鷙鳥厲疾(後)①【先生のアノニマ(中)〜8】
ソルベが下がり、ヴィアンドが出てしばらく。晩餐の場は、重苦しさに支配され続けている。具衛以外のフェレール一族三者が、
「うーむ」
「はぁ」
「ちっ」
などと。悩んでいるのはアルベールで、嘆息しているのはリエコ。舌打ちはジローだ。それがどういう意味なのか、当然具衛には分からない。とりあえずフォークを止めて、
「あ、あのぅ──」
と、恐る恐る、誰にともなく尋ねてみる。
「ひょっとしてご両家は、余り交流がない、とか──ですか?」
それを目論んでの奇策だ。大富豪にして世界的大企業の創業家という共通項を持つ、仏国のフェレール家と日本の高坂家。実はこの両家、縁続きだったりする。
アルベールの妻リエコと、仮名こと【高坂真琴】の母にして高坂家の現当主夫人【高坂美也子】は、実の姉妹だ。二人共出自は、武家故実大家で知られる旧家【三谷】家。美也子がその直系筋の長女、リエコはその三女だ。リエコの名前の日本語表記は【理恵子】と書く。つまり、リエコと高坂真琴は叔母と姪の間柄で、
「真琴とは同い年でね──」
誕生日はジローの方が少し遅いらしい。
「──ジュウシテイなんだ」
と語る、ジローの日本語レベルも大概だ。漢字では【従姉弟】と書く血縁関係のそれは、一般的にいとこと呼ばれる。両家の繋がりはそれだけに留まらず、アルベールが大統領の時の日本の駐仏大使は外ならぬ美也子だ。そしてその時の日本の首相は【高千穂隆一郎】。とりあえず現外相高千穂隆介の実父である事を挟んでおくが、何より若かりし頃の美也子がその手腕を乞われ、長年その秘書として支えた男だ。三人は【三姉弟】と呼ばれる間柄で、つまり、
「どの構図でも、高坂家の美也子さんが姉なのよねぇ」
と、実妹のリエコが、また盛大な溜息を吐いた。
「三姉弟なら私は真ん中なんだが、姉さんには中々物を言い辛くてね──」
と、白状するアルベールが、
「末の弟なんかはもう──」
マリオネットだった、とか何とか。
「──あ、これはここだけの話という事で頼むよ、ハハ」
最早三人の中での序列は、確かめるまでもないだろう。
「それにしても高千穂のヤツ──」
懲りんな、と悪態を吐き続けるジローは、元遠戚として高坂真琴の元夫の事もそれなりに知っているようだ。高坂真琴の復縁騒動は知らなかったフェレールの面々だったが、高千穂の醜態はそれこそ説明不要だったその悪行は、文字通り海を越えて千里を走っている。
「あの子、相変わらずなのねぇ──」
「そのようだな──」
それが高坂真琴なのか、高千穂隆介なのか、
あの子って──?
どっちの事なのか。どちらにしても夫妻にしてみれば、ジロー共々子供世代の話だ。子育てから解放されて幾年月の夫妻を思うと、いい加減子供の事で悩みたくもないだろう。それを、
"ハァ──"
と、揃って嘆息する様子に、やはり余計な気苦労を負わせてしまった事の罪深さを知る具衛だ。
「な、何だか、申し訳ございません」
思わず、素直な謝罪が口から漏れ出る。
「いや、あなたのせいじゃなくてよ」
むしろよく知らせてくださったわ、と言うリエコが、
「アンタがさっさと真琴と一緒にならないからよ全く!」
と、ジローをなじった。
「え?」
「ぶっ!?」
具衛が驚く前でジローが何かを喉へ詰まらせ、リアクションの見本と言わんばかりの噴き出しっぷりだ。
「この子はね、ずーっと真琴に──」
片想いをしていたらしい。
「──それが、イジイジグズグズしているうちに高千穂に奪われて」
「な、な、何を勝手な事を──」
「事実でしょーが!」
いい男が今更恥ずかしがってんじゃないわよ、とにべもないリエコから、淑やかさが消えていく。
この──
小気味良さ。覚えがあるそれは、仮名のきっぷの良さだ。そういえばリエコは、何処となく容姿も仮名に似ているような気がしないでもない。
「一度ならまだしも二度までも出し抜かれるなんて、何考えてんのアンタは?」
「仕方ないだろ! おぼっちゃまは嫌だって言うんだから!」
先程までの堅苦しさは一変。急に親子の口喧嘩を呈し始めたそれは、聞いてはならない恥部の暴露大会の様相だ。
「何度言い寄っても、ダメなものはダメだったんだよ!」
とは日本語訳で、会話に仏語が混ざり始めた不安定さは、図星という事なのだろう。
「そのくせ未だに独身って、ホントウブよね!」
「いい女がいれば一緒になるわ! ほっとけ!」
「まぁ真琴は良い娘だよなぁ確かに」
と、のんきそうに口を挟むアルベールの興味は、どうやら女だけらしい。ジローの何処かを逆撫でするような追い討ちに、
「くっ──」
と、悔しげにうめいたジローが突っ伏した。仏の大富豪の邸宅で、
よもや──
日本語混じりの痴話喧嘩めいた言い争いを耳にするとは。
──それでも。
青少年期の貧困やその後の職場で、食い物が当たり前にあると思ってはならないくせがついている具衛だ。目を白黒させながらも肉は食う。食える時に食っとけだ。が、
「しかし、君が真琴と知り合いとは思わなかったな」
「そうねぇ本当に」
と、話が戻ってくる。自分でふっかけたのだから当然だ。目を白黒させたまま、慌てて肉を飲み込む。
「真琴は──家業を手伝っているんだったよね?」
顔を起こしたジローが、忌々しげに呟いた。流石に仮名の事情を追っているらしい。が、情報が少し古いのは、やはり忙しいのだろう。
「高坂マテリアルの専務でしたが、昨年末で辞任されました」
「今は?」
「ご実家です」
「籠の中の鳥になる前の真琴と、君は知り合ったという訳か」
情報が遅れている分、詰問調のそれが中々の迫力だ。
「真琴の解放を願うぐらいだから、馴れ初めも教えてもらおうか」
「興味あるわあ」
と言うリエコの顔が、今度はウットリしているのは、そこは女の直感だろう。相当先まで読まれているようだ。が、頼み事をする立場なら、答えるしかない。
「私は今、広島の片田舎で暮らしていまして──梅雨って分かりますか?」
「雨季だよね」
ジローは答えるが、夫妻は答えない。二人にとって日本は今も尚、身近な存在だ。
「その梅雨時に、昨年の事ですが──」
全ては、あの事故から始まった、奇妙な縁だった。
「事故?」
そこでアルベールが反応を示すと、
「大丈夫だったのかしら?」
と言うリエコの顔も、コロコロ変わる。息の良さは、何であれ夫婦という事だろう。
