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鷙鳥厲疾(後)②【先生のアノニマ(中)〜9】

 明朝。

 使用人に案内されて、ボンヤリ昨夜の大広間に向かうと、朝食が並ぶ中、

「よく眠れて?」

 と、微笑むリエコは、相変わらず年齢不相応に瑞々しく、美しかった。

「え、ええ。素晴らしい寝心地で」

 ドギマギついでに窓から見える景色が、また絶景だ。邸宅の南面に展開する眺望は、曇りがちな欧州の冬景色とは無縁の明朗さ。絵に描いたような南仏リゾートのそれだ。青い空、いくつかのビーチ、緑豊かな半島リゾートは、昨夜の到着時には見られなかった。が、よく晴れている今朝は、

「冬のヨーロッパとは思えないですね」

 これを風光明媚と言わずして何なのか。それと同時に改めて押し寄せる、我が身の場違い感。の筈が、今朝はもう一人の珍妙な出で立ちの者が、それを見事に掻っ攫っていた。

「すまないな。暑苦しいのが約一名同席して」

 アルベールの呆れ顔の先にいるのは、何故か日本武道の稽古袴を着て(ゆだ)っているジローだ。

「何故だか知らないけど、突然思い出したように朝稽古したらしいの」

「はあ」

 遠慮ないリエコの聞こえよがしの声に、具衛は苦笑い以外の反応が思いつかない。実はその理由を、図らずも知っていたりする。

「チェスでこっ酷くやり込めたそうじゃないですか」

 とは、時差ボケで轟沈していた昨夜の真夜中の国際電話で、相手は外ならぬシャーさん(身元保証人)だった。弾丸行程の旅行とは言え、一応日本と連絡がとれるよう、一時的に国際ローミング設定していたのが仇になったその連絡によると、何でもジローが、チェスの戦績が気に食わなかったらしい。

「お陰で朝っぱらから、凄い剣幕で電話がかかって来ましたよ」

 こっちは東京時間なんで、との後つけの断りは、細やかな恨み節だ。

「明朝、お手合わせ願いたいそうですよ」

 合気道で、と言われたそれは、外ならぬ高坂真琴が嗜んでいるそれな訳で、同じくそれに心得があるらしいジローの思い入れの強さだろう。

「手合わせ、と言う名の試合を申し込む気のようですが」

 淡々と語ってくれるシャーさんは、完全に人ごとモードだ。

「合気道って、確か試合しないんじゃないの?」

 スポーツ全盛の現代において、合気道がそれと明確に一線を画した格闘技である事の所以がそこにあったりする。ひたすら自己を見つめ、稽古あるのみ。それが合気の道、

「――ってモンでしょ?」

「三〇年選手ですから、手強いですよ」

「創始者のお怒りを買うんじゃないかねぇ」

「俺は知ったこっちゃありません」

「俺は眠いんだよう」

 武道の尊い理念など、生死入り乱れる混沌の中で仕事をしてきた具衛にしてみれば、目覚ましにもならない。で、朝を迎え、今になって、ジローの異様で改めて直面させられる、次なる問題だ。なるべく存在感なく、

 ――こっそりしてよう。

 と、コソコソ席についたところで許してもらえる筈もない。

「朝食後、お手合わせ願いたい」

 と、置き物のような澄まし顔のジローに、いきなり宣言されてしまった。

「はあ」

「帰りの飛行機は大丈夫なの?」

 リエコの助け船はありがたいが、残念ながら往復割引の航空券は帰りもミュンヘン経由で、羽田便は夜。コートダジュールのミュンヘン行きは昼下がりの発だ。つまり、

「――午前中は大丈夫なので」

 調べればバレる事なら、逃げただの何だの言われる前に往生しておく。そもそも具衛の願い事(・・・)の中身は、一般的には相当な無茶だ。

 そのためにゃあ――

 相手の要望の一つや二つ、飲み込んでおくべきだろう。

「何だか意地になっちゃってねぇ」

 リエコに焚きつけた自覚はないようだ。長年、高坂真琴に一途だったジローの鬱憤は、その年月の分だけ溜まっている。

 俺が逆の立場なら――

 ジローとは対照的な具衛に横取りされたとあっては、収まるものも

 ――収まんねぇよなぁそりゃあ。

 自然、そう思える我が身がまた情けない。

「何だか決闘めいて来たな」

「今更いきり立ってもねぇ」

 無責任な夫妻の言葉に、ジローの気配は鋭さを増すばかりだ。

 あちゃあ――

 丸く収まる気がしない。

「まぁ帰りの便は心配せず、思う存分やるがいいさ。何事も若いうちだ」

「勝負がついた後で勝負してどうするのかしらねぇ」

 そんなリエコの痛烈な皮肉に

「やかましい!」

 と、また乗せられてしまうジローは、せっせと闘争心を練り上げている。

 ――うーん。

 妙な事になっている。わざわざまかり越したフェレール家で、まさか女絡みで絡まれるなど。想定外もいいトコだ。大体、

 恋のライバルって――

 なんだ。現外相(高千穂)にしろジローにしろ。具衛とはまるで住む世界の違う住人の筈ではないか。

 そんな連中に――

 女一人のためにライバル視されるなど、それこそ有難迷惑の極み。こっちは何もない素寒貧で、向こうは怖いものなしの権力者でお金持ちだ。何でも手に入れないと気がすまない、そんな欲な連中のために、何故か同じ土俵に担ぎ出され、逆恨みされる事の不思議。

 いい加減――

 ほっといて欲しいと思うのは、貧者の思い上がりなのか。そう思うと、見た目の緩さ程緩くはない具衛だ。

「お手柔らかに頼むよ」

 アルベールの親心の裏側で、俄かに具衛も、鬱憤のようなものが湧いてくる。

「何言ってるのよ」

 バッサリ切ったリエコは呆れ顔だ。

「愚息が迷惑ばかりかけて申し訳ないんだけど――」

 言って聞かせて分からないのなら仕方ない、と、すっかり興がさめている。

「――最後はあなたに引導渡してもらうしかないわね」

「はあ」

 妙な事になったものだし、感情任せにヤケになってはいけない事も分かっている。こういう局面でも大物は、

 常に考えるんだろうけど――

 小物の具衛に、その知恵は乏しい。


「その格好でいいのか?」

 合気道の稽古袴を着用したジローは、実に精悍だ。その一方で、

「はい」

 と答えた具衛は、一張羅から貧相な私服になっていた。確か、昨日空港で捕まえた時に着ていた服だ。他に着替えを持って来ていないのか、あるいは他に持っていないのか。

 そんな見窄(みすぼ)らしさで騙される程――

 愚かではない、と自覚しているジローの調べでは、日本から来たこの珍客は、外人部隊では有名な【システマ】使いだった男だ。旧ソ連の将校によって編み出されたその格闘技は、「ロシアの合気道」とも言われ、日本の合気道にもよく似ている。が、特定の型を持たない一点において日本の合気道とは明確に異なり、余りにも隙塗れの具衛は、まさにそんな感じだった。

