隠れ蓑に成り得るだろう。が、問題は潜り込むタイミングだ。(さい)を投げる前後で、

 身分を偽って──

 それにはシャーさんは、それこそいい仲介役になるかも知れない。が、

「──流石にもう迷惑かけれんわ」

「大丈夫ですよ」

 英語の方は人がダブついているそうだが、仏語のALTなら空きがあるらしい。具衛とシャーさんは、日英仏語の3か国語で意思疎通が出来る間柄だ。二人共仏語は、外人部隊で獲得しただけに、

「──懐かしいなぁ」

 そう思うと、こんな所でも具衛は、日本の息苦しさを感じてしまう。

「空は広いねぇ」

 地に這いつくばるのも飽きた。が、

「いや、ゴチャゴチャしてますよ」

 その事情(・・)に詳しいシャーさんに、速攻で突っ込まれる。

「まぁシャーさんからすりゃあそうだろうね」

 先程来、軍機の音が近いそれは、米軍横田基地に出入りする軍機だろう。そこは、この学校とは目と鼻の先だった。

「この辺は流石に低く飛んでるねぇ」

 冬曇りのせいで機体は見えないが、輸送機だろう。ニブく滲むような重低音が、ビリビリと地面を突く。

「珍しさもなくて、うるさいばかりです」

「これまた手厳しい」

「あれで、そんな悠長でもなかったりするんで」

「そうだろうね」

 何処かは必ず戦時の米軍だ。そこは世界の警察官の名残りとしたものだろう。地球上に米軍が展開していない地域など限られる中で、横田基地などは極東の一大拠点だったりする。

「国連軍の司令部があるよね未だに」

「殆どお飾りですが」

 それは未だ停戦中の、朝鮮戦争司令部だ。

「お役目ご苦労様です」

「日本人はのんきだからなぁ」

 軍備に天地の差がある日米の事なら、米軍人からした日本などそうしたものだろう。

「今飛んでるのって、よそ様に出撃とかだったりする?」

「だったら日本も黙っちゃいないでしょ!?」

「無責任な関心だけはあるんよね」

 その裏で米軍兵士は、いつ出撃命令が下るとも分からぬ緊張感に晒されていたりする。出ろと言われれば出る。撃てと言われれば撃つ。やられそうならその前にやる。そこに躊躇は存在しない。自軍の死者数のカウントが国の威信を傷つける。ひいてはそれが誰かの支持率に影響する。だから死んではならない、と達せられる誰かの本音は、具衛にも覚えのある事だ。そうした悲哀を他国任せの日本はと言えば、大多数が平和ボケと言われる程にそれを(むさぼ)っている。

「まぁそれをここで言ったところで──」

 決して収まりはつかないだろうが、どうしようにもない事だ。これも世の矛盾の一つと諦めるシャーさんの気持ちを理解出来る者は少数派だろう。

先方(・・)からも確認の連絡がありました。最近はめっきり少なくなっていたそうですが──」

 具衛の債権(ご褒美)は、ウソのようなホントの話で、一時公然の秘密のような事態に発展した。それ程の褒美だ。となると当然、不届者が現れそれを横取りしようとする。困った債務者は、身元保証人を設定。それが外ならぬシャーさんだった。

「正直、忘れているのではないかと思ってらしたようです」

「それに関しては面目ないよ」

「電話も久し振りでしたよ」

「次男さんから?」

「秘書ですからね」

「助かります、ホント」

「俺が生きてたから成り立つ話ですよホント」

「まぁ死にそうにないから、保証人にされたんでしょ」

「よく言いますねホント」

「いや全く」

 シャーさんの身元認証が通れば、後は文字通りの出たトコ勝負だ。そんなところを察したシャーさんが、

「ホントに一緒にやります? ALT?」

 と言うそれは、本気なのか冗談か。多分前者なのだろう。具衛とバディを組むような物好きだ。

「俺のフランス語、通用するかね?」

「大丈夫ですよ」

 細かい事は教科担任の仕事であって、ALTは生きた言葉を触れさせるのがその役目、とか。そのシャーさんの顔が、途端に曇った。

「でも国籍が──」

 どうにもならないかも知れない。普通は自由で当たり前のそれが、軍人ともなるとハードルが高くなる。帰化先が色々疑うためだ。加えて具衛は、これで元特殊部隊員というおまけつきだったりする訳で、下手をするとビザの獲得すら難しい。他方、

「いざとなれば、俺達はフランス国籍でしょ?」

 とシャーさんが言うのは、仏外人部隊員のベネフィットだ。五年任期を果たせば事実上永住権を獲得出来る上、国籍獲得のハードルも低い。のだが今回は、

「そこが絡んだ話になるから──」

 隠れ蓑には向かないだろう。

「──只の女絡みなんだけどねぇ」

 不意に本音を漏らした具衛に、シャーさんが軽く噴き出した。

「それこそ年貢の納め時ですか?」

「親子喧嘩の手伝いなんよ」

 結局のところ、その事情が大掛かりなだけだ。

「駆け落ちじゃダメなんで?」

「マズいなぁ」

 むしろそれだと、更に逃げ回るだけで余計悪い。逆に本当の意味で、

 盛大にやりゃあいいんだけど──

 と、具衛は思っている。ただ本当にそうなった場合、とばっちりの一つや二つが具衛にくる事は十分有り得る話。それは仮名の足を引っ張るようなもので、だから自分の身ぐらいは自分で守るための隠れ蓑だ。

 シャーさんが徐に、スマホを取り出し操作し始めた。送信音のような音がしたかと思うと、合わせてすぐに着信音らしき音が鳴る。

「いつでもいいそうですよ」

「今のでOKなの?」

「次男さんは律儀ですからね。無理矢理気味ではありますが、俺の連絡先は常に押さえられてて──」

 具衛の債権行使に備え続けていた、とか。

「向こうは今、朝ですし。お陰様で俺もやっと肩の荷が下ろせるってモンですよ」

「そう言われてみりゃあ、そうだねえ」

「タクさんには敵わないな全く」

 身元保証人の認証は、極あっさり完了した。

「じゃあついでと言っちゃ悪いんだけど──」

 月末の給料が出たら、催促に行くとしよう。

「給料?」

「貯金もなければ旅費もなくてね」

「相変わらずスッカラカンなんですねぇ」

 お互いの過去は知らないが、何となく身の上は承知している二人だ。

「よもや、うち(米軍)の出番があったりしませんよね?」

「ないでしょ、多分」

「多分って、こりゃまた妙な火種が出来るのかなぁ」

 複雑に肥大化した現代は、適当な口実で始まってしまう争いが山程あって、その一部が戦争に繋がったりする。

「そんなんじゃない、と思うんだけど──」

 そうとは言い切れない、現代という世界の難しさだ。

「──それが分かるようなら、現状で甘んじてないと思うよ」

 何せ今や、資がない非正規労働者の具衛に、そんな事を尋ねるような人間など、その素性を知るシャーさんぐらいのものだろう。

「あなたはめんどくさがって上を目指してないだけでしょうに」

 ホントしょうがないな、と呆れるシャーさんが、これ見よがしに嘆息する。その底辺に程近いところにいる具衛が、一つの騒動の引き金に手をかけている事の皮肉。それを知る極々少数の中の一人であるシャーさんが、先程来気にしているという状況。

