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立春(後)①【先生のアノニマ(中)〜12】

 元特殊部隊員の民間人による、米軍輸送機からの秘匿降下突入作戦。それは、米国にも太いパイプを持つ忌々しい母美也子と、天涯孤独の自由人ながら、未だ現役年齢で無理が利きそうな元特殊部隊員の先生の二人だからこそ実現可能な無茶苦茶な作戦だった。米国と船籍国の在日大使館経由で、両国の捜査機関を飛び越し緊急外交ルートにより折衝した結果、両国共に私人による現行犯人逮捕なら内政干渉には当たらない、との見解を確認した。しかし両国は一様に、

「本当にその作戦(・・・・)を民間人にさせるのか」

 と、半信半疑だったらしい。

 その上で米国は既に独自作戦を展開しており、クルーズ船が米国領海に入った段階で作戦行動に突入するため、それ以前であれば干渉しない。船籍国は当面静観。その時々の流れを見ながら都度対応という、相変わらずの日和見振りだ。

「今のところ、諸々の状況に変化はないわね」

 シャーさんから差し入れられたハンバーガーを平らげた真琴が、持参したマグボトルに口をつけつつ、やはり持参していたタブレット端末を見ながら言った。現地本部の滝川からのメールだ。マグボトルの方は相変わらずのルイボスティーで、真琴はここ最近、すっかり他の物が飲めなくなってしまっている。シャーさんの差し入れにはセットのドリンクもついていたが、コーヒーだったため気持ちだけ貰い、先生に譲った。

「公海上なら好きにしてもよさそうですね」

 真琴の分のコーヒーを受け取った先生は、

「ちょうど喉が乾いてたんです」

 と、早速それを嬉しそうに、空席を一つ挟んだ横の席であおっていた。色々と有り得ない事を強制しているのだ。真冬だろうと、喉の一つも渇くだろう。かくいう今日の先生は、例によって非番でのんびりしていたらしく、それを思うと只々申し訳なさが押し寄せて来る。が、

「──悪いわね。何かホント」

 程度の、ぶっきらぼうな伝え方しか出来ない真琴だ。一方、先生は先生で、

「いえ」

 と、実にあっさりしている。そんなところも相変わらずで、早速カップを一つ飲み干すと

「折角なんで、貰いますね」

 と、一々確かめるように、真琴の分だったカップに口をつけた。がぶ飲みはともかく、その中においても変わらない丁寧さ

 と言うか──

 順序を飛ばさない振舞が、また真琴の何処かにある琴線を弾く。

 ──こんなコーヒーぐらいで。

 と言っては、用意してくれたシャーさんに悪いが、如何にも煮しめたような香りを放つ安物コーヒーだ。が、真琴は先生にそんな物すら用立てる心理的余裕がなかった訳で、つくづく感じる自分の至らなさ。そのくせちゃっかり、自分の飲み物だけは持って来ているという厚かましさだ。

 全くもって──

 いざとなると気が回らない自分に腹が立つ。所携のマグボトルは、急展開で実家を飛び出す直前、真琴の事を一々把握している家政士の由美子が準備してくれた物だった。実家で籠城を続ける真琴が、表向きには酒浸り回避用の代替品として選んだルイボスティーだが、実は唯一無二の腹心たる由美子にすら明かしていない裏事情があったりする。だからこそ、

 今コーヒーは──

 飲めないのだ。そんな事を脳裏で巡らせる真琴が、その隣で安物コーヒーを美味そうに飲む男を目の端で見ていると、

 ──おかしい。

 と、我に返った。いつの間に自分は、こんなコーヒー如きでこれ程の感傷に浸る事が出来るようになったのか。それは隣にいる詐欺師のせいなのだが、いざ本人を目の前にすると、今はそれを脳内で認める事すら恥ずかしい。

 それよりも何よりも──

 今はとりあえず、真純を始めクルーズ船の命運を左右する状況だ。それに先生を巻き込んでしまったからには、感傷以前にまずは最善を尽くすべく、やるべき事をやるべきだろう。

 とりあえず、諸々の思いを飲み込んだ真琴は、

「一応、公務扱いの担保をつけたから」

 と、その最善の一つと思しき茶色の手帳を、先生に差し出した。

「が、外交旅券!?」

「気休めだけど、あなたの身に何かあれば、公傷扱いに捩じ込める余地はあるわ」

 外交使節等に携帯が許されるそれは、通常人であれば、普通一生御目にかかる事はない。

「よく用意出来ましたね」

「ホントは公用旅券を取ろうとしたんだけど──」

 単に、先生の作戦行動の公用担保という事なら、公用旅券が一番手っ取り早かったのだ。が、それは明らかに私人ではないし、思い切り政府所属機関の命による任務になってしまう。旅券にも「所属機関の命である」旨が記入されるため、安直に警察庁の命となってしまっては、違法捜査介入の(そし)りを受ける可能性が捨て切れなかった。

「──我こそが身分を保証するって出しゃばる所属機関が出る訳もないし、良さそうな都合も浮かばないわで、最後は手っ取り早く外務省に泣いてもらったって訳」

「はぁ」

 この辺りの事はOGの真琴だ。未だそれなりに事情に通じている。

「一応言っとくけど、外交特権はないから。行って帰るだけだし」

 不可侵や治外法権に代表される外交官の身分を駐在先で保証するための外交特権は、国際交流が盛んな現代では庶民でも耳目に触れる機会がそれなりにあり、理解に明るい事だろう。が、その大権を得るには、追加で外交施設を受け入れる側の国(接受国)の認証を要し、外交旅券だけでは要件不足とされている事を知る人種が、果たしてどれ程いるだろうか。

「流石にそこまではいりませんよ」

 先生が気にしていたのは、作戦遂行に当たり、当事者国における不法出入国罪該当の恐れと、私人逮捕に対する違法性の見解だけだった。出入国に関しては、外交旅券であればケチのつけようがない。私人逮捕の見解は、先述通り当事者国間で共有確認済みだ。それを受けて、使用する装備品の一切は無記名。あくまでも個人が持っているレプリカの体裁だ。

「因みに船主は、何処から乗っても構わないし、お金もいらないって言ってるから」

「無賃乗車を許してくださると?」

「何かあれば犯人グループに全部背負わしてやるんだから、大事の前の小事って事よ」

 船主が被る損害賠償の責任は、基本的にその原因となった犯人グループにある。船主側が訴えを起こし賠償請求すれば、犯人グループが負ける事は目に見えているが、

「賠償金を取れるような連中とは──」

 思えない事は百も承知だ。

「この際気にするのは、実際に動くあなたの事だけ」

 真琴は、そこは強い口調でしっかりと言い切った。無茶な頼みをするのだ。それぐらいの事は言ってやらないと、

 ──気の毒でしかない。

 とにかく、申し訳がなかった。

「あくまでも、あなたの身分は外務省のお遣い扱い。クーリエみたいなものよ」

 外交上の急使や特使を意味するクーリエは、基本的に外交文書などの行嚢(こうのう)を運ぶ伝書使を指す。

「そのお遣いの途中で──」

「──犯罪を見かけたから逮捕した、という呈ですね」

「そういう事」

 これなら捜査介入ではないだろう、と最後は、ゴリ押しで捩じ込んだ。そもそもが、私人でクーリエとか、その移動手段が米軍機だとか、上げれば切りがない有り得なさだ。全ては当事者国間での国益、国情、法解釈等々の落とし所と、突入者の身分に最低限の配慮をした、その結実だ。やろうとしている事も無茶苦茶なら、その体裁も無茶苦茶。因みにこの米軍機の運用は、建前では米軍内における「連絡用務」になっているらしい。

「連絡用務って──」

 どんだけ金使うんだ、と先生が絶句するのも無理からぬものだ。

「諸々の費用は当然、全額日本が出す訳よ」

「そのお金を──」

 どの組織が出すのか。

「さあ? 警察かしら?」

「いやぁ、そんなお金ありませんよ警察には」

 日本における警察と言えば、面白おかしくドラマ化しやすい程に分かりやすい業界にして、市井にも何かと密接な司法行政機関の代表格だ。が、その実情は、昼夜を分たず世の歪みに接している、荒んだ守備範囲をもつ職種。国家組織における権勢順でも下層と言わざるを得ず、とどめは組織の先祖だ。封建時代では人と見なされない人々の生業だった暗い歴史をもつ。その呪いとしたものか、予算配分は常に、

「──渋く辛いモンですよ」

 マンパワーの代表格でもあるお馴染みのお役所だが、人の数の割りに金はない。それが警察という貧乏組織の常識なのだとか何とか。

「でも外務省は絶対払わないわよ。あくまでも最低限の公用担保ってだけだもの」

「それはそうでしょうね」

 そもそもが、この件に関する必要経費など、高坂宗家のポケットマネーで十分賄えるのだ。更に言えば、クルーズ船の乗員乗客が全員死亡するような最悪の事態に発展したとしても、その賠償責任を資産で十分賄えるような家なのだ。問題は金ではない。国民の生命、身体、財産、自由、権利を守るのは、いかなる時も国家の責務だ。法に添わないなら後は個人責任、と開き直って国民を見捨てるような国家に、国民の負託が得られるだろうか。国家あっての国民ならそれでよいのだろうが、国民あっての国家なのだ。国民を守るための法律がない事にこそ問題がある。それを忌々しくも、因縁の母美也子が一番理解しているとか。一々癪に障るが、あの母なくしてこの大胆な作戦を実行する事など出来なかっただろう。動けない国に代わって動いたのだ。金ぐらい負担させなくては収まりがつかない。が、これは、回り回って船籍を巡る高坂グループのフェアトレードの問題もあれば、高千穂の暗躍を利用しようとした宗家が招いた因果でもある。結果として、何らかの形で高坂から国に金が動くのだろう。

 そこで真琴のタブレットが、またメールを受信した。

「陰口は叩くものね」

 早くも国際手配したらしい。滝川からの追加メールだ。

「何から何まで早いですね」

 防犯カメラに写っていた連行時の状況を捉え、裁判所からとりあえず手っ取り早い逮捕監禁容疑と旅券法違反で逮捕状を取得。そこから警察庁経由でICPOへ手配した、とか。その手配内容が、即時拘束を要請する

「赤手配書だわ」

「それもそうでしょうね」

 のそれは、犯罪と犯人が明白なケースに運用される最上級レベルの手配だ。

「あなたが確保すれば、米国領海で沿岸警備隊か、ホノルル港でFBIかホノルル市警が身柄を引き受けてくれるわ」

「捕まえた後の事は固まりましたね」

「確保の時はどうするの?」

 あくまでも法になぞらえるなら、当然それも問題になってくる。国際手配された事実での逮捕状を、先生は当然執行出来ないからだ。それが出来るのは、逮捕権を有する検察庁の検察官や検察事務官、または警察官を始めとする司法警察職員だけ。そもそもが治外法権だ。逮捕権を有する日本の官吏ですら、公海上の船上は日本国外。つまり日本の裁判所が発付した逮捕状を執行する事が出来ない。国際手配事実の逮捕状は、犯人の潜伏国がICPOに加盟しているのであれば、その国の司法警察権を有する官吏をして、ようやく犯人確保の根拠に成り得る。「捕まえた後の事」とは、そういう意味だ。が、その前の事、つまり捕まえる時はどうするのか。米国も船籍国もICPO加盟国だが、だからといって公権力を有しない日本国籍の民間人に何が出来るのか。

