立春(前)①【先生のアノニマ(中)〜10】
二月に入った。
真琴は相変わらず、実家の自室で籠城していた。昨年の大晦日に実家に戻って以来、入浴以外はずっと自室で、誰とも会わず、缶詰を貫いていた。自室といっても、自分の物など殆どない部屋だ。
中学卒業後、満を持して家庭内別居に突入すると、それまでに買い与えられていた物の一切を処分した。下着に至る生活必需品に至るまで、その徹底振りは周囲の度胆を抜いたが、真琴にしてみれば手緩かった。高校に進学しないと決め、家を出るつもりだった。完全にリセットして、自分の人生をやり直すつもりだった。が、家族その他に食い止められてしまい、その代行措置だったそれは手始めでしかなかった。それまで殆ど使わず、別の用途で運用していた小遣いは、早い段階で一般家庭の一財産程度にはあり、真琴はそれを元手に家庭内にいながら独立宣言した。子供のやる事だ、と侮っていた周囲は、折目正しく家賃や生活諸雑費を実家に払い始めた真琴を、どこまで続くものか冷ややかな視線で静観したものだったが、毎月一〇〇万円を優に超える出費を平然と払い続けるその子供に、然しもの周囲も気味が悪くなる。その実家が、密かに顧問弁護士に調べさせたところ、その時点で既に今で言う「億り人」になっていたというから、それを知った周囲は流石に驚いた。真琴は小遣いを元手とした投資による資産運用で、既に一財産を築いていた訳で、獅子の子はやはり獅子だったという事だろう。
ここまで来ると、実家の生計からあっさり離脱した真琴を笑う者は誰一人としていなくなった。当時は、実家の嫡流長子にして既婚者で、既に一児を儲けていた一〇歳上の実兄も同居していたが、兄は真琴程頑迷に生計を分けておらず、一方で独立を宣言した真琴はそれにより兄を立場的に押し退け、名実共に高坂宗家当主夫妻に次ぐ第三の主人に君臨する。そうした真琴の、その専属使用人として仕え始めたのが、当時若手有望株だった佐川由美子だった。
しばらくの間、そんな由美子の品定めをしながらのんびり生活していた真琴だったが、何かと気が回るこの使用人が使えると見るや、またもや家出を画策。密かに独り立ちのための全てを整え終えると、今度こそ有無を言わさず由美子を引き連れ実家を飛び出し、完全独立を果たした。一七の歳の事だ。実家に戻ったのは、一時的な帰省を除くとそれ以来、実に四半世紀振りとなる。
一時的な帰省というのも本当に数える程で、それも小一時間程度の滞在だった事から、この一か月というものは、本当に久方振りの実家暮らしとなった。だからこそ室内にある真琴の物など、衣類などの必要最低限の身の回りの物だけなのだ。その衣類ですら、流行りのサブスクで着回し出来るため、本当に最低限しかない。後は広島のタワマン諸共、物の見事に処分してしまった。元来物を持ちたがらない身だ。処分といっても高が知れていた。
衣類以外の物で、スマホとタブレットPC以外は全て実家の物だ。部屋の使用料込みで他の物品使用料も払っている。といっても、三〇畳もの大部屋の中には、テレビとソファーとテーブル、ベッドと書棚以外は何もない。全て使用料を払うため、その金がにっくき実家に落ちるおぞましさを思うと、少しでも切り詰めたかったのだ。それでも広い部屋を選んだのは、籠城のためだった。狭い部屋で気が押し潰されないよう、開放的な大部屋にした。そもそもが、使用料など払わずとも実家は痛くも痒くもない、とにかく呆れた富豪だ。そんな事は当然分かってはいたが、それでも実家にすがる事が、とにかく許せなかった。
そんなこんなで実家に戻ったばかりの一、二週間は、それまで仕事に追い回されていた事もあり、籠城という名の骨休みだった。部屋へ入室させるのは、やはりこの度専属使用人として雇い直した由美子だけであり、他の者は親は言うに及ばす、復縁間近の高千穂といえども指一本毛一本たりとも入室させない。広島から戻った真琴は、そんな頑なな生活を貫いていた。朝から晩までタブレットで電子書籍を眺める。南側に面した、庭が見渡せる窓際の椅子に腰を下ろし、日向ぼっこしながら一日中、そんな生活だ。籠城生活で絶対的な運動量低下に伴い、健康を損なう懸念があったが、開始早々、それは余り問題ではなく、日を追う毎に心身共に深刻な別の問題に晒され始めた。
テーブルの上に手を置いて、タブレットを支え長時間黙読していると、手が痛くなる事に気づき、ハンドタオルを置くようになった。先生からせしめた、あのハンドタオルだ。そのせいか、一日たりとも先生の存在が頭から離れなかった。それどころか、日に日に想いが募る。それこそが深刻な問題だった。せめて連絡がとれれば、と思ったが、メールアドレスは実家に戻る直前に、メールの発着信記録諸共消去した。母は「年内一杯で清算しろ」と言った。清算したものは手出しをさせないつもりで抹消したのだ。言う事さえ聞いていれば、ある程度の節度は守る母ではある。恐らくこれ以上の無用な詮索はして来ないだろう。それでももし、先生に魔手を伸ばすような事があれば、刺し違えるぐらいの覚悟は持っていた。
そんな調子で意地になって、拗ねたように籠城している。それでも所詮は籠の中の鳥だ。表向きは抗っている、という程度のアピールでしかない。売物の鳥を野放図に放置する訳がなく、盗聴やデータ閲覧などの身辺調査は、最早嗜みのレベルでやっている、そんな家だ。結局のところ、従順な鳥でしかなかった。
大晦日に別れて以来の状況そのままに、日に何度か涙ぐむようになった真琴は、しばらくハンドタオルで涙を拭い続けた。が、毎日洗濯に出しては、何事か勘繰られそうな気がして、溢れる涙はティッシュで拭き取る事にした。それ程までに大事にしているハンドタオルこそが、最後の拠り所だった。
昼間はまだ良かった。来客を差し置き嬉しそうに図書館から借りた本を読んでいた先生を思い出しながら、自分も本を読む事で少しは気が紛れた。
問題は夜だった。特に床に入ってからは、最後の夜を思い出してしまい、身体が疼いて仕方がなかった。お互い夢中になってしがみついたあの夜。真琴は一大決心で、先生に後の人生の支えを求めた。残るはつまらない余生でしかない。ならばせめて、最後に人生で初めて心を許した男の剥き身が欲しかった。ここ何年かで、緩やかではあるが自分の容姿に陰りを覚える中、真琴はあの夜程自分に自信が持てない日はなかった。世の男達を惑わせる圧倒的な美貌も、心を掴まれた男の前には無力だった。頼れる者を見出せず、孤独に苛まれ、代わりにろくでもない連中につき纏われてばかりの煩わしさのせいで太々しい人生を歩んで来た女が、いざ自分が追い求める側になってみると、震えが止まらず心臓が締めつけられ、血圧上昇で目眩がする程だった。「そうした免疫がない」と、由美子に嘲笑された事があったが、追う立場のそれは、まさにその通りだった。一般的な人並みの幸せを諦めていた孤独の女傑が、まさかこの期に及んで乙女のそれを突きつけられ、人生最高潮に動転した。
──こんなの私じゃない。
酒で勢いをつけないと、とても布団まで持ち込めなかった。布団にもつれ込んだらもつれ込んだで、拒絶される事を恐れる余り、想像以上の緊張で泣き出す寸前だった。どうにか思惑通りに事が成就すると、後は本能に身を任せた。先生の本心など知ろうとせず、愛の所在を確かめる事なく、とにかくその剥き身に身を預けた。無言で、一晩で、一生分の情感を感じ取るつもりでしがみつくと、あらゆるところの感度が振り切れたようで、余りにも端なく悶えるザマになってしまった。自分でもそれに驚いたが、形振り構う余裕などなく、とにかく時間が惜しかった。
翌朝を迎えても全然足りなかった。
昼前になってもそれは変わらず、迫る別れに焦り、余りにも無力な自分に涙腺が堰を切ってしまうと、ついには止まらなくなってしまった。
結局、求めた支えは全然足りなかった。先生は何も言わず、後先構わず、真琴の思いを正面から、文字通り体当たりで受け止めてくれた。平凡な自由人に、真琴が背負う因果を負わせかねない蛮行とも言うべきそれは、先生にしてみればリスク以外の何物でもなく、お互いそれはよく分かっていた筈だったが、真琴は最後の最後で抑えられなくなった。そしてついには、真琴のややこしい人生に、先生を巻き込みかねない状況を作り出してしまう可能性を生じさせてしまった。
それでも先生は真琴を受け止め、答えてくれた。当初はそれだけで満足出来る、それを支えに後の余生を生きていける、と思っていた筈なのに、結果として後に残された感情は、
ダメだ──全然足りない──。