 考えようによっちゃあ──

 これも一つのテロリズムなのかも知れない。はっきり言って盲打ちなのだ。それが国や企業に関わる大事とくれば、気になるのはそれによって振り回される人間がどれだけ出るのか。その一事だ。悪党の事は知った事ではないが、大多数の何ら瑕疵のない役人や社員はどうなるのか。考えれば考えるだけ、

 ──罪作りな事だなぁ。

 それを思うと、人の上に立つ者の重責を今更ながらに痛感させられる具衛だ。

 あの若さで──

 大企業の専務だった仮名の凄さだろう。敵わないのは、

 ──俺の方だ。

 具衛は、媚薬コーヒーの最後の一口をあおった。


 その夜。

 具衛は、高速バスで帰途に着いた。

"バスに乗りました"

 スマホでメールを送った先は、教えてもらったばかりのシャーさんのアドレスだ。学校での別れ際、

「何かあったら連絡してくださいよ」

 と、言ったシャーさんが、

「何もなくてもいいですから」

 と、訂正してくれた、それに乗った。と言うのも、少し前に折角新しく作り直したフリーメールアドレスが、これまで全くの未使用だったためだ。メル友を持たない具衛のスマホのメールボックスといったら、寂しい事この上ない。記念すべき第一号メールの裏側で、仮名とやり取りしていたアドレスは、既に抹消していた。残したままだと一緒にいつまでも未練まで残ってしまいそうで消したのだ。

"また会いましょう"

 シャーさんからの返事はそれだけだった。あっさりしたものだ。余計な事は書かない。例え覗かれても障りがない程度。そんな事はシャーさんも心得ている。何も事前に散々つけ回された警察に限らず、何処で誰にデータが覗かれ、盗まれているか分からぬ世の事だ。

 とは言え──

 恐らく、もう会う事はないだろう。近い将来でさえ全く見えない。今の具衛の想像力など、まさに五里霧中だ。流れる車窓から見える物など、精々高速の防音壁ぐらいの事で、何のなぐさめにもならない。

 東京もこれが──

 最後だというのに。壁の高さを超える建物が発する街灯りの素気なさが、嫌に身に染みる。

 ──どうしてるかなぁ。

 この中の何処かへ足を伸ばせば、その屋敷の傍ぐらいには近づく事が出来る。別れてまだ三週間だ。当然、未練は残っている。忘れようすればする程、想いが募ってしまう。人肌とは罪作りだ。触れてしまうと、また触れたくなる。その危うい回想が深みに入り込む前に、とりあえずその顔だけを思い返した。

 その顔が──

 今日も涙で濡れているのか。うわ言で名前を呼んでいる、と由美子に責め立てられて、まだ日が浅い。あの仮名がメソメソ泣くなど想像出来ないのだが、具衛は別れの日にその胸で泣かれた口だ。いつになくか弱い様子が気になって、それが未練を生み出している。が、結局は、自分の身を気遣われて別れた二人だ。その不甲斐なさに、未だに苦しめられる。

 こんなにグズグズ思い悩むのなら、ボディーガードになっておけばよかった。それなら少なくとも、傍で支える事が出来る。が、それも後の祭りだし、

 それだとやっぱり──

 仮名は死ぬまで籠の鳥だ。

 ──クソ。

 全部投げ出して考える事を止めたい。が、それを何かが、誰かが許してくれない。それが何かを為さんとする者の責任なのだろう。悩み考える事の呪縛から逃れる事を許されない。そう考えると、大物と呼ばれる人種も、好き放題やっているように見えて、

 ──悩んでいるのか?

 とも思う。

 いや──

 大体のそれは、利己的で我儘なだけだ。そうした一部の大物達(悪党)の論理によって支配される現代社会に疑問を抱く具衛が、実はそれを利用する事を企んでいる事の、これもまた痛烈な皮肉だろう。

 昨春からの山奥での隠棲は、荒んだ社会から離れ平穏を取り戻すその裏で、出来る限り社会との接点を削ぎ落とし、自立した生活を送ろうとする実験でもあった。自給自足に近い生活を試みたその最たる理由は、国家の枠組みに対する疑問だ。仏軍在隊時に、様々な戦地や紛争地へ派遣された具衛が見て来たものは、極一部の力ある者の主義によって蹂躙される、大多数の弱者だった。それは攻守、勝負の別を問わず、最もらしいまことしやかな主張に支配された、先の見えない荒廃した国土だった。様々な思想が入り乱れる中で、人心をくすぐるように加味される胡散臭い正義が蔓延る覇権争いの舞台だった。国家の根幹たる三原則の、どれを取ってもまともな状態が見出せない絶望感。国民・国土・主権は、全て極少数の野心家の論理に牛耳られ、その弱肉強食の混沌は、日本でそれなりに平和の恩恵を受け、育った具衛にとっては衝撃的だった。

 その中で一つ、悟った事があった。いくら諸外国が何らかの口実で梃入れしても、大多数の弱者一人ひとりが信念を持って自立を目指さない限り、諸国の応援が撤退すれば元の木阿弥になってしまう、という事だ。大多数の弱者自身が自ら立ち上がらなければ、自国は変わらないし変えられないのだ。そうした意識が何らかの方法で構築されない限り、また一部の不届きな野心家が跋扈(ばっこ)するものだ。放っておけば、悪は蔓延る。そのやり切れなさもまた、絶望でしかなかった。

 そしてその現実は、帰国後の日本においても、驚く事に変わる事はなかった。野放図な平和ボケの中で国民が自由と権利を持て余し、身勝手を振舞う事で構築された社会は欲に塗れ、意外な程に無法無秩序がまかり通る低俗さ。分かりやすくは人間の知能を持つ猿だ。本能を抑え切れず、あらゆる欲に没頭する国民。それが理性ある人の姿と言えるのか。経済的恩恵は、まるで古代ローマのパンとサーカスのようで、その裏で世の不埒な権力者は、したたかに国民から自由と権利を奪い続けている。世界的にも類を見ない教育水準の高さで育まれた健全な知識と教養は学生時分まで。利益最優先の社会で、目の前でチラつかされ欲をそそる利潤の恩恵によって煩悩の塊と化す日本人に、権力を監視する能はない。これまで革命が起きた事のない日本という国では、恐らく今後も起きる事はないだろう。それをいい事に国家は体制維持に勤しむ事勿れ主義で、熱しやすく冷めやすく新しいもの好きの国民の目をごまかし続けては、時流の早さを言い訳に全てが後手で中途半端な欠陥型社会を構築する体たらく振り。赤貧なれど弛緩し切った世に馴染めず、長年鬱憤を募らせていた具衛は、そんな社会と決別するべく隠棲した訳だ。

 身の丈以上に文明の享受を得ない自立した生活は、国家の保護を受けずとも生きていける事の反感の意思。必要最小限に社会と繋がるスタンスのそれは、親の借金返済においても炸裂。生存権の危機に晒され続けた学生時代の経験から、それを保護してくれなかった国に税金を払う気になれず、帰国後日本で仕事を始めてからというものは、武智が運営する政府認定のNPO法人への寄付を始めた。納税額を限界まで減額させるそれは、一方で最大債権者たる武智への借金返済も兼ねるという、一石二鳥のしたたかな戦略だ。それは子供の頃、何の知恵も力もない具衛が、それでも事態を打開すべく、学校や役所に相談したにも関わらず最終的には見放され、問題の父親を放置し続けた国に対する細やかな復讐と言ってもいいだろう。それは国家に対する密かにして明確な不支持だ。