「叩けばいくらでも埃が出る連中なんでしょうけど──」

 先生は叩く(・・)権限がないのだ。

「──見える埃(・・・・)で捕まえます」

「試したみたいで悪かったわ」

 何の罪に当たるのか考える事を擬律(ぎりつ)判断というのだが、

「一人より二人、文殊の知恵のスタンスが大事ですから」

 と、慎重に考える先生の姿勢こそ、経験値の高さだろう。犯人も被害者も人の事なら、あくまでも法を根拠に強制力を行使する。無茶苦茶な作戦だろうと、関係各国は一応法治国家だ。正当性の担保は先生の保身に必要不可欠な訳で、それを人任せにしない期待通りの冷静さに安堵させられる。

「公海上の話になってくるんでしょうから──」

 船籍国法に則って、船上の現行犯罪事実で私人逮捕。

「──銃刀法か監禁でしょうね、やっぱり」

 それさえイメージ出来ていれば、

「そういう感じで確保しますよ」

 と、淀みない。

「あなたはホント、いざとなると頼りになるわね」

「その分、普段怠けてますから」

「怠け者に法が理解出来る訳ないでしょ?」

 刑事ドラマの世界とは、実は目に見えない法律で塗れている。が、ドラマの中で一々根拠を解説する事など皆無に近いし、それをしたところで視聴者に理解が追いつくものでもない訳で、

「悲しい職業病の一つですよ」

 それを病む人種は希少種と言えるだろう。司法行政警察作用限定の事だとしても、法知識やその見解において、弁護士がストレスを感じる事なく話す事が出来る人間など、それだけで市井には限られるのだ。その上で、ゲンコツも強い(・・・・・・・)など。返す返すもこの作戦の立案者の着眼の良さは、忌々しい事極まりないのだが認めざるを得なかった。

「──他に何か気になる事は?」

 過酷な捜査経験に裏づけられた法知識と、卓越した特殊作戦遂行能力とその実務経験を有し、かつ未だそれが失われずその上で即応可能な民間人。そんな人間が今日本に何人いるだろうか。

「後はもう、突撃あるのみですね」

 そんな事をあっさり言ってのけるこの男は、まるで何かの物語のエージェントのようだ。が、そのくせ意外に整った面をしていて、求めれば優しく寄り添ってくれる男。

 こんな男──

 他にいるとは思えない真琴は、勝手に盛り上がっている。

「降下ポイントまでは、たっぷり五、六時間はありますし、ゆっくりしましょう」

 昨夜から大変だったでしょう、と、ここへ至って尚他人を気遣う余裕振りは、一周回って憎らしささえ覚えてしまう。

「──そうね」

 昨夜どころか連日連夜、隣の男のせいで眠れない夜を過ごしている真琴は、そう言われて張りつめたものが弛緩してくるのだから、これを依存と言わずして何なのか。殺風景な飛行中の軍用機内で

 ──眠たくなるなんて。

 色々と預ける事が出来る安心感の、何という心地良さなのだろう。

「食べたら眠たくなっちゃったから、今のうちに目を閉じておくわ」

 と、もっともらしい言い訳を口にする真琴だったが、

 ──ようやく寝れる。

 素直にそれを認めつつ目を閉じると、あっと言う間に周囲の騒音が遠くなった。


 目が覚めた真琴は、一瞬前後不覚になった。

「──え? え?」

 慌てて身体を起こし、首を左右に振る中で、何かの機械音がやたらうるさい。が、すぐ隣にいる先生は、何食わぬ顔で本を読んでいる。

「まだ休んでても大丈夫ですよ」

 と、柔らかく一瞥してくれると、また本に目を戻した。

「休──む?」

 そう言われて、それを自分で口にして、ようやく我に返る真琴だ。それ程深い睡眠だった。が、その代償なのか、気がつくと二人の間の席に置かれている先生の荷物を枕代わりにしているではないか。

「ゴ、ゴメンなさい!」

 それは先生の私物のリュックである以上に、今はシャーさんから借りた装備品を入れた物で、これから任務に臨む先生を支える大事な物だ。慌てて身体を起こした真琴は、自分の頭のせいで凹んで形が変わっているリュックを手で整えた。

「勝手に置いたのは私の方ですから」

 それに、少々の圧がかかっても支障ない収め方をしているのだとか。どうやら相当舟を漕いでらしく、見兼ねた先生が枕代わりにリュックを置いてくれたようだった。確かに寝入る前は、荷など置いていなかった事の記憶を取り戻す真琴だ。

「あ、ありがとう」

「いえ」

 言う事を言った先生が、また本に目を落とした。そのお陰で、無様な面を晒す時間が短くて助かった訳だが、そう思い至って

 ──あ。

 と、大事を思い出す。慌てて先生とは反対側の隣席に置いていた自分のショルダーバッグの中からタブレット端末を取り出すと、新着メールは届いていなかった。状況に変わりは

 ──ないようね。

 やれやれだ。かくいう真琴は、実家の現地本部と先生を繋ぐための連絡要員として同行している身。先生を突入任務以外の事で煩わせないためのせめてもの配慮にして、高坂宗家の名代として事件の詳細を見届ける役目もある。

 それなのに──

 つい、寝入ってしまった。

 タブレットによると、東京時間は午後八時過ぎ、米国ホノルル冬時間では日付が変わったばかりの同日午前一時過ぎだ。前後不覚になっていたのは

 ──二時間か。

 それでも、本当に久し振りの熟睡だった。座ってうたた寝しただけなのに、頭がスッキリしている。日常とかけ離れた環境下の有り得ない状況下だというのに、それ程疲れていたという事なのだろう。が、飄々と隣にいる男の存在感が、それだけではないと思わせてくれる。恥ずかしくて本人にはとても言えたものではないが、この二か月というもの、ひたすら焦がれていた存在だ。それが満たされる充実感と安心感が緊張を解きほぐし、熟睡させてくれたのだろう。そんな男はと言うと、この状況下で突入待機状態のまま

 相変わらず──

 本を読む、余裕振り。土壇場になると立ち位置の優位性が全く入れ替わる二人の構図も久し振りだが、それはこんな状況でも変わらない。

「こんな状況で、よく読めるわね」

 大体が、こんな所まで本を持ってくるなど。呆れを通り越して感心させられる。が、それを聞いた先生は、すぐにそれをリュックに収めてしまった。

「あ──」

 今、自分が吐いた言葉の迂闊さをすぐに思い知らされる真琴が、いつになく間抜けな声を漏らす。今や民間人の先生を引っ張り出した側の人間が、とやかく言えるものでもない。

「──ゴメンなさい。そんなつもりで言ったんじゃないのよ」

 その肝の太さを褒めただけだ。

「声色で分かりますから」

 ちょうど読み切ったらしい。

「気を落ち着かせるのにいいんです」

 恐らくこの手の事など、過去にいくらでも経験している先生だ。それは自分を保つためのものなのだろう。

「ポケットに忍ばせておいて移動中に読んだりすると、人心地がつくというか──」

 ルーティーンワークのようなものらしい。

「そ、そうなの」

 返す返すも、今更そんな無理を強いているのは外ならぬ自分なのだ。それなのに、口を開くとろくな事を言わない自分の口の、何という拙さだ。先生の拙さを侮っていた自分の見る目のなさが、ブーメランになってこんな所でも自分を抉る。が、意に介さない先生は、悔やむ真琴の横でリュックの帯の長さを調節し始めた。それも恐らく、ルーティーンなのだろう。その手つきが丁寧で、また真琴の何処かにある琴線に触れる。

「──やっぱり、大事に使ってるじゃない」

「え?」

「以前、広島のマンションに来た時よ」

 おたふく風邪の見舞いに来た時も同じリュックを背負っていた先生が、部屋に上がった後、その汚れを気にして膝に抱えたまま離さなかった。

「そんな事がありましたね」

 と、何となしにリュックを撫でるその姿が、まただ。その手で使い込んでいる物なら、汚れどころか味があるというものだろう。何かにつけて柔らかい物腰で丁寧な所作の男が、いざとなると力強くて頼りになる

 ──とか。

 これを反則と言わずして何なのか。何でこんな柔い男が軍の元特殊部隊員で、警察ではその指導員にまでなったのか。そんな疑問が、元教え子の滝川の感覚では「化け物」なのだろうか。

「一つ、聞いてもいい?」

「どうぞ」

「あなたが指導した特殊部隊の面々は、どうしてあんなにがさつな訳?」

 つい素直な思いが、またしても不躾な事を漏らす自分の口も、いい加減大概だ。が、瞬間で噴き出した先生に、またしても救われる。

「やっぱりそう見えますか」

「うん」

 元の職業に対する批判や中傷は、その人の歩みを否定するも同じだ。

「──ゴメン。批判するつもりじゃないんだけど、つい」

 また先生の優しさに甘えて、思った事を口走ってしまう自分。

「いえ、まぁ事実ですから」

 予想通りの答えをくれる先生の、また一周回って憎たらしさだ。批判と言えば、そもそもがこの男の方こそ異質だろう。荒事専門の特殊部隊員の事なら、がさつは言い過ぎかも知れないが、豪快豪傑の強面揃いとしたものだ。それが何故、こんなに飄々と

 ──ホンワカしてんのよ。

 出会って間もない頃など、何かの感情が欠落しているのか、と思った事すらあった。が、毅然と思いがけぬ大声を吐く猛々しさもあり、時折見せる大胆さを目の当たりにして来た真琴は、そのギャップにやられた口だ。本人に言えたものではないが、今となってはすっかり依存してしまっている。

「やっぱり、あなたがマイノリティーって事なのかしら?」

「そうなんでしょうね」

 苦笑するその顔が、全くもって憎らしい程に屈託がない。

「でも、根は似たようなモンですよ」

「そうなの?」

「ええ。何とかしたいから──」

 形振り構わずドタバタする、とか。

「みんなドラマみたいに、凄腕ばかりじゃないの?」

「大抵は似たり寄ったりですよ。みんな同じ人間ですから」

 一部は何処かしら勘違いした傍若無人めいたのもいない事はないんですが、と、くしゃりと笑うこの男は、その対極だ。

「カッコばっかりのドラマは、ハッキリ言って大ウソです」

「あら珍しい。はっきり否定するなんて」

 ネガティブな主張する先生は、記憶に乏しい。

「悪事を暴いて捕まえるような仕事に染まると、ダメだとか出来ないとか、否定的な思念に支配されがちで──」

 だから本性はネガティブらしい。が、

「そんな風にはとても見えないけど」

「まぁ、詐欺師ですから」

「ここで見事にあげつらってくれるわね」

「事実ですから」

 と、実にさらりと語る為人(ひととなり)が、その特殊な経歴にどんな影響を与えたのか。それとも経歴の特殊性が、為人の形成にどう寄与したのか。

「聞いてみたいわ。その辺りの事」

 先生の素性は憎き母によってすっかり押さえている真琴だが、それでも本人の口からそれを聞いてみたいと思うのは我儘だろうか。

「私からお話出来るような事は何も。それに、もうご存じのようですし」

「あら? 私はちゃんと自分の事、ある程度自分で話したのに?」

 グアムや小晦日の夜では、すっかり愚痴っぽく暴露した、というか、させられてしまったというべきか。それを忘れている二人ではない。そうなると、また艶かしい記憶が沸き上がり、二人の間に微妙な空気が漂い始める。喉を鳴らしたり咳をし始める先生が、余りにも下手クソ過ぎて痛々しい。