「ぬかるみに突っ込んで動けなくなっただけでしたから」
その車がアルベール・フェレールの特注車で、今その創業者の前にいる事の不思議な縁。
「あれは私が贈った物でね。ちょうど真琴が日本に帰国する直前だったか」
その時の高坂真琴の勤め先は国連軍縮研究所。場所はスイスのジュネーブだ。夏のフェレール家であるイヴォワールは、それこそ目と鼻の先。そこへ仮名は、頻繁に出入りしていたらしい。
「しかし、あの車で事故を起こすとは。相当な道だったんだろう」
「物理的に、デコボコ道でしたから」
テクニックを要するものの、抜けられない事はなかった事は伏せておいた。突っ込んで動けなくなったぐらいだから仮名は気づいていないのだろうが、実を言うとあの車、オートサスペンションにAWDという、現代最高水準の足回りを持っている。それを駆使すれば、短距離ならば走り抜ける事が出来ない道など、本当に物理的に走行困難な岩場とか崖に限られ、
あのぬかるみなんか──
問題にならない筈だった。が、結果として動けなくなった仮名を、
「──あなたが助けたって事?」
「ええ」
突っ込んだ衝撃でボディーが破損したため、やむなくバックした。前へ進む事が
出来たなら──
それで終わっていた二人。
「たったそれだけの事で、ここまで来るなんて有り得るかしら?」
と言うリエコの口振りが、どうも妖しい。
「まぁその辺りの事はまた聞くとして──」
色々とすっ飛ばしたアルベールが、
「──君は何故、真琴を解放したい?」
と、いきなりド直球を投げ込んできた。それをリエコが鼻で笑う。
「これだからニブい男は。ねえ?」
「はあ」
リエコは、その辺りの事こそが、今後のアクションの重要なキーである事が分かっている。それを聞かずとも理解するこの淑女は具衛の味方だ。一方で、あくまでも確かめようとするアルベールは、責任ある立場に長年身を置く者の責任感だろう。が、それを長年片想いしていたジローの前で
言ったら──?
何がどうなるのか。とりあえず、
「頼られたから、です」
と、言ってみた。が、それで許してくれる訳もなく。
「どのように?」
と食いつかれる、蟻地獄感。
「具体的には、特に」
それどころか、逆に気遣われた仮名に身を引かれた、頼りない男だ。そこを見事に、アルベールに見透かされる。
「君のお節介、とは言えないかい?」
普通に考えて、高坂真琴のような高みにいる人間が、具衛のような弱小を頼みにする訳がない。
「──すみません」
直球には直球で返すしかなさそうだ。
「回りくどい事を言いました。私にとって、掛け替えのない人です」
もう都合よく自分の殻に閉じ込もっていられないだろう。が、それを晒す事で、
「あら? これって恋敵?」
と、面白おかしくあおるリエコに、やはりジローの雰囲気が瞬間で、ギクシャクと硬直する。
「な、何をまた訳の分から──」
「いや、もう勝負はついてるか」
ジローの反駁を被せたリエコが、そのまま真顔で具衛を見た。
「具衛さん」
その冴え冴えとした声は、まさに仮名の滑舌だ。その人に本名を呼ばれた事はないが、それを思わせるリエコの声に、目が覚める。
「はい」
改めて、今そのためにこの場にいる事を強く思い出させてくれるその声は、やはり具衛の味方だ。
「あなた、今でもお父様の負債を負っているの?」
言われて驚きかけたところで、その事もやはり日仏の距離の分だけ情報が少し遅れている。良くも悪くも、あの惨事の関係者を追い続けていたフェレール家は、本当に遭難事件を忘れてはいなかったという事だ。
「お恥ずかしながら、ようやく先月で完済しました」
「そう。頑張ったわね。でも、お陰でお金ないでしょ?」
「ええ全く」
「やっぱり」
と言ったリエコが、声を上げて笑った。
「もう答えは十分出たんじゃないかしら?」
それで怪訝な顔をする家の男達二人に、リエコがあからさまに嘆息する。
「我が家の男衆は、本当にニブいわね」
「そうかね」
と、アルベールは首を軽く捻り、
「今更ライバルも何も──」
と言うジローは、それに加えて何処となく恥ずかしそうだ。
「引導を渡すしかないとは──」
救われないわね、と愚痴る仮名に似たこの叔母は、やはり仮名の理解者の一人らしい。
「真琴はあの実家で、日本最強の母親を相手に、自分の意志を貫いて戦い続けていたの」
それを知るリエコが、
「それがどういう意味か、分からないとは言わせないわよ」
と凄む前で、その夫と息子は生唾を飲み込んでいる。
「あの伏魔殿で抗い続けたような娘が、レールから外れようとしない大金持ちのおぼっちゃまなんか相手にする訳がないでしょ!?」
啖呵を切ったリエコが、喉を鳴らしてワインを一気に飲み干すと、手酌でなみなみと注ぎ直すそれは、作法もあったものではない。
「不遇を受け入れる潔さ」
それは、借金塗れの生い立ちだ、とまず言う。
「そんな人生を切り開く逞しさ」
それは、今まで生き抜いた生き様だ、とつけ加える。
「弱気を助ける寛大さ」
それは、恩賞を譲渡する気前の良さだ、と慈愛を浮かべ、
「強気をくじく肝の太さ」
それは、理不尽に屈しない今の立居振舞だ、と雄々しくもまたワインをあおり、音を立ててグラスを置く。
「愛しき者のために、形振り構わず立回る思い切りの良さ」
最後は理屈抜きの強い情愛だ、と陶酔するリエコは妙に熱っぽい。
「真琴も疲れていたんでしょうね」
次々に声色が変わるリエコを前に、その独自解釈で丸裸にされた具衛は先程来、
いい加減──
尻の据わりが悪くなっている。
「頼れる男が現れたから、預けたくなったのよ」
男女を語って悦に入る物言いは、淑やかにして情熱的。この辺りの情感は、すっかり仏人のリエコだ。
「これまでの男達なんて、体裁ばかり気にして無駄にプライドが高いひ弱な連中ばっかり」
冷笑を浮かべる女傑の顔つきが仮名と一致すると、具衛の中で密かな直感が生まれた。
両家は──
女が中心だ。高坂は世間でも知る人ぞ知る事実上の女当主だが、
同じ事が──
フェレールでも起きている事は偶然なのか。旧時代型の血縁戦略が、誰かの明確な策略によって今の両家をかたどっているのだとしたら。仮名が親類縁者の中で孤立無縁でない事は分かった。リエコの反応にウソがないなら、リエコは乗り気だ。それによって、高坂親子と三谷姉妹の喧嘩が起こるまでは分かる。骨肉の争いなど日常茶飯事の世にして、只でさえそうありがちな富豪の両家。喧嘩慣れしていれば、落とし所も分かっているだろう。それを目論んでフェレールを頼ったのだ。が、その後の着地点がとても読み切れない。それ程の大富豪にして、未だ世界的なグループ企業を明確に統率する創業宗家だ。
