立春(前)②【先生のアノニマ(中)〜11】
「先程犯人から、我が家の代表電話に、身代金を要求する連絡が入った」
夜中の居間に揃った親子三人は、それぞれ寝巻きの上からガウンを着て、テーブルの前の椅子に掛けている。部屋の端に控えるのは、やはり寝巻き姿の佐川夫妻だ。淡々と事情を語る父次任によると、第一報は午前三時ちょうど。真純の携帯電話からの入電だったらしい。その着信に驚いた宗家の使用人が電話をとると、明らかに真純とは異なるくぐもった声の男が、父と代わるよう要求した。数分後、それに応じた父が電話に出ると、
「二四時間以内に一億米ドルを用意しろ。出来なければ真純を殺す」
という、古風でシンプルな要求だった、とか。そこで話が途切れると、いつまで経っても続きが出て来ない。
「──で?」
堪らず先を促した真琴だが、それでも父は何も答えない。どうやら以上で終わりらしかった。
「『で?』じゃ、ありますか。あなたの子の事でしょう? 親として法律家として、あなたの見解と方針を述べなさい」
逆に母から横槍を入れられたところで、
「親って言われてもねぇ──」
さっさと親離れされたいい加減な母親など、真純にとってみれば抜け殻のようなものだろう。
「──真純は千鶴さんを頼みたいと思うけど?」
しっかり者の千鶴なら、迂闊を踏むような事はまずない。更に言えば、真純なら誘拐現場でも何とかしてしまいそうだ。とにかく頭がよく回る我が子なら、過度な介入がもたらす犯人の逆上が怖い、
「──ぐらいにしか思っちゃいないでしょ。あの子は?」
と言い切る真琴は、保護者にあるまじき楽観だが、それが我が子真純という青年だった。
「じゃあ、何故こっちに電話がかかって来たの?」
「それは犯人が決める事でしょ!? 知らないわよそんなの!」
母の単純な反駁をバッサリ切り捨てたところで、これまでの真琴なら、それをほくそ笑んだ事だろう。が、流石に今はそんな気にはなれない。大体真琴が知る母とは、他人に揚げ足を取られる事などまずない人間だ。夜中に起こされて頭が回らないとか、可愛げな事の一つたりとも口にする質でもなければ、要するに苛立ちだろう。口が先走る程の、犯人に対する怒りという事だ。
真琴からすれば煩わしさしかない父母だが、家系的には長きに渡り宗家を守って来た人間でもある。その次の次の大事な跡取りに牙が向いたとあらば、頭に来るのは当然だろう。
「兄さんの家じゃ、物足りないんじゃないの? それに犯人は、警察に通報されるのを嫌がるモンだし、宗家に出入りする業者の数を考えれば、ね」
犯人の目的など、宗家の財産に決まっているではないか。一億米ドルなど、その資産からすれば騒ぎ立てる程の事でもない。騒ぐのは真純の命がかかっているからこそだ。身代金の多少など問題にならない。東京二三区に隣接するベッドタウンの富裕層向け住宅団地の一角に、広大な敷地を構える宗家豪邸だ。それを維持するための業者の出入りは頻繁で、共犯者が業者になりすまして侵入しているとか、出入り業者を脅して内情を掴んでいるとか、手口は挙げれば切りがない。
「ふむ。それで?」
そこで父が聞き返して来た。
「いやだから、こっちが状況を聞きたいんだけど?」
「状況はさっきので全部だ」
「あ、そ」
「だから、あなたの見解を述べなさいと言ったでしょう?」
呆れる母は、それが分かっていたらしい。その辺りは長年の夫婦という事で、その匙加減が分からない分だけ真琴は家を離れていたという事のようだ。
「それなら後は警察に任せればいいんじゃない?」
そのまま真琴は椅子に踏ん反り返った。法律家と揶揄されようが、分かる事は法やその手続きに関する事ぐらいだ。いい加減な目論見は、真純の命に直結する。つまらない意地を張っている場合でもなければ、
「対処法は専門家に任せるべきでしょ。犯人は、別に警察に連絡するなって言わなかったんでしょ?」
父の言った事が犯人側の言い分の全てなのならば、そう言う事になる。
「言われてみれば、確かに──」
実に屈託なく答える父だ。そこで母から溜息が聞こえて来るが、その先を少し考えれば、
「警察に通報されても揺るがない立ち位置を構築してるって事よ」
そもそもが、行方不明になって既に一週間だ。警察への通報を禁ずる前に、普通ならとっくに通報している日数な訳で、意味のない事は言わなかったとみるべきだろう。
「身代金目的略取罪ね。未成年者略取は親告罪だから、保護者や法定代理人じゃないと警察は被害届を受けたがらないでしょ」
よく言われる誘拐とは、基本的に犯行の経緯で文字通り拐かさなくては成立せず、
「あの子を拐かせるヤツがいるのなら、見てみたいわね」
と、真琴が言うまでもなく、真純の場合はまず成立しない。一方で略取とは、暴行脅迫などの強制的手段を用いて、被害者をその意思に反して従前の生活環境から離脱させ、自己または第三者の支配下に置く事を意味し、
「世間で言われている誘拐の多くは、大抵の場合略取なの」
だったりする。
「大抵警察は、取っ掛かりやすい犯罪か、刑罰の重たい犯罪で事件を立ち上げるから、まずは未成年者略取か──」
法律が王様である法治国家では、基本的に全ての罪と罰は法律により定められる。この原則を【罪刑法定主義】と言い、そのように定められた刑罰の事を【法定刑】と呼ぶ。身代金目的略取の場合、無期又は三年以上の懲役。未成年者略取の場合、三月以上七年以下の懲役。それよりもこの事件の場合、
「監禁してるんだろうから、監禁罪で立ち上がるかも知れないわね」
略取した者が被害者を監禁した後で身代金を要求すれば、両罪の関係は併合罪。その刑罰は最大で、重い刑の長期に一.五倍が加重された刑となる。が、身代金目的の場合最大加刑が無期懲役であり、この罪を持ってその通り処せられた場合、併合罪による加刑はない。また、いくら併合罪と言っても、懲役刑は三〇年が最大だ。因みに監禁罪の法定刑は、未成年者略取罪と同じ。
「多分、真純を略取するぐらいだから、複数犯だろうし──」
それが、反社会的団体によって組織的に敢行された犯罪ならば、組織犯罪処罰法が適用され、法定刑がさらに苛烈になる。
「──何せよ、私は捕まえた後の事は分かっても、捕まえるまでの手法は分からないわ。親告罪で立ち上がるかも知れないから、警察には私が被害申告するわ」
因みに親告罪における被害申告とは、裁判を起こす時、つまり起訴する際の必須要件なのであって、警察の事前捜査を阻害するものでは全くない。が、警察にしてみれば、悪は捕まえて裁きを受けさせてこそナンボであり、永遠にそれを求められる組織だ。起訴に持ち込めるかどうか分からないような捜査など煩わしい以外の何物でもなく、そのような事に人手を取られる余裕などないのが正直なところだろう。民主主義国家における民主警察作用は、一にも二にも証拠主義だ。事件を立件する上での証拠資料は、素人が考えるレベルを遥かに度外視する手間を尽くされ積み上げられていると言い切っていい。その労力の大半は、製造現場ではオートフォーメーション化が進み、AI・デジタル時代の真っ只中の現代においても、基本的に人力。物作りと捜査を比べるのは少し乱暴にも見えるが、それでも【捜査経済】という言葉が存在するのも事実だ。同じ物を大量生産する製造業と事件捜査の決定的な違いは、数ある事件の一つひとつは基本的に全て別物という事だろう。人の手で地道に調べを進めるしかない辛さがそこにある。その観点からも捜査は効率的に、かつ各種要件を固めつつゴールを見据えて展開するのが常なのだ。それに、
「無罪になれば、その責任を負わされて賠償させられるし、初動から固められるものは固めたい筈だし」
つまりは、手を尽くさずいい加減な事をやっていると、国家賠償法に基づく賠償責任を問われ兼ねないリスクがある。国賠訴訟で賠償が確定すれば、その費用もまた税金。更に言えば、警察はその分予算を削られる。下手を打ったのだから、当然と言えば当然だ。
「──しかし宗家も甘く見られたものね。こっちに電話して来た事を後悔させてやるわ」
実家やその系譜は煩わしいし面倒臭いばかりだが、だからと言って甘く見られるのは面白くない。それは自分のアイデンティティーに対する明白な敵意なのだ。我慢出来る訳がない。
「しかしそれでは真純が──」
急に父が、慌てたように口を挟む。が、
「上手いことやるでしょ、あの子なら。犯人に宗家に電話をかけられた時点で、頭抱えてんじゃないの?」
宗家にいる高坂一族は、父母と真琴の三人。犬猿の仲ながら、一方で母娘はよく似た切れ者同士だ。やろうと思えば相当何事かを派手にやる可能性がある事ぐらい、当然真純は理解している。
「──ま、そうかも知れんな」
この際の父は、残された良心の位置づけだ。政財界において、高坂一族と言えば女の強さで名を馳せる名門。
「この際、精々それを見せつけてやるわ。千鶴さんを呼んどいてよ。私は警察に通報するから」
父は素直に感心を示す。後は母だが、
「──と、言う事らしいが?」
と言う、父の気遣わしげな一言で、母はまた嘆息した。
「初手としては、とりあえずそんなところでしょう。後の事は一応専門家と相談して決めましょう」
とりあえずが余計だが、母としても今は休戦のようだ。
「やるからには疎漏は許しません。高坂の名にかけて、必ず真純を取り戻しなさい」
「だからやるのは警察なんだって」
私じゃないわ、何よ偉そうに、とそこは矢継ぎ早の噛みつきではっきりさせておくと、真琴はガウンのポケットからスマホを取り出し、一一〇番をかけた。
同日、朝六時。犯人の第一報から三時間。