「女に喋らせておいて、男は黙ったままなのね」

「い、今は女とか男とかいう時代ではないような──」

「じゃあ人として、自分だけ胸襟を開かないのはどうなのかしら?」

「黙秘権を行使したらいけません?」

「あ、そ」

 それならそれで、先生のリュック越しに、その耳元に迫る。息がかかる程の近さもインカム越しでは無意味なのだが、要は雰囲気だ。

「あなたの武勇伝を聞きたいの」

 と囁いてみると、

「うわぁ!?」

 と、予想通りのウブな反応に、場も状況もわきまえず抑えきれない失笑が、真琴の鼻口から勢いよく噴き出した。

「い、色仕掛けと来ましたか」

「次はどうしようかしら?」

「分かりましたよ」

 面白い話じゃないんですが、と重ねて愚痴る先生が、ようやく口を割る。

「軍も警察も──」

 国は違えど支持率は似たようなもので、大して高くもない。

「話をしても批判に晒されるだけなので──」

 普通は経歴など話たがらないものだとか。

「好き好んで切られても、面白くもなければ──」

 やられ役のようにギャラが出る訳でもない。

「じゃあ後でギャラを出せばいいのかしら?」

 と言ってみると、

「あなたは年末の暴露話で、それこそ先払いしてますから」

「よく分かってるじゃない」

 律儀なこの男の事だ。その辺りをなぶると弱い事を知っている真琴は、我ながら性根が悪いと思う。が、身を預けた男の事だ。

「何処から切っても、その中身の興味に尽きる事はないわ」

 それこそ本人には恥ずかしくて言えたものではないが、今ならどんな先生も受け止められる自信がある。

「ホント変わってますね、あなたも」

「そうかしら?」

「派手さも華もない、地味な話なんですけど」

「実務はそうしたものよ」

「そうなんです」

 そのくせメディアは、面白おかしく安直な警察ドラマを作っては、有りもしない虚構を国民に刷り込む。法解釈も法手続きもひどければ、非日常性ばかり強調して派手さを追求し、それを全面に出すようなテレビドラマの何と多い事か。

「もう、嫌いで嫌いで──」

 先生は殆ど見た事がないそうだった。

「大体が、そんな暇もなくて」

「じゃあ今は?」

「見ませんね、やっぱり」

 とにかく忌々しくて、触れたくないとか何とか。

「都合が良過ぎるんですよ」

 などと、早くもぶつくさふて腐れ気味だ。現実では散々批判しておいて、視聴率稼ぎで好き放題現実離れしたドラマを作る。

「勝手と言わざるを得ません」

 と、先生にしては珍しくも穏やかではない。書籍にしろドラマにしろ、何処か気取ったドラマタッチで、

「虫酸が走るんです」

 とまで。

「見つめるべきは現実であって、決して虚構ではないと思うんです。真相報道を騙るメディアの端くれなら」

「だから、そういうところを聞いておきたいの」

 次はいつ会えるものか知れないのだ。そう思うと、真琴の心臓が大きく跳ねた。

 ──そうだ。

 もしかすると、本当にこれが最後の機会なのかも知れないのだ。

「最後の思い出なら、いい思い出のままって訳にはいきませんかね?」

 察した先生が、この期に及んでやはりブレなかった。余程嫌な思い出のようだ。事実、真琴はその素性の大筋を既に知っている。輝かしい仏軍時代の元をとるかのような、警察時代の没落。それを

「──私なら受け止められるって言ったらダメかしら?」

 と、ここへきて、あっさりまた壁を一つ乗り越えた真琴だ。先程までの羞恥心は何処へ行ったのか。

 ──そうよ。

 職歴の批判で崩れ去るような関係性の壁など、とっくの昔に飛び越えてしまっている。鷹揚として嫌に観念的なこの男は、恐らくその半生を賭して来た仕事に対する思いを口にした事などないだろう。真琴が知る限り、罰ばかりつけていたこの男の警察人生は、実はそれでいて通常人では中々成し得ない誇らしいものだ。その無念や感慨を直接聞いて

 ──汲み取ってあげたい。

 自分は慰めてもらったのだ。だから自分も慰めたいと思うのは、思い上がりではないだろう。

「──ずるいわよ。自分だけカッコつけたままなんて」

 そういう真琴は、この男に散々無様を晒して来たのだ。

「対等って言った事があったわよね、私達は」

 おたふく風邪の療養明けに、先生が自宅マンションに来た時。勝手に真琴を「世間知らずの箱入りだ」と侮ったかのような先生の言動を、バッサリ切り捨てた。

「許さないんだから」

 それを彷彿させた真琴が、わざとツンとして顔を背ける。するとインカム越しに、溜め息が漏れ出たのが聞こえた。

「仕方ないですね──」

 と、いつになく愚痴っぽい口が、ようやく重い口を開く。が、

「軍の時の事は、それこそフェレール御一家が詳しいので──」

 成功譚も口にしたくないらしい。本人に思うところがあるのだろう。

「まぁ私も大体の事は知ってるけど、フランス時代(・・・・・・)の事は今度リエコ叔母さんから聞いとくわ」

 聞き分け良く、話しを合わせてさらっとその名を口にすると、

「リ、リエコ叔母さん──」

 と、慄いた先生が絶句した。確かに、恐れ多くも彼の財閥の大奥方を「叔母さん」呼ばわり出来るのは、世の中広しといえども真琴ぐらいだろう。そのリエコ叔母さんは、この度の事で随分先生に肩入れしていた事でもある。

 そこの辺りも含めて──

 抑えておかなくては、あの美魔女はひょっとするとひょっとした事をし兼ねない。一方で、警察時代の先生を探る真琴のネタ元は、にっくき母を除くと現地本部の滝川だけだ。

 だから今は──

 この機会を逃すと、詳細な事情に辿り着けないかも知れない。

「じゃあ、警察の時の事ね」

 とした真琴が、嬉々として照準を絞った。すると先生が、

「それを弁護士さんに話したところで──」

 と、煮え切らない。確かにネガティブなところは、先生の自己分析通りとしたものだろう。

「まぁ、つべこべと──」

 と言いかけたところで、今度はそう言ってお互い肉弾戦に突入した年末の記憶が瞬間で蘇った。今度は真琴が絶句する一方で、先生の方もやはりぎこちない。これは間違いなく、同じように思い出している。今後つべこべは禁句だ。先生がまた、不自然に喉を鳴らすと、

「本当の警察は、捕まえても(・・・・・)終わらないんですよ」

 と、刑事ドラマを揶揄し始めた。その後の公判に向けた、地道な証拠固めを旨とする事後捜査の苦悩を描くドラマはない。

「地味じゃドラマにならないんだから、仕方ないんじゃない?」

「ドラマにしなきゃいいんですよ」

 あからさまに口を尖らせる先生も珍しい。

「そりゃあ中には滝川さんみたいな豪傑もいますけど──」

 大抵の捜査員は地味なものだ。文字通り昼夜を分かたず、事件の証拠固めのためなら、ありとあらゆる捜査結果を書類化する。その手間の凄まじさを報じる地味なドラマなど

「──ないでしょう?」

「そりゃあ地味だもの。華麗に捕まえて、解決して終わってこその刑事ドラマじゃない」

「だから嫌なんですよ」

 そこに実務家の苦労がある事を、世間の大衆は安っぽいドラマに騙されて気づかない。

「警察は、『おいこら』って怒鳴ってりゃ仕事になると思われる元凶でしょ、あれは」

「ぷっ」

 と、思わず真琴が失笑する程の、先生の説得力だ。まさにその通りだろう。

「警察は、そんじょそこらのブラック企業に負けませんよ」

 文字通りの不眠不休とサービス残業は、一応公務員の警察にも存在するものらしい。

「歯が抜け落ちるんじゃないかと錯覚するぐらいの疲労が襲う程の書類仕事で──」

「まあねえ」

 それを少しは理解出来る真琴だった。遥か昔、今の真純と同じように司法修習を経験した真琴が、刑事裁判修習や検察修習先で見た、文字通りの山積みされた書類。書庫に収められている訳でもなく、執務室内に所狭しと置かれた、ちり紙交換で掻き集められた新聞紙の束の山と錯覚するかのような書類の束の数々。その束の一つひとつを構成する紙の一枚一枚の殆どは、警察官によって作成された現在進行形の係争中の事件書類である事の現実。

 こんなにも──

 多い、その紙の量に然しもの真琴も驚かされたものだ。これを作成する警察官、特に刑事と呼ばれる捜査員達は、

 ──寝る暇あるの?

 などと真琴が思ったのは、彼これもう二〇年以上前にもなる。が、

「今も昔も、手間の多さは変わりません」

 むしろ書類仕事は増える一方で、それは民主警察の宿命だ。書類の多少は、権力のバロメーターのようなものだろう。民主国家である日本では、大量の書類なくして罪人は裁けない。それは証拠主義の土台とも言える。その土台の作り手は、先生に言わせると意外に少人数らしい。

「歯を食いしばってるつもりはないんですが、無意識のうちに食いしばっていたのかも知れません」

 先生は本当に、数年の刑事生活で歯茎がやせ細ったとかで、明らかに加齢を上回る衰えは、職務の壮絶さという事だろう。

 一方、近年では情報社会の賜物か。少しは警察の内情を掘り下げる向きのドラマがあったりもする。が、それでも

「ドラマの取調べは、ひどいの一言です」

 怒鳴る、脅す、誘導する、机を叩く蹴るなど。現役弁護士が見れば

「まあ、突っ込みどころ満載よね」

 違法取調べのオンパレード、というザマだ。現場の現役刑事達が苦心している対話型重視のそれとは、遠く及ばない。ドラマの取調官は、

「無罪事件を山積させるでしょうね」

 それこそ国家賠償案件塗れだ。

「警察予算は渋くなりますよ」

 先生のような現場畑の人間でさえ、賠償リスクをはっきりイメージして活動している。それが本来の、当たり前の国官の姿だ。

「取調べといえば、日本の糾問的捜査観は、もう限界でしょうね」

 話し始めれば、愚痴に花を咲かせる先生の口がどんどん軽くなっている。市井で刑事司法に関する愚痴を理解出来る者など限られるのだ。真琴の理解力が、まさに今この男を受け止めている。

「日本の刑事司法は、本当にカビ臭い」

 現行の日本の刑事訴訟手続きは、先生が口にした【糾問的捜査観】に基づいて執り行われている。近年では「人質司法」や「可視化されていない密室の取調べ」などで悪名高い、警察捜査段階での起訴前勾留などによる、事実上の強制的観点から被疑者の取調べを肯定する考え方だ。

 その一方で、

「日本もいい加減、弾劾的捜査観に移行すべきだと思うんですが──」

 と言うそれは、警察の捜査を公判の準備活動に限定。捜査員と被疑者は対立対等の立ち位置であり、被疑者の黙秘権は完全に保障され、強制的取調べは許されない。基本的に真実は裁判で一から争って明らかにする。両方の主義の決定的な違いは、

「警察の、被疑者に対する有意的立場を認め、それに基づく強制的な取調べを肯定するか否か──」

 という事だ。その真琴の相槌に

「ええ」

 と、先生がすぐ追認する。話が乗って来ると、噛み合うのが嬉しいらしい。

 渋っていたくせに──

 と思う一方で、話が合う楽しみは真琴も同じだ。それが重ね重ねも、状況や環境などお構いなしで

 ──嬉しいとか。

 そう思う自分は、やはり病気だ。その病人を横に先生は

「古い刑事は、取調べ命ですからね」

 と、口振り滑らかに積年の鬱憤を晴らし続ける。分かりやすくは前者は日本式、後者は米国式だ。米国のミステリーや刑事ドラマなどで、警察が犯人を逮捕した直後に黙秘権を伝えるシーンを見かけるそれこそ、弾劾的捜査観の一幕と言える。日本における糾問的捜査観は、何も警察に限った事ではなく、検察も裁判所も相当に根強い。