まともに終わるとは──
とても思えないその力技。事が落ち着つけば、その戦犯としてどうにかなる身だ。犬死にだけは避けたい。何せ元々が穴だらけの、策とも言えないような横槍。例えば、この場のフェレールの誰かがこの事を高坂へ伝えれば、それだけで揉み潰されてしまう話。
「──大丈夫。私は真琴の理解者で、あなたの味方」
そんなところの察しの良さは、やはり仮名の叔母だ。出来過ぎなまでに、具衛が欲しい言葉をくれる。
「ちょっと性急に見えるけど、真琴のツンデレ具合も大概なら、堂々とそれを頼みに来るあなたもますます──」
気に入ったわ、と一人盛り上がるリエコに、
「ちょっと待った」
と、アルベールが冷や水をかけた。
「真琴が解放を望んでいるとして、その工作を君に求めるとは思えないのだが」
それはつまり、
「お節介な部分がどうしても拭えなくてね」
という再確認だ。弱者から助けなど、仮名のプライドが許さないだろう事は、この場の男衆なら痛い程分かっている。
「君に危険が及ぶ事は明らかだ。それを真琴が望むとは思えない。あれで義理人情にうるさいからな」
「プライドの高さでは、これまでのひ弱な男達とやらに引けを取らないでしょう」
リエコにやり込められたばかりのジローが、俄かにさり気ない嫌味と共に乗ってくる。
「少なくとも真琴と対等か、それ以上の男でなくては、あれは助けなど求めんだろう」
「それもおぼっちゃま以外って言うんだから。我が儘ですよこれは」
お手上げと言わんばかりに首を振るジローのここぞの恨み節は、
仮名というより──
具衛に言っている。
もし──
彼の女がこの場にいたら。誰のためと言わず、即刻怒るか盛大な嫌味を返した事だろう。売られた喧嘩を買わない仮名ではない。
なのに──
実の親に噛みつかず、少なからずその足枷になっている自分。それをこんな所でも指摘されている自分。
──悔しいな。
屈辱の多い半生だったが、何より今一番悔しいかも知れない自分。
「外ならぬ、君が望んだ願い事だ──」
本来なら、それに何かを言う資格など
「──私にない事は理解しているつもりだ」
と言うアルベールは、感情が先行しているリエコとはまた別の意味で、これはこれで具衛に寄り添っているといえる。
「真琴が君に預けたという証拠のようなものがあれば、私も意地が悪い事は言わないのだが」
それ程具衛の願い事は難しいという、これもアルベールの思いやりだ。
「いえ、ご忠告はありがたく存じます」
が、もう突き進むと決めた以上、ここで引き下がる訳にはいかない。
と言っても──
こちとら丸裸同然の文なしだ。
──そんなもの。
ある訳がない。
「男ってホントめんどくさいわね。何一つ身一つで勝負出来ないなんて」
少しは具衛さんを見習いなさいな、と言うリエコが、
「──別に証拠なんていらないけど、折角だし何か言えて?」
と、首を傾げるその情感豊かな仕種に、あの夜がフラッシュバックする具衛だ。
「そう、ですね──」
つい絶句しそうになったが、
いくら何でも──
最後の夜の事は、二人だけの秘部だ。言える訳もないし、
大体あんなの──
どうやって伝えればいいのか。良い言葉も見つからなければ、そもそもこの場で何か証拠を示せるものでもない。仮名に電話をしてもらえれば分かる事だが、
証拠云々以前に──
そんな所で何を吹聴して何を企んでいるのか、と怒鳴られそうだ。
「証拠と言えるようなものは──」
あると言えば、足しにしてもらうための封筒ぐらいの事だった。
「私が持っていても身に余るので、お納めいただければ──」
と、持って来たそれは、最後に仮名が置いて行った封筒だ。無記名で封が施されていないそれを、そのまま隣のリエコに手渡す。
「中を見ても?」
「宜しければそのままお受け取りください。私には有意義な使い道が見出せませんので」
「使い道?」
今度は疑問をもって首を傾げるリエコが、中身の紙切れを確かめると、
「これは勝負アリね」
と、無遠慮な高笑いだ。
「今の荒んだ世の中で、こんなロマンスがあるなんて──」
真琴も中々やってくれるわ、と口が動く一方で、目は部屋の角に控える使用人を呼んでいる。
「何かね?」
「いいからご覧なさいな」
対面しているとはいえ、それを渡したい相手は約三m向こうの存在だ。当然それを投げたり、直接手渡す不作法はしない。それを少しの時間差をもって使用人から受け取ったアルベールが、リエコ同様に中身を一瞥すると、目にあからさまな驚きが浮かぶ。
「何です一体?」
「いいから見てみろ」
やはりアルベールも、他に言葉が見つからなかったらしい。それを受け取り確かめたジローが、
「小切手──」
と、漏らしたまま絶句した。
「余り見なくなったやり方だけど、真琴らしい不器用さと言うか、姉さんの呪縛と言うか──」
そのまま沈黙したジローが手にするその紙切れには、右下の振出人欄に高坂真琴の個人名があった。が、肝心の金額欄が空欄で、合わせて振出日も記載がない。
「──あの真琴が、それを渡せる相手とはね」
と、リエコが言うそれとは、左上角に特定の記載がない、【持参人払式小切手】と呼ばれる物だ。つまり、それを銀行に持参した者なら、基本的に誰でも金を受け取る事が出来るという、よくある小切手を意味する。
「不用心にも──」
と、言いかかったジローが、また絶句した。
「──そう言う事よ」
土壇場になるとダメねアンタは、と鼻で笑うリエコは、少し先回りでその理由を口にしている訳で、ジローはショックで思考が追いつかないのだろう。好きな金額を記入出来る状態の小切手が、誰でも使える事の異常さ。それを、意識の高いあの仮名が、他人に譲る事の有り得なさ。
「あなたはこの小切手の意味を分かってらしたのよね?」
「後で調べて驚いた口です」
要するにあの仮名をして、下手を打たないと認められた事を意味する相手で、男という事だ。そう自覚すると、それを使う気もなかったが、何だか惜しくて手放せなくなった。
「思い出の品として持っておく事も考えたのですが──」