 とても手練れには見えないんだが――

 それもまた、小賢しい小細工の一つとしたものなのか。それにしては、今も目を白黒させて、

「リゾートの豪邸に道場が!?」

 などと落ち着かず、どうも間が抜けている。

 父の秘書になった時、あちこちにある父の拠点に道場を作らせた。もとを正せば父の日本通の賜物だ。日本人の次男にありがちな名前を、仏語の名前になぞらえて命名されたジローも日本好きに育った。幼少期から言語を初め、文化習慣に深く感心を示した。が、武道だけは近寄りもしなかったジロー少年は生来運動音痴で、それを合気道へ(いざな)ったのは、外ならぬ同い年の従姉弟、高坂真琴だ。

 ジローが初めて真琴に出会ったのは一〇歳の時だった。母リエコの里帰りにくっついて初めて日本に行った時、高坂家で対面した真琴に一目惚れしたジローは、合気道の稽古に没頭する可憐な少女に奮い立たされた。関節技の芸術の如きその動きは明鏡止水の一言に尽き、修練する真琴は眩しかった。

 以来、三〇余年。運動音痴の少年が努力に努力を重ねた道のりは、真琴一途の道のりでもあった。

 それを――

 降って湧いたような、如何にも頼りなさそうな男に奪われたとあっては、我慢出来る訳もない。本当にそこら辺の道端で草でも食んでいそうな、そんな資がない貧相な男に真琴がなびくなど。

 ――有り得ない!

 想いを募らせた年月の分だけ腹が立った。

 地位も名誉も財も全く興味を示さなかった真琴が、今は具衛と名乗る冴えない男の何処に興味を持ったのか。そんな男が、外人部隊では【次郎】のアノニマを持っていた事の偶然が、また腹立たしい。偽物の次郎に真琴は何を見たのか。本物のジローは、それが知りたかった。

 見るからに金があるようには見えない具衛にそれを調べる必要はなく、あるとすれば知力体力だろう。が、言動に教養を感じる事もなければ、妙に落ち着きがない。

 これで真琴とどんな会話を――

 紡いだというのか。

 教養はなくとも――

 基本的な知力はあるのかも知れない。それでとりあえず、チェスをやってみた。対戦型のボードゲームの強さとIQとの間に相関関係は働かない、と言う説は知っている。が、それは、

 ――弱い奴らの僻みだ。

 と、ジローは思っていた。

 頭脳と閃きを駆使するゲームだ。根本のレベルでは、少なからず頭の良し悪しが影響しない訳がない。内心では、コテンパンにやっつけて安心するつもりが、まさかの敗戦に驚かされた。日本の将棋よりも駒の動き方が派手なチェスは、文字通り一手が命取りになる。それを理解するある程度の頭脳と、ある程度の訓練は絶対的に必要だ、との持論を持っていたジローは、皮肉にもそのチェスのために、認めたくもないボンヤリした冴えない珍客を、ある程度認めざるを得なくなった。

 世間が羨む自分のステータスを真琴が認めないのなら、母ではないが、身一つで推し量ってみたチェスでの思いがけぬ意表。それだけで知力を語る横暴は理解していたが、自信があっただけに余計納得がいかない。

 それなら――

 逆に、今度は具衛が得意そうな腕力で打ち負かす。と、

 ――思ったんだが。

 一見して剛性に無縁の軟体動物というか、吹けば飛んで行きそうなそこら辺の枯葉のような。そんな腑抜けの形容を羅列する自分の慢心を、内心で戒めるジローだが、

 それにしても――

 この男の所在なさは、そんな油断をくすぐる見事なまでの

 ――小物振りというか。

 張り合いが削がれて、気を許すと脱力しそうになる。

「得手物は何でも好きな物を選ぶといい」

 と言っておいて、先にジローが選んだのは剣という意表。徒手だけに思われがちな合気道だが、創始者は剣、杖共に名人で、それらを含めた総合武術として教えを広めた。が、一般的にそれを修練する者は少ない。それを知ってか知らずか、具衛は杖を選んだ。

「ほう」

 まるで、(あかざ)の杖を持つ仙人のような、見事なまでの力感のなさに、思わず鼻で笑ってしまう。

 あの年でその境地とは――

 只ならぬ若年寄というか、ジジイの才能があるというか。油断していると噴き出してしまいそうなそのシルエットは、天然ボケもいいトコだ。二人が手にした得手物は一般的な竹刀の造りと同じで、間違っても曲がりくねった藜ではない筈なのだが、それが仙人を思わせるなど、逆に只事ではないとも言える、かも知れない。

 何にしても――

 チグハグな男だ。そんなヤツに、

「防具はどうする?」

 と尋ねると、

「いりません」

 と即答される世の珍妙さ。怪我をさせたのでは、後で真琴に何を言われるか分からないし、寝覚めも悪い。武士の情けのつもりで、

「痛くて後悔すると思うんだが?」

 とは一応だ。仮にも相手は戦場の野蛮さを知る軍人で、お節介が過ぎると言われればそうだが、あくまでも道場は道場。戦場ではない。

「慣れてますから――」

 対多数人を想定する過酷な稽古も熟すジローは、その域の修練者で、そんな時には急所だけでも防具をつけたり、ゴム製の得手物を使ったりする。が、

「――お気持ちだけで」

 と、仙人に言い切られては、警告する気も失せてしまう。

「仕方ないな」

 とりあえず型通りの礼をすると、試合開始だ。やる気満々のジローに対し、具衛はあからさまに無防備。それを、道場の片隅で、何となしに見学している父が、

「どちらが合気の理を修めた者やら分からんな」

 と、嘆息する声が聞こえて来る。それを合図に、

「やぁ!」

 と気合を吐いて、矢庭の一撃を食らわすつもりが、その瞬間後。

「――ん?」

 飛びかかった方が畳の上にひっくり返っていた。気がつけば自分の周りにチョークの粉が舞っていて、それは打撃判定を分かりやすくするための物だ。

「えほえほ」

 と、ジローが咳をする少し離れた所で、

「チョークとは変わってますね」

 と、口にしている具衛が、そのまま静かに端へ下がってこちら(・・・)を待ち構えている。

 何が――!?

 起きたのか。それを考えようにも、何かの痛みが割り込んで来て頭が回らない。

「足を掬われた上に、一撃当てられたのよ」

 とボヤいた母が、

「――やっぱり」

 とつけ加えてくれる、その一言が一々余計だ。

「生意気な事を――!」

 痛みに構わず立ち上がったジローが、また飛びかかる。が、その後は本当に稽古のようだった。圧倒的な実力差は、とても立ち合いなどと言えたものではなく、まさに具衛は指南役のようだった。

 まるで歯が――

 立たないとはこの事で、かかれどもかかれどもジローの道着はチョークに塗れ、何度も打ち据えられた。しばらくして剣を捨て、本式の徒手になると、いよいよ実力差があからさまになった。満足に身体に触れる事すら敵わず、ジローは思う様投げられ続けた。

 やはり――

 戦う事を生業にしてきた者の格だろう。正座をして見守っている親達が足を崩す前に動けなくなったジローは、畳の上に大の字に転がった。

「そこまでにしようか」

「そうね。ちょっとシャワー浴びて来たら?」

「はい」

 親に促されて道場を後にする具衛を尻目に、何かを言おうにも酸素に喘ぐザマだ。静かになった道場で、自分の呼吸の荒さばかりが耳につく。

 き、気を――

 遣われるとは。一人、道場に取り残されたジローは、天井を仰いだまま腕で目を覆った。


 同日昼。

 予定では既に帰っている筈の具衛が、何故か昼食に同席していた。何も言わず、何食わぬ顔で皿を突いているスーツ姿が実に白々しい、予想外の剛の者。そのくせ今は穏やかで、緩んだ顔つきで黙々と、