「──それだと、警察の事務負担は膨大なんですよ」

 それこそ若かりし頃の真琴が、司法修習で体感した書類の山の通りだ。人質司法だとか、可視化されていない密室の取調べだと批判されようが、現場の刑事を始めとする警察の捜査員達は、文字通り歯を食い縛って頭を捻りながら昼夜を問わずそれを作成し、格闘している。

「もう警察だけで挙証(きょしょう)責任を負う時代は、終わっていると思うんです」

 立証責任と言えば分かりやすいその負担は、現行では第一次捜査機関である警察が殆ど担っているのだが、刑事訴訟における警察といえば、事実上法曹の下請けのような位置づけだ。その事務負担の偏りは大きく、そのため全ての事件を平等に捜査する労力など到底なければ、実情は事件の軽重でそれを惜しむ傾向が強い。業務の効率化と言えば聞こえは良いが、それが決めつけ捜査、更には独断専行の無茶振りを招く温床にもなっている現実がある。

「まぁそうよね。でも──」

 言う事は理解出来るが、それにしては組織の規模に偏りがあり過ぎる。

「──絶対的に法曹の数が足りないわ」

 それも特に、検察官の数が圧倒的に足りない。国家の弁護人は、法曹界では最も人気がないのだ。検察とは、事件の束を少ない人員で捌く地獄に見舞われる組織、と言えば理解しやすいだろう。好き好んでその重圧に飛び込む者など当然限られる訳だ。

「そうなんですよねぇ」

 と、やはりすぐ相槌を打つ先生が、

「若手は結構、昔ながらの取調べを嘆いていたりするんですよ」

 とボヤく。意外だ。警察はそれを「証拠の神様」と呼んで、頑固に固執する。真琴にとっての警察とは、そんな古めかしい、それこそカビ臭いイメージだ。警察にとってのそれは、

 絶対的な武器の筈なのに──

 先生はあっさり、それを否定する。が、物事は一長一短としたものである事もまた事実。

「弾劾捜査は冤罪が起きやすいと思うんだけど?」

 裁判で一から事実を明らかにしていくそれでは、事件の調査結果が裁判の前に出て来ない。料理に例えるなら、糾問捜査観では調理担当は殆ど警察。検察は盛りつけ。出来た料理を裁判所で関係者が味見する。一方弾劾捜査観では、それぞれが裁判所に食材を持ち寄り、警察、検察はおろか、被害者、加害者、弁護士、裁判官みんなで料理を作る。作り手が多い分だけ、最終的に何が出来上がるのか出来てみないと分からない。そのため、

「糾問捜査は緻密で弾劾捜査は大雑把とは、確かに言ったモンですけど──」

 緻密が売りの前者では、無罪判決を回避し国家賠償を負いたくないがための決めつけの取調べが冤罪を生み出す元にもなる。事実、昨今そうした取調べが原因で逆転無罪になる事件は散見されるものだ。それを先生がまたしても、何の拘りもなく口にする。

「仮にも過去に自分が属していた組織の欠点を、弁護士にボヤいてもいいの?」

「国家機関は国民のためにある訳ですから。その益にならない事は全て独善です」

「国家と国民のため、じゃなかったっけ?」

 それは過去の真琴も度々耳にした、公職従事者がよく口にするフレーズだ。が、

「国民のためだけじゃないと、また戦前みたいな事になりますよ」

 要するにファシズムをあおる、と言いたいらしい。

「建前ね」

 国家が成立しないと国民を守れない。公職経験者であれば、それは当たり前の通念である筈だ。が、それでもやはり

「建前でも誰かがそれを言い続けないと。国家は隙をみては一つずつ言質をとって権利を奪い、権力を育んでいくんですよ」

 と、言い切る先生は、少数派と言っていい。

「まるで権力が、一方的に悪いような言い方ね」

 真琴の周囲は、そんな権力を欲する連中ばかりだ。それはそれで反吐が出るが、だからと言って盲目的に毛嫌いするスタンスも気に食わない。

「私にとっての権力は、重圧でしかなかったので」

 職務執行はそれこそ懊悩の連続だった、とか。

「まぁ、言わんとする事は分かるけど──」

 それは弱腰と言う事も出来る。

「性根が座ってないと言うか──」

「物足りないと思う人は多いでしょうね」

 正義は力あってこその正義だ。力なき正義は、躊躇なく暴力を振り回す悪に蹂躙される。一見して、そんなか細い正義の擁護者に見えなくもない先生だが、

「不破警部補は、そんな人だったかしら?」

 真琴が耳にした警視庁時代の先生は、そんな軟弱さではなかった筈だ。その旧官職名に反応した先生の雰囲気が固くなる。

「──もう終わった事ですよ」


 遡る事四半日。

 母美也子は、宗家の居間に集まっていた面々を前に采配の主導権を一方的に宣言。続けて作戦概要を説明すると、真琴に外務省との折衝を命じた。

「何をすればいいかお分かり?」

「外交ルートを使って関係国に擬律判断させて、後は外交旅券かしら?」

「分かっているのなら、早く動きなさい」

 その命令口調が癪に障ったが、確かに時間がない。元外務官僚の伝など大した物は残っていないが、外務省は外務省でそれなりに賑やかにしている筈だ。そのどさくさでいきなり目当ての人を突くと、こちらに気を引く事が出来た。とりあえず耳を貸してくれるらしい。が、今の真琴の立ち位置は只の被害者の母親。その口が何かを語ったところで、何ら責任を有しない弱者の上訴でしかない。という事で、

「不破元警部補の事をよく知る元同僚の方のプッシュが必要です」

「──と言われて袖を引かれましても」

 私はここを離れる訳には、と戸惑う滝川を引っ張り出した。捜査本部の現場責任者が元同僚なのだから一石二鳥だ。

「今はとにかく時間がありませんので」

 と是非を確かめる事なくそのゴツい手をとると、意外な脆さで着いて来る。やはり女子供には気後れするのか、はたまた美人に弱いのか。何と思われようとその場はそれを逆手にとって、有無を言わさず宗家の車に連れ込みそのまま出発。着の身着のまま連れ出された滝川は、道中電話をかけたりかかって来たりでしばらく賑やかだったが、道半ばにしてようやく静かになった。

「忙しいのにすみません」

「一応これでも、役立たずの集まりの頭ですからね」

 急にその頭に足が生えて遁走したリアクションなど、別に警察に限らずとも何処も似たようなものだろう。

「まぁ警察は力及ばずですから、お後は御母上様の辣腕にすがる外ありません」

 と、体たらくを恥じる滝川の頭を掻く仕種が、不意に先生と被った。

 こんなところは──

 熊のような大男でも、先生と同類なのか。がさつさが目につくばかりだった現地本部から引き離して初めて気づく、その懐のようなものの広さだ。

「──何か?」

「え?」

 どうやら不躾にも、少し見入っていたらしい。

「──すみません」

「いえ──」

 まぁいいんですが、と軽く喉を鳴らして体裁を繕った滝川が、

「──しかし、現場の一警察官の声で、外務省を説得出来るとは思えんのですが」

 と、また頭を掻きむしった。どうやらくせらしく、本当に刑事ドラマのコロ◯ボのようだ。

「説得は私がしますので───」

 滝川に頼むのは、どうひっくり返っても真琴が及ばないその身の立ち位置。警察のレッテルだ。その立場にいる者が、作戦概要とそれに対する警察の見立てを語る事で、やろうとしている事の正当性を引き出す。

「私は状況の詳細と、不破の作戦遂行能力を話すだけでいいと?」

「そうです」

 光明といえば、外交の場はイレギュラーに塗れており、そこに法の介在は希薄という事だ。それに免疫がある外務省は、この手の事は日常と言っていい。そこへつけ込み、こちらの思惑を出来るだけ引き出したい。が、それに水を差すように

「参ったなぁ」

 と言う、滝川の声だ。

「事件の状況はいいとして───」

 問題は、先生の話。外務省からすれば、知りもしない赤の他人のスキルを、どう分かりやすく説明するか。何よりの説得力は、目に見える実績という事になってくるが、

「──アイツには、人様に語れるような実績がまるでないんですよ」

「そうなんですか?」

 特殊部隊員の指導員とはいえ、あくまでも指導員は指導員。

「そもそもが、日本の警察の特殊部隊なんて、殆ど訓練ばかりの毎日ですから」

 実戦経験の乏しい部隊の指導員の実力を、言葉を飾って可視化したところで、独りよがりというものだろう。

「ろくに成果も上げないのに有難がられるとは、如何にも公務員的ですわね」

 思わぬ自虐と共に、滝川の口から溜息が漏れる。そんな張り子の虎のようなところを追い出された後の先生は、所轄署の一捜査員でしかなかったらしい。

「──いや、一にもなってないか」

「え?」

 罰や苦情に事欠かなかった、とか。

「あれぞ、記憶に残る男ってヤツで」

「はあ」

 真琴が眉をひそめると、滝川が豪快に噴き出した。

「それこそ外務省では話せるモンじゃありませんが、この移動中の暇つぶしにはなりますよ」

 思わせ振りな口振りは、どうやら先生との関係性を察しているのだろう。機微に敏感なところは、がさつでも刑事の一面だ。それに答えない真琴に構わず、

「あれは本当に変わったヤツで──」

 と、勝手に話を進める滝川だ。

「特殊部隊では本当に──」

 ひたすら裏の指導員。表舞台も何もあったものではなく、極秘扱いでベールに隠された存在だったらしい。

「まさに幽霊職員扱いで」

 にも関わらず、組織内で大したフォローもなく孤立。教え子達の支持もなければ、何の根拠もない悪評ばかりが広まり、問題児扱いされる日々。

「表向きには何をされていたんでしょう?」

「用度って呼ばれてましたよ」

「用度?」

 警察で用度と言えば、警察官ではなく、施設の維持管理業務を行う行政職員の事だ。

「指導員時代のアイツは、表向きにはひたすら装備資機材の維持管理点検ばかりやってましたから」

 時に苛烈な執行力を誇る機動隊にしてその特殊部隊で、そこに属する者がそう呼ばれる事の屈辱だろう。

「物を大事にするヤツでしたから向いていたようですが──」

 裏を返せば、様々な装備品を知り得ていないと出来ない事でもある。

「小器用でしたから、兵站要員としてはそれなりに重宝されてましたね」

「今の勤め先でも、施設の子供達のおもちゃをよく修理していますよ」

「それは実にアイツらしい」

 仏軍でも後半の五年間は、兵站業務の延長上の切り札要員だった先生だ。裏方で活躍するその姿は、今のイメージと重なりやすい。一方で、組織違えど何れも表舞台を躱し続けるかのような経歴に、一抹の寂しさを感じるのは気のせいだろうか。

「物分かりが良過ぎるというか、欲がないというか──」

 と、似た様な事を口にする滝川も、同じ思いらしい。淡白過ぎるのだ。使い勝手のいい人間がそんな事では、使い捨てられるのも当然だろう。恐らく今母が企てている作戦も、頼まれればきっと先生は使われて(・・・・)くれるのだ。それにつけ込もうとしている自分が、とにかく後ろめたい。