抑えつけていた感情の蓋が壊れた後のそれは、暴走以外の何物でもなく、無理矢理抑えつけていた期間が長かった分だけ思う様暴れ回った。それだけ自分は渇いていた、そしてそれ程先生に満たされたいと思っていた、その紛れもない事実を身をもって知るに至った訳だが、一度その身体の重さを知ってしまうと、以後の夜の喪失感が凄まじかった。身体が疼き、火照り、濡れ、自分でもこんなに好色だったのかと、その有様を客観視させられては激しく動揺した。掛け布団に纏わりついてみても、枕を抱いてみても、代わりになる訳もなく、あの重みに焦がれるようになった。眠れない夜が一週間も続くと、昼間に椅子に座ったまま、気絶するように昏睡するようになった。時間に長短はあるものの、一般的な睡眠時間としては到底足りないその昼寝だけでも、夜になると何処にその体力が残っているのか、自分でも理解出来ない程に身体が疼き、火照り、濡れる事を繰り返し始めた。
ある夜、喪失感に駆られ、声に出してその名前を呼んでみる事にした。
「先生」
広い自室で、思いがけず響いた自分の声が自分の耳に届くと、著しい動悸が胸を突き、更に胸が熱くなった。やはり余計に寂しさが込み上げ、余計に切なくなってしまい、寝るどころではなくなってしまった。我ながらバカな事をしたと、夜中に窓際に座って月明かりをボンヤリ眺める事にした。そうすれば、少しは眠たくなるのではないか。傍には、それまで忌まわしいとしか思えなかった誕生日に、先生から貰ったアングレカムだ。可憐に咲いた白い花が目を、ふんわり甘く香る良い匂いが鼻を慰めてくれる。それで少しは気が鎮まったが、やはり全然足りなかった。
咲いた花を見せたら、あの拙い口は
──何を言うかしら。
そんな想像を巡らすと、ますます想いが募る。どうにかなりそうになる事を恐れ、とりあえず止める。何もする気になれず、差し込む月明かりを眺めていると、窓に映った自分の青白い顔にはっとした。単なる月明かりのせいだという事は理解していたが、文字通り深窓の箱入り娘のような体たらくの身だ。このままその身が朽ちてしまうのではないか。そんな錯覚が頭をよぎると、また急に不安が押し寄せて来る。不意に肌身離さず持っているハンドタオルに救いを求めたが、もう触るだけでは全く落ち着かない。掴んでもダメだ。堪らず顔に押しつけ匂いを嗅いだが、懐かしいあの匂いはもう消え失せてしまっている。
途方に暮れて嘆息し、ハンドタオル諸共膝上に両手を落とすと、タオルを介した自分の手の重みが腿に伝わり、瞬間的に先生の重みを思い出して心臓が跳ねた。気がつくと瞠目し、口を開けて驚いている自分がいる。我に返ると、背中に寒気が這い上がって来て、身を縮めると情けなくて泣けて来た。
「子供みたいだ──」
偉そうな事を言って強がって生きて来たくせに、行き着いたのはこのザマだ。両目から何かが溢れそうになるのを堪えるが、無理に我慢した分、代わりに嗚咽が漏れ出てしまう。結局その拍子に、認めたくないそれが堰を切ってしまい、両頬を静かに伝い始めた。
「あ」
思わず手にしていたハンドタオルでまた拭いてしまう。また洗濯に出さなくてはならない。どうせ出すのならもう同じだ。結局また、すぐにグズグズにしてしまった。
「ダメだ──」
止まらない。
いくら拭いても、何処から出て来るのか分からない程、止め処なく流れる涙になす術がない。とりあえず闇雲に、
「ともえ」
と、彼の名を呼んでみた。するとやはり、一瞬心臓が高鳴り、しゃっくりが止まるかのように気を取り戻す。が、その反動が、高鳴った後の胸からじんわり押し寄せて来ると、余計に喪失感が募る。もう、どうしようにもない。
「具衛さん」
こんなにも依存してしまっているのだ。呼び捨てはないだろうと、さんづけで呼んでみる。使い慣れないその呼び方は、何処かしっくり来なかったが、もう何をどうしたら気が鎮まるのか分からないのだから仕方がない。
「具衛さん」
嗚咽と共に止まらない涙を拭いながら、真琴は延々朝まで泣き続けた。最大の不覚は、そのどうしようにもない情けない姿を、翌朝やって来た由美子に見られてしまった事だ。見られた、というか、由美子に呼ばれるまで、その廃人同様の状態に陥っている事に気づかなかったのだ。気がついたら、驚く由美子がいた。そんな有様だった。当然口止めをしたが、それが信に足る腹心であったとしても、果たして守られたものか。真琴には知る由もない。
立春が来た、その昼下がり。
相変わらず足元確かからずの真琴が、自室の窓際でボンヤリ本を読んでいると、それは突然やって来た。
「奥様がお呼びでございます」
いつになく神妙な面持ちで由美子が言うため、はぐらかす選択肢を見出せず、
「──分かった」
すぐ行く、と返答せざるを得なかった。
そのまま由美子の案内で向かった先は、最後に足を踏み入れたのがいつ以来なのか、思い出せない程久し振りの、宗家のプライベートな居間だった。狭過ぎず広過ぎず。奥には真琴の記憶通り、今も尚古めかしい暖炉があって、焼べられている薪が静謐の中で暖かそうな火を覗かせている。何の拍子か、それで一瞬山小屋の火鉢を思い出した。思わず顔がほころびそうになったが、その暖炉に向かって座っていた二人が
「お連れ致しました」
という由美子の声で振り返ると、一気に頭が冷えて現実に立ち返る。
「お座りなさい」
向かって左に座っている老女が、穏やかな顔らしからぬ険を含んだ震える声で真琴に命令した。四〇年来の宿敵、実母高坂美也子その人だ。その命令口調に、無駄な対抗意識が反射的に芽生えてしまうと、つい仁王立つ格好になってしまう。
それを見咎めた母美也子が重ねて
「お座りなさい」
と、無理矢理にも捩じ伏せようとする。その忌々しい物言いは相変わらずだ。その姿を直に見るのも何年振りだというのに、一瞬で嫌悪感が溢れ、とても言う事を聞く気になれない。
「話って何よ」
「お座り!」
痺れを切らした母がヒステリックに叫んだ。
やっぱり──
これだ。何でも自分の思い通りにならないと気が済まない。その変わらない横暴さが、真琴をいつもの女傑に立ち戻らせてくれる。
「用がないなら部屋に戻るわ。由美子さん、お母上様は従順な犬をご所望らしくてよ」
そのまま振り返り、部屋に戻ろうとした時、
「いいから、ちょっと掛けてくれないか。話があるんだ」
と、母の右側に座る、いつもはお飾りの筈の老人が声を発した。実父高坂次任。名目上の高坂グループ代表その人だ。
思いがけぬその声に驚いた真琴だったが、父が自分に向かって「話がある」など、記憶を遡っても思い出せない。ひょっとすると初めてかも知れず、その深刻さのようなものが足を止めてくれる。
「──何かしら」
忌々しい事に変わりはないが、とりあえず、やはり昔の記憶通り、部屋の中央に鎮座する古めかしい長大な木製テーブルとセットの、座らなくなって久しい木製椅子に腰を降ろした。そこに座るなど本当に何年振りだろうその椅子こそ、子供の頃に真琴が掛けていたそれだ。テーブルを囲んで親と対峙する記憶は本当にその頃が最後で、いがみ合った場所の記憶でしかない。それでも椅子は変わらず置かれているなど、どういうつもりなのか。
「重工の株価が急騰しているのは知っているかね?」
お飾りの父が、突然話を切り出した。
まただ──。
父は大抵、母の言いなりで、その父から話を切り出すなどそれこそ記憶外だ。その事実に頭が占拠された真琴は、肝心の内容を聞き取り損ねた。
「聞いてるの?」
「え?」
母の辛辣な叱責を上回る、父の有り得なさとその動揺だ。
「ちょっと聞きそびれた。もう一回言って」
とか、自分でも驚く程素直に、父に向かって問いかけている。
何だこれ──。
動揺が鎮まる暇もなく、その父がまたいつになく神妙な面持ちで、いつもの頑迷さは何処へいったのか。
「重工の株価が、昨日までの三日間で二倍を超えた。四日目の今日もストップ高でな──」
と語る重工とは、実家グループ内では高坂重工を言い表す。
高坂グループとは、旧高坂財閥から戦後新しく派生した新生高坂グループを指すが、それは正式名称ではなく表向きの通称だ。建前上はグループ企業に序列はないが、実情は、大小余す事なく計上すると、高坂と名のつく企業だけで数百社を数える世界的巨大グループは、その中の主要企業三〇社で構成される意思決定最高機関【木鶏会】によって成り立っている。高坂重工は、同会における最上位の基幹企業の一つで、その代表たる【代表世話人】は最上位の基幹企業の最上位者、つまり社長なり会長なりが持ち回りで務めている。今は高坂重工会長がその代表世話人で、それが真琴の父次任という訳なのだ。が、その大企業である重工の株が
──急騰?
