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小晦日(前)【先生のアノニマ(中)〜4】

 師走を迎えた。

 具衛の周辺を執拗につき纏っていた警察は、一二月に入ると消えた。仮名が施設に視察に来た事などから、周辺事情が理事長たる大家から抜けた事は想像に易しく、それをもって仮名がやめさせたのだろう。が、具衛にとってこの動きは、実は痛し痒しだった。この男からすれば尾行の警察官達など、

 ──貴重な情報源だったんだがなぁ。

 それはつき纏われている事を逆手に取った、ネタのスッパ抜きだ。

 在宅時に、必ず見える範囲に止まっていたセダンには、几帳面にも運転席と助手席に、不自然な二人の男が乗っていた。山奥に背広姿で、あからさまに見せつけてくれる私服の警官による張り込みだ。普通のそれは、対象者にバレないようにやるものだが、嫌がらせ目的とあってはその配慮も何もない。それ故に、彼らも気が緩んだのだろう。この場合、二人で張り込みをしている事が仇になった。気が緩んだ二人は、必然、口も緩む。具衛はそれを見逃さなかった。

 張り込みの警官達は、流石に車に盗聴器や発信器を仕掛けさせてくれるような隙こそなかったが、口はよく動かした。それを双眼鏡越しに読んだのだ。具衛は、唇が読めた。大抵はつまらない雑談や不満ばかりだったが、秘密を黙っておけない人の性だろう。一方で彼らは、有益な情報まで教えてくれた。

 高千穂が高坂宗家の権能を狙い、高坂真琴と復縁しようとしている事。

 真琴の母(高坂美也子)も、とりあえずそれを認めている事。

 高千穂は、それ(復縁)に際して養子に入る事を希望したという事。

 高千穂の、名を捨て実を取るやり方に、高坂美也子も多少の懸念を示している事。

 対して高千穂は、それを丸め込むため、何やら画策しているという事。

 またこれにより高千穂が、何処かで相当な横車を押そうとしている事、等々。

 ネタの出所は、恐らく高千穂周辺の護衛だろう。となれば、まずまずの角度の良さだ。

 ──これは中々。

 張り込み警官達の無警戒振りに喜んだ具衛だったが、しばらくすると尾行が終わってしまい、情報が取れなくなってしまった。

 まぁ──

 潮時だったという事だろう。

 ここでグズグズしないのが、またこの男の意外なところだ。具衛は次なる行動に移った。それこそ逆襲としたものか、高千穂事務所の張り込みだ。

 ここんトコしばらく──

 随分と可愛がってもらった相手だけに、その礼はするべきだろう。

 高千穂事務所は、具衛の町の最寄りJR駅前にあるバスの発着点傍に構えられていた。駅やバスの利用者が行き交う中で、否応なしに目立つその立地は、本人のあく(・・)の強さの表れだ。四階建ての小規模ビルの一階を占拠したその事務所には、選挙期間であろうとなかろうと、派手なフレーズの掲示物が見境なしに貼り出され、掲げられている無節操振り。中には公選(公職選挙)法に

 ──引っかかるんじゃねぇかなぁ?

 と、疑わしきポスターまで。選挙期間中でなくては認められないような内容の物まで平気で見せつけているその無法振りは、主人の在り方そのものだろう。その猥雑さのせいで、他のテナントはすっかり色褪せてしまっており、存在感が薄い。

 ──お気の毒様だなぁ。

 総じて、とにかく無節操。その一言に尽きた。

 具衛はそのザマを、その対面に位置する市立図書館から眺め、げんなりしている。図書館が入る建物は、公民館、商工会、役所の支所、慈善団体などが入居する区民文化センターの二階だ。やや上から見下ろせる位置に高千穂事務所がある事の好条件。しかも、本好きの具衛の事だ。それに熱中し過ぎる事が唯一の懸念と言える程の、やりやすい張り込みだった。とは言え、窓ガラスにはポスターがこれ見よがしに貼られており、中は殆ど見えない。そこで、耳に頼る事にした。窓際の席で本をめくりながらも耳にイヤホンをつけているそれは、音楽の再生などではなくズバリ盗聴の真っ最中だ。高千穂事務所に仕掛けた盗聴器の電波をスマホで受信し、それをワイヤレスイヤホンで盗み聞く。全ては武智(大家)の顧問弁護士、山下のお陰様だ。

 敵の事務所へ入り込む(つて)もなく、

 さて──

 どうするか。出入りを確かめ、目ぼしい人間を尾行し、その所持品に盗聴器を忍ばせる事を考えていた矢先。

「ちょっとお遣いをお願いしたいのですが──」

 と、山下に声をかけられた。それが高千穂事務所への遣いと来れば、助け舟以外の何物でもない。施設に届いた怪文書と警察による尾行の事情を、大家と山下にだけは簡単に説明していた具衛だ。

「──敵は知っておくべきでしょう?」

 高千穂の後援会員である大家は、その事務所に顔が利くどころか出入りは頻繁。その遣いとして山下が出入りする事もしばしばなら、具衛はその孫請けを頼まれた構図だ。

 ──お節介な人達だなぁ。

 と思いはしたが、折角なのでその機会を活かす事にした。当然それは、盗聴目的(目的が目的)だけにバレれば違法だ。即時、建造物侵入罪が成立する。が、相手こそ宣戦布告もクソもなければ、見境なしの波状攻撃だったのだ。今更お互い、

 ──違法もクソもねぇや。

 どの道既に、蛇の道は蛇。こうなれば躊躇した方が負ける。山下の助け舟に乗った具衛は、大至急量販店で安物のビジネスルック一揃えを掻き集めた。合わせて端正なカツラと、少しは賢そうに見えそうな伊達メガネ。更にはつけ髭による変装で外見を整えると、身分も山下法律事務所の事務員、という肩書きを山下から借りた。そうなれば当然名前も偽名で、別人になりすました具衛が高千穂事務所を訪ねたところで、怪しむ者は皆無。大体が、小物など気にしない放埒さだ。この辺りの機微は、

 主人に似るって──

 事なのだろう。

 一応、名刺も作る周到振りだったのだが、ステータスだけで人を判断する雰囲気に安心した具衛は、瞬く間に数個の盗聴器を仕掛けた。具衛の独壇場だ。余りにも無防備というか天狗になっているので、追加でたまたま広島に戻っていた高千穂の秘書の鞄の中にも、携帯型の物を放り込んでやった。これが後に、思わぬ益をもたらす。

 高千穂には公設秘書が三人おり、後で分かった事だが、全うな向きの仕事は政策秘書が、雑務は公設第二秘書がそれぞれ役目を負う中、公に出来ない裏仕事は公設第一秘書がこなしていた。具衛が盗聴器を放り込んだのは奇しくもその裏仕事専門の秘書の、これまた無節操なブランドバッグで、天の配剤というヤツだろう。

 こんな調子で、具衛はしばらく駅前の市立図書館に通い詰めている。交通手段を持たない貧乏男にバス代がのしかかるが、走って行くには遠過ぎるためそこは我慢の日々だ。が、問題の秘書が事務所にいない時には大した情報が取れない事の、そのジレンマが半端ない。どうやら高千穂の命を受け、忙しく立ち回っているようで、そのスケジュールが掴めれば、

