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小晦日(後)【先生のアノニマ(中)〜5】

 小一時間後。

 重苦しい雰囲気を引きずったまま、大した会話をする事もなく。出て来た七面鳥を食い終えた後でホテルに戻ると、衝撃が走った。事もあろうに、

「あっ──!?」

 相部屋だ。

「当たり前でしょ」

 と、あっさり認める仮名によると、年末の一大イベントの繁忙期に、急遽一室捩じ込めただけでもラッキーなのだとか。

「それは──」

 そうなのだろうが、

「どう考えても──」

 ダメなヤツだ。と、うっかり部屋のドアの前で一歩後退りしてしまうと、また腕を取られている。

「あたたたた!」

 何度極められても流石の手業だ。合気道六段は、

 ──伊達じゃねぇな。

 前進以外の方向に身体が動くと、腕がロックされて極まるように取ってくれる憎らしさのせいで、気がつくと部屋の中に共連れされてしまっている。仮名のタワマン程ではないが、それでも二〇畳はある室内は、とりあえずツインベッドルームだった。

「今更ガタガタ言わないの。初めてじゃないでしょうが」

 確かにおたふく風邪騒動の折に仮名のタワマンに泊まりはしたが、一緒に寝た覚えはない。整えられた室内にしてベッドの存在が、要らぬ動揺を掻き立ててくれる訳だ。

「どっちみち明日は早く帰るんだから、とって食やしないわよ」

「は、はあ」

 その雑な言い方に救われるような、微妙というか。具衛の明夕の仕事に間に合わせるため、帰国は明朝の早い便らしい。が、

「だからと言って相部屋は──」

 マズいだろう。それこそ仮名の両親に知れたら殺されそうだ。

「別々のベッドで寝るだけなんだから、何が問題なのよ?」

「しかし再婚前に──」

「だからよ!」

 敵方の思惑通りにされてしまった事が悔しい。ならばせめて、傷の一つもつけてやりたいのだそうだが、

「そんな事をしたところで──」

 無駄な労ばかり嵩んで、結局現実は変わらない。

「それなら、復縁するまで精々好きにさせてもらうわ」

 お嬢様の事とは言え、流石にいい加減な年の大人の事だ。確かにそこまで口を挟んでこないものだろう。

 だからって──

 予想外の急展開だ。部屋の片隅で悶々と震える具衛を尻目に、

「ご理解いただけたら、私はお風呂に入ってくるから」

 ゆっくりしてなさいな、と、言う事を言った仮名は、至極あっさりとバスルームに向かった。


 同日、午後九時過ぎ。

 お揃いのホテルパジャマに袖を通した具衛と仮名は、大きな窓の傍にある小さな丸テーブルを挟んで、それぞれシングルソファーに座り、

 何をするともなく──

 揃ってボンヤリ、外を眺めていた。

「まだ九時?」

 と口にした仮名が、

「バーに行く?」

 などと言い出したが、そんな所に全く縁がない具衛だ。文字通りの及び腰をみせると、

「分かった分かった」

 と、噴き出した。

「た、確かにですね──」

 酒は解禁したが、悪酔いが怖い。飲んだ事がある程度で、別に好きでも何でもないのだ。大人しく部屋飲みで許してもらう事にした。そんな仮名が口にするのは、相変わらずサングリアだ。

「他に何か欲しかったら言いなさいよ?」

「いや、これだけで十分です」

 大体がサングリアに限らず、酒の味などろくに分からない

 ──つまらない男なんだが。

 何故、好んで一緒にいたがるのか。

「明日の朝帰るとは言え、夜は長いのよ?」

 折角だから夜空を堪能したい、と仮名が言うので、室内は足元灯をいくつかつけているだけだ。周辺の施設の照明が反射しない海側の眺望は申し分ない。薄暗い室内は、お互いの表情を余り気にする必要がない分、何となく妖しさを帯びている。

「晴れてるから星がよく見えるわ」

「そうですね」

「晴れ男?」

「え? いや、気にした事ないです」

「でしょうね。あなたはそんな感じ」

 七夕の夜に二人で星を見た事を言っているのだろう。梅雨時に見た天の川は、季節柄貴重な経験だったのだろうが、

「良くも悪くも頓着しない──」

 それがあなた、と決めつけられると、確かにそうだろう。そんな二人の記憶を懐かしむとか、「あなた」を連発される事の動揺が只ならない。

「何か遠慮してるの?」

「え?」

「飲みなさいよ」

「はあ」

「酔い潰れても連れて帰ってあげるから」

 心配しなさんな、と嘯く仮名は、せっせと飲み続けている。何処か妖しく笑うその剥き身の素肌が妙に色っぽい。恐らくすっぴんなのだろうが、ベースがズバ抜けている女だ。雰囲気も相まって

 妖艶さが──

 只ならない。そんな事を悶々と考えていると、一つ気がついた。

「髪──」

「ん?」

「地毛に戻すんですか?」

「あなたにしては、よく気づいたわね」

 仮名の髪は、時間が経つと赤味を増す。定期的にその色味に黒が混ざっていたのは染めていたからだろう。

「もうハイライトもめんどくさくてね」

 赤い地毛にバランスよく黒を混ぜるのは、結構手間がかかるらしい。が、何故それをやめるのか。理由はすぐに本人の口から明かされた。

「人前に出る事も少なくなるし、身嗜みに気を遣ってもろくな事なかったし──」

 今後待ち受ける半生は、

「──飼い殺しのようなものだから」

 とは、本当なのだろう。高千穂との復縁は受け入れても、魂までは渡さない。

「熟れる身体を持て余しながら、つまらない余生を過ごすわ」

「ケホ!」

 何やら寂しげな事を言っていた筈が、油断するとこれだ。

「アハ!」

 と、分かりやすく噴き出した仮名が破顔する。

「ま、毎度の事なんですけどね──」

 酒を飲んでいたら、酒気でむせかえっていただろう。

「──飲んでなくてよかったですよ」

「分かった分かった」

 いいから飲みなさいよ、とグラスに入っている上から、無理矢理デカンタを傾けられた。今にもグラスの中身が溢れそうだ。仕方なく口を寄せてそれを啜って、一息ついたところで、

「その方が良いと思います」

 と、言ってみる。

「何が?」

「地毛ですよ」

 実は、何で染めるのかと思っていた。

「私は美容の事は無頓着ですけど──」

 仮名の見た目がおかしいという訳ではない。それどころかその美貌は圧倒的で、近寄り難さすらある。それを(ねた)む邪なヤツらが【赤い狐】などと揶揄するのだ。仮名の見た目はそれに対する

「武装のようにも見えて──」

 何処か、悲しい。

「言ってくれるわね」

「生意気な事言ってすいません!」

「いや──」

 その通りだと思う、と、また仮名が少し萎んでしまうと、訪れる静寂。途端に窒息しそうになって、

「気の利いた事が言えなくてすいません」

 と漏らすとか。

「ホント、つまんない」

 との容赦ない一言は、全くその通りだ。

「ウソウソ」

 それが言えるようになっただけでも成長したわよ、とすかさずフォローが入ると、

「実はこれでも染めてるんだけどね」

 と、仮名が漏らした。

「そうなんですか?」

「薄くね」

 少しずつ地毛に近づけているのだとか。

「私の地毛は血の色だから」

 染めていない頃は、不気味がられたらしい。

「でも赤毛って──」

 世界的には、一番美しい髪の色だ

「──と聞きますが」

「世界ではね」

 美しい黒髪を持つ東洋の島国の国民に、そのロジックは通じない。

「だから学生の頃は黒に染めてたの」

 以来、長年染め続け、髪が痛む痩せるで

「手入れが大変でね」

 無頓着な具衛にそれは、確かに経験のない感覚だ。一昔前の日本の学校なら、生徒も教職員も無神経と言っていいだろう。他人に委ねられる評価の辛辣さは、それこそネットで叩かれる仮名の批評を見れば明らかだ。

「それは、大変でしたね」

 自然、慰めが口から出た。具衛などは、整髪料すら使った事もなければ、白髪も放ったらかしだ。それを思うと、身嗜みに気を遣う女の苦労が少し身に染みる。

「まぁ白髪も生え始めたし、ちょうどいいのよ」

「え?」

「そりゃそうでしょ。あなたが生えてて私が生えない訳ないじゃないの」

 と言う仮名は、具衛の四つ上だ。若々しさが年齢感覚を狂わせる事につけては、この女の右に出る者はそういないだろう。

「でもあなたは、白髪も似合うような気がします」

「それ褒めてるの?」

「少なくとも嫌味じゃないんですが」

 こんな事を堂々と仮名に言える立ち位置にいる事の不思議。

「そうは言われても白髪は流石に──」

 まだ抵抗が強いとか。

「顔年齢と髪年齢が一致しないのが悩みとか言ったら──」

 また世間で何を言われるが分かったものではない、とか。

「それは、そうでしょうね」

 人の数だけ悩みはある、これもまた一例だ。女にとって髪は命と言われる事でもあるそれを、自虐の裏でこの女はどれ程痛めつけ、苦しんできたのか。

「日本の多様性の貧しさですね」

「あら、分かった事を言う」

 と笑う仮名が、

「でもまぁ、それもあるわね」

 と納得する。

「日本で色の異なる人種を普通に見かけるようになったのって──」

 二一世紀に入ってからだ。

「昔は【ガイジン】って珍しかったですよね」

 そう言われる人達の気持ちが、この女は痛い程分かる口だろう。稀有の見映えは、良くも悪くも他人の興味の対象となり、良くも悪くも注目される。

「昔の学校って画一的だったから──」

 仮名の中傷の原点は、教育現場の偏見にあったという皮肉だ。女優やアイドルも真っ青のその稀有の容貌は、

「小さい頃から思う存分暴れてくれてね」

 そんな少女が、濃く美しい赤毛を携えている。見た目もそうなら高貴な家柄を出自とする仮名だ。あらゆるところで目立って突出すると、

「出る杭は打たれる訳よ」

 今で言う同調圧力の暴力だろう。特別扱いの噂が席巻し始めると、その苦肉の策で早くから黒髪に染め始めた。が、染めたら染めたで、その黒髪がまた美しい。髪のために良い染料を使った事で、髪には優しい一方で見映え的には裏目に出る。

「いくら世が羨む優れた人種でも、多勢に無勢は物理的に限界ってモンがあるから」

 落ちるのはあっという間で、それからは謂れなき中傷に晒される人生。目立つ事を恐れるようになった幼い仮名は、大人しく無口なまま成長。そのせいもあって、大人びた風貌は巷では有名だったそうだ。

「小学生の頃から、よく大学生に間違えられてたわ」

「分かる気がします」

 一つ上、二つ上の就学階層に見間違えられる事など日常茶飯事で、

「身長も中一で伸び切ったから」

 とは、明らかに早熟だろう。

「今のお身体は、その頃からでしたか」

「流石に筋骨はついたけど」

 外見的に分かる程変わっていないらしい。女だてらに筋骨を語るところが如何にも女傑めいた仮名らしさだが、

「その早さは──」

 注目されて当然だ。

「私の中一の身長って、確かまだ──」

 一四〇前後だった。

「小さかったのねぇ」

「みんな似たようなモンでしたけどね」

「そうなのよねぇ」

 一方で仮名は、一六〇後半という、女なら高身長の部類だ。そんな中一は、それだけで注目されて当然。しかもそれが大人びた言動で成績も抜群とくれば、説明するまでもない。

「こうなると──」

 あらゆる事に整い過ぎた仮名は、男から追い回され、女から嫉妬され、ろくな事がなかったと言う。

「常に一人」

 親類縁者からも羨望され、ややもすると貶めようとする向きすらあり、気がつくと、

「理論武装するようになってね」

 早熟らしく、さっさと弁護士になった。

「なったって──」

 それは普通、出来ないのだ。

「だって全員敵なんだから、自分の身は自分で守るだけよ」

 弁護士なら、世間を打ち負かせると思ったらしい。

「まぁ確かに──」

 国内資格の王様のようなものだが、その極端さがまたこの女傑らしさとしたものだろう。その辺りの経歴は、既に具衛が知る内容とどうやら一致する。

「知は力なりでしょ」

 と言うその格言は、主に英国はベーコンによるものだが、その【知】は彼の哲学者の場合、【知識(knowledge)】に限定される

「──とかでしたっけ?」

「こう言っちゃなんだけど、ホントあなたは意外ね」

「物の本で見たのを覚えてるだけですよ」

 であるため、根本的な地頭(じあたま)の良さが際立つ横の美女には必ずしも合致しない。が、要するに、

 ──とんがってたって事なんだろうなぁ。

 と、ぶっちゃけてしまうと、後が怖いので密かに飲み込む具衛だ。

 そんな間にも話は戻っていて、その後は世に対して更なる説得力を身につけるため、高校をすっ飛ばしていきなり英オックスフォード大学院の博士課程に入学。現役四大生の卒業年次には博士号を獲得。

