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立春(後)②【先生のアノニマ(中)〜13】

 また、作戦前の米軍輸送機上に戻る。

「──フワトモさんって、呼ばれてたのよね?」

「そう呼ばれる時は、呼び捨てでした」

 公私に渡り様々な名をもつ先生だが、本名を蔑まされるのは流石に面白くないだろう。が、その通り名は本人の意に反し、職員数四万人を超える巨大組織において、表舞台での在職が僅か数年ながら悪名を馳せた。

「まぁ少しなりとも世のためになれたのなら、内部で何と言われようと別にいいんですよ」

 表裏の顔をもつ、特殊な任務を担う者の宿命らしい。仏軍でもそうだった先生は、思えば非日常こそが日常という特殊な人生の連続を送って来た人種だ。

 始めから──

 真琴が及ぶような人間ではない。それを上っ面だけで侮っていた自分の薄っぺらさが際立つばかりだ。

「ちょっと見直したわ」

「え?」

「警察」

 家に押しかけたお騒がせの捜査員のために、ややもするとよく知りもしない先生のキャリアまで侮る向きがあった。弁護士からすれば警察など、司法行政の端くれのくせして体裁だけは一丁前。何の意志も考えもなく、国家に洗脳されてその犬に成り下がっている。口に出さないそんな印象を

「愚直で、洗脳的な司法官憲ですよ」

 と、図星の先生は、常に警察の正義を疑っていた人間だ。

「通り一辺の正義の押し売りを平気でするような、そんな組織です」

 それしか能がない、

「──刑事や公安がいるばかりの、そんなところですよ」

「それはドラマの話でしょ」

 だが、実際の日本警察には、世界に誇る交番制度にも見られるように、誇らしい民主警察の範は存在する。複雑化する社会構造に揉まれながらも、そうした地域密着型の窓口として働く警察官達もまた、立派に職責を

「──果たしているじゃない?」

「まさに立て板に水ですね」

 現職(警察官)より説明が上手です、と先生が苦笑する。

「支持率低いですから、警察は」

 戦前後の国家の横暴を、高が数十年で国民が忘れよう筈もなければ、国家機関の支持率は下がる事はあっても上がる事はない。その上警察は、世の悪と対峙しては何かと逆恨みされやすい、国家の犬にして国民の敵だ。罵声や誹謗中傷に晒される事は多く、感謝される事は少ない。それでも公平中正を旨とし、不可謬なる職務に邁進して当たり前。

「支持などされずとも尽くすのが公僕なんでしょうけど──」

 国民も公僕も同じ人間だ。批判に耐性があろうとも、それを長年組織の内外で強いられて来たとあっては、人嫌いになるのも無理からぬものだろう。

「だから辞めた後、あんな山奥に?」

「そうかも、知れませんね──」

 特に先生は、只でも擦り減りやすい部署にして役回りだったのだ。

 それなのに──

 軍歴まで遡れば、実に二〇年。死中に活を求めるような人生に反比例するかのような、先生の人格の安定感はどうだ。その裏で相当な我慢を、それこそ歯を食いしばって歯茎が痩せ細る程の辛抱をして来た事だろう。

 よく耐えて──

 来たものだ。

 私なら──

 早々にブチ切れて、ちゃぶ台返しを連発した事だろう。真琴にしてみれば、そんな先生は誇りだ。が、それを口にするのはやはり恥ずかしい。

慰めてやりたい気持ちはあるが、いざとなると

 ──ダメだ。

 自分の捻くれた口先は、憎まれ口しか知らない。

「──でも何か、すっきりしましたね」

「は?」

「こんな事、人に話した事なかったので──」

「そう」

 その相手として認識されている事が、掛け値なく

 嬉しい──

 と思うと、また何かが迫り上がって来る。それに気づいていない先生は、相変わらず淡々としたものだ。

「今更警察を擁護するつもりはありませんが──」

 今回の件で何も出来ない警察は絶対悔しい、らしい。それはそうだろうが、色々思うところがあって当然の先生の、その声色もまた当然変わらない

 ところが──

 凄いのだ。そこに諦念ではなく、自分より余程高い知性を感じる真琴は、

 それこそ今更何を──

 と思う。自分などは、ろくに感情をコントロール出来ない短絡さなのだ。

 ホント今更──

 自分はどれ程、思い上がっていたのだろう。

「──只でも支持が低い警察の、またとないアピールの機会を奪われる悔しさです」

 法の壁が立ちはだかり、最後の詰めを他人に、しかも殆ど自分達が首を切ったようなOBに委ねるという、現職連中の無能振りが際立つばかりの展開だ。

「実は、気がかりが二つありまして──」

「そういう事はそれこそ──」

 本を読む前に、隣で寝ている無能な連絡役を叩き起こしてでも言えばよいものを。

 それこそ──

 こんな風に自分を押し殺して、この男は寡黙に生きて来たのだ。

「──ここに至って我慢しないでよ!」

 それは死地へ赴かせ、難しい役割を強いる真琴の、せめてもの償いでもあり願いでもあるのだが、語気強く感情的になってしまう自分と先生の歴然たる差をことごとく痛感させられてしまう。

「はぁ、すいません」

「いや、謝るところじゃないから!」

 それはむしろこちらの台詞なのだが、

「──こんな所でもいつも通りって、ホント調子狂うわね全く」

「はぁ、すい──」

「だから謝らないでって!」

「すい、あ──」

 堂々巡りで切りがない。

「もう! 怒ってる訳じゃないんだって──!」

「ええ、それは分かってます」

「それなら何で──!?」

「謝り癖なのは自分でも分かってるんですが──」

 他人と深く関わらないようにするため、とりあえず謝って逃げる。

「──ある意味、突き放しとも言えますが」

 そうやって、他人の悪意から自分を守らなくてはならない人生を、この男は人一倍生きて来た、という事だ。

「──もう、人を出し抜いて、功を立ててやっかみを買うのはコリゴリなんです」

 か細くボヤくその姿は、如何にも頼りない。

「只でさえ私はもう、国の束縛から退いた人間ですので──」

 もう縛られたくない、とか。その気持ちは、

 ──よく分かる。

 そうした野心に程遠いところにいる人間である事は、山小屋でそれこそ痛い程理解している。が、

「そうは言われてもね──」

 高坂は、決して許さないだろう。

「民間人の事なら余計ね」

 タダで義務なき民間人に危険な任務を負わせたとあらば、許さない以前に御家の恥だ。

「あんな家なんてどうでもいいけど、これに関しては私も同じよ」

「しかし──」

 アルベールを助けた時のようなドタバタには、もう巻き込まれたくないらしい。

「──やっと心静かに暮らせるようになったんです」

「私にしてみればあの事件は天の配剤ともいうべき記念すべき出来事なのに?」

 それで元夫との復縁話が、めでたくご破産になったのだ。

「それはそうだとしても──」

 市井の民の手には大きな力は余る、とか。

「──市井の民? あなたが?」

 それにしては、

「随分色々とやらかして来てるわよね?」

 真琴の記憶だけでも、昨年の花火大会に始まり、盆踊り、次世代戦闘機を巡る陰謀と続いて、とどめが高坂重工とフェレールの提携だ。

「市井の民はあんな事(・・・・)出来ないの」

「だから、そんな事(・・・・)に携わる仕事人(・・・)にはなりたくないんです」

 その静かな悲痛に、ようやく気づく

 ──なんて。

 どこまでもニブい自分に嫌気が差す。如何にももっともな話だ。社会性の高さは器用さの証。知能も高く、いざとなれば腕力は言うに及ばず度胸もある。しかもそれが天涯孤独なのだ。本人が望めば立派なエージェントになるだろう。

「それも、そうね」

 先生がそれを望まないのならば、今回のような使い方(・・・)は、

 絶対に──

 今回限りにしなくてはならない。現に滝川も、それを匂わすような事を既に口にしていたのだ。組織の体裁のために一個人で泥を被り、組織の体裁のために受ける必要のない罰を被り辞職に追い込まれた男に、この上更に自らの体たらくの不都合を押しつける組織にして国家とは、恥も外聞もあったものではない。今回の高坂は見事にその片棒を担いでいる訳で、

「──ゴメンなさい」

 つい調子に乗ってそんな事も分からなくなる自分に腹が立つ。

「そう、思い詰められると──」

 弱いんですが、と苦笑する先生の優しさは、それはそれで一周回って憎たらしい。

「じゃあどうすればいいの私は?」

「ご褒美はいらないんです、もう」

「だからそれでは───」

「どうしてもとおっしゃるのであれば──」

 と被せる先生が、

「──この状況がその前払いって事で」

 などと、訳の分からない事を言う。

「この状況?」

「山小屋の縁側みたいで、懐かしいです」

「な──!?」

 何だそれは。

 今──

 それを言うのか。突然向けられた好意のようなものに動揺する。

「何訳の分からない事を──」

 身体のあらゆる汗腺が開いて、汗が噴き出すような錯覚。いや、実際に出ているのか。貨物室内は昇温昇圧されていて、寒くはないが暑くもない。一応動きやすさを考慮した真琴が着ているのは、素気ないダウンジャケットにデニムのパンツだ。それに包まれた身体が、瞬間で一気に痒くなる。拙い先生の言葉の素直さのせいだ。

「子供みたいな事言ってる場合じゃないでしょ!?」

 その自分の憎まれ口に、はっとする。先生の言葉は、真琴の中では子供の純真さに心を打たれる感覚だ。だからこそ、捩じくれた真琴の心の奥底にも届く。それが心を許した者の言葉なのだから尚更だ。のんきで素直で愛すべき素朴さ。そんな男が、

「ひょっとすると、これが最後かも知れませんから──」

 と、只ならぬ事をまた素直に吐露する。その立て続けの動揺のせいで、真琴は堪らず心臓の上から手を押しつけた。そうでもしないと嫌な動悸で身悶えしそうだ。いや、もうしているのか。同時に悪寒のようなものがするのは、想像力の賜物だろう。先生に会えなくなるという拒絶反応だ。

「──いろんな意味で、ですけどね」

「はあ?」

 悪い癖で反射的にすぐ反駁しようとする。が、

「この場は、あと何時間かは、誰にも邪魔されませんから」

 などと、先生は相変わらずの素直さだ。それなのに、

「パイロットがいるじゃない」

 とか、拗らせ女はどこまでも嫌な揚げ足取りしか出来ない。重ね重ねも嫌な女だ。自分で自分が嫌になる。

「欧米では、人前を気にしないものです」

「それを今返すか!」

 そんな事でこの男を籠絡した事があったそれが、凄まじい時間差でブーメランになって返って来るとは。

「も、も、も──」

 雰囲気に飲み込まれそうになるのを、無理矢理シャットダウンするつもりが、

 ──あれ?