それではいつまで経っても忘れられないし、
「譲った人の立場からすれば、いつまでもそれが使われない事は──」
いつまで経っても、小切手に込められた思いが受け入れてもらえないも同然だ。
「──それで、持って来たんです」
「あなたなら、口座をスッカラカンにされても真琴は文句を言わないでしょうね」
私の目に狂いはなかったわ、と自信満々のリエコの一方で、その夫と息子はまた縮こまっている。
「自分にかかった養育費をね──」
利子どころか、
「──何倍にして返したのかしらねあの子は」
幼少期から自立心が高く、独立思考の強い子供だった、とか。
「そんな子の当座に、果たしてどれ程のお金があるのかしらね」
「当座は知らないが、個人資産は──」
小ざっぱりしているとは言え一億ぐらいはあるだろう、とアルベールが言うぐらいだ。単位は円ではない。ここ何年かのドル円レートは、どんなに低くても一〇〇円以上。つまり、
「一〇〇億円──!?」
は下らない、と言っている。が、驚いているのは具衛だけだ。それが本当だとしても、家柄からすれば、
「一族の誰よりも少ないさ」
と言うジローは、同類の富豪にして、何故かその資産構成に目処がつくらしい。ジローに限らず、フェレールの面々からすれば、一億ドルは極少だろう。例えばアルベールは、周知されている個人資産だけで、一〇〇〇億ドルを超えると言われている。
「まぁ、真琴の事になると随分熱心ですこと」
「うるさい」
それ程までに、
未だご執心──
という大金持ちのジローを前に、マウントをとろうとしている事の危うさ。俄かに固まりつつある具衛の前で、やはりジローの顔色は険しい。
「まさか君は、真琴の報酬を知らないのか?」
大切な人の事なら、
「働きに対する評価を肯定してやらなかったのかね?」
と、痛いところを突いてくれた。
「──え?」
調べておくのだった、とは今更だ。基礎教養すら儘ならない具衛の頭の中は、基本的に行き当たりばったりの体当たり型。分かりやすくは痛い思いをして身体で覚え学んで来ただけに、知っている事と知らない事の振り幅が大きい。
まさか──
他人の収入で責められるとは。と思い、はっとする。ジローにとっての仮名は、それを一々気にする程
近い存在──?
という事なのだろう。
「公開されている昨年度の真琴は──」
高坂総研の取締役として、約一億五〇〇〇万円の報酬を得ているらしい。今年度はそれにサカマテの専務も兼任しており、更に増える、とか。
「役員報酬の個別開示義務によるもので──?」
「それが出てくるのが唯一の救いだな」
一億円以上の役員報酬を得ている上場企業の役員に、その報酬の開示義務を課すそれは、金融庁所管の関連法が一昔前に改正された事による。制度そのものに対する賛否もあれば、報酬の多少に対するそれもあり、毎年公開時期は中々騒々しい。
「企業経営の監視と、規律ある企業統治機能の強化が目的なのさ」
企業の不祥事や、株主の利益を著しく損なう悪質な資本政策など。それら不都合な事実を隠蔽し、一人勝ちしようとする旧来型企業に対する戒めというそれは、
「市場の活性化と、投資家保護のために必要な企業統治評価基準を──」
明確にしようとするその一端、とか。
「は、はあ」
流石は元仏国財務官僚という事なのか。日本の金融政策をこうも簡単に説明出来る事の凄さだ。日本人でも説明出来る者が限られるような金融法令の解釈を、まさか仏人から詳らかにされる事の日本人としての恥。それでも、
「何それ、自慢?」
何か真琴オタクみたいで気持ち悪いわ、と、ぶった切るリエコは容赦ない。
「うるさ──」
「それを知ってるアンタは、真琴に何かしてやれた訳?」
ぴしゃりとはこの事だろう。口を開きかけていたジローが、今度こそ押し黙った。そこに感じざるを得ない、脈々たる女丈夫の系図。
「真琴はね──」
資産と呼べるものの一切を、実家から継いでいないらしい。孤立した人生を歩み続けた女が得たものといえば、
「まさに不羈独立の強さだけで──」
富豪の令嬢が、物質的栄華とはかけ離れた精神的孤高の境地に達する事の皮肉。
「さっさと相続放棄までしてねぇ──」
頑固なところは姉さんそっくり、と笑うリエコが呆れている。
──多分。
家庭裁判所から【遺留分の放棄の許可】を得て、一族郎党に相続放棄の意思を宣言しているだけなのだろう。【遺留分】とは、法定相続人が最低限受け取れる遺産額の事だ。本来、生前の相続放棄は出来ない訳で、相続権の発生時に備え、事前にその放棄の許可をとっておく。意固地な仮名が、
「──やりそうな事ですね」
「でしょう?」
思わず笑ってしまったところで、ジローの視線が刺さる。
「ほっとけばいいのよ」
と、リエコのフォローの裏側で、相続に関しては身をもって思い知っている具衛だ。負債と資産という違いは決定的だが、それでもお互い親の財産を相続したくなかった者同士。
そんなところも──
ジローの気に障ったのかも知れない。
仮名は、一方的に恩着せがましく押しつけられる家財が、
「嫌で嫌で仕方ない子でね」
そんな子が元来、元手には不自由しない身の上だ。その元手を使って増やしてしまえば、忌々しい元手は利子をつけて返す。それ故の養育費の何倍返しで相続放棄、という事らしかった。一〇代で弁護士登録したような異才なら、手続き込みでそれぐらいの事は朝飯前だろう。
「あなたも相続放棄すればよかったのに」
それは、武智の顧問弁護士の山下からも勧められた事だが、
「踏み倒された人の事を思うと、どうしても──」
それが出来なかった。今思えば、若かったと言われても言い返せない無謀。
「酔狂よねぇ」
「現実的な労働で稼げる額でしたから」
片や、今の仮名の資産を少ないと言う人種は少数派だろう。その高い経済感覚と能力は、今更何かの説明を要せず。公表される役員報酬などは、その一端に過ぎない。比べれば比べる分だけ明らかになる、絶望的な差。例によって悪い虫が出始める具衛の横で、
「それ、違うわ」
と、リエコがあっさり否定した。
「あなたはコツコツ貯めたお金で、全うな労働でそれをしたの」
真琴の錬金術とは価値が違う、というフォローは、実は相当引っかかる。一応全うな組織での報酬だが、国家の暴力装置とも称される野蛮さだ。手放しで社会に受け入れられているとは到底言い難い。