 ──バス代も浮くんだが。

 流石にそこまでは難しかった。精々事務所の職員の愚痴で、事前に帰広が察知出来る程度だ。そんな事が何回か続くと、どうやらここ最近は週一では必ず帰広し、後は東京で動いているという事が分かってきた。

 東京までつけ(・・)回せれば──

 恐らく何かに辿り着ける。が、今の具衛は、仕事はあれど金はなしだ。二日に一直をこなしながらの東京往復など、流石に出来る訳もなかった。

 ──マズいな。

 タイムリミットは具衛の事情など当然構わない。それに間に合わなければ、

 あの仮名さんが──

 高千穂(スケコマシ)と復縁する。

 ──有り得ない。

 昔の仮名が、どういうつもりで高千穂と一緒になったのか、具衛などには知る由もない。恐らく多少は家柄向きの事もあったのだろう。が、具衛が見てきた仮名は、好き好んで貧乏人につき纏っているような女だ。昔は昔、今は今

 って事なんだろうが──

 それにしても随分な変わり様が気になる。

 ──マズい。

 気ばかり焦る、そんな日々。

 秘書の鞄に放り込んだ盗聴器は、単四アルカリ電池が装填されたボールペン型だ。二、三か月は使えるだろう。が、恐らくそんな悠長な話では、

 ──ないんだろうねぇ。

 万事、思い通りに事を進めようとする連中のやる事だ。力を持つ者達の性急さは、それなりにその目で実際に拝まされてきた具衛だったりする。

 ──うーむ。

 図書館でイヤホンをつけて本を読む日々が、日を追う毎に足早になって行く。耳を澄ます中で手に取る本が、自然に近現代の政治物に偏って行く。

 ──こんなモンを読んだところで。

 そんな自嘲と焦りが、過ぎ去る日々を加速させて行く。

 

 後日。

 三週間振りに仮名が山小屋にやって来た。相変わらずの夕方来訪で、辺りは既に真っ暗闇だ。

「ライトアップしたのね」

 車から降りた仮名が、開口一番で嬉しそうに言った。

「大家さんに借りまして」

 少し前に「暗くて物寂しい」と大家に相談したところ、それこそ開口一番で、

「山奥じゃけえ当たり前じゃ!」

 と罵倒されたが、それでも豪邸の倉庫から電飾用品を引っ張り出して来て貸してくれたので、つけてみたのだ。

 庭の両端にスポットライトを一つずつ置いて庭の木々を照らし、庭中央部の車両動線の両端に、クリスマスツリー装飾用のペッパー型LEDライトを這わした。バックで乗りつける仮名のためだ。居間から見ると、真っ暗闇の外に目を向ける口実にはなる。

「中々素敵じゃない」

 と、仮名の声が弾んだ。

「庭園調に見えない事もないわ」

「そんなモンですか」

 素人仕事なのだが、仮名に言われると、不思議とそんな気もしてくる。

「だから言ったじゃないの」

 と、軽く憎まれ口を叩かれるのも久し振りだ。その叩かれついででお茶を出すと、

「ありがとう」

 と、謝意をつけ加える事を忘れなかった。憎まれ口に礼を

 ──くっつけるとか。

 どうやら相変わらずらしい。

「やはり師走はお忙しようで──」

 庭を臨める座卓北側に仮名、その東側に具衛が座り、密かに冷や汗をかいて以来約三週間。ここまでご無沙汰だったのは、仮名のおたふく風邪騒動以来だ。

「まぁそうね──」

 師走だから、とおうむ返しする仮名の声に力がない。その横顔に一瞬チラついた影は、恐らく気のせいではないだろう。

 仕事だけじゃ──

 ない。これまでに具衛が知り得た事が正しければ、渦中の仮名が黙っている訳がないのだ。世が一目も二目も置く才媛は、とにかく鼻っ柱が強い。具衛の周辺事情を見ても、あれだけしつこかった尾行がいなくなったのだ。それは高千穂の悪巧みに対して、仮名が何らかのリアクションを仕掛けている、その一部とみて間違いない。

「アングレカム──」

「え?」

「ありがとう」

「──いえ」

 事後に抗議のようなメールこそあったが、それ以来の直接的な礼の、

 何という──

 バツの悪さだ。誕生日という個人情報を知っている事の意味など、今更説明するまでもないだろう。

「メールでも送ったけど──」

「え?」

「──爆弾か何かかと思ったわ」

「驚かせてすみません!」

 反射で腰を折った具衛が、その勢いで頭を座卓にぶつけた。

"ゴン"

 と、ニブい音が一回したのと同時に、それこそ反射で仮名が噴き出す。

「痛て!」

「何やってんのよもう」

 相変わらず笑わせてくれるわね、と笑うが、

 それだけ──

 神経質になっている。ややもすると爆弾が贈りつけられ兼ねない状況は、この女にしてみれば何も今に始まった事ではないのだろう。具衛は今更、自分の短絡を後悔した。

「意外に──」

「え?」

「綺麗な字を書くのね」

「そう、ですか?」

「うん」

 思わぬ事で感心されたが、漢字と片仮名は角を立てて、平仮名は丸く書いている。それだけだ。

「達筆とは言わないけど、読みやすいわ。几帳面さの表れかしらね」

「どうでしょう?」

 とは言ったものの、確かに意識していない事はないそれは、実は一種の職業病だったりする。

 ホントのところ──

 仮名はこんな自分の事を、どの程度把握しているのか。そもそもが、名もなき小市民の具衛だ。それに仮名のような御令嬢が興味を持つ事の意外さばかりが際立つ。多少は大家から聞いているのだろうが、

 どうして──

 いつまでもこんな自分に絡んでくるのか。何といってもまずはそれが謎だ。

 視察名目で施設に来た仮名は、明らかに弱って見えた。触れないでおこうと思ったが、涙する女を放っておけなくなってしまった。思いがけずか弱い手が、小刻みに震えている事に気づいてしまった事の罪深さと後味の悪さ。アングレカムはその謝罪のようなものだった。花言葉が予想外にも具衛の思いを内包している事に驚いたが、それはウソじゃない。只、仮名にも言われた通り、それは生意気だろう。仮名は具衛如きがいつまでも寄り添えるような女ではない。それなら今ぐらいは、仮名が何者だろうと支持してやりたい。そんなアングレカムだった。