 自分でも驚いた事に呂律が回らない。これでも一応、滑舌の良さが売りのアナウンサー稼業の経歴(黒歴史)を有する身だが、その舌がもつれるなどいつ以来なのか。

 それでも──

 自分のような賢しい嫌味な人間なら、すぐにでも「桃がどうかしたのか」と笑いそうなものだが、先生は当然そんな野暮などしない。その憎らしいまでの余裕に対して嫌味な女は、

「もう一つは何なのよ!?」

 と、ヒステリックを晒すザマだ。

「もう一つは──」

 次の一言は、真琴にとっては予想外もいいところだった。

「──息子さんの事を聞いておきたいんです」

「えっ──!?」

 訳の分からない問答を引かせたと思えばこれだ。思わずその横顔に食いつく勢いで先生を見ると、それに応じた先生と視線が絡んだ。

「助けるべき人を間違わないよう身体的な特徴を、と思いまして──」

「──あ」

 言われてみれば当然だろう。先生は、真純を知らない。

「そ、そうか。そうよね」

 その真琴の動揺が伝わったのだろう。

「それも含めて、その──」

 と、急に重くなった口が、嫌味な女の分身の人の事も知りたい、と漏らす。

「──実は、前から気になっていたんです」

 何故、一緒に住んでいないのか。

「色々と事情があるのは、何となく分かるんですが──」

 自分の子供に辛く当たるような母親には見えない。

「厳しさの中にも、優れた母性で我が子を育てているあなたしか、私には想像出来ないので」

「な、何をまた──」

 自分の何処を見て、この男はそんな歯の浮くような事を言うのか。

「わ、分かったような事を──」

 言ってくれる、と言ったつもりが、掠れて出て来ない。男の安易な理解を歯痒く思う以上に、どうやらそれを喜ぶ自分がいる。先生の次の一言は、そんな真琴にはとどめだった。

「もし、私なんかに、何か言えるような事があるのなら──」

 最後に伝えておきたい。

「最後って──」

 常に心の何処かで、突然訪れる人生の終わりを想像する事を余儀なくされるような、そんな職務に身を投じて来た男だ。その言葉の重さに

 今更気づくとか──

 そんな自分の鈍感さに、つくづく呆れる。

「──っぐ」

 堪えようとしたが、声にならない声が無様に漏れると、後は嗚咽が出るだけだった。


 どれくらいグズグズしただろうか。自分自身が忌み嫌う女々しい女を見事に露呈した真琴は、自分でも驚く程延々と、緩んで止め処なく出て来る鼻を啜っていた。

 長年ちやほやされて、ろくでもない男達につき纏われて来たが、真純の事を気にするような男は誰一人としていなかった。皆、真琴の美貌や財産ばかりに目が向いて、その内側を見つめようとする者など皆無だった。それは当然、そこに至るまでの関係性に到達出来た男が、誰一人として存在しなかった、という寂しさの裏打ちでもあったのだが。

 この土壇場で──

 そのデリケートな事柄に触れる事が出来る、それを許す事が出来る者が現れた事に対する真琴の感慨は、只でさえ、最近めっきり緩くなって困っている涙腺を、あっさり崩壊させてしまった。堪らずダウンジャケットのポケットから取り出したのが、いつもの先生のハンドタオルだ。

 何でこんな土壇場で──

 この男はこうも見事に、心の隙間に入り込んで来るのだろう。

 何故、人の事を考えるゆとりがあるのだろう。

 何故、堂々として落ち着いていられるのだろう。

 自分でもいい加減グズグズしていたと思うが、それ程の時間を隣の男は黙って待ち続けていた。

「──何で、何も言わないの?」

「何て声をかけたらいいのか分からないので──」

「冷たい事言うのね」

 ここへ至っても相変わらずの憎まれ口が、情けなく揺れて様にならない。

「あなたが人前で取り乱すような事ですから──」

 その中身を聞く前に慰める事が出来るとは思えない、と、いつもは拙いその口が珍しくも筋の通った事で真琴を突く。

「何から話せばいいのか分からないんだけど」

 喉を引きつらせながら出て来るのは、子供のような拗らせばかりだ。

「何からでもいいんですよ」

 相変わらずの鷹揚さが、急に頼もしく思えるようになって、またしても気づかされるこの男の甲斐性。文字通り、

 もう──

 身も心も完全にこの詐欺師の虜だ。嗚咽を出し尽くし、少し落ち着いたかと思うと、後はそれまで一人で抱えていた鬱憤を無様にぶちまけた記憶でしかない。

 何をどんな筋道で話したのか。真純(息子)の話の筈が、確かに始めこそ真純の事から話し始めはしたが、後はそれに付随した自分の半生。幼少期からの母との確執、学生時代の陰湿ないじめ、社会人でのセクハラ、お妃候補に担がれそうになる程の婚難。それを逃れるための行き当たりばったり婚の挙句の早期離婚。シングルマザーの末に、それなりに大事に育てて来た愛息からの余りにも早い三行半という、数々の無様な顛末。以前にも話した記憶があった事も含めて、洗いざらいベソをかきながら、人生の黒歴史を語り尽くした。その最後に口にした事が、一番ハードルが高く、一番情けなかったが、勢いがついた口先はもう止められなかった。

「──私、嫉妬したの」

 それを真琴が他人に口にする事の有り得なさだ。かくいう真琴は、他人の嫉妬に散々苦しめられて来た。それは忌むべき感情で、人嫌いの真琴が他人を妬むなど。しかも妬んだ相手が、実の息子とその婚約者だとか。有り得ないにも程がある。そんな息子は、男と呼ぶには余りにも拙い年で成熟した健全な精神をもって生涯の伴侶を見つけ出し、解き放たれたように真琴から離れて行った。

 ──どのくらいもつか。

 うら若き二人を前に、真琴は侮っていた。何年も、何十年も追い求めながら、自分が手にする事が出来なかった当たり前の幸せ。それを実の息子に、出し抜かれるようにあっさり見つけられ、見せつけられた真琴は、二人を前に激しく動揺した。

 何で──

 こうも簡単に、幸せを手にする事が出来るのだろう。自分には何が欠け、何が違うのだろう。

 いや──

 いずれ解消するに決まってる。真琴は密かに、歪み始めた。が、そんな真琴とは裏腹に、月日は順調に過ぎていく。その後真純が、司法試験の予備試験に合格。昨年中学を卒業後、早々と法律事務所で勤め始めると、俄かに結婚という具体的な話が上がり始めた。

 ウソ──。

 まだ一六の年だ。結婚可能年齢は二年先ではないか。一方で婚約者の千鶴は、もうすぐ三十路だ。それを思う真純が急ぎたいらしい。今でこそ千鶴の実家(真琴の実兄宅)で暮らしている二人だが、結婚と同時に家を出て所帯を構えるという。確かに千鶴の年齢を考えれば、その選択は分からないでもない。

 ──好きになさい。

 真琴は、真純(我が子)を突き放した。

 どうせ──

 自分は、結婚に失敗した口だ。いつまで経っても一人で突っ走って、周りに当たり散らしては強がっている弱い人間だ。実はそんな負の感情に塗れている自分が、人生の先達(せんだつ)として

 言える事など──

 何もないのだ。ましてや人の親としてなど。あらゆる人間関係の構築に失敗し続けている人間が、行き当たりばったりで人の親になっただけの事なのだ。愛など無縁の感情のまま子を作り、産んだだけの、軽薄な親だ。そんな親が、

 今更何を偉そうに──

 言ってやれる事があるというのか。そもそもが、そんないい加減な生き方をして来た人間なのだ。親たる資格などないではないか。

「何て格好がつかないんだろう──」

 最後は喉が締まり、声が揺れて細い高音になった。

「私の方が子供だったの──」

 続いたその一言は、殆ど悲鳴だ。飛行中でやかましい軍の輸送機の貨物室でなければ、聞くに堪えない叫びだった事だろう。文字通り、子供が泣きながら何かを訴えるそれだ。そのせいか、また嗚咽が出始めると、何とかそれを抑えようとして

「ひくっ」

 と、しゃっくりまで出始めてしまった。まさに子供のようだが、感情が溢れている真琴には、もうなす術がない。

 頭の上に何かが乗ったように感じたのは、そんな時だった。ハンカチ越しに顔を上げると、いつの間にか隣の席に置かれていた筈のリュックが先生に変わっている。その先生の手だ。顔を見ないようにしてくれているらしく、正面を向いたまま伸ばした手がぎこちなく、真琴の頭頂部から後頭部へゆっくり動いている。そんなに大きくもなければ厚みも感じない、男としては貧相な部類の手だが、柔らかで温かい。

 ああ──

 この手だ。昨年末の悲嘆にくれた別れの日も、泣いて撫でられたが、今はそれと比べるまでもなく、掛け値なしにとにかく嬉しい。

 でも──

 触れれば触れるだけ、すぐに物足りなくなる。それは魔性にも似た、愛すべき男の肌だ。先生の前では散々無様を晒している真琴に今更怖いものもなければ、躊躇なくその胸に顔を突っ込んでやる。