 ――美味そうに食うヤツだ。

 客人が素直に喜んでいる姿は、もてなす側にしてみれば安心材料だ。が、つい今し方、コテンパンにやられたばかりの身とあっては、少なからず面白くない。一人、しかめっ面のジローをよそに親達は賑やかで、

「日本はご無沙汰なんだ。また行きたいんだが、中々暇がなくてね」

「そうねぇホント」

 などと、歓談に(うつつ)を抜かしてくれているそれが、更に忌々しさをあおってくれる。

「帰りはヘリを用意したから、ゆっくりして行くといい」

「お洋服の洗濯も終わってないしね?」

 とかで、具衛は足止めされていた。

 ――何がお洋服だ。

 先程道着代わりに着ていた冴えない私服の事だろう。一見して着古した安物にヘリをチャーターする程の価値がある訳もなく、つまりは足止めの口実だ。朝稽古(・・・)は、ミュンヘン行きの飛行機には間に合う時間だったし、何なら今からでも十分乗れる。それを随分と、

 上手く取り入ってくれた――

 ものだ。

 ジローが鼻を鳴らす斜向かいでは、然しもの田舎者が恐縮を装い縮こまっている。

 ――もう騙されんぞ。

 可愛げな顔の、その面の皮の下に、文字通りの驚くべき必殺技を持つ傭兵だ。が、一々意外なこの田舎者は、その後も中々小憎らしかった。洗濯が終わるまでの間、この男は食後に案内された楽器部屋でギターを弾き始めたのだ。

 上流の嗜みの一つではないが、邸宅内にはそれなりの物が無造作に転がっているその一つで、洗濯が終わるまでの時間潰しのつもりだろう。軍役の傍らの具衛が、鉄砲玉(身元保証人)と二人でギターと戯れていた事は調査済みだ。

 ますますもって――

 白々しい。が、自室でふて腐れているジローの耳に届く音色は中々軽やかで、それに親が合わせ始めると、アンサンブルがそのまま演奏会に突入。それが親世代をくすぐるオールディーズのオンパレードとくれば、人手がダブつき日頃ゆったり仕事をしている使用人達が集まり始め、合唱大会の様相に。挙句、コンサートのような熱狂で、どうやらジロー以外の全員を巻き込む騒動となった。

 ウブな顔つき通り――

 人に取り入るのが上手いらしい。形を潜めて幾年月の豪邸で久方振りのその喧騒は、決して品のよいものではないが、十数年来の鬱屈が消し飛んだような快活さだ。

 忘れた頃に顔を出した痴れ者が――

 生意気にも、褒美の無心の返礼に気持ち(・・・)をくれるなどと。それを自然に出来るあざとさのようなものが

 一々鼻につく――

 ジローは、最後まで自室に籠城し、悔しさをたぎらせ続けた。

 ――洗濯だと?

 あの稽古で、具衛は汗などかかなかった筈だ。涼しげな顔で、子供をあしらう大人のような、そんなレベルだったのだ。つまりは実に回りくどい、ジローのプライドに配慮するための洗濯だったのだ。

 ――わざとらしいにも程がある!

 そんな周囲の忌々しい配慮がとんだ災難を呼び込む事など、当然誰も知らない。


 同日、昼下がり。

 広大な庭にチャーターヘリが到着した。

「ヘリって、庭に来るんだったんですか!?」

 ローターブレードが物凄い勢いで回る中、只っ広い庭先で具衛が傍にいる父に絶叫している。

「これならミュンヘンまで、アルプス越えで一っ飛びだからな!」

 言いながら二人が、握手を交わし始めた。

「今日は西アルプスの東寄りが荒れているから少し遠回りになるが、今夜の日本行きの便には十分間に合うそうだ!」

 やって来たヘリは、グループの関連会社が運行する機体で、元はと言えば実家(・・)お抱えの専用機だ。以前は実家で操縦士と整備士を雇い、家人の用向きのみで運行させていたが、流石に操縦士の出番はそう多くもなければその腕も機体も持ち腐れ、加えて実家では整備もままならず給油すら手間がかかる。それならお抱えヘリをそのまま会社にして、実家以外からも顧客を取りつつ運行整備を充実させた方が健全だ。という事で、実家グループの関連会社として独立させたのが十数年前。今ではヘリに限らずビジネスジェットも運行しているが、今日の父はヘリを呼んだようだった。別荘の庭(ヘリポート)まで呼びつける事が出来る利便性を優先したのだろう。ちょっとしたスペースへ離着陸出来るのは、ヘリの特性の一つだ。

 一般的な感覚で座席を配置すれば、一〇人弱は優に乗れる広いキャビンを有するそのヘリは、航続距離一〇〇〇kmを超える単発ターボシャフトエンジンの高性能機だった。ジローにしてみれば、具衛以外の何もかもがいつもの光景で、早く飛び立てと言わんばかりにボンヤリと程近くでそれを眺めていると、

「ジロー!」

 と、その父から思わぬお召しだ。風圧で舞い上がる服やら髪を押さえながらその傍に寄ると、

「ミュンヘンまで、ついて行っておあげなさい!」

 と、いきなり随行を下命された。

「何で私が――!?」

 と反論しようにも、風や音に邪魔されて、その労が(こと)の外煩わしい。

「またいらしてくださいね!」

「閣下も奥様もお元気で!」

 その横で、他三人はすっかりお別れモードになっている。

「ジロー!」

「はい!?」

「私はこれからしばらくの間、寸刻も惜しい。ミュンヘンまで名代を頼む!」

「畏まりました!」

 そう、返事をするしかなかった。父は早速、昨夜具衛から提示されたプランを行動に移し始めるらしい。十数年来のケリをつけるためにも、ここは言いつけを聞いておくとしたものだ。

「じゃあ行こうか!」

「はい!」

 具衛に声をかけると、お互いに風を凌ぎながらヘリへ向かった。そのキャビンの前で、繋ぎの飛行服を着た若い男が待っている。それが二人が乗り込むとドアを閉めて、右側の副操縦席に乗り込んだ。

 キャビンには、パーソナルソファー仕立ての立派な椅子が、向かい合うように四席。どれもリクライニング機能を有し、後席側はセンターコンソールつきだ。キャビンと操縦席の間に壁はなく、操縦席とキャビン前席のそれぞれが背凭れで接しているのみ。つまり、上座に相当する後席からキャノピーが丸見えで、前方の景色を満喫出来るそれは、全て父アルベールの趣向だった。今日はその父が乗らないため、ジローがその上座へ座る。と、操縦席の方から顔が出てきて、

「坊っちゃん、宜しいですか!?」

 と、声をかけられた。毎度お馴染みの機長は、まさに以前のお抱え操縦士で、未だ坊ちゃん呼ばわりされるのも毎度の事だ。

「いつもお世話になります」

「いえいえ」

 風も音も落ち着ついた機内で声の音量を落としつつ、乱れた着衣や髪をなでる横で、相変わらず目を白黒させている具衛が何処に座るか迷っている。VIP仕様に慣れていないのだろうが、一々目障りだ。