夜中の真琴の通報で、宗家の客間はたちまち警察の現地本部となった。その壁際に座る真琴の前には一〇人前後の捜査員達が同室しているのだが、用意された流しテーブルで雁首揃えて第二報を待ち構える中、せせこましくも所携のスマホで連絡をとったり、何かの資料に目をやっては悪態を吐いたり、対応だの対策だのと口走っては罵ったり。
何か──
騒々しい。まるで安っぽい刑事ドラマを見るような、そんなドタバタ振りだ。銘々は皆揃いも揃って、作業着や商売人風の服装で、一応犯人側や周囲の耳目に気を配った風ではある。が、
──とにかく。
落ち着かない。
騒々しさは、実は人数の割に少し手狭な部屋のせいでもある。これは一応外部からの目を気にして、外に接しないやや手狭な無窓居室を使用したためだ。それにより、気を遣う必要はないと言えばないのだが、それにしては立居振舞に気を遣わない
と言うか──
より端的に、がさつと言うか。そうした事にうるさい家柄の事でもある。
仮にも人様の家で──
それを目の当たりにさせられると、こんな場面でも先生を思い出してしまう。我ながら
──病気だ。
彼の男は、実は元警察官だったりした。外人部隊を除隊後、そのまま横滑りの格好で採用された、とは、外ならぬ男の親代わりと言ってもよい広島の片田舎の御大尽武智の話だ。
全く──
あんな形で、元軍人で元警察官とは。我ながら見事に何かを欺かれたような気分だが、あの武智がウソを言う訳もなければ事実だろう。その情報に触れたのは、昨年末のグアム旅行の直前だ。聞いた時には驚かされた一方で、思い返せば思い当たる節だらけ。母に言われるまでもなく、我ながら自分のニブさには呆れる外ない。昨春まで警視庁で勤めていたらしい彼の男は、間違いなく一般的な国民とは比べ物にならない程の荒事に接して来た筈なのに、どこ吹く風のような軽やかさで、あの梅雨時に真琴と出会った訳だ。
──ホント詐欺師よね。
今も目の前で賑やかな警察官達と同職だった事を全く思わせない、物静かで落ち着きのある据わり方をした男が元軍人だ
──とか。
その聞き覚えのない経歴通りの特異性こそが、彼の男の意外性に大きく寄与している事は最早疑いもないが、そんな殺伐とした世界に身を投じていた男が、愛すべき地味な素朴さで自分を慰め続けてくれた
──とか。
実はそれが、男の半生の中で精練された結果の、極めて稀な高い性質だった事に今更気づかされる
──とか。
そんな思いを募らせるのに、目の前の喧騒はちょうどいいと言えばちょうどいい。が、父は電話の前で我慢強く座り続けている一方で、母は呆れた風体でさっさと居間に引き上げていた。後追いで駆けつけた千鶴は、その母につき添わせている。
まぁそうは言っても──
ここにいる捜査員達は、特殊犯対応のスペシャリスト、と聞いている。人質を伴う凶悪犯を担当するのは、日本警察ではその名が知れた刑事部捜査第一課の分掌だ。それが首都警察の警視庁で特殊犯担当と言えば、通称SIT(Special Investigation Team)と呼ばれる
──特殊部隊員の筈なのよねぇ。
それにしては、贔屓目に見ても浮き足だっているようにしか見えないのは、それこそ事件の特殊性のせいなのだろう。
それにしても──
右往左往して解決出来れば
──世話ないわね。
これは意外に、頼りにならないのかも知れない。だからこそ、あのにっくき母の呆れ顔なのだ。何か情報がもたらされると、手持ち無沙汰だった面々がこぞってそれに取りつき、文殊の知恵を出し合っている。突っ走らない姿勢は慎重と見る事も出来るが、それにしては日和見感が強いようにも見え、要するに今のところやりようがない事の表れだ。そんな中で父は腕を組んで、現地本部の責任者の隣で電話を睨みつけている。いつかかって来るか分からない犯人からの続報を待たされる身だ。迂闊に離れる訳にも行かない。それからすれば、比較的自由が許されている真琴は
──まだマシ、か。
そんな被害者の母親は、壁際に座って状況の推移を拝まされ続けている。のだが、先程来やたら好奇で不躾な視線に晒されているように感じるのは、気のせいではないだろう。もっとも外では、その美貌美声で耳目を集めては我慢を強いられて来た身だ。今更どうもこうもないが、それがプライベートな空間である筈の自宅とあっては話が別だと思う事は我儘なのか。内も外も大差ない真琴の振舞だが、外では散々我慢させられている身だ。それならよそ者が分別を持って然るべきだろう。が、真琴の方が我慢を強いられている現状では、せめて感冒対策を大義としてマスクをつけ、顔の大部分が隠れている事を良い事に不機嫌面をさらけ出している。それでも目は隠れておらず口程に物を言っているのだろうが、最早取り繕う気にもなれない。そんな目が状況を拝まされたところで、希望など見出せる訳もなく。
こんなザマで──
どんな結果を突きつけてくれるのか。マスクの下の真琴は、何度目かの盛大な溜息を吐いた。自分がよく知る元警察官なら、
多分──
いや、
──絶対。
自分に寄り添った対応をしてくれる筈だ。が、今は目の前のがさつな特殊部隊員達にすがる外ない。そこでよぎる、
先生を頼れと──?
言った、母の言葉。
──そうか。
それは最終的に、決着をつける時の話だ。
突入作戦を──
目の前の、粗野な連中が、
──やる訳?
そう思い至った真琴は、マスクの下で盛大に顔を歪めた。
突入を伴う場合、日本警察が誇るもう一方の雄として名高いSAT(Special Assault Team)を投入する事もあるが、あくまでもSATは警備部所属。それは刑事部の捜査員とは異なり、基本的には機動隊員で構成される、あくまでもテロ対策ユニットだ。よって、SITと連携する事は基本的にはない。が、やはり例外はあるもので、SITだけでは手に余る時には、やはり連携する事もある。とは、真琴がネットで調べたものだが、
こんなんじゃあ──
SITもSATもないようが気がするのは、果たして的外れなのか。因みにこの騒々しい現地本部は、通報から一時間もかからず、夜陰に紛れる忍者のような周到さで訪ねて来た捜査員達によって開設された。中々熟れたものだ、と思ったのはそこまでで、後は現状のザマだ。
これなら本当に──
一線を退いた愛すべき元職の方が、いい仕事をするのではないかと思えて来る。が、元軍人で元警察官が、それぞれ現職の時に
──何をやってたのかしら?
真琴はそれを知らない。それなりに守秘義務や秘匿性を問われる職業柄でもある。それを本人以外の他人の口から聞ける訳もなく、詳しくは
あの詐欺師の口を──
割らせるしかない筈なのだが、どうやら母はその経歴の詳細を掴んでいるらしい。
あの女が──
今回の事件の手管の一つに入れようとする程のものを、あの先生がもっている
──とか?
その母が、目の前の同室者達を憂いているのであれば、少なくとも先生はそれ以上という事になる、のではないか。
あの先生が──?
それを少しでも疑う自分は、蚊帳の外という事だ。こんな事では
──ダメだ。
やはりただ籠城しているだけでは、何も変わらない。いや、周りは変わったのに、自分だけが四の五の理由をつけて変わろうとしていないだけだ。
壁際の真琴が一人問答を続ける中、一人の捜査員が近づいて来た。
「各地の防犯カメラを解析結果が出ました」
と言う事らしい。
捜索願を受理後、警察がどの程度追跡していたのか知らないが、状況の急展開で流石に本腰を入れたと見えるその解析担当とは、やはり近年俄かに話題が上がる事が多くなった、同じ刑事部内のSSBC(Sousa Sien Bunseki Center/捜査支援分析センター)だ。横文字好きの日本人の特性がモロに出た、その取ってつけたようなローマ字の頭文字を並べた略称の部署の面々は、そうは言っても防犯カメラや携帯電話情報など、あらゆる媒体の情報分析のスペシャリスト集団として名が通り始めている。確かに本腰を入れたその働き振りは中々迅速で、夜明け前には、司法修習先から兄宅までの帰宅経路上の某駅で、真純が三人組の男達に連れられて車に乗り込む状況が発見された。が、その結果というのが実に芳しくない。
「犯人達は、ハワイ行きのクルーズ船に乗って逃亡したようです」
というザマだ。
「何ですって──!?」
先週末の金曜日の夜、犯人グループを乗せて横浜港を出港した高坂グループ船会社所有の二〇万トン級大型クルーズ船【クイーンパシフィック】号は、真純の忙しさを信じ込まされていた高坂家の不明を突くように太平洋を東進し、いまやハワイ目前、とか何とか。
「クイーンパシフィックって、確か船籍は──」
「流石にお詳しいですな」
と、余計な感心を示す捜査員の口から出て来た国名は、よく耳にする中米の便宜置籍国だ。
「──見事な皮肉ね」
現地本部の現況は、どうやらそこから先のアプローチに困っている事の表れらしい。
船籍とは、文字通り船の国籍だ。その船上で適用される法律は、基本的に船籍を置く国のものとなる。その上で、実質的な船主の国籍とは異なる「便宜上船籍を置いた国」を【便宜置籍国】と呼ぶ訳だ。更に、こうした船は【便宜置籍船】と呼ばれる訳だが、これの何が皮肉なのか。その一番の理由は、その船で適用される法律は実質的な船主の国籍ではなく、船籍を置く国の法律という事だろう。これは、国際船舶が基本的に「国家の領土主権の効果が自国船舶・自国航空機内にも及ぶ」という、国際法でいうところの【旗国主義】の原則が採用されるためなのだが、要するに真純が乗る船とは日本ではない他国であって、
「治外法権の壁に直面させられる事件は、ない訳ではないのですが──」
それが人質事件となると、これは中々厄介だ。
「国内法が通用しないのでは、流石の刑事さん達もお辛いですわね」