 なのに──

 その身を賭して、国家に蔓延る高千穂を巡る巨悪に対峙させられる事の、これもまた痛烈な皮肉。これを放置する国家と国民は、何を考えて日本で生きているのか。その尻拭いをさせられる

 俺の業って──

 一体何なのか。

 富豪の令嬢を解放するために立ち上がったのは、まるで無名の資がない貧乏人という、見事なまでに対照的な皮肉。その貧乏人は国家の怠慢に立腹し、その保護を放棄し決別を決め込んだ生活をしていたにも関わらず、権力に巣食う巨悪に抗うために引っ張り出されるという呆れた皮肉。吹けば飛ぶような貧乏人に力も何もあったものではなく、結局は自ら忌み嫌う毒をもって毒を制しようとしている事の危うい皮肉。そして、天涯孤独で束縛に無縁となった自由人の筈が、何故か渦中に引きずり込まれる事の奇妙な皮肉。

 ──皮肉のオンパレードだ。

 ふと、そんなやり切れなさを募らせる中で、やはり思い出すのは仮名の事という、何かの病というか(わずら)いというか。

 あの人も──

 日本を憂いていた。

 世界のリゾート地で遭遇する平和ボケした日本人を嘆いていた山小屋の縁側。社会的地位では頂点と底辺の二人が、安全保障分野に身を置いた経歴を有する事の奇遇。

 ひょっとすると──

 だからこそ、最終的に息が合ったのかも知れない。危機感を共有出来る事の安心感が、居心地のよさをもたらしたような気がする。女の身でありながら、確固たる自立どころか屹立していた女だ。それどころか逆に我が身を気遣われ、黙って身を引いた潔さが痛々しくも歯痒くもある。それ以上に、自分自身の体たらくが何よりも腹立たしい。

 もし──

 仮名の身分が日本一の高みとかではなく、精々中小企業の社長令嬢だったならば。と、一瞬思ったが止めた。それは恐らく、仮名に成り得ていない。その周辺事情の一つでも欠けていれば、また違った人格を形成していただろうし、そもそも出会っていなかっただろう。今更もしもは、

 ──ないよな。

 考えれば考えるだけ虚しい。歴史的な事象の結果が、詳細に分析すれば偶然ではなく必定である事と同じだ。

 今のあんな人間だから──

 好きになってしまったのだろう。いつものように、

 諦めてしまえば──

 楽になる、と思ったが、やはり止めた。楽になるどころか悶えるだけだ。もう退っ引きならないところまで、身も心も突っ込んでしまっている。後は猪突猛進の玉砕あるのみだ。

 最後の夜、仮名は具衛の半生に思いを寄せてくれたのに、

 何で俺は──

 あの夜、仮名の生き様を肯定してやれなかったのか。別れ際までネチネチと小言ばかり言っていた己の小ささが、今になって己を刺す。別れるつもりだったのだから、もっと耳障りのいい事の一つや二つ、何故言ってやれなかったのか。それが今になって、何か事を起こそうと画策しているとか。

「はぁ──」

 エンジン音に紛れて、大きく溜息を吐き出した。でないと、我ながら情けなくて泣きそうになる。仮名との事は何もかもが中途半端で、後手でごまかし続けていたそれは、まるで毛嫌いする日本型社会を見るようだ。ボンヤリした見た目の裏で、これで即断即決で生きてきた男だけに、そんなグズっ振りが情けなさを通り越して自分でも理解出来ない。

 そんなところも──

 人を惑わす男女の事、という事なのか。

「ちっ」

 今度は苛立ちが募って、思わず舌打ちが出てしまった。復路は高速バスにせざるを得なかった財布事情といい、地道に歩を進めるしかない今の状況がもどかしくもある。

 とは言え──

 広島着は翌朝で、夕方からはまた施設で宿直だ。気が立って眠気もないが、目は瞑った方がいいだろう。そのまま車窓のカーテンを閉めアイマスクをつけた具衛は、深々と座席に沈み込んだ。


 月末。

 多くの企業の例に倣うように二五日に給料が支給されると、早速具衛は、払込期限間際になっている予約済みの航空券代金を振り込んだ。次に向かう先は弾丸行程だが、往復だけでも丸二日と少しかかる。仕方なく初めて有休を一日取る事にした。

 その申請前などは、

「まだグスグスしとるか!?」

 と、大家にけしかけられ続けていたが、満を持しての有休願いだ。何か察するものでもあったようで、

「何処へ行くのか知らんが──」

 施設の雇用契約は残っているからちゃんと帰って来い、と厳命された。当然、帰って来るつもりだが、

 そんなモン──

 本当にどうなったものやら分かったものではない。

 給料が出た次の非番。予め呼んでおいたタクシーで、宿明けと同時にそのまま広島空港へ飛んだ。万を超える運賃だったが、そうでもしないと乗り継げないし、仮名の苦痛を思うと、

 少しでも──

 早い方がいいだろう。今更だが、気が急いだ。

 広島空港からは、そのまま空路で羽田。昼にならないうちに着くと、矢継ぎ早に国際線ターミナルへ向かう。そこから昼過ぎの独ミュンヘン行きに搭乗すると、現地時間の夕方には到着した。更に休む事なくそこでも国際線に乗り継ぎ、その先の到着地こそが目的地で、ここまで来ると流石に夜になっている。着くなりトイレへ駆け込み着替えたのは、高千穂事務所をつけ回していた時に用意した一張羅だ。着慣れないせいか、

 何か──

 垢抜けないが仕方がない。私服で気後れするのなら、安物でも背広としたものだろう。着いた先は、南仏リゾートの国際的玄関口、ニース・コートダジュール空港だった。何処となく旅客慣れした、垢抜けた風情のターミナルは流石の土地柄だろう。

 ──ダメだこりゃ。

 何を着ようとリゾートに来るような身分ではない男だ。周りは彫りの深い、何処か熟れた欧米系の人々が行き交うばかり。その中で幼稚な顔をした東洋人の田舎者が、背広を着たつもりで着せられているとか、浮いているにも程がある。

 でもまぁ──

 この様子なら、迎えに来てくれる先方の目にもつきやすいだろう。案の定、出口でソワソワしていると、正装で固めた四〇過ぎの端正な紳士が、一直線に向かって来た。真顔のまま堂々たる歩みで、そのまま遠慮なく具衛の目の前まで迫ると、一見してソース顔のラテン系色男が、

「お久し振りです。ムッシュタケチ」

 と、驚く程流暢な日本語だ。何処か固く冷たい印象そのままに、早速片手を突き出して来たそれは、一応握手のつもりだろう。

「ご無沙汰致しております。ムッシュジロー・フェレール」

 対する具衛は、その無遠慮な手を両手で取ってヘコヘコ愛想笑い。まるで世界で嫌われる日本人の典型のような有様だ。そんな握手も程々に、慌ててスマホを取り出した具衛が、シャーさんから転送されたメール(身元確認の証)を見せようとするのを、