「飛び級ってヤツですか」

「海外じゃ珍しくもなんともないわよ」

 日本の教育は、仮名を受け入れるには余りにも手狭だったという事だ。

「オンライン講座なんだけど」

「そうなんですか?」

「もう弁護士やってたから──」

 働きながらのそれは、一方で日本の全日制崇拝に対する当てつけでもあったらしい。

「イギリスは通信教育先進国だし」

「ネルソン・マンデラですか」

「そのボンヤリした見た目に、つい騙されるのよあなたは」

 と、それこそ褒めているのかけなしているのか分かりにくい仮名は置いておくとして、彼の大統領はそれ(通信講座)を獄中で履修した。ネット環境があれば勉強が出来る手軽さもそうだが、

「もう全日制はとても行く気になれなくてね」

 義務教育期間中の陰湿ないじめは今でも忘れられない、とか。

「中学の時なんか、いい加減頭にきて──」

 法曹を目指す要因にもなったそれは、相手方の無法と学校の不作為を糾弾する訴訟沙汰にまでなったという。それは今ではそう珍しくないが、

「ちゃんと一人で勝ったし」

「一人で?」

 と言うこの女の場合、何と誰の手も借りず勝訴したという規格外振り。

「それはまた色々と──」

 出鱈目が過ぎると言うか、いきなり訴状が届いた相手方や学校の驚きは、説明を要しないだろう。

「日本の教育は窮屈でね」

「そりゃまあ──」

 中学を卒業してすぐに弁護士になるような子ならそうだろう。

「分かり切った事だけど──」

 学生の本分はあくまでも

「──学業の筈なのに」

 長期的には教育こそが国を富ます筈であるのに、仮名のような稀に見る逸材を摘み取ってしまう日本の学校とは、

「基本的に足の引っ張り合いなのよね」

 と言い切るそれは、仮名の経験談なのだろう。それは分かる。分かるが、

「私が言うまでもありませんが──」

 日本人の大多数は今も尚、基本的に農耕民族的気質を持っている。要するに相性だ。何も仮名でなくとも、明らかに狩猟型の人間に、協調性を重んじる耕作型の教育環境は合わない。

「まぁそうなんだけど──」

 番長決定戦でもなければ、国家に都合のいい人間製造機でもない。無理矢理他人と仲よくさせられるような我慢大会会場でもなければ、能力の良し悪しがあるのに一つの枠組みに押し込めて、平等だの公平だのと耳障りのよい綺麗事を合唱する場でもない。

「訳の分からない不条理な校則は文字通りの不文律で、いい加減で曖昧で、根拠の不確かな固定観念を常識と言って憚らない、凝り固まった頑固者の旧態を先生と呼ばざるを得ない事の屈辱たるや──」

 等々。尽きる事のない恨み節は、実際に訴えた時の訴状の一端だと言うから恐ろしい中学生だ。延々聞かされそうなので、

「その点、通信教育は──?」

 と振ってみる。と、

「──実に快適だったわ」

 小学生からやればよかった、と後悔したらしい。

「まぁ終わった事の恨み節を語ってもね」

「バレましたか」

「分かりやす過ぎるわよ」

 実際に勝訴で終わらせているからこその落とし所だろう。具衛の思惑などお見通しの仮名だ。

「──で、何の博士になられたんで?」

「人文学」

「穴があったら今すぐに飛び込みたいですよ私は」

 と言うと、また仮名が噴き出して破顔した。出会って約半年。その初日に【虎】の詩をあっさり言い当ててくれた仮名の教養レベルは、高くて当然だ。

「本当に賢い人っているんですね」

「あら、何の皮肉?」

「拙い子供達に、メンコやベーゴマを教える事が出来る訳ですよ」

「そんな事もあったわね」

 誰にでも分かりやすい言葉で話す事が出来て、誰の言う事も意味を良く聞き取り、時として分かりやすく教える事が出来る。だから、そんな女と今話している事は、

 ──何も特別じゃない。

 ──誰とでも話が出来る人なんだよ。

 と、密かに戒める具衛は、いつぞやのように雰囲気を作られた時の仮名の暴走に備えている。が、勢いづいて不満をぶちまくように経歴を語る仮名は、どうやらそれどころではない。

「日本の学歴至上主義を打ち砕くつもりでね──」

 博士になった後は、民放大手のテレビ局へ就職。

「世の中の歪みを覗けるだけ覗き込んでやるつもりだったの」

 何年かメディアの経験を積んだ後は、世相と法の両面から無法に鉄槌を下すような活動に転じるつもりの就職が、

「またこの見た目のせいで──」

 テレビ局では予想外のアナウンス部採用。それでも我慢して二年勤めたが、全国放送中のCM中に、有名なコメンテーターが、

「──事もあろうにお尻を触りやがってね!」

 などと、未だに憤るのも無理はないだろう。要するに望まない仕事でフェミニズムの犠牲となった訳だ。そんなところが迂闊と言ったら、

 ──怒るんだろうなぁ。

 とは思うものの、それが悪だと言い切れないのが不完全な人間という生き物としたもの。実はそんな隙を見せる仮名に、良くも悪くも人間らしさを見る具衛だが、当時の仮名はそんな寛容さなど皆無だ。先鋭化した【最恐の才媛】は、弁護士らしからぬ直情的な実力行使、つまり容赦なく相手をぶん投げた事を問題視した局側の意向を受け入れ退社。

「確かに一昔前の女子アナに対する世の中の見方は、完全に男の慰み物扱いでしたよね」

「今も大差ないわよ」

 と、声を尖らせる次の就職先が外務官僚だったのだから、やはりテレビ局は仮名の使い方を誤っていたのだろう。外務省では希望通り、数年間は現場畑。欧州の在外公館を飛び回ったそうだが、ここでもやはり、

「見た目のせいで──」

 帰国させられ、省の広告塔にされかけたため、嫌気が差して辞職。

「日本はいつまで経ってもオヤジ体質って事ね」

 女は色事の道具で、性差の真意から逃げ続けている。

「何かバカな男のせいで、すいません」

「あなたみたいに素直で可愛い男は中々いないって事よ」

「はあ」

 男のステータスとして、それを素直に喜ぶ事のハードルの高さだ。一方で日本を見限った仮名は職を海外に求め、その後はシンクタンクや国連機関で活躍。

「その頃から、今度は見た目がついて来なくなって──」

 三十路過ぎから年を取る事を忘れている、とまで言われる典型的な美魔女だ。

「大人びた子が、そのまま年を取ったイメージなのよ」

 どうしてこんな事になってしまったのか、

「自分でも分からないんだけどね」

 と失笑する女は、ネットの露出画像を見れば、それが冗談に聞こえないから恐ろしい。その事実は一方で、それだけ世間の歪んだ目に晒され続けた、と言う事も出来る。

「昔から異能は異端視されますから」

「その異端視された異能を理解出来るあなたは、私にとって貴重な人だったのよ」

「は、はあ」

「肝心なところで、ホント気の利いた事が言えないわね」

「いや、その、あの──」

「だから別に取って食やしないって!」

 と、笑い飛ばす仮名が、またグラスをあおった。

「──あなたにとって私は貴重じゃなかった?」

「え!?」

「あなたを理解出来る貴重な一人だったと自負してるんだけど?」

「いや──」

 そんな事をいきなり言われても、

「──どうでしょう」

 何と返すのが正解なのか、さっぱり分からない具衛に言える事はない。

「盛り上がらないわね全く」

 と、また仮名がグラスをあおる。

「──まぁそれこそ、私のつまらない話ばかりしてもね」

 と言う仮名だが、具衛にはネット情報の裏を垣間見るような初耳ばかりだ。

「いや、興味深いですよ」

「あなたはそうでも、私にとっては忌々しい過去ね」

「それはそうでしょうが──」

 只のお嬢様ではないドタバタ振りが、如何にも仮名らしい。と言ったら

 ──また後が怖いし。

 と、密かに具衛がそれを飲み込んでいると、

「私の事より今夜は──」

 あなたの話だと、意表を突かれてしまった。

「──え?」

「だから今夜は、あなたの祝いでもあるって言ったでしょうが」

「それこそつまらない話ですよ」

「あなたはそうでも、私は興味深いのよ」

 あっさり逆襲されてしまうと、仮名の秘部をそれなりに聞いてしまった後だけに後ろめたい。

「これからどうするの?」

「そ、そうですねぇ」

「ついに本当の自由を手に入れたんでしょう?」

 武智から具衛の素性や事情を聞き出している仮名だけに、畳み込まれると逃げ場がない具衛だ。が、本当にこの男は、

「特に何も──」

 考えていなかった。

 最近は自分の事よりも、高千穂絡みの事情を嗅ぎ回る事に躍起になっていただけに、

「今の今まで忘れていたというか──」

 頭になかった。

「はあ?」

「で、でもまあ──」

 今の勤め先の契約が、年度末まで残っている。

「じゃあ、その後は?」

「何かエラく食いついてきますね」

「いいから」

「はあ」

 そもそも自由に慣れていない身だ。それが急に自由だと言われてみれば、確かに

 ──そうなんだが。

 今一つ、実感が湧かない。

 そんな具衛を察した仮名の、その誘いは唐突だった。

「──東京に来ない?」

 具衛の腕を買って、

「ボディーガードとして雇いたいって言ったらどうする?」

 とか何とか。

「ええっ!?」

 いくら何でも、フィクサー(真琴の実母)復縁の夫(高千穂)がそれを許すのか。やはりそんなところを、真琴がすかさずつけ加える。

「敵には手厳しいけど、味方になれば牙を剥く事はないわよ」

「それは──」

 確かにそうなのかも知れない。が、具衛にとっては屈辱でしかない。

「──他を、当たってもらえますか」

「やっぱり、そうよね──」

 仮名があからさまに肩を落とした。

「高千穂の嫁に力は貸せないわよね」

「す、すいません!」

 高千穂が嫌なのであって、

「あなたが嫌な訳ではないんです」

「分かってる」

 むしろ、

 好きだと──

 言えたなら、どんなによかっただろう。この期に及んでは、それすら叶わぬ悲恋というヤツだ。

 ──この年で?