「なっ──!?」

 と、先生の裏返ったような声が騒音に紛れて耳に届くが構わない。それなりの勢いで突っ込んだのに、華奢な体躯ながら予想通りの力強さで受け止めてくれる。そんな、頼れる男だ。一瞬硬直した先生は、それでも黙ってその胸に顔を埋めていると、往生したように身体を抱き寄せてくれた。再び頭を撫でてくれるその手や胸から、期待通り香る穀物系の良い匂いだ。やった事はないが、まるで藁の山に飛び込んだ時のような、如何にも温かく優しい匂い。人里離れた山小屋で仄かに漂っていた、米糠の懐かしい匂いだ。これが、

 最後なんて──

 有り得ない。男の胸の中で落ち着きを取り戻すと、脳が思考を再開する。

「──最後だなんて、私は嫌!」

 想いを声に出して確かめると、収まりつつあった発作がまた再発し、瞬間で両目から大量の涙が溢れた。

「絶対嫌だから!」

 嗚咽と共に言葉を吐き出すと、またしゃっくりだ。

「黙ってないで、何とか言いなさいよ!」

 怒鳴って訴えてみても、声はヨレヨレで頼りなく、全く締まらない。我ながら聞いた事もない、自分の情けない声だ。その一方で、

「絶対、帰って来ますから」

 と、答えてくれた先生の声は、子供をあやすような優しさだ。それを良い事に、揚げ足取りが得意な嫌な女が、ここぞとばかり食いつく。

「じゃあ最初から最後なんて言うな!」

 我ながら頭の中では何とかしたいと思っている口の悪さだが、言質を取った瞬間の反射で口が動いてしまって止められない。こうなると、引き続き子供の駄々捏ねだ。

「最後最後って連呼するから! あなたのせいで散々泣かされちゃったじゃない!」

「人生の終わりの意味合いで言ったつもりでは──」

「じゃあいろんな意味って言ったのは何なのよ! 今更屁理屈や言い訳なんか聞きたくない!」

 怒鳴った勢いの真琴が、先生の胸に押しつけていた顔を引っぺがすと、今度はその首根っこにしがみついた。

「私は最後なんて嫌なんだってば!」

 目から涙、鼻は鼻汁塗れ、口から唾しぶきを飛ばす女が、首根っこでそれらをこすりつけながらしがみついているとあっては、先生も堪ったものではないだろう。が、もう形振り構っている余裕など、とっくの昔になくなっている。

「──分かりました」

「何がどう分かったってのよ?」

 グズグズになっていても口先だけはよく回る、

 ホント──

 我ながら嫌な女だ。

「また山小屋でお待ちしています、で、合ってますか?」

 人嫌いの先生が人を招くのは、好意の表れだろう。その言質を取りつけた真琴は、今度は殆ど噛みつく勢いで、先生の頬に口を押しつけた。まるで、喜び余ってじゃれつく犬だ。

「──今はとりあえず、それで許してやるわ」

 半泣き半笑いでしがみつく真琴が、いい加減顔を拭こうと先生から離れようとすると、今度は先生が離さない。

「ちょ、ちょっと、顔拭きたいんだけど」

「今は、放したくないんです」

「な、何よそれ」

 これだけ泣かされては目が腫れるかも知れず、今までの真琴なら、それこそ反射で強烈な嫌味を返してすぐに顔を拭いただろう。が、離れたくないのはグズグズの顔の女も同じだ。

「顔中の汁をなすりつける女の何がいいの?」

「どんなあなたもあなたですから──」

 いいんです、と言われたならば、今後皮肉を改めようと思う素直な自分に驚く自分がいる。

「──仕方ないわね。ちょっとだけよ」

 皮肉が鈍ると憎まれ口の切れ味も悪くなるものらしい。最後の一言は、まるで往年のコント集団のお色気シーンの決め台詞だ。それに気づいたらしい先生が、鼻で小さく笑ったようだったが、もう言い返す力も残っていない。優しい手で撫でられる犬の気持ちが今程理解出来る瞬間もないだろう真琴は、しばらくの間大人しく、思う存分先生に頭を撫でられ続けた。


 日付が変わった東京時間午前一時前は、米国ホノルル冬時間では前日午前六時前だ。常夏の島といえども季節的には冬のハワイ州近辺は、まだ真っ暗だった。東の空の、太陽が水平線から顔を出す辺りの闇が、言われてみれば僅かに極鈍い明るさを伴っている程度だ。

「タクさん! 間もなく降下ポイントです!」

 それまで全く音沙汰がなかったシャーさんが、いきなりインカムで割り込んで来た。その声に真琴が我に返る。

「あ──」

 気がつくと自分の頭は先生の肩の上だ。思う存分頭を撫でられるまま、寝落ちしたらしい。

「──ゴメンなさい!」

 慌てて頭を起こすと、先生は相変わらずやんわりとして、本を読んでいる。

「いえ」

 目が覚めた途端にまたドタバタし始める真琴に対し、落ち着き払った先生が徐ろにインカムを外すと、自前のリュックサックを手渡された。

「荷物を頼みます!」

 後は地声のやり取りだ。

「分かった!」

 軽く声を張っただけなのに、喉に痛みが走る。寝落ちする前の独白(・・)は、それ程喚き散らしたという事のようだ。

 サポート要員で来たのに──

 結局、粗相をしてしまった。

 被害者の親という立場は、とっくに頭から消え失せていた。元は屈強なエージェントとはいえ、今となっては完全無欠の民間人である先生を頼む申し訳なさで頭がいっぱいだった。少しでも任務上の負担を軽くしてやりたい一心で、一緒に輸送機に乗ったのに

 逆に──

 気を遣われてしまった。

 まさに、母が事前に送りつけてきたメールの言いつけを守れていないどころか、先生を困らせている。この際母の言いつけ自体はどうでもいいのだが、何かを母に見透かされていた悔しさと、自分の情けなさと、重ね重ねも先生に対する申し訳なさで頭がおかしくなりそうだ。

 手にしているハンドタオルは、最早何の汁だか分からない程の水気を帯びている。目は視界がぼやけており、それ程までに泣き腫らしたという事だろう。考えるまでもなくひどい面をしているのだろうが、それをいつまでも引きずらず瞬間で状況を巻き戻せたのは、やはり先生のおかげだ。ここ最近の不眠症が、この数時間でウソのように解消しており、心身共にスッキリしている。慌ててタブレットを確かめると、約一時間前に滝川からメールが届いていた。

 やっぱり──

 動きがあったようだ。それを降下準備中の先生に見せると、思わずうっとりする程の流れるような手慣れた手つきで装備品をチェックしたり装着している男が、一瞥しただけで親指と人差し指を伸ばした手をそのまま軽くひねってみせた。理解を示す手話だ。その余りの速さに、真琴が頭を捻る間もなく先生の手話が種明かしをしてくれる。真琴が寝ている間に、シャーさんから聞いたらしい。全くもって全く役に立っていない自分は、最早謝罪すら憚られるザマで、真琴は自分に向けた掌を顔の前で撫で下ろすしかなかった。相槌だ。

 犯人グループは、やはりシージャックを宣言した。約二時間前の事だ。米国領海から約三〇海里離れた公海上で宣言し、そのままその場で停船中らしい。これには米国沿岸警備隊も、

「遠巻きに見ているだけだそうで──」

 とりあえず静観の構え、と小忙しい筈の先生が、丁寧な手話で教えてくれる。

「海の憲法」とも呼ばれる【国連海洋法条約】を締結していない米国は、基本的にそれを遵守する義務がない。が、慣習的にはそれに準じており、船の所有国、旗国共に他国籍で、その上米国領海外にいる国際的な外航客船が相手と来ては、妥当な対応だろう。領海でなくとも一定の要件下で近接権や臨検が認められるケースもあるが、どうやら二の足を踏んでいる。要するに、米国籍者が数える程しか乗っていない船という事実が、被害者国籍国を宣言するには大仰と判断したようだ。米国VIPでも乗っていようものなら話は別なのだろうから、そうならないところをみると、乗船している米国民とは庶民なのだろう。クルーズ船の停船位置は、一応米国の排他的経済水域内だが、それは資源に関し主権的権利が認められるという、これも海洋法上の取り決めにして、言わば例外だ。

「──海賊船でもありませんし」

 所謂海賊行為が認められる船は、公海上であろうとも旗国主義の例外とされており、それに対する各国の軍艦や政府船は、先述の近接権や臨検を行使出来るとされている。が、それは明白な海賊船に対しての事だ。客船に対してそれを主張し行使するのは流石に無理があるだろう。いずれにせよ米国の立ち位置は、当事者国間では最も関係性の薄い立場だ。わざわざ無理無茶をして、国際的な信用を失う事もない。現場は公海上なのだから、まずは旗国主義に基づく船籍国が対応するべきなのだ。とはいえ、肝心の船籍国は一貫して動きが悪い。

「せめて船籍国が協力要請でもしてくれれば──」

 と、真琴が不満を漏らすその船籍国は、当初の予定通り犯人グループのシージャックを受け、ようやく事案の対応検討を開始した。が、それで何かが進展する訳もなければ、要するに精一杯日本の外交負債をあおり、少しでも自国の利益を引き出さんとする、

「──俗物根性です」

 とは、国家間ではそれなりにあったりする。

「どうするの?」

 真琴の声色に不安を感じ取った先生が、外したばかりのインカムに手を伸ばした。作戦開始直前の忙しない中、それは無駄な動きだ。が、手慣れた準備をする先生の事なら、手話で答える手間と天秤にかけての事だろう。

「ゴメン! 準備して!」

 その余計な一手間が、作戦の足を引っ張るようなら一大事だ。即先生の命に関わり、ひいては被害関係者の命に置き換えられる。今はとにかく、先生の作戦準備だ。というのに、

「──いえ、大丈夫ですから」

 と、やはり先生はやんわりと、然してテキパキと準備を進めながらも口を動かし始めた。

「とりあえず私人として、船籍国内法の監禁の事実で現逮します」

 船籍国にそれ(監禁罪)が成文化されている事を確認済みらしい。事件が現在進行形なら、監禁状態は続いている。犯人グループの全員が大なり小なりその監禁に関わっているのだから、一網打尽にしたところで誤認逮捕する事はない、という訳だ。無罪の(そし)りを受けないためにも、まずは分かりやすい犯罪で逮捕する。流石は捜査経験者としたものだろう。当然、私人逮捕の権限も