とは、一体どういう事か。
日本の株式市場では、株価の異常な暴騰落を防ぐため、前日の株価に対して騰落率が一五から三〇%の間で当日の取引が止まる仕組みがある。ストップ高とかストップ安と呼ばれるのがそれだ。が、物事には例外があるもので、連日ストップがかかると値幅制限が拡大される。三日間で株価が二倍を超えたという事は、その例外が働いたという事だ。その株価が四日目もストップ高なのであれば、この時点で重工の株価は少なくとも上がり始めて三倍になっている。中小企業ではたまに見られる変動だが、高坂重工のような国内業界一、二を争う大企業で、その変動はどう考えても異常だ。昨年末の、高千穂絡みの極秘案件を理由に上がっていた高坂重工の株価は、ここ一か月は落ち着きを見せていたというのに、
また上がるとは──?
どういう事なのか。
「聞きたいのはこっちの方なんだけど?」
「何をしたの、あなた?」
また痺れを切らした母が、いつになく多弁な父に割って入った。
「してたのはそっちじゃないの」
高坂重工に対する政府の【国産次世代戦闘機開発主体委譲計画】を土産に、高坂の権能搾取を目論見、復縁を迫ろうとしている高千穂と、それを待ち構える母の構図は、先生の活躍もあってとうの昔に掴んでいる事実だ。何にせよ何だかんだで今回の株価急騰も、その類いのものなのだろう。
それを今更──
何故こっちのせいにされるのか。
「国と結託して悪さしてんのそっちじゃない! 私の知った事じゃないわ!」
勝負はもうついている事だ。ネタを明かしたところで何か起きる事もなければ、開き直りついでの盛大な嫌味で言い返してやる。
「ウソおっしゃい!」
──出た。
決めつけは、母の悪癖の一つだ。正直うんざりの真琴だが、一方で事情通の母が、その根本の理由を掴んでいないようであり、珍しい事もあるものだ。
「じゃあ、今の私に何が出来るって言うのかしら?」
精々鬱憤ばらしになぶってやる。つもりが、
「余りつけ上がってると、ためにならなくってよ!」
と金切り声を上げる母を前に、我慢出来る真琴ではない。
「何? 脅迫するためにわざわざ呼びつけた訳? 知らないっつってんでしょうが! それとも喧嘩? 上等じゃない! ちょうど身体が鈍ってたところだし庭へ出なさいよ! 思う存分その捻くれた性根を打ち据えてやるわ!」
つい、ここぞの何倍返しに欲が出たせいで、気合が入り過ぎて肩で息をしてしまった。これでは格好がつかない。
「二人とも、やめないか」
と、そこへまた父が、妙な冷静さで割って入った。
何──?
真琴が知る限り口下手な父は、口達者な母になす術がなく、いつも頑固に黙していたというのに。それが、
「少し落ち着きなさい」
とか。一段高い視座の物言いはどうした事か。呆気にとられた真琴が先に矛を収めると、依然小さく悪態を吐く母が、それでも俄かに険を潜めた。
「──じゃあ何処が買ってる訳?」
もう分かっている筈だ。目立った業績やネタ絡みではない暴騰なら、後は何かを意図した組織的な買い占めだろう。事前予告のないそれは、大抵の場合何日かすると、相手方から何らかの声明が出るものだ。
「フェレールだ」
「は?」
「だから、フェレールが買い漁っているんだ。重工の株を何の前触れもなく」
その意外な社名に、真琴は耳を疑った。日仏を代表するグループで、家同士は親戚。母の思考が影響して企業的な繋がりは薄いものの、それでも疑うまでもなく友好的な関係だった、と思っていたのに。
それが──
「何で?」
青天の霹靂だ。拗ねて籠城していたこの一か月の間に、また何事かあったのか。それにしても母の狼狽振りの珍しさだ。
「戦闘機の件は白紙だ」
「何言ってるの?」
理由は何であれ、グループ内に政権中枢、特にせっせと土産をこさえていた高千穂周辺は大わらわのようで、水面下で水面を平生に保つための尽力で精根使い果たしているらしい。
父によると、突然高坂重工の株を買い漁り始めた仏国が多国籍コングロマリットの巨人フェレールグループは、この短期間で既に高坂重工の株を約二五%取得した。更に買い増している様子からも、過半数を目指しているのだろう。そうなれば会社法に則り、株主総会の普通決議を単独で可決出来る。取締役の選解任を始め、会社の意思決定の大半が専決可能で、要するに乗っ取りだ。それを高坂グループの基幹企業に仕掛けるフェレールの大きさを見せつけられた格好だが、表向きにはフェレールは未だ何ら声明を出しておらず、その後の動向を開示していない、らしい。
「表向きはな」
「何よ、その伏線は?」
「いいから黙って聞きなさい!」
特定の企業が一方的に、ある企業の株を買い占める場合、買われる側の企業がそれを同意または事情を承知していなければ、
「まさかの重工が、敵対的TOBの的とはね」
「お黙り!」
人の口からその事実を突きつけられた母が、実に分かりやすい拒絶反応を示した。
──ザマーミロね。
戦後何十年来の高坂がして来た事だ。今更される側の気持ちが分かったというヤツで、我が家と母が同意の真琴にしてみれば実に清々しい。
お互いのグループ規模にしてみれば、薄いながらも資本関係もあり、日仏の架け橋とも称されて来た巨大企業グループ同士だ。両国の経済にも密接な関係性を持つ程の力を互いに携え、その影響力を多分に示して来た筈だ。更に突っ込んで言えば、母美也子にとってフェレールグループ会長にして元仏大統領のアルベール・フェレールなど、事実上の弟分だ。その弟分から突然向けられた牙は、反乱に等しい。
「表向きは、まだ何も動きがないのだが──」
と、父が目の前の卓上に置いていた一通の大封筒を手に取ると、居間の角に控えていた由美子が如才なく擦り寄り、真琴へ差し出す。
「何よこれ」
「いいから読んでみなさい」
「人を呼びつけておいて、口がついてるんなら説明があって然るべきだと思うのは我儘なのかしら?」
だからダメなのよ、と悪態ついでで大封筒を受け取ると、糊がついていない。となると、
「怪文書でも見せられる訳?」
と、自分の口が吐いて、自分ではっとした真琴だ。広島の片田舎の豪邸の縁側で、似たような事があった。あれ以来、今の状況に至っている事を思い出す。その頃寄り添ってくれた数少ない人々は、本当に皆出来た人々だったのに。分かりにくい害意を含んだあの怪文書が、真琴からその人々を奪ったのだ。その真琴が、
──また、怪文書?
に直面する皮肉。忌々しい記憶だ。込み上げて来る怒りを辛うじて抑え、乱暴に揺さ振って中身を出すと、A四大の紙が一枚出て来て、よく磨かれた卓上を軽ろやかに滑った。それが少し腕を伸ばさないと取れないところまで行ってしまい、
「全く──」
何だって言うのよ、という悪態が悪態を呼び込む無様さだ。が、その紙の内容は、そんな真琴のつまらない体裁を吹き飛ばしてくれた。
「な──」
俗に言う、言葉にならないというヤツだ。仏語の一文のそれは、ゆっくり目を通してもすぐに読み終える程度の、文字通りの短文。驚きで目を剥く真琴に、相変わらずいつになく察しのよい父が補足をしてくれる。
「今朝方、我が家のパソコンのプライベートアドレスに届いたものだ。向こうは夜中か」
"真琴を解放して、核融合エネルギーの実用化に向けた開発を一緒にやろう"
との一文は、事情を知る者が見れば実に分かりやすい脅しだった。最後にアルベールの電子署名が添付されているそれは、正式な私文書という事だろう。合わせてお節介な追伸があり、
"今なら資本増資という事で丸く収められる。良い選択を期待している"
などと、贔屓目に見ても相当な上から目線だ。
「私はフランス語は分からんが、母さんに言わせると、そういう事らしいな」
「あの鼻垂れのお坊ちゃまが!」
と、母上様が憤るのも、これなら合点がいく。
「何よこれ──」
重工に対する敵対的TOBが、裏でどうして自分と結びついているのか。完全に人ごとだと高を括っていたところへ、まさかの渦中のド真ん中だ。
何なのよこれ──!?