 いい男が、薄暗さの中で込み上げてくるものを堪えている事の、情けなさと悔しさ。

「まぁ今度は、向こうが養子になるんだけど同じ事よね」

 そんな分かり切った事で仮名が嘆息すると、後に嫌な間のようなものが残った。途端にお互いの無念が絡むような重苦しさで、窒息しそうになる。

「馴れ初めを、伺っても──?」

 と、あっさり根負けした具衛が堪らず漏らすと、仮名が小さく失笑した。

「──外務省時代って答えればいいのかしら?」

「すいません」

「まぁ気になって当然よね」

 黒歴史を抉る事はしたくないが、これが最後のチャンスだ。聞けるものなら聞いておきたい。

「どうして──?」

 高千穂と一緒になったのか。

「──って言われてもね」

 どうもこうも、と自虐的に笑った仮名が、最後の最後でボソりと呟いた。

「──若気の至りね」

「ウソです」

「即答ね」

「まあ」

 重ね重ねも以前の仮名は先鋭的だ。軽々しくも政略結婚を受け入れるとは思えない。それがまるで、進んで受け入れたような経緯だったようで、俄かに信じられず祈る気持ちで、

「何を根拠に?」

 それを探した。

「そうです、ね──」

 その答え合わせの時間だ。が、やはり過去を辱める事の罪悪感が只ならない。

「──今更気を遣われてもね」

「一々すいません」

「全くよ」

 と、ふてる仮名だが、

「心中如何ばかりの事と──」

 まずは言っておく。

「急に堅苦しく言われても、何の事やらね」

「手っ取り早くバツをつける(・・・・・・)ためだった、という事ですよね?」

 と言った瞬間、仮名の身体が一瞬痙攣した。

「そんなところが一々あなたは──」

 ホント生意気、と言った声が少し揺れて、顔が逃げる。一方で、その素性が分かって以来、一番の関心事だったその答えに一安心する具衛だ。

「──大変でしたね」

 と言える事に、何かに感謝する。理由もなく高千穂と一緒になるような女ではないと思っていた。

「どうして──?」

 と言う今度のそれは、珍しくも仮名の疑問系だ。

「あなたとあの男(高千穂)は──」

 家同士の政略結婚だとしても、

「──余りも違い過ぎるので」

 物事には限度がある。これはその一例と断ずるレベルだ。しかも当時は、今回のように実息を心配するような存在もいない。となると、

「それに変わる理由が絶対にあると思ってたんです」

 そんな、他人には言えない古傷を、恐らくこの女は放置していて、事ある毎にそれに蝕まれている。

「そんな事今更調べても、何も変わらないのに」

「そうですが──」

 それでも一人ぐらい、慰めの言葉の一つや二つ、

「かける人間がいても──」

 バチは当たらない筈だ。そうでないと、

「あなたの人生は、他人に翻弄されたまま終わってしまいそうで──」

 それでも同情されるなど、プライドが許さない仮名だろう。

「だから、事実に基づいた上での労いぐらいは──」

「何て言ってくれるの?」

「そうですね──」

「肝心なところは抜けてるわね全く」

 嘯いた仮名が、そのまま自虐を呟いた。

「──私の人柄ってモンをよく調べて欲しかったわ」

「よく調べたからですよ」

「どこが?」

「お尻を触られて即座に報復するだけの人なら、お后候補になる訳ないじゃないですか」

「そんなモンかしら」

「そうですよ」

 それ程までに、

 ──素晴らしく魅力的。

 というつけ加えを、具衛は脳内に留めた。それを口にしてしまったら、どちらともなく暴走してしまいそうだ。

 数百年の歴史と伝統を積み重ねてきた高坂の血筋は、近代に至り軍需財閥として栄華を極め、国の中心にまで及ぶようになった。が、戦後の財閥解体で一度は没落。その後奇跡的に再興を遂げたものの、それは財だけで納得し得るような薄っぺらい家柄ではない。失った名誉と入れ替わりで被った不名誉は、国に加担して没落したという重大なものだ。その回復は名誉でしか成し得ないに決まっている。その名誉の復権を高坂家は、

 どう考えて──

 いたのか。

 そんな事を考え始めたのは、市立図書館から高千穂事務所の張り込みしていた時だ。その暇潰しのついでで読み漁っていた政治経済関係雑誌が、そんな事に最も縁遠い貧民の具衛に想像力をもたらしたという偶然。それが過去の某週刊誌の端に掲載された、思わぬ記事を見つけるきっかけとなった事は、偶然なのか執念なのか。当時の皇太子殿下のお后候補特集だ。その何人かの候補の中に、外ならぬ高坂真琴がいた。

 一度は没落した名家からお后様を出せば──

 それは高坂にとって、名誉の回復と言えるのではないか。と、思いきや。その次週号では、渦中の人の一人だった高坂真琴は早々に脱落。高千穂と婚約した事が掲載されていた。お后候補は根も歯もないガセネタ、と訂正記事が載る有様で、結局某誌が一回だけ面白おかしく載せた程度の扱いだったそれは、デジタルタトゥーにもなっていない埃まみれのディープなネタだったのだが、

「外務省の時に、ちょっと接点があったの」

「殿下と、ですか?」

「──うん」

 と、仮名が素直に答える程に、事実だったようだ。

「どうもその時、見初められたみたいでね」

 折しもその頃は、ちょうど高千穂も同僚として近辺をウロついていた時期だ。

「それで、高千穂を利用したって訳」

 皇室に入って喜ぶのは、高坂の名誉を重んじる父母、

「特に母ね」

 私には到底無理、と言う仮名は、テーブルに片肘をついて頬杖で、盛大に足を投げ出し組んでいる。

「──確かに」

 皇室は仮名の長所を評価したのだろう。短所に目を向ければ切りがない女なのだ。

「どうせ雑な女よ」

「そういう訳じゃありませんが──」

 知性と教養は申し分ない。が、感情の振り幅が大き過ぎて、到底大人しくしていられない。それこそ失言塗れの非難轟々は火を見るよりも明らかだ。どう考えても、

 ──む、向かない。

 耐え切れなくなった具衛が、つい鼻で失笑した。

「笑ったわね!」

 具衛の存念など、相変わらず筒抜けだ。お陰で少し湿っぽさが失せる。が、

「どうせこんな女だから──」

 都合の良さでは悪辣な高千穂と変わらない、とすぐ萎む。

「全部周りのせいにして、私は悪くないの」

「悪くないでしょう」

 出自に甘えず己を律し、多難な人生を生き続けた。そんな薄幸の美女が救いを求めて結婚を迫ってきたならば。

「私が高千穂なら、あなたを手放そうとは」

 お互いが持ちつ持たれつ、利用し合ったのだとしても。

「そもそもが結婚って、お互いメリットがあるからするモンでしょう?」

「あら、言ってくれるわね」

「確かに今は、男だの女だの言うような時代じゃありませんが──」

 高千穂は男冥利に尽きる役目を与えられたのだ。それが到底及ばない、甲斐性なしの具衛にしてみれば、

「──同じ男として、敗北感しかありませんよ」

 全ての事情をひっくるめた上で仮名が出した具衛の価値は、精々ボディーガード。が、高千穂は二度までも、この美女に夫として選ばれようとしている。これが力負けでなくて何なのか。

 力が──

 あれば。この薄幸の美女をもう少しマシな格好で支える事が出来たのではないか。少なくとも勝者の傍で、無様を晒すような支え方を頼まれる事などなかったのではないか。

「なので──」

 器の小さい具衛は、

「──これ以上、あなたに仕える事は出来ません」

 あえて男の矜持を論ずるならば、男としてこれ程の完敗はない。が、それを聞いた仮名が、

「何それ!?」

 と、瞬間で噴き出した。

「あなたを下僕にした覚えはないし、今後するつもりもなかったんだけど」

 と笑う声は、分かりやす過ぎる程の空元気だ。

「でもそれだと、ここ何か月かのあなたと私は、遊びだったって言えなくなるのかしらね?」

 笑っていた筈の声が最後はヨレるなど。思いがけずその秘部を目撃させられる事のバツの悪さが、急激に二人の間を凍らせる。

「もう!」

 ついには鼻を啜り始めた仮名が立ち上がると、ベッドに投げているポシェットから何やら取り出した。そのままベッドに尻を置いて目元を拭い始めるそれは、具衛がいつぞやに貸してやったハンドタオルだ。

「これでいい加減な年だから──」

 涙腺が脆くて困っているらしい。それを何故この富豪が、安物の布切れでケアしているのか。

「女を泣かしておいて一言もない訳?」

「す、すいません」

「相変わらず言われないと分からないなんて。ニブくて最低な男よね」

 言い始めると止まらなくなる口達者の感情が、その後もネチネチと具衛を攻め続ける。が、しばらくすると言う事がなくなったようで、

「はぁ──」

 と、盛大な溜息を吐いた。

「──ダメね」

 いくら悪く言っても、

「嫌いになれない──」

 それはまるで、駄々を捏ねる子供のようだ。

「もう少し早く──」

 会いたかった。ヨレヨレの声で宣言された後は、小さな嗚咽が耳に届くだけだった。


「終わっちゃったわ」

「え?」

「卒業旅行」

 帰りの新幹線が広島に近づくと、スピードを落とし始めた。あの後結局、お互いソファーに座ったまま、ろくに物も言わず朝を迎えた二人は、大なり小なり目の下に(くま)を作っている。

 朝までの口数と言えば、

「寝ないんですか?」

「眠れないのよ」

 ぐらいの事だった。

 で、朝を迎えると、朝食も摂らず身支度をして帰国便に搭乗。昼前には福岡空港に到着。そこでも、

「少し早いですが、何か食べますか?」

「欲しくない」

 とかで、会話もなければメシも食わず。結局そのまま博多駅まで戻ると、そのままの勢いで新幹線に乗った。で、気づいたら広島に帰って来ていた、という具合。

「折角の旅行が──」

 帰りは窓際に座った仮名が、車窓の一点を睨みつけたまま恨み節を吐く。

「誰かさんのせいで台無しね」

 そういう仮名は、目隠しでサングラスをかけている。その横顔の隙間から見える目の下に見える少し黒ずんだ隈は、今の具衛の甲斐性の証と言っていいだろう。

「すいません」

 具衛は素直に謝った。仮名が欲する言葉が言えなかった、具衛の甲斐性のなさが悪いのだ。が、

 結局──

 何を言っても、最後はこの展開になったような気がしないでもない。

「旅行なんて行くんじゃなかったわ」

 言葉通りのむっつり顔もそうだが、隈よりも深刻なのは目の腫れだろう。それ程までに具衛は、恐れ多くもこの女を泣かした。古今東西、女を泣かす男とは大抵悪だ。

 何だか──

 罪深い気がするのは気のせいではない。何事もなかった弾丸旅行だった。まさかの相部屋に驚いたが、解放的な南国マジックが発動する事もなく、無難に終わる事が出来た。そして最後に聞きたい事を聞けた具衛は、割とすっきりしていた。が、その一方で隣の女は、出会って史上最悪の不機嫌面にして悪相だ。それが男として悪だと言わず何なのか。

「ボサっとしてんじゃないわよ」

 気がつくと新幹線が駅に着いて、殆ど止まりかけていた。

「このまま何処まで行く訳?」

 窓際の仮名が通路側の具衛を、身体毎預ける勢いでけしかけて来る。

「す、すいません」

 慌てて仮名のキャリーバッグを持って乗降口へ向かうと、ちょうどドアが開いてそのままホームに降りた。で、そのまま人の流れに任せて改札へ向かうと、あっと言う間にそこに着いた。着いてしまった。

「──ここまでね」

 ふて腐れた声の仮名は、ロングコートに両手を突っ込み、具衛の後ろで口を尖らせている。

「悪いんだけど、もうとても送る気になれないから、ここからは電車とバスで帰りなさいよ」

 子供じゃないんだし、と辛辣だ。

「ありがとうございました」

「それだけ?」

「え?」

「これが本当に最後なのよ?」

 恐る恐る近寄り、キャリーバッグを手渡す具衛に、台詞を考える余裕などない。それがすぐに間近に迫ると、

「──本当に、最後」

 と、仮名が念を押してくれる。

「それでしたら──」

 御身を大切に、前向きに生き抜いて欲しい。

「刺し違えるとか──」

 暗い思考に囚われず、明るい未来を探し続けて欲しい。

「何それ!?」

 それを聞いた仮名の目に、瞬間で炎が宿った。

「言うに事欠いて──!」

 などと、口上らしきものを口走る仮名の大振りを、具衛に躱す権利はない。腰の入った強烈な平手打ちが正確に具衛の左頬を捉えると、多くの人々が行き交う改札前で、その異音が冴え冴えと高々に響き渡った。

「訳の分からない事言ってんじゃないわよ!」

 首が捩じ切れんばかりの、思う様の引っ叩かれ振り。本気で目の前に星がチラついている具衛が、それでもすぐに景色だけでも追うが、既に仮名の姿はない。まるで嵐と共に去りぬ、だ。

「いてて」

 情けなくも頬をさする男のそれは、周囲からすれば見事な振られっぷりだろう。

 こんなのだけ──

 見事でも、嬉しくも何ともない。が、そんな最後は、如何にも情けない

 ──俺らしいか。

 この瞬間、具衛を縛るものは何もなくなった。本当の意味での天涯孤独だ。


 年の瀬。

 引越しを控え、自宅マンションで身の回りの片づけをしている真琴は、エプロンをつけてパタパタと室内を動き回っていた。とは言え、大抵の物は引越し業者が梱包から全てやってくれる。真琴が手をつける必要があるのは、身の回りの物だけでよかった。が、無心になって片づけようとしても、