「確認済みです」

 と、抜け目ない。

「犯人グループがシージャックを宣言したなら──」

 よく耳にする航空機の【ハイジャック】に関しては、実は国際的な共通認識の下で、それを防止し取締る条約が締結されている。いざ国際線でそれが発生したならば、即時【犯人所在国】【機体国籍国】【被害者国籍国】の関係各国に余波を及ぼす国際犯罪であるそれを、締約国間で明確に定義づけ、条約に則した内容の犯罪行為を各国に成文化及び訴追を義務づける事により、ハイジャックを予防し取締るためだ。そのハイジャックと同様に、所謂和製英語で言われるところの【シージャック】に関しても、国際テロや海賊対策の高まりに起因して条約が締結されている。

「【海洋航行不法行為防止条約】が生きて来るけど──」

 と、真琴が口にしたそれだ。正式には【海上航行の安全に対する不法な行為の防止に関する条約(通称SUA条約)】と銘打つそれも、ハイジャック同様締約各国に対し、犯罪行為の成文化は言うまでもなく、原則的に犯人所在国に対しては訴追を義務づけている。筈なのだが、船籍国は同条約締約国であるにも関わらず、

「──この日和見は、最早信用なりません」

 と、先生はあっさり言い切った。

「それにSUA条約は、解釈や見解に争いやブレが散見される事でもあります」

 と、どうやらこれは、仏軍時代の経験則だろう。何かと粗野な印象が拭えない軍の事だが、それでも自由民主主義陣営の法治国家に属する軍なら、様々な派遣先においても様々な根拠をその活動に求めるものだ。その中でも、先生が在隊していた外人部隊とは、仏軍内では激戦地に赴く最先鋒。海外派遣経歴が、そうした意識を根づかせたに違いない。

「それに、船籍国のシージャック対策法や海賊対策法に目を通してみたんですが──」

 裁判例が見当たらなかったらしい。船舶の保有数では世界指折りの国の事なら、それなりに同国船舶は事件に巻き込まれていてもおかしくない筈だ。が、それがないとは不自然と言わざるを得ず、要するに何もやっていないと考えていいだろう。

「──いい加減で適当な国です」

 つまりは、一昔前て言うところの「安かろう悪かろう」だ。船籍さえ獲得出来れば、実際の所有国である日本の厳格な法を気にする必要がなくなる。経済大国日本からすれば、船籍国との経済格差は雲泥の差で、船舶関連を始めとする税は安く、労働関連法どころか法全般そのものが緩い。よって、船にまつわるあらゆる運用コストを抑える事が出来る。その代わり、事件など有事が発生しようとも政府は動かない。正しくは動けない(・・・・)のだ。船籍国は反政府ゲリラや、国をまたがる大規模な麻薬組織があるような小国。軍と警察が一緒くたの荒っぽい治安機関は、国内向けの事すら満足に対処出来ていない。都合良く船籍を獲得したような船の事など、金でも積まれない限り積極的に対応する訳がないのだ。それでも、

「何件か対応事例があった事はあったんですが──」

 やはり裁判例は見つからなかったらしい。裁判を起こすまでもなく解決した、という事だろう。船籍国の対応とは、それ程までに大雑把で荒っぽい。

 結局は、そんな国家のSUA条約絡みの法律など

「信用出来る訳もないので──」

 それを拠り所とする事に希望が見出せなかったらしい。一応、日本も船籍国も同じSUA条約締約国なのだが、国が変われば何もかも違う。と、これは、

「シャーさんに頼んで、軍の端末で調べてもらったんです」

 とかで、満足のいく資料だったそうだ。中米に位置する船籍国絡みの資料であれば、その公用語はスペイン語で、

「私は全く分からないんですが──」

 流石に米軍端末としたものか、ご丁寧にもきっちり日本語訳してくれたらしい。

「──で、監禁で捕まえようと」

 犯人グループを捕縛したならば、その一味と先生は諸共船籍国に所在(・・)しているとはいえ、裁判権をもつ同国は遥か数千km先の海の彼方だ。その上、未だ言い訳がましくも何の部隊も展開していない日和見のその政府に、物理的にも状況的にも即刻頼れないとあっては、安全上好ましくない事この上ない。よって、船内の不安定な状況の早期回復のため、緊急避難的にそのまま行き先地であるホノルルへ向かう。その後、米国領海で待ち受けている同国沿岸警備隊の艦船に引き継ぎ、米国の法的根拠に基づく偽造パスポートによる不法入国で逮捕。合わせて、

「──国際手配された監禁と旅券法違反の事実で、身柄を確保してもらいます」

 という算段。本来であれば、外国船舶の船内で沿岸国の主権が及び始めるのは、沿岸国港内との見解が一般的だ。が、洋上で米国籍の船舶に乗り換え、更にそこが米国領海内とくれば、米国以外の国が主権を行使出来る余地はない。

「日和って何もしないくせに、御用になったらなったで犯人を掻っ攫って外交カードにする気なのかも知れませんが──」

 そんないいとこ取りはさせない、とか。

 結局、何もしなかった船籍国に後から口を挟ませないため、本作戦を開始後は完全除外。そのための、圧倒的な国力をもつ米国での犯人引き渡しでもある。船籍国が何かの利権を求めて旗国主義を振りかざそうとも、事実として米国が犯人を確保したならば、後は船の所有国で、大多数の日本人乗船客を有する被害者国籍国にして、米国と【犯罪人引渡し条約】を締結している日本の出番だ。脆弱な司法と執行機関しかもたない船籍国に、割り込む余地を与えない。

 そんな先生の見解は、真琴が寝ている間にシャーさんを経由して、沿岸警備隊とFBIの間で認識を共有済みという周到振りだった。実際に犯人を確保したなら、後の事は日本の警察庁が上手く調整するだろう。条約に則り日本警察が米国から犯人を引き受け日本に移送。その後は警視庁による事後捜査で、日本の司直に付する事になるのは間違いない。

「仮に、もし作戦が失敗しても──」

 その時点で船長に遭難を宣言してもらう。遭難船舶ならば、沿岸警備隊も活動根拠として固いところだろう。仮にクルーズ船が遭難通信を飛ばせなくとも、沿岸警備隊側が先生の作戦失敗を認識した段階で、次の作戦行動に入る手筈らしい。

 結局──

 全部調整させてしまい、何もしていない自分。外交事務に覚えがあり、かつ弁護士の身分をも有する真琴だからこそ、あのにっくき母も先生のサポートを自分に任せたのだ。

 それを──

 突入目前の気忙しさとプレッシャーの中、現場の民間エージェント自らが、一人で沿岸警備隊とFBIを相手に片手間で調整してしまうなど。

 何処まで──

 神経が図太いのか。いざとなると肩書き負けする自分に反比例するかのような先生の思いがけない辣腕振りは、単純に実務経験の高さなのだろう。そこにこの男の人生の過酷さのようなものを、今更ながらに垣間見、怯む。それはよく分かったが、

 いくら凄腕だとしても──

 本当に夜明け前の真っ暗な空中をパラシュートで降下して、単独潜入の上犯人制圧

 なんて──

 出来るのか。それこそ今更過ぎて、とても口に出来たものではない。その代わりの一言が、

「失敗の責任は、あなたじゃなくて私にあるから!」

 とかいう、何の気休めにもならない、これを間抜けと言わずして何なのか。傍から見れば、

 こんな事を言うために──

 わざわざ先生につき添ったのか、と言われんばかりの能無し振りだ。散々エージェントに気を遣わせて負担をかけた自分がした事など、精々被害者たる愛息を放ったらかし、好きな男に甘えていただけという有り得なさだ。

 先生の身を案じる以上に、心中に押し寄せる無力感に苛まれる真琴を前に、先生はこの土壇場でも相変わらず何処かしら柔らかく佇んでいて、ふんわり飄々としている。が、そんな男が、今最終チェックをしながら纏っているのは、紛れもない軍服という凄まじいギャップだ。これが罪作りと言わずして何なのか。果たしてこんな男に、何かにつけて際どさばかりが目立つこの任務を押しつけてよいものか。

 気がつくと、先生を見る目が熱を帯びていて、また一人で勝手に動揺している。それに気づいた先生が、

「──大丈夫。心配ご無用です」

 と、いつも通り丁寧で物静かに、然してはっきりと言い切った。その一言の、頼もしさの中にある相変わらず(・・・・・)の安定感に、ふと心が軽くなる。

 ──そうか。

 先生が据わっている以上に、

 私が──

 必要以上に慄いていたのだ。今この瞬間、それを教えてくれた男が、

「じゃあ、ちょっと種明かしを」

 と、繋ぎの中から見覚えのある機材を取り出した。

「それって確か──」

 昨年、サカマテの専務室に乗り込んで来た先生が、盗聴盗撮機材の調査で使った

「スペアナです」

 と答えた先生が、合わせてスマホも取り出し、稼働状況を確かめる。

「犯人を盗聴する訳?」

「はい。想像通りなら」

 そうこうしていると、輸送機の後部ハッチが開き始めた。時間だ。

 これが──

 本当に最後の時になるかも知れない。先生が口にしたそのフレーズが脳内でこだまする。と、受け入れ難い拒否反応としたものか、身体が硬直してしまった。ハッチが開き切った時が別れの時だ。それに目が釘づけになっていると、不意に身体が軽くなった。瞬間後、我に返ると、先生にお姫様抱っこされている。