「遠慮する事はない。隣に座りたまえよ」

 とは殆どウソで、前席に座られて視界に入るバツの悪さを嫌ったに過ぎない。

「じゃ、ミュンヘン行き、出発しますよ」

「よろしくお願いします」

 操縦席の二人は耳口に装着しているインカム経由の応対だが、キャビンの住人は椅子に備えられたマイクとスピーカー経由だ。操縦席に聞かれたくないキャビンの会話は、肘掛けにあるスイッチで一方的に操縦席側だけミュートに出来る。が、気心の知れた操縦士で整備士だ。そのまま放っておいた。大体が、具衛と話す事など何もない。

 機長は、家中ではよく知られたベテランパイロットで、五〇前後の快活な男だ。その男の熟れた操縦で、ヘリがゆっくり上昇し始める。と、具衛が父母に手を振っているそう長くもない時間で、別荘が豆粒になった。

機長(コマンダン)、ミュンヘン到着予定時刻は?」

「チューリッヒ上空経由で参りますので、遅くとも日没前には」

 コテンパンにやられた後のバツの悪さだが、一応父の名代だ。一応役目は果たすとしたものだろう。その一々の一応が自分の中で一々煩わしいが、空の上に上がってまで不機嫌を晒し続けるのも大人げない。とりあえず具衛に最低限の確認はしておく。

「搭乗予定の飛行機の出発時刻(オンタイム)は?」

「八時ちょうどですから、十分間に合います」

「そうか」

「はい」

 答える具衛のその声に、ストレスは感じない。この達観振りと言うか、飄々としたものを年下に醸し出される事が、またジローのプライドをくすぐってくれる。

「アルプス辺りは厚い雲がかかってますんで――」

 景色は堪能出来ない、と気を回してくれる機長に、

「今日も安全運航でお願いします」

 などと、当たり前の言葉でしか返せない自分。それでも、

「畏まりました」

 と、殊勝に答えてくれる、そうした当たり前の謙譲が、今日は嫌に自分を刺す。

 そんなモヤモヤが伝染したのか。気がつくと、早くもヘリの周囲に薄い雲が纏わりつき始めた。冬の欧州は、地中海を離れれば大抵曇天だ。雲が濃いか薄いか、それだけの差なのだが、今日のそれは確かに濃い。

「折角のアルプスだったんですがねぇ」

 機長の無念の声が飲み込まれるような白昼夢だ。アルプスを縦断するコースだが、山の峰すら見えない白闇の中で、ヘリは遥か上空を北へ抜けて行く。まるでキャビンの中まで雲に塗れているような、そんな重苦しさ。

「無粋な事を言いますが、高度だけは間違いないように頼みますよ」

「心得ております」

 ジローと機長が、たまに安全運航のスローガンのようなものを唱和するそれが、機内の全会話と言っていい。具衛は最初の確認(・・)以来無言で、窓の外の白い壁を眺め続けている。こっそり盗み見たその顔が、実に穏やかだ。

 いや――

 それだけではない、そんな顔だろう。屈強な山岳兵だった事が仇となって決死隊員にされたこの男にとって、近辺の眼下は因縁の地だ。

「懐かしい――で、合っているかね?」

「――え?」

 少し遅れて「ええ」とつけ加えた具衛が、

「この辺りを、よく駆けずり回ったなぁと――」

 ぽつりと漏らした。今更だが、この男の命を翻弄した、そんな忌まわしい上空だ。

「本当にその節は、迷惑をかけた」

 いくら言葉を積んでも、とどのつまりはそんな一言しか出てこない。それを聞き飽きたような具衛が、何も言わず少し首を突き出す愛嬌で答えた。深刻さを帯びる話向きにも飽きたのだろう。が、ジローにしてみれば、いつまで経っても色褪せる事のない、大きな分岐点だったのだ。そんなストレスが、その口をいつまで経ってもネガティブに動かせる。

「あの時、あんな父でも死んでいたら――」

 我が家はどうなっていた事か。奇しくも当時は、現職の大統領でもあった父。その任期を全うしたらしたで、すぐに出自の財閥の長に復帰するような、そんな腕力を保持し続けていた父が急に消えるなど。後の混乱を思えば思う程、未だに恐ろしいそれはトラウマだ。それを救った具衛の功労の大きさは、あえて語るまでもない。そんな具衛が、思わぬ事で口を挟んだ。

「私にとっては、千載一遇のチャンスでしたよ」

 人の生き死にをチャンスとは。これまでの具衛の殊勝さは何処へ失せたのか。ジローの気色の横で、具衛が続ける。

「救出の成否を問わず、借金が返せると思ったんです」

 成功すれば褒賞、殉職すれば慰謝料。国内で比類なき大富豪の大統領だ。それをケチる事はない。

「しかし生き残った君は、褒美を他人に譲ったではないか」

「あなたと同じです」

 ますます分からない、と思ったところで、具衛がつけ加えた。

「借金は、労働の対価で返済しようと思ったんです。生意気にも」

 実父の放蕩をそれで浄化するつもりだった、とか。だが、

「若気の至りのつまらない意地のせいで――」

 自らの無謀に後悔したらしい。

「褒美だろうと労働だろうと、得られる金は金でしかないという事に、当時は気づけなくて」

「全くだよ」

 素直に受け取って貰えたならば、父を始めとする家の踏ん切りも、もう少し早くついたものを。褒賞だろうと慰謝料だろうと、フェレール側からしてみれば危険手当の支給のようなものだったのだ。

「私と同じ物事など、何処にもないと思うが?」

 そんなジローの苛立ちのようなものを察したのか。具衛がまた一つ、種を明かした。

「褒美で貰った大金だと、債権者が許してくれないと思ったんです」

 宝くじの当選金のような金で返済したら、

「取り返せるだけ取り返そうとするのが人情だと思いまして――」

 利息を望まぬ債権者も、きっとこぞってそれを求める。

「恨み節を躱すには同情です」

「只の意地っ張りではなかった訳か」

「あぶく銭と言っては失礼ですが、既に人から手を差し伸べられた金に対する返済なので――」

 天の助けの如く降って湧いたような金を返済に当てては、援助されてばかり。

「――それでは債権者に、借金の罪深さを理解したと思ってもらえないでしょう?」

 だから貰いたくとも貰えなかった、とか。

「考え過ぎだと思うが――」

 確かにそんなものかも知れない。

 債務を抱えた者が一度に大金を得たならば、債権者は黙っていない。遠い異国の事とは言え、国際的で情報が氾濫する世の事だ。金の出所は派手な訳で、その前ではアノニマに守られた身も看破され兼ねない。実際にその褒美を手放した美談が元で、具衛はその身を軍の裏方(・・)に落としている事でもある。