鬱積の一端が覗いたような真琴の呟きに説明をしてくれた刑事が、バツ悪そうに顔を歪めて頭をかいてみせた。一見して一番年嵩のこの男は、どうやら現地本部の責任者らしい。ゴツくて如何にも精悍な厳つさだが、その中にベテラン風情の渋さと愛嬌を伴っている、ように見える。
「こういう時にはどうなさるの? コロ○ボさん?」
「彼の名物刑事の、粘り腰の見せどころではあります」
基本的に国家における犯罪捜査権とは、その国の主権が及ぶ範囲内に限られる。「主権が及ぶ範囲」という文言が味噌で、その意味を説明するための分かりやすい例は、日本にある各国の大使館の扱いだろう。条約により不可侵権が確約されている各国の在日大使館の事となれば、当然日本の主権は及ばない。よって当然、日本警察の捜査権も及ばない、となる。逆を返せば、日本が世界各国に構える日本大使館や領事館等の在外公館は日本の主権が及ぶ範囲、つまり日本警察の捜査権も及ぶと解される訳だ。
他方、誤解されがちなのは在日米軍基地だろう。「米軍基地内は米国だ」とよく言われるが、あくまでも事実上の話だ。これは「米軍基地と基地内に駐留している米国人には、基本的に日本の法律は適用されない」とする、所謂【日米地位協定】の解釈の拡大がもたらした誤解と考えていい。確かにその字面通り、基地内は米国軍法に基づき運営されており、一見治外法権のように見える。が、実はそうではなく、日本の業者が米軍基地内で行う工事の許可や届出は日本の法律に基づく必要があるし、基地内の事件事故に関しても一定の制約下ではあるが、日本警察の介入は可能とされている。が、実務的には殆ど有り得ず、よって事実上の治外法権と言い切っても間違いではない状態となっている訳だ。
現代の高度な法の概念は、捜査権一つ取り上げただけで小難しい根拠の羅列とその解釈が必要になってしまう話だが、実は日本には古来、それを一言で分かりやすく表してしまう諺があったりする。
「『郷に入りては郷に従え』って事じゃありませんの?」
と、真琴が嘯いたそれだ。まさに、公海上を航行している某中米船籍の船上は、その国なのであって日本ではない。その原則に例外はないのだ。
「実は日本船籍だったって事に出来ればいいんですがね」
「中々笑えない冗談がお好きのようですね、と申し上げればいいのかしら?」
「失礼しました」
いくら優れた部隊を有しようとも、それを行使する権利を有しない。無理に行使しようものなら、主権国家の主権を害する行為である事は明白。それでも勝手に押し入れば、入国段階で密入国の謗りを受けるような暴挙だ。
「捜査協力を申し出れば──?」
「それが、芳しからずでして──」
「──で、しょうね」
だからこその、目の前のザマという事だろう。他国の捜査機関に犯罪の捜査、鎮圧の権を委ねるなど、自国の威信に関わる問題だ。それこそ事前に個別の条約や協定を結んでいれば、あるいはという話であって、現在進行系の犯罪を前にどうにかなるものでもないだろう。
一方で、刑法や重大犯罪には【国外犯規定】を有するものがある。が、あくまでもそれは、他国における邦人の犯罪や邦人被害にかかる犯罪を、日本の刑事実体法に基づいて処罰する目的のものであって、日本の捜査機関による他国での捜査権を指し示すものではない。他国には他国の刑事手続が存在するのだ。日本の逮捕状を持って他国に乗り込み犯人を逮捕するなど現実として有り得ない。こういう時は、
「とりあえず、国際手配じゃございませんこと?」
「鋭意準備中です」
と言うそれは、仏国リヨンに本部を構える【国際刑事警察機構(ICPO/通称インターポール)】に、警察庁経由で国際指名手配する。その根拠は、日本の捜査機関が日本の裁判所へ逮捕状請求する事で得た日本の逮捕状となる訳だ。が、その手続きは、日本警察の手が及ばない宣言をしたようなものだ。後は公海上で何か起これば船籍国が対応。船が何処かに到着したならその到着国が対応する。
「犯人の狙いは、そこにあるように見えませんこと?」
「高坂さんをごまかせるとは思っておりませんので──」
滝川、と名乗った五〇前後の責任者は、流石に真琴の素性を知っていたようだ。それを踏まえた上で語られた私見によると、船籍国である某中米国の警察とは、日本のような先進的な自由民主主義国家の民主的な警察ではなく、
「殆ど戦時中の憲兵に近い組織です」
つまり、何か事が起こると相当手荒く、それは真琴の見解とも一致する。
一方で、予定通り船の目的地であるハワイに向かったならば、米国領海に入った段階で米国連邦法及びハワイ州法の適用下だ。つまり、
「──FBIか、SWATの出番かと」
「沿岸警備隊もございますわよ」
こちらは手荒いと言うより、躊躇しない、容赦しない。更に言えば、犯人諸共被害者まで殺されるのではないか。最後の沿岸警備隊とは、日本で言うところの海上保安庁だ。同じように海上警察権を執行する機関だが、日本のそれと決定的に違うのは、
「殆ど軍隊でしたな」
「それも世界有数に精強なんですのよ」
と言う事だったりする。
領海内における外国船舶の基本的な立ち位置として、外国船は沿岸国の領海内においても、その平和、秩序、安全を害さないことを条件として【無害通航権】をもっている。分かりやすくは、沿岸国に何ら干渉を受ける事なく航行する事が出来る権利だ。つまり、外国船は基本的に他国領海内においても、通常航行している限り、旗国主義に基づき船籍国の国内法が適用される。
一方で領海を有する沿岸国は、領海にも当然に及ぶ主権に基づき、領海使用の条件を定めたり航行を規制する事が出来る訳で、前者との権益において対立軸だ。が、一般的には、後者の主権は外国船の無害通航を妨害しないよう一定の国際義務が課されている。
結果として現状では、他国領海内を航行中の外国船内は基本的に外国だ。が、それはあくまでも、通常航行中の外国船舶に適用される国際慣習にして原則。有事が発生している船舶には当然、
「──この原則の便益は適用外ですわね」
と、真琴が念押しした通りだ。その上この慣習原則は、国連海洋法条約に基づくものだが、
「そもそもアメリカは、慣習上条約には従っているようですが──」
批准しておらず未締結。つまり、クルーズ船が米国領海に入れば、ゴチャゴチャした決まり事や考え方に構わず、容赦ない沿岸警備隊の苛烈さが牙を剥く、
「──という構図ですな」
と言う滝川の顔が、更に苦る。
確かに米国の治安機関は優秀で、その執行力は抜群だ。が、未だ根強い人種差別が存在している御国柄でもある訳で、それは度々物議を醸す同国内における有色人種に対する執行の有り様が物語っている。そこへ日本の一企業が所有する中米船籍のクルーズ船が、悪人を抱えたままハワイを目指している。加えて乗客の多くは、金と時間にゆとりのある類の、緩み切った日本人。
「何をされたものやら──」
真琴の口が、嘆息と共に盛大に歪むが、マスクの下の事だ。が、そのせいで、いつも以上に声に皮肉が滲む。
忌々しい──
までの、便宜置籍主義の弊害だ。船に限って便宜置籍船なるものが横行する訳は、便宜置籍国になるような国は、船に関する規制や手続きが緩慢という点にある。と言うか、法体系全体としてそんな具合だ。よって、船を維持するための手間も金もかからない。加えて物価も低ければ人手も物も安くて済む。船主にとって万事好都合のこれは、船主の国の厳格な法規制から逃れるための脱法行為とも言える訳で、事実、違法行為の温床となるケースも多い。
──思わぬ因縁ね。
国連勤めの経験を有する真琴だ。便宜置籍船絡みの問題が、なくはなかった事を思えば、それを放置した過去の自分のツケを、忘れた頃に突きつけられる事のザマというヤツだろう。しかもそれが、実家グループ会社の船舶だとか、中々皮肉も効いている。今の面倒臭い現状の全ての元凶は、経済大国日本の拝金主義の賜物だ。世の国際化の波に乗じての事だ、と言えば聞こえは良いが、結局のところフェアトレード的観点で言うところの労働力の搾取に外ならない。それを知らない程高坂は浅はかではないのだが、これもまた利益という甘美な響きに溺れた一つの結果だろう。
何にしても──
船籍は、グループ内船会社が抱える中米国の現地法人によって、同国が便宜置籍国になってしまっている。その隙を突いたような犯行とこの状況が、偶然の産物にしては出来過ぎているように見えるのは気のせいなのか。
「一応、被害届出人の意向を確認するよう、本部から申しつけられておりますのでお伺いするのですが──」
と、回りくどい滝川も、所詮は巨大組織の駒の一つだ。圧倒的に被害者側に不利な状況を思えば、
「身代金の事なら心配いりません」
その確認ぐらいの事だろう。が、
「出来れば日本の捜査機関の行き届いた活動で、迅速な解決を望みたいものですわね」
今時営利誘拐など時代遅れも甚だしいが、それでもそうした部署を構えている警察にして天下の警視庁だ。精々日頃の訓練の見せどころではないか。
「分かりました。ただ、身代金は──」
「戻って来ないのは承知の上です」
一億米ドルもの金を現金でやり取りする訳もなければ、既に架空口座を用意しているだろう。何せ一〇〇ドル紙幣で一〇〇万枚分。紙幣だけの重さで約一トンだ。それを始めから警察が算段出来る訳もなければ、振り込んだ瞬間から資金洗浄されて、あっと言う間に跡形もなく消え失せるに違いない。
「──そうならないよう、鋭意努力します」
真摯に答えた滝川が、むっつり顔の父の横の席にまた戻った。現地本部の責任者は、
──それなりか。
と思った真琴だが、それでも警察の体たらくを見逃す訳にはいかない。それを先生に言及したら、
──どんな言い訳をするかしら?