「全うと言うより、危うさが強いと言いますか──」
時には血で血を洗う、そんな労働で稼いだ金だ。
「それを判断するのは、全権を掌握する為政者でしょう。──ねえ?」
「そうだな」
かつて仏国全権を掌握していたアルベールの追認は、当時は怪しいが、今となってはそれなりに信用に足るだろう。
「文民統制の根幹だ」
存在自体が忌み嫌われるのであれば、存在そのものをなくしてしまえばいい。が、それが出来ない事情に目を瞑ってそれをしてしまえば、ほぼ間違いなく、
「国は滅びるのだ」
という現実。
確かに武力を持たない勇気は尊く、平和主義的観点ではこの上ない誉れだろう。が、人間社会は、まだその境地に達していない。
「名を捨て実を取るしかないんだよ。今は」
人類有史、戦い抜いた歴史の末に到達した現代で、完全平和など幻だ。永遠に辿り着けない理想だ。
「軍なんてのは、その犠牲の典型だ」
戦いを憎み、恐れ、力を持とうとしない者達に忌み嫌われ、その代わりに命を晒し、時には血を流す事を厭わない野蛮な組織。それが軍だ。
「世の中に絶対正義なんてないんだから。あなたは任務の範疇で、あなた自身が思うところの人道に悖らない働きをした。それで十分じゃないかしら?」
「人道に悖らないかどうかは──」
「もうつべこべうるさい」
こんな所でも相変わらずの具衛を、リエコが真顔で睨みつけた。同じフレーズで極最近、不覚にも唇を奪われた記憶が一気に押し寄せ、硬直する具衛だ。
「その野蛮な盾の庇護下で、綺麗事ばかり言ってる鉄面皮のご高尚な方々より、潔くていいって言ってるの」
「だから君はこの場にいるんだろうね」
説教とも激励ともとれる夫妻の言葉は嬉しい。が、それで長年の葛藤が解消される程、単純な人生ではなかった具衛だ。人の道には悖らず生きて来たつもりでも、その評価は赤の他人に委ねられている。それが大なり小なり負託を負う者の宿命だ。誹謗中傷が渦巻く世で支持の声は余りに遠く、批判ばかりが耳目に届く日常を生きて来た具衛が、世の中を諦める一端はそこにもある。大抵は中身を見てもらえず、上っ面だけで判断され、深い考えもなく一方的になじられる。何の知恵も心も持たず、野蛮な武器をぶら下げて思う様に敵をなぶり殺す。軍人などその程度の存在だ。が、支持を諦めたところで開き直る事は許されず、当然課せられる国家に対する忠誠。それを国民を切る暴力装置だと罵られ、甘んじてその批判の最先鋒となりながらも最前線に担ぎ出される事の哀愁は、経験者でなくては到底理解出来ない屈辱。
結局は──
いつまで経っても、バカにされる人生。自由な世は、自らの責任において言いたい放題やりたい放題で、それで捕まるヤツなど、
──圧倒的に少ないしなぁ。
平等や公平を国是に唱える国家は多いが、この世は未だ不平等不公平で、人間社会でそれがなくなる事など未来永劫有り得ない。
「思うところがあるのは分かっているよ」
これでも国官の端くれだったからね、と言うアルベールが、
「世の矛盾を甘んじて押しつけられたような組織で、君はそれでも清廉で、理性的で──」
何より強かった、と感嘆する。
「だからこそ、あの小難しい真琴の剥き身の財産を預けられるわけよ」
稀に見る珍事だと、リエコが笑った。が、最後に残ったもう一人が、具衛の斜向かいで頭に血を上らせている。
「これを君は、一体どこで──」
と言うジローは、俄かに事実を受け入れ難いようで、譲渡の状況を確かめるそれは粗探しだろう。
「聞かない方が良いと思うけど──」
ヤレヤレと呆れるリエコが、深い溜息を吐いた。
「最後に立ち寄られた時に、何も言わずに置いて行かれました」
「それは、忘れて帰ったのではないのかね?」
「分かりません。確認していないので。その封筒ごと、テーブルの上に置かれていました」
「確認の連絡は?」
「していません。電話番号を存じ上げませんし。唯一のチャンネルだったメールアドレスも消去したので」
「何故!?」
「もう、お会いする事はありませんから」
「掛け替えのない相手に、もう会わないとはおかしいだろう!?」
「仮に思惑通りになったとしても、報復は免れないので──」
つまり、会いたくても、もう二度と会えない。
「だからそれを私が持っていても、もう意味がないんです」
「ねぇ、私は別の興味があるんだけど、伺ってもよろしいかしら?」
打ちひしがれるジローを押し退けるように、興味津々のリエコが取って代わった。
「真琴は、あなたの事を理解した上で、あなたに近づいたのかしら?」
普通、具衛のような庶民は、高坂真琴に近づく術を持たない。それを理解しているリエコの決めつけが、何やら情緒的で不穏だ。
「いえ、お互いに素性を伏せていたので、別れる直前までご存じなかったと思います」
「それは真琴が──」
と言うリエコの目は、やはり妖しい。
「──それこそあなたに、剥き身の自分を見て欲しかったんでしょうね」
その勝手な艶かしい憶測に、ジローが大きくむせた。言葉通りの想像を働かせたのだろう。それを見た具衛も、思わず貰い噴きしそうになったが、ギリギリで堪える。
「いや、そんな事は──」
「まぁ、分かりやすい」
すっかり、したり顔のリエコのペースだ。どうやら色恋沙汰に感心が高いらしい。
「素性を明かすと、おかしな虫しか寄って来ないから、あの子は」
「それは何となく、分かります」
「多分、あなたに助けてもらった時に、あなたの人柄に興味を覚えたのね」
ビビっと、と俗っぽい事を口にするリエコが、嫌にウットリしている。
「片意地張って生きて来た分、一気に溢れちゃったのよ」
「出鱈目な推測を言うな!」
「出鱈目じゃない!」
聞くに堪えなくなったジローの叫びを、更にリエコが上から捩じ伏せた。
「じゃあ聞くけど、アンタが具衛さんになり代わったとして、アンタにここまで出来るかしらね?」
具衛が際どい橋を渡ろうとしている事は、この場の誰しもが理解しているという事だ。
「愛しい女は、情熱をもって奪うものよ? 体裁ばかり気にするおぼっちゃま?」
言われたジローが荒々しく立った勢いで椅子を倒すと、そのまま物も言わずに出て行ってしまった。
「アラアラ。いい中年男が──。ごめんなさいね、見苦しいものをお見せして」
「いえ、私如きの事で申し訳ない限りです」
具衛がそのまま最敬礼すると、