「必要ありませんよ」

 と、拒否するジローと呼ばれた男は、やはり素気ない。それどころか、

「恩人の顔を忘れる程、我々は愚かではない」

 と言うそれは、ニブい具衛でも分かる程の喧嘩腰だ。

「こんな所で立ち話もなんです──」

 早速参りましょう、と、そのまま外の車寄せへ案内されると、待っていたのは、仏国が誇る高級車フェレールの最上級セダンと、恭しい初老の運転手だった。

「いや何とも──」

 客として待遇される事に慣れていない田舎者が、有無を言わさず後席に案内される。その車で、ライトアップされた美しいフレンチリヴィエラの海辺を臨みつつ約三〇分。訪れた先は、南仏の珠玉と誉高きリゾート地【サン・ジャン・カップ・フェラ】だった。【リヴィエラの珠玉】とも称される桃源郷は、半島型に突き出た風光明媚な別荘地で、家主には著名人が名を連ねる。昼間なら地中海を臨むビーチと冬季を思わせない太陽光線が、曇天に沈みがちな欧州人の心を和ませてくれる、そんな避寒地だ。仏在住時に何かの話で

 聞いた事はあったけど──

 足を踏み入れるどころか、遠くから眺めた事すらない具衛が、今更そこを訪ねる事の不思議。夜でも何となくその輪郭を感じ取っては、車窓に圧倒される具衛の目を丸く、口はボンヤリ開いている。ビーチを見下ろす絶好のロケーションと思われる一角に近づくと、そこにあった豪奢な邸宅に音もなく車が滑り込んだ。そこの車寄せにも正装の使用人が待ち構えていて、そこへ車が止まると恭しく車のドアが開けられる。軽く会釈をする具衛が車外に降り立つと、外の筈なのに足元が明るく柔らかかった。それもその筈で、真紅の絨毯が敷かれている。

 ──うわ!?

 安物でも背広を着ていてよかった、と思うと同時に、余りに場違いなリュックをトランクにぶち込んでもらっている事を思い出す。それを自分で取り出そうと、絨毯を横へ一歩踏み出したところで、

「後でお持ちしますので」

 と、ジローに先手を打たれた。

「それより、会長が首を長くしておりますので──」

 出来ればお早く、と言われた後は、絨毯の道をその人にエスコートされる。中世の館のような外観の邸宅は、中もそのままで天井の高い。

 ──きゅ、宮殿かよ。

 その絨毯の両サイドを、数十人の使用人が静かに出迎えてくれている。

 こんな中を──!?

 歩かされるなど。まるで何かの冗談とか、ドッキリのようだ。

 無言で頭を垂れている使用人達を前に、絨毯の上を歩かされた先には、絵に描いたような大広間があった。その中央に、白いテーブルクロスが隙間なくかけられた長大な流しテーブルがあり、広間最奥の上座に対面する二人の男女の姿がある。一見して六〇代の洋風偉丈夫と、五〇代の和風淑女だ。何やら話をしていたらしいその二人の声が、具衛の姿を認めるなりぶつ切りになる。

「おお!」

 と、先に声を上げたのは偉丈夫の方だ。音を立てて席を立つと、嬉しそうに具衛の方へ駆け寄り、そのまま具衛の手を取ってブンブン振り回す。

「待ちくたびれたぞ! 音沙汰がなくて心配していたんだ!」

「ご、ご無沙汰致しまして──」

 固まる具衛に構わず一通りハグが終わると、ようやく具衛に口上を挟む間が与えられる。

「──も、申し訳ございませんでした。アルベール・フェレール閣下」

 その一連の挨拶の間に、淑女の方も傍まで歩み寄って来ており、極自然な流れで偉丈夫と入れ替わってハグになるのだが、具衛はこの欧米型の習慣が苦手で、特に対女性ともなると殆ど死後硬直並の固まり方だ。それを承知の様子の淑女が、熟れた振舞でにこやかにハグをすませると、

「長旅でお疲れでしょう? まずはこちらへ──」

 と、手を引かれ、席に案内された。

「お久しゅうございます。覚えておいでですか?」

 落ち着いたフォーマルドレスの淑女は、ジローに同じくやはり流暢な日本語だ。加えて、その完璧な微笑にやられた具衛が、それでも辛うじて、

「も、勿論でございますとも。マダムリエコ」

 と、月並みな返答をした。

 そんな軽やかな声が周囲を包む中で、エスコートしていたジローだけが、何故か血相を変えている。と、思いきや。

「何故、お出迎えをしておられないのですか!?」

 その不作法が気に入らなかったらしい。小声で気色ばむ様は、まるで小言を口にする臣下のようだ。それもその筈で、ジローは偉丈夫の秘書だった。

「立って待っておったら、嬉しくてのぼせてしまってな」

「鼻血を出したのよ、いい年して。脳出血でも起こしたのかと思ったわ」

 小声の配慮など気にしない二人は呆気らかんとしたもので、「ハハハ」「ホホホ」と、ジローの気配りめいたものを斟酌する様子はない。その放埒さが逆撫でしているように見えるのは、気のせいではなさそうだ。

「──全く、縁起でもない」

 毒気を抜かれたジローが思わず仰反る素振りに、不覚にも具衛の鼻が失笑を漏らしたところで、気がついたらそれぞれが着席していて、如才なく控える使用人達が給仕を始めている。

「旧友との再会だ。堅苦しいのは抜きにしようと思ってな」

 不作法は、上流の作法に慣れていない具衛に対する配慮にして、これもまた一つの作法という事だろう。が、具衛にしてみれば、そんな小さな変化を気にする余裕などない。

"再会を祝して!"

 と、早速注がれたワインは恐らく相当な物なのだろうが、具衛にしてみれば、只のぶどう味のよく分からない酒だった。


 晩餐が始まり、前菜の後のスープを飲み始めたところで、

 既に──

 疲労困憊の具衛だ。

 如何に日頃の食事の作法が適当か思い知らされる、そんな整い過ぎた堅苦しい食事。

 お、音を立てられない──

 メシなど。味は申し分ないのだから、本来ならガツガツいきたいそれは、

 正直──

 限りなく拷問に近い。静寂の中、こっそり肩を揉んだり回したりしていると、

「やはり堅苦しいよなぁ! 私はこんなのは反対したんだが」

 と、目の前にいる主人のアルベールが、大声で笑い飛ばしてくれた。

「お気になさらずともよいのですよ?」

 と、それに追従するリエコはリエコで、横から包み込むような微笑だ。これはこれで、参る。が、それを(はす)向かいのジローが、

「何をおっしゃいますか!?」

 我が家の最重要賓客のお一人に礼を尽くさないでどうするのか云々かんぬんと、容赦ない横槍のそれは、要するに拝み倒しだろう。どうやら席次の位置通り、(しゃ)に構えられているような気がするのは気のせいではない。つまり、具衛が今更何の意図で接触をして来たのか、

 警戒されてるなぁ──

 という、今のこの晩餐の状況こそが、具衛の意外性の真骨頂にして、狙いだったりした。

「実は私も、こういう典型的なスタイルは苦手でね──」

 と、相好を崩す具衛の目の前の偉丈夫は、やはり他の二人と同じく、殆ど日本人の発音で日本語を話している。この男こそが、具衛の恐るべき隠し玉だ。本名を【アルベール・アレクサンドル・フェレール】というこの御大尽は、仏国を代表する世界的多国籍コングロマリット【フェレールグループ】の現会長にして元仏大統領。出自は軍需製品で一財産を築き上げた仏の軍功系新興貴族の直系で、公爵まで上り詰めた家柄だ。共和制体制になって幾年月のお国柄とあっては、貴族特権も栄爵もあったものではないが、富貴を極めた御身を称える気風は未だ健在。革命を経て今がある仏国において【公爵】と言えばこの富豪をおいて外になく、単なる儀礼的な尊称に収まらない風格は国内を飛び出し、国際的にも米国大統領に遜色ない知名度を誇る大物中の大物だ。