「あぁ──」

 帰りたくない。そんな苦痛が真琴の手を度々止める。

 実のところ、片づけなど終わっていた。日頃から身の回りがこざっぱりしている真琴だ。要するにじっとしていられず、忘れ物がないか探し回っている。

 一方的な母に申しつけられた年内一杯の身辺整理期間も、今日を含めて残り二日。明日の夕食からは実家だ。もう連絡はつけている。明日の昼下がりの新幹線を予約済みで、数年振りの実家だ。その前に帰ったのは、四年前の八月。実家のグループ企業の役員に就任させられるという不名誉のために、国連を辞して帰国した時だ。一応節目で立ち寄ったのだが、あっと言う間に口喧嘩になってしまい、滞在時間実に約一〇分。その更に前となるといつだったか。思い出せない程の、遠い記憶だ。

 事実上、今日が──

 人生最後の自由の日。高千穂と復縁するまでは、実家の中で籠の鳥。復縁後は何処かの新居かそのまま実家で籠の鳥。ちょっとした波乱人生も、

 ──これでおしまいか。

 後はつまらない余生が待つのみとあっては、それまでの波乱すら愛おしくなるのだからおかしなものだ。

 何日か前、何かの希望を見出そうとしたが、もう諦めた。自由がなくなる前に、今後の人生の支えが欲しかった。それを期待してのグアムだった。

 サカマテの離任挨拶で武智邸に立ち寄った際、そこの主人に、

「最後ぐらい思う存分、お互いの話をされては如何ですか?」

 と勧められた。確かにそうだ。偽ったまま別れるなど寂し過ぎる。真琴は素直に、

「それならまずは、宿直さんの予備知識を──」

 いただけないものか。先生は既に、真琴の予備知識を得ているのだ。それなら真琴も、ある程度の事を掴んでおきたいと思う事は、道理の範疇だろう。それを聞いたところで、真琴の中の先生は先生だった。それ程身近な存在になった男など、

 ──初めてだったのに。

 最低な別れ方をしてしまった。しかも別れた日が、クリスマスだったとか。

「有り得ないわ」

 耳に入ってきたその声は、外ならぬ自分の声。

「えっ!?」

 室内には誰もいないのだから当然なのだが、それを独り言だと認識して驚く事の、何という間抜け振りだ。

 それ程の──

 痛恨事。クリスチャンでも何でもない真琴だが、聖誕の日を祝う世間に水を差すような、

 捻くれ者みたいな──

 そんな自分が、嫌になる。

 武智の言う通り、最後はお互いのよもやま話をするつもりだった。辛うじてツインルームの一室が取れたのも本当の事だ。クリスマスシーズンに無理を承知で、財力をチラつかせ捩じ込ませた。嫌なやり方だったが、何処も一杯だったのだから仕方ない。真琴にとってあの卒業旅行は、それ程の価値だった。相部屋で、二人がその気になるようなら、それでもいいと思っていた。それどころか、そうなればいいとさえ

 ──思っていたのに。

 そんな、とどのつまりが、

 あのビンタ──

 とかいう、有り得ない幕切れ。

 真琴はワインセラーから、未開封のミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。それを開栓しようとして、何本か残った自家製サングリアが目につく。

「あ──」

 引越しまでに飲み切れると思っていたのが、結局余らせてしまった。この期に乗じてしばらくは、とある思いから酒を断つつもりでいる真琴だ。実家に持って帰ったところで捨てるだけとあっては、少し寂しさを感じてしまう。

「どうしよ」

 捨てるには勿体ない。ボンヤリ考えを巡らせつつ、水を歩き飲みしながらソファーに座り込んだ。

 こんな不作法──

 それこそ実家の母に見られたら、すぐに小言が飛んで来て喧嘩になるだろう。

「うわ」

 我ながら嫌な事を思い出したものだと、込み上げてくる苦々しさを水と一緒に流し込む。

「フゥ」

 いくら溜息を吐いたところで何かが変わる訳もない事は理解している真琴だが、返す返すもあの別れ方はないだろう。もう少し別の言い方があった筈なのに、最後だと思えば思う程、感情が溢れてしまった。

 本当のところ、形振り構わず

 ──私を奪いに来て!

 と、言いたかった。が、それを先生にさせると、冗談抜きで国家の闇の抹殺対象だ。先生を想う余り、言い出せない想いがある事の皮肉が悔しかった。が、それを知ってか知らずか先生は、ありきたりな別れの言葉でまとめようとして、余りにもつまらな過ぎて、もどかしさが爆発してしまった。悪い癖だ。二人の間の事なら、その八つ当たりの対象が落ち度のない想い人という、ここに至っても皮肉が皮肉を呼ぶ忌々しい展開に、鬱憤は募るばかり。

 こんなところが──

 我が儘だというのだ。結局、全部人のせいにしようとしている、ご都合主義の自分。

「──んぐ」

 と、喉を鳴らして水をあおると、ソファーの前のテーブルにペットボトルを置いた。そのままソファーに雪崩れ込むつもりが、ペットボトルを放す直前で、その横に置いていた巾着が目に入って止まる。盆踊りの時に使ったそれだ。中身は言わずと知れたおもちゃの景品で、今となってはそれが貴重な思い出だとか口にしようものなら、それこそ実家で

 何を言われるか──

 分かったものではない。だから、誰の目にもつかないように手回り品扱い

 ──するだとか。

 いい加減、病んでいる。自分でも痛い程自覚しているが、結局手放せなくなってしまった。先生のハンドタオルも、そうやって増えてしまった手回り品の一つで、やはり巾着の側に置いている。

「はあぁ──」

 また勝手に、大きな溜息が出た。いつの間にか芽生えてしまった巨大な依存心は、もう消せないだろう。軟弱になったのではなく、替え難い存在として潜在意識に刷り込まれているようなレベルだ。

「どうしよう──」

 思わず女々しい声が漏れ出た。

 こんな事で──

 この先長い余生を一人で生きていけるのか。考えれば考える程不安になって、発作的に安物のハンドタオルに手を伸ばすと、それを顔から被った。何度も洗濯して、既に持ち主の匂いなど全くしない。が、鼻の奥に記憶された匂いは未だ鮮烈で、それ以外の事も思い出させてくれる。

 こんなの──

 ハイティーンの乙女がやる事だ。それを四〇過ぎの女がやる事のおぞましさが遅れて込み上げてきては、入れ替わりで身震いするだとか。

 これが──

 更年期とかいうヤツなのか。今は勝手にそう思い込んで、逃げる。

 どうすれば──

 納得して別れる事が出来るのか。答えは分からないが、起こすべき行動は分かっている。じっとしていても始まらないのだ。が、思えば思う程、身体が動かなくなる。瑞々しさなど殆ど枯れかかっている女が、あの堅物から今後の支えを引き出すためにどうすればいいのか。スマホで時刻を確かめると、もう夕方前だ。

「乙女って──!」

 何年遡っても、真琴の記憶にその時代はない。幼少期から冷めていて、グズグズ年を重ねてきた自分。

 もうそんな──

 いじけた人生などまっぴらだ。

 音を立てて立ち上がった真琴は、そのまま浴室へ向かった。


 同日夜。

「年の瀬だなぁ」

 と、独り言を吐く具衛は、相変わらず山小屋で一人だった。ミニノートPCのワンセグでテレビを見ながら、貰い物の蜜柑を黙々と食っている。剥いだ皮は陳皮の元だ。捨てる事なく、ちぎった端からポイポイ皿の中に入れていく。庭では目下、肉を燻製中だ。最近のメシと言えば、この蜜柑と燻製肉。後は漬物とご飯という、実に偏ったものだった。

 何を食らおうが──

 一人なのだから、好き勝手やっている。

 テレビはバラエティーばかりだ。具衛は殆どそれを見ない。夕方のニュース時が終わると見るものがなくて困るが、それでもとりあえずつけている。音がない山奥など、侘しい事この上ない。世間と隔絶したこの生活を望んでやっている身だが、しばらくやっていると、時折寂しさを覚えるようになった。特にイベント事の時期などは、それが実に堪えるそれは、それなりに俗世に毒されたせいだろう。

 やっぱり俺って──

 仙人にはなれそうにない。

 じゃあ──

 どうするか。

 実は仮名に言われた通り、つい先日、ようやく完全なる自由を手に入れた。天涯孤独の事なら大した仕事も持っていない身だ。その解放感と言ったら中々のものだったが、一方で何かを始めるには先立つものが全くない。現金な世の事だ。自由の身とは言え、何処へ行くにもまず金がいる。

 とりあえず──

 年度末までは、施設の宿直業務員の契約を果たす。その小銭を掴んだ後は、その時の気分次第。それが具衛の中期的見通しだった。長期見通しはその延長上の、行き当たりばったり。短期は考える気にもならない。文字通りの喪失感で、ポッカリ穴が空く

 ──って、この事なんだな。

 と、人ごとのようにそれを痛感させられている、今日この頃。

 いずれは捨てられると思っていたが、それがいつの間にか

 ひょっとするんじゃ──

 ないかと思い始めていた。が、最後は問答無用の巨人に踏み潰される蟻のような、圧倒的戦力差で圧死したようなものだった。踏んづけた方は、抵抗されたとも思っていないだろう。一方で、辛うじて死を免れた蟻の方は、勝手にショックに陥っていて、好きな読書も儘ならない。一丁前に敗者を気取る滑稽さばかりが際立つ、

 実に惨めな──

 玉砕振りだ。

 気がつくと、コンロで火をかけていた炊飯鍋が、カタカタ音を立てている。

 ──メシでも食うか。

 それさえ済ませてしまえば、後は歯を磨いて寝るだけだ。

「よっこらしょ」

 と、じじくさい声と共に立ち上がった具衛は、コンロの火を止めると庭に出た。燻製器の蓋を開けると、モウモウと煙が出てきてまるで玉手箱だ。

「ケホケホ」

 どうやら、出来の悪い木炭が混ざっていたらしい。そんな事にも気づかず(いぶ)していたとか、焼きが回ったものだが、

「マジでじいさんになるんじゃねぇかこりゃあ?」

 などと、独り小芝居をしてみたところで何も変わらず、只の一人。

「──やれやれ」

 軽く燻すつもりがとんだ誤算だ。少し寝かせてみて食えないようなら、後は適当にリメイクして食うしかないだろう。それこそ独り愚痴を吐きながら片づけを始めると、音がない筈の周辺で、その雑音とは違う音が闇の中から聞こえ始めた。

「何だぁ?」

 こんな年の瀬に。

 音を辿るまでもなく、川土手の道をやって来る車の音だと分かる。国道であれば別に珍しい事もないが、夜に川土手の市道を走る車など殆ど例がない。

「ん?」

 ベッドライトが近づいて来ると同時に、意識よりも先に動悸がした。

「まさか──」

 聞き覚えのある轟音は、田舎に不似合いなスポーツカーのものだ。それが予想通りの動きで橋を渡り、庭先までやって来るとバックで下がり始める。

「あっ」

 慌てて、設置したままのライトアップ用の電源をつけた。すると車が、慣れた動きで庭の端に滑り込んで来てすんなり止まる。降りて来たのは、ダウンのロングコートにデニムという、ここに来るには随分とラフな格好の仮名だった。仕事帰りではないという事なのだろうが、それにしても