こんな状況でも、またその男を思い出してしまう自分は、やはり病気だ。マスクの下で、今度は苦笑する真琴が、静かに父の傍に寄る。
「一〇分で戻るから」
と耳打ちすると、そのまま客間を出て外へ向かった。
少し思い出しただけで身体がほてる
──なんて。
呆けていて良い知恵が浮かぶ訳もない。早暁の冷気で気合を入れ直した方がいいだろう。
同日午前九時を回ったところで、また一つの進展がもたらされた。
「犯人グループが割れました」
説明を始める現地本部責任者滝川の前には、ずっと本部に詰めていた真琴と父は当然の事、浮かない顔をする母とそのつき添いの千鶴も含めた高坂家の四人。それが完全な私的空間である筈の居間で、赤の他人を招き入れている事の異様もそうなら、そこで待機している母が「寝不足で身体が重い」と言った、その理由もおかしい。八〇超の高齢を感じさせない妖怪女が、そんな世迷言を吐く訳もなければ、要するに現地本部へ足を運ぶ気にもなれない程の、捜査の不手際に対する無言の不支持だろう。
その捜査側の畏まった説明が始まった二言目で、
「主犯は、谷岡敏一」
四〇歳、と伝えられたその男は、高千穂隆介現外務大臣の元公設第一秘書、と出てきたものだから、これには流石の面々も顔をしかめた。
「──何ですって?」
「ご存じ、でしたな」
事件に絡む周辺の人間関係など、当然洗い尽くしている警察の事だ。現外相が真琴の元夫だという事ぐらい、当然把握している。
「動機については依然捜査中ですが、何か心当たりがありませんか?」
尋ねられた面々は、それぞれがそれなりに心当たりを語る事が出来る、そんな犯人だ。
「主犯はいつ、元公設秘書になったのでしょう?」
「先週頭のようです」
突然首になったらしい。
やっぱり──
それは過去に埋もれた元秘書ではなく、ついこの間まで現役秘書だった、つまり、
──あの男か。
サカマテの専務室で先生と一緒に盗聴した経緯を、思わぬところで思い出す真琴だ。その男が直近で首になった。
要するに──
トカゲの尻尾切りだろう。先週頭と言えば、フェレールと高坂の裏取引が成立して、高千穂が画策していた次世代戦闘機の件が白紙になった直後だ。確かに、先生が入手した盗聴データでも少し耳にした事があるその男のやり口は、中々ひどいものだった。インサイダー、贈収賄はお手の物で、陰湿にして大胆な手口は、良心の呵責どころかそもそも良心などないような、叩くまでもなく埃に塗れている、そんな悪党だ。それが主犯なのであれば、これが逆恨みでなくて何なのか。汚れ役が用済みで捨てられた典型だ。そのついでで、主からあらゆる罪を被らされるのでは、流石の悪党も堪ったものではないだろう。多少はヤケになった上での犯行なのだろうが、所謂高飛びの手口としては、不謹慎を承知で言えばアイデア自体は悪くない。各種盲点をついたところを見ると、中々の悪知恵だ。
こんな心当たりを、しばらく籠城して浦島太郎になりつつある真琴が思いつくのだから、母美也子などは脳裏で煮えくり返っている事だろう。が、そこはお互い、余計な腹は探られたくない身内の傷だ。それを思えば高坂も少なからず尻尾を切った側にして、その切った尻尾に思いがけず噛みつかれた構図。
こんなところまで──
皮肉に皮肉を効かせてくれる、嫌な事件だ。まるで色々なツケが集約されているような、見事なまでの負の連鎖。これが外二名による犯行だと言うから、敵も中々大したものだ。そこは腐っても高千穂の秘書だった男という事だろう。頭も切れれば度胸もあるその主犯の連れは、首都圏を根城にする、所謂【半グレ】と呼ばれる準暴力団認定組織所属の二人らしい。現在それら三人の確保を、ICPO経由で米国と船籍国に協力依頼中、と言う事で滝川の説明は終わり、唯一のよそ者はそのまま居間を退出した。
「真純もとんだとばっちりね」
すぐに誰に言うでもなく漏らした真琴の独り言が、後に残った面々を抉る。今の真純の状況は、本来外ならぬ真琴自身が負わされていたものだ。高千穂の悪巧みとそれを利用し黙認していた母の謀議が瓦解した余波を、フェレールに守られた真琴の代わりに比較的狙いやすかった真純が受けた。そうなって初めて可視化される悪巧みと謀議の罪深さは、そっくりそのまま母に対するこの上ない皮肉だ。が、火を吹くと思われた母が、ここへ来てまた、
「あなたの殿御に連絡をつけなさい」
と、答えた。
「また何を──?」
非常時の今、これでも色々と抑えている真琴だが、この期に及んで先生を担ぎ出そうとするその魂胆が、理解出来ない以前に頭に来る。
「いい加減痛い目に遭わないと、逆鱗だと分からない程ボケた訳?」
これも相当抑えた方だ。いつもなら、怒り心頭で口汚く罵るか、手近な物を投げつけているだろう。が、自分の身代わりで災難を被っている真純を思うと、まずはその身の事を考えてやらねばならない時なのだ。そんな時にこの妖怪女は、今まで散々バカにしてくれた真琴の愛すべき田舎者を、どういう神経のどの口で担ぐのか。
「くだらない因縁つけて、一民間人を巻き込むような事じゃないと思うんだけど?」
そんな耄碌をするような女ではないのだから、高千穂主従ではないが、こちらも腐っているのだろう。
「真純の身を第一に考えての事です。この期に及んでそれ以外に何か含みがある訳ないでしょう」
「どの口がそれを言うのかしら?」
含み塗れの中で暗躍し続けた結果の、今の御座にいるような女の事だ。
「困ったものだわ。いつまで経ってもあなたのお耳は、私の言葉を聞こうとしないのだから」
何処までも実の娘をバカにしてくれるこの女とは、今更ながら本当に実の母なのか。
「まぁ、この際だから私の事はいいわ──」
自分は安全なのだ。が、先生はそうではない。
「フェレールとの約束を、あなた自身が忘れてどうするのかしら?」
「それを難癖つけて破ろうとしてるのはそっちじゃない!?」
真琴とその交友者の身の安全の確保が、裏取引の条件の一つだというのに、これが難癖でなくてどの口は何だと言うつもりなのか。元軍人で元警察官という先生の変わった経歴が何だというのか。がさつで無骨な形が技量や力量に比例すると言わんばかりの現地本部の警察官達を見れば、現職時代の先生は、事務作業専門の行政職員だったのではないかと思えて来るような大人しさではないか。
そんな地味な男を──
腹いせに担ぎ出そうとするその性根の悪さはどうしたものか。その面の皮の厚さこそが、母美也子の真骨頂と言えばそうしたものだが、それでもその顔が何処かしら自分に似ている事が、今程煩わしいと思う事もない。
「あなたはまだ何も分かってないのね」
大きく嘆息した母だが、諦めの悪さは筋金入りだ。このまま話を続けたところで、
「どうも話が噛み合わないと思ったら、つい人間と話をしているつもりになってたわ」
伏魔殿で人を人とも思わず、邪魔だと思えば容赦なく除いて来た人外の魔物のような女だ。
「次にそのひん曲がった口があの男の事を弄んだ時が、御母上様のこの世で最後の尊い御声になると思うわ」
何かを押し殺す真琴が、震える声で最後通告すると、そのまま居間を後にした。
──もう限界ね。
自分でもよく耐えたと思う真琴だ。外ならぬ真純の大事の真っ只中だが、これ以上の同室は犯人より先にこっちが逮捕され兼ねない。真琴の手の神経は、対母では反射で何をしでかすか分からないところまで来ている。逃げるようで癪に障るが、今はとにかく真純の大事だ。
そんな事分かってるわよ──
分かってはいるが、何もかもが無性に悔しいのは気のせいなのか。
客間の現地本部に戻った真琴は、相変わらず壁際で思案を巡らせていた。
それにしても──
今回の事件、犯人の大胆かつ周到さもそうなら、被害者真純の落ち度も光る。被害確認作業で、捜査員から真純が連れ去られる様子を捕らえた防犯カメラの映像を見せられたが、真純は全くの無抵抗だった。
──何があったのかしら。
数百年の系譜を誇る富豪高坂の歴史において、今回のような営利誘拐や強盗の被害など、何度となくあったのだ。もっとも近代に入ってからは少なくなり、現代に至っては流石にその記憶は遠い過去のものとなったが、明治以前の世では常にそのリスクに晒されていたと言っていい。中にはそれにより命を落とした者もいたが、商家に転じながらも武家の株を維持し続けた高坂だ。常に自主防犯防災を忘れなかった。何せ未だに「その誇りにかけて、領地領民を守るために存在する」侍の存在意義を、苔むした学問の教えにより叩き込まれるような家だ。その無駄なプライドの高さは、一族を構成する者全員の護身スキルと比例する。その鍛錬を怠る者は、外出が許されないどころか、それこそ今の真琴ではないが冗談抜きで生涯籠の鳥だ。そんな無駄な厳しさを維持する家の
──跡取りだってのに。
一々一族に反発する真琴は、皮肉にも当代の家中では突出した使い手で、唯一肩を並べるのがその子真純だった
筈なのに──。
合気道の深い領域を修練した真琴に対し、剣道に傾倒した真純は両親に似ず小兵に育ったが、競技化された剣道ではなく古流剣術をその身に叩き込んだ、中々侮り難い息子だ。それこそ
あんな連中なんか──
真純の手にかかれば訳もない筈なのだが、どういう事なのか。真純を心配に思えば思う程、そんな疑問が頭をもたげる。警察の手法に即効性が期待出来ないのであれば、現状は真純の自助努力の方がまだ期待値が高い、と思いたいところだが、
先生を頼れって──
母も何を言い出したものか。
どう考えてもフェレールとの密約の腹いせとしか思えない一方で、真琴の交友に何かするようなら、フェレールとの話は白紙になる訳で、その鍵を握っているのは外ならぬ真琴だ。が、それでも気になる母美也子の執念深さ。話が動き始めたばかりだというのに、既に先生に対する拘りを見せているところが、
とにかく──
怪しい。元気とは言え、それなりの年の母だ。目の黒いうちに、やり返したいのだろう。こんな事では
いつまで経っても──
宗家で睨みを利かせなくてはならない。それではいつまで経っても、
──会いに行けない。
こんな時でも、気を許すと焦がれてしまう。全ては先生に拘る母のせいだ。それを思い出させ苦しめるのも、憎らしい母の策なのか。
忌々しいったら──
まだ別れて一か月と少しだ。思いは色褪せないどころか、
──膨らむ一方だ。
堪らず片手で目頭を覆う真琴がベソをかいている事に、右往左往する捜査員の何人が気づくだろう。そのうちの何人が、息子ならぬ他の男の事だと気づくだろう。全くもって返す返すも
──ひどい母親だ。