答えに全く宛てが見出せない。このメールで真琴に分かる事と言えば、母を始め重工はおろか、グループは飛びつきたいネタという事だ。
軍需産業大手として君臨した旧高坂重工の栄華は、終戦と共に崩壊した。戦後は財閥解体に直面し、培って来た技術を手放さざるを得なかったのは、他の政商と同じだ。違ったのは、そこで思い切れた経営転換の差。戦後の混乱の中、一時期こそ著しい衰退を余儀なくされた新生高坂重工は、その後徹底した平和のための技術革新に邁進し、グループの旗頭として高度経済成長を牽引する。それが【不戦不羈】の原則を貫いた結果である事は、いつぞやの先生が説教がましくも言った通りだ。グループ会の名称である【木鶏】とは、木曜日に会合をする事からつけられた一方で、古代中国の哲学者【荘子】の文献に出て来る故事を由来としている。闘鶏における最強の状態を意味するそれは、つまり何が起ころうとも「動じない」という含蓄だ。更に突っ込むと、日本書紀に登場する霊鳥【金鵄】と因縁があり、戦前に軍事勲章のデザインにもなったそれの対立軸としての木鶏らしい。つまりは、盲目的に国に取り入らず、明白に一線を画す。中興を遂げた頃の新生高坂は、グループ名称からして完全に国と決別していた訳だ。
かくして奇跡的な復活を遂げたグループの基幹企業となった高坂重工は、工業用品大手として世界の先駆者となったのだが、その技術力の最たるものが原発だった。黎明期からその研究開発に勤しむと、バブル期には世界有数の原発企業に成長。いつしか戦後色も薄れ、なし崩し的に政府の原発輸出施策に乗せられ勢いづく。が、近年は老朽化と相次ぐ災害や事故に加え、自然エネルギーの台頭で梯子を外された感が強く、気がつけば戦前に近い失敗だ。稼ぎ頭の原発が怪しくなった重工は、再び経営の現実を直視せざるを得ない事態を迎え、そんな中で俄かに社内から国の受注を増やし、その求める産品の生産に舵を切り直す声が上がり始める。戦前の軍需企業復活論だ。現実として事実上軍事転用可能な物を生産しているのだから、潔く自前で作ってしまえばいい。原発施策の衰退を尻目に軍事用品生産を再開するべきではないか。その旧態復活論者の増加に反比例して新生グループの原則論者は後退の一途で、後者が最後に望みを託したのが、やはり世界的な原発企業だったフェレールだ。高坂重工と肩を並べるライバル企業は、潤沢な資金力を背景に原発の未来という一点において高坂に決定的な差をつけていた。来たるべき新時代に欠かせない未知なるエネルギー、核融合研究だ。
その近未来的にして半永久エネルギーのそれは、所謂人工太陽を産み出そうとするプロジェクトで、その実現性は未だに先が見通せない。が、仮にもし実現出来れば、従来型の原発とは比較にならない程の安全性とエネルギーを生み出す。二酸化炭素と核廃棄物の少なさは従来型原発とは比べものにならず、そのくせ三重水素一gで生み出されるエネルギーは石油八t分だ。それだけで夢のエネルギーと断言して良いそれは、近い将来人類が宇宙へ出て行く時に必須のもので、それを実用化出来ればその利益はそれこそ従来型原発の比ではない。それを見越した研究が欧米では活発である一方で、日本ではプルサーマル計画や高速増殖炉の失敗で懐疑的な見方が強く、二の足を踏んでいる状況だ。そこで動いたのが高坂重工の新生原則論者だった訳だが、後からやって来た者に手の内を明かす事を嫌がったフェレールがそれを拒否した。とは、真琴がまだ若かりし頃の話だ。
だからこそ──
何故自分がネタの一部に挙げられているのか。それも自分達が拒絶した話を何故今更持ち出すのか、全くもって理解不能だ。が、このメールが真正なものなのであれば、
──高坂がこれを受けない手はない。
それこそ、喉から手が出るだろう。核融合エネルギー開発の乗り遅れは、戦後日本が航空機開発の権利を失った以上の、受け入れ難い技術的遅滞だ。未だに国産ジェット旅客機が作れない現実が、その痛恨を雄弁に語る。
私の解放を──
求めているという事は、国産戦闘機開発の件は諦めろという事だ。核融合と戦闘機を天秤にかけるなど、人類の視線が宇宙に向いている今、何を言うでもないだろう。更に言えばその提案を拒否したところで、後に待っているのは株の買い占めによる会社の乗っ取りだ。フェレールの絶対的資金力を前に、高坂重工は敵対的TOBを覆せない。重工は、確かに旧財閥系の大グループ企業の一つで、重工業では国内有数の大企業だが、あくまでもグループ内の一企業だ。多国籍コングロマリットのフェレールとは、単純に企業単体の資金力が違い過ぎて話にならない。高坂グループが束になってようやく良い勝負が出来るレベルだが、具体的な期限がいつだか知った事ではないが、そもそもがグループといえども今やそれなりに独立している企業群の集まりだ。話がまとまる訳もない。
つまりは──
このタイミングでこの動きに高坂側は、
──なす術がない。
という、結果ありきで白々しさ満点にして、実に嫌味ったらしい提案なのだった。
「何を今更ぁ──」
座っていながら地団駄を踏む勢いの母は、言わずもがなの怒り心頭モードだ。無理もない。高千穂を転がして大事に育んで来た巨大な利権が目前でちゃぶ台返しにされ、しかもそれ以上の話で釣られる事の屈辱は、圧倒的な力で捩じ伏せる母美也子の手口に似ている。その容赦なさこそ、高坂美也子がフィクサーとして恐れられて来た所以だ。
「母さん、もうやめよう」
と、その傀儡だった父が、ついに白旗を上げると、怒りのやり場に困ったような母が、派手に椅子を倒して立ち上がった。
「もう好きになさいな! あなたが会長なんだし!」
もう、八〇を超えてしばらくというのに、何とも血気盛んな事だ。
「どんな手を使ったのか知らないけど、覚えてらっしゃい!」
重ね重ねも珍しい負け惜しみのような捨て台詞と共に、ドカドカと闊歩して出て行く様は、とても後期高齢者とは思えない達者な足取りで、
「だから私は知らないんだって!」
と答えたところで、まだまだ呪縛はキツいのだろう。
ああ──
面倒臭い。
「済まなかった、では済まない事は分かってはいるが、本当に済まなかった」
後に残された格好の父次任は、今までの頑固振りからはとても想像出来ない素直さだ。
「──え? 何? 何か余命幾ばくもない病気か何かかしら?」
それ程の変貌振りなのだが、
「わしも母さんも頗る元気だが」
と、何の面白味もない返事は真琴の知る父で、それが現状の事実を物語る。
「高坂はこの話を受ける。お前はもう自由になさい」
「は?」
「ただ、今は分からんだろうが、母さんも──いや、やめておこう」
勿体つけてくれる父が、そのままそそくさ立ち上がると、
「母さんが拗ねておるから、わしももう行くぞ。とにかくこの事はもう心配するな。お前の好きにしなさい、真琴」
とか、とってつけたようなやっつけの説明が、また如何にも言葉足らずの父らしさだ。
「ちょ、ちょっと──」
待ちなさいよ、と言った時には、その父はもういない。呼びつけておいて放置とか、
好きにしろとか──。
父次任に名前を呼ばれるなど、これまたいつ以来なのか。後に残された真琴は、やはりそれを思い出す事が出来なかった。
二月中旬。
フェレールと高坂重工は、核融合エネルギー研究・開発・商業実用化をターゲットとした合弁会社の設立計画を発表した。共同記者会見で両社の社長が何やら口を動かしている映像は録画で、相変わらず実家の自室で立て籠もる真琴は、ニュースでそれを知るという疎外感だ。が、問題はそこではない。
「信じられない──」
フェレールからメールが届いたその日の内に返事をした高坂サイドの動きも早かったが、僅か一週間で共同記者会見まで漕ぎ着けた早さはどう考えても異常だ。まるでこの展開を、