「もう、いい加減隠居したいんだが──」

 大統領を辞して尚、国内外に対し隠然たる影響力を有し、商売事に至っては未だ現役。御年七九を迎えて尚、フェレール財団最高顧問を務めるなど、グループの現役会長として君臨統治するその栄達は留まるところ知らず。そんな現役会長を記念して創設された高級スポーツカーブランド【アルベール・フェレール】は、そのレガシーの一つだったりする。つまりは外ならぬ、あの仮名の車の創業者というお話。

「周りが老骨に鞭を打ってくれるものだから、穏やかな余生には程遠くてね──」

 そんな、少し気の毒なこの英雄は、大の日本通としても知られ、以前は何度となくお忍びで訪日しては、日本を堪能していたとか何とかだ。

「ハハハ」と、諦め気味に空笑いをする名公の斜向かいで、

「これでも最近では、旧知ののお見えなど随分減りましてね──」

 と、優しく目を細めるのは、その正妻【リエコ・ミタニ・フェレール】。その名の通り元は日本人で、母国では日本外務省の官僚だったという切れ者だ。通訳官として活躍していた折、来日した仏大統領に帯同する使節の一員だったアルベールと会遇(かいぐう)。その場で手の早いアルベールに見初められ、後妻としてフェレール家に嫁いだ。

「──本当に、あなたのお越しをお待ちしておりましたのよ?」

 ウフフ、と笑うその見た目は、どう見てもアラフィフの壮年女性にしか見えず、ドレスの上まで滲む抜群のプロポーションは全く衰えを感じさせない。アルベールの目利きの確かさだろうが、その堂々たる容姿の何処をどう見れば、御年七三という実年齢を導き出せるというのか。

「ゆっくりしていってくださいね」

 と、上品な微笑みの温もりに、具衛の頭が眩みそうになるのは、恐らく旅の疲れだけではないだろう。それを具衛の斜向かいで、

「何をいじけた事を──」

 と、鋭く刺してくれるジローは、本名を【ジロー・アルベール・ミタニ・フェレール】といい、アルベールの後妻リエコの実子にして次男だ。明らかに虫の居所が悪いと見えるその背景には、異母兄姉(けいし)の尻拭いが原因にある。実父にして現フェレール家当主のアルベールには、前妻との間にもうけた一男一女があったが、前妻はか線い人で、それを色濃く継いだこの二人は偉大な家を継ぐ事を嫌がり、若くして隠居を決め込み出奔してしまった。それ故の次男ジローの貧乏クジだ。父君は優れた人物ではあるが、大き過ぎる家や家業を前に、チマチマ何かを取り組めるような立場でもない。そんな父に代わって、込み入った諸事雑事を一手に引き受けざるを得なかったジローが、泣く泣くその秘書となり約一〇年。以来、常に辛気臭そうで難しげな顔をしているこの哀れな男は、これで一家の人柱にして大黒柱を担っている。

「そんなつまらぬ悩みに頭を使う暇があるのなら、ご自分の事はご自分で計らっていただきたいものです!」

 その悲痛の叫びこそが、ジローの存在意義の大きさだ。それ程に父君を始めとする家人達は、色々な意味でキレるこの次男に諸事の殆どを預け切っている。その心労のせいか、四二になるこの男は常に険しさを滲ませる一方で、中々男振りのするナイスミドルなのだが、未だ独り身で婚歴すらない。そんな、紛れもないフェレール家の家宰(かさい)なら、埃に塗れたチャンネルの開局を突然求めてきた具衛を警戒するのは当然の事だろう。

 ──面倒を増やすようなモンだしなぁ。

 今回のいざこざ(・・・・)がなければ、正直なところ、音信不通のまま債権放棄するつもりだった。実のところ、ある正月明けのあの日の朝、宿直室のテレビで見るまで忘れていた事だ。あの遭難事件(・・・・・・)を忘れる事はないが、それにまつわる諸々の事など。当時はともかく、今の具衛にとっては過ぎ去りし日の事だ。今更どうこう言う事でもなければ、もう済んだ事だったのだ。

 それを──

 急転直下、蒸し返して利用しようとしているのだ。嫌な顔をするジローの気持ちは、分からないでもない。

「不破さんにおかれましては、その節は多大なるご迷惑をおかけした事を──」

 当主共々深く深くお詫び申し上げる。と、表向きには殊勝を貫くジローが、今度は具衛の本名を口にした、そんな折。

「今更だが、アノニマの由来を聞いてもいいかね?」

 と言ったアルベールは、実はこれ(アノニマ)にまつわる事で、大統領時分に失敗に失敗を重ねていたりする訳で、

「この期に及んで──!」

 と、気色ばむジローを、具衛が慌てて上から被せた。

「お、親代わりの方の名前を勝手に拝借したんです!」

 具衛が外人部隊で使っていたアノニマ【武智次郎】の苗字は、まさに大家の武智のそれだった。が、その名跡を意味もなく無断借用した訳ではない。有事の折の身元保証人を武智にするためのアノニマだった。血の繋がりこそないが、その苗字をアノニマに使うような人間(保証人)なら、軍が訝しむ事もないだろうと考えてのそれは、戦死や殉職を想定した先回りだった訳だ。仮に在隊中にそうなった場合、弔慰金や賞(じゅつ)金の類いの金が身元保証人に支払われる。要するに、親の借金から逃げない姿勢を示すためだけの意味でしかなかった。

「ファーストネームは、日本人にありがちな次男坊の名前ですので──」

 武智には長男がいるため、その次男を僭称したような格好だ。

「我が家のジロー(・・・)と同じ意味合いだったのか──」

 と言うアルベールは、当然【次郎】という名前の意味を知っている。実は仏国でもジローという名は存在し、一般的には苗字で見かけやすいかも知れない。が、日本通のアルベールの横にいるその次男坊は、それをファーストネームに使われた口で、スペルも仏語の【Giraud(ジロー)】。具衛のアノニマと読みが同じなのは、単なる偶然だ。が、

「──何か運命を感じるな」

 と、情緒的になるアルベールに対して、それを名づけられた男は、

「実に安直な事です」

 と、身も蓋もない。ジローの日本語の語彙力は相当なもので、そこは両親の影響だろう。単純明快な言葉に込められた不快感の鋭さは、最早清々しさすら覚える。

 こりゃとりあえず──

 まずはジローの頑なさをほぐさない事には、話も何もあったものではない。

安一三(アンイーサン)さんが、『くれぐれも宜しくお伝えください』と──」

 言っていた事を出してみた。シャーさんが具衛とフェレール家を繋ぐキーマンにされたのは、外ならぬこのジローと浅からぬつき合いがあったからだ。

 フェレール家の男子は、軍功を立て国家に貢献した先祖に倣い、少なくとも数年間は国官として国に仕えなくてはならない家訓がある。それもあってジローは、実は元仏財務官僚だったりする訳だが、この男はその折に陸軍出向を経験した。そこで奇しくも、外人部隊在隊中のシャーさんと絡む事の、人の縁の不思議だろう。

「今は【シーマ】と名乗っているそうだね。あの鉄砲玉は」

 旧友の話を出した途端、少し言葉が砕けた。

 望みはある──?