「他に──」

「え?」

「拙いなりに、何か言えないものかしら?」

 と、言われても。今やっている事で何の成果も上げていない具衛だ。それ以外で言える事など何もない素寒貧(すかんぴん)に、言える事といえば、

「温室でないと花は咲かないそうです」

 とか、花屋で聞いた育て方ぐらい。

「知ってる」

 そうだろう。仮名がそんな事を聞いているのではない事ぐらい、流石に何となく分かる具衛だ。

「手に入りにくい事も」

「そう、なんですか」

 確かに何十件と花屋を当たった末に見つけた花ではある。それを見つける事が出来た事に、

「──運命かしらね?」

 と、あざとく言われてしまうと、何にも言えなくなってしまう自分がまた情けない。

 何で──

 俺なのか。高千穂でない事は分かる。が、だからといって、それがいきなり具衛になる事が具衛自身理解出来ない。

「ライトアップの効果ね」

「え?」

「間が持つでしょ?」

「はあ」

「まあ──」

 説明する手間が省けたのは、

「──助かったかもね」

 と少しずつ、自ら核心に触れ始める仮名が、

「何処で?」

 と聞いて来る。

「いや、その──」

 まさかヤクザの組長から聞いたなどと、言える訳もない。以前、素性を隠す代わりに「取り繕わない」とは言ったものの、物事には限度があるだろう。

「マンションの表札、で」

 と、とりあえず言い逃れた。が、

「そんなのつけてる訳ないでしょ今時」

 と、あっさり覆される。

「そ、そうでしたっけ!?」

 仮名のタワマンは防犯モデルマンションだ。今時表札など、有り得ないだろう。

「大体が日本の表札なんてのは──」

 実はそれ程古くない歴史だったりする。普及したのは、全ての国民に苗字が与えられた明治以降だ。が、近年ではそれが個人情報漏洩の原因となって、犯罪に繋がったり。家の顔のような役割は、時の移り変わりと共に今後変化していく事だろう。贈られて来る荷物に爆弾を警戒するような御家柄とくれば、それはもっともな主張だ。

 耄碌(もうろく)って──

 こう言う事か、と具衛が打ちひしがれていると、

「──煮え切らないわね全く」

 と、盛大な嘆息と共に仮名が脱力する。

「まぁ良くも悪くも、それがあなたらしいけど──」

 それにしても、

「──花に含み(・・)とか、思いがけずキザよね」

 と、嘯いた仮名から、ようやく白い歯が見えた。


 更に後日の、一二月中旬。平日の昼下がり。

「──かと思えば、こんな思い切った事もやってくれるのよねぇ」

 会社の自室の応接ソファーで、真琴の目の前に座る客人は、先生その人だった。

「え?」

「まぁいいから続けなさいよ」

 その先生が、応接テーブルに並べた小型機材を何やら分析している。連絡は唐突だった。

 年末が押し迫ると流石に会議めいたものが立て込み、会議倒れしそうな慌しさの最中、会社の自室に戻った真琴に先生からメールが入った。

 ──珍しいわね。

 先生の方からメールを送ってくるなど、今まで何回あったか。こちらは仕事の真っ最中だと分かっていながらのそれだ。つまらない内容ではないだろう、と、応接ソファーに雪崩れ込みながら確かめてみると、数字の羅列が並んでいた。

「うわ!? そうだった」

 つき纏われなくなった代わりに、非合法で情報を抜かれている可能性があるとして、メールは暗号文に切り替えたのだ。乱数表をモデルに先生が作った暗号表でメールをやり取りする。

「えーと、紙々──」

 スマホの情報も抜かれている可能性を考え、暗号表は紙で、しかも手書きだ。それを紙のまま保管する。写真を撮ってデータ保管して、それを抜き取られては意味がないためだ。

 真琴がハンドバッグの中から取り出した暗号表には、一〇の列行合計百マスに、文字、数字、記号がランダムに記載されていた。長文の照合ならそれなりの骨折り作業だが、二人のやり取りするメールの文面は高が知れている。それなら普段通りでもいいが、短文という事は意味も内容も明白。行動が読まれやすい。それは絶対に面白くない、として、二人は面倒を選択した。因みに暗号表は、真琴が山小屋を訪ねる際に新しい物に更新する、という念の入れようだ。こんな面倒をやっているのは先生とだけで、他のやり取りは放置している。そもそも真琴のスマホなど、仕事向きの事ばかりだ。要するに、先生とのプライベートさえ守れればそれでいい。

 メールを解読したところ、

"山下法律事務所の「タケチジロウ」と名乗る事務員が訪ねて来るので、追い返さないでください"

 とある。

 山下と言えば、真琴の中では先日来何かと世話になっているあの武智の顧問弁護士だ。そこの事務員が「タケチ」とは、彼の地主の関係者なのか。それならそれで、

 ──何の用?

 色々と理解が及ばない。が、あの煮え切らない先生の急報だ。余程の事なのだろう。

 すぐに真琴が承諾の返信を送ったその約一時間後。秘書課の女史に案内されて専務室に入って来たのは、端正な身形のスマートな男だった。

 ──うーん。

 会えば何事か分かるだろう、と思っていた真琴だったが、会ったら会ったで一見して胡散臭い。早速真琴が怪訝な声を上げそうになるのを、

「どうもご無沙汰致しております」

 と、男に機先を制された。それも軽くウインクをかましてくれるという、さり気ない気持ち悪さだ。

 ──うえ。

 初見のビジネスの場でウインクなど。欧米なら露知らず、日本では見た事もない。年齢的には、武智の息子と言ってよさそうなアラサーだ。が、そのスッキリとした外見は、武智にはない薄っぺらさのようなものを思わせる。

 まぁ──

 武智の縁者なのかも知れないし、何より先生が仲介した相手だ。しばらく様子を見る事にする。とりあえずソファーに案内すると、腰を下ろす前から

「今日参りましたのは、兼ねてからの件でございまして──」

 などと、勝手に一人芝居だ。いつまで続くのか耳を傾けていると、案内を終えた秘書課の女史が退室する間際になって、その軟弱そうな目が一瞬鋭く動いた。

 ──ん?

 まるで場繋ぎと言わんばかりの仕種に、真琴の警戒心がまた上がる。が、扉が閉まってもペラペラと口を動かす軽さのまま。何かを見定めていると気づいたのは、その所携の鞄から徐に取り出された大封筒の中身だ。

「──なっ!?」

 袋から出てきた、何て事はないレジュメの内容を確かめるまでもなく、いきなりその表紙に、

"飲み物が出て来るまで、とりあえず調子を合わせてください"

 と、走り書きがされている。

「えっ!?」

 するとタケチは、また気持ち悪いウインクで、

「いや、どうでしょうか? 本来は山下が参りましてご説明差し上げるべきなのですが──」

 手前共の勝手な都合で云々かんぬんと、真琴の疑念を丸ごと打ち消さんばかりのおべんちゃら口撃だ。そこへ、盆にコーヒーを載せた女史が再入室して来たので、

「そ、そうねぇ──」

 などと、中身に目を通す真琴はすっかり踊らされている。

 な、何なのよいきなりこれ──

 その中身がまた、三、四枚程度の薄っぺらいペーパーで、普段の真琴が扱う書類とは比べるまでもない、薄さと文字量の少なさだ。それもその筈でよく見ると、市立図書館のイベントのお知らせを印字したもののようで、児童向けなのだろう。文面が極端に平易で漢字も少ない。

 こ、こんなモンで──

 取り繕えとか。どうせなら、もっとマシなダミーを用意して欲しかったものだ。そんな真琴を前に、

「如何でしょうか?」

 と、ぬかすこの男は、大胆なのかバカなのか。いくら武智の縁者の可能性があるとしても、いつもの悪い癖で痺れが切れそうだ。自分でも、頬の筋肉が軽く痙攣しているのが分かる。

 それもそうなんだけど──

 タケチが左手首にしている腕時計に、今更驚かされる真琴だ。

 あれも──

 世の愛好家が羨む、世界的スパイの名が冠せられたプレミアム時計なのではないか。数量限定の不定期・完全予約・完全受注生産品のそれは、額もそうなら身につける者を選ぶとまで言われ、彼のスパイも欲しがるという垂涎物の名品は、真琴も諦める程のレアアイテムだ。が、

 先生以外にも──

 この界隈で持っているとは、

 ──どんな田舎なのよここって?