「──なっ!? ちょっ!?」

 線が細いくせに、全くもって意外な力強さだ。驚く真琴が抵抗する間もなく椅子に降ろされると、シートベルトをつけられる。

「危ないですから」

 降下ポイントという事は、もうすぐハワイ到着という事だ。一気に押し寄せるその現実に、何かをする訳でもない真琴がすくみ、またしても先生に手間をかけてしまう。

「着陸まではこのままで」

 今度こそインカムを外した先生にそれを手渡されると、自分の手がその手を掴んでいて放そうとしない。

「──あれ?」

 その後の謝罪が喉の奥でつっかえ、代わりに涙腺が崩壊した。

 何を──

 やっているのか。この期に及んで先生を困らせるばかりだ。が、手に飽き足らず、続けて口が、

「絶対帰って来て!」

 とか言って、目の前の男に怒鳴り散らしている。

「変に責任感じないで!」

 とは、

 ──矛盾だ。

 無理を強いておきながら責任を感じるな、とは、余りにも都合が良過ぎる。

 何て勝手なんだ──

 散々偉そうに生きてきた罰だろう。よりによってこの土壇場で、自分の愛すべき存在に最悪の矛盾を押しつけるザマだ。

「お願い──!」

 気がつくと、今度の真琴は目の前で両手を組んで目を瞑り、うずくまっていた。今更ながらに突きつけられる、日常の非日常性。思いがけずそれに直面し、祈らずにはいられない自分。それを弱いとさえ思っていた自分の、何というおごりだ。いい加減な年にして、初めて経験する運命に対する畏敬だ。猛烈な不安で身体が震え、縮こまっていないとどうにかなりそうで、

 怖い──

 そんな時。思いがけない強い力で肩を叩かれた。軍用グローブ越しで痛みはないが、またしても男の意外な(たくま)しさに、現実に引き戻される。

「真琴さん!」

 力強く名前を叫ばれると、遠退いていた周囲の音が耳に戻った。

「お気を強く! 確かに!」

 思わず顔を上げて目を剥くと、しゃがみこんだ先生が、親指を立てて柔らかく笑っている。力強さと柔らかさのギャップも大概だが、この土壇場で

 名前を──

 呼ばれるなど。まるでこの時のために取っておいたかのような、そんな小賢しさが、小憎らしくて、嬉しい。

 この土壇場で──

 詐欺師極まれりだ。

 脳内を錯綜する様々な思いの中で、別の意識の向こう側では、左手首につけたレア時計を確かめる先生がいる。それこそ知る者ぞ知る、強者の証だ。持ち主を選ぶとまで言われるそれを、淡々飄々とした柔な男が御している事の、今更ながらに実に熟れた頼もしさだろう。

 そんな男が次の瞬間、足取り軽く水たまりを飛び越すような身軽さで、ふんわりと闇に向かって飛び出した。


 結果は極当然にしてあっさりと、インカム経由でシャーさんからもたらされた。

「制圧したそうです」

「は?」

 先生が出て行って、まだ一〇分かそこらしか経っていない。輸送機は着陸態勢に入ったものの、まだ着陸すらしていなかった。

「素人相手なら、こんなモンですよ」

「そう、なの?」

「全て作戦通りです」

 それだけ言ったシャーさんが、インカムを切った。同時にタブレットにも、滝川からメールが入る。作戦通りクルーズ船は既に、米国領海に向け航行を再開したらしい。

 ウソ──

 ではないようだ。こうもあっさり片づいてしまうとは。

 ──うわ。

 こうなって来ると、直前の自分のみっともない狼狽だけが際立つのみだ。一方で、先生のスキルを知る関係者は、シャーさん然りでこの成果を当然予想していただろう事を思うと、今度は歯痒くなる。が、今はとりあえず、

 恥ずかしい──

 の一言。そんな自分の手は、未だにグズグズになったハンドタオルを握っている。それを慌てて上着のポケットに隠してみるが、そんな事でなかった事になる訳もなく。只ならぬ汁気を帯びたそれこそが、それ程取り乱した事の証だ。

 一体──

 自分は何を心配していたのだろう。

 私一人だけ──

 バカみたいではないか。輸送機の貨物室に一人取り残されていた真琴が、込み上げてくる恥ずかしさを堪え切れず両手で顔を覆った。それと共に押し寄せる安堵感に、また目頭が熱くなる。

 犯人制圧より遅れる事数分。輸送機がハワイ・ヒッカム空軍基地に到着すると、

「関係者は、ホノルル警察署に集合です」

 と言うシャーさんが、基地の車を出してくれた。本来なら、基地の正門までの随行予定だったそうだが、

「まぁ、ここまで来たついでという事で」

 と、一も二もなく、車に押し込まれてしまう。何か考えあっての事なのか、それとも只の善意なのか。運転手は一見して真面目そうな若い兵士で、後席を真琴に明け渡したシャーさんは、助手席でニコニコしている。

 ──何なんだろう。

 真純の事件が事件だけに、今は身構えてしまう。が、結果として二〇分そこそこの道中は、当然何事もなければ、

「いい天気でよかったですね」

 と、声をかけられただけの、物静かな道のりでしかなかった。日の出にはまだ少し時間があるようで、顔を覗かせる直前の太陽がダイヤモンドヘッドを神々しく照らすそれは、北半球の厳冬期である事を忘れさせる。シャーさんは、そんな独り言をボンヤリ呟いている。

 答えが出たのは、ホノルル警察署に着いてからだった。低層で重厚なコンクリート造りの警察署前には、早くもマスコミが溢れ返っている。思わず口を歪めた真琴に、

「ここが米国側の捜査本部でしたから」

 と、如才ないシャーさんが、運転手に裏へ回るよう指示を出した。その裏門から署内の捜査本部まで連れて来られると、

「では、不破さんに宜しくお伝えください。お貸ししている装備品は、お手数ですが後程ヒッカムまでお持ち頂けると助かります」

 私は一足先に戻りますので、と言ったシャーさんに、意味深な目配せをやり逃げされた。その視線の先にいる先生を茶化すようなそれに

 やっぱり──

 インカムを聞かれていたのかと疑ったが、すぐに自己完結で撤回。そんな事をせずとも、自分は一見して弱り果てていて、先生に慰められっ放しだったのだ。その一部でも見られていたならば、

 ──気づいて当然か。

 先生の知人は数こそ少ないが、中々小粋な人間が揃っているという事だろう。

 その中に──

 自分は入る事が出来るのか。早速立ち去る先生の友のその後ろ姿に、ふとそんな事を思う。

 署内の捜査本部別室で、FBIの捜査官から受けた聴取は、主に素性の確認だった。それが終わると、通訳を介さず流暢な英語で応対する真琴の経歴を垣間見た担当者が、素人ではないと判断したらしく、事件概要を説明してくれた。事件の中心地は未だ洋上で、その主体たるクルーズ船のホノルル港入港予定は昼前だ。当然、署の前に押しかけているメディアにも、まだ詳報はもたらされていない。その中で真琴は、それに最も早く触れた民間人となった。

 一億米ドルもの身代金は、犯人達が中米の麻薬王に匿ってもらうための身元保証金だったらしい。主犯の谷岡は、高千穂現外相の汚れ役として、あらゆる泥を被っていた。その高千穂に切り捨てられると、その立場は急転直下の地獄行きで、御用になるのは時間の問題。大至急逃亡計画を模索するが、中途半端な逃げ方ではすぐに国際手配されて苦しい逃亡生活となるは必定だ。それを谷岡は逆転の発想で、手配されても確実に逃げ通せる宿主を頼る事で解決しようとした。それこそが中米の麻薬王だった、という訳だ。

 FBIとしては、その接触ルートの解明こそがこの件に絡んだメリットで、高千穂にしてみれば黒い交際の枝葉が伐採される感覚だろう。集金(・・)を得意としていた谷岡を知る麻薬王は、その足元を見て桁違いの保証金を要求した。窮地に陥った谷岡は、手っ取り早く大金になりそうな金づる(・・・)に飛びつく。その被害者が真純で、よりによって高坂の御曹司を狙った凶行は、皮肉でも何でもなければ、谷岡の余裕のなさの表れだったようだ。

 ハイジャックを避けた理由は、ひとえに特殊部隊に突入される事を恐れたらしい。片や国際船舶をシージャックし絶海の洋上に持ち込めば、今回の関係各国を悩ませたように、物理的にも法的にも、何かと犯人側の都合に合わせた展開が可能となる。折しも直近に、横浜港から出港予定の太平洋横断客船があり、しかも船籍は麻薬王の本拠地だ。この際、高千穂と真琴の復縁の件の腹いせに高坂の御曹司を人質に取れば、金は無尽蔵に要求出来る。それを餌に麻薬王はおろか、いざとなればその脆弱な政府をも抱き込めるのではないか。そんな青写真を描いて偽造パスポートで乗船し、優雅な船旅がてら一路ハワイへ向かった、という顛末。

 そこまで説明を受けた真琴が思うのは、

「もし飛行機を使われていたら──」

 という事だ。それを捜査官も、

「状況は厳しかったでしょうな」

 と即答する。そのまま麻薬王の所へ飛び込むだけの話だったのだ。それならば恐らく、身の代金の額は跳ね上がるどころか、真純の命はなかったと見るべきだろう。谷岡がそれをしなかった理由は、

「身元保証金は前払いだったと?」

「そういう事です」

 つまり、飛行機を使いたくとも使えなかったのだ。金が用意出来なくては、早く向かったところで足止めを食らう。それが何処の国だろうと陸地の事なら、その国の治安部隊に物理的に包囲されるのは目に見えている。それを考えての国際船舶だった。そこまではよいとして、

「仮に上手く事が運んだとしても──」

 果たして本当に、計画通りに行くだろうか。それをまたしても捜査官が、

「金だけふんだくられて終わっていたでしょうな」

 と、あっさり答えた。不用意にも谷岡が頼ろうとした相手とは、まさにそういう巨悪なのだ。国をも飲み込む世界有数の闇組織にして一大勢力のそれは、自国の薬物汚染に業を煮やした米国が、捜査協力を飛び越し頻繁に大なり小なりの軍を投入している程だ。しかもあの米国をして、根本的な解決を諦めているような相手なのだ。一言、甘くない。