 のかも知れない。

「何故か米空軍にいるようでして──」

「それがしかも、日本の学校に赴任している事の異様だな」

 あれはあれで大変そうだ、と言うジローは、恐らくその理由を知っている。そんな小さな優越感を積み重ねてやれば、あるいはやろうとしている事が結実するのか。逆にそんなおだて方を見透かされて、更に難しくなりそうな気がしないでもないこの場は、余りにも堅苦しく時間も足りない。

 ──うーむ。

 どうするか。今更だが、切り出し方が分からない。悩んだところで、元々大した知恵など持たない身だ。無駄に頭を働かせると、

 ──マズいな。

 眠たくなる。それは愚者の軽率さの典型だろう。それこそジローなどは、具衛との年の差僅かに四つの身でありながら、公私に渡る数々の重大事に向き合い、考え、行動して来た人間だ。

 ──参った。

 出来の良し悪しが違い過ぎると物が言えなくなるのは、単純な劣等感だろう。こんな所でも己の体たらくを恥じるとか、

 つくづく思う──

 己の情けなさ。今更そんな事に思考を巡らせていると、

 スープの皿が──?

 いつの間にか、魚料理のポアソンに変わっていた。

 ──ありゃ?

 音を出さずに飲み切った記憶がない。あるいは、全部飲み切る前に下げられたのか。

「──まぁ、夜は長いさ」

 そんなジローの一言は、まるで具衛の何かを察しているようだった。

 久し振りの飛行機での長旅は、八時間の時差を伴っている。仏時間では午後八時を少し回ったばかりの宵の口でも、日本時間だと翌午前四時だ。眠くなるのも当然で、それでもコース料理でもてなされるこの場は、

「まずは旧知の間に出来てしまった隙間(無沙汰)を埋めてからだろう?」

 と言う事らしい。

「私が知る武智次郎は、屈強にして精悍な男だった筈だからな」

 ジローの決めつけに、その両親が微笑みながらも小さく頷いた。

 

 またしばらく。

 出て来た魚料理は美味かった。が、その魚の名前も分からなければ、とにかく静かに食う事の苦痛だ。仏滞在歴を有する具衛だが、それは外人部隊という軍隊生活での事。缶詰に先割れスプーンを突っ込んで掻き込む事が多かった食事とは、基本的に補給という名称にして、早食いこそが作法でマナーだった。ナイフやフォークを使い分けての食事など、ろくに覚えもなければ、

 重ね重ねも──

 音を立てられない晩餐のもどかしさ。

 そんな、まるで子供のような慎重さでどうにか食っている具衛を、

「しかし、本当にお変わりなくて──」

 何年振りかしら、と口にするリエコのそれは、場繋ぎの気遣いだろう。それを、

「一六年です」

 何を今更、と舌鋒鋭いジローの横槍は、実に切れ味抜群の名槍にして、見事に台無しにしてくれる。それどころか、その年月もの間何をやっていたのか、と言わんばかりだ。俄かに歩み寄る雰囲気をチラつかせていたのは、気のせいだったのかも知れない。

 何だか──

 気難しさといいプライドの高さといい、まるで仮名のようだ。そう思うと、不意に苦手意識が軽くなる。

 そういえば──

 仮名とジローの共通点が多いような気がするのは、これは気のせいではないだろう。富豪の子息にして才知溢れる美男美女。それが気難しいとくれば、

 ──ヤベ。

 思わず笑いそうになる、そんな折。

「もうそんな(一六年)になるのか。年を取る訳だな──」

 と、感慨深そうなアルベールの、その表情が俄かに曇った。

「──あれ以来(・・・・)、すっかり寒さに弱くなってしまってね」

 秋冬はニース、春夏はイヴォワールで過ごしているらしい。イヴォワールは、欧州アルプス西部に位置する、仏国とスイスにまたがるレマン湖沿いの小村だ。【レマンの真珠】とも称され、中世の情景を色濃く残すその美しい里は観光地としても名を馳せる。

「その度に大移動で、困ったものです」

 呆れるリエコが、小さく嘆息して見せた。元々今滞在中のニースの邸宅は、南仏でバカンスを過ごすための別荘だったそうだが、あれ以来(・・・)は避寒地として、年間の半分以上を過ごすようになった、とか。

 通りで──

 いくら富豪の別荘とは言え、使用人の数が多いと思っていた具衛だ。そうした差配も、恐らく全てジローなのだろう。まるで介護に近い感覚だ。事実そうした状態なのだろう事を思うと、ジローの苛立ちも理解出来る。が、

 それでも──

 今の状況の具衛は、そんなジローを始めとするフェレールを頼るしかない。

「あの寒さは本当にコリゴリでね」

 それぞれの葛藤のようなものが微妙に交錯する中、苦笑いしたアルベールと具衛の出会いは一六年前の今時分。場所は欧州アルプス山中だった。一昔前のアルプスはウインターリゾートが暖冬で悩む事は少なく、例外なく厳冬期を迎えていたそこへ、アルベールは事もあろうに山奥の別荘へ向かい遭難。それが世界の大富豪の事なら、それだけで立派なゴシップものだが、当時のアルベールはその立場に大統領というおまけがついていた。正月明けのある日の朝、テレビで見た遭難事件の慰霊式典で弔辞を述べていたのは、外ならぬ目の前のアルベールだったりしたのだ。

 当時仏大統領(おまけつき)のアルベールは、少し遅いクリスマス休暇を取った。英雄は色を好むとはよく言ったもので、愛人と心置きなく過ごすため、わざわざ好んで厳冬期の欧州アルプス山奥に所有する別荘へ向かったのだ。これが全ての元凶となった事は、言うまでもないだろう。当然お忍びの休暇だ。護衛二人、使用人二人という極々少数のパーティーで出かけたところ、山荘に着いて間もなく近年稀に見る大寒波に遭遇し孤立。程なくこれがマスコミに抜けると、瞬く間にそのスキャンダルが世界を席巻する。が、実は事態は醜い聞こえどころではない深刻さで、短期休暇の予定だった事が裏目に出て、山荘にはろくに蓄えもなければライフラインは暴風雪で完全に遮断された挙句、頼みの綱の山荘が倒壊。加えて嵐は全く収まる気配がない、という退っ引きならない窮地である事が明らかになると、突如として国を揺るがす大事に急転。勇んだ仏当局は当然直ちに救助隊を出したが、その隊員が遭難死するなど、天候と現場は苛烈を極める一大事に発展した。荒れ狂う嵐を前になす術がない当局は、その裏で密かに決死隊を編成。具衛の別人格【ジロー・タケチ】はその内の一人だった、という訳だ。

 日本から来仏していたその男の入隊前を知る者は皆無だったが、入隊後は瞬く間に頭角を表し、山岳兵のスペシャリストとして山岳特殊部隊に在籍。その後、外人部隊最精鋭と名高い落下傘特殊部隊に転属した彼の、高い任務遂行能力が決死隊入りの理由、とは表向き。何もしない訳にはいかない当局に、有望な人財が捨て鉢にされたとする見方こそが事後検証の結果だ。事実、最終的に五人で臨んだ決死行は、彼以外遭難死。恐るべき屈強さで一人山荘に到達したその若き日本人は、雪崩で倒壊した山荘で幸運にも只一人生き残り、昇天寸前だった大統領(アルベール)の生命を繋ぎ切る。それどころか、荒天の中に僅かな天候の回復を読み切ると、麓からの応援を待つ事なく大統領を背負って下山。文字通り、仏国の救世主となった。