 何で──

 また、来るか。

「仮名さん──」

 もう、終わった筈だ。押しかけられる意味が分からない。

「もうその呼び方をする必要はないんじゃなくて?」

 言われた具衛は、相変わらず冴えない部屋着兼寝巻き用のジャージ姿だ。

「それともおじいさんになっちゃって、記憶が混濁してるのかしらね?」

 はたまた怪しい術で呆けたとか、と、相変わらず言いたい放題の仮名の皮肉が冴える程に、辺りは未だ煙っている。

「え? あ、燻製が失敗して──」

 この際じいさんでも忍者でも何でもいいが、どうでもよくなっている時にアポ無しで来るなど反則だろう。が、意識の何処かにある期待感が、脳内を満たしていく。

「中に──入りますか?」

 と聞くのは、賭けだ。ちょっと寄っただけで、すぐ帰るつもりかも知れない。もしそうなら、結論を急がない方が、

 少しでも──

 耳目で絶美を感じる事が出来ると思う事の、何という軟弱さだ。

「当たり前でしょ。ここ寒いし」

 理由は分からないが、その紅唇の期待通りの答えに心臓が高鳴るとか。

「あ、はい」

 慌ててガラス障子を開けて中に入ると、気分の高揚のせいだろう。手早く室内を片づける身体が、急に軽くなったようだった。

「そのままでいいわよ」

 散らかっているどころか、

「相変わらず物のない部屋ね」

 と、容赦ない突っ込みは、それだけ仮名が山小屋に来なかった事の裏返しでもある。

「相変わらずムサい部屋ですが──」

「これでムサかったら、世の男の部屋なんて殆どごみ屋敷でしょ」

「はは」

 全くもって遠慮のかけらもない、言いたい放題が心地よいとか、

 俺も随分──

 この美魔女に毒されたという事だろう。気を鎮めるため、ちゃぶ台の上の端末を片づけると、とりあえず台所へ逃げ出す。が、それを見透かされたように、

「お茶はいらないから」

 と、いきなり捕まった。

 後から慣れた足取りで縁側から上がり込んで来た仮名が、入れ替わりでちゃぶ台の上に置いたのは、落ち着いた色合いの洒落た箱と、風呂敷に包まれた四本のワインボトルだ。

「本当の最後の最後で、誰かさんとこれを飲み食いしたくて来たの」

「え?」

「いいから開けなさいよ」

 仕方なく、言いつけ通りちゃぶ台に戻り、まず箱を開けてみる。と、中に漆器のような重厚な風合いの、大きな饅頭の一塊だ。他方、ワインボトルは洒落たラベルがついていて、ディープルビーの液体の妖艶さに脈が跳ねる。まるで仮名の雰囲気を象徴したような、そんな二品。

「大きなチョコレート饅頭ですね」

 と、素直な感想を呟いた瞬間で、仮名が噴き出した。

「モンブランよ!」

 確かに言われてみれば、頭頂部に麺状のマロンペーストがデコレートされていて、その上から白い粉砂糖がまぶされている。五号大のホールケーキサイズだが、モンブランの定義には当てはまっているのだろう。

「チョコレート饅頭って──」

 しばらく喉が痙攣してまともな声が出せない仮名が、ひとしきり笑った後で、

「正式名称は、あなたも聞き覚えがあるでしょ?」

 と、何やら含みを捩じ込んできた。

「菓子に興味がないモンですから」

「まさか食べた事ないとか言うんじゃないでしょうね?」

「どうでしょう」

「相変わらずの無頓着振りは、今も昔も変わらないようね」

 正確には【モン・ブラン・オ・マロン】と称するその名は、言わずと知れた欧州最高峰の山からつけられたものだ。山名は仏語だが、菓子自体の発祥はイタリアの家庭菓子が原型と言われる。

 そんな事より──

 そのモンブランに添えられたバースデープレートが、具衛の目を射抜く。ホワイトチョコレートの板に、鮮やかな筆記体で綴られているそれは具衛の名前だ。

「ご存じでしたか」

「とっくの昔にね」

 武智から聞いたのだろう。

「私も誕生日祝ってもらってるし。まぁ返礼よ返礼」

 と、いきなり仮名が、箱からケーキを取り出した。湿っぽくなるのを嫌ったようだ。

「ほら、始めるわよ。どうせ晩御飯まだなんでしょ? 湯飲みと箸ぐらい持って来なさいよ」

 捲し立てるのは照れ隠しもあるのだろう。グズグズして怒鳴られる前に、また慌てて台所へ立つ具衛の横で、仮名が早速ワインを開栓する。その栓はコルクではなく、金属とプラスチックの加工品だ。重厚感のあるいかり肩のフルボディーボトルにしては、何処かチグハグに見えるそれに具衛の目が奪われていると、

「早くしなさいよ、重いわ」

 などと、既に仮名がボトルを傾けている。

「はい、只今」

 とりあえず用意したグラスをちゃぶ台の上に滑り込ませると、波々と赤ワインを注がれた。

 何がなんだか──

 だが、相変わらずせっかちだ。と、そこでギリギリ気がついた。

「──車ですよね!?」

「バーベキューの時と同じよ」

 いつまでグズグズしてるの、と急かされたそれは、ノンアルコールのサングリアらしい。

「そうですか」

 と、注がれたそれに、何やらやっつけ気味の仮名が早速グラスを合わせてくる。と、勝手に忙しそうな仮名が、それを一息に飲み干した。相変わらずの飲みっぷりだが、

 どうも──

 おかしい。それもその筈で、遅れて飲んでみると、

「これ──!?」

 どう考えてもアルコール入りだ。口に含んだ勢いで声を出したせいか、酒気でむせる具衛の横で何やら悪巧みの仮名が、

「はい、おめでとう!」

 などと、早くも手酌で二杯目をあおっている。

「ど、ど、どーすんですか!?」

「何が?」

 しらばっくれる仮名は話をする気がない。とりあえずラベルを確かめると、カリフォルニアのビンテージワインのようだ。そのボトルの中には、やはりお決まりのように草のような物が見える。通りで、一度開栓(・・・・)していた訳だ。ようやくそこまで思考が及んだ具衛の顔を見た仮名が、ようやく悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「私特製の自家製サングリアよ。美味しいでしょ?」

 好みの米オーク樽らしい。特有のバニラ香に一味、好みのハーブをサングリアスタイルで加えたら、

「すっかり病みつきになってね」

 世の既製品や、一般的なサングリアのように果物や砂糖などは加えない。好みの上等ワインにその時々の気分で、いくつかのハーブを漬け込むのみ。その繊細な隠し味が痛く気に入って、もう何年にもなるのだとか何とか。

「だから──」

 本当のところは【ハーブワイン】と呼んだ方が正しいのだそうだが、フレーバードワインの事を知ったきっかけがサングリアだったとかで、

「──語源が気に入ってね」

 血を意味するその名称は、如何にも血気早い自分に合っている。が、そんな事は、誰も聞いていない。

「──以上で口上は終わりですか?」

「あら、足りないかしら?」

 嘯く仮名が、口を挟む隙を奪ってくれるついでで言うには、開栓後の赤ワインの賞味期限は一週間ぐらいのものらしい。原因は酸化だ。が、濃厚なビンテージワインであればそれが二週間はもち、更にワインセーバーを使えば軽く一か月は酸化を抑えられるものらしい。

「それがこの栓ね」

 チグハグに見えた機械的な栓の正体は、酸化防止のための物だ。考え方によっては一種の薬酒のようにも思えるが、それで片づけてしまうには余りにも出来が良い。が、それを個人が作る事は、日本では酒税法に触れてしまうのだが、今の問題はそれではない。

「どうしたの? あなたのお祝いなんだから──」

 遠慮なく飲みなさいよ、とほざいてくれる仮名は、遠慮なく上等な酒を立て続けにあおっている。つまり、

「あっ!? 私、車だったわ!?」

 どうしましょ、と今更わざとらしく騒ぎ立てるそれは、どう見ても大根役者だ。

「『どうしましょ』って──!?」

 そんなしおらしさなど初めて拝まされた具衛が、思わず絶句させられる。

「あなたも飲んじゃったわよねぇ!?」

「ノンアルコールなんじゃなかったんですか!?」

「間違えたのよ」

「間違えたって──」

「ミスの一つや二つ、誰でもあるでしょ?」

「いや、こんな分かりやすいミスは──」

 それはすっ(とぼ)けと言う。

「ねっ!? どうしよっか?」

 言い寄る仮名の、何というあざとさだ。

「代行呼べばいいじゃないですか?」

「私がそれを嫌いな事知ってるわよねぇ?」

「この期に及んでそんな我儘を」

「この期だからよ」

 引越しの準備で荷物を纏めていたら、ワインセラーの中に自家製サングリアが残っていた。捨てるには惜しいし、かと言って流石に一人では飲み切れない。では、どうするか。

「そんなの、実家に持って帰ればよかったじゃないですか」

「実家じゃ酒をあおる気になれないのよ」

 折しも今日は、それなりに世話になった山小屋の主の誕生日だ。それならこの美酒を手土産に、最後に飲み明かしてもバチは当たらないだろう。との結論に達した結果がこの暴挙。

「飲み明かすって──」

 いつまで居座るつもりなのか。

「あなたにいつか、この曰くつき(・・・・)を飲ませたいと思ってたのよ。元お役人様?」

 意地悪く笑う仮名の最後の一言は止めだ。文字通り一口しか飲んでいない具衛が、小さく痙攣する。

「そ、そういうあなただって──」

 元外務官僚だ。それが明白に法に反する酒で人を陥れ、無理矢理居座ろうとするそれは、具衛がそれを認めなければ、

「まぁ不退去罪って言いたいんだろうけど」

 という論法など、あっさりお見通しの仮名の才弁縦横振りは、少々酒をあおった程度では全く動じない。

「べ、弁護士のやる事ですかこれが?」

「あら、それを言うならあなたも大概じゃない?」

 花火大会(交通トラブル)とか、外相の選挙事務所の張り込み(盗聴・尾行)とか、

「──色々とねぇ?」

 と言うそれは、明らかに脅しだ。

「しかし──」

「お願いよ」

 迷惑かけないから、と今度は急に思い詰めた顔をされると、もう抗えない。

「はあ」

 その溜息に如才なく肯定を感じとった仮名が、

「よかった」

 と、可愛らしい声を出した。

「大した役者振りですね全く」

「そうと決まれば、飲んで食べてよ」

 都合の悪い事は見事にスルーする仮名が、言いながらモンブランをテキパキ切り分けてくれる。

「甘さ控えめでおいしいわ。ボサっとしてないで食べなさいよ」

「仮名さん」

「まだそれを言う?」

 夜の山奥の小屋で男女が二人切り。しかも女は、どういう魂胆か知らないが自ら酒をあおっていて、後は男の自制頼みという状況。それは普通、良識を持つ男の観点では、常識的に考えて既にこの時点で、

 ──立派な迷惑なんだが。

 それが口に出せない具衛は、やはり男だ。

「はあぁ──」

 堪らずまた溜息を吐く具衛の横で、

「五合瓶四本じゃ少なかったかしら」

 と言う仮名は、せっせと手酌でサングリアをあおっている。


 小一時間後。

 あらかた食い終わった二人のうち、片割れの女の方が、

「しかし、誕生日に漬物とご飯って──」

 と、軽い酒気の勢いに乗じて厚かましい事をぬかしていた。具衛にしてみれば押しかけられた身の上で、謂れなき苦情もいいトコだ。が、それを

「湯豆腐と干し肉の燻製もあったじゃないですか」

 と言い返す、具衛らしい細やかな反論には、実は伏線がある。

「質素ねぇ」

「肉は熊肉だったんですよ?」

「熊!?」

 どうやら知らずに食べたらしい仮名が、遅ればせながら驚いてみせる今度のそれは、演技ではなさそうだ。因みに、熊肉の旬はその冬眠直前と言われ、食い溜めした肉は季節柄臭みもなく、脂が乗って濃厚。

「猟師さんからの頂き物なんですよ」

「田舎の漬物や熊肉は確かにおいしいけど──」

 記念の日には色味も大事だと言う仮名が、軽く嘆息を吐いた。

「一人でケーキって柄でもないですし」

 どの道既に一通り食べ終わって片づけた後で、後の祭りだ。ちゃぶ台には再びPCを載せ、映りの良くないワンセグをつけている。例によって二人の間には火鉢を置いているとは言え、距離は一歩以内だ。こう近過ぎては、何かにすがっていないと間がもたない。

 旅行が最後だった筈なのに──

 落ち着かない具衛の横の仮名は、相変わらず曰くつきのワインを、ねぶるように啜っている。

 何だか──

 まるで「今夜は帰らない」と駄々を捏ねる若い娘のようで微笑ましくもあるが、生々しい現実は楽観視出来たものではない。とりあえず滞在する事を認めただけだ。が、押しかけた方の女は実に堂々としていて、家人としての面子も何もあったものではない。