 しかもそれを、一介の法律事務所の事務員がつけている事の怪。より分かりやすく言うなれば、資がない平凡な人間が、希少性を誇る世界的なスーパーカーを乗り回しているような感覚だ。

 ──何なのよコイツは?

 一気に高まる不審感。そんな胡散臭いタケチは、黒縁フレームの眼鏡と七三分けの黒髪で、口髭を生やしている。

 な、なんつったって──

 その髭が嫌悪感をあおるというか、とにかく胡散臭いのだ。思えば思う程胡散臭くなると、もう限界が近い。ちょうど女史が出て行くタイミングだ。そろそろいいだろう。が、またしてもそれを察したようなタケチに、

「では、こちらは如何でしょうか?」

 などと、先手を打たれた。

「ちょっ──!?」

 と、気色ばむ真琴を前に、新たに出されたレジュメには、

"この部屋は盗聴されています"

 と、衝撃的な一言。

 なっ──!?

 それを辛うじて飲み込む真琴を前に、紙芝居のおじさんのようなタケチがページをめくる。

"これから処理するので、調子を合わせ続けてください"

 と、指示が出ると、今度は鞄からスマホより一回り大きい、タブレットのような物が出てきた。まるでネコ型ロボットの何とかポケットのようだ。

 それにしても、

 盗聴って──

 どういう事か。どうしてこの男がそれを知っているのか。首を捻る真琴が、渋々ながらも言われた通り調子を合わせる中で、

 ──あっ!?

 と、ようやく一つの記憶を思い出す。レジュメの筆跡は、外ならぬつい先日、誕生花と一緒に届けられたメッセージカードにあったものだ。

 ──ったく。

 まるで皮肉のような見事な変装は、真琴と何が違うのか。よく見れば、面立ちも体格もよく似ている。

 ──そうか。

 違うのは立居振舞だ。常にない軽々しい雰囲気は、つまりその人間になり切っている。

 ──別人ね。

 そんな据わり具合も、悔しいが流石の先生だ。

「それにしても、いい景色ですねえ──」

 と、のんきな先生は、キョロキョロと部屋の隅々に目を配り始めた。少しして、背広の内ポケットからドライバーを取り出すと、物の数分の間に盗撮用の小型カメラ二つと盗聴器が三つ。実に手早い撤去作業だった。

「もういいのよね?」

「はい」

 背広のポケットからビニール袋を取り出すと、その中に口から吐き出したのは脱脂綿だ。

「声が籠っていると思ったわ」

「帰りは新しいのをつけます。これ結構──」

 喉が乾くので、と、まずはコーヒーをあおる余裕を見せてくれる。

「何なの、その機械?」

「ああ──」

 そのいつもののんきな声が、

「スペクトラムアナライザ?」

 の説明をしてくれた。スペアナとも略されるそれは、通信機器や放送機器などの電波調査に使われ、盗聴盗撮機材の発する電波特定にも活躍する。が、使い慣れていないと素人にその解析は難しい、らしい。

「それにしてもまぁ随分と簡単に──」

 乗り込んで来たものだ。

「世の中、壁耳ですよ」

 で、今に至る。

 獲得した獲物を調べ終えた先生は、あっさりそれをまた元あった所に戻した。

「画像も音も、同じ場面を繰り返すように細工しました」

「そんな事が出来るの?」

「これを机の奥にしまっておいてください」

 と手渡されたそれは、(デコイ)の再生機器だとか。その発するデータを獲物に拾わせる事で、盗聴盗撮から逃れる。

「しばらくは騙せるでしょ」

「何処でこんな事を教えてもらえるのかしら?」

「まぁちょっと──」

 その感心もそうだが、今は何より自己防衛を確かなものにしておくべきだろう。

これ(スペアナ)、使い方教えてくれない?」

 再々先生の世話になる訳にもいかない。どうやら社内の敵は中々積極的だ。それを思うと、つくづく自分の甘さを呪う。これでは武智が心配した通りで、母になじられた通りだ。

「いいですよ。またのお越しの折にでも」

「悔しいけど──」

 見事な変装だった。

「──全く気づかなかったわ」

「普段が普段ですからね」

 欺きやすいんですよ、と笑う先生には、もう騙されない真琴だ。出会った頃、スーツを着ればビジネスマンに見えなくもないと思ったあの感覚は、ウソではなかったという事だ。

 只の山男が──

 盗聴を見破れる筈がない。

 ホント──

 何者、なのか。真琴は敬意を示して感嘆した。

「やっぱり詐欺師ね」

 その左手に控え目に見え隠れする腕時計は、それ程主張する物ではない。が、見る者が見れば、その希少性に慄く逸品でもある。

 それを──

 こうもあっさり使い回す男。それをするのが世の富豪なら、真琴もわざわざ気に止めない。が、その代わりそのような者達は、真琴の心には残らない。真琴が心を許す者で、それが出来る図太さを持つ者など、

 他に──

 いない。

「出来れば次は、イラつかない振舞でお越し願いたいわね」

「印象が違うタイプの方がやりやすいので──」

 すいません、と萎む先生に、瞬間で堪え切れなくなった真琴が、つい噴き出した。

「大した役者ね全く」

 その素の奥底に

 どんな先生が──

 いるのか。興味は尽きない。

 で、終わりそうなこの場面での話がこれで終わらないのが、この男の更に凄いところだろう。会社の応接ソファーで予想外の初対面にも慣れてくると、

「そもそもスーツなんて持ってたの?」

「大至急用意したんですよ。安物揃いで」

「わざわざここへ乗り込むために?」

「予算オーバーでコートが買えなかったのが予想外に辛くて──」

 等々。雑談と共に、

「それはともかく、もうちょっとマシな資料(ダミー)を用意しなさいよ」

 ひっくり返りそうになったじゃないの、などと、次々に抗議が湧いてくる。

「普段やりもしないウインクなんか連発して」

 全く、と追加でもう一押し。敵を欺くにはまず味方から、とはよく言ったものだ。密かに感心する一方で、今更ながらに先生の施設へ押しかけ視察した時の、自分の有り得ない変装が恥ずかしくなる。だから、