「物理的な距離感に守られているうちに手放しておいて――」

「――正解だった訳か」

「はい」

 それは口で言う程簡単ではないのもまた人情だ。負う必要のない苦しみを背負い続けるその選択は、俗世の損得に塗れた大多数の俗人には出来ない選択だ。

 やはり――

 只の能天気ではない、という事なのだろう。生まれも生き方も千差万別のこの世において、具衛の不器用な頑固さは異質だ。

「もう少し上手い立ち回りがあると思うんだが」

 ジローならば、少しの元手で具衛の負債など(たちま)ち返済しただろう。

「だから身一つでスッカラカンなんでしょうね」

 そんな不器用な具衛が存在していなかったら、父は今頃鬼籍に入っている。

 ――悪い癖だ。

 有能なジローは、他人が愚かに見えてしまいがちで、つい否定的だ。

 遭難事件の後始末全般を押しつけられていたジローは、その対象を丸裸にする勢いで調査した。多額の慰謝料で有無を言わさず捩じ伏せる交渉において、唯一思いがけず拗らせてくれた具衛の事は、具衛の想像を遥かに上回るレベルで調査し尽した。その柔な為人をことごとく裏切る傭兵としてのステータス以上に驚いたのは、その成長過程だ。家庭環境や就学状況など、どう考えても社会の負け組にしか見えなかった具衛には、それこそアノニマではないが、調査の過程で他人のなりすまし疑惑が浮上した。ハイティーンで天涯孤独となり、明確な身元保証人が既に存在しない、現世との結びつきが希薄な負け犬。それが日本を離れた途端、みるみるうちに精悍さを増していく様子は何かの物語のようだった。その報告を受けた父が、野放図な恩賞を公言したザマも、実は理解出来ない訳ではないジローをして、具衛はチグハグながらも憎めない痛快さをもつ、興味の尽きない男だった。

 結論――

 断じて同類ではない。

「君は本当に変わっているな」

 一個の人間としては認めてもいいだろう。が、

 それでも――

 真琴だけは譲りたくない。そんな具衛が、

「あなたと同じですよ」

 などと、またジローを惑わす。

「だから――」

 どこが、と言いかけた時、

「うっ!」

 と、発せられた短いうめき声は機長のものだ。慌ててその声の主を見ると、頭を抱えてうなだれている。


 アルプスを抜けていたヘリは、突如として急降下を始めた。アルプス山中だったなら、恐らく山に墜落していただろう。通過していた事が幸いした格好だ。錐揉み状態になりかけたその時、呆気に取られていた副操縦席の若い男が、何とか気を取り戻して目の前の操縦桿に手を伸ばす。と、少しは降下スピードが落ちたようだ。一方で後席の二人は、

「コマンダン!」

 と、とりあえず叫んだだけのジローの横で、具衛は降下速度が緩んだ隙にシートベルトを外している。その瞬間で、屈強にしてしなやかな雰囲気を纏ったその男が、弾かれるように前席に肉薄した。

 ――早い!

 ジローが感心する束の間で、具衛は機長にしがみつき、さっさとその人のシートベルトを外している。その次の瞬間で、

 あっ――!?

 と言う間に機長を座席から引っこ抜く力業だ。暴れる機体の中で、まるで重力が見えているかのように、人一人の身体を上手く後席に誘導すると、そのまま床上に横たわらせた。キャビンと操縦席の間が仕切られていない内部構造の幸いだ。

「オートパイロットを!」

 具衛の指示で、副操縦席の若い男が、おどろおどろながらも反応を示した。操縦桿を安定させようとするが、上手く行かない。たどたどしい上に、明らかに動揺の色が動きに出てしまっている。

「――整備士さんか」

 こちらは明らかに不服を含ませたような独り言で、普段の浮つきはどこへ消え失せたのか。シートベルトをして座っているジローでさえ身体をシャッフルされる只中で、具衛だけが別次元にいるかのようだ。機長の着衣を緩め、合わせてキャップ帽とインカムを慎重に脱がせると、そのままインカムをつけた具衛が、

「お兄さん変わろう!」

 と、一方的に機長席に滑り込んだ。

 な――

 何という対応能力か。流石はそれなりに不測に接してきた軍人上がりとしたものなのか。暴れる機体のせいで意識が薄れるジローは、まるで人ごとのように感心している。が、猫のように操縦席に滑り込んだ具衛によって機体が落ち着くと、現実に引き戻された。

「お、おおっ!?」

 ジローと同じく、俄かに気を取り戻した整備士が気色ばむ。が、それを具衛が上から被せた。

「有資格者だ! 一〇年振りだが、アンタよりは確かだと思う!」

 流暢な仏語だ。その口の言う通り、前席にある計器をチェックする手が、迷いなくも何やら操作をしている。その中で更に具衛の口が、別の内容を吐き始めた。

「くも膜下出血の可能性が高い――!」

 急がなくては手遅れになる、心拍をチェック、止まっていたら心肺蘇生云々かんぬん。手が空いているのはジローだけな訳で、

「――わ、分かった!」

 と答えた返事が、更に被せられたそれは遭難通信だ。

「メーデー! メーデー! メーデー!」

 墜落の危険や急病人が発生する状況下で宣言する最高レベルのその非常通信で、それを発した局(遭難局)周辺の通信は統制され、即時救難体制が展開される。恐らく具衛の操作によるものだろうが、突然スピーカーモードになったその通信が機内に流れ始めた。荒れる機内で荒れるのは、操舵を失いつつある機体だけではないようで、緊張で身体が硬直するジローをよそに、具衛の

 怒鳴り声が――

 凄い。普段は借りて来た猫のように大人しいこの男のものとは思えぬ、殆ど罵声のような交信は、最寄りの病院へ急患の受け入れと着陸を求める具衛と、それを許可しない管制サイドとのやり合いだ。「急病人」というフレーズを聞きつけ途中から割り込んできた【スイスエアレスキュー】の管制官を始め、地上のプロ達が渋る理由は、あえて聞くまでもなく天候だろう。ヘリの外は真っ白で、何も見えない。が、

「EASAのCPL(事業用操縦士)、NR(夜間飛行証明)、IR(計器飛行証明)取得済みのパイロットだ! 何の問題がある!」

 などと、具衛が怒鳴り散らしている今度のそれは英語だ。欧州といえども空の標準語は英語の事ではあるが、感情をぶちまけているようにも見える中で、

 ――言葉を使い分けるとは。

 その器用さは、意外に冷静と見る向きもあるのかも知れない。

 因みにEASAとは【欧州航空安全機関】の略称だ。EU(欧州連合)所管の、同域内における民間航空分野の各種調整を執行する。よって、EU域内の国籍を有する航空機の操縦は、基本的に同機関が定める操縦資格が必要となる訳だ。その上でヘリは仏国籍。具衛の口走った資格が本当であれば、欧州上空を飛ぶ要件に問題はない、ようにみえる。が、具衛が飛んでいた(・・・・・)のは一〇年も前の話だ。定期的な技能審査や航空身体検査証明の更新など、操縦に付随する審査や検査の類いは当然していないだろう。それで完全な有資格者などと、この時の具衛は方便もいいところだった、とは、後でジローが具衛本人から聞いた話。