読んでいたかのような──
フェレールの迅速さ。恐らく高坂側は、条件を確認するだけだったのだろう高坂重工の社長とは、何を隠そう外ならぬ真琴の兄だ。それが満面の笑みで会見に臨んでいる。それ程までに渡りに船だったのだ。重工はそれ程までに切羽詰まっていた、という事だ。先の戦争の反省から、国と一線を画した大手企業運営の難しさだ。
それが──
今回の合弁会社設立に伴う新事業展開と、フェレールによる資本の梃入れで、一気にV字回復を目論む体制が構築されたのだ。軌道に乗れば、本格的な業務提携も進むだろう。
──フェレール様々ね。
この結実が、実は裏取引による奇妙な条件が決定打とは、世間様はよもや想像もつかないだろう。その奇妙な条件には、更に奇妙な後づけがあった。高坂の足元を見るようなフェレールのそれは更に母美也子を激怒させたが、後に引けない高坂は黙ってそれを飲んだ。飲むしかなかった。
"真琴及びその交友者の絶対安全の確保"
という、謎めいた後つけだ。その内容はともかく、小出しの条件拡大戦術に持ち込まれる事を恐れる高坂サイドの一方で、何日経ってもフェレールからは追加が来ない。結局、そのまま今日の会見を迎え、密約を既成事実化出来た高坂サイドは一安心といったところだ。が、返す返すも、
私の交友の身の安全って──
どういう事なのか。気がつくと、ニュースは既に違う話題に移っている。自室の扉がノックされたのはそんな時だった。入室を促すと、入って来たのは当然由美子だ。
「夕食のお時間でございます」
「分かりました。参ります」
事態が激変して、約一週間。籠城こそ続けているものの、夕食だけは我慢して親と摂るようにした真琴だ。籠っていたのでは、完全に取り残される。かといって、そう安々と親に物を尋ねる気にはなれない。フェレールの面々で連絡がついたのは叔母のリエコだけだったが、頼りのその人はその人で、
「姉さんは何て言ってるの?」
の一点張り。種を明かしてくれないどころか、
「一緒に食事でもしなさいよ」
などと突き放しだ。で、仕方なくのご相伴なのだが、
──それにしても。
実に四半世紀振り、という事になるだろうか。最後に一緒に食したのは、家を出る直前、一七歳の年の事。
何にせよ──
お互い忌み嫌ったものだ。そんな調子なのだから、口を聞くどころか目すら合わせられない。今夕で両手の指ではそろそろ収まらなくなって来たご相伴だが、情報を獲得する以前に単なる我慢大会だ。俗な言い方をすれば、メシの味がしない、
というか──
はっきり言って、マズい。し、ムカムカする。こんな調子で何かを掴める訳もなく。呆れる真琴は、それでも努めて静かに淡々と、手口を動かし食事を進める。味わうも何もなく、とにかく口に掻き込むだけだ。それが皮肉にも、これまで真琴が食して来た、大富豪のものとは思えぬ質素にしてありふれた物
──だとか。
忌々しい事この上ないが、改めて自己のルーツを思い知らされる。煮物、汁物、香の物と、魚にご飯だ。実家のそれが美味くない訳がないのだが、腹も立てば美味くもなくなるのだろう。それならそれで、さっさと下がるのみだ。
「ご馳走様でした」
今宵もそれだけ言ってさっさと席を立つ。と、
「ちょっと待ちなさい」
と、父に呼び止められた。
──また?
その何処となく気遣わしげな、腫れ物に触るかのような声色はどうした事か。ここ一週間のそれは、単純に薄気味悪さでしかない。
「何か飲んで行かないか?」
「部屋で飲むからいい」
と、振り切ったつもりが、
「ちょっと話があるんだ。掛けてくれないか?」
などと、釘を刺されては仕方がない。
「何なの一体? また脅迫されるようなら今度こそ訴えるわよ」
憎まれ口を吐きながらの目線は母だ。するとその先で静かに食していた敵が、小さいながらも音を立てて箸置きに箸先を置く。
「母さん」
火を噴くタイミングは、お互いよく分かっている。その火山が口を開く前に、父が、
また──
抑えた。それがよりによって、母も言う事を聞くとか、
──何の前触れ?
だ。天変地異でも見るような真琴は、とりあえず椅子に座り直した。
数分後。
母も食べ終わったところで膳が下げられ、入れ替わりで食後の飲み物が出て来た。それが三人ともルイボスティーだ。合わせて羊羹が一切れ添えられている。
「ちょっと甘いか」
「さっぱりしてるわね」
などと、口々に口をつける両親を前に、真琴の不審感は高まるばかり。
──な、何なのよ一体?
飲み物を頼む折、真琴が一も二もなく最近はまっているホットグリーンルイボスティーの名を出すと、何故だか両親も
「じゃあ同じものを」
と、口を揃えたのだ。南アフリカ原産のルイボスティーは、一日の気温差が三〇℃を超える過酷な環境下で育つ。原産地が唯一の生産地という希少性で、世に出回っている安価な物の大抵は低品質だ。が、今出ている物は、真琴が知る限り相当なグレードの物で、その上発酵させず抗酸化作用をふんだんに含む純粋なグリーンルイボスティーときている。それが当たり前に常備されているのが高坂という家で、それを、
「初めて飲む」
などと口にしながら啜る二人を見ていると、余計でも腹立たしい。
「何言ってんだか」
どうなろうと知った事ではない連中なのだからほっとけばいいのだが、それでもつい口を挟むのは、実家を維持してくれている人々を思っての事だ。
「毎朝飲む由美子さんのハーブティーに入ってるわよ」
実家に帰省以来、酒を断った真琴は、この際実家にあるルイボスティーを始めとする希少性の高い高級品を飲み漁っている。断酒の訳は、少しでもまともな精神で籠城し続けるためだ。
「話があるんならちょうどいいわ。リラックス作用もあるし」
ねぇ、と部屋の端に控える由美子に声をかけると、
「はい」
と、控え目な返事が返ってくる。
「少しは下働きに甘んじている人達の気持ちを考えたら?」
「お嬢様」
すかさず咎める由美子を遮るように、
「──そうだな」
と、父だ。
うわ──
これが肩透かしでなくて何なのか。昔なら、壮絶な舌戦にもつれ込む展開だ。面倒臭さしかない親が、揃いも揃って素直だとか、
──こういうのをキモいって言うのね。
思わず、普段使い慣れない若者言葉が脳裏をかすめる。長期戦の籠城を見据え、健康には気を遣っているつもりだが、それでも悪寒がするのは身体の不調ではない。
「──で、何?」
せめて、少しなりとも主導権をとり返しておく。
「ああ──いつまで家にいるのかと思ってな」
「はあ? 何それ? 利用価値がなくなったらさっさと出て行かされる訳?」
あえてあおるのは相手を怒らせるためで、それは法廷弁護でよく使われる。有利な立場を獲得するためだ。
「いや、そうじゃないが──」
「じゃあ、フェレールに約定の履行を怪しまれるから、早く出て行って欲しいとか?」
確かにフェレールの提案は、母のプライドを傷つけた。が、高坂の損失と言えばそれだけだ。破格の提案だからこそ、選択の余地がなかった。その事実が、更に母を抉る。自由になるのは、それを見定めてからでも遅くはない。
「何かあれば、真琴が黙ってはいないだろう。それはすぐに先方に伝わるんだ」
だからいつまで居座られたところで全く問題にならない、という父の解釈。
「これまでの怨念をぶちまけられる怖さから、早く出て行って欲しいって素直に言えば?」
「言わせておけば──」
早速、母が痺れを切らした。
「あら、本音を突かれてご立腹かしら?」
普通ならここから罵詈雑言大会なのだが、
「母さん、真琴」
と、また父が間に入る。
また──
何であれ、親から名前を呼ばれる事自体が久し振りで、その懐かしさだ。つい舌鋒が鈍る。