「少しはシビアなビジネスの場ってのを考えなさいよ」

 と言う憎まれ口は、照れ隠しだ。

「急いでましたからね」

 有り合わせで間に合わすしかなくて、と言う先生が、徐にスマホをスピーカーモードにしながらテーブルの上に置いた。

「これを聞いてもらうためです」

 何やら男の声が聞こえて来るそれを、

「リアルタイムですよ」

 と、先生が小声でつけ足す。若干籠ったような声に、真琴は聞き覚えがあった。秘書課を挟んで接している、もう一つの大部屋の主。外ならぬ社長だ。

「どういう──」

 事だ、と言いそうになる真琴の口を、先生が人差し指を立てて制した。

「──ぅぐ」

 と、とりあえず飲み込み、黙る。何せわざわざこんな所までやって来た男の言う事だ。まずは聞いてやるのが筋だろう。

 社長(声の主)は上級職採用だ。グループ内の役職を歴任し、既に還暦を過ぎている。旧来型の古臭い思想の持ち主で、保身に勤しむ典型的なサラリーマン社長の代表格。ろくに仕事をせず、責任や失敗は全て他人のせい。旨い汁はとことん吸い尽くす節操のなさ。面倒事は丸投げ。波風を嫌い、のらりくらり躱す狸。挙げれば切りがないが、とにかく仕事をせず、人事や利権ばかりを気にしているろくでなしだ。

 スマホから聞こえて来る声はもう一つある。会話をしている事がすぐに分かるこの音声は、これぞまさしく盗聴だろう。が、もう一人の声は、聞き及びかない。それを察した先生が、すぐに教えてくれた。

「もう一人は、高千穂の公設第一秘書です」

「えっ──!?」

 思わぬ名前に声を上げる真琴を、また先生が人差し指で制する。

「まさか──」

 先月来、夜な夜な海外経由の情報工作で、眠れぬ夜を送って来た真琴だ。母に突きつけられた期限も既に残り二週間となり、最近では諦めモードで早く休む事が多くなっている

 ──ってのに。

 この男の行動力はどうした事か。

 瞠目し、口を開ける真琴を、

「まぁとりあえず──」

 と、先生が耳を傾ける素振りだ。聞こえて来る内容は代名詞や隠語が多く、今一つ何の事やらだが、話し振りは明らかに時代劇の悪代官と越後屋。どうやら金や利権を匂わせるその内容に、つい前のめりになる真琴が拳を固くする。が、しばらくするとついに核心に迫る事なく、話が終わってしまった。ご丁寧にもそのままドアが閉まる音まで聞こえて、後は物が揺れ動く雑音と足音だけになる。

「秘書の持ち物に──?」

「まぁちょっと」

 そんな事

 出来る訳が──

 と言いかけた真琴の口が、今度は自発的に止まった。武智に聞いた話では、高千穂絡みで既にそれなりの修羅場を潜り抜けてきている先生だ。今はそれを確かめるより、まずは目の前の怒りに対処する。

「これ多分──」

 分かりやすい贈収賄だ。

「ええ」

 と、答えた先生が、またスマホを手にすると、今度は株式市場のチャートを出した。

「高坂重工の株価──」

「え?」

「日々の上がり幅はそれ程じゃありませんが──」

 何と今日で一〇連騰らしい。

「ウソ──」

 それは普通、余程の好感ネタでもない限り有り得ない。が、何も真琴でなくとも、投資家達が頭を捻っているだろう。今の高坂重工に、めぼしいネタはないのだ。

 驚く真琴を前に、今度は先生がワイヤレスイヤホンを差し出す。

「社内では流石に尻尾は出さないようですが、社外では中々赤裸々です」

 盗聴する中で、サカマテ専務室の盗聴を疑わせる会話があり、堪忍袋の緒が切れたらしい。が、いきなり会社に乗り込む事は、これまでのお互いの関係性を、いきなりちゃぶ台返しするようなものだ。

「これでも少し、悩んだのですが──」

 少しでも早い方がいいと思い、尻尾を掴んだ勢いで乗り込んで来た、と言う先生が、

「──すいません」

 と、神妙に頭を下げた。その潔さに、脈が跳ねる。

「あなたは悪くないわ」

 むしろ礼を言うべきだ。真琴がイヤホンを受け取ると、それを耳にする前に、先生が思わぬ事で口を挟んだ。

専務(・・)の私物があるなら、それにしますか?」

「──え?」

 この場でその呼び方は、確かに正しい。わざわざ変装までしてこの不正を伝えに来た先生だ。真琴を専務と呼ぶのは当然

 ──だけど。

 先生にそう呼ばれる事は、

 やっぱり──

 寂しい。

 真琴がそんな事を頭で巡らせている前で先生が、

「録音データは音が小さくて。でも、ボリュームを上げるとノイズがひどいので──」

 イヤホンでないと聞き取りにくい、と説明したところで、基本的な疑問に気づいた。

「どうか、しましたか?」

「いや、そうじゃないの」

 今はそんな事で拗らせている場合ではない。何より普段は冴えない目の前の男が、ここ一か月の真琴の奔走を遥かに上回る成果を、わざわざ持って来てくれたのだ。

 何のつもりで──?

 それも、

 いつから──?

 こんな事をしていたのか。そんな事を全く匂わせなかったこの男は、

 何者──?

 なのか。そんな堂々巡りを断ち切るように、真琴はスマホの再生ボタンを押した。イヤホンを介して脳内に入って来る声は、先程の秘書と思われる声の一人語りだ。

「電話音声の相手方は、恐らくサカマテの社長さんです」

 抑えた声で先生が注釈を入れた後、聞こえて来た内容は、

「次世代戦闘機開発──?」

 それは政府が、防衛用品御用達の国内重工大手に依頼している【国産次世代戦闘機開発計画】の主体を、開発の遅れとそれに伴う業績不振を理由に【高坂重工】に変更する、という内容だった。高坂重工とは、外ならぬ真琴の実家グループの中核企業の一つだ。

「一度決まったものを──」

 もっともらしいこじつけで横車を押そうとするその裏で、産業スパイの横行と悪辣なヘッドハンティング等により、新しく受注母体になろうとする高坂側の確かな根拠作りと、それをまかり通そうとする政財官を巻き込むあからさまな金の流れ。

 聞くに堪えなくなった真琴が途中で再生を止めて、イヤホンをテーブルに置いた。全てを聞くまでもない。株価の連騰は、その戦闘機開発移譲を折り込んだ、

「──自社株買いのインサイダーね」

 その情報に接したグループ内の亡者共が、形振り構わずその株を買い漁っているという不始末。

「どうしてこうも──」

 分かりやすいのか。思わず天井を仰いだ真琴が、溜息と共に顔に手を当てうなだれた。灯台下暗しとはまさにこの事だ。

「──重工は、うち(サカマテ)の製品とタイアップして、原発デブリ回収の新技術を発表したばかりでね」

 まんまと別情報を掴まされ、気にも留めなかった真琴に、それ以上の思考が及ぶ訳もない。

「確かに言われてみれば──」

 地味な動きに騙された。株価は上がるとは思っていたが、気づいてみると上がり始めて既に三割増しになっている。原発デブリ回収の新技術は、確かに光明だ。が、それで劇的に廃炉が進むような物ではない。ここまで株価が上がるのは、冷静に考えれば不自然だ。