 更に言えば、航空機にも人間同様に国籍がある。国家間を飛び交う国際線の航空機の場合、その機内で適用される法律は基本的に国籍国の法だ。よって操縦資格に関しては、機体の国籍国で有効なものを取得していれば、他国領空を飛行する際もその根拠に問題は発生しない。が、一方で、航空交通管制については統一ルールが存在する。各国の航空機は、国際民間航空を能率的かつ秩序あるものにする事を目的として制定された【国際民間航空条約(通称シカゴ条約)】に則り運行されている訳だ。その事務は、同条約に基づき設立された国連機関【ICAO(国際民間航空機関)】が執行している。今や一九〇を超えると言われる国連加盟国で、ICAOに加盟していない国は片手の指以下。つまり、世界の航空管制は事実上ICAO(イカオ)のルールで統一されていると言っていい。が、ここでまた少しややこしいのが、現在の領空であるスイスという御国柄。永世中立国として名を馳せる誇り高き山岳国家の国連加盟は、実に二〇〇二年だ。が、長年頑なだった孤高も、そこは

「ICAOの遭難救助条項を守れ!」

 と、具衛が立て続けに怒鳴り散らしている通り、国際協調路線へ舵を切っている、らしい。

 そんな背景や事情に加え、何より雲の下の天候だ。急速に発達したブリザードは、瞬間的に秒速三〇mを超える風速だった、とは、やはりジローが具衛から後で明かされた無茶振りの暴露話。それを具衛は、嵐で荒れ狂う最寄りの病院に拘り拗らせていたらしく、ダイバートを譲らないスイスエアレスキュー(略称REGA)の言い分は、普通なら(・・・・)受け入れられて当然だった、とか。

「嵐の中で飛ぶのはレガ(・・)のパイロットだけじゃねえぞ!?」

 と、売り言葉に買い言葉の具衛が吐き捨てるそれは、【REGA】をそのままローマ字読みしたもので、スイスが誇るNPOの航空救助隊だ。山岳国家として、航空機器による救助サービスの必要性を説いたルドルフ・ブヒャー博士の提唱により、一九五二年に設立。主に山岳での捜索救難活動と緊急医療支援を行う外、海外で医療支援を受けられない会員(・・)などに対しては本国への送還まで行う。ここでいう会員とは、賛助会員の事だ。政府の援助を全く受けていない民間組織だというのに、国民の約半数が加入するその訳は、レガの救助に対する徹底振りにある。ヘリの機動力を生かし、山間部の際どい現場へ向かうのは当たり前。高いレベルが要求される夜間飛行や、悪天候下の計器飛行まで行う。会員の救助のためなら海外まで駆けつけるという、その会員に課せられる年間会費は日本円で数千円程度。それで会員の有事における救助サービスは無料なのだから、加入者が多いのは当然だろう。

 余談だが、東日本大震災発生直後の日本にも、レガの航空機は派遣されていたりする。スイス政府が被災地へ派遣した救難隊員の急病に伴う本国送還のためだ。各国が原発事故の放射能汚染に対する懸念や批判で対応が定まらない中、地震発生後約一〇日という緊迫した時期に、青森の米軍三沢基地へ飛来。その時のクルーは、帰国後放射能検査を強いられる事となった。

世界地図(・・・・)睨みつけてんのは、お宅らだけじゃねえや!」

 と、口汚い具衛の皮肉は、チューリッヒにあるレガ本部のコントロールセンター内にあるそれの事だ。依頼のためならどんな現場へも立ち向かう、その精神性とプライドを、その地図は静かに物語る。

「速やかに、チューリッヒ近郊での受け入れ先を連絡されたし! 終わり!」

 そんな手練れの救助組織を相手に拗らせる具衛は、操縦をオートパイロットに切り替えると、呆気に取られて何も出来ない整備士とジローを押し退け、機長の蘇生を始めた。やはり心停止していたらしい。

「オートパイロットで、ある程度の所までは引っ張れる」

 と、言われて気づく、機内の安定感。揺れこそあるが、いつの間にか落ち着く事で耳を突くのは、ヘリの羽音を上回る暴風雪の轟音だ。

「今、どの辺りを飛んでいる!?」

 言われた事(心配蘇生)も出来ず、そんな間抜けを口にするジローが自分を情けなく思う一方で、分からないものは分からない。

「ルツェルンとチューリッヒの間です!」

 前者はスイス中部の古都で、後者は前者の北東に位置する同国最大の都市だ。ヘリを受け入れてくれる病院は多いだろうが、この嵐ではそれも儘ならない。蘇生出来なかった代わりではないが、

 病院ぐらいは──

 探せるかも知れない。ジローが早速所携のスマホで検索すると、数十を超える候補の中から、地上にヘリポートがある拠点病院がヒットする。

「最寄りは二〇kmないぞ!」

「流石!」

 そこへ向かいます、と声が弾む具衛と共に、

「ごふ!」

 と機長が息を吹き返した。

「よし! お兄さん代わって!」

 バイタルチェックを、と整備士に機長を任せる一方で、具衛はまた操縦席に戻りながらの

「ジローさん、病院に電話を!」

 と指示をくれる器用さだ。

「もうやってる!」

 いつになく声を張り上げる具衛だが、

 やはり――

 指示は的確。頭は冴えていると言っていいだろう。未だに管制サイドからの色よい返事はない。それは着陸許可が降りないという事だ。

 ――この非常時に?

 ここは具衛に乗る場面らしい。

「座標を聞いてください!」

「くも膜下出血と見極めた訳は!?」

 具衛に確かめる一方で、スマホを当てる耳からは電話の呼び出し音が鳴り始める。それが一回鳴ったかと思うと、早くも相手が出た。

「飛行中、首から肩にかけて凝りを気にしている素振りがあって――!」

 その後急に頭を抱えて卒倒したのを見ていたらしい。

 ――よく見ている。

 その具衛に聞いたまんまをいきなり電話向こうにぶつけてやると、病院の電話交換士らしき相手がジローを遮らずいきなり電話を転送してくれた。その転送先が、また思いがけない早さで繋がり、まずはバイタルを確かめてくる。救急慣れしているのは、流石に救急制度が発達しているスイスならではだろう。しかも何も言わないのに、病院側が座標を口走った。どうやら無線を聞いていたらしい。それで遭難局の無線が、周辺にダダ漏れである事に気づかされる。

 あ――

 危ない。こんな状況で、

 ――妙な事を口走らなくてよかった。

 と思ったジローは、その瞬間で自分可愛さ気分に打ちひしがれる。が、そんなこんなはとりあえず後だ。

 無線に聞き耳を立てていた病院側は、既に受け入れ体制を整えてくれていた。英語の交信を聞き取ってくれたのは、流石は救急医という事だろう。スイスの共通語は四つ。仏寄りは仏語圏、中央部は独語圏、伊寄りは伊語圏だ。欧州では英語もそれなりに通用するが、チューリッヒ近郊の事なら本来は独語。それもスイス特有の【スイスドイツ語】と呼ばれる独語の方言だ。独語が使えるジローも、その方言は余り自信がなかった事もあり、やりやすさを覚えるのは恐らく気のせいではない。

「五分かかりません!」

 ヘリのOSへ座標を入力した具衛の声が、その病院へ向かうと、また弾んだ。が、問題が一つ残っている。座標が分かっても、周辺の地形が全く分からない。周りは真っ白だ。

 計器飛行とやらを――

 どうするつもりなのか。いくらオートパイロットを備えた高性能型の事業用ヘリとは言え、所詮は民間機だ。計器飛行が出来る程の地図や、それに耐え得るナビを備えているとは思えない。