こんな事だから、さっさと親離れされてしまったのだ。
現地本部にいても、何も出来る事がない自分。いつまで経ってもかかって来ない犯人からの第二報。予定通り航行を続けているクルーズ船。真純を監禁したまま何処まで行くつもりなのか。大人しくハワイで米国捜査機関の網にかかる訳もなければ、何処かのタイミングで何らかの動きを見せる筈だ。それが何なのか知らないが、何れにせよ船で二次犯罪を起こせば派手な事になるだろう。船主は実家のグループ企業だ。早い段階で捜査協力させてはいるが、現場には、船長以下限られたクルーにしか事情は伝えていない。下手な事をされて犯人に居直られても困るからだ。
──どうする。
これがジリ貧でなくて何なのか。このままだと何れは洋上決戦になると考えて間違いない。となれば、ここまで妙手を打つ犯人だ。熟練度が高く容赦ない捜査機関を有する、米国の司法権限が及ぶ範囲内での勝負はしないだろう。犯人達がどんなパスポートで出国しているのか知った事ではないが、真純を拉致しているのだ。それに関して警察が何らかの逮捕状を取れば、その時点で犯人達は旅券法上の【旅券返納命令】に該当する事になる。「その滞在が当該渡航先における日本国民の一般的な信用又は利益を著しく害しているため、その渡航を中止させて帰国させる必要があると認められる場合」と謳うそれだ。外務大臣が発するその命令は、正規のパスポートでさえ無効にするのだから、何処の国へ逃げようが入国の段階で即不法入国となり即身柄拘束。強制送還の対象となる。が、外務大臣の元公設秘書の事だ。パスポートに絡む動きは当然折り込み済みだろう。既に身代金を要求しているのだから、その手の包囲網は理解している筈だ。
となれば──
とりあえず船が動き続け、米国領海に入るのを嫌がるだろう。その前に逃げるか、進路を変更させる。太平洋の真ん中でどうやって逃げるのか見物だが、米国領海が目前の今、まずは船をどうにかする必要に迫らせるのだから、とりあえずシージャックを宣言しそうなものだ。無駄に多い乗客とクルーを必要最小限残して他は下船させれば、身軽になった船は食糧も燃料もそれなりにゆとりが出る。多過ぎる人質は、圧倒的少数の犯人側が不利にならないとも限らない訳で邪魔なだけだ。つまり犯人が望む所へ逃亡する足がかりは、まずは船の自由を奪い邪魔者は排除する事となる。そのためのシージャックが公海上なら、捜査権を有するのは船籍国。それが長期戦となると、必ず何処かで突入作戦となる。それが戦時中の憲兵のような大雑把な警察機関をもつ国の話なら、
どんな結末になるのやら──
見通しは暗い。そもそもが突入作戦となれば、警察ではなくより単純に軍が投入されるだろう。それが対反政府組織や対ゲリラ戦が日常と隣り合わせの、荒っぽい国の軍のやる事なら、
──ろくな事にならない。
つまり、長期戦はダメだ。が、短期決戦と
──言われても。
そもそも太平洋のド真ん中を航行中の船に、どうやって乗り込めばいいのか。
──ダメだ。
何も思い浮かばない真琴は、壁にもたれて顔を歪め、頭を掻きむしった。
同日、午後三時。
気がつくと、もう昼を過ぎていた。
壁際にへばりついて座っていた真琴が、父次任と共に居間に呼ばれ、何度目かの状況説明が現地本部の滝川から語られ始める。
「現在クルーズ船は、ハワイホノルル港まで約一二時間の位置を予定通り航行中でして──」
日本時間翌午前三時頃、到着予定らしい。
また、現時点の警察の方針として、日本警察は静観と決まった、とか。高坂家の要望に添うよう短期決戦、警察の特殊部隊によるクルーズ船突入作戦も検討されたようだが、最後はやはり、公権力を主権が及ばない他国で行使する事に希望が見出せず断念したらしい。無理もない。断りもなくやってしまえば、明白な内政干渉だ。相手国と外交関係に遺恨を残すどころか、国際的に今後日本は「そんな無茶をする国」と見られるようになる。一事件のために、日本はそんな暴走をする国ではない。そんな事を論ずる前に、日本警察の特殊部隊では、
「──洋上の船に突入する技術は限られます」
小船で近づくか、ヘリから懸垂降下するか。どちらにしても太平洋の真ん中にいるクルーズ船にそれをやるには、日本警察の力だけでは無理だ。どちらも航続距離に限度があり、日本から持ち込むには余りにも遠く、沿岸国の協力は必須。
「その辺りの調整が、中々思うように進まないもので──」
犯人の要求から半日。被害者の家で、散々右往左往して賑やかしていながら、
──出来ないと来たか。
静かな居間で、マスクの中の真琴の嘆息が、意外な大きさで耳をついた。
犯人グループを突き止めたまではよかった。が、日本警察はそこが限界だった。そこから先は法を尊ぶ民主的な法治国家には無理という事だ。こうなってくると、今更ながらにそんなものにすがって生きて来た自分が実にバカらしい。無法者に
──法は無力ね。
この世は未だゲンコツがまかり通る、そんな野蛮な世という事だろう。
「──捜査員を、米国と船籍国へ派遣中です」
両国とも日本警察からの捜査協力要請には応じたそうだ。が、即座に臨戦体制に入った流石の米国の一方で、船籍国は、
「シージャックが宣言されない限り、静観するそうです」
お世辞にも乗り気ではないらしい。突入する技量も乏しければ金もかかる。太平洋のど真ん中へ突入要員を派遣するだけの金とリスクが惜しい。要するに船籍国にしてみれば、たまたま船が自分の国の国籍を名乗っているだけで、状況との関係性は希薄だ、と言いたいのだろう。犯人も被害者も日本人なら、乗船客も時間と金を使ってのんびり船旅が楽しめるような、平和ボケした富裕層の他国民だ。貧しい自国とは極めて関わりが薄く、それこそ得意の金で何とかしろと言われんばかりの、そんな冷淡さが透けて見える。
「その──いくら出せるのか、と言って来まして」
挙げ句の果てには、やはり金を要求されたらしい。途上国の国家機関にありがちな話だ。
「──以上です」
滝川が非力を詫びる一方で質問の有無を尋ねるが、誰も口を開かない。
「では──」
と、滝川が腰を上げた時、違う声に名前を呼ばれた。外ならぬ母美也子だ。
「あなた、代案はないの?」
明らかに不服気な声色だが、その声の女が自分の名前を呼ぶなど。父に呼ばれる以上の嫌悪感が、胸から喉へ一気にかけ上がって来る。
「代案も何も──」
やりようがないのだ。それをどうしろと言うのか。嫌悪感諸共悪態を吐き出す寸前で、
「──ここまでのようね」
と母に被せられ、簡単に鬱憤が行き場を失ってしまった。小さく溜息する母のすまし顔が、哀れんでいるようで寂しげで、それでいて嫌味を感じないなど珍し過ぎるのも程があろうものだ。そんな顔の女が、珍しさのどさくさ紛れとしたものか。
「分かりました。これからは私が采配します」
と、有り得ない事を宣言した。
「はぁ?」
真琴に限らず、その場の人間が何かを言い淀んでは、次の言葉が出てこない。
采配って──
いくらその名の通った策士とは言え、国家機関を差し置いて何を言い出したものか。事態は母が得意とする、政財界の裏で人を操るような場ではないのだ。確かに現時点の被害者は真純だけだが、犯人達がシージャックに及べば、被害者数はクルーズ船の乗客全員に急拡大する。下手を打てば、その数千人の命が危ういのは当然として、事後の賠償まで負わされる可能性が高い。
そこへ首を突っ込んで──!
どうするのか。国家であれば、賠償の原資は税金だ。が、素人のそれは当然身銭だ。もっとも高坂はそれが可能な財力を有するが、何も問題は金だけではない。要するに素人の采配を、命を左右される側の人々が納得出来るのか。より端的に言えば、
「どう責任取るってのよ!」
と言う事になる。民事賠償や刑事罰など、個人が取れる責任には限りがあり、大抵の場合その責任は代替措置に過ぎない。いくら責任を負ったところで人命は戻らず、宗家や会社の信用もそうなら、外交に関わる問題を民間人に委ねた日本が今後世界の国々からどう見られるのか。
「一応言っておくけどね──!」
耄碌お婆の世迷言で、世間は許してはくれないのだ。が、母はそんな皮肉に構わず、
「大至急、不破さんに連絡を取りなさい」
と被せてきた。話が噛み合わないのはいつもの事だが、その中にも先生の事をきちんと名前で呼ぶなど。それならそれで調子が狂う。が、この期に及んで、
「まだそれを言うか!?」
勢い余った真琴が、両手でテーブルを叩いて立ち上がった。いい加減うんざりだ。が、頭の中で一気に何かが弾けかけた瞬間、今度は滝川の声がそれを止めてくれた。
「不破とは──もしや、不破具衛の事ですか?」
「そうです。警部さん、電話番号をご存じですか? この跳ねっ返り娘は、どうしても教えたがらないので」
「え? 不破が今何処で何をしているのかご存じなのですか?」
何やら勝手に話が進み始めた中で、すぐに反応した滝川が母に歩み寄り、自身のスマホの画面を母に見せる。それを見た母が、代表電話の子機を手にとり早速電話だ。が、溜息と共にそれがすぐにスピーカーモードにされると、
"おかけになったお電話番号は──"
という、お馴染みアナウンスが流れ始める。
「──面目ありません」
頭を下げる滝川が頭を掻きながらも、
「そりゃ変えるか」
と、こちらも溜息だ。
「あなた方も仕方がないですね。──真琴」
「だから何だってのよさっきから!」
一々調子を狂わされるが、それでも人生最大級の鬱憤が溜まって爆発寸前の真琴だ。それを分からないとは言わせない、その元凶の女の口は、ここへ来ても全くブレない。
「この際どんなチャンネルでも構わないから、とにかく大至急不破さんに連絡をとりなさい」
「理由を言え!」
どうしてこうも噛み合わないのか。理解不能で気が狂いそうだ。が、それに答えたのがまたしても滝川だった。
「不破のヤツなら、クルーズ船にさえ行く事が出来れば、一気に片づけるでしょう」
「──え?」
「あれで我々の先生でしたから」
「先生って──」
思わぬ所で、思わぬ男から、二人だけの通り名を聞かされるなど。
そんな──
その呼び方は、あの山奥の町の中だけの話ではなかったのか。勤め先の施設で、年端もいかぬ子供達にいじられるような、そんな何処か惚けた先生だった
──筈なのに。
広島の山奥から遠く離れた煤まみれの東京で、たった今あの男を先生と呼んだ男は、警視庁が誇る特殊部隊の警部だ。
私だけの──
先生ではなかった事に対する驚き以上に、
「──人違いでは?」
という率直な思いが口から漏れ出る。が、
「字面だけ見れば、あんなジジ臭い名前の男が他にいるとは思えませんがね」