「まぁあの子もあれで、まだ世間擦れ出来てなくて。大目に見てあげてね」
と、何処までも優しいリエコが、話を転じる。
「今日の事を、真琴は知らないのよね?」
「私は話していません」
それどころか、伝える術がもうない。
「という事は──」
高坂もまだ知らない、と漏らしたリエコの顔が、今度は何やら不敵な笑みを浮かべている。
「奇策を打てる素地はあるようだけど?」
と、話を向けられたアルベールが、両肘をテーブルについて、顔の前で神妙に両手を組んだ。
「君の事だ。何かプランがあるんだろう?」
それを聞いた上で考えてもいいかね、と、話を振られた具衛が、いよいよプレゼン時を察すると、一度ナプキンを外した。
「はい──」
最後を締め括るデセールが出て来て、ようやく具衛の見た目にもはっきり名前が分かる食べ物が現れた。
苺のショートケーキ、メロンとライチと桃とりんごの盛り合わせにバニラアイス。一見普通に見える物が一々美味い。食い物の味に頓着しない具衛でも、市販の物と出ている皿の上の物との違いくらいは分かる。それを一人黙々と突く中、前横に鎮座するフェレール夫妻が、
「私達は、君を見くびっていたようだ」
「ホント。こう言ってはまた失礼に失礼を重ねるようだけど」
とかで呆れていて、手元が疎かになりがちだ。勿論、具衛の奇策の事を言っている。具衛の素性の詳細を知る二人だ。誰かによって調査され報告された字面だけでは知り得ないその半生の存在に、素直な驚きを浮かべていた。
「目で字を追ううちに、上っ面で覚えると言いますか──」
「上っ面?」
と、また首を傾げるリエコに、胸を締めつけられる具衛だ。恐らく癖なのだろうが、その仕種は仮名を思わせる。仮名にその癖はないのだが、よく似ているこの叔母は将来の仮名を見るようで、思わず見入ってしまうのだ。
「──どうかした?」
という声は、当初に比べて随分と砕けており、随分と気に入られ
──ちゃった、のか?
と思うと、今度はアルベールの嫉妬が怖くなる。
「あ、いえ」
慌てて軽く顔を左右に振って我に返ると、
「気にしなくてもいいわ」
見惚れられる事などいつもの事と、また小さく笑うそれに脳がやられてしまう。
「不倫の一つや二つ、ねぇ?」
「それを言われると、ホントに辛い」
いつまでも負い目を負い続けるアルベールが、それでもリエコを離さないのは、その完全淑女振りだろう。
「お若い殿御の目につくなんて光栄な事だけど、真琴に知れたら怖いから──」
まぁ程々にね、とウインクされるそれがまたあざとい。
「わ、我が家は本当に赤貧で──」
と、脈絡をすっ飛ばして、無理矢理話を戻す事にした。
家での娯楽は小さなブラウン管のテレビだけだったが、
「テレビは父に占拠されているので──」
たまたま自宅アパートの近くにある図書館に通い詰めるようになった。
「ほぅ、図書館とな」
と、何処かわざとらしいアルベールの感心は、負い目から逃れる意味合いもあるようだ。
「学校は嫌いで、行ったところで──」
バカにされ、いじめられたりで、勉強をする環境ではなく、結局ろくに通わず。
「その代わり、図書館の本はよく読みました」
おもちゃを買ってもらえない具衛にとって、図書館の本は只で借りる事が出来るおもちゃのようなものだった。就学期の具衛を救った図書館の事は既に書いたが、そんな具衛が目紛しく知識を吸収し始めたのは、職を得ても変わらない読書によるものだった。時として死と隣り合わせの職場で、生を繋ぐための知識の必要性は、身をもって痛感させられた。あらゆる情報を蓄えられるだけ蓄え、それを使い分ける。机の引き出しと卓上の関係だ。少しでも何かの役に立つと思う物は読み漁り、実践を踏まえてしぶとく知識を得るスタンスは、まさに泥臭いサバイバルそのものだった。
「今でも図書館は学校で、本が先生のような。そんな感じです」
「理性的な訳だ」
と、アルベールが、今度は素直な感嘆を示す。
「本は知識の泉にして、人類の叡智の結晶だ。それに触れる者は──」
自然、謙虚になる。己の存在の小ささを思い知る訳だ。
「その様子だと、相当読んでいるようだ」
「いえ、そのような事は──」
「謙遜だな。君は速読の部類だろう?」
「え? どうでしょう?」
朝から晩まであれば、文庫本なら数冊は読むが、以前は常に切迫していた事もある。
「任務に追われて知る事を先延ばしに出来なかった筈だ」
「え?」
「私も多くを読み込んで来たからね。もっとも本ばかりではなかったが」
「──そう、でしたね」
元大統領にして、今も尚、大グループの会長に君臨する男だ。知識と英断をもって常に選択を迫られ、その責任を全うしなくてはならない。そしてそれは基本的に、忙しさの中で執り行われる。
「私は、自分のために読み漁る事が出来て幸せでした」
その利益の行き先の多くが自分のものである具衛に対して、大半が公に資するためのアルベールに言い訳は許されない。それを思うと、
「派兵先の惨状を見る度に、自分はまだ運がいいと──」
痛感させられたものだった。誰かの研鑽の、その深淵に接する事が出来る事の僥倖。具衛はそれに触れる機会を簡単に得られる国に生まれ、それを吸収する時間的余裕があった。が、僅か数千km離れた所では、教育はおろか本すらない、文字通り今日の寝食の心配に迫られる世界がある。
「その謙虚さこそ、読書家の特質だよ」
その謙虚さが、
「中には無駄と思えるものも、見方を変えれば何かを得られる──」
その飽くなき探究心が、理性を育む。
「──人生に無駄はないとはよく言ったモンだよ」
育まれた理性が、人として正しくあろうと導く。文字に触れる日々で、その中から少しずつ徳を積み重ねる感覚。その習慣が人生を変える。
「──立派なモンだ。誇っていい。実際私は、そんな君に救われた口だからね」
様々なものが循環しているこの世の中で、
「──叡智もまた引き継がれている」
それは得るだけではダメだ。
「誰かに与える事で、誰かに利益をもたらし──」
その積み重ねが社会を育み、今日の人類の繁栄の礎となった。
「私はそんな問題意識を持っていた訳では──」
「いや、本質的には理解している筈だ。だからこそ君は、今ここにいるのさ」
「真琴が剥き身を晒す訳ね」
しばらく黙って聞いていたリエコが急に口を開いたかと思うと、分かったように生々しい事を嘯いた。まるで本当に、
あの夜を──?