「──煮え切らないわね」
母の分かりやすさは予測通りで、これはザマな訳だが、思い切れないのは父の慣れない気遣いのせいだ。仕方ないから、少し口を動かす事にする。
「裏取引が漏れない訳ないじゃないのよ──」
人の口に封は出来ない世の事だ。それなら、母美也子に反目したバカ娘を雇いたいグループ企業などないだろう。それどころか、政財界に隠然たる力を張り巡らしている母の事なら、国内で仕事など出来る訳がないのだから、
「しばらくは無職でいい──」
と思っていたりする。そこで、先生のミニマムライフの、未だ眩しい思い出だ。
あれを一人で──
やったとして本当にときめくのか、今一つ自信がもてない。先生がいたからこそ、あの小屋でその生活を愛でていたのだ。その基本的なところをごまかしてはダメだろう。
高千穂は失せた。次なる手を講じるにはそれなりに時間がかかるだろう。別に高千穂に限った事ではない。いい加減おかしな連中から因縁をつけられないためにも、身をしっかり固めるか、世の中から隠れるべきだ。
──そうか。
改めて、自由放免だ。これまでの人生で聞いた事もないそのフレーズだ。それが何故だか高坂重工を救う一手なのだから、これが覆される事はまずないだろう。これを上回る仕掛けがあれば別だが、ちょっと思いつかない。
となると──
本当に自由、という事になる。
「──まあ、しばらく様子を見させてもらうわ」
その上で、周囲に妙な動きがないのであれば、先生が施設と雇用契約を結んでいる年度末までに、
──逢いに行きたいかな。
と、素直に思う。というか、本当は今からでも飛んで行きたいのだ。が、気になるのは実家で、特に母の動き。だからこそ焦りは禁物だ。ここは事の成り行きを確かめる時だろう。
「──で、その後はどうするんだ?」
「え?」
不用意にも二親の前で妄想にふけりそうになるところへ、父の声で現実に戻され、不覚にも心臓が跳ねた。
「様子を見て、その後は?」
「説明する義理はないでしょ? 自由なんだから」
それとも今更、何か言質でも取るつもりなのか。母の思いがけない一言は、そんな嫌なタイミングだった。
「不破っていう男の子の所へ行くのかしら?」
得意げに歪むその顔の、何という憎らしさだ。
「何を──」
喧嘩っ早い悪い癖が、こんなところで足を引っ張ってくれる。
──しまった。
これではそれを肯定しているようなものだ。それがバレたところで、この執念深い傲慢な女が何をしてくれるのか。それこそ、事が落ち着いた後こそ危ない。
「よりによって、あんな何でもないか弱い殿御に、よくもまあ入れ込んだこと」
ここ最近の鬱憤を晴らすような辛辣な物言いに、その顔がぐにゃりと歪んで見える。
「社会の底辺で世を憎んで他人を恨み、いじけて隠棲したような凡夫の何処を気に入ったのか知らないけど──」
切れ目なく続く中傷に、頭の中の血管が切れたような、それ程の怒りだ。わざわざ逆鱗に触れてくるような、あからさまな侮辱に黙っている竜もいないだろう。考えるまでもなく、見るまでもなく。自分の手が脊髄反射のように、羊羹用に出されていたステンレス製の菓子楊枝を正確に掴む。その瞬間後、躊躇なくそれを母に投じたのと、
「やめなさい!」
と止める、父の叫び声が被った。その声と共に、先の鋭い楊枝が敵の毛先を掠め、
"かっ"
と、小さいながらもしっかりとした硬質の音を立てると、延長線上にある木製クローゼットの木枠に突き刺さっている。無意識に父の声に驚いたのだろう。その分だけ的から外れてしまった。
──クソ。
自分はいつもこうだ。肝心な時の詰めが甘い。それこそ侮蔑されたばかりの彼の男なら、こういう時に仕損じるような甘さはないだろうに。自分の失敗が、更に先生を落とすようで情けない。
「──今度から菓子楊枝は、木製で先の丸い物が良いわね。由美子さん」
「申し訳ございません」
「この跳ねっ返りの野蛮な娘が、くないか何かと勘違いするものだから」
などと、事もなげに呟く母に追い討ちでなぶられると、何重にも悔しさが募り始めたところでようやく思考が追いついてくる。
「木製にするんだったら、今度こそその憎たらしい横っ面に突き立ててやるわ。間違って殺すような事もなさそうだし」
「命を取ろうとしないところが甘いのよ」
「アンタのために罪を負って刑に服するのがバカバカしいだけよ」
「二人とも、やめんか」
父が更に一度仲裁に入るが、流石にもう収まりがつかない。
「この際私の事は何を言ってもらっても構わないけどね──」
今度からあの男の事を口にさせる時には、それなりに気を遣わせるべきだろう。つまらない人間を懲らしめたがために、一々罰を負わされては敵わない。
「頭では自ら手を下す事に価値すら見出せない亡者だと理解出来ても、野蛮な手業を嗜んだ手は、つい反射で悪を貫いちゃうから」
と、まだ冷め切っていないカップをあおると、やはり少し喉が焼けた。が、グズグズ居座るのも煩わしいだけだ。黙って席を立つと、
「待ちなさい」
と、父の何度目かの割り込みだが、今後会う事もなければそれも金輪際ないだろう。そんな真琴の足が、母美也子のまたしても思いがけない一言によって止められる。
「人の褌で相撲をとるのが上手な殿御にくっついたからって、精々いい気になってなさい」
「はあ?」
「あなたのニブさも救い難いわね。自分を助けてくれた相手も分からないなんて」
「さっきから何を──」
「フェレールを動かしたのはあなたの可愛い凡夫で、それを知らないのはあなただけっていう間抜けな話よ」
「な──!?」
それを耳にした真琴の、人生初の絶句の体感だ。余りの突飛さに思考が追いつかないというか、そもそも考えようとしていない。青天の霹靂のようで、苦し紛れの鬼婆の世迷言だとそれこそバカにする一方で、どこかでそれを認める向きが身体を硬直させている。
「そんな事だから、あなたはあんな弱々しい柔な子に懐柔されるの」
今の真琴の身体は、一定の音声信号を認識すると条件反射が働くようだ。
「いい加減にせんか!」
父次任の、いつにない太い声が周囲を震わせると、我に返った真琴は空になったばかりのカップを手にしていた。ここで止められるところが、返す返すも先生との差なのだろう。その意外性は、真琴の想像をいつも軽々上回って驚かせてくれた訳で、
まさか──
こんな所でも再認識させられるとか。
「──ど、どういう意味よそれ」
やっと出た言葉が、そんなヨレヨレの体たらくだ。
「だからそのままの意味よ」
「母さんも、もういい加減にしなさい」
と、その場をついに抑えた父によって、真琴は止めを刺された。
「今回のフェレールの申し出は、真琴が知る不破君の案だそうだ」
「はあ!?」
それこそその口癖は先生のものだったのに、いつの間にかうつってしまったようだ。
「侮ったらろくな事にならないわ。いつまで経っても人生為にならない事はないものね」
再三父に咎められた母の独り言に、今度は真琴の身体も反応しなかった。それどころかそれこそ彼の鬼婆が、殆ど手放しに誉めたとか諸手を挙げたような、そんなザマだ。そんな
バカな──。
いくら何でも、あの先生にそんな事が出来る訳がない、と思う自分の、何とご都合主義なのか。先生をバカにされて腹を立てる一方で、この場でその力を一番認めていないのは自分だ。
でも──
山小屋でのんきに本を読んでいる姿が脳裏にこびりついているあの先生が、大企業の利権を覆すなど。それも、一国家の国防政策が絡む大事だ。
──有り得ない。
百歩譲ってそれを出来るとして、普通は堂々と表に立たないものだ。それをやってしまうあの男は、普通じゃないのか
──バカなんじゃないの!?