 少人数での決行は、人数に比例して身元保証金が上がるための苦肉の選択だったらしい。もし麻薬王が乗り気で加勢していたならば、事態は更に複雑化した事だろう。とどのつまりが、

「始めから相手にされていなかったのでは──?」

「──と、いう事です」

 要するところ、ここでも谷岡は切り捨てられた(・・・・・・・)のだ。

「連中もバカじゃない。あなたの御母上の事は、当然承知している」

 真琴の母とは、それ程までに名が通っているものらしい。高坂の金にすがりつく程、麻薬王も困っていなければ、面倒臭いフィクサーと真っ向から対立する事になる元凶をわざわざ匿うなど、まさにリスクでしかない訳だ。

「私の母は、米軍並に忌避されているとでも?」

「何せ国家が二の足を踏むような事を、あっさり覆せる御仁ですから」

 良くも悪くも、名高い事は確かなのだろう。

 これだから──

 あの母の娘など、

 ──やってられない。

 のだ。あの鬼女の所業が、その娘を始めとする一族郎党を巻き込み、問答無用でその悪行の共犯のように断じられる。これを

 いい迷惑──

 と言わずして何なのか。言い出せば切りがない不満はとりあえずとして、そんなこんなで、一見して窮鼠が猫を噛むように思われた事件は、終わってみれば呆気ない結末と共に大団円を迎える。が、もっともそれは、

「御母上が遣わされたエージェントのお陰でしょうな」

 と、FBIの捜査官が最後に呆れてみせた。

「まさか映画の上忍(・・)を送り込まれて──」

 犯人達は驚く間もなかったらしい。結果として滝川の明言通りに、事は収束した訳だ。

 犯人達はシージャックを宣言後、即刻一部の人間を除き下船を要求した。が、これは船長による交渉で、夜明け後に引き延ばされる。もし先生による犯人確保が失敗したならば、

「大勢の乗船客が救命ボートに殺到するばかりか、逆上した犯人が何をしでかしたものか──」

 分からなかったのだ。その観点からも、船の負担は最小限に食い止められた、と言い切って良いだろう。

「──流石はあなたの御母上の手管と申しておきましょう」

 とは、重ね重ねも甚だ余計な一言だが、静観していてもFBIはFBIだ。

「事態の掌握が迅速ですね」

 腕力もあれば知恵もある。

「恐れ入ります」

 今後日本に移る事になるだろう今回の事件だが、それでも沿岸警備隊の艦船に乗り込んだ捜査官によって、そこは早速尋問(・・)が行われたらしい。

「まぁ、それこそ我々がもつ事件ではないので──」

 ちょっとね、と何やら意味深な口振りの捜査官が、軽く舌を出した。

 重ね重ねも、船籍国(公海上)でその国の法律に則り犯人が捕まった事件の事なら、まずはその国の司法で裁かれるべきなのだ。が、緊急避難的に最寄り沿岸国となる米国に引き渡された今回の事件は、

「──異例らしく、ですか?」

「ま、そんなところです」

 と、どうやらこれは、特別な取調べ(・・・・・・)を講じたのだろう。


 ホノルル冬時間午前九時過ぎ。

 真琴が捜査本部の隣室に設けられた関係者待機室で、何人かの警視庁捜査員達と共に待機していると、

「真琴さん!」

 と、千鶴が飛び込んで来た。FBIの担当者から解放され、室内の椅子に座ってウトウトしていた真琴は、その声に意識を戻され頭を上げる。

「──千鶴さん」

 流石に青い顔をしている千鶴だ。一目散に真琴の傍までやって来ると、矢庭にその両手を掴んで俯き、しばらく何かを堪えていた。

 高坂千鶴(こうさかちづる)、二七歳。真琴の実息の婚約者にして実兄長子。兄の子は四姉妹の才媛揃いで、「高坂四姉妹」と言えば業界ではそれなりに名が通っている。その叔母たる真琴は、三〇で本格的に渡欧するまでは適度に交流があった。千鶴以外の他三姉妹は、まさに花が開いたような煌びやかさを帯びる中、以前の千鶴は妹達と似つかず何故か凡庸で、そんな千鶴を真純が見初めた時の衝撃は、今でもよく覚えている。

 千鶴は確かに、人格が高く熟れていて落ち着きがあり、加えて教養も高かった。所謂「リケジョ」で、その分野では真琴も敵わなかったものだ。が、以前の千鶴は、高坂の女にしては余りにも地味で、中々辛辣な評価の周囲の中で、真琴ですら

 せめてもう一息何とかなれば──

 と思ったものだ。その凡庸さに今一つ美しさが伴えば、嫁の貰い手に事欠かない地味な才女。千鶴は、そんな学生時代を送っていた。それに当時小五の真純が喰いついたのだから、良くも悪くも人生とは本当に分からない。が、それ以上の驚きは、その後の千鶴の変化だ。少しずつだが美しく年を重ね始めると、いつの間にか他三姉妹の誰よりも清楚で奥ゆかしい淑女になっていた。その変貌振りに周囲が驚く中、真純だけが当然の顔で「それを見抜いてた」と言うから、刮目ネタに事欠かない二人にして、よく出来たカップルという事だろう。今の千鶴は、真琴が密かに母性では敵わないと認める家政士の佐川由美子と比べても、品の良さと熟れた人格の分だけ上回っている。そんな千鶴の見事なまでの母性は、真琴が密かな嫉妬すら覚える程のものだった。

 千鶴と真純の関係性に嫉妬している事を先生には認めている真琴だが、流石に本人達を前にそれを見せるような愚はした事がない。つもりが、二人の結婚が近づくにつれ、真純に対する態度が冷たくなっているような気がしないでもない。そんな自分に振り回される真琴を知ってか知らずか、千鶴は相変わらず優しかった。

 千鶴からしてみれば真琴は叔母で、そうした呼び方を許される身だ。が、他三姉妹がそうする中で、千鶴だけは一貫してファーストネームでの呼称を貫いた。真琴は姉妹達に、呼ばれ方に拘りはない事を伝えていたが、機微に聡い千鶴は恐らく真琴の葛藤を見抜いていて、徹頭徹尾暖かい配慮を忘れなかった。そんな真純の婚約者とは、今となっては真純が慌てて婚約をせがんだ事が痛い程良く分かる、そんな女性だった。

「大丈夫。大丈夫だったから」

 すっかり涙脆くなった真琴が、平生の気丈さを失いかけている千鶴の姿に思わず涙ぐんだ。実は千鶴も真琴同様に、米軍輸送機でハワイに向かう事を希望していたのだが、真琴がそれを一方的な理由で止めさせた経緯があった。その分到着が遅れた千鶴は、焦らされた分だけ気苦労を負った訳だ。が、軍機とは、民間人が思う程安全な乗り物ではなく、不測の事態が発生しないとも限らない。そんな時、真琴だけならまだしも千鶴がその不測に巻き込まれたとあっては、真純に合わせる顔がない。そんなもっともらしい理由に基づく説得の裏で、真琴にはやはり嫉妬心があった。表向きの理由の裏側で、我ながら本音はひどく、千鶴の圧倒的な母性を前にした先生が横恋慕するのではないか、という千鶴どころか先生をもバカにする浅ましさだ。千鶴はそんな真琴のせいで、昨夜の羽田発ホノルル行きの民間機で現地入りする事となり、先程到着したばかりなのだった。が、

「真琴さんがアメリカ側に事情を説明してくださっていたお陰で、早く解放されました」

 と、気が気ではない筈の千鶴は、早速そんな気遣いが出来る、実に出来た才媛だ。

 この人に──

 私は到底敵わない。疲労のままに顔を緩ませていると、真琴の目の端で同室している警視庁の捜査員達が、何やら気遣わしそうにしている。真琴と千鶴は事件の被害者家族とはいえ、彼らにとっては部外者であり、つまりは腫れ物だ。

「──千鶴さん、ちょっと出よう」

 察した真琴が立ち上がると、千鶴の肩を支えながら部屋を出た。すぐに通りすがりの署員を捕まえると、

「捜査員と一緒で落ち着かないわ」

 と、早速別部屋を要求する。高飛車で傲慢こそが自分の持ち味だ。真琴の要望がすぐに通って被害関係者用の部屋が用意されると、見事にそれを証明する結果に

 我ながら──

 今度は密かにへこむ。

 ホント──

 嫌な女だ。それを見事に

「本当に、流石です」

 と、千鶴が被せた。

「千鶴さんが来たら、個室を貰うつもりだったから」

 それを喧嘩腰で獲得する自分に対し、千鶴は敵を作らず交渉するしたたかさをもっている。真琴がいなくても千鶴なら、違うやり方で丸く利益を獲得した事だろう。その差が、今程怖い時はない。

 もし先生が──

 今の千鶴と出会ったら。真琴が見ても、二人はお似合いのカップルになりそうだ。ひょっとすると真純を差し置いて、

 一気に──

 盛り上がってしまう可能性すらある。

「──真琴さん?」

 そこで千鶴に、現実に呼び戻された。気がつくと、用意された部屋の何でもない所で立ち尽くしている自分がいる。

「折角ですから座りましょう、ね?」

「そうね──」

 ネガティブ思考は、何も先生の専売特許ではない。自分こそ、それを言い出せば負けない暗さをもっている。今この瞬間でさえ、醜い嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。折角事件が丸く収まりつつあるのに、

 私は何を──

 考えているのか。それ程までに先生に焦がれる自分に、思いがけぬ本能的な直感が頭を殴りつけてくれた。

 これが──

 世に言う

 ──恋、なのか。

 その先生と、ついでに真純の無事は既に確認している。

 もうすぐ──

 あと少し我慢すれば、

 ──また、会える。

 それを思うと、嫉妬や不安よりも、今は何より早くこの目でその無事を確かめたくなる。

 早く──

 またあの、ボンヤリした男の優しさに接したい。今度は千鶴に支えられて、与えられた室内の椅子に座らされると、記憶の中で先生の柔らかさに満たされていく。目を閉じて小さく溜め息を吐くと、思いがけなくも緊張から解放される感覚に、瞬間で頭がまどろんだ。