知っているような断定に、何かを言える訳もない具衛は固まるしかない。
「見た目は可愛らしいのに行動力があるって反則だわ」
私がもう少し若ければね、と夫の前で只ならぬ事を連発するリエコの顔は、すっかり恍惚めいている。
「リエコ」
「自分の不手際を十何年も家族に押しつけるような人には、何も言わせません」
アルベールの窘める声に説得力はない。
「真琴はね。姉さんの子だけど──」
見た目も思考もリエコに似ている、とか。
「そうですね」
その類似性が、今の具衛には辛くもある。
「ああも一人で何でも出来る人間でもね。寂しいものよ、それは」
孤高の異能の悩みは、仮名の口も語っていた。世の愚かな妬みや僻みに辟易し、それでも取り繕わず自分らしくあり続けた若き異能が、
「少し屈折するのも分からなくもなくて」
その埋め合わせが具衛らしい。
「──分かりません」
疑問が素直に口から漏れる。
「そういうところ」
「え?」
「そういう素直さが可愛いのよ」
それを以前の仮名は「罪だ」と言っていた、その事だろう。
「なのに据わってるのよねぇ。全部受け止めてくれそうで。いざとなったら何とかしてくれそうで──」
恍惚感そのままに艶っぽい口は、まるで恋に恋した少女の口振りだ。
「実際のところ、普通はどうしようにもない事を、何とかしようとしているし──」
それは立派な甲斐性だ、とか。
「あの年まで、不器用な頑固さを晒し続けた女に対する神様からのご褒美かしらね」
羨ましい、とリエコの口が止まらないのは、長年の鬱憤のせいだろう。
「しかし君のプランだと、美也子さんに君の事が筒抜けになるが、本当にいいのかね?」
堪り兼ねたようなアルベールが、入れ替わりで話を戻した。
「仮名さんの解放が目的ですから、思い切ってやっていただければ──」
世のためにもなるし、ひいてはそれが未来の高坂を守る事にもなる
「──と思っているので」
単身身軽な具衛は、一人でそれを被る気でいる。が、
"カナさん?"
と、口を揃える夫妻の興味が逸れてしまった。ワンテンポ遅れて手で口を覆う具衛だが、当然吐いた言葉は戻って来ない。
「ねぇ何それ?」
隣で前のめりになっているリエコに、言い間違いは通用しないだろう。
それこそ仮名さんに知れたら──
後が怖いが、諦めてまた一つ、二人の秘密を明かす事にする。
「素性を隠した交流だったので、お互い仮の名前で呼び合っていたんです」
「で、真琴がカナ?」
「ええ。そのまま仮の名で仮名と」
「あなたは何て?」
「今の勤め先に母子の支援施設がありまして──」
そこの職員が子供達から先生と呼ばれるから先生だとか、今更だが、
ろくに学もない俺が──
思い上がりもいいトコだ。が、それを、
「そうなの」
と、リエコが嬉しそうに答えた。
「猜疑心の塊だった真琴が、他人とそんな事をするなんて──」
「思わぬ惚気だな」
したり顔で意地悪く笑うアルベールの前で、具衛は苦笑いするしかない。また横のリエコに何を言われるか、と思いきや。
「帰ったら、本名で呼んでおあげなさいな」
今度は一転して、ふんわりしたその母性に、また脳が揺さぶられた。その引き出しの多さは、まさに仮名だ。
「は、はあ」
とは言え、恥ずかしがったところで、その機会は恐らく永遠に来ない。そんな具衛の僅かな影を感じたのか。
「出来る限りの事はするつもりだよ」
と、アルベールが真摯に答えた。
これは──
何とかなるのかも知れない、と思った矢先。
「ちょっと待ったぁ!」
雄叫びと共に大広間の扉を乱暴に開けたのは、先程勝手に出て行ったばかりのジローだった。
「あの子はまた一体──」
と、呆れるリエコをよそに、具衛の傍まで荒々しくもやって来たジローは、脇に何やら抱えている。
「真琴を助ける事は賛成だが、真琴と君の仲は認めない!」
などと、高らかな宣言と共にテーブルに置いたそれは、チェスボードだった。
「潔く勝負したまえ!」
「は、はあ」
鼻息荒くも早速駒を並べているジローに、呆気に取られる具衛の所へ、苦笑いする夫妻が寄って来る。
「御免なさいね、ホント子供で」
「ヤレヤレ、仕方のないヤツ」
「やかましい! 私は真剣だ!」
先程来の辛気臭い顔つきから一転。本人は真剣なのかも知れないが、そのバカバカしい熱意は、
意外に──?