今更ながらに、高千穂の暗躍を暴いた無茶振りを思い出す。
何やってんのよ──
「失礼致します」
そんな時に入室して来たのは、筆頭執事の佐川兵庫助だった。燻銀の渋さがピカイチのこの執事は、見た目も仕事も申し分なく、余談で由美子の夫だ。その由美子が部屋の端で僅かに目を緩ませたのを、今の真琴が気づいたのだから、その夫が気づかない訳がない。が、その夫の方は表情を緩める事なく父の傍に寄る。その数秒後、またしても父の口から予想外の一言が発せられた。
「真純が行方不明らしい」
それは外ならぬ、真琴の一人息子の事だった。
高坂真純、一六歳。現在真琴の実兄方で暮らしているその一人息子は、真琴に似て反骨精神旺盛の、大変な気骨者に育った。遺伝子の半分は奸物高千穂隆介から受け継いでいながら、母真琴が早々に離婚し母子二人暮らしになったため、真純本人は父親と生活をした事がない。それが良い方に作用したようで、典型的な真琴二世として成長した男児は、やはり早熟聡明なる壮士に育った。
家風に反発し、世に蔓延る胡散臭い常識に果敢に立ち向かったこの真琴二世は、考え方も瓜二つで、学生時代、母のような陰湿ないじめ被害を受ける事はなかったが、同年代の幼稚な思考に馴染めず孤立した。中学に入学早々「高校には進学しない」宣言をするや、母と同じように司法試験の勉強を始め、中学三年にして司法試験予備試験に合格。続け様にその翌年となる昨年の司法試験にも合格し、それまで真琴が二〇年と少し保持していた、新旧司法試験制度下における史上最年少合格記録を更新した。そんな鬼才は中学卒業後、都内某弁護士事務所で法務助手として勤めていたのだが、司法試験合格により早速その直後となる同年一一月開始の司法修習に入り、現在は都内裁判所所属の司法修習生だ。
司法試験は国内最難関の国家資格として有名だが、それだけをもって裁判官や弁護士になれる訳ではない。検察官も加えたその三者を法曹と呼ぶが、それになるには法曹資格が必要で、司法試験合格者を対象としたその教育制度が、裁判所法に定められるところの司法修習だ。その司法修習は、法曹になるためには必修で、現行法下においては一年間かけて行われる。法曹三者いずれの道を希望する者も、同一課程の統一修習で行われ、修習は一〇か月の実務修習(民事裁判修習、刑事裁判修習、検察修習、弁護修習、選択修習を各二か月ずつ)と、埼玉県和光市所在の司法研修所における二か月の集合修習に分けられ、最後に待ち構える司法修習生考試に合格することでようやく判事補、検事、弁護士になれる資格を得る訳だ。この物語の何処かで「弁護士料は言い値で高額」と先述した事があったが、その理由の一端がこの登竜門にあると解して差し支えないだろう。これ程までに狭き門を潜り抜けなくては就く事が出来ない職業だからこその報酬、という事だ。司法試験合格に必要な最低勉強時間は実に三〇〇〇時間とも言われ、法のスペシャリストを目指す法知識人達でさえ、合格するのに何年もかかるその超難関資格は、六法全書を丸暗記する覚悟がなくてはなれない、とまで言われる。そこまで過酷な修練を要する資格は、確かに余り聞き覚えがない。
真琴は別居しているとは言え、この一人息子の事を忘れた事はなく、その様子はどんなに間を空けても週単位ではアップデートしていた。
確か今は──
刑事裁判修習中だった筈だ。真琴の兄は、実家の近場にあるマンション暮らしで、居候をさせてもらっている真純もそこから修習先へ通勤していたのだが。父の話によると、先週末の夕方にその職場から、
「──急な出張で帰られなくなった、と千鶴に電話があったらしい」
とか。千鶴とは、真琴の兄の長女で、真純の婚約者だ。共に兄の家で、兄夫婦と一緒に仲良く同居しているのだが、
「何故かその連絡を最後に、連絡が取れなくなったらしい」
こんな事は当然今までに例がなく、それでも忙しいのだろうと放置していた時間分だけの衝撃、というザマだったりする。
法曹の忙しさも中々のものだが、真純はまだ司法修習の身で、基本的には朝から晩までのカリキュラムだ。その身分は公務員ではないが、国家公務員に準じた地位を有し修習専念義務を負い、その分修習給付金という名の給料も貰える。が、修習の勤務時間は朝から晩まででも、それ以外の時間は最後に控える考試に向け、普通は血眼になって勉強するものだ。真琴でさえ少しは隈を
──作ったモンだったし。
流石の真琴二世も、時を忘れて机にかじりつく事多く、周囲は邪魔にならないよう遠目からサポートしていた、らしい。が、
「──いくら何でも連絡がつかないから、千鶴が真純の職場に確かめたら、忌引き休暇中だったそうだ」
という衝撃の虚言が発覚。
「忌引き?」
「ああ。お前が亡くなったらしい」
「はあ?」
真純の父は、あんなのでも外務大臣だ。その知名度を考えれば、父が死んだとは到底言えないだろう。だから母である
「私がねぇ」
というそれは、要するに時間稼ぎだ。公務員の場合、実父母の忌引き休暇は七日。配偶者は五日、祖父母は三日だ。未婚の真純だと、配偶者の線は消える。
「私じゃ日数が足りなかったのかねぇ」
と、真純の祖母美也子が呟いた。祖父ともなれば、次任か元首相の高千穂隆一郎だ。どう考えても目立ち過ぎる。一方で、婆を殺せば美也子か元首相の奥方。それでも取得出来るのは三日だ。日にちと知名度の観点から、真琴が選ばれたと考えて間違いないだろう。家族葬という事にしておけば、今は無職の真琴なら、しばらくは世間の話題に上がらない。
「週末の夜だというのに、当然帰って来ないそうだ」
気がついたら、音信不通になって一週間が過ぎていた、という話。
「とりあえず、警察に捜索願出すわ」
真純は嘘をついて休むような甘い人間ではない。そんな事はこの場にいる人間なら、口にするまでもなく共通認識だ。つまりは、余程の事があった、と見るべき状況。
真琴が、今度は静かに席を立って、居間にある固定電話に足を向けかけると、
「もう千鶴が出したそうだ」
と、父にやる事を奪われた。
「それなら──」
とりあえず真琴が、母の立場でもってする事はない。
「──何か分かったらまた教えてよ」
と吐き捨てるように言うと、真琴は今度こそ居間を後にする。一見冷たく見えるが、他にやりようがないのだ。それをどうのこうのと雁首揃えて慰め合う真琴ではないし、両親でもない。壊滅的に仲が悪い親子でも、そういう腹の据わり方をしている事もまた共通認識だ。加えて真純の婚約者の千鶴は、家中ではしっかり者で通っている。離れ離れの母子の関係より、同居の婚約者の方が警察も喜ぶだろう。彼の二人は事実婚の状態であり、今のご時世なら法的身分もそれなりに固い。実母でなくては不都合な事など、極々限られるのだ。そうなると際立つ、真琴の孤独感。
これを笑わずして──
何なのか。まさに身内に腫れ物扱いされる、典型的な出戻りの年増だ。それがなまじ気位ばかり高いものだから、今や敵認定していた親からも薄気味悪い気の遣われ方をしている。
こんなの──
老醜を晒す、悪い年寄りではないか。気がつけば、自分の子が事実婚しているような年になっていて、それが独りで気難しくも拗ねているとか。我ながら
──寒気がするわ。
いつまで経っても子供扱いしていた我が子に、早々に親離れを突きつけられた真琴が、それでも子離れ出来ていなかった、という事なのだろう。それが見事に、その子供の大事で居ても居なくても変わらないダメ親を晒す体たらくだ。その現実に見て見ぬ振りをしていた自分の弱さだ。
こんなんで私──
存在意義があると言えるのか。
小さい頃の真純は、中々のマザコンだった。兄の家に行くまでは、
「将来的には母さんと結婚する!」
などと、周囲を憚らず高らかに公言しては拗らせていたのに、千鶴を見つけて以来、見事に親離れしてしまった。真純と過ごした一〇年が、真琴が独りではなかった時間だ。その間でさえも、シングルマザーのキャリアとして多忙を極めていて、人に預けてばかりの子供だったのだ。
──そうよね。
忌引きのネタにされて当然の扱いをして来たと言われても、とても言い返せない。精々ネタとして認識されるだけ、まだマシなのかも知れない。自分が関わる人間は、
みんな離れて行く──。
それが偶然なのか、必然なのか。敵が離れて行くのはいいとして、では味方と思える者まで離れていくのは何故なのか。
自分の何処がどう悪いんだろう──。
「あなたの殿御に相談なさい」
その静かで素直な声は、意外にも程がある母美也子のものだった。それどころか、居間を後にしたつもりが、何故か椅子から立ったままの状態で立ち尽くしている自分。
「今は在野の士でも、元専門家でしょう。──この際、切れる札は多いに越した事はないわ」
重ね重ねも自分の耳がおかしくなったのではないか。それともこの混乱で、脳がおかしくなっているのか。棘のない母の声を、かつて聞いた事があっただろうか。加えて、母にとっては忌々しい筈の先生を、士と言ったように聞こえたのが一番おかしい。やはり、聞き間違いだろう。この間、どれくらい固まっていただろうか。数秒か、それとも数分か。分からない程の動揺という事だ。とりあえず無視して、今度こそ自室に戻ろうとしたところで、
「やはりダメねあなたは。普段の威勢のよさが、いざとなるとすっかり大人しくなって」
と追い討たれてしまう。それを敵に指摘される事の何という屈辱だが、今はカップを投げつけている場合ではない。それよりも何よりも、
「──とりあえず、虫が良過ぎない?」
まずは、そこを改めさせるべきだろう。この女に先生は、散々コケにされたのだ。