 そんな風に、事を思い通りに運んでいる仮名が、

「さて、そろそろ歯でも磨こうかしら」

 と、合わせて持参したボストンバッグの中から、歯磨きセットとタオルを取り出した。

「用意周到ですね」

「泊まるつもりで来たんだから当然よ」

 洗面台借りるわよ、と具衛の返事を待つ事なく、慣れた足取りで極小スペースを誇る台所脇のそこ(洗面台)へ行く。

 ──何なんだ。

 旅行帰りの駅で、首が捩じ切れる勢いのビンタを食らわしてくれた筈ではないか。何がなんだか分からないなりにも、あれを最後と心得、しばらくは柄にもなく傷心期間を迎えるつもりでいた

 ──のに。

 ビンタを食らわせた方がまた訪ねて来るとか。謎は深まるばかりだ。そんな謎の根源が歯磨きから戻ると、

「物干し部屋借りるわよ」

 と、やはり具衛の返事を聞くまでもなく、今度はバッグを持って隣室へ勝手に入る。

「何よ、もうお布団ひいてるじゃない!?」

「早めに押し入れから出して、湿気を飛ばしとくんですよ!」

「あ、もう一つ火鉢がある。あったかくていいわ」

「寝る前に部屋と布団を暖めとかないと、寒くて寝れないんで──」

 武智(大家さん)から余っている火鉢を借りたのだ。

 ──って。

 この説明臭いのは何なのか。まるで何かの言い訳のようで、複雑な具衛だ。口に出せない思いを咀嚼していると、部屋着に着替えた仮名が戻って来た。起毛仕立ての暖かそうなチュニックとパンツは、月見の時期に仮名の自宅へ押しかけた際の格好に似ていたが、足元にフットウォーマーを履いている。流石に冷えるのだろうが、それにしても用意がいい。

「お風呂は済ませて来たから、後はいつでも寝落ち出来るの」

「そうですか」

「あなたは?」

「は?」

「着替えよ」

「このままですよ」

「お風呂は?」

「だから後は歯を磨いて寝るだけです」

「あ、そう」

 一体全体、

 ──何の?

 確認か。

「じゃあ続き続き」

 と、また仮名が、酒をあおった。

「歯磨きの意味がないじゃないですか!?」

「酔い潰れるかも知れないから、食べた分を磨いといたの」

「意味あるんですかそれ?」

 アルコールの糖や酸の放置も、歯には大きなダメージになり得る筈だ。要するに、気分なのだろう。

「ほら、飲むわよ」

 既にボトルは三本目も終わりが近いが、二人とも酔いには程遠い。

「酔わないわねあなたも」

「飲みつけてないだけで、飲めない事はないんですよ」

「私もそれなりに強いからね。酔わして不届きな事をしようったって出来ないわよ?」

「しませんよ!」

「どうだか」

 と、またグラスをあおる酒に、祝いの雰囲気が遠退いていく。今夜は辺境に泊まるとしても、実家に帰る運命の仮名だ。ヤケ酒に突入しているのは気のせいではないだろう。

「もうやめときましょう。身体を壊しますよ」

「どうせこれが最後だから、少々構わないわ」

「何をそんなに最後最後と──」

「──三回目だからね」

「は?」

「一夜を共にするの」

「ケホ」

 グラスを傾けていた具衛がむせ返った。

「少しぐらい、慌てふためいたらいいのよ」

「ケホケホ」

 咳き込む度に、アルコールが喉の奥で香ってまたむせる。悪循環に身を捩る具衛の横で、

「どれだけ女に恥をかかせれば気がすむ訳?」

 と、只ならぬ事を連発する仮名は、やはり少しは酔っているようだ。

「それが最後の最期で生き抜けとか──」

 意味が分からない、とまた手酌であおるが、

「全然酔えないわ!」

 と、ついに音を立てて、ちゃぶ台にグラスを置いた。

「ではもうお開きという事で──」

「うるさい!」

 その怒鳴った勢いでまたドボドボと注いでいると、途中で瓶の方が空いてしまう。

「クソ、空か」

 中途半端にグラスに入ったそれを、また仮名があおった。

「も、もういい加減に──」

 と、心配した具衛が、その手を掴んで止める。

「触るな!」

 と威勢はいいが、振り払おうとするその手がグニャリと宙を泳ぐので、また具衛が掴んだ。物が少ない家だが、狭い分だけ建具も近い。それこそ最後に怪我でもさせて、妙なケチがついても面白くないだろう。掴んだり振り払ったりを繰り返す事数回。具衛が仮名の手を放す時になって、

「放すな!」

 と、逆を怒鳴られた。

「──酔ってますね」

 流石に何回か立て続けにあおったせいだろう。目が据わっているように見える。頬も少し赤身を帯びていて、これはこれで、

 妙に──

 色っぽい。

 戸惑う具衛が、やはりそろそろと手を放した。が、放したその手を、

「そりゃぁあなたはね!」

 と、息巻く仮名が、音を立てて上から握り潰す。

「いてっ!」

「世界中何処にいたって、チャチャッとネット検索すれば、私の事は分かるでしょうよ!」

 驚いて痛がる具衛に構わず、仮名は続ける。

「でも、こっちはどうしろって言うのよ!?」

「はあ?」

「残りの人生、全部籠の鳥で、夢も希望もない、死んだも同じの人生!」

 昂る感情が、仮名の喉を狭める。それでも構わず絞り出した声の末尾が、震えて高くなった。

「せめて何か支えになるものが欲しかったのに! あなたときたら月並みな妄言だけで!」

 震える手が、掴んでいる具衛の手の上で爪を立て始める。仮名の求める物はさっぱり分からない。と、思ったところで、

 ──物か。

 と思いついた。

「ちょっといいですか?」

 と、掴まれた手を放そうとする具衛だが、仮名は放してくれない。

「あなたなんて一度目を放したら、あっと言う間に見えなくなっちゃうじゃない!」

 その爪が、震えながら手の甲の皮膚を激しく突く。

「それをさ! どうやって無名のあなたに接しろって言うのよ! 後に残されたあなたの物なんて、それこそこれだけよ!」

 と片方の手で、バックの中から出したのは、いつぞやに貸した切りの、具衛のハンドタオルだった。片手ですぐに取り出せる程、確かなところに常備している事を裏づける事の哀れだ。

「こんな安っぽいハンカチだけで、どうやって気持ちを切らさず、それこそ生き抜けって言うのよ!」

 それはよくある百均の量販店で、具衛が特に拘りなく買った物だった。それを、日本一の金持ちとも揶揄される大富豪の令嬢が、大事そうに持って

 ──いるとか。

 その意味が分からないヤツは、本物のバカだろう。

 突き立てられた爪のうち、人差し指から薬指の三本が、ついに具衛の手の甲の皮膚を突き破る。その血を見た仮名が、我に返ったようで、

「──ゴメン」

 と、小さく謝った。

「こちらこそ、甲斐性がなくて──」

 と謝るしかない、情けなさだ。

「全くね」

 と容赦ない仮名が、出したついでのハンカチで、滲んだ血を拭き取ると、今度は上から手を重ねられる。

「血がつきますよ?」

「構わないわよ」

 その一方で、ハンカチはしっかり手元に戻している。どうやら手当だけではなさそうなその仕種は、

 俺なんかの何を──

 片っ端から集められているようでこそばゆい。

「よければもっとマシな物を持って帰ってください」

 と言ってみるが、

「物が欲しいんじゃない」

 と返された具衛が、小さく痙攣した。

「じゃ、じゃあ──」

 何が欲しいのか。

「──ダ、ダメです、よ」

「何が?」

「い、いやその──」

 また勢いに任せた仮名が、暴走を企てているような気がしないでもない。

「あなたが思ってるような事なんかしないわよ」

 失礼しちゃうわね、と見透かされてしまうが、先程来触れているお互いの手の温度は上がりっ放しだ。それこそ

 どうだか──

 分かったものではない。

「最後に聞きたい事があったの──」

 それで、具衛の誕生日にかこつけて

「──押しかけたって訳」

 と、今度は神妙さを伴うそれは、本当なのだろう。ここで

 ──押しかけた自覚はあるのか。

 とか突っ込むと、プライドの高い仮名の事だ。この妖しい誕生日会を終わらせる事が、

 出来るかも──

 知れない。が、やはり何処までいっても最後は男の具衛はそれを出来ず、手汗を感じ始めた手を振り払えずにいる。

「私、明日実家に帰るの」

 午後の新幹線を抑えているらしい。

「そう、ですか」

「母から年内一杯で身辺整理するよう言われててね」

 四十路を過ぎた身でその言いなりである事の自嘲が、仮名の横顔に宿る。全て相手の土俵で事が進む事の無念だろう。

「今更どんな顔して帰ればいいか分からないのよ」

 そんな仮名は、やはり酔っている

 としか──

 思えないような、不安そうな目だ。

「──あなたは、親を許せる?」

「え──?」

 今度は珍しくも、弱々しい女の音色を吐く仮名は、明らかにいつもの仮名ではない。

 これが──

 具衛より年上の、聡明にして稀有の美女の

 ──正体。

 と言えば言い過ぎだろうが、長年患う懊悩の大部分である事は間違いないだろう。それを今、名もなき資がない男の目の前で晒している事の異様。これもあって酒をあおっていたのだろうが、後の人生を左右しかねないその答えを、この土壇場で求められる事の半端ないプレッシャーだ。

「私なんかが答えてもいいのかと思うんですが──」

 ここで逃げては、晒した仮名に対する裏切りだろう。具衛の手を上から重ねたままの仮名が、そのままじっと待っている。

「それでも、私なんかの答えを聞きますか?」

「──うん」

 あなたの思いを聞きたい、という声が、この上なく切ない。

「私の父の話は、もうご存じですよね」

「──うん。武智さんから」


「あれが生まれたのは、正月が差し迫った小晦日(こつごもり)でして──」

 そんな昔話調の語り口で先生の生い立ちを武智から聞いたのは、真琴が離任挨拶で武智邸を訪ねた折の事だった。思いがけず失笑しそうになったのは、その冒頭だけだ。極度に希望の薄い人生を垣間見た真琴は、自分の小ささを思い知らされる事になる。

 先生こと不破具衛(ふわともえ)が、広島郊外の安アパートに居を構える、資がない貧困家庭の一人息子として出生したのは、今日からちょうど三八年前の事だった。何故だか寺の住職から名を貰ったという具衛は、幼少期から父親の病気(・・)に頭を悩ます少年だったという。その代わり母親は、早朝から深夜までいくつもパート勤めをかけ持ちする大黒柱。家事は同居の祖母がしていたらしい。父親の病気とは、酒色と博打という救い難いものだった。

 具衛以外の大人達の言い争いが絶えない中、具衛が小四の時に愛想を尽かした母親が離婚し離脱。稼ぎ頭が抜けた不破家は、一目瞭然の凋落(ちょうらく)を辿る。祖母は父方だったが実息を止める事が出来ず、そもそも諌める気すらなかったようだ。自分が先に逝くと高を括っていたのだろう。母親がいた頃でさえ借金に喘いでいた不破家の家計だ。忽ち消費者金融からも金が借りられなくなると、酒飲みや博徒に顔が利いた父親は、そうした連中を始めとする曰くつきの知人から借金を重ね始める。具衛の父親は、借金をする才能だけは長けていた人物だったと言っていい。唯一の救いは、お縄にかかるような所業や、違法な高利貸し(所謂闇金)には手を出さなかった。その辺りの知恵がなかったのか、最低限の分別としたものだったのか。そこは本人のみぞ知る謎だ。

 その父親が酒害で精神病院に出入りするようになると、今度は入院費が家計を圧迫する。祖母も細々と働いていたが、膨らみ続ける借金の前に焼石に水。不破家の大人達は揃いも揃って無知と貧困の家系で、誰もが社会保険など払った事がなく、年金を貰うどころか医療費は全額負担でろくに病院にもかかれない。そんな家で父親の入院は破格の待遇であり、こんな家で具衛少年が成人を迎える事が出来たのは、運良く頑健だったという事だ。