分かりやすい人間なのかも知れない。
具衛が一緒に駒を並べ始めたところで、ジローが今更、
「ルールは知ってるようだな」
と確認してきた。知らなければ、手解きした上でコテンパンにするつもりだったのか。
「自分の得意な事で勝負するってどうなのそれ?」
そんなところを一々突いてくるリエコに、
「紳士の嗜みだろうが。出来て当然の事で勝負して何が悪い」
と悪態を吐くジローは、FIDEマスターらしい。【フェデラシヨン アンテルナシヨナル デ エシェック】という仏単語の頭文字を取った略称のそれは、国際チェス連盟の事だ。
「それはまた相当──」
「三味線引いても騙されんぞ? 君はあの鉄砲玉と随分やり合っていたんだろう?」
「素人遊びですよ」
「目隠しで嗜むヤツらがか?」
バディを組んでいる時の具衛とシャーさんは、まさに四六時中一緒にいるような状態で、チェスは息抜き代わりだった。
「しばらくやってませんし、FMには敵いませんよ」
最高位のグランドマスター(GM)、その次のインターナショナルマスター(IM)の次に位置するFMは、日本の囲碁・将棋なら六段レベルと言われ、つまりプロだ。
「確かに、大人げないのは分からんでもない」
それを認めるジローが、盤面から【クイーン】を取った。日本の将棋でいう【飛車】と【角】を合わせた動きが出来るそれは、言うまでもなくチェスで最強の大駒だ。縦横斜めの全方向に、任意のマスに進める駒を落とす事は、将棋に比べて各駒の動きが派手なチェスでは相当な戦力ダウン。しかもチェスは、将棋と違って敵の駒を獲得する概念がない。敵は敵のまま、味方は味方のままで、やられたら盤面から排除されて終わりだ。しかもその上、先手をくれるらしい。
「さぁ打ちたまえ」
「ホント、真琴に似て不器用ねえ」
相変わらず遠慮のないリエコが、
「折角お互いお近づきになれたんだから、仲よくすればいいのに」
と、ボヤいた。
「持ち時間はなしでいいだろう。どうせすぐ終わる。さぁ打て」
「カッコつけ屋だから。適当にあしらってあげてね」
「はあ」
とは言ったものの、ジローが仮名との仲を認めないと宣言した以上、手は抜けない。
「チェック!」
鼻息荒く得意げに宣言したジローの前で、
「いやぁ、負けちゃいましたね」
と言う具衛が、素直に頭を下げた。が、ジローはあからさまの赤ら顔で、勿論それは酒によるものではない。
「そりゃあ、何回も泣かれたらねぇ」
「長旅の時差で眠いところを、すまなかったね」
仏時間でさえ、いい加減な時刻になっているところで、観客の夫妻もあくびの回数が増えている。
一局目は、たったの三一プレイで具衛が勝った。その実力を見たジローが、泣きの一回目の二局目でナイトを一つ落としたが、やはり先手を押しつけられた具衛がとった。三局目はついに平手打ちになったが、やはり先手の具衛が。四局目はジローが先手をとり、ようやく一局取り返す。で、最後の五局目は、正式ルールに則り【トス】で具衛が先手をとったが、後手のジローが八〇プレイで終局。
「ど、どうだ!」
と、勝ち誇るジローだが、その表情は強がりにしか見えない。
「──子供みたい」
と、冷ややかな突っ込みを入れるリエコのそれに、何処かを抉られたようなジローが、
「ま、まぁ、いい勝負だった」
とか何とかの捨て台詞と共に、また勝手に席を立った。いい加減、寝るのだろう。
「それにしても、紳士の嗜みでもお強いなんて」
「見事に我が家の天狗の鼻を折ってくれたよ」
奇しくも、日頃実の息子に頭を押さえつけられている夫妻の仇を討ったような格好だ。
「もうあんなのは放っておいて、飲み直しましょ?」
と、すっかりご機嫌のリエコが、グラスに残った赤ワインをあおった。気がつけば先程来、具衛にべったりのその淑女が、ほろ酔いである事の色気の凄まじさだ。
「すっかりお気に入りだな」
と、ボヤくアルベールをよそに、
「いい匂いでしょう?」
と嘯くリエコは、夫の前で堂々と若い燕を籠絡しようとしている。
「い、いやぁ」
妖しさを増すその芳香は、リエコから発するものか、それともワインなのか。何処かで嗅ぎ覚えがある具衛だが、それよりも何よりも、その夫の視線が気になって仕方がない。只でさえ、ジローの機嫌を損ねているというのに、当主まで敵に回してしまっては、文字通り敵を増やすだけで、これではリエコの慰み者になりに来ただけの事だ。そんな具衛の心配など委細承知のリエコが、
「いいのいいの」
あなたの望みは叶える約束だから、と、その夫までも邪魔者扱いし始める。
「自分だけいい事しといて、許さないんだから」
多少の酔いのせいもあるのだろうが、延々繰り返す恨み節は、
「酔うとお約束でね。巻き込むようですまないね」
と嘆息する、アルベール公認だ。
「真琴もいいけど、私とならもっと楽しく過ごせるわよ?」
年齢的に具衛の約二倍のリエコが先に死ぬのは分かり切った事で、
「ここ何年か楽しませてくれれば、私の遺産は全てあなたに差し上げてよ?」
と、危うい事を言い始める始末。
「ではそれを──」
先渡しで、今回の具衛の計画の足しに
「──していただけるのであれば、それでも構いません」
フェレール家夫人のお抱えになれば、身の上の心配は随分軽くなる。高坂といえども、下手な手出しは出来ないだろう。が、それを受け入れては今度は仮名の方が怖い。
「冗談よ冗談。姪の想い人をとって恨まれるようなみっともない事はしないわよ」
それが分からない訳がないリエコが、
「つくづく真琴が羨ましいわね」
とボヤいた。愚痴が増えているのも、酒の影響だろう。そんなところまで仮名に似ていると思ったところで、その女が愛飲している
「あのサングリアの香りのような──」
気がする事を思い出した。
「それは真琴だけの呼び方ね」
仏でハーブのフレーバードワインと言えば、
「ベルモットよ」
「──ですか」
具衛もそれを知ってはいたが、あの仮名が言う事だ。逆らうと何を言われたものか知れず、上っ面でしか知らない酒の事でもある。つまり、放置していた。
「私が作り方を教えたの」
これをサングリアと呼んでいたら、
「ここじゃ怒られるわ」
と笑うリエコに、いつの間にか妖しさがなくなっている。何にしても、いい意味で気にかけているという事のようだ。
「あなたが矯正してあげてね?」
宿題よ、
「──と言われましても」
そんな事が分からない仮名ではない筈だが、その役を何故か具衛が負わされる事の謎。そのまま軽く首を傾げる具衛に、
「んまぁ、可愛らしいこと!」
と、目を見開いたリエコが、何故だか極まった勢いで首根っこにしがみついて来た。
「お、奥様!? い、いけません!」
何処に触れて抵抗すればよいのか。迷う具衛の隙を突くのは、まさに仮名のそれだ。
こ、こんなところまで──
似ているという、罪深いまでの美貌をもつ完全淑女に盛大な頬擦りをされると、すっかり上せてしまった具衛だった。