と嘯く滝川は、先生と同姓同名の男を未だかつて見た事がないらしい。
「は、はあ」
と思わず嘆息した真琴を見た滝川が、途端に吹き出した。
「──失礼。いや、アイツもそうやって、よく嘆息をついていましたので」
何処かしら腰の据わりの悪そうな、
「名前の音通りの、フワフワそこら辺を揺蕩っているような──」
そんなおかしな男だった、らしい。
「──間違いないでしょう?」
「そう、ですわね」
毒気を抜かれ、目を瞬いているところへ、
「今は思い出に浸っている暇はありません」
そんな母の嫌味で現実に引き戻される。
「事情は追って説明します。現時点が最後のチャンスと思いなさい。さあ早く! 急ぎなさい! 真琴!」
「は、はい」
先程まで爆発寸前だったのがウソのようだ。全ては先生の意外性のせいだろう。あの母に素直に返事をするなど。気づいたら真琴は、まだ着ていたガウンのポケットからスマホを取り出していた。
ああ──
そうだ。夜中に起こされたままの格好だったのだ。着替えどころか化粧もしていない。ジロジロと見られていたのはそれもあったのだろう。
──それにしてもよ。
ガウンはファスナーで襟を立てて顎まで上げていたし、色合いもそれこそ誰かさんがよく着ていた服の色に似た地味な部屋着で、ニット仕立てのロングワンピースに見えなくもない。化粧にしても、マスクで隠していたのだ。
そんなに──
ジロジロ見られる程のものではないと思うのは気のせいなのか。そんな、何処か不躾な特殊部隊員達からも先生と呼ばれるボンヤリ男が、ではこの形を見たら、
──何て言うかな。
武智の電話番号をタップしただけで、真琴の脳内に広島の山奥の情景が広がっていく。
同刻。
非番の具衛は、相変わらず山小屋でのんびりしていた。さっさと風呂に入ってジャージ姿で火鉢を抱え、居間の座卓でいつも通り。図書館から借りた本を読み耽っている。今日も後は、晩飯を食って寝るだけの、これまで通りの単調な日常だ。一大決心でフェレールへ押しかけたと言うのに、
意外に何事もなく──
変わりない日々。
フェレールと高坂重工の話は、世間のメディアで知る程度だった。驚くべき早さで進んだ話は、「フェレールの資本力なら、今の高坂重工は買い頃なのでは?」
という具衛の一言から始まったものだ。経営権さえ奪ってしまえば、次世代機絡みのいざこざも覆せる。有無を言わせぬ大金で弱っている相手を捩じ伏せるという何とも嫌味なやり方は、誰でも思いつきそうな策だ。技術で世界を席巻したメイドインジャパンの雄の、その技術力がお買い得の状況を、資本力を有する他社や資本家があえて避けて来たのは、外ならぬ稀代の女フィクサー高坂美也子の逆鱗を恐れての事と言い切っていいだろう。数百年続く由緒正しき伝統を重んじる武家にして商家は、明治維新後は軍需財閥として一大栄華を築き上げた。戦後の大混乱期で一次的に没落したが、その時でさえ他者の施しを受けず劇的な中興を果たし、高度経済成長を牽引。そのグループの基幹企業である高坂重工などは、まさに技術立国の立役者だ。それが時を経て傾きかけているところへ乗じて、金だけを頼みに踏み込むなど。足を切り落とされるどころか下手をすれば取って食われるのではないか。そんな怖さに踏み込める者、高坂の胸襟を開ける者はいつ現れるのか。親戚関係にあったフェレールでさえ、家業レベルでは関係性を深める事が出来なかった、そんなそれこそ埃を被った腫れ物のようなお話に、具衛が埃を被ったご褒美名目で横槍を入れた、
「──それだけの話でしょう?」
誰もが口を閉ざし続けていた事の言い出しっぺに具衛がなった。それだけの事だ。単身身軽で後の事などどうとでもなる自分の一言でみんなが幸せになるなら
「──それでいいじゃありませんか」
と、具衛はフェレールの背中を押しただけ。後の事は全部アルベールとジロー、というか、知恵袋の後者のプランだろう。背中を押しただけの具衛は、詳細を知らされなかったのだ。高坂美也子の目が具衛一人に向く事を恐れたフェレール、というか、ジローの温情だろう。
以来、フェレールとは連絡すらとっていない具衛は、渦の中心にいながら相変わらず世間から忘れ去られた存在をやっていた。一応、ジローとだけは電話番号とメールアドレスを交換していたが、まさに一応だ。立ち位置に違いがあり過ぎて何かをやり取りする気にもなれなければ、それこそ邪魔になれば葬り去られるような身だ。
とりあえず──
仮名が自由になれば良い。
──それだけだ。
後は、施設の雇用契約満了を年度末に控え、身の振り方を巡らす日々。一家の負債も完済し、一応自由の身だ。
──そうか。
高校を中退以来、軍と警察で不自由を強いられて来た具衛だ。それが
自由とか──
どうしたものか。目下の悩みは先立つ物がまるでない、スッカラカンの財布。それなら施設の契約を更新するか、別の道を探るか。
──うーむ。
そこへ突然、手元から単調な音がやかましくも鳴り始めた。
「うわ!」
外ならぬ、自分のスマホの着信だ。一々それに驚く程、すっかり着信がないその画面に武智の名前が浮かんでいる。
「何だろねぇまた」
とりあえず一息ついて応信すると、挨拶代わりののっけの一言が、
「今日はまだ酒を飲んどらんじゃろうな?」
という、飛躍振りだ。
「はあ?」
お歳暮の余り物の酒を、一升瓶で三本も抱えさせられ、持って帰らされたのは先日の話だが、別に飲む気にもなれず
「台所に置きっ放しですよ」
「それは何よりじゃ」
という声が、少し忙しいような気がしないでもない。それ故の飛躍なのだろう。
「何事ですか?」
「いざとなると察しがいいのう」
高坂様が火急の用で連絡をとりたいらしい。
「高坂様?」
「アンタの仮名さんじゃ!」
「──が、誰と?」
「やっぱり飲んどるんじゃないか?」
電話番号を教えたから入れ替わりで先方からすぐにでも電話があるぞ、と一方的に切られると、言われたそばから登録外番号の着信だ。
「な──」
思わず、生唾を飲み込む。
何なんだいきなり──?
今更どんな声で応対したものか。持ち主の逡巡に構わず、素気ない呼出音で淡々と鳴り続けるスマホは実に愛想がない。
「も、もしもし──」
切れる様子がないため仕方なく出ると、電話向こうからすがりつかれんばかりの性急な声だ。
「不破さん!? 先生なの!?」
ヒステリックなその声は、確かに聞き覚えがある仮名のものだが、それにしてはひどく狼狽しているのはどうした事か。
「仮名さん、どうしました?」
「ゴメン! とにかく時間がないの! 今すぐ来て!」
「え?」
そこから先の具衛は、本当に忙しかった。
とりあえずいつもの服装に着替え、ズボンのポケットにスマホを捩じ込んでリュックを背負うと、早速タクシーがやって来た。武智の手配でやって来たらしく、行き先は町の北側にあるサカマテ傍の高速IC入口まで、とか何とか。慌ただしくタクシーに乗る込むと、そのタイミングでまた仮名から電話がかかって来た。
「高速の入口で警察のパトカーが待ってるから、それに乗って広島空港まで連れて行ってもらって──」
そこから指定された便の飛行機で羽田まで来い、と言う事らしい。が、時計を見ると、飛行機の出発時刻まで、既に三〇分を切っている。
「間に合いませんよ!」
山小屋から空港までは、いくら高速経由でも車で一時間弱はかかる行程だ。
「警察のパトカーには緊急走行で向かってもらえるし、飛行機は待たせてあるから大丈夫!」
でも空港到着後は可能な限り急いで国内線搭乗口まで行け、と言う指示。
「一般客が乗ってる民間機だから!」
待たせる訳には行かない。当然の話だ。そこでまた、一方的に切られてしまう。事情はさっぱり飲み込めないが、とりあえず切迫感が只ならない。
パトに緊走させて、飛行機を待たせる──?
それは普通、一国の元首クラスの待遇だ。
──ウソだろ?
然してタクシーが高速ICに着くと、やはりいつぞやのように、「料金は武智から貰う」と言ったタクシーは、さっさと立ち去る。IC入口には探すまでもなく、赤色灯をつけて待機しているパトカーだ。それへ向けて半信半疑で小走りに駆け寄ると、助手席から出て来た男と目が合った。それが車に乗っていたのにヘルメットを被っている彼らは、青い繋ぎの隊服を着た高速道路交通警察隊の警察官だ。高速道路という特殊な環境での職務故の格好だが、元職の具衛はそれが一目で理解出来る一方で、向こうさんも名乗る前から後席のドアを開けてくれる。どうやら具衛の人着とタクシーは手配済みらしい。それでも一応乗り込む前に、
「不破と言いますが」
と名乗っておく。が、時間が気になるようで、それすら余計だったようだ。
「急ぎましょう!」
とだけ言われ、一緒に乗り込むと、その助手席の警察官が早速けたたましくもサイレンを鳴らし始め、「特務用務につき広島空港まで緊急走行」と無線でがなる。運転手は運転手で、
「飛ばすんで、シートベルトしといてくださいね!」
と言ってはくれたが、聞く前からアクセル目一杯で、加速Gのかかり方が明らかにおかしい。
こらこらこらぁ──!
緊急車両といえども、高速道路の制限速度は一応時速一〇〇kmだ。が、何事にも例外はあるもので、今の事情はメーターを振り切らす程の事らしい。
こ、今度は一体──?
何に巻き込まれたのか。リミッターが作動するようなスピードで
シートベルトって言われても──
白々しい事極まりない。
──何のレースゲームなんだよ!?
具衛の悲痛をよそに、パトカーは一般的な所要時間の約三分の一程度で広島空港に到着した。
「お気をつけて」
と、笑顔で見送ってくれた隊員は、実にあっさりしたもので、
こ、高速隊員恐るべし──。
日夜高速道路で走り回っているのは伊達ではないという事だろう。顔を苦らせる具衛は、続いて国内線搭乗口へ小走りに向かった。すると、国内航空会社の制服を着た凛々しげな女性スタッフ数人が、何やらキョロキョロ首を振っている。
あ、あれがまさか──
全部、自分を探しているのか。その内の一人に例の如く
「不破と言いますが──」
と言うそれは、今やすっかり合言葉だ。
「お待ちしておりました。定刻ギリギリですのでお急ぎください」
それで搭乗口を一瞬にして突破するのだから、どんな待遇なのか。飛行機に乗ったら乗ったで、案内されたのは
何と──
ビジネスクラスだ。つい三〇分前は山奥の小屋でボンヤリしていた田舎者なのだが、人生一寸先は闇とはよく言ったものだろう。飛行機が離陸したところで、仮名からショートメールが届いた。
"無事に飛行機に乗った?"