「──罰や苦情の山を築いた問題児振りは、所轄に出てからの事なんですよ」

 警察では所轄署の事を「第一線」とも呼んだりする。文字通りの最前線であり、本部本庁からそこへ行く事は、余り良いイメージではない、とか。本庁の指導官の肩書きが外れた後、一応一階級昇任を果たした先生は、役は上がった出世人事という名のあからさまな左遷で所轄署へ転勤。時を置かずして、その最前で人目を引く日々を送り始めたらしい。

「あんな形のくせに、当たり前を貫く据わり方をしてやがったので──」

 要するに、柔な見た目のせいでとにかくなめられ軽く見られていたのに肝は据わっていた、という事だ。犯人や被害者を始めとする事件関係者から上司同僚部下に至る部内の人間、接する人々が誰であろうと、上っ面しか目が行かない人間にはとにかく甘く見られていた。そのピンぼけの印象のくせに、

「──善悪是非、怨親(おんしん)平等などと、生意気な事を抜かしてやがりましてね」

 善悪を行う者に良いヤツも悪いヤツもない、と言う絶対的観点だ。それを当たり前に口にしては、淡々飄々と当たり前を貫き通していた。そんな中でいざ肉弾戦になるようなら、圧倒的な力を見せつける。その真実を知る僅かな者達だけが、

「まさに世に言う羊の皮を被った狼でしたね。そのイメージギャップと言ったら最悪」

 と、強面の滝川をして語られる先生の本性。

「確かに」

 そんなところは真琴も散々驚かされた口だ。虎皮羊質ならぬ羊皮虎質の如き、厄介な男。だがその本性を知る者は少なく、大抵は見た目通りに軽く見られる。で、誰彼構わず当たり前を言っては相手を怒らせ、それが苦情を招いたらしい。一番の苦労は、

「逮捕身柄にナメられると、否認されるものですから──」

 事件捜査の著しい負担になった、とか。否認されると、被疑者から犯罪の立証に有益な供述が得られない。となると裏づけ捜査は、捜査機関独力の手間となる。それが大変な手間である事は言うまでもないどころか、立件に欠かせない証拠が得られない可能性が高い。その上、強制手続きに踏み切った捜査は、基本的に時間との戦いだ。基本的人権で謳う自由権を、公共の福祉名目で一時的に国家作用の強制力をもって剥奪している状態のそれは、犯人には長く捜査員達には短く感じる事だろう。

「特に飛び込みの事件は大変だったようで──」

 計画的に追跡していた未解決事件と違って、事件には現行犯で逮捕された状態から始まるものがある。これを俗に飛び込み(・・・・)と呼んだりするそうで、その事件を受け持つ所轄署の課員は、夜間休日を問わず職場から呼び出されるのだ。そんな中で否認されては、只でも忙しいのに手間が増える事極まりない。が、そのミスキャスト振りは、人事権を握る者の責任という事も出来る。あえてそんなところへ先生を据えた者にも責任がある、という事だ。それでも勤めを果たそうとしている先生に対し、周囲は辛辣だった。要するところの八つ当たりだ。

「恨まれてましたねぇ。『お前はすっこんでろ!』って。周りの人間からよく怒鳴られてましたよ」

 箔もないのに顔を出してナメられるな、と。

「周りの連中が、その箔に気づいてないだけだったんですけどね」

 と、滝川が呆れ声で笑う。その一方、図らずも供述に偏重しない証拠固めは、裏づけ捜査の徹底にも繋がる。それは冤罪を遠ざけ、真相究明を旨とする捜査機関としては好ましい姿だ。が、

「──それはまぁ建前ですから」

 捜査経済という言葉もあるように、慢性的な人材不足という警察の現場の事。本音は省けるものは省きたい。結果として先生の周囲は、犯人の供述に頼まない証拠収集、つまり弾劾的捜査観を地で行かされていた、と言う事になる。

 そんな問題児の事務分掌は、

「組織犯罪対策でしてね」

 一昔前で言うところの暴力団対策部門だ。その取締る対象の定義を拡大し、核として暴力団根絶を睨みつつ、それに絡む良からぬ者達も根こそぎ取締る。現代警察における暴力団対策に対する決意の表れのような部署だ。その事務分掌は広く、暴力団めいた反社会勢力が絡む事件であれば、殆ど何でも受け持つ。その忙しさの上、そうした勢力の逆恨みも買いやすいため、大抵の人間は進んでやりたがらない。

「そもそも組対なんてのは、刑事の中でもベテランや手練れが行くとこですからね」

 そこへいきなり放り込まれた先生は、あからさまな辞職勧告を突きつけられたようなものだ。

「捜査未経験者が、いきなりそこの係長ですから」

 それが、始めこそ大変だったようだが、

「まぁ事件屋(・・・)だったので──」

 それは警察内部の蔑称の一つで、「事件を呼び込みやすい者」を意味する。次々に事件を呼び込んだ先生は、一年もすればそれなりに一端になったらしい。元々性根は据わっているのだから当然だろう。変わった事件を呼び込んでは、知恵を絞り脂汗をかきながら体得する。警察絡みの法知識は、こうして磨かれたようだ。

「政府交通統計悪用詐欺なんて事件もやったりしてね──」

 私には何が何だか、と空笑いする滝川が口にしたそれは、先生と出会った梅雨の

 あの日──

 当の本人が匂わせていたそれだ。それを思い出した真琴の顔が、こっそり熱を帯びる。あの事は誰にも知られたくない馴れ初めにして、今の真琴にとっては人生における珠玉の思い出だ。

 そんな先生を、一、二年もすれば、周囲では侮る者もいなくなった。

「組対も大概強面でして──」

 居並ぶ強面共の上に、素朴でうだつの上がらない貧相な男が、

「──ちょこんと座って、黙々と仕事をしてる」

 ある意味でそれもまた、中々の迫力だろう。

「あは」

 真琴が堪らず軽く噴き出した。ヤクザ者の上座で、苦笑いしながら所在なく座っている先生の姿がありありと想像出来る。そんな男が、変な事件に首を突っ込んでは、

「部下を驚かせ、同僚から嫌がられ、上司を悩まし──」

 それでも淡々飄々と突き進む姿に、支持はなくとも恐れ入る向きが、先生の周囲を渦巻く。

「何でそんなに迷いなく突き進めるのかと、尋ねた事がありましてね──」

 すると、

「──日本人の幼稚さに怒っていた」

 と言う。

「幼稚さ?」

「自由と責任の原則ですよ」

 自由を得るには責任を伴う。名を変え時を隔て、古今東西の識者が語り継いで来た、人間社会の根幹に近い思想だ。原理原則と言っても良いだろう。それを理解しようとせず自由にかまけ、責任を放置して好き放題やった挙げ句、都合が悪くなったら警察頼み、組織頼み

「──てのはまぁ、結構ありましてね」

 先生は根に持っていたらしい。

「私らの時代は『罪を憎んで人を憎まず』と言ったモンですが」

 日本でよく引用されるこの言葉の本意は、罪を犯したその動機や背景にまず目を向けるべきであって、罪そのもの、ひいては罪人のみに囚われるべきではない、と言う意味の孔子の言葉だ。が、先生は、

「『聖人君子の言う事なんか、凡人にゃ分かりゃしませんよ』と──」

 鼻で笑っていた、とか。高度で複雑化した現代社会だ。そんな性善説的思想が通用しない事は、現世の乱れたモラルが物語っている。要するに、より分かりやすくは無責任を憎んでいたらしい。警察の分かりやすい立ち位置は、世に蔓延る悪や罪に対する正義の番人だが、先生は警察ごとに当てはまりにくい無責任から目を背けようとしなかったらしい。法の条文の

「──行間を疎かにしなかった、と?」

「上品に言えば、そうとも言えるでしょう」

 そんな、羊の皮を被った一匹狼は、

「自分の生育環境を重ねていたのかも知れません」

 何せ、踏み倒せる親の巨額債務を、正々堂々と返済したような酔狂だ。大抵の世人では理解出来ないだろう。本人はそれで良くとも、それにつき合わされる周囲の人間には、家庭があれば事情もある。ついには何やら組織の内外で、揃って報復めいた事が散見されるようになり、左遷人事が相次いだ挙句、辞職に追い込まれた。

「最後は堪り兼ねたお味方が、梯子を外したって格好です」

 最前線で命を晒し、世の表裏と理不尽を思う様経験させられたであろう、仏軍が世界に誇る外人部隊の、それも特殊部隊上がりだ。協調性重視で突出を嫌う日本式の曖昧さは、先生にしてみれば幼稚だったという事なのだろう。


 一度話は戻って、米軍輸送機で移動中の機内。

 事前に滝川から聞いたよもやま話を口ずさむ真琴に、

「いやいやいやいや──」

 と、堪り兼ねたような先生が割って入った。

「そんな、何か強そうな孤高の男じゃないですよ!」

 それは話が盛られています、と景気よく手を振っては、完全否定する先生だ。

「ただ──」

 税金泥棒と言われるのが悔しかった、らしい。確かにそれは、如何にもよく耳にする使い古された安っぽい決まり文句だ。自己の過失や悪事を棚上げし、それを取り締まる者達が公僕である事をいい事に、無責任な誹謗中傷で日常の鬱憤の捌け口にする。

「こうも支持されない仕事も中々なくて──」

 国民の負託により、国家作用を預かるのが本来の国家機関の姿だ。が、実際問題としてそれが得られていない組織など、独りよがりの自己満足でしかない。

「──それに、疲れたんです」

 日頃観念的な先生の奥底にある、世に対する永遠に拭い切れない不信。軍と警察で捨鉢にされ続けた男だ。

「まぁ、分からないでもないけど──」

 真琴が知るこの男は、そんな事でいじけるような卑屈な男ではない。

「──外務省は、あなたをそんな小物には見なかったようだけど?」

「何ですまた?」

「言っとくけど、いくら何でもこんな急に外交旅券は出ないのよ」


 場面はまた、四半日戻る。

 母の命を受けた真琴が、外務省に着くなり滝川と共に乗り込んだのは、いきなり事務次官室だった。

 こんな時に限って──

 外務大臣(スケコマシ)高千穂(元夫)は、国会会期中にも関わらず、何の用事か知った事ではないが外遊中で不在だ。美也子が脅せば一も二もなく外交旅券を発給しただろうが、いないのではどうしようもない。せめて美也子の伝を使い、現外相の父である元首相高千穂隆一郎の口添えで事務次官を引っ張り出した。が、精々それも門前払いを回避出来ただけの事だ。その事務次官とは、よりによって真琴の元上司。それこそ大方四半世紀振りで、何を今更だ。当時は特に問題のない上下関係だったが、何となくばつが悪いのは気のせいではない。その微妙な機微が、無茶を押し通そうとする真琴の勢いを弱める。

「君もそんなところは、よく理解したものだろう?」

 と、元上司(事務次官)は、開口一番でいきなり苦言を呈した。

「緊急旅券で用が足りる案件だ」

 それは文字通り、緊急に発給される旅券だ。まさに今回のように、急きょの事で渡航しなくてはならないにも関わらず、旅券を持たない場合に適用される。が、それでは基本的に、公務の担保は取れない。そんな事なら始めから公用旅券を取りに行く方が効率的だが、警察庁の公用では、捜査権を有する組織故、他国での捜査干渉に抵触する可能性が拭えず都合が悪い。よって警察以外で公用担保を得る。そのための外交旅券だ。厳密には、外交旅券が即公用公務とはならないのだが、もし作戦時の先生の身に何かが起き、後の人生に何らかの支障を来たした場合。国にその責任を負わせるためにも、最低限外交旅券はせしめておきたい。民間人の力を都合良く使うのだ。ある程度の身分の保証はつけてやって然るべきだろう。