 どうしてこんな事が──

 分からなかったのか。自嘲する真琴が、

「──うちの社長は、あからさまに創業宗家を嫌っててね」

 と、俯き加減に、ボソボソ口を動かし始めた。

「グループ内での影響力低下を恐れてて。私の存在が邪魔なのよ」

 その証拠が、仕掛けられていた盗聴盗撮機材という訳だ。頻繁に専務室に出入りしている秘書課や総務課あたりの社員は、

「──敵と見た方がいいようね」

 人遣いの荒い社長に、姑息な機械を仕掛ける能などないだろう。

 グループ内の反宗家派が高千穂のネタに食いつき、まんまと抱き込まれている。このまま放置すれば、いずれ何処かで反旗を翻すのではないか。そんな可能性が俄かに現実味を帯びている構図。株式会社内での力とは、つまり株の保有数だ。その株が反宗家派に結集すれば、実家は支配権を奪われ弱体化の道を辿る。

 一方高千穂は、高坂グループの一角を崩そうとするその裏で、

「次世代機の話を土産に──」

 宗家の中にも切れ込もうとしている悪辣さだ。

「母が喜びそうなネタよね」

 保守派の防衛族なら、稀に見るネタだろう。典型的な利害一致の構図で、

「手も足も出ないわ」

 とはこの事だった。高千穂が目論む事など、分かってしまえばこの程度の事だ。が、それが分からなかった真琴は、やはり母の掌の上で踊らされていたという事だろう。それでも彼のフィクサーたるものが、高千穂に抱き込まれているグループ内の反宗家派の動きはどうするつもりなのか。既に反派はそれなりの株を握っている筈だ。

 真琴が全く絡まないのであれば、高みの見物と洒落込むところだろう。が、いくら実家が嫌いだとしても、放置出来る訳がない。現実として会社は多くの社員を抱え、その生活を支える源となっている。黒い金が会社と社員に良い影響を与える訳もなければ、真琴の私怨を挟める状況ではないのだ。そしてそんな自分はと言えば、宗家とグループ企業に巧みに入り込む高千穂によって、宗家介入の突破口にされようとしている、という体たらく。

「しかし、よくスッパ抜いたものね」

 先生は先生で、戦っていたという事だ。明らかに素人レベルを逸脱する行動力は、只々真琴を驚かす。

「褒められた手口じゃありませんが──」

 と言う先生は、悪びれる様子もなく、あっさりしたものだ。

 この辺が──

 この男は不思議と、本当に据わっている。

「──目には目を、ってヤツで」

 高千穂の選挙事務所をつけ回していたところ、調子に乗っている秘書が饒舌で、思わぬネタに接してしまった。それに怯むどころか、それを躊躇なく真琴に伝える事が出来るこの男の図太さだ。が、それでも

 名前で呼んで──

 くれないそれは、身分を隠したがっていた真琴の心情を慮っての事だろう。

「良く調べてくれた事は嬉しいけど──」

 これ以上、巻き込む訳にはいかない。過去の例を見てもこの調子なら、勢いに任せて行けるトコまで突っ走ってしまいそうな先生だ。が、今回は明らかに内容が悪過ぎる。国の大事に絡むネタの事なら、深入りさせてはならない。下手をすると、闇に葬り去られる恐れすらある。が、

「まだやれますよ」

 と、先生は軽い。

「もう変装はいいんだって」

「もうしてませんよ」

「あなたは母を詳しく知らないから──」

 そんな事が言えるのだ。

 目的のためなら、手段を問わない。その容赦のなさでは高千穂はおろか、その実父(元首相)すら恐れるフィクサーだ。

「ヤバくなってからでも遅くはないでしょう?」

「もう十分ヤバいわよ」

「天涯孤独なので何処でも飛べますし」

「天涯孤独だから葬り去りやすいんじゃないの」

「どの道もう遅いですよ。あなたと私の事は、お母上様もご存じでしょう?」

「だからよ!」

 イライラが募った真琴が、つい叫んでしまった。

「──この辺がデッドラインなの!」

 もうこれ以上は、泳がせてくれないだろう。お願いだから

「──無茶しないで!」

 急に盛り上がった感情が、不意に涙腺を緩めてくれる。真琴は堪らず俯いた。

「天涯孤独なんて──」

 どうして言うのか。その言葉が続かない。自分が数に入っていない事が悔しいなどと。そんな惚気た事を思う自分の有り得なさに自分でも驚く。が、落ち着き払った先生は、また静かに人差し指を立てた。

「声を出すと、聞き耳を立てられます。専務──」

「──うん」

 気がつくと、随分と子供扱いされているような気がするのは気のせいなのか。

 年下のくせに──

 いざとなると、本当に生意気だ。

「じゃあ、こうしましょう」

 と、声色が明るくなる先生が、

「もうちょっとだけ、泳がせてくれませんか?」

 などと、何の理があるのか。

「まだそんな──」

 妙な食い下がり方をするとか。また声が大きくなりそうになるのを、辛うじて飲み込んだ真琴が、

「──だから、目の前で可愛らしい小魚に泳がれたら困るって言ってるのよ」

 と、盛大に嘆息してみせた。

「そんなモンですか」

「口先だけじゃない事は分かったから、いい加減聞き分けなさいよ」

「そうですか」

 と、漏らす先生の声に、不満のようなものが滲んでいる。

「前にも言ったと思うけど──」

 私は面倒臭い女なのだ。

「これ以上は──」

 ろくな事にならない。そう自分に言い聞かせては、色々な事物を諦めてきた身だ。慣れている。

 そんな時の、先生の一言は、意表もいいトコだった。

「その諦め癖、悪い癖になってませんか?」

「な──!?」

 一気に沸騰する真琴に、

「新生高坂グループには、不戦不羈の原則がありましたよね?」

 と言う先生の今度のそれは、強烈な冷や水だ。

「えっ──!?」

 策ばかり囚われ、頭に血を上らせていた真琴は、呆気にとられて目を瞬いている。

 不戦不羈(ふせんふき)、と読む。

 それは、戦前に軍需財閥として栄華を極めた高坂財閥に対する、子々孫々の痛烈なダメ出しだ。敗戦の片棒を担いだも同然の高坂家は、戦後の財閥解体により没落。それを一から立て直した真琴の祖父が、再起の折に掲げた経営理念がそれだった。読んで字の如く、戦わない、束縛されない。つまり、戦争に加担しない、国の言いなりにならない、という意味だ。国家から国民に寄り添う経営へ。帝国主義から自由民主主義へ時代が移り変わる、その潮目を見誤らなかった真琴の祖父の先見の明により、奇跡的な復活を遂げた新生高坂グループが、その原則を貫いて数十年。

「ご実家との確執を抱え、殆ど家の事などどうでもよくなっているあなた自身が──」

 皮肉にも利用された上、

「その汚名を被らされる事になる──」

 事が悔しい。

 ──とか。

 普段の拙い口が、真琴を諭す。

 明らかに軍事利用される戦闘機開発の受注など、不戦不羈をひっくり返す所業だ。しかもその理念の破棄に飽き足らず、違法塗れの横車で形振り構わず他人の利益を奪わんとする蛮行は、重ね重ねも新生高坂に有るまじき、拭い難い不名誉。止めは、その創業宗家の名誉はおろか、家の事などどうでもよくなっている、最もかけ離れた立ち位置にいる筈の真琴が、黒い野望のネタの一つにされている事の、これを屈辱と言わずして何なのか。

「よく、勉強して来ているのね」

 冷や水をかけられた真琴の嫌味ったらしい冷やかしにも、

「私は我慢ならないんですよ」

 と、熱っぽい先生だ。

「いい加減いいように使われて、それに甘んじているあなたが──」

 と、何やら

 ──怒ってる?