メールアドレスは消していたが、電話番号が分かった今ならショートメールが使える。
"はい、まあ何とか"
と、煮え切らない返事を返すと、以後は津々浦々と恐るべき種明かしが始まる。が、戦々恐々とさせられたところで、もう引き返せない。頼まれれば、外ならぬ仮名の事だ。やれと言われればやれるものだが、それでももし自分が下手を打って負傷者が出てしまったら、
誰が責任を──
とるのか。と、思い至ったところで、法律家でもある仮名が無法を承知で無茶を頼むとは思えない。作戦の発案者を尋ねてみると、
"母"
と、予想通りの即答だった。
「──やっぱり」
世で切れ者と呼ばれる人々の記憶力は、具衛のような世捨て人の過去ですら、
よくもまあ──
覚えているものだ。
羽田空港の到着ゲートを出ると、
「ごめん! 急いで!」
と、忙しない仮名に、いきなり手を掴まれた。一応久し振りの再会なのだが、事態はそれどころではないようで、そのまま慌ただしくターミナルの取りつけ道路に横づけされた車に連れ込まれる。今日の車は高級セダンで、運転手つきだ。仮名のアルベールでないところも、余裕のなさを表しているのだろう。
二人が乗り込むと慌ただしく動き出したその高級セダンが、すぐに見えて来た立入禁止区域に何のためらいもなく入った。その先に見えて来たのは、既にローターブレードが回り、すぐにでも離陸可能なヘリだ。その傍で車が止まると、また仮名に手を引かれて、そのままヘリへ押し込まれる。
「お願いします!」
息をつく間もなく仮名がパイロットに叫ぶと、ヘリが鋭く上昇を始めた。乗ったら乗ったで当然やる事があり、間髪入れずに仮名がスマホを突きつけてくる。思えばそれを初めて見る具衛だか、白亜のすっきりしたデザインのそれは、聞くまでもなく余計な装飾を好まない仮名の物だろう。
「捜査一課の滝川班長が、ヘリに乗ったら電話が欲しいって!」
「滝川さんが!?」
「私が説明出来ない事情は、今この場で詰めて欲しいの! 洋上に出たら通信が切れる前提で動いていないと──」
相変わらずの性急さだが、口達者の仮名が言葉を詰まらせる程の事だ。
「──分かりました」
そのままスマホを受け取ると、それを耳に当てる前からがなり声が聞こえて来る。
「スマン! 不破!」
こちらも懐かしむどころの騒ぎではなく、気になる事だらけの作戦の、何処の何を詰める間もなく、
「もう着くわ! 急いで!」
と仮名に急かされ、どうにもならない。
「とにかく乗り込んで取り押さえりゃいいんでしょ!?」
「責任の所在が曖昧でスマン!」
こっちがヘリの羽音がうるさければ、滝川の方は捜査本部の喧騒だろう。まともに聞こえたのは拝み倒しの台詞だけだ。慌ただしく乗り継いだ挙句、最後にやって来たのは、日本国内における米軍の一大拠点の一つ、在日米空軍横田基地だった。日本の民間機なら着陸はおろか、その空域に近づく事すら出来ないのが普通だが、やはり事態は普通ではなく、驚く程無干渉ですんなり格納庫傍の一角にヘリが着陸する。
「行こう!」
これで今日何度目だろうか。また仮名に手を引かれ、と言うか、迷いのない力強さに引っ張られ、ヘリのローターの暴風の中を、目の前に駐機する大型輸送機に駆け寄る。と、輸送機側からも繋ぎの飛行服を着た、軍人と思しき一人が駆け寄って来た。
「タクさん! 待ってましたよ!」
「シャーさん!? 学校はどったのよ!?」
「積もる話は中で!」
例によってその輸送機までもが、ジェットタービンをアイドリングさせている。そのサイドハッチから中へ乗り込むと、やはり待ち切れないように動き始め、勢いそのままに離陸。ここから先は国外だ。具衛が腕時計の時刻調整で改めて日本標準時を確かめると、
まだ──
午後五時過ぎだった。大家の武智から電話を受けて二時間。こうした変事からすっかり縁遠くなっていた
──筈なんだが。
呆れた具衛が、一息ついでにこっそり嘆息する。
C-17、通称「グローブマスターIII」と呼ばれる米軍の主力輸送機に乗ったのは、真琴と先生だけだった。
「グローブマスターってハワイまで飛べんの?」
「空荷なら十分届きますよ」
いきなり広島の山奥から引っ張り出したというのに、一見して以前のままの先生に一安心する真琴の傍で、先生はタメ口を叩きながら用意されたリュックサックの中身を確かめている。軽い口調は余程の仲なのだろうが、何処で馴染みになったのか今一つ理解が追いつかない「シャーさん」とは、年格好こそ先生によく似た優男ながら、つけている階級章は少佐のものだ。そんな職業軍人を前に、先生は先生で軽口を叩きながらも手つきは何処か如才ない。リュックの中身は軍用の各種装備品だ。それを扱う手慣れた感と軽口が余りにもチグハグで、相変わらずそんな意外性を帯びる先生に、真琴の脈は今頃になって早くなっている。勢いで連れて来たはいいが、ふとした瞬間で落ち着くと、恥ずかし過ぎて穴があったら入りたいとはこの事だ。昨年末の別れ際の暴挙の後、自分から捨てたくせしてその後憔悴する程恋焦がれ、今はまた只ならぬいざこざに巻き込んでしまっている。
──無茶苦茶だ。
どれだけ都合が良いのか。そんな自責を募らせる女の横で、先生はこんな所でも相変わらずで、その安定感に救われている自分。そんな後ろ暗い真琴の傍で、話をしている似た者同士の男二人は何処か隙がない。自分が置かれた環境に覚悟が出来ていて、
──迷いがない。
そんな雰囲気が決定的に真琴と異なる、そんな男二人だ。その片割れの将校は、形こそ先生に似て柔いがグズグズしていない。そこは流石に軍人らしくテキパキしたもので、
「じゃあ私はコックピットに行ってますんで、何かあれば呼んでください」
と言い残したシャーさんは、あっさり前席へ去って行った。悪い癖で、真琴が勝手にへこみそうになっていた物の数十秒で、男達の中ではあらかたの手筈は整った、らしい。後に残されたのは、鉄の結束器具が剥き出しの、全く飾り気のない貨物室内の側壁面にある折り畳み椅子に横並びで座った日本の民間人男女が各一名ずつ。民間機のように内装パネルなどない素気なさだが、それでも民間機並に与圧・昇温されているだけまだマシだろう。そんなゴツゴツした愛想のない所で、男の方が私服の上から米軍仕様の物らしき繋ぎを着込むと、
「おお、ピッタリ」
などと言いながら、徐ろに尻を席に置いた。それがまた、何処となく着慣れている。
「──どうかしました?」
気がつくと、先生が軽く首を傾けていた。不覚にも、見入っていたらしい真琴だ。
「あ、いや、慣れてるモンだと思って──」
とりあえず、席は一つ空けて座っていたが、それでもまだ近いような気がする。動揺のせいで
──のぼせるとか。
経験した事がない。そこはやたらうるさい軍機様々だ。民間機とは比べ物にならない騒音が色々と掻き消してくれる。本来なら傍にいても声すら拾いにくいが、シャーさんが耳栓の代わりに用意してくれたインカムのお陰で不自由しない。当然軍用品だが、周囲の通信機器とはリンクしていないらしく、
「二人の世界にどっぷり浸かっても大丈夫ですから」
とか。と言われても、そうなると心音をインカムに拾われそうな気がしないでもない、それ程のバタつき振りだ。
「これで実は、長年こんなのしか着て来なかったので」
そう言う先生の声は、インカムの性能以上にクリアに聞き取れるような気がする。元々ゆっくり丁寧に話す男だ。こんな一つひとつの、相変わらずの所作が、
──嬉しい。
とは、今は何かが邪魔をして素直に口から出るものでもない。何処までいっても気位ばかり高い、我ながら嫌味な女だ。そんな口から出る言葉と言えば、
「ホント意外って言うか、絶対詐欺師よね」
とか言う、捻くれ者の憎まれ口という体たらく。
「お褒めに預かり光栄です」
照れ臭そうに笑った先生が頭を掻いた。草食系にも癒し系にも、着衣が異なれば爽やか系にもインテリ系にも見て取れるこの男が、軍の繋ぎを着こなすとは誰が想像しただろうか。普段はボンヤリした隙だらけの、そんな男の正体を知っていたのは、高坂家中では外ならぬにっくき母美也子だけだった。その詳細に真琴が触れたのは、先生に初めて電話をした今日の、それも数時間前の事だ。警察が事件の推移を、指をくわえて見守る事しか出来ない状況下で、自ら指揮を取ると宣言した母が、事もあろうにまず先生の名前を出した。母が散々バカにしていたのは真琴の中の先生で、それを真琴に気づかせたのは、作戦の段取りをする中で見えて来た彼の男の経歴にして正体だ。真琴が知っていた事など、軍人上がりの元警察官という上っ面を武智から聞いていただけの事で、それで知ったつもりになっていた自分のおめでたさだろう。母は遠回しにそんな真琴をバカにしていた訳で、言い換えれば真琴こそが、重ね重ねも先生を侮っていた訳だ。大体が、
こんな柔さで──
世界に数ある外人部隊でも一目置かれる仏軍のそれの
──元特殊部隊員だとか。
何処をどう見れば理解が及ぶと言うのか。図らずも真琴は、昨年末の暴挙でその剥き身に触れ、外見不相応の精悍な筋骨を知っていたのだ。それでもその異質の中身を
確かめようとしなかったなんて──。
これでは母になじられても仕方がない。
「まさかあなたが、叔父さんを助けた隊員だったなんて」
「たまたまですよ」
と謙遜するが、この男の在隊歴は輝かしいものだった。入隊後間もなく頭角を表し、前半五年は山岳特殊部隊と落下傘特殊部隊で活躍。そのハイライトが当時仏大統領だった叔父アルベール・フェレールの山岳遭難事件で、困難を極めたあの現場の数少ない生存者である先生は、見事に大統領を救出し一躍英雄になった。当時の真琴は外務省勤めで日本にいたが、真純の出産に伴う育児休暇中でその詳報はメディアでしか触れていない。それでもアルベールの迂闊な口がメディアの前で、数少ないその日本人隊員を絶賛した事は有名な話だ。真琴が若かりし頃の鋭敏さを保っていれば、ここまでのネタだけで先生の正体に達しただろう。が、加齢と共に研ぎ澄まされるのはプライドばかりで、思考はすっかり
「──衰えた私は、あなたに騙されてばっかり」
と、勝手にふてくされるのは筋違いもいいところで、全くもって我ながら嫌な女だ。が、それでも男はいつでも柔く、
「人に言いふらしていい事はありませんから」
と、苦笑いして簡単にいなしてしまうのだから、これが天然人たらしでなくて何なのか。
「それはそうだけど──」
とは言ったものの、先生の言った通り、功を誇る者の落日は痛ましい事例が多いのもまた事実だ。それを人並みに知っていた先生は、在隊の後半生では司令部付の裏方に回る。が、それは一時的なもので、スペックの高い隊員を遊ばず軍隊などある訳もない。最終的には裏方の切り札要員として生死の際に身を投じる事幾多とか何とかで、これもまた彼の遭難事件の一つの功罪だろう。罪は挙げれば切りがないだろうが、功と言えるものの筆頭は、真琴にしてみれば良くも悪くも先生がフェレールと縁を作った事だ。それがなければ、真琴はいつまでも実家に言いなりの真琴でしかなかったのだから、人の縁の不思議というヤツだろう。が、先生は、