 中学に進学した具衛は、完全不登校になった。小学校も殆ど通わなかったが、中学になると学校へ行く代わりに働き始め、新聞配達やスーパーの倉庫で小銭を稼ぎ、余り物の食材を貰うなど食い繋ぐ術を覚えた。具衛にとって学校とは、無知と貧困をバカにされるだけの場で行く価値を見出せず、不登校の方が生計が見通せたと言うのだから救われない。出費の殆どが父親のために消えていく生活は、生活保護という手もあった筈だが、不破家はそれを受けなかった。金があるだけ使う父親がいては、意味がなかったという事だろう。

 更に数年後、この状態で具衛が地元公立高校へ進学したのは奇跡と言っていい。祖母は少ない見入りで、借金を躱しつつ食い繋いだ。そこは戦前後の混乱を生き抜いた世代の逞しさだろう。その祖母は、具衛が高三の一学期に突然倒れ、そのまま鬼籍に入った。心臓が弱っていたのに医者にかかれなかったためだ。一方、その頃の父親は殆ど禁治産者扱いで、病院で隔離されていた。父が借金をする事はなくなっていたが、それでも最後の最期まで入院費で家計を苦しめる事を忘れなかった。最後まで禁治産者に認定されなかったのは、役所が関わりを面倒臭がったからだろう。そんな煮ても焼いても食えない、どうしようにもない父親も、奇しくも祖母が亡くなった数日後に精神病院で死んだ。鉄格子が入った病院の個室で、自ら頭を打ちつけた事による脳挫傷だったらしい。これにより()と決裂した具衛は天涯孤独となった訳だが、入れ替わりでそこから負の遺産との戦いが始まる。親戚はいたようだが、父親のお陰で総好かんの身寄りなしの具衛に残されたのは、膨大な督促状の山だった。そんな時に具衛を訪ねたのが、武智の顧問弁護士の山下だ。

 ここで実は、武智が具衛の父親の最大債権者で、陰ながら不破家を支えていたという後出しがあったりする。具衛の父親に責任をとらせる思惑で、不破家との接点を具衛の父親に絞っていた武智の存在を、具衛はこの時まで知らない。が、父親の死後の不破家を放置出来ず、山下に具衛を訪ねさせたところで初対面となった二人は、山下が一本取られたという。未成年者が行政を始め、誰一人支援を受ける事なく親の火葬を済ませ、その親が残した督促状(負の遺産)に向き合っている事の異様。当時の山下は既にそれなりに経験を積んだ四〇半ばの弁護士だったが、単純にこの極めて稀なケースに驚かされたという訳だ。が、具衛にとっては当然の感覚だったその哀れな理由を、武智と山下はその後接するうちに突きつけられる事になる。

 荒んだ家庭に育つ少年の手伝いと言えば、買い物でも片づけでもなく、押し寄せて来る借金取りの対応だったらしい。保護者と言われる立ち位置の家人達は、責任の追及を恐れて逃げ惑う。それを手伝ったのが何と幼い具衛だった。本来責任が及ばない筈の、かつ意味がよく分からない子供に借金取りの対応をさせ、大人達はその陰に隠れた訳だ。糠に釘を狙っての事だろう。無知と貧困の中で容赦ない世知に接していた隔世的な青年に、山下は異能を感じたという。

 山下は武智(依頼主)の代理人である事を忘れ、妙に潔い具衛青年に相続放棄を教示した。相続とは財も負債も継ぐ。その相続権を有する者が、三か月以内に家庭裁判所へ申し立てる事で相続を否定する手続きだ。が、山下が山下なら具衛も具衛で、ネット社会黎明期の当時にありながら、具衛はそれを既に知り得ていた上で、事もあろうに相続を放棄しなかった。法の範囲内で債権者が望む利息(・・・・・・・・)をつけて、「一生かかってでも返済する」と言い切ったとかで、具衛も若かったという事だろう。

「そんなバカな──」

 流石にこれには、耳を傾け続けていた真琴が吐き出した。利息のつけ方によっては、途轍もない負債となる可能性があるからだ。

「元金はいくらだったんでしょうか?」

「その辺りが、あなた様には本当に頭が下がります」

 庶民感覚で金勘定が出来るのは、真琴もそうなら武智もそうだったという事だろう。元金三〇〇〇万超もの借金を、

「──利息をつけて、約三〇年で返済する計画でして」

 それは普通、

「──無謀です」

 と、真琴が言わずもがなだ。それを作らせた武智も呆れる程の内容の問題は、まさに利息のつけ方だった。元金の返済で満足する債権者には、謝罪も兼ねて年利一割の利息をつけて返済。それ以上を望む者には年利の法定上限の利息をつけて返済。それを三〇年も返し続ければ、

「計画上の返済総額は、二億を超えましたから」

 と、武智も失笑するそれは殆ど、一般的なサラリーマンの生涯収入だ。更に言えば、具衛青年がまともな会社に就職し、順調に出世してどうにか返済出来る内容だ。しかも、文字通りの質実剛健でなくては到底成し遂げられないそれは、長期間の倹約どころか赤貧生活を強いるものであり、当然家庭を持つ喜びも奪う。

 天涯孤独となった具衛は、人より早く、長く禄を得るため、躊躇なく高校を中退。とは言え、それまでの人生で、小遣い稼ぎの仕事と、余り物の食材を貰って食い繋ぐ程度の能しか持っていなかった男だ。それはどう考えても普通にはない過酷な道で、とても返済出来る訳がないと思うのが普通だろう。その後の禁酒や、パスポートの質入れなどは、その極微細な一端に過ぎず。酔狂にして頑固な人生を歩んだ彼は、大方の予想を見事に覆し、悲劇的な計画を逆に一〇年前倒しで完遂する。その名もなき偉業が快挙でなくて何なのか。その達成が具衛の一二月の給料日だったとは、真琴をしてこれを巡り合わせと言わずして何なのか。満足な学歴を持たない男に異能(・・)を直感した山下と言い、それを陰ながら支え続けた武智と言い、何れが欠けても不可能だったこの快事が運命と言わずして何なのか。

 とは言え、借金返済の代償は大きく、三八にもなって預貯金どころか、手元には衣類程度の生活必需品しかない素寒貧の異能。それが不破具衛という男の半身像だった。

「物や金は後から取り戻そうと思えば──」

 取り戻す事も出来る。が、輝かしいと言えないまでも、

「人並みに望んでも罰は当たらない青春時代までも奪われた、という事でして──」

 人生で一番眩しい時代の具衛は、自暴自棄になる自由すら許されなかった。修行僧並みの倹約と律を自らに課し、淡々とシビアに歩み続けた。そんな男がこの度手にした自由の価値は、まさに人生の第二幕と言っていい。それを強いた血筋を、この男はどう思っているのか。


 グアム旅行の真意は、

「──そんな事をあなたから直接聞きたかったのよ」

 と言う真琴の手は、先程来先生の手の上にあって、すっかり汗ばんでいる。が、それを放す気にはなれない。放してしまうと、ボンヤリと浮世を揺蕩(たゆた)うような男の事だ。はぐらかされて、逃げられてしまう。

「今日こそ、それを──」

 聞きたい。

 グアムの時は、最後の思いが先走って、自分の言いたい事ばかりが溢れてしまった。挙句の喧嘩別れで、穴があったら入りたいとはこの事だ。が、この男は、それを責めてはくれない。

「まぁ、強行軍でしたから」

 真琴に捕まったままの先生は、俯き加減で大人しく捕まったままだ。先生がその気になれば、

 私なんて──

 手玉の筈なのだが、見た目通り優しいこの男はそれもしない。

「でも、グアムはよかったですね」

 数十年前の激戦地だったそこは、

「後世を生きる一人として、偶然にも訪ねる事が出来て──」

 よかったと、いつもはボンヤリしている男の口が、凄まじい説得力を帯びる。

「せめて史跡の一つでも回りたかったわ」

「回れましたよ」

「何処に?」

「西太平洋に」

 その手の事を真琴は識者として知っている。が、先生はそれを体当たりで得た口だ。

「多分戦中も、変わらず美しい海だったのよね」

「そうですね──」

 掴みどころのないボンヤリした男は、一見本人が本気? で目指している、浮世離れした仙人のように見えなくもない。が、その根底は、宿命的な前半生と使命的な後半生によって苛烈さに塗れていると言ったら、誰が信じるだろうか。

「──やっぱり、嫌?」

「え?」

 真琴の都合で間違いなく、思い出したくない事を思い出させ、他人に言いにくい事を吐かせようとしている自分。言い淀む先生のそれは、当然本人にとって嫌な過去だ。

「嫌なら嫌ってはっきり言いなさいよ」

 何なら訴えても構わない、と明らかに情を誘うやり方が如何にも情けない。

「それなら私を介して実家のザマを見られるかも知れないし──」

 言葉に窮し、我ながらつまらない事を言っていると思う真琴だが、自分では止められないところに陥り始めた女を、じっとしていた男の手があっさり止めてくれた。

「嫌だったら──」

 とっくの昔に訴えていると、少し顔を崩した先生が、

「──籠絡の罪で」

 と嘯く。

「何それ」

 それを言うなら、

 ──そっちこそ。

 何となく気恥ずかしくて言えないそんな事を、密かに飲み込む真琴だ。

「思いがけず人たらしよね」

 代わりにそんな事を言ってみる。

「山小屋仙人の戯言ですよ」

「少なくとも私はもう、そうは思えないんだけど」

 この男の事をよくも知らずにバカにする人間がいたら、

「──許せないと思う」

 そんな事を男にぬかす自分が、取られた手をまた取り返して、今度は指を絡めるとか。

 ──マズい。

 また痛い暴走をするかも知れない。が、自分ではそれを止める術を持たない真琴を察したような先生が、ついに重い口を開いた。

「親が死んで、もう二〇年ですから──」

 諦めがつく、と達観したじじくさい男が苦笑いする。

「諦め?」

「ええ」

 良くも悪くも二〇年前で、親の悪行は終わっている、とか。

「未だに許せない思いは当然ありますが──」

 それを口にしたところで、一番ぶつけたい人間にはもう届かない。

「結果として一応、五体満足で成人を迎える事が出来たので──」

 今の自分はあの親がいなくては存在し得ない事を思うと、

「──色々と諦め時が来るんです」

 生物学上、卵は親を選べない訳で、そこはもう宇宙の真理として向き合うしかない、とも。

「そんなものかしらね?」

 真琴の言葉に、つい反感が滲んだ。親が健在の真琴には、まだ通じない話だ。折角話してくれた人間に

 頑なになるなんて──

 それが分かっていても我慢出来ない、幼稚な自分。

「特別養子縁組があるじゃない?」

 いけないとは分かっていても、そんな捩れた事で揚げ足ばかり拾う、嫌な自分。

「それを知ったのは、高校に入った頃で──」

 もう、捨てるに捨てられない状態になっていた、と言う先生の顔に、やはり諦めが浮かぶ。

「ゴメン!」

 悪い癖だ。知識量だけで他人を評価し、言い負かそうとする浅はかな自分。

「続けて」

「いや──」

「いいから続けて!」

 特別養子縁組は、法で実親との関係を完全に断ち切り、養親と実の親子関係を結ぶもので、それが認められれば実親は戸籍にすら残らない。まさに先生のような子供のための制度と言えたが、それを当時知っていてしなかったこの男は、その時既に、本当に色々と諦めていたという事だ。

 それを──

 文字通り、血を見る思いで生きて来た人間に対し、感情まかせの知ったか振りで傷つけてしまう、愚かな自分。

「お願い」

 気がつくと、絡めた指がそれなりの握力で男の手指を握っている。が、男はやはり、何も言わずにあっさり受け止めてくれている。

「──あ」

 と、慌てて緩めたその手指は、苦労人のくせに、真琴の手指と然程変わらない大きさの、細く綺麗なそれだ。

 こんな手の男が──?