「そんな事を言っている場合ではないでしょう? 高坂の大事な跡取りの事ですよ?」
真琴は二人兄妹で、兄の家は千鶴を筆頭に四姉妹。男子相続を貫いている高坂の後継ぎは、自然真琴の子、つまり真純という事なのだが、
「人様を散々辱めておいて、今更恥知らずもいいトコじゃない?」
とにかく身内を優先する、そのスタンスが気に入らない。が、怒鳴り散らして終わらせては、先生の名誉は害されたままだ。そもそもが、
「無理矢理清算させたのそっちじゃない?」
精々ここは、その鬱憤を晴らしてやる。が、
「相変わらず、プライドだけは一丁前ね」
と、なぶられてしまうと、長年の確執の分だけ沸点は低い。
「お嬢様!?」
「え?」
慌てて駆け寄って来た由美子に手を取られたところで、手元のカップが粉々になっている事に気づいた。どうやら自分が握り潰したらしい。遅れて掌から痛みが駆け上がって来る。兵庫助も寄って来て、その手にハンカチを被せられると、
「失礼致します!」
と声を上げた由美子に連れられ、今度こそ部屋から追い出された。
翌、丑三つ時。
やはり眠れない真琴は、自室窓際の椅子に座って、ボンヤリ月明かりに照らされていた。カップを握り潰した傷は、当然大した事ではなかった。陶器のカップだ。少し切った程度で絆創膏を貼るまでもなく、傷も残らないだろう。
クソ──
ジワジワなぶってやるつもりが、あんな女に言われずとも、本当に自分はいざとなるとダメだ。あの場にいた自分の名誉は自分でとり返せばよい。いなかった者のそれを、自分がとり返さなくて
──どうする。
先生の事で怒りに震える一方で、それでも今夜はやはり真純の事が気がかりだ。俄かに脳内では、先生と真純の事で陣地取りが展開されている。
現金なものね──。
どっちにしてもという言い方は少し乱暴だが、どっちであろうといなくなって改めて気づかされる、その存在の大きさだ。とりあえず、その安否が気になる真純に関して言えば、自分などは罪作りもいいところだった。何せ、お妃候補から逃れるために当て馬と結婚し、その延長でこさえたような子だ。それにしては本当に、
──良く出来た子だったわね。
無意識で過去形にした自分に、不意に動揺する。良く出来た子だからこそ行方不明という現実が信じられず、それが余程の事と思うと事態を悲観させるのだ。真純はそれ程、出来た子供だった。
女癖の悪い狡猾な男と、高飛車で世の全てに喧嘩を売っていたようなどうしようにもない女の間に生を受けたにしては、幼少期から知能的には全く手がかからなかった。世にいうギフテッドで、よく言われる通り一を聞けば一〇を知る有様だった。自分の仕事の都合で海外暮らしだった幼少期など、言葉に不自由しないどころか飛び級続きで周囲を驚かせたものだ。将来が楽しみで、その才を愛でては親バカになったもの
だったのに──。
真純が一〇歳の時、突然転機が訪れた。日本のお盆時にバカンスを取得して、母子で日本に一時帰国し兄宅を訪ねた折、
「このまま日本に残る」
と言い出したのだ。一〇年間一緒に暮らしたせいだろう。母親の気質を余す事なく受け継いでいた、このちょっとした小さな天才は、早熟だった母親同様にマセていて、驚いた事に兄の長女で当時大学四年だった千鶴に一目惚れしたのだ。日本の就学階層で言えば当時の真純は小学五年生で、相手との年齢差を思うと真純の幼さが
際立つばかり──。
世に存在する大抵の常識に抗って来た真琴も、この時ばかりは流石に驚いた。確かに真純は、既に成人レベルの精神を持っていたが、例えそうであっても身体は小さく、年齢的にも児童の枠組真っ只中の一〇歳の子供だ。要するに、寿命一〇〇年時代の今を生きる少年には、まだまだ早い話という事であり、
「また連れて来てあげるから」
と説得を試みたものの、やはり真純は真純だった。そしてそれは、事ある毎に自分の脳内を暴れ回る事になる。
「僕は運命の人に出会ってしまったんだ」
いくら聡明でも、まだ声変わりもしていない一〇歳の子供の言う事だ。周りの大人達が笑う中で、その少年の本気を感じとったのが二人。外ならぬ自分と、告白された千鶴だ。真純が真純なら千鶴も千鶴で、この時何処まで本気だったのか知る由もないが、何かを感じたという事なのだろう。千鶴は一〇歳の男児に対して、
「では、この場で婚約しましょう」
と言い切ったものだから、これには周囲も言葉を失った。結局、流石にその場では婚約に至らなかったものの、その数日のうちに二人は婚約してしまったのだから、二人にしか見えない糸がお互い見えていたという事なのだろう。それを目の当たりにした親バカな母親は素直に、
──負けた。
と思った。大体が、
運命的な出会いなんて──
した事がない母親だ。何を言っても説得力も何もあったものではなく、いい加減な結婚をした身だ。結局その夏、行きずりの男女の成れの果てに授かったような我が子に早々と親離れを宣言された真琴は、一人欧州に戻り、また独りになった。
一体これは──
何の業なのか。人に向き合う事から逃れ、当たり散らして思う様突っ張って生きて来た自分に対する何らかの
罰──
としたものなのか。友を持たない真琴は代わりに哲学を知っていたが、それでも悩み、迷い続けた。答えはとっくの昔に出ているのに現実を受け入れられず、認める事が悔しいだけなのだから当然だ。結局哲学など、もっともらしい言葉の羅列で都合よく解釈しては落ち着くところへ着地させているか、得体の知れないものを決めつけで奉戴させ、それをまことしやかな物語にしているだけの事だ。いざとなると、何の役にも立たない。大なり小なり哲学を修めているだけで煩悩が解放されるのであれば、この世はもう少し秩序的でもいい筈だが、現実として現代人は欲深く、自分も含めて未だに実に本能的だ。
結局──
こんな捻くれた自分を肯定してくれる、誰かの声が欲しいだけなのだろう。
そんなもの──
何処の誰がくれるというのか。独りになった真琴は、延々そんないじけた無限ループに陥っていた。が、そんな人生のドン底だった去年の梅雨時。何の因果か神仏の気まぐれだか知らないが、偶然が偶然を呼ぶ奇跡の出会いを経験しておきながら、
それでも私は──
それを台無しにしてしまった。
確かに始めは、からかい半分だった。何でもない田舎者の、何でもない中年男
だったのに──
噛みついたり、当たり散らしたり、自分の嫌な面を余す事なく晒しても、いざとなると男は泰然としていて、不思議な包容力で受け止めてくれた。迫力に乏しく、拙い口はいつも嫌味な女に言い負かされてばかりだったが、自分なりの思いと言葉を丁寧にくれる妙な律儀さに、凝り固まっていた偏屈女も絆された。別に格式ばった説明や、有難い言葉などいらない。あの姿こそ、哲学的に言うところの一つの到達点で、より分かりやすく「愛」というのだ。
それを私は──
欲していながら捨ててしまった。向き合う事を恐れ、それこそもっともらしい理由をつけて逃げてしまった。弱虫で、意気地なしで、そのくせ頑固で強がりで、そんな自分を受け止めてくれたのに、バカな女はそれをみすみす
──手放してしまった。
その大失敗をとり返す機会が、自分が何をするでもなく向こうからやって来る事の、これを神と言わずして何なのか。不謹慎にも程があるが、まさにピンチはチャンスという事なのだろう。鬼婆がよからぬ事を考えているのかも知れない一方で、ひょっとすると真純の大事を大義として、
先生に──
会えるかも知れない。
几帳面に揃えた両太腿の上に置いたハンドタオルが、今夜はいつもより温かく感じるのは気のせいなのか。
会いたいな──。
真純に思いを寄せていた筈が、気がつくと先生の事を考えている。こんな時に、何という悪い母親だ。そんな後ろめたさのせいなのか、また不意に目尻から両頬へ大粒の涙が一筋伝うと、またしても止まらなくなってしまう。
──会いたい。
が、会ってしまうと、ここぞの母美也子に逆襲されそうな気がしないでもない。そもそも先生がフェレールを動かした、とはどういう事なのか。いくら優れた意外性を持つとは言え、どう考えても接点が見出せない。
まさか──
ノーアポで突撃した、
──とか?
あの草食系は、あれで腹を括ってしまえば大抵の事はやりそうな、そんな大胆さを隠している詐欺師だ。が、
──いやいや。
いくら何でも、権と財を極めた家の怖さが分からないような先生ではない。大体が、誰でもちょっと考えれば分かろうものだ。下手を打つようなら、それこそどうなる事やら分かったものではない。それこそ金と権力で何とでもなってしまう、自分を取り巻く世界。何にしても、
──無茶が、過ぎる。
あの先生が、フェレールの権謀術数と絡むなど。どう想像を巡らせてもイメージが被らない。あの山小屋で、蜜柑の皮を煮出したお茶を飲みながら、図書館から借りて来た本を読んでニコニコしている素朴な男が、
何が出来るって──
言うのか。
その時、自室の扉がノックされた。
「お嬢様」
静かに中に入って来たのは由美子だ。真琴が寝つけず起きている事を知っていて、暗闇の中をまっすぐ窓際へやって来る。出入りを認めている唯一の存在だが、それにしても夜中だ。
「どうしたの?」
言いながらも、真琴は慌てて手にしていたハンドタオルで顔を拭った。
あ──
また洗濯に出さないといけない、と思っていると、傍に来た由美子がいつになく固い表情で、どうやらそれどころではないらしい。
「どうしたの?」
もう一度聞き直すと、今度は由美子が思いがけない事を口にした。
「おぼっちゃまが、誘拐されたそうです」