「本当に、よかったですね」

「そうね──」

 軍機と民間機の違いこそあるが、それぞれ不安の中で飛んで来た二人だ。少ない口数に合わせて出る溜め息に、安堵と疲労が混ざる中、あっという間に睡魔が押し寄せて来る。互いの肩にもたれた二人は、そのまま深い眠りに落ちて行った。


 ホノルル冬時間正午前。

 真純は、FBIが用意した車でホノルル警察署へ向かっていた。隣には、何処からともなく突然現れ、犯人グループを制圧してしまった三〇前後の日本人らしき壮年の優男が、如何にも眠たげに緊張感なく座っている。

 一週間前の週末。久し振りの定時上がりで浮き立つ気持ちを抑えつつ帰宅していた真純は、突然背後から鋭利な何かを突きつけられた。瞬間で投げ飛ばそうとしたところ、

「自宅に爆弾を仕掛けた」

 と脅されてしまい、やむなく大人しく拉致される事にした。虚言だとは思ったが、自分の素性を知った上での犯行である事は明らかで、万が一を考えた。ちょうど刑事裁判修習中の身でもあり、刑事事件の実相に興味があった事でもある。この早熟の異才にとって、素人染みた犯行の第一印象はその程度の認識だった。そんな連中のやる事なら、

 煩わしくなれば──

 自ら制圧するまで。そう考えていた。

 然してクルーズ船の旅は退屈だった。用足しと食事以外は拘束され、目はアイマスク、口はガムテープ、手足は手錠だった。それでも自己を律する自信はあったが、何日か経つと、流石に感覚がおかしくなってきた。ここに自己制圧の目論みはあえなく瓦解する。

 ──マズい事になった。

 とりあえず精神と生命の維持に努める事とし、後悔しているそんな時、一陣の風の如く今隣にいる男が現れた。まるでちゃぶ台返しのように状況を一気に覆し、終わらせてしまったのだ。

 アイマスクに手錠姿で救出された真純は、音もなく忍び寄り、旋風のように犯人を制圧した男の形に驚いた。

 ──どんな厳つい男だ?

 と、想像していた真純のアイマスクを外したのは、何処かボンヤリした印象の、線の細い優男ではないか。

「お名前を伺ってもいいですか?」

 と、見た目に違わず柔らかく口を開いた男に素気なく名乗ると、

「──よかった。お母様が大変心配されておいででした」

 と、小さく安堵した男は、自分が先に名乗らなかった事を謝した上でその名を名乗った。何でも祖母美也子に遣わされたらしい。

 って事は──

 どうやら只の優男ではないのだろう。

 客室の一室に拉致されていた筈が、いつの間にか舞台は船橋に移っている。そこでの優男の、その余りにも鮮やかなお手並みは、乗員がドッキリか何かと勘違いする程だったそうだ。が、自分の素性が船長から告げられると、皆一様に顔を青くした。晴天の霹靂で事件に直面した乗員が事件関係者の素性に気づくには、時間は余りにも短く、結局その詳細に触れていたのは船長と一等航海士だけだったらしい。余計な動揺を排除するため、高坂会長からの厳命で箝口令が敷かれていたという、自分はその御曹司にして、クルーズ船はそのグループの船だ。

 その後の展開は、ドラマでよくある正体のバレた大物のそれであり、別の意味で途端に沸騰し始めた状況下で、優男は飄々と船舶無線を手にする。それを通信士が止めようとすると、

「一応【一総通】の保有者です」

 と言って、自分の対応で慌てる船橋内で、こちらも俄かに乗員を驚かせた。国内の無線資格では最高峰と名高い【第一級総合無線通信士】の略称であるその免許取得者は、弁護士よりも数が少ない。資格を得ても活躍の場が少ない事も影響しての事だが、同時に際立つのはその難易度だ。分かりやすくは、デジタル全盛の現代において、モールスの習熟を要するという無茶振り。前時代の暗号通信の花形だったそれを、

 今時使えるなんて──

 只者でなければ何者なのか。という優男は、

「──でも船籍国の免許ではないので、まぁ緊急事態って事で」

 と、何処か抜けている。が、そんな男が慣れた調子で沿岸警備隊と交信し始めると、以後はその如才ない調整力によって、船は米国領海へ移動。待ち構えていた米国艦船の指揮下に入る。しばらく後、その艦船に犯人グループが移送されると、入れ替わりでFBIの捜査官が乗り込んで来たのだったが、ここでもやはり優男の出番だ。流暢な英語で話している内容は、関係各国の活動に関する根拠法や、犯罪認定における法解釈という意外振り。しかもどうやらそれは事前に調整済みであり、その内容の確認という周到さだ。

 腕力頼みのエージェントかと──

 思っていたが、中々意表を突いてくれる。どうせ身分を隠した、警察か自衛隊の特殊部隊員に違いない。が、それにしては、法や活動根拠に対する気の配り方は、どうして中々のものだ。気がつくと、法曹の卵である真純をして、無分別に侮る意識は消えていた。

 そんな中、FBIの捜査官が真純の体調に配意(・・)しながらも、入港までの時間を使って事情聴取を持ちかけて来ると、ここでも優男が、

「日本に引き継ぐだけの事件なら、簡単な事実確認だけでしょう?」

 と、船長と男自身も纏めて聴取する集合面接形式のそれを提案する。そんな聴取など日本では聞いた事もないが、ますます型にはまらない男のようだ。それが受け入れられた事情聴取は入港までに終わったのだが、更に驚いたのは、

「ポリグラフ検査、するんでしょ?」

 と、何かを促すあざとさで、

 どうやらこれは──

 中々の事情通らしい。FBIが事件と犯人を条約に基づき引き渡すだけで、超法規的措置を講ずる用意がある事を知っての物言いだ。

 別名「嘘発見器」と呼ばれるそれの精度と運用レベルは高く、AI化も進んだ現代版は、何でも見透す魔女の水晶に近づきつつある。日本における捜査では、一定要件下で証拠採用されるが、一方で米国では、偏見が強い見られ方で精々参考資料扱いにしかならないそれをFBIがわざわざ用意しているのは、外ならぬ麻薬王絡みのネタ集めのためだ。事件を担当しない米側に証拠は不要で、何でもいいからネタさえ掴めればよい。そんな都合を見抜いているらしい男の水向けは、

「犯人による爆弾設置の事実を確かめて貰えませんか?」

 と、更に食い込む。

「ここは世界の範たる、天下のFBIの出番です」

 事件と犯人の身柄を引き受ける警視庁が、ポリグラフ検査を実施するのは当分先の事。そもそもが日本では、犯人がその検査に応じなければ実施出来ないのだから、今それが可能であり、かつやる気満々の米側が、

「──スマートにも、他国民の生命身体財産にも配意(・・)する。流石はFBIです」

 とは、事情聴取前の口約束をうがった言いがかり(・・・・・)だ。が、エリート意識の(すこぶ)る高いFBI捜査官が、何処の馬の骨とも知れぬ日本のエージェントに、妙な揚げ足を取られるなどプライドが許さないだろう。果たして、わざわざ爆弾探しをするまでもなく、下船前にその事実などない事の証明まで獲得するという抜け目のなさだ。

 ホントにこの人──

 意外に、やる。それは真純の中では、最大級の賛辞に近かった。

 諸々の事情聴取が終わり入港待ちとなると、護衛を兼ねたFBIの捜査官共々、空いていたロイヤルスイートルームに押し込まれた。そこでこっそり男に、言いがかり(・・・・・)の懸念を伝えると、

「恐らく高坂宗家から米側に、相当の謝礼が支払われます。あのぐらいはその範疇(・・・・)ですよ」

 と、鷹揚に答えた男は、そのままソファーで横になって目をつむる。

「昨晩、余り寝てないものですから──」

 休める時に休みますね、と今度は、これまでの繊細さや丁寧さとはまた一味違う、豪胆さのようなものを見せつけられるではないか。

 さっきから──

 非日常の連続だった筈の男だが、そんな時に眠たくなるなど

 ──どんな神経してんだ?

 然しもの真純も言葉が続かない。かくいう自分も疲れてはいるが、穏やかに眠れるのは下船後だろう。かくして全く眠れなかった真純は、せめて最後ぐらいはボンヤリ海を眺めつつホノルル入り。で、今、車で移動中の場面に至る訳だが、目指すホノルル警察署は港から二マイル程度の所にあるらしく、すぐに着いた。が、そこでまず出迎えてくれたのは、その玄関先に押し寄せていたメディアだ。

「暇だな、この人達」

 嫌悪感と事の重大性を再認識させられる中、つい辛辣な悪態が口から漏れたそれを、

「あれも彼らの、仕事のうちです」

 と、生欠伸のついでの優男が、わざわざ拾ってくれる。

「このあからさまな好奇の目が?」

「監視の目でもあります」

 鷹揚自若を地でいく男は、船内における身分確認の折に、只の通りすがりの乗船客(・・・・・・・・・)だと答えていた。見え透いたウソも方便としたものたが、

 それにしても──

 この男を遣わした祖母の、驚くべき手管の多さだ。

 ──何処で見つけたんだろう?

 見つけたと言えば、この男はどうやって船に乗り込んだのか。旅客機のデッドヘッドのように、有事に備えて予め乗り込んでいたと言わんばかりの通りすがりにしては、バックパッカーのようなリュックを背負っていたその中身はパラシュートだった。更にその着衣は、軍用の物と思しきジャンプスーツで、そんな空挺隊員のような乗客など見た事もなければ聞いた事もない。

 まさか──

 夜明け前の闇の中を、空から降下して

 来た──?