 これにより時の人となった【ジロー・タケチ】だったが、隊員の秘匿性を重んじる外人部隊の、しかも特殊部隊員だ。成果強調型の世において、決して表に出る事なく功を誇らず。事後も淡々とアノニマを貫く隊務に戻るその裏で、総勢一三名もの死者を出した惨事を重く受け止め、決して少なくはなかった国からの賞金の一切を全て遺族に譲ると、これが思わぬ事態を招く。現代ではすっかり少数派となったその愛すべき実直さと無欲恬淡(てんたん)振りに、大統領(元凶の男)が猛烈に感動。その暴走の挙句のある会見の折、賛辞が勢い余って事もあろうに命の恩人の偽名(アノニマ)を公表し、おまけに日本出身である事の素性を【現代の侍(リアルサムライ)】と絶賛した上で暴露してしまう。更に勢いのついた浅知恵は、如何にも富豪の王侯気取りの安っぽさではないが、何かの物語の【魔法のランプの特典】と称する、調子づいた私的恩賞を大々的に公言してしまった、という顛末だ。「何でも願い事を一つ叶える」というその特権は、事後新たな騒動のネタとなる訳で、この頃のアルベールのトラブルメーカー振りも大概としたものだが、実はその願い事が未だに有効だったりするという世の不思議。これもまた、ジロー・タケチのアノニマを持つ、具衛の波乱振りの賜物としたものなのだろう。

「いくら声をかけても、君が招待に応じてくれたのは一回だけだったな」

「それも、ちょっとした食事会だけでしたわ」

「命の恩人に対してこの瑣末な対応は、当家の沽券に関わる由々しき事態だ!」

 と、フェレールの三人が三様で具衛に詰め寄ったところで、肉料理のメインディッシュ【ヴィアンド】の前の口直し、【ソルベ】が出て来た。只でさえ、旧交を暖めながらの晩餐だ。それが手元の怪しい具衛のために、更に間延びしている事の場違い感が、今更埃を被った褒美を求める事の厚かましさをあおるようで、

「重ね重ね、申し訳ありません」

 と思う。それをアルベールが即座に、

「いや、それを言うなら私の失態の方こそ申し訳が立たない」

 と、切り返した。

「そうですよ、あなたに落ち度は全くありません」

「我が父ながら、返す返すも痛恨の一事と言わざるを得ない」

 本当に申し訳ない、と気難しいジローをして、深々と頭を下げるその痛恨事とは、大迷惑の大統領らしい事後エピソードにある。安易に私的恩賞を決定したアルベールの思いは、一番届いて欲しい人に届くどころか迷惑になった、というオチだ。

 独りよがりのアルベールの会見で、正体が晒されたジロー・タケチと外人部隊は、所謂ありがた迷惑の極みに陥った。加熱するマスコミ報道が騒動をあおった裏側で、褒美の横取りを画策する【ニセジロー】【エセタケチ】なる偽物の出没を皮切りに、褒美絡みでタケチ・外人部隊・フェレール家の関係三者に、脅迫・恐喝・営利誘拐を企てる者まで出現。散々ゴシップと人間の欲望の愚かさに振り回された関係者が繰り出す対応は後手に回り、その被害は三者の中で唯一の個人である当事者タケチに集中する。結局はそのタケチが、「少なくとも除隊するまでは恩賞を貰わない」事を宣言する事で事態を沈静化させ、合わせてフェレール家側が、シャーさん(秘密の身元保証人)を設定し、「関係者しか知り得ない保証人抜きでは恩賞を出さない」事を発表する事で騒動を収束。罪のないところで人目につく存在となってしまったタケチは、その後の隊内活動における身の置き場を、決して表沙汰にされる事のない極秘任務(所謂裏稼業)に投じざるを得なくなり、恩賞を貰うどころか明日をも知れぬ日々に身を晒す事となる。

「当時の私は本当に何も知らず、知らない事が許されない身であった(軍の最高指揮官)にも関わらず──」

 アルベールは自ら、外人部隊に存在するアノニマの律を犯した。それは様々な事情を抱え込んで入隊する新参者を、部隊が一括りで徹底管理する保秘の伝統だ。

「創設以来約二〇〇年続く伝統に重んじる忠義者を売った罪の重さだよ」

 その者に、自らが端を発した失態(遭難)の尻拭いをさせておきながら、事後にその者を窮地に陥らせるという二重の罪は、未だ事ある毎に仏国内で語り継がれる世紀の醜聞にして惨事であり、仏国が歴史を刻む限り消える事のない汚点となった。

 以後、一六年。具衛(タケチ)が恩賞を放置し続けた一方で、その年月なくして被災者(大統領)救助者(決死隊員)は、落ち着いて向き合う余裕を持てなかった、とも言える。

「腹が満たされる前に聞いておきたい」

 と、アルベールが表情を固くした。

「これ程までに気持ち(恩賞)を受け止めてもらえなかった事は、ひとえに私の不徳の極みだ。その君が、ようやく足を運んでくれた理由を教えてはくれんかね?」

 それを語る男がナプキンを取ると、他二人の家人もそれに倣う。

「愚息めの機嫌が悪いのは、何も君の願い事(・・・)を聞きたくないのではなく──」

 むしろ逆らしい。

「そう、なんですか?」

 と答える事で、その無心の切り出し方に悩んでいた事を認めてしまった具衛だが、

「──あ、いや」

 と、口がもつれたところで後の祭りだ。

「愚父の言う通りです」

 仏頂面のジローが負けじと身内をなじる言葉に怒気を感じるのは、気のせいではないだろう。

「これが不機嫌なのは、今に始まった事ではないよ」

「父上がいい加減であらせられるせいでしょう!?」

「この通り、最早反論の余地もなくてね」

 小さく苦笑いしたアルベールが縮こまると、それが沈鬱さを纏い始めた。

「私のために犠牲になった尊い一三名の御霊には、細やかながら償いをさせて頂いた」

 その遺族に対して、フェレール家の私財から、莫大な慰謝料が支払われたのは有名な話だ。

「以後、国家と国民には、愚か者なりに奉仕させて頂いた」

 事件後、無責任な辞任より責任ある職務継続を選択し、大統領を続けたアルベールは、以後事実上無報酬で職務に携わった。そのまま任期を全うすると政界からは引退。再び一民間人に戻ると、以後は社会貢献にその身を投じて行く。人としての功績は皮肉にも、遭難事件後に積み上げられたものばかりという、アルベールの人生だ。

「それまでの夫は、地位に甘んじていただけですから──」

 と言うリエコは、やはり未だに遭難事件の原因(・・)を許してはいない。それどころか、それとなくその顔色を伺っているアルベールの目を捕まえて、

「許しませんよ──?」

 死ぬまで、と微笑むその目は、アルベール(諸悪の根源)に対する拭い難い不信と怒りに満ちている。身内というだけで同類とみなされる事に対する恨み節だろう。

「──許したくとも、許せないのです」

 一族は当然の事、側仕えの末端に至るまで、品行方正どころか長い喪に伏さざるを得なくなった事態を招いたアルベールの重大な罪。そのとばっちりの重大な被害者の一人、リエコの苦しみの大きさもまた、重ね重ねアルベールの罪だ。