 先生が、

「──ここらで一発噛みつかないと、一生言いなりになりますよ」

 などと、いつになく乱暴な言葉を吐く。

 ──噛みつけ、とか。

 いざとなると牙を剥く。例に違わずこの男も、世間一般の男と同じく、獣性のようなものを持っているという事のようだ。

 そういえば──

 虎がどうとか言っていた頃が懐かしい。それを思うと、随分二人で遠くまで来たような気がする。

 けど──

 それも、これまでだ。

「分かったような事を言ってくれるじゃないの」

「あなたなら、命まで取られる事はないでしょう?」

 なのに何故戦わない、と、先生らしからず、中々容赦ない。

「テロリズム的手法って言ったら、ご理解頂けるかしら?」

 それを耳にした先生が一瞬痙攣し、ボンヤリしているその目を瞠目させた。不特定の他者を人質に国家を脅すそれは、罪のない人々が標的となる事に問題の真髄がある。

「でも何処かで割り切らないと──」

 いつまでもつけ入れられる、と言う先生は、恐らく形勢が逆転している事を悟っている。つけ込まれる事を理解している国家は、当然人質救出の優先順位を下げる。それは、今後人質を取ったとしても取引出来ないと知らしめるためだ。そうして引き起こされるテロ組織掃討戦が、また新たなテロを生む。文字通りの負の連鎖は、その解決策がまるで見出せない、世界的懸案の一つだ。が、それはあくまでも、テロ組織と国家の関係性の話。

「じゃああなたは、愛する人を人質に取られて、形振り構わず本丸に攻め込めるの?」

 と、真琴に責められた先生が、分かりやすく押し黙った。もう真琴の言った事を理解しているのだろう。

「実家の近くに、兄が住んでてね──」

 一六になる一人息子を預かってもらっている。その殺し文句に、踏ん張っていた先生の顔が歪んだ。

「生意気な事を言ってしまい──」

 その後の言葉が出てこない。

「ご承知の通り、高千穂との間の子だけど──」

 それでも真琴とっては、血を分けた一人息子だ。

 それでテロだとか──

 無理がある例えは真琴も分かって言っている。単なる人質的手法と言ってしまっては、先生の事だ。本気で人質を助けようとするだろう。だからあえて、不特定多数を匂わせ、諦めさせる。

「余り妙な抵抗をしてると、息子どころか──」

 今後、何処を狙ってくるか分からない。

「すいません!」

 その直後、先生の頭がニブい音と共に、またテーブルに当たった。が、もう笑えない。

「皆まで言いたくなかったけど、相変わらず誰かさんがニブいから」

 と、言う真琴は、震える声を懸命に押し殺している。

「あなたには感謝してるわ。でももう終わり。分かってくれたんなら、もう帰ってくれないかしら──」

 仕事中だし、と冷たく言い捨てると、

「力不足ですいません」

 と、言い残した先生は、あっさり専務室を出て行った。

 ──仕方がない。

 こんな姑息な憎まれ口を叩かないと、あの男は引き下がらないのだ。そういう虎だという事は、もう痛い程分かっている。

 先生の気配を残した部屋の扉が閉まると、もう堪え切れなかった。

「ゴメン──」

 一気に鼻が緩む。

 血を分けた息子は確かに大切だ。が、何より辛くて悲しいのは、先生の身を案じての事だという事を、先生本人に言えなかった事だ。

 慌てて自分の席に戻った真琴が、また先生のハンドタオルを取り出すと、それを顔から被った。

 何より──

 別れが辛い。


 一二月下旬。

 世間はすっかり、イベントモードになっていた。山奥の施設でも、母子施設の子供達やその周りを取り巻く職員を中心に、何処となくソワソワしたものが漂っている、その只中。

「年の瀬だなぁ──」

 と、台風の中心で取り残されたような平静を保つ宿直室内で、一人非番の朝を迎えた具衛は、テレビを前にボンヤリニュースを眺めていた。

 夕方から夜にかけては、子供達の襲撃で喧騒に塗れる宿直室だが、子供達が部屋に戻ると基本的に一人だ。勤務中に同僚もいない、有事のための前進待機要員の仕事と言えば、専ら掃除、見回り、戸締まり、電話番。他はこれと言った仕事も何もない。玄関傍の目立つ位置にいながら、一種の忘れ去られた空間にして存在。それが宿直室にして宿直さんだった。

 二日に一回その役を担う具衛は、朝っぱらからすっかり黄昏モードだ。それは何も、今日に限った事ではない。ここ最近はずっと、

「ふぁわわわ」

 などと、完全に気が抜けている。只でさえ、普段はピンボケしたような男だ。いつも以上に締まらない。しっかり仮眠は取れているのに、生欠伸が出続ける始末。

 仮名の仕事場へ押しかけて以来、曖昧な関係はついに終わりを迎えた。待っていたのは、予想通りの破局だ。メールも来訪も途絶え、一人残された具衛は文字通り、職場でもプライベートでも世間から忘れ去られた存在となった。農閑期のド真ん中で、ここ最近は農作業もない。ひたすら職場と図書館を歩いて回る日々。極狭いコミュニティーでの、ストレスのない生活。それはこの春が来るまで、具衛が望んでいた生活に限りなく近いものだった。が、いざ体感してみると、強烈な侘しさが押し寄せる毎日。

 春先から梅雨までの二か月と少しの間は、ようやく俗世の混沌から雲隠れ出来たと、その侘しさを満喫したものだった。が、仮名に押しかけられ始めると、それが日常となってしまい、九月に仮名が病気療養した時のもどかしさと言ったらなかった。それを踏まえての今回は、はっきりとした物別れの挙げ句だ。九月の時と比べると、ある程度は予想していた事だが、それでもその喪失感は大きい。

「あぁ──」

 今日も帰りに

「──図書館行くかぁ」

 と、誰に言うともなく、諸手を上げて伸びをしては、また欠伸をする。テレビの向こう側では、クリスマスイブがどうたらとかで、朝っぱらから熱が入っている。サンタクロース姿のお天気お姉さんのはしゃぎっ振りが何処か空々しいのは気のせいなのか。