 国は法に則り、出来得る限りの対応はしている。国家としては、それで国民の負託に答えたつもりなのだろう。が、国民からすれば、我が身を守ってくれない法など全く意味がない。クルーズ船には四〇〇〇人を超える乗客が乗船しているが、その大半は邦人だ。治外法権の一言で言い逃れが許されるような状況では決してない。そこで国としては、作戦の状況次第で都合の良い立ち位置を獲得するためにも、積極的なアクションは嫌がるだろう。その上で、このどん詰まりの状況を打開出来るエージェントの存在は、願ってもない事の筈なのだ。

 それを認めさせなくては──

 協力させる先生に申し訳が立たない。が、外務省にとってのそれは、迷惑以外の何物でもなかったりする。

「君が言うエージェントが、逆に邦人を危険に晒すのではないか?」

 作戦が上手くいけばそれに越した事はない。が、失敗すれば乗客に危険が及ぶばかりか、一枚噛んだ外務省にも何らかの責めが及ぶ。そのリスクの大きさを考えれば、外務省は静観が一番都合が良い。捜査は警察の範疇だ。その片棒を背負う必要などなければ、リスクの大きさとメリットの小ささが際立つばかりの、治外法権下の話。高坂の世迷い言に、旅券の中で最も崇高な外交旅券など渡せるものか。それも一、二時間以内の即日発給など、ウルトラCどころの騒ぎではない。そんな怨嗟が聞こえて来そうな、次の一言で門前払いされそうな、そんな状況。

「そもそも、リスクを負うに値する成果が、何故その男に見込めるのか?」

 苦言を羅列する元上司の手元には、警視庁がデータで送付した不破元警部補の在職時の職員情報が、ペーパーになって置かれている。数枚のそれをめくる目が、如何にも胡散臭そうな物を見るようで、元上司に説教染みた問答に持ち込まれてしまう。

「──見てみるかね?」

 と言われて、応接テーブルの対面から手渡されたのは、警察時代の先生の職員情報ファイルと功績調書だった。功績調書とは、特定の功績ある人物を叙勲や褒章などの栄典や公的な顕彰などに推薦するため、官公庁などに提出、保管される文書だ。公務員の場合、上級幹部以外は大抵職を辞する前に、将来貰えるかどうかも怪しい勲功を見据えて職員自ら作らされる物で、外ならぬ真琴も外務省を辞める時に自分で作り提出した。そんなものを作ったところで、中途退職した者が栄誉など賜る訳もないのに、だ。それは先生にも同じ事が言える訳で、それならまずは職員情報で詳細を

 ──知りたい。

 思いがけずも、外ならぬ先生の事を知るまたとない機会だ。その真琴がまず先生の職員情報を手にすると、隣の滝川は残った功績調書に手を伸ばした。職員情報は単純なステータスの羅列だ。身長、体重、生年月日、出身地、保有資格、特技等々。どれもこれも、良くも悪くも目を引くものはまるでなかった。資格や特技は何の記載もなく空欄。採用段階で秘匿事項とされたのか、あるいは本当に何も記入に値する事がないのか、真意は分からない。意外なのは学歴で、高校中退とあった。つまりは中卒だ。公務員になるには、最低でも高卒資格以上が必須の筈だが、

 ──どう言う事?

 と、思っていると、備考欄に「高等学校卒業程度認定試験合格者」とつけ加えられている。高認を取得していれば、公務員の受験資格に問題はない。確かに先生の親代わりの武智からも、高校中退だとは聞いてはいたが、俄かに信じられないのは何故か。熟れた所作やいざと言う時の据わり具合、何処かしら懐の深さや厚みが、それを認めない向きに作用しているのか。以前、その素性が気になり始めた昨夏の盆踊りの時、法学部卒だのクレー射撃経験者だのと想像した事があったが、

 まさかこんな所で──

 その答え合わせをさせられようとは、人生とは本当に分からないものだ。それと同時に、自分の想像力の視野の狭さを恥じる。人を見る時の物差しの、何という短さというか浅慮というか。学歴と知性は同意ではない事を再確認させられる一方で、そんなものを超越する先生の人としての厚みのようなものを痛感させられる。

 何て事ない基礎データを見ながら勝手に先生への思いを膨らませる一方で、これでもかと言わんばかりに記載された苦情や罰の羅列。それらの殆どは【けん責処分】止まり。つまりは始末書で終わっているのだが、それは普通、最後に破棄してなかった事にするケースが多い

 ──筈なのに。

 それらが記録として一々残されているという事は、揉み潰す事が出来ない程に揉め事を起こした、または巻き込まれた、更に言えば、わざわざ残された、という事なのか。注目すべきは最後の苦情だ。書類送検されて不起訴処分になっている。その罪状が何なのか、流石に詳細は記載されていない。こんな調子で、当然賞などあったものではない。まさに、道中の車中で滝川が言っていた事を裏づけるかのような、そんなひどい内容だ。

 そんな異質さが際立つ資料の右上角には、それを象徴するかのように「特」の字のゴム印。何が特別なのか、この内容だから特別なのか、始めから特別なのか。つい詮索させられる一方で、隣の滝川はとっくに読み終えたらしく、軽く嘆息している。それでとりあえず資料を交換すると、滝川の溜息の理由がすぐに分かった。功績調書の方も、単純なステータスや経歴の羅列以外、何も記載がなかったのだ。いざ功績を記載する欄には、わざわざ最上行に「以下余白」という不躾な一言で締められた功績調書など、見た事もなければ聞いた事もない。

「問題児の意味がおわかりいただけたでしょう?」

「ええ」

 そういう滝川に真琴のような深刻さはなく、それどころか軽く鼻で笑っている。

「いや失礼」

 事務次官が黙してその理由を待っている前で、滝川がわざとらしい咳払いをした。

「──コイツは特別採用者なんですよ」

 笑いを堪えながらのんびり吐いた滝川によると、特の字のゴム印は、どうやら警察が特別に募集をかけた職種の採用者を意味するようだった。

「不起訴になった件は、偶然ながら私も詳細を聞知しておりますので──」

 それを話すのが、

「──ヤツの事を知ってもらうには一番いい」

 と歯を見せて笑う滝川に反比例して、事務次官は怪訝そうに表情を固くする。が、

「──まぁ、それもそうか」

「ええ」

 滝川の思わせ振りに何かを感じたらしい事務次官だ。とりあえず、説明の機会をくれるらしい。

 ──やれやれ。

 やはり滝川を連れて来たのは正解だったと思いきや、

「この男がこんな評価なのは、良くも悪くも警察に染まらなかったって事なんですよ」

 と、いきなり語り口が怪しいのは気のせいではないだろう。真琴のそんな懸念などお見通しの滝川が、

「なに、ウソを言っても調べりゃ分かるし、どうせ外務省さんは、これ(資料)以外の事もご存じなんでしょうから──」

 と、話し始めたのは、公権力の不可謬(ふかびゅう)性だ。

「私なんかにゃ聞き慣れない文言ですが、教皇の教えに間違いはないとか言う時に使われるらしいですな」

 不可謬性とは、キリスト教のカトリック教会における最高位者ローマ教皇の教義の在り方【教皇不可謬説】を説く折に、その文言が用いられたりする。敬虔な信者か事情あって学ぶ事がない限り、耳にする事は余りないだろう。それを先生が、

「小生意気にも口にしては、何やらいつも怒っていましてね──」

 それは真琴や事務次官には当然の教養だが、確かに司法官憲の末端の者の口には、少しオーバーに聞こえてしまう。

 ──アイツらしいわ。

 読書家の先生の事だ。そう思う真琴は、圧倒的少数派だろう。果たして滝川は、一般的な多数派であり、聞き慣れないその文言に口を歪めていたらしい。法による支配下で、法の下の平等を原則とする法治国家において、法や公権力は間違える事が出来ないという不可謬性は、当然と言えば当然の、国家の国民に対する誓約だ。

「確かに『ミスをするな』とはよく言われ続けたモンでして──」

 警察に限らず、どの公職でもよく耳にするだろうそれを先生に言わせると、

「『間違えてはならない』が、いつの間にか一人歩きして『間違わない』に変わってしまう、と──」

 つまり、間違う事が出来ないという不可謬性が、間違わないという無謬(むびゅう)性を生み出す。それは紛れもなく、国家や公職に就く者の増長だ。が、それをそこに属している先生が、憚らずも事ある毎に口にしていたらしい。

「バカな事を言うヤツだと思ったモンですよ」

 と言う滝川はもっともだ。兵隊は難しい事を考えず、

「大人しく上に従っていればいいものを──」

 と、容赦なく切り捨てる。

「そうかしら?」

 真琴のその一言は、無意識だった。元々我慢出来ない質だが、最近では先生の事になると殆ど反射だ。先生を巡って忌々しい母とやり合ううちに、そのくせがついてしまったのだろう。

「第一次捜査機関の警察の守備範囲は、日本と名のつく領域の全てに及び──」

 法治国家の名において、六万とも七万ともいわれる法律により統治されている以上、

「治安維持機関としてそれら全てに精通し、誤りなく執行出来る方が──」

 果たして警察にどれ程いるというのか。

「これは手厳しいですな」

 それ故の組織力と言いたいのだろうが、

「事件は千差万別にして、同じ事件など一つもないのでしょう?」

 組織全体で千差万別ある法律の専門性カバーし、所属や分掌を細分化させるセクト主義で突き詰めようとする姿勢は理解出来る。が、それを粛々と処理するのは、外ならぬ現場の警察官だ。その彼らが活動する現場レベルで、セクト主義の恩恵が常に機能するのか。

「──甚だ疑問ですわ」

 マンパワーの組織の代表格である警察とはいえ、国土は広く人口も多い。しかも、警察官の全てが現場で活動する訳ではないのだ。つまり、現場の人手は限られる。更に言えば、知恵と力は細分化した分だけ細切れで、それを現場レベルで結集出来ていない。

「有事即応を旨とする警察が、全ての事案事象において完璧に対応出来ているとでもおっしゃるの?」

「流石に弁護士さんには敵いませんな」

 失礼しました、とつけ加えた滝川が、苦笑いしながら小さく頭を垂れた。腹を立てた真琴を察したようだ。

「我々なんぞは、数ある法律の極々一部を除くと、戒名(罪名)すらまともに口に出来ない体たらくでして──」

 公権力の執行者も人間だ。膨大で煩瑣(はんさ)な法を前に、間違わない訳がない。それどころか、間違わないよう迷う事が多い筈なのだ。

「──それを当たり前のように指摘出来る組織人は少数派で、ヤツはその最たる者でした」

「裁判官でさえ、法廷に裁判所六法を持ち込みますわよ」

 法のプロフェッショナルでありながら、公判廷において必ず物凄い厚みのあるその法律辞典を手元に置いている。それは法に対する畏敬だ。そうした姿勢からすれば、驕慢(きょうまん)な公権力の執行力など、いい加減で穴だらけだろう。