 のか。そんな男は、今はジャンプスーツの下に着込んでいた私服になっていて、

「あ──」

 と、呟きながらも、モゾモゾと服のポケットの中から何やら取り出したのはペンだ。

「それ──」

 確か優男が、FBIに引き渡す前の犯人の所持品の中からこっそり抜き取っていた物で、警察署に入る前に電源を切っておくのだ、とか。

「──電源?」

「警察署でスパイか何かに勘違いされても敵いませんからね」

「──スパイ?」

 続け様に妙な事を連発する男が、更に思わぬ事を口にした。

「これを辿って来たんですよ」

 それで真純の疑問に答えたつもりの男が、薄く笑ってまたそれをポケットに入れ直す。

 辿って来た──?

 とは、

 ──何処から?

 ──いつから?

 ──何なんだこの男は?

 疑念が疑念を呼び、それが渦になってぐるぐる回り始めるようだ。


 署の裏口からこっそり案内された一室では、婚約者の千鶴と母真琴が椅子に座って眠りこけていた。すぐ気づいたのは千鶴で、目を潤ませながらも朗らかに歩み寄って来て、ほぼ同じ目線の先にいる自分を静かに抱きしめてくれる。

「ご無事を信じておりました」

 まだ成長中の真純の身長は、一六五cm弱だ。父高千穂の偉丈夫振りや、母真琴の女傑振りからすると、その遺伝子の割に外見はまだまだ見劣りしている。

「ご心配をかけてしまい、すみませんでした」

 それでもようやくこの頃、千鶴の身長を抜かすところまで背が伸びた。昔は千鶴の胸とか顎の辺りまでしか頭が届かず、精神の発達に比べ随分と遅れている身体を疎ましく思ったものだ。それでも千鶴は、今も昔も変わらず、自分を子供扱いしない。

「お身体に障りはありませんか?」

 婚約以来の千鶴の真摯な淑徳さは、くだらない事に悩んでばかりの自分にとってまばゆい光だ。自らの未成熟振りを痛感させられると共に、どうしようにもない愛おしさを再認識させられる。

「はい。ちょっと疲れているぐらいです」

 しばらく黙して抱擁した後、落ち着くと共にその視野の中の異変に気づいた。

「それにしても、あれは一体──?」

 常に神経が尖っているような母が、無防備にも昏睡しているではないか。それも何やら、緑色の如何にも素気ない、冴えないリュックを抱えて眠りこけている。明らかに母の所持品ではないそれを大事そうに抱え込むその姿が、余りにもこれまでの母らしからず、しかしこれはこれで妙に愛らしい。

「──何事、ですか?」

 いつも気位ばかり高くて、高飛車で、自信家で。傲慢さの形容に事欠かない母真琴を、これ見よがしにこきおろすその実息真純は、不遇の女傑の懊悩を知っていた。自分と母の境遇を分けたのは、時代と性別だ。才色兼備の富豪という、それだけで斜めから見られがちな典型であった母は、生まれて来る時代を間違えていた。現代の複雑な社会構造の中で、一世代早く生まれた分だけ根強く残る前時代的な男尊女卑の悪習に晒され、それに立ち向かった。途轍もなく強い意志を持ち、突き進む事に妥協しない分だけ、潔く思う様慣習に否定され続けた。子供ながらに母真琴のその様を目撃していた聡明な真純は、早い段階でそれを言葉で言い表す事が出来た。

 ──孤高故の孤独。

 その余りにも不器用で、強く生きようとする痛々しさが目に余り、母を喜ばせたくて、母を守りたくて、真純は日々懸命に励んだ。許されるものなら本当に、結婚しても良いとさえ思った事もあった。が、そんな早熟の異才も、運命的な出会いの前に為す術なし。母のために自己を磨いていた筈が、気がつけばいつの間にか、最愛の人のためだけに懸命になってしまっていた。沈みゆく母を尻目に、幸せな時を育み続けた自分。そんな自分の世代が全盛に向かっている今時分になって、時代の思考がようやく母真琴に追いついて来た時には、母の女性としての全盛期は終わっていた。それを罪と認識するこの潔い若き英才は、生涯その十字架を背負って生きていくつもり

 だったのに──。

「あんな可愛らしい母は──」

 見た事がない、と自分の口が思わず滑る。目を泣き腫らし、隈も浮いていて、涙が伝った跡がくっきり頬に残っているような母など。これまでの母であれば、例え自分が拉致されたとしても、ここまで取り乱す事など有り得ない。

「──そもそも、あのリュックは?」

 母があんな武骨な袋など持っている筈もなければ、こうも無防備に、かつ大事そうにすがりつくザマは一体どうした事か。

「途中まで同行されていた方のお荷物だそうで。それは大変、心配されておいででした」

「えっ!?」

「真純さんとご一緒されていると聞いていましたが。不破さんと仰る、お婆様も大変頼りにされておられる方で──」

 お婆様とは、近しい者の間だけに許される祖母美也子の呼称だ。その祖母が、

 ──頼る?

 など。それを千鶴が知っているという事は、人前でそれを口にした、またはそんな雰囲気を帯びた、という事だ。

 あのお婆様が──?

 母真琴によく似た祖母だ。多分に天邪鬼な気質で、人をこき下ろす事の多い事実上の高坂宗家主宰者が、

 それは──

 有り得ない。祖母美也子を知る者にとって、それは衝撃的な事実だ。

「その人かどうか知りませんが、ここまで同行した人なら部屋の外で待ってますけど──」

「事情聴取は終わったの?」

 先程までの可愛らしさはどうしたものか。いつの間にやら母真琴が、例のリュックを片手に、顎を上げて尊大そうに立っている。

「母さん」

「終わったなら、とりあえず帰ってもいいらしいわ」

 この素気なさこそ、自分の知る母だ。冷えていながらもよく通る声は、流石は元アナウンサーらしく、よく回る舌と高出力高回転の頭脳で何度論破されたか知れない。

「入港までの時間を使って、船内で済ませたよ」

「そう」

 と、相変わらず声は冷えたままだが、泣き腫らした顔はそのままだとか。そのチグハグな強がりが、何処となく微笑ましくも痛ましくもある。

「あなたを助けたエージェントは何処かしら? まだ事情を聞かれてるの?」

「いや、部屋の外で待ってるよ」

「それなら後は警視庁の捜査員に任せて、私達はホテルで一休みするわよ」

 見た目は隙だらけの母だが、中身はいつも通りのようだ。

「ホテル、もう取ってるの?」

「ええ、真琴さんが──」

 敵いませんわ、と千鶴が素直に吐露する。

「私は心配するばかりで、何も出来ませんでしたのに──」

 真純が見る母真琴が動の女傑なら、千鶴は静の俊英だ。母の蹶然(けつぜん)たる凛々しさは火で、千鶴の確固不動たる淑やかさは山だ。タイプこそ正反対の二人だが、家中の女力では筆頭の祖母美也子に次いで甲乙つけ難い存在の二人だ。自分が愛して止まない千鶴は、そんな母を信仰していて、そんな母あっての千鶴でもある。が、自分の目の前で、そんな家中の女格で同率次点の一角が、廊下の長椅子で仰向けになって眠りこけているエージェントを認めるや、取り乱して食ってかかっているではないか。

「ちょっと!? 母さん──!?」

 慌てて止めに入ろうとすると、それを千鶴に止められた。

「な──」

「不破さんの名前に反応して起きたんですよ──」

「は?」

「──さっきの真琴さん」

 あの母が、男の名前に反応する程の、

 それ程の──

 男という事なのか。

「まさか──」

 母とはいえ、今となっては気難しい事この上なく、家中の者でも近寄り難くなっている拗らせ屋だ。それが、

「ちょっと! しっかりしなさいよ!」

 などと、ただ眠りこけているだけとも知らず、見境なしに狼狽し、血相を変えて男の安否を気にするなど。

「そんな、バカな──」

「よかったですね」

 横で泣き笑いする千鶴に、呆れた真純がボンヤリ口を開ける。

「あんなボンヤリした男の何が──」

 母に響いたのか。ボヤく真純の前で、

「な、何事ですか一体!?」

 と、両肩を激しく揺さぶられて慌てて起きた不破は、相変わらず何処かしら間が抜けている。

「ひ、人がどれだけ心配したか分かってんの!?」

 母は母で、今度はその胸倉を掴んで、文字通り噛みついている有様だ。法を知る者ならば、それは典型的な暴行罪で、当然それを知る母真琴がそんなザマを晒すなど

「──有り得ないんですが」

 そんな驚きでボキャブラリーが乏しくなる自分は、まだまだなのだろう。

「真純さんには私がいるから心配ないと言われていましたから。真琴さんは」

「まぁ──」

 それはそうだが、釈然としない。

「大した事ないんなら、ちゃんとそう言ってから出て行きなさいよ! 私だけ心配させられてバカみたいじゃないのよ!」

「いや、大丈夫って言いましたよ!」

「それで説明したつもり!? 今回ばかりは許さないわよ! 詐欺師振りも大概にしろ! どんだけ懲りないのよ!」

 などと、ギャアギャア子供の口喧嘩のように喚き散らす母を、真純は知らない。相変わらず不破の胸倉を掴みながらも、ついにはそのまま頭を埋め、周囲に構わず当たり散らしては声を震わせ泣いている母など、真純の知る母ではない。

「──あ、ヤバい! 今、日本時間で何時でしたっけ!? 帰らないと!」

「こんなに早く終わるなんて思わなかったから、今日の便なんて取ってないわよ!」

「ウソでしょ!? ヤバい! た、武智さんに電話しないと仕事が──!」

「私がもうしたわよ!」

 あれ程の事をあっさりやってのけた男と、常に破裂しそうな危うさを帯びている女が、おかしな絡み方をしては泣き笑いしている。

 あの母を──

 絡め取れる男が、現れるとは。

「──何者なんです? あの人?」

「詳しくは存じませんが──」

 と前置きした千鶴が、不思議な物を見るような真純の横で、

「──真琴さんが言うには『詐欺師』だそうです」

 と言って、嬉しそうに笑った。


   終

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