「とりあえず周辺の地図だ!」

 スマホで検索して、高低差の分かる地図を出してやった。

「ないよりマシだろう!」

「助かります! 十分です!」

 が、手渡す寸前でそれをよく見てみると、詳細な等高線が描かれているのはいいが、これまた真っ白だ。

「――大丈夫。大抵の図面は読めますから!」

 確かに今は躊躇する間も惜しい。ダメなら後で地図アプリの簡略化された図面を見せてやるまでだ。が、ジローのスマホを受け取った具衛の声が、また弾んだ。

「お、スイストポとは上等ですよ!」

 どうやらスイスの国土地理院である連邦地形測量所作成のものだった、とは、やはり後で聞いて分かった話。が、喜んだのも束の間。手渡したスマホがすぐに返って来た。

「どうした!?」

「読みました!」

「何!?」

「詳しい地形さえ分かれば、後は急ぐのみです!」

 真っ白闇の中を真っ白な白地図で、とは何かの悪い冗談のようだが、具衛の理解の真偽は分からないものの、現実としてヘリは一気に降下し始め、同時にエンジン音が大きくなる。

 ホントにこんな地図で――?

 突き返されたスマホを見ても、只の線画のようで何が何やらさっぱりだ。あるいは、落ち着いた環境なら、具衛はそうは言っても軍人上がりだけに、地図の一つや二つ読む事ぐらい苦にしないものなのだろう。が、今は切迫した緊張感が渦巻く嵐の中な訳で、しかも急患を抱えた非常時のヘリだ。

 とても――

 ついていけない。一応、陸軍出向経験を有する身の上のジローだが、そう思ったところで肝心な事を思い出した。

 ――コイツは、素人じゃなかった。

「こっからは流石にちょっと揺れますよ!」

 衝撃に備えて、と叫ぶ俄か機長が、

「砲が飛んで来ない現場なんぞ、只みたいなモンだ! チューリッヒへ向かう!」

 と、誰にともなく宣言する。と、折れたような管制サイドが、何やら周辺空域の状況、のようなものを怒鳴り始めた。何とも耳を突くひどいがなり声で、半分ヤケなのだろう。割れた声は殆ど雑音めいているが、それでも具衛は理解しているらしい。その雑音(・・)に一々応答している。

「当機は遭難発信した遭難機ですからね――」

 リクエストは飲んでもらう、と、またしても誰に言ったものか分からない具衛の操縦のせいか、それとも嵐のせいか。ナビの場所読みが受け入れ先に近づくにつれ、揺れがひどくなる。

「ここまでの腕前とは知らなかったな!」

 と叫ぶジローのそれは強がりだ。何かを口走っていないと、緊張に押しつぶされそうになる。が、知らなかったのは本当だ。具衛の外人部隊歴において、問題の遭難事件は前半のハイライトで、それを境に表から消えてしまう後半生は、父の下手のお陰で一時的に軍の信用を失っていた時期だけに調査が及ばなかった。

 ヘリに乗っていたとは聞いていたものの――

 まさか嵐の中を飛べる程とは。その意外性は、まさに調査の端々で顕在化していたこの男の真骨頂だろう。

 外人部隊は基本的に五年契約だ。契約満了後はそのまま除隊してもいいし、ある程度好きな期間を設定して契約延長してもいい。更に五年延長した口の具衛のその期間は、ヘリの操縦資格の獲得とその練成の場だった。その特別待遇は、操縦士の養成にそれなりの期間と費用がかかる例を見れば明らかで、褒美を与えた側の仏軍は、後に具衛を使い勝手よく「切り札要員」として使い倒してちゃっかり元を取ったとは、後にジローが同時のバディだった安こと現シーマから聞いた話。砲が乱れる中を飛んでいたのはどうやら事実らしい。それなら確かに、嵐の中も何のそのとしたものなのかも知れないが、返す返すもそんな具衛の経歴をジローが知るのは少し先の事だ。

「全てオートパイロットで着陸出来れば、より安心なんですが――」

「な、何でもいいから、とにかく着陸させてくれ!」

 説明臭い具衛をよそに、ここへ来て流石のジローも顔を引きつらせている。

 その数分後。無事に着陸したヘリから迅速に手術室へ搬送された機長は、一命を取り留めた。


 夕方。

 やはりくも膜下出血だった機長の容体は、早い処置が功を奏したらしい。が、一方その他の乗員は、その後救急受付に押しかけた管制官やレガの関係者に捕まり喧々諤々。その中でも堂々と持論を貫いた具衛の一連の判断は、関係者の間で賛否の的、と言うか、殆ど否定の的だったのだが、最終的にはやはり「遭難機」だった事が決め手となり、事情聴取は病院内で終わった。が、終わってみると、いつの間にか問題の具衛がいない。

 アイツは一体何処へ──

 何の事はない。その姿は、正面玄関前のロビーにあった。外来患者に塗れて椅子に座り、窓ガラスの向こうで吹き荒ぶブリザードを呆然と眺めている、何処か間の抜けた東洋人。それがつい一、二時間前、遭難を宣言した時の気合の入れ様とは似ても似つかず、

「もう間に合わんなぁ――」

 とかボヤいている。帰りの飛行機の心配だろう。

「何故パイロットの方が先に解放されるんだ!?」

 恨み節をぶつけるジローが、その横に音を立てて座った。詳細な事情聴取が、操縦していた具衛ではなく、ジローや整備士に集中した事の不思議。というか理不尽と言っていいそれは、単に今の身持ちの信用度の差のようだった。得体の知れぬ東洋人は無茶をするばかり。その口から何かを聞き出そうとしたところで、どうせろくな事は言わない。片やジローは、外ならぬフェレール家の御曹司だ。別に望んだ訳でもないその血筋のせいで、

「俺はいつもいつも――」

 他人の尻拭いをさせられる。その信用の高さに加え、生真面目なジローの事だ。一言で悲しい性というヤツだろう。

「私なんぞは何処の馬の骨ですから、月とスッポンですよ」

「ひどい言い種だな」

「月は面白くないですか?」

「俺はな――!」

 当時の状況を説明させられながらも、その間隙を縫ってその他諸々の細々した手配までさせられたジローだ。

「――愚痴ぐらい黙って聞け!」

「はぁ、すいません」

 片や具衛などは、早々に解放されて待ちくたびれた口とあっては、ジローの頭に血が上るのも無理はない。

 が――

 愚痴を重ねたところで、今更何かが変わる訳もなく。

「レガの管制官が、ただ呆れていた」

 その辺りの事を聞く方が建設的だろう。この真面目さこそが、今日の頼り甲斐の塊のようなジローを築き上げてしまった事を、この紳士が気づけない事の不幸。実のところ管制サイドは、無茶を押し通された事よりその腕に驚いていたという現実。その両者に迎合せず、己を貫いた具衛の意思。それぞれのファクターが大なり小なり絡まった挙句の結果にして今だ。

「嵐だろうが何だろうが、離陸さえ何とかしてしまえば――」

 後の事は何とかなるものらしい。が、ヘリにとって風は大敵で、今夕のチューリッヒ近郊は北西風がひどく、しかもそれが変則的に巻いていた。管制サイドが寸前まで躊躇していた理由はその一点だ。人口密集地で着陸に失敗すれば、その先は語るまでもないだろう。一人の命のために、多数のそれを危機に晒すなど。その責任を有する管制官なら当然の判断だった訳だ。が、