「今更気づかされる傲慢さで、穴があったら何とかとはこの事でして──」

 そのくせ、あやふやな知識と胡散臭い経験則でまことしやかに職権を奮い、間違えればウソをつき、隠す。

「そのくせ国民に対しては、都合よく法諺(ほうげん)で脅す訳です」

 法諺とは読んで字の如く法のことわざの事で、先生は、

「よく法諺ごと、国家のご都合主義を怒っていましたよ」

 とか。一見して柔そうで、すぐに迎合しそうに見えるくせして、実はそんな軟弱さとは対極にいる不思議な男の事だ。重ね重ねも

 全く──

 聞けば聞く程先生らしい。

 法治国家では、法律こそが支配者だ。が、大抵の弱き民草は、それに疎い。学校で習う機会に乏しいからだ。その現実を国が都合よく利用し、

「狐が虎の威を借りていると──」

 それは拙い先生にしては、中々皮肉が効いている。事実としてまさにそうだ。

「虎を前に、知らないと言って許してもらえる訳もございませんしね」

 法を虎に置き換えたこの原則は有名な法諺の一つで、正しくは「法の不知は宥恕(ゆうじょ)せず」と語られている。法律を知らないと言い訳しても罪を許さない。日本では刑法第三八条に明記される条文でもある。その上、

「権利の上に眠れる者は保護するに値わず」

 挙げ句の果てが、

「法は些事にこだわらず」

 と来る。前者は読んで字の如く、不知、無知の事情に構わず権利を行使しない者は守らない。後者は、法は細かい事には拘らないという、やはり字面通りの意味だ。つまり法は、条文の字面通りの判断しかしない、細かい事情は知らない、という突き放しともとる事が出来る。公権力は完璧で、法の不知を許さないのに、怠惰や些事は放置する、

「──とは、制度として一方的ではないか、とか言いやがるんですよ」

 罪に対しては厳格であるのに、不都合な現実は見て見ぬ振りに見えなくもない。

「それは奉仕者として国民に向き合っていると言えるのか──」

 と、少なくとも現場の一兵卒が悩むには大袈裟な内容だ。そういう意味でも先生は浮いていたらしい。国家機関に属する者が、それを公然と批判するのだ。当然だろう。

「そんなある日──」

 事件は起こる。所轄署で当直勤務中の先生が、

「『ホームレスを逮捕しろ』という通報を受けたそうで、そのままヤツが対応したらしいんです」

 事件事故は時と場所を選ばないため、昼だろうと夜だろうと警察署は空に出来ない。交番が基本的に二四時間年中無休であるように、本署も同じだ。ただ本署の場合、署内で勤務する者が交代で当直に就き、電話番や発生する事件に対応する。その折の通報らしい。当直勤務中は、自らの事務分掌外の仕事をする事も多いのだ。

「確かにホームレスの方々は、実はその存在自体が軽犯罪法に抵触する状況があったりする訳ですが──」

 警察がこれらの人々をやみくもに逮捕したり捜査したりする事は殆どない。それが根本的解決となり得ないからだ。軽犯罪法は罰も軽く、例え検挙しても拘留か科料で決着する犯罪で、そもそも【濫用禁止規定】がわざわざ条文に付されている。分かりやすくは、むやみに捕まえてはならないという事だ。果たしてそうした背景で、再びホームレスに戻る可能性が高い人々を警察が捕まえる事の正当性は、低いと言わざるを得ない。この場合、必要なのは苛烈な北風ではなく、慈悲深い太陽という事だ。

「然して不破は、捕まえる意義を見出だせず──」

 その代わりに、貧困対策活動に殉じているNPO法人や弁護士に連絡し、対応を協議した。これは一見して、【合理】的で【妥当】な判断と言える。が、警察とは、国内における第一次捜査機関にして、犯罪を検挙する事で正義を実現しようとする司法機関の側面が強い組織だ。その観点で先生の対応は、その肝心な部分の裁量が欠けており、そこを厳しく指摘された。【合法】とは言えないからだ。例え悪質性が低く、社会的な脅威になっていないとしても、罪は罪。通報者は、先生の対応は犯罪を見逃した【犯人隠避】の罪だと譲らず、先生は見事に揚げ足をとられる格好となった。確かに罪だけに着目するのであれば、事実としてはそうなる。罪は罪だ。

「捜査機関としては、不破の行為を捜査する事こそ、合法、合理、妥当の原則を欠くものだと分かっちゃいましたが──」

 それが警察官を訴追するものとあっては、清廉性を重んじる組織柄、無視する訳にはいかない。合理性と妥当性を鑑み、属する組織の体裁を守るため、一個人の責任で泥を被り罪を宥恕した者が、峻烈な法の一部分をあげつらわれ、属する組織の体裁を守るために、合理性と妥当性を抜きに処断されるという、強烈な皮肉。

「俗世間では理不尽と言われてもよい扱いですが──」

 結果的に泥を被った男は、甘んじてその訴追を受け入れ、内部捜査後に書類送検され当然不起訴になった。内部的な処分も当然軽かったようだ。

「実を言うとどうやら──」

 それは先生に対する何らかの報復めいたものの一環だったようだが、尻尾は掴めず真相は闇に埋もれたらしい。

 公権力は間違わず厳しく取締り、然して不都合な現実を放置する。その典型ともなったこの件は、先生が辞職する大きな要因となった。出る杭は打たれる、という事だ。このまま在職すれば、また似たような事で組織に迷惑をかけるとして、

「その身の引き方も、実にヤツらしいと言うか、あっさりしたもので──」

 グズグズ大樹にしがみつかず、拘らない妙な潔さが際立った。

「そもそもが、簡単に答えが出るようならこの手の社会問題など存在し得ないんですが──」

 善悪や罪罰だけで割り切れる程、複雑に肥大化した現代の高度文明社会は単純ではない。その理不尽に晒され潔く泥を被った男は、法に厳しく、然して不都合な現実に国家として向き合わないそのご都合主義を、

「──忌むべき矛盾だと言っとりました」

 その指摘は、近年散見される自己責任論の横行の原点を見るようでもあり、国家のもっともらしい言い訳と見る事も出来る。

「言われた時には、知らぬ間に随分と想像力が衰えていたものだと、これでも勝手に嘆いたものでして──」

 ベテラン刑事が、片手の指程の年数にも満たない新参者に足元を掬われた瞬間だ。現代ではホームレス問題のように、短絡的に罪と呼ぶ事が憚られるような、罪を憎む孔子の格言でさえ当てはめる事が適当ではない、警察の対応に答えが見出せない事柄が増えているのもまた事実。その中で先生は社会正義から目を背けず、矛盾に抗って公僕としてあるべき姿を求めた。言葉にすれば格好はつくが、要するところ

「──まぁ無茶でバカなヤツでしたよ」

 と、いう事だ。

 末端の司法官憲ながら、善悪や罪罰を乗り越えた先にある事物から目を背けないその姿勢こそ、国民にとっては望ましい奉仕者としたものだろう。しかしそれは、本来国家機関が束になって立ち向かうべき事物であり、警察の一兵卒がそれをやると浮いてしまう。警察で出来ない事は、組織を飛び越して連携を試みるものだが、公務員は総じて動きが鈍い。相手が民間となると、金の出所の問題から警戒される。淡々と当たり前を貫くその迫力に

「──ついて行ける者が少なかった」

 と、いう顛末。

「まぁこんな具合で──」

 人事情報にわざわざ掲載された罰の羅列は、わざわざ先生が被ったようなものらしい。事務分掌の広い部署の係長だ。色々な所に頭を突っ込んだり突っ込まれたりで、厄介事を引き受け、拾い、投げつけられる。その結果、揉めて収拾がつかなければ、責任者として潔く罰を被り続けた。

「責任を負いたがらない腰砕けが多い中で──」

 そうした意味でも先生は浮いていた。良く言えば逃げなかった、と言えるが、

「──保身が出来ない、組織には向かない男だった訳です」

 それは今の先生にも滲む諦念だろう。

「今回のような事件の使い方が出来るのなら、ヤツらしいと言うか、こういうのもアリだなと思いますよ」

 最後の最後まで持ち上げないどころか、最後の最後で落とすような滝川の話し振りは、聞き手にとっては悪印象に作用するだけの事だろう。

 これじゃ──

 外務省は日和るばかりだ。国が手を出せない現状は、実のところ国内向けには都合がいい。法治国家故、法の壁に阻まれ、可能な限り手を尽くしてはいるがやりようがない。そんな口先だけで、結果を伴わなくとも一応役目を果たした事になる。それを批判されても、それを躱す事が出来る論拠があるのだ。見せかけの熱意をちらつかせ、その裏でドライな勘定を弾く。国も予算で動いていれば、無償の奉仕など何処にも存在し得ないのだ。負わされる責任は、軽ければ軽い程良い。

 一方で都合が悪い現実も、また存在する。他国に対する影響だ。乗客の大多数が邦人であるにも関わらず、日本政府が手を出せない状況は、裏を返せばそっくりそのまま、船籍国と沿岸国たる米国へその労を押しつける格好となる。その労が大きければ大きい程、この事件は外交上の負債となる訳だ。

 ──それを知らないとは言わせない。

 自分達(外務省)だけ戦火が及ばない後背で、

 ──ぬくぬくさせてたまるか。

 国がご都合主義で無様を呈している現状で、かつて国のために泥を被り続けた男が、その義務も責任もない今、また一肌脱ごうというのだ。しかも、最も外交負債が軽い方法で解決しようというのだから、外務省は願ったり叶ったり。国の面子やスタンスなど、この際知った事ではない。男のために最低限の担保ぐらいつけてやらねば気が収まらない。

 あの男の価値は──

 軽くないのだ。国にとっても、自分にとっても。

「そう睨みなさんな」

 高坂君、と目の前の元上司に言われ、真琴は我に返った。気がつくと、その顔を食い入るように見ている自分がいる。その表情が俄かに緩んだかと思うと、その手が卓上電話を取り、口が大至急の旅券発給手続きを指示した。電話の相手は誰だか知らないが、外相不在の今、庁舎内では最上位の人間の事だ。誰彼構わず部下としたものだろう。

「──え?」

 呆気に取られる真琴の横で、滝川がしたり顔をする。

「もっとも──」

 と前置きした事務次官が、二人の前にまた別のペーパー資料を差し出した。

「──話にあったホームレスの方を逮捕するような人間なら、今この瞬間で却下したでしょうな」

 新たな資料は仏語のものだ。滝川が読めないと言わんばかりに首を捻るため、真琴がまた先にそれに手を伸ばす。が、今度は途中でその手が止まった。いくら先生のためとは言え、この場でやり取りされる文書は非公開の公文書だ。まずそれを民間人に見せようとする者に問題があるのだが、真琴も真琴で気軽にそれに目を通して良いものでもない。

「いいから、読んで見たまえ」

「しかし──」

 と、言い淀む真琴を後押しするように、

「私には、これが何語なのかすら分かりません」

 と滝川が匙を投げた。仕方なく新たな資料を読み始めたそれは、在仏日本大使館作成の仏在留邦人データだ。名前欄を見るとそこだけ漢字で不破具衛とあった。どの程度の厚みの資料か、とりあえず紙をめくってみる。と、その資料の下に更に別資料が添付されていて、それがまた仏語でびっちりだ。が、別資料のそれには名前が二つ。一つは先生の本名だが、もう一つは武智次郎とあった。

「これって──」

「フランス軍外人部隊司令部の隊員データだよ」

 もう一つの名とは、つまり偽名(アノニマ)だ。

 ──タケチ、ジロウ。

 何処かで聞いた、と思ったそれは、先生がサカマテの専務室に乗り込んで来た時の偽名である事に気づく。

 まさか──

 あの名前がアノニマだったとは。思わぬところで、その起源を突きつけられた格好だ。偽名を使うにせよ、全くの適当ではないその生真面目さのようなものに、鼻先がじんわりしびれ始める。

 やっぱり──

 そういう男なのだ。従事して来た任務は殆ど荒事専門だが、単なる乱暴な犬ではない。その所作にも見られるように、何処かしら何かしらの節度を思わせる。そんな男なのだ。

 その男の在仏日本大使館の邦人データが、何故仏語なのか。その資料に、何故仏軍作成の資料が添付されているのか。そして何故その資料は、二つとも先生が

 二二歳の時のもの──?