 真琴も驚く程の経歴を持っている。

「ホント、詐欺師ね」

「え?」

 あの武智の懐刀(山下)が、異能と呼ぶ訳だ。

「続きを聞かせて」

 絡めた手指をさするように動かして催促すると、それに負けたような先生が小さく嘆息して、息を整えた。

「許さなくても、恨んでも、喧嘩してもいいんです」

 一番いけないのは、

「無関心だと思うんです」

 関心がなければ、お互い存在しないも同じ。

「親子で、自分に繋がる血筋で、お互いの存在に意義が見出せないのは切ないです」

「意義って必要なのかしら?」

 と、また病気が出る。殆ど子供の駄々捏ねだが、真琴はどうしてもこれを止められない。

「同じ生きるのであれば、人として有意義でありたいと思うものでしょう?」

 只生きるだけの人生はつまらないし、そんな人生は長過ぎる。そんな俄か哲学を口にする男は、ろくに学校にも通っていない、高校中退の貧乏人という痛快な皮肉だ。

「まぁ宗教や多くの哲学は、そんな事を言ってはいるけど」

 要するに、男が何処までつき合ってくれるのか。これはそんな真琴なりの甘えである事を、この男は恐らく気づいている。

「逃げ回られるのはきっと寂しい──」

 それでも、どうしてもダメなら、

「──本当の意味で、諦めの境地を迎えるだけです」

 と言う先生は、そうやって戦い抜いた人間だ。それを思う真琴は今更ながら、それを思い出させた自分の罪深さを呪う。

「折角ご健在の肉親です。許すも許さないも──」

 それが出来るうちにやっておかなくては、

「──意義を失う訳?」

「相手がいなくなれば──」

 結局のところ、一人で都合良く解釈して結論づける事になる。

「やっておけばよかったと後悔する。それは中途半端な諦めで──」

 後悔が後悔を生む負の連鎖となって、後々苛まれる事になる。

「その分だけ偏屈になるって事かしらね」

 それは今まさに、真琴が先生に対してやっている事だ。他人に対して、とにかく素直でない自分。だから他人も、外ならぬ自分も、真琴という存在を嫌いになる。

「とことんやり合えばいいじゃないですか」

「え?」

「だってあなたの親族は、あなたも含めて皆さんそんな柔な方々じゃないでしょう?」

「──まぁね」

 結局は、そんな分かり切ったところで落ち着く話。答えなど無数にあって、正解などない話だ。それを誰の口から聞きたいか。どんな事を言われたいか。自分がそれを選び、誘導している時点で、

 要するに──

 真琴は、答えなど求めていなかった事に気づく。

「真理は得られないか」

「それは聞く相手を間違っておられます」

 そこでようやく、二人が小さく噴き出した。

「只、生意気にも、私なりに言える事が一つあって──」

 生まれた理由を考えたところでどうにもならないように、生まれ落ちたところの事で悩んだところで、やはりそれはどうにもならない。

「──命を受けたものは、死ぬまで生きる事を全うしなくてはならないと思うんです」

「あら、あなたにしては語るわね?」

 何故、と聞いてみると、古今東西、千差万別の事情で、

「先の世を生きる事が出来なかった人達のためです」

 と、予想に近い、重い言葉が返ってくる。

「──そうね」

 命の重さは平等の筈だが、そうではない矛盾が現実には溢れている。

「大抵の人は自分の事で精一杯で──」

 他人を振り返る余裕などない世界で、

「──あなたはそれに寄り添う資質と、それを仕事にしておられた筈でしょう?」

「それはあなたも同じじゃないの」

 二人はそんな使命を帯びていた時期があった。が、先生はその延長のような生き様を見せる一方で、真琴はと言えばすっかり人生に悲観的になり、駄々を捏ねてばかりの甘えん坊に成り下がっている。

「──分かったわよ」

 全ては、頼れば必ず何か答えを持っている、意外に懐の深い詐欺師のせいだ。

「甘えてみたかったって言ったら許してくれる?」

「あなたにそう言われて、許さない男がいるんですか?」

「いないわ」

 と嘯く真琴に、二人が揃ってまた噴いた。

「しかし、流石の精神安定剤ね」

「何ですそれ?」

 話していると生きる活力をくれるとか。本気でそんな事を思える男と、

 このまま別れるって──

 それこそ替え難い宝物をムザムザ捨てるようなものだ。このままあの

 伏魔殿(高坂宗家)に帰るなんて──

 そんな事、有り得ていいのか。

 そんな事──

 それこそ有り得ない。

 ここに至ってある決意を固めた真琴が、ついに先生と絡めていた手指を放した。その手がすっかり熱を帯びたせいだろう。交感神経が昂って、目が冴えてしまっている。が、

「お陰で眠たくなったから──」

 もう寝る、と宣言した真琴はあべこべだ。

「──布団借りるわよ」

 と、酔った素振りで立ち上がると、襖を突き破る勢いの千鳥足は、やはり大根役者だろう。が、

「うわ!?」

 ちょっと、と慌てる先生に、気づく余裕はないようだ。

「お貸ししたいのはヤマヤマですが──」

 男が使っているムサい布団がどうたらと、御託を並べながら追いすがって来る予想通りの男に、大きくフラつく真琴がしがみついた次の瞬間。まんまとその足を刈り取り、敷かれた布団の上へ男を押し倒す事に成功する。

「よっ──!?」

 酔っていたのでは、と詰問する先生が、

「け、袈裟固めが──」

 外せない、と喚く中、上から押さえ込んだ真琴のそれは、そこは見事な達人振りだ。

「あんなモンで酔う訳ないでしょ?」

 何度も言ったわよ、と嘯く真琴は、余裕で可愛らしい男の顔を上から眺めている。

「それこそ嫌なら訴えていいわよ?」

 ここまでやれば、もう後には引き下がれない。

「何で私なんかを──」

 身体のあちこちの敏感なところが触れ合う袈裟固めは、何よりお互いの顔が間近にある。すっかり上気した男のその顔に、妖しさを帯びた髪を垂らす真琴は、自分でも驚く程冷静だ。

「気のない女が三回も──」

 薄化粧で部屋着を晒す訳がない。自分で言ったその言葉に今更気づかされるとか、

 ホント私──

 どれ程ニブかったのか。せめてもう少し早く、

 ──その気になっていれば。

 何かを変えられたのかも知れない。が、今この期に及んでは、とにかく今出来る事をやる(・・)だけだ。

「よっ、四〇前のウブなおっさんですよ?」

 何を言われようと、もう迷わない。

「こっちこそ、四〇過ぎの枯れかかった女よ?」

 そんな女が、どれ程の覚悟でこんな事をしているのか。

「──あなたに理解出来て?」

 自虐に自虐で返した真琴が、その耳元で妖しく囁く。

「で、でも──」

 仮にも再婚前の身だと、普段拙い男の口が痛いところを攻めてくるが、その身体は素直なようだ。

「返せる筈なのに──?」

 何故返さないのか。先生がその気なら、真琴の固め技など瞬殺レベルの筈だ。

「何処を(さわ)ればいいか分からないんですよ!?」

「何処でもいいわよ?」

「でもそれじゃあ──」

 と言い淀む先生は、極近い未来を共有したい筈だが、流石にその理性はしぶとい。

「これぞ蟻地獄ホールドね」

 ジワジワ攻める言い得て妙の真琴が、悪びれもせず笑った。

「籠の鳥になる前に、余生の支えを貰って行く事の何が悪いの?」

「支えを求めるところを間違えてますよ!」

「私には、あなた以外に考えられないんだけど?」

 冗談抜きで、

 我ながら──

 凄い事を言っている。それを脳は冷静に受け止めているが、身体は欲求を抑える事に飽き始めている感覚。

「もう一度言っておくわ」

 嫌なら逃げて。それと共に固め技を解いた真琴が、添い寝をしながら早速ウブな男の首筋を(むさぼ)り始めた。脳と身体が一致しない大胆さは、まるで自分ではない別人格がそれをしているようだ。

 ──本能なのかしら?

 生理現象に近いレベルで求めている、とも言えるのか。先生は小さく痙攣し始めている。放っておくと、また気絶するかも知れない。

「──大丈夫。怖がらなくていいのよ」

 本能的な女のようで、包み込む母性のような。そんな素直な一言が自然と出た事に、言った本人が一番驚く真琴だ。

「一応言っとくけど──」

 こんな経験、

「──後にも先にもこれが初めてだから」

 そんな自分の言葉に酔い始める真琴に、今度は匂いの耽美が訪れる。周囲に感じる仄かな匂いは、鼻に充満するサングリアの匂いと程よく混ざる、愛しい男の体臭だ。

「いい匂い──」

 思わず声が漏れる程のそれに、状況と合わせて頭がクラクラする。

「うわぁ──」

 痙攣している先生は声まで震えていて、どうやら限界が近いようだ。

 ──何なの?

 この可愛い生き物は。

 ──ダメだ。

 もうとても我慢出来ない。

 上から抱きついた真琴が、男の頭を撫でながらその首筋に鼻を押し当てた。同時に大きく痙攣した先生だが、まだ生唾を飲み込んでいる。

「ほら、私の動悸も分かるでしょ?」

 衣服越しだが胸と胸が触れて、お互いの心臓が飛び出そうな程に脈打っているのが伝わって来る。

「ほっぺた」

「へ?」

 そんな掠れた間抜けな声が、愛おしいとか。もうからかうつもりにもなれない。

「痛かったでしょう?」

「い、いえ」

 ついこの前、盛大に引っ叩いた当たりを頬擦りする。

「私ね」

「え?」

「あなたの事聞いた時、泣いちゃったの」

「そ、そう、ですか」

 しかもそれは、武智に指摘されるまで頬を伝う涙に気づかなかった、という失態つきだ。

「あなたは本当に、生き抜いて来たのね」

 腐らず地道に歩み続けた名もなき男が、最後の最期で自分の大きな支えになってくれた事を奇跡と呼ばずして何なのか。絶対に出会う事など有り得ない、両極端の世界の二人。それが思いがけず出会う事は、まさに運命の悪戯というヤツだった。それによって生まれた化学反応は予想外の心地よさで、実は出会った当初から直感としてそれを感じていた真琴は、思い返せばその瞬間から今の状況を望んでいたのかも知れない。

「あなたの頑張りがなかったら、私達は出会えなかったの」

「そ、それはあなたもでしょう」

 のっぴきならない状況の先生の律儀さが、つい真琴の失笑を誘うが、今はそれすら愛おしい。そのままその口を吸おうとすると、

「い、いけません!」

 と、土壇場の筈の先生が、真琴の両頬を挟んで食い止めた。

「──どうして?」

「私の遺伝子は、ろくなモンじゃありません!」

「そんな事ないわよ」

 自分でも持て余す偏屈者を、これ程素直にさせたのだ。

「金輪際、あなたを蔑む人間は──」

 私が許さない。それが例え、

「──あなた自身でも」

 押してダメなら引いてみるのは武術の基本的な妙で、食い止められた顔を引いた真琴は、すぐに先生の両手を取った。

「あっ──」

 と言う、男のか細い断末魔を、容赦なく唇で塞ぐ。

「ちょ、ちょっと──」

 待って、と抵抗する先生は、この分だと今夜は気絶しないだろう。思えば過去の暴走は、今日この日のための免疫強化だったのかも知れない。

「これは断じてマシな物(・・・・)とは言えません!」

 と、それこそ断じる先生が、土壇場になると気合が入るのは、どうやら例外がないようだ。

「私にとってはこの上ないけど?」

「別の物だったんですって!」

 と、言い訳する先生は、まるで水泳の息継ぎのように、真琴の口撃(・・)の間隙を縫って叫んでいる。片や真琴の方は、

「それはいいわ」

 私はこれで(・・・)、とあっさり返す熟れ振りで、こうなってくると(・・・・・・・・)またしても、完全に真琴の土俵だ。

「大事にするから」

「そ、それって──!?」

 どういう事で、と喚く先生の口先に、冷静さを保つ真琴の脳が、いい加減煩わしさを感じ始める。せっかちな自分がその可愛らしい鼻先で散々待たされたのだ。もういいだろう。

 最後はやはりイラ症が炸裂した、やっつけ仕事の真琴が、

「もう、つべこべうるさい」

 などと、乱暴に釘を刺す。と、強引に男の口に吸いつき自分の舌を突っ込んで、容赦なく呂律(ろれつ)を奪った。

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