「分かりやすく、納得の行く説明が欲しいところだな」

 命を晒された身としては、当然無茶振りの理由は聞いておきたい。

「諦めたくなかったんですよ」

「何を?」

「あなたと同じです」

「だから何処が?」

 不思議な事に、この男の前では素が出る。常に周りの目を気にしている自分が、

 ――どうした事か。

 いくら真琴の事があるとは言え、この男には御家の窮地を救ってもらったという、返し切れぬ恩があるというのに。

「お互いの土俵で、あくまでも正々堂々渡り合うバカバカしさが、意外に感情的だなぁと――」

「言ってくれるな」

「わざわざ同じ目線に降りてもらったようなので――」

 それで容赦なく迎え撃った、とは、昨晩からの果し合い(・・・・)の事だろう。

「それなら、それぞれが出来る事を目一杯。競うも救うも――」

 それが後腐れなくて気持ちいい。

「――何であれ、後悔したくないと思うのは、みんな同じでしょう?」

「ゴチャゴチャと訳の分からん事を――」

 遠巻きに、ここで真琴への未練を揶揄するなど、中々の性悪だと思った矢先。

「ヤケで生きていた事がなかったとは言いませんが、命を粗末に思った事はありませんよ」

 と言われたジローの目が、少し大きくなった。

「――感情的な正々堂々バカは君の方だろう」

 何処かしら希薄でボンヤリ、飄々とした、中身のない男だと蔑んでいた。拘りなく浮世を揺蕩う雲のような都合のよさに、引っかかる女がそれなりにいるとは思っていたが、その中に何故真琴がいるのか。どうしても理解出来なかった。が、

「虫も殺せないような生白い男が、実は猪突猛進の不器用な頑健さを持っているなど――」

「どっちが失礼なんですかそれ?」

「褒めているだろう」

「それこそ訳が分かりませんよ」

 無知と貧困の中でどうにか生きた少年期。青瓢箪の世間知らずが、無茶な借金を背負ったまま無謀にも軍人となり、飛躍を遂げた青年期。そんな男の事を

 嫌という程俺は――

 調べてきた筈ではなかったか。

「――まさに詐欺師だな」

 そこで具衛が、

「えほ」

 とむせた。

「何だ?」

「ど、どうしてそれを?」

「口先三寸で要らぬ争いに巻き込もうとする不逞の輩だろう?」

「そっちの事ですか」

「他にも何かやってるのか君は?」

「い、いや、そんなんじゃ――」

 ない、と、拙い口の弱腰の男が、実は強靭な心身をたぎらせるタフガイなどと、

 ――誰が分かるというんだ。

 何かを言い淀むその本人は、間抜けにも唾を誤嚥したらしく、盛大にむせ始めて周囲の注目を集めている。

「命を粗末に思った事のないヤツが、いいザマじゃないか」

「最近むせる癖がついちゃったんですよ」

 この何処か間の抜けた憎めない外見の裏側で、混沌の中で太々しくも生き抜いて来た波乱の相を従えるなど、誰が分かるというのか。

 機長は瀕死の状態だった。ジローと整備士は慌てふためいて殆ど使いものにならなかった。全ては具衛の結果だ。

 今更だが――

 改めて、父が助かった理由を突きつけられたような気がした。単純に、バイタリティーの高さだ。何とかしようとする行動力だ。

「まさかいい加減な自信を根拠に、あの無茶につき合わされたとか言うんじゃないだろうな」

 すると、背中を丸めて咳き込むちんまりした男が、左手を差し出してきた。

「いただいた時計は今もこの通り元気ですから」

 これに誓っていい加減な事はしません、とか

「図々しく言ってくれるな」

 というそれは、外ならぬ一六年前、ジローのセレクトで実家が具衛に贈った見舞いの品だ。彼の遭難事件直後。褒美や謝礼の類いを受け取らず、頑なに拗らせ続けた具衛に一矢報いたそれは、当時としては珍しいデジアナ仕様のスマートウォッチで、技術の粋を極めた高規格のブランド品だ。父の力を使って日本の老舗メーカーに作らせた特注品は、使う者を選ぶとまで言われる期間限定の名品で、

「私は選ばれし者ですから」

 そんな厚かましい男のその手首を取って、時計を取り上げてやる。

「あっ」

 と言う間に裏蓋を確かめると、贈った当時のまま、アルファベットで具衛のアノニマが刻印されていた。形ある物としてはフェレールと具衛の絆を表す唯一の物だ。

「古くなったな」

「ようやく味が出てきたんですよ」

 タフソーラー仕様で充電電池レベルは殆ど劣化しない。そんなところまでタフな良品は、

「実は、真琴も欲しがってたんだ」

 それ程レアな一品だ。

「あの、物を持ちたがらない人がですか?」

「流石に詳しいな」

「まあ」

 控え目に照れる具衛が、真琴に代わって持ち主になった時点で、この男との妙な縁が

 出来てしまったという事か――

 そう思わないと、やってられない。ジローにとってはそれ程の掻っ攫われ感だ。

「無理矢理誰かの権利に割り込んで作ってもらったんだ」

「そうだったんですか?」

 だから、本当に送りたかった相手の分は諦めた。

「君が受け取らなければ、真琴に贈ろうと思っていたんだがな――」

「それならそう言ってくれれば――」

 貰った後からその価値に気づいた具衛などは、猫に小判と言い切っていい代物だ。

「いきなり物を贈ったところで、素直に受け取る女じゃないだろう?」

「まあ」

 ジローが想いを寄せ続けた女は、そんなところのプライドが無駄に高く、何かと拗らせてくれたものだった。

 そんな女が――

 選んだ男が隣にいる。

「今度は、本名を刻印しないとな」

 と、腕を解放してやった代わりに、容赦ない事実を突きつけてやる。

「今日の羽田便はもう間に合わん」

「やっぱりですか」

 予想通りに萎れる具衛の素直さに、つい気を許しかけるが、

「ヘリだけ用意してもらうってのは、ダメですかね?」

「クソ嵐が吹き荒ぶ前で、何人がそれを口に出来るモンかな」

 そんな油断ならぬ大胆さを、この男はもっている。

「君はホント、チグハグなヤツだな」

「それも最近よく言われます」

 その変わり者の口が、

「明後日の夕方までに帰らないと――」

 と、念仏を唱えているのは、愛すべき律儀さと言っていいだろう。

「ヘリは無理だが――」

 代わりに明日の昼前の羽田行きを取っておいてやった。

「本当ですか!?」

「フランクフルト発便だがな」

 反射で食いついた具衛が、また予想通りでおかしい。

「それで間に合うだろう?」

「フランクフルトまで行ければですが」

「一緒に押さえない訳がないだろう?」

「ありがとうございます!」

「だからちょっとつき合え!」

「はあ!?」

 その勢いで、今度は具衛の腕を引っ張り上げてやった。

「いたたた!」

「誰かさんのせいで心身共に冷やされた事だ」

 今夜はホットウイスキーでも飲まないと、やってられない。

 具衛の悲鳴をよそに、その柔な腕を取ったままのジローは、そのまま病院の玄関ロビーを後にした。

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