 なのか。

 邦人データは、何て事はない一般的な住所、連絡先などの記載だけだ。が、外人部隊のものは、在隊五年分の経歴ながら、警察の功績調書とは打って変わって頗る輝かしい功績の羅列。それが真琴の知る人柄の男なのだから、警察の特殊部隊の指導員として誰が目をつけたのか知った事ではないが、慧眼(けいがん)と言うべきだろう。そこに忠誠心と実力だけの狂気ではなく、人として社会性を兼ね備えた正義の懐刀のような、そんな人材育成を進めようとしたスカウトマンの心意気のようなものを感じるのは気のせいではない、と思いたい。

 ──なのに。

 事務次官が旅券の発給を渋っていたのは何故なのか。その張本人が(いぶか)しむ真琴に、

「彼は、フェレール公遭難事件の決死隊員だったんだよ」

 と漏らす。

 彼の決死隊は、救助に成功した隊員以外全滅する程の凄惨な現場に投入された。それが今も生きているという事は、その生き残りで栄えある救助隊員だったという事だ。この資料は、その時フェレール家からの調査依頼に基づく回答資料らしい。

「そう、だったんですか」

 驚いて目を剥く真琴の横で、

「フェレール公って、あの元フランス大統領の──?」

 と、滝川も目を丸くする。

「──アイツホント、意外にも程があるな」

 極東国家の刑事が未だに記憶しているような、そんな大騒動だった大事件だ。

 ──通りで。

 高坂とフェレールの密約で、その橋渡しが出来る訳だ。

 当時の真琴は外務省本省勤めだったが、産育休中で詳細を知らなかった。復帰後にはすっかり過去の事で、知る機会を失っていた。つい先程、母美也子からもたらされた先生の情報は、目の前にあるような詳細なものではなく、間に合わせの経歴の羅列だった。まるでこの時ばかりに開示される先生の恐るべき経歴に、今更声を失う、とか。

 それがまさか──

 巡り巡って自分を救う、とか。これを数奇と言わずして何なのか。

 当時のアルベールは、褒美を受け取ろうとしない雲隠れした英雄に「何でも一つ願い事を叶える」と口走った。現職の仏大統領にして世界に名だたるフェレール財閥の長が吐いたその一言は、その影響力と発言力と発信力の大きさも手伝って、一時期世界的な話題になったものだ。

 それを、今更──

 あの男は自分のためではなく、他人のために行使したのだ。それだけでも返し切れない借りが出来たというのに、その上更にその力を利用しようとしている、とか。

 真琴が密かに打ちひしがれる前で事務次官が、

「スキルが申し分ない事は承知していた。為人が知りたかったのさ」

 と、あっさり暴露した。多くの人質を盾に取られる可能性がある状況下で、乗船している大多数の邦人の立場に寄り添った活動が出来る人間かどうか。その可能性を探っていたらしい。それが出来そうにないのであれば、本当に却下するつもりだった、とか。

「状況が硬直している事は理解している。それを打開出来ないもどかしさも。だからと言って、法を蔑ろにする事にはならない──」

 事務次官といえども、一官僚で一公務員だ。怪しい根拠に山を張るなど普通はしない。それは至極、当然の意見だ。いくら特殊技能を有する軍人上がりの元警察官だとしても、外務省のキャリア官僚に言わせれば、脳筋の無法者ぐらいにしか見えないだろう。特殊部隊などという荒事専門職は、任務に対する忠実さの一方で、その思想が国家に対する忠誠に偏り、それが一種の狂気に見える事すらある。真琴ですら先生のそうした危うさを疑った事があるのだ。それをとやかく言えたものではない。が、

「──個人的には、こういう(・・・・)のは嫌いじゃない」

 と、最後には笑った見せた事務次官は、滝川の話を信じたようだった。警察に残っている先生の資料など、ひどい内容だったのだ。

「最後は人ですか」

 と、太い声の滝川が、がははと笑いながら腰を屈めて事務次官に手を差し出した。それを受けた事務次官が、同じように手を出して握手を交わす。いくら組織が巨大化して複雑になろうとも、その中で組織を動かしているのは人だ。

「外務省としても、この状況は健全とは考えていません。──後は頼みましたよ」

「実際にやるのは不破のヤツですけどね」

 贔屓目に見ても一騎当十くらいにはなるでしょう、などと、男二人の間に急に増し始める親近感で、滝川の口が更に軽くなった。

「私の周辺の噂では、不破のヤツは外人部隊を中尉で辞めたそうなんですが、資料にもそうありますか?」

 何が何やらだが、真琴が改めて見てみると【軍曹】とある。が、この資料は先生の軍歴では、中間ぐらいのデータだ。

 そういえば──

 母の資料にも階級の記載があった

 ──ような。

 気がしたが、大急ぎの中の事で記憶が飛んでいる。読み飛ばしたのだろう。いざとなると自分は本当に抜けが目立つ。

 こんなところでも──

 密かにそれを悔しがる真琴の前で、

「中尉で退官したそうですよ」

 と、事務次官がつけ加えた。遭難事件の後、ほとぼりが冷めた頃に特進し、気がつくと異例の幹部候補生となったらしい。

「本人の意に反して、出世街道を走り始めたそうで」

 僅か一〇年で中尉まで昇進した、とか。

「意に反して?」

 滝川に変わって、今度は真琴が首を傾げる。

「フェレール公の迂闊さで一躍有名になりかけたのを嫌って、軍の中枢に埋もれる代わりに異例の出世と任務に追われ始めたそうだ」

 このネタ元の資料はちょっと出せないが、と言う事務次官は、先生の軍歴の後半の事も掴んでいるようだ。その口振りからして、恐らく忌々しくも母のネタだろう。当時の母は駐仏大使だったのだ。元々趣味で情報屋紛いのような事をやっている女の事なら、その程度の事は造作もない。

 結局──

 母と外務省の間で、旅券の話はついていたのだ。俄かに真琴が怒りをたぎらせ始める横で、

「やはり日本警察は、まんまとその芽を摘んじまったようですな」

 と、滝川が空笑いした。これには真琴のみならず、事務次官も少し首を傾げる。

「特別採用したとはいえ、警察はヤツを巡査部長で雇ったんですよ。資料にもありましたが」

 巡査部長と言えば、民間では主任クラスの役職だ。課長クラスに相当する中尉とは釣り合わない。

「特殊技能の指導員なら、普通は最低でも前職同等待遇か、一つ上の待遇で引き抜くモンなんですがね──」

 日本警察で課長クラスと言えば警部相当だ。それは今の滝川と同階級であり、その一つ上ともなると警視。民間企業でいうところの課長と部長の間で、いくつかある役職に【官】がついて回る上級幹部となる。

「──中卒だからって、二階級も落として引き抜いた訳ですよ。始めからものを教わる態度じゃなかったって事だ」

 と、今度は滝川が、何やら怒りに震えている。

「もっともヤツの事ですから、階級に拘りなんてなかったでしょうが──」

 本人はそれでよくとも、警察は根本的に階級社会だ。しかも、指導を受ける側もそれなりに厳しい競争を勝ち抜いて特殊部隊員になってる連中で、向上心も高ければそれ以上にプライドも高い。

「──中卒の巡査部長じゃあ、どうしても格下に見ちまう」

 それは何処の誰だか知った事ではないが、それこそくだらないプライドが生み出した罪と言える。

「大体が、技能レベルで今作戦に臨める警察官なんざ、全国探してもいやしないってのに」

 採用時の間違い(・・・)がなければ、先生は恐らく未だそれなりの待遇で、指導員として警察の中枢にいたのかも知れない。それら全てを知っていたからこそ、

 あの()は──

 警察の体たらくに呆れていたのだ。

 いつから、何処まで──

 あの女は、先生の事を知っているのか。少なくとも、真琴と先生のおかしなつき合い以上の事を知っているのだ。それに比べて

 私は──

 本当に、何も知らない。

「──それを思うと、フランス軍の評価の正当性が際立つばかりですよ」

 実力のある人間を正当に評価するのは、欧米では当たり前過ぎて語るまでもない概念だ。が、日本はそうではない。これぞまさに、日本の学歴偏重主義の典型だ。それに満足するだけの日本と、それに構わず先の人生で何を為すのかを重視する欧米との差の大きさだ。その身をもって両方を体験した先生は、

 確かグアムか、いや普段の縁側でも──?

 真琴がその辺りの事(・・・・・)を、説教臭い持論をもってひけらかすまでもなく知っていたのだ。それこそ

 まさに──

 日本型の真琴と、欧米型の先生の構図。いい加減、そんな自分のバカさ加減に腹が立つ。これを能無しの口叩きと言わずして何なのか。そんな能無しは、世の中のバカな男達をバカにしていて、その男達と先生を一緒くたにしてからかっていたのだ。

 ──うわ。

 凄まじい時間差で自分の胸を抉るそれに、吐き気がする。何という自分自身の薄っぺらさだ。

 重ね重ねも勝手に打ちひしがれていたそんな真琴に、

「──発給条件が二つある」

 と、したり顔の事務次官が言った。

 一つ、用済み後は速やかに返納の事。

 もう一つは、

「返納は私宛まで、本人が直接返納の事。君のつき添いでね」

 と、真琴の元上司が意地悪くも笑う。

「──は?」

「君程の女傑に頼られる男というのを、ぜひ見てみたくてね」

「な、何を言って──」

「事後承諾だよ」

 外交旅券は本来、外交使節に発給するものだ。その素性の調査は当然の作業で、緊急発給の事なれば発給時は必要最低限とし詳細は事後、

「という事で──」

 発給を指示した者としての責任、と言う割に笑っている事務次官の、重ね重ねも人の悪さだろう。そのくせ外務省は、真琴が切り出す前に、既に関係国と本件の擬律判断を折衝済みと来ていた。結局全ては母の根回しに外ならない。真琴の役目は、出来た外交旅券を貰い受けるぐらいの事だったのだ。

 外務省で旅券をせしめた後、真琴はそこで滝川と別れ、先生を待ち受けるべくそのまま羽田へ向かった。「事情は追って説明する」と、一も二もなく真琴を急かして外務省へ追い出してくれた母が、先生の経歴詳細のデータを送って来たのは、少し落ち着いた(・・・・・・・)その道中だ。

 ──今更遅いわよ全く。

 母は母で、色々手筈を整えながらの事だったのだろうが、それにしてはタイミングがいいような気がするのは果たして気のせいなのか。まるでまずは、仕事の時の先生の顔を知る数少ない人物の生の声を聞かされたかのような錯覚は、どうやら思い違いではなかったようだ。データを送りつけて来たメールの文末に、

"粗相なく、支えておあげなさい"

 とある。あの母の中では、先生と真琴なら先生という事だ。恐らく今の状況でなくとも、人としてそういう事なのだ。想い人を認めさせた嬉しさ半分、先生に負けたような悔しさ半分、と思ったところで鼻から失笑が漏れ出た。

 そんなの──

 勝ち負けで言うなら、とっくの昔に惨敗している。無駄な意地っ張りも

 ──大概にしないと。

 今度は口から溜め息が出た。

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