「愛を捧げたくとも、それが出来ない事がどれほど辛いか」

「それを言われると、毎度の事ながら本当に辛い」

 実はこの夫婦、関係者に対する「最低限の償い」を終えるまで、食事を除き家庭内別居を貫いていたらしい。因みにアルベールは有名な愛妻家で、事の元凶となった不倫とその後の身の振り方は、そういう意味でも世間を驚かせた。当時六〇を過ぎたばかりだったアルベールの心身は、現役世代を凌駕する大変な壮健さで、俗に言うところの絶倫。それが頭を剃り、欲得を戒め、禁欲生活に突入した事の異様だった訳だ。数年の後、被害関係者に対する賠償に目処がついた後は、別居も解消した一方で、全てのわだかまりが解消される訳もない夫婦間は冷えたまま。その状態で毎年必ず訪れる式典の度に、静謐に立ち返るアルベールは自戒し続け、リエコは葛藤し続ける。そんな私生活は、やむを得ない社交の場を除くと実は極めて質素。並み居る使用人も雇用を確保するためだけに雇い続けている、そんな栄華の後の痛々しさと共に自戒を貫き続けたアルベールは、酒すら飲まず粗食を貫き、それによって皮肉にも腎精を保ち続けた。

「全ては──」

 最大の功労者にして関係者中において稀な生存者ながら、唯一気持ち(・・・)を受け取らず放置し続ける具衛を待つためだった、とは、ジローから聞かされた後日談。

「──私の至らなさが原因だからね」

 失態続きで最早何かを言う資格などないアルベールは、待ち続けるしかなかった。

「最後に残った償いは君だけなのだ。気づけばあれから一六年が経ってしまった──」

 失われたその年月。そう語るアルベールは、かつては豪放磊落で鳴らす酒豪だった。それが今その手元にあるのは、実はノンアルコールワインで、良くも悪くもエネルギーの塊だったその男は、すっかり毒気が抜かれている。

「まるで時を止めたような、同じ時を繰り返すような──」

 そんな、一六年もの年月。

「今後も心が晴れる事は死ぬまでないだろうし、許しは乞わないが──」

 一つの区切りを迎えたい、と吐露するアルベールは、相変わらず殆ど丸刈りに近い頭髪だが、だからといって決して聖人ではないという事だ。しかもその影響力の大きさは、本人が望まない形で周囲を始めとする多くを巻き込み続けるのであれば、もうこれは本人だけの問題ではない。

「私は身をもって、罪の大きさを知った。当然贖罪は続ける。が、今後は罪深いなりの人生を歩んでいく資格を──」

 与えてはもらえないだろうか、と頭を下げるアルベールは、今宵ようやく、首を長くして待ち続けた最後の男を迎えた、それが具衛だった。

「それはどうも、申し訳ない事を──」

 した、と言うしかない具衛だろう。

「私はお礼の類いは、もう十分貰ったつもりでしたので──」

 そのまま雲隠れした具衛のせいで、フェレール一族が壮大な喪を強いられる事になった皮肉。それはまるで図らずも、富貴を極めたフェレール一族が、己の業に苦しむ具衛の生き様をなぞるような、そんな皮肉にも見える。

「あの事件の事は死ぬまで忘れません。夫を許す事もありません──」

 それでも、と継いだリエコが、

「最愛の伴侶と添えないのは──」

 やはり辛い、と叫ぶそれは、何だか何かの悲劇とか舞台のようだ。

「リエコ!」

「アル!」

 それをジローが物の見事に、

「だーやっとられん!」

 と言う一言でぶち壊した。

「毎日毎日飽きもせず──」

 具衛が訪ねて来ると分かってからは、

「──特にひどい!」

 と憤るジローが、ロミオだのジュリエットだのと、ぶつくさ小言を吐いている。ソース顔に隠し味で和風テイストが加味されたような好紳士とは思えぬ悪態は、余程の事らしい。

「──すまないね」

 こっちの話だ、と今やメロドラマのような両親を、歌舞伎役者が見栄を切るような形相で睨んで窘めたジローが、

「この大根役者の三文劇も、いい加減見飽きた」

 と、バッサリ切り捨て仕切り直す。

「フェレールは決してこの惨事を忘れない。亡くなられた方々には本当に申し訳なく、いくら言葉を尽くしても賠償をしても許されるものではない事は理解している。が、生かされている我々の人生が死ぬまで続いていく事もまた事実──」

 そこでとにかく、いい加減関係者に対する最低限の区切りは

「──つけておきたいんだ!」

 と、意気込んだジローが、そのままテーブルに頭を打つ勢いで頭を下げた。

「どうだろうか! あなたが望む恩賞を存分にさせていただく事で、区切りをつけてやってはもらえまいか!」

 そんなジローに倣って、両親も頭を垂れる。

「この際どんな無理でも構わない! が、こんな言い方は余りしたくはないが、厚かましさを承知の上で、出来れば金で収めていただけると有難い!」

「そうだな。君が金で納得するような人間ではない事は分かっているが──」

「──当家が自身をもって用意出来る物と言えば、やはりそれしかございませんものね」

 世界の富豪一家が、一貧乏人に競って金を出そうするこんな状況を、世の誰が想像出来るだろうか。フェレール側の詳細な事情を

 知らなかったとは言え──

 具衛が闇雲に転がした賽の目は、どうやら一番いい目が出たようだった。

「それでは、不躾を承知で一つお願いがございまして──」

 償いを乞う立場の弱い人々をいい事に、その力を我が奇策に巻き込もうとする具衛は、

 我ながら随分と悪くなったモンだ──

 と思う。それが自分のためではないという一事が、唯一の救いだ。そうやって最もらしいこじつけで自分を納得させ、口車で他人の力を利用し、自らの正義に邁進した史上の策略家の多さと、その最後の悲惨さ。

 そんなの──

 真似したくない具衛は、分かっていながらもう後戻り出来ない、

 今度こそ──

 ルビコン川の川岸。ニース郊外からだと約五〇〇kmと離れていないその川は、古代ローマで有名な小川だ。その川幅は広くても精々五m程で、その意外な狭さこそが、人生における分岐点の多さを思わせる、今もまさにその重大な分かれ目。

「おおっ! ドンと来なさい!」

 アルベールが得意気に胸を叩いたところで、もう往生するしかなかった。

「高坂嫡流のご息女を、そのご実家から解放していただきたく──」

 お取り計らい願いたい。それでようやく、お互い妙なしがらみから解放されるのだ。フェレールからすれば、

 安いモンだろ──

 と思いきや。それを受けたアルベール以下三人は、目を丸くして固まってしまった。

「あ、あの──」

 何かマズかったのか。恐る恐る伺う具衛に、

「高坂嫡流の──?」

「ご息女を──?」

「実家から解放──?」

 と、反芻する三人の誰が何と言ったものか。言い出した具衛を含めた四人の中に、それを咀嚼(そしゃく)する時間が過ぎたかと思うと、具衛以外の三人が、

"ハァ──"

 と、盛大な溜息を吐いた。

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