「失礼ついでで言っちゃうけど、どう考えてもありふれた市井の民草なのに、あなたの人生波乱に満ち溢れ過ぎじゃない?」
「自分でもそう思いますが──」
悩んでも仕方がない、と実にあっさりしたものだ。この拘りのなさこそが、この男の良いところにして源泉なのだが、それを褒めてしまうと妙な雰囲気になっても
──困るし。
捻くれ真琴は、やはりそれを口に出来ないでいる。いつでも何処でも先生は、それこそ良くも悪くも先生だ。揺るぎないタフさで自分を見失わない。先日もフェレール家に押しかけた折にヘリで遭難しかけたそうだが、自ら操縦して難を逃れたとか何とかで、
「そもそもフランスではヘリを操縦してたのに、何でそれを生かさない訳?」
それをしないで、何故わざわざ山奥で隠棲しているのか。
「何で軍での功績を捨てて警察なんかに──」
と、捻くれた口が言ってしまったところで、
「──ゴメン、つい」
と、すぐに謝れるようになったのは、外ならぬ先生のお陰だ。人当たりの良いこの男に甘え、散々好き放題言い散らかして来た真琴が、ついにはその剥き身を差し出したような相手の経歴をなじる資格などないだろう。が、今回の事件における警察の不明は、真琴に限らず高坂家中では家史に刻み込まれるべき失態として残るに違いない。
「いえ、役に立たなければ批判されて当然ですから」
それが民主国家を支える機関のあり方だ。と言い切る潔さと思想が、
「──あなたらしいわ」
「え?」
「何でもない」
と、ブツ切りしておく。今の状況は二人の甘い世界に浸る時ではないのだ。が、期待通りの言葉に、やはり満たされるものを感じてしまう真琴は、この男の事が知りたくて仕方がない。少なくとも、にっくき母より知らなくて
──どうするか。
それならシャーさんではないが、移動中の今はうってつけの時間な訳で、この有事だからこそ聞き出せる事もあるだろう。
「──帰国後、どうしてわざわざ警察官になったの?」
わざわざ、と言うのには理由があった。多大な功労を収めた軍歴と反比例するかのような、その後の警察経歴の散々。それはまさに先生の職歴としては光と影で、それこそ落日を見るような、そんな有様だったそこで、
「忍従するような一〇年を過ごしたようにしか──」
見えないのだ。細かい罰ばかりが目立ち、功と呼べるものが全くない。その経緯が、
「今のあなたに大きく関わっているとしか──」
思えないのだ。
「嫌なら話さなくてもいいんだけど──」
その事情にまつわる思いを共有したいと思うのは、我儘だろうか。
「面白い話じゃないですよ?」
「面白さを追求するような事じゃないでしょうが」
「まぁそうですが──」
と、やはり口が重い先生によると、「ある人」に頼まれたらしい。
「ある人?」
「ええ」
日本警察の特殊部隊を鍛えて欲しいとスカウトされた、とか何とか。それは先生の警察経歴の最初に出て来る
「それで【広域技能指導官】に?」
「ええ」
人様にものを教えるような箔などないんですが、と先生は何処までも先生だ。
警察庁指定【広域技能指導官】。「卓越した専門技能又は知識を有する警察職員を警察庁長官が指定し、その職員を警察全体の財産として、都道府県警察の枠組みを超えて広域的に指導する」と謳うその指導官の席を用意された先生は、軍の特殊部隊経歴を有する者としては、史上初の警察官採用事例となった。大抵の彼らは、メディアでも組織内でも大きく取り上げられては、それなりに華々しく活躍するそうだが、先生の指導分野は特殊部隊の技能全般だったため当然極秘扱い。そのため大抵の同僚でさえ、先生が日頃何をやっているのか知る者は限られ、
「『アイツは仕事をしない』とやっかまれていましたよ」
とは、現地本部の滝川から聞いた話だ。その先生の配属先は警視庁機動隊で、
「現代の幕府の御歴々は、仏軍式が気に入らなかったようで──」
と、明治維新前後の幕府と仏国の関係を揶揄する滝川が、話し始めからいきなりバツが悪そうな顔をする程、その処遇は芳しくなかった。その原因こそ、まさに先程の先生が口にした通りで、
「指導するには余りにも若く、箔がなかったものですから」
突出するプレイヤーが優れた指導者とは限らない。そこは各種プロの世界と同じだ。先生のケースでは指導力を語る以前の段階で、その見た目のために教えを乞う側に教わる気がなくなってしまった。要するに説得力だ。
「まぁそれがヤツらしいと言えばらしいんですが──」
と、終始軽妙に語った滝川だったが、一方で目が笑う事はなかった。先生の指導を受け入れる気がない現場の現役隊員と先生は衝突が絶えず、度々模擬戦という名の喧嘩になったそうだが、
「──あんな形のくせに、誰も勝てなかった」
人間は少なからず内面が外見に出るものだ。が、
「こう言っちゃなんですが──」
ベテラン刑事の滝川だ。長年の刑事生活でそれなりに人間を見て来た強面をして、
「──後にも先にもあんな化け物は見た事がない」
と言わしめる程、先生は異質だった訳だ。
「それこそ幕末じゃないですが──」
数あるその時代の物語では、大なり小なり必ず登場する新選組の
「──沖田総司を見るようで」
その可愛らしさの盛り方が読者受けを左右する程の彼の剣客の容姿は諸説あるところだが、滝川によると先生はまさに、読み物書き物に出て来るそんな沖田総司のようだったと言う。
「ナメられてるのに恐れられてるというか──」
そこが少し本物とは異なる今沖田は、結局警察経歴前半の五年で指導官を降板。大した成果を上げられない責任を取らされ、後半五年は警視庁の所轄署に埋もれ、どさ回りにされたらしい。それも、
「大抵の人間は嫌がる部署でね」
未経験者にはどう見ても重い荷を負わせて、辞職に追い込むやり口だ。前半経歴は極秘扱いのため、「何をやっていたのか分からない問題児」という、同僚の悪評だけが残った先生は、文字通り不当な言いがかりを受け入れるしかなく、
「あの面でマル暴デカやってたんですよ。笑えるでしょう?」
内憂外患とはこの事だろう。が、いざとなれば肉弾戦最強の先生だ。
「一年もすれば、やるようになったモンでして──」
そのタフさで、逆に内も外も振り回す程の仕事振りを見せるようになった。が、
「──それじゃあ収まりがつかない根暗に、背後から矢を射られましてね」
結局先生は、とある事案の責任を取らされ、そのまま辞職。
「まあ、引き止められなかった私の力不足ってヤツですよ」
と笑い飛ばした滝川は、先生のそんな素性を知る数少ない元教え子、と言う訳だった。
「滝川さんが、今更虫が良過ぎるって、本当に申し訳なさそうに──」
「笑い飛ばしてたでしょ?」
「流石によく知ってるわね」
とは言ったものの、事なげな先生に胸が苦しくなった真琴だ。高坂がやっている事も
──全く、同じだ。
捨てておきながら虫が良過ぎる。それも死地に向かわせようという、ひどい扱いだ。
「後でご褒美もらいますから。流石に」
「全くもって沖田総司ね」
「へ? 新選組の、ですか?」
腰が据わらず浮ついたように見えるその形は、一見すれば軽薄にも写る。が、その軽さの底に恐るべき豪腕が潜み、その自信をたぎらせているなど。ゆとりがもたらす独特の箔のなさは、一見して隙塗れに見える何かの名人のようだ。
「滝川さんが言ってたの。可愛らしいのに誰も敵わなかったって」
「いやいや、世の沖田ファンに怒られますよ」
その相変わらずの謙遜が、救われるようで心苦しい。
「私が言うのも何だけど、人が良過ぎるわよ」
「だからそう見られないように、ご褒美をねだるんです」
くせになっても困るので、と、そこは流石に歴戦の強者だ。体当たりで渡世の術を心得ている。それでもついボンヤリした外見のために甘く見てしまう真琴は、いつまで経っても騙されてしまう訳だ。
──ホント、罪な男。
そこへ、
「タクさん晩飯まだでしょ? よかったらどうぞ」
と、シャーさんが割り込んで来た。如何にも強烈なファーストフードの匂いを漂わせる紙袋を手にしているそれは、ハンバーガーだろう。
「流石に気が利くね!──あ、服ちょうどよかったよ」
今着ている飛行服は、どうやらシャーさんの物らしい。
「それは何よりで。じゃあとりあえず、後は腹ごなしです」
「ありがと!」
紙袋は二つあり、当然真琴の分もある。が、この有事で余裕のない真琴だ。とりあえず小さく相槌を打っておいたが、とても食べられるとは思えない。
「インカムで盗み聞きなんてしてませんから、後はホントにお二人でごゆっくり」
「何の思わせ振り?」
「年貢の納め時の話ですよ」
言う事を言うと、そそくさと前席へ戻るシャーさんもまた、沖田総司なのだろう。わざとらしい忍び足でコミカルに立ち去る姿に、心が少し軽くなる。
「──いいヤツなんですよ」
思わず失笑した先生が、その背中を見送りながら言った。
「あなたに似てるわ」
「実は元バディなんです」
「いつの?」
「フランス時代の」
「そうなの」
それが何故、米空軍の繋ぎを着ているのか。加えて流暢な日本語で、見た目もどう見ても日本人で、おまけに背格好も先生に似ている。それが少佐の階級章をつけているのに、
「今はあれで、高校の先生なんだそうです」
「はあ?」
どうやらもう一人の沖田総司も、中々変わっているようだ。
「今回の件で──」
日本の民間人が作戦に臨む。先生が思うにそんなシャーさんは、米軍なりの配慮だと言う。
「現場慣れしていて流暢な日本語を話す隊員なんて、他にいないと思います」
流石はお母上様です、とつけ加えた先生だが、それはわざと聞き流した真琴だ。
それにしても「日本語が流暢」と言うからには、シャーさんの母国語は他にあるという事なのか。逆に考えて米軍の少佐が他に母国をもつとは考えにくい。日系人なのだろうが、それにしては全く淀みない発音でどう見ても日本人だ。
と言うか──
先生に似ているのが他人の空似とは思い難い、その振舞と雰囲気。
「あなたは知り合いまでも意外ね」
素直に呆れ返る真琴の傍で、そんな先生は早速袋から中見を取り出している。
「今のうちに食っときましょう」
「やっぱり大きいわね」
間違いなく基地内の店で買ったのだろう、アメリカンサイズのハンバーガーだ。思わず胸焼けがする、かと思いきや。意外にも急に真琴の中で腹が鳴った。重ね重ねも機内の騒音に感謝する一方で、
そういえば──
夜中に起こされてから、何も食べていない事に今更気づく。腹が減らず、茶ばかり飲んでいた。腹が減るどころではなかったのだ。が、少し怯んでいる真琴の横で、
「大きさ程大味じゃないですよ。肉の味がしっかりします」
などと、それ以上に振り回されている筈の先生が既にかぶりついている。また見つけたその変わらなさに、つい失笑が漏れた。
「何ですか?」
「あなたはいつでも何処でも、本当に嬉しそうに美味しそうに食べると思って」
「そうですか?」
意識した事ないですけど、と言いながらも食べる事を忘れない先生を見ていると、真琴も急にそれを食べたくなった。