 無理矢理──

 着さされているのだろう。それを思うと、アナウンサー時代の

 ──あの人も。

 この時期に一度は着さされたのだろうか。そんな想像が、一層虚しさをあおる。

「──よし」

 こうなれば、晩メシは鶏だ。今はとにかく食い気だ。食う物を食っておかないと、脱力し切ってそのまま病気にでもなりそうだ。という具衛は、図書館に寄るついでで、その近くのスーパーに立ち寄る事を決意する。スーパーで肉を買うなど一大事だ。実を言うと、肉は猟師のおこぼれを貰う事が多いこの男は、それを干し肉にしたり燻製にしたりして生きている。スーパーで買う物と言えば、安くて腹が膨れる豆腐と鶏卵を買い込むぐらいの事だった。野菜に至っては、農作業の駄賃代わりだ。食い切れない程貰っては、やはり干したり糠漬けにしたりする。山小屋に住み始めてこの方、野菜など買った事がないという中々幸運な男だ。農閑期で作業の手伝いがない今時分でさえ、職場や図書館を行き来する何処かで捕まっては、只野菜を貰っている。まるでダメなひも男のようで、ダメになりそうな自分が怖かったが、それでも片田舎の爺婆達が受領拒否を許してくれないのだから仕方がない。

「よしっ! 鶏肉買って帰ろ!」

 そんなことで力む自分が、如何にも小物めいていて情けない。が、事実、小物なのだから仕方がない。

「はぁ──」

 また、気の抜けたような声を出しては溜息を吐く。すると、まるでその体たらくを見兼ねたように、宿直室内のちゃぶ台に置いていたスマホが、突然不気味なバイブ現象で異様な小刻み音を轟かせ始めた。

「うおっ!?」

 電話の着信である事に気がつくのに数秒。それ程この男のスマホには電話がかからない。慌てて表示を確かめると【大家さん】とある。電話なんて

 ──いつ以来なんだよ?

 幸いにも電話の取り方を忘れていなかった具衛が、少し緊張気味に受話器を取るボタンを押したところ、

「宿直が明けたら施設にタクシーを呼んでおくから、それに乗ってすぐにウチまで来い」

 と、言うなり切れてしまった。

「はあ?」

 返事をする間もない。

「って言うか──」

 後数分で宿明けであると同時に、既に玄関前にタクシーが一台止まっている。

 ──何なの一体?

 タクシーに乗るなど、電話の着信以上に遥か昔の遠い記憶だ。それも、歩いて三〇分程度の所の家に行くのにタクシーなどと。

「──あ」

 一つ、思いついた。どうやらこれは、仮名に絡まれるようになって以降のどれか(・・・)が表だってしまったのではないか。

 それでもまぁ──

 なるようになるだろう。どうせ残りの人生など、世捨て人の放蕩三昧だ。

 宿明け時刻となり、事務所に引継ぎと退所の挨拶を済ませると、具衛はそのままタクシーに乗り込んだ。

 ──とにかく。

 帰りに図書館と鶏肉だ。


 タクシーは五分もかからず武智邸に着いた。正門前で降車しようとすると、勝手に大仰な門が開いて、運転手が何も言わずそのまま中の車寄せまで入る。運賃を払おうとすると「ご主人(武智)から貰う」と、断られた。

 そのタクシーがあっさり邸宅を出て行くと、車寄せに残された具衛の目に真っ先に飛び込んで来たのは、赤から白に塗り替えられて久しい、見慣れたスーパースポーツクーペだ。

 どうやら──

 逮捕されるのではないらしい。では、何事か。それこそ車の持ち主通り、

 ──仮名事?

 という事なのか。

 恐る恐る玄関の引き戸を開けたところ、またしてもいきなり目に飛び込んで来たのは、広い玄関の上り(かまち)に座って歓談している武智と仮名だった。

「な──」

 と、思わず絶句する具衛に、

「おはよう」

 と言う仮名は、以前の堂々たる仮名だ。

「──え?」

「何を(とぼ)けた事を──」

 と、大袈裟に溜息を吐く武智が、

「挨拶されたら挨拶を返さんか」

 と、呆れ口で頭まで抱えている。

「あ、ああ──」

 と、まごつきながらもようやくボソボソと挨拶すると、仮名が穏やかな所作で立ち上がった。相変わらずの姿勢の良さだ。

「では、明日の宿直までには戻りますので」

 と、仮名の口が宿直だとか吐いた傍で、武智に手招きされる。

「鞄を寄越せ。どうせ大したモン入っとりゃせんじゃろう?」

 主な中身は、図書館から借りている本だ。確かに大した価値はないかも知れないが、借り物だけに雑に扱えない。

「こんなんでもなくなると困るんですが?」

「なくす訳なかろうが! いいけぇ貸せ!」

 と、問答無用で強奪されると、入れ替わりで武智がパスポートを突き出した。具衛のそれだ。

「いい若いモンがすっかり厭世的になってしもうて、山に籠ってジメジメ辛気臭い、とつい愚痴を言うたら──」

 それなら仮名が連れ出す、と言ったとか何とか。

「連れ出すって──?」

 何処にだ。しかもわざわざパスポートがいるような所とは、

 ──海外?

 とか言い出すのだろうか。

 具衛は、とある事情により、武智にパスポートを預けている。その事情に絡む武智に対する質だ。もっとも、収まりがつかない具衛が勝手に押しつけているだけで、それを忘れた頃にいきなり突き返された格好。

「ほれ、早よ受け取らんか?」

「何です一体?」

「じゃけえ旅行に行って来いって事じゃろが!」

 痺れを切らした武智が、代わりに仮名にパスポートを手渡すと、途端に声が変わった。

「──他に必要な物はありますかな?」

「いえ、身体一つで結構です」

「そうですか。では不束者ですが、どうぞよしなに」

「お預かりします」

 口を挟むと噛みつかれそうなので黙っている具衛の前で、二人は予想外に早く話を畳んでしまう。

「ほら、行くわよ。新幹線に遅れるわ」

「新幹線?」

 そんな金など、

「いきなり用意出来ませんよ!?」

 と、情けない声を上げる具衛に構わず、矢庭の仮名が片腕を掴んだ。

「なっ!?」

 と言う、短い反駁を吐いた時にはもう遅い。

「あたたたた!」

 返事も何もないまま、無理矢理車に放り込まれてしまった具衛だった。


 同日、午前一〇時過ぎ。

 我に返った具衛は、新幹線のグリーン車に乗っていた。窓際に座らされた隣には、

「何か飲む?」

 などと、何やら気を遣ってくれる極上美人がいる、とか。

「え?」

 みるみる流れて行く景色を横目に、気を許すと現実を見失う具衛に、会話にならないとみた通路側の仮名が、足止めしていたワゴンサービスにコーヒーを注文する。

「ほら、これでも飲んで機嫌直しなさい」

「別に機嫌が悪い事は──」

「なら良いけど」

 と、早速コーヒーを啜る仮名に、変わった様子は見られない。

 その一時間後には、福岡空港のラウンジにいた。それも航空会社が運営する最上級のラウンジだ。そこで目を瞬かせては、引き続き

「一体全体──」

 などと、呆気に取られている具衛は、ゆとりのあり過ぎる質感の良いソファーに背を預ける事が出来ない。背筋を伸ばし、座面の端に尻を申し訳程度置いて所在なく座るザマは、まさに小物だ。

「こういうソファーは、背中を預けた方が座りやすいと思うけど」

 と、小さく噴き出す横の仮名は、当然の大物振り。

「こんなの座り慣れてないんで、腰が悪くなりそうで──」

「そう?」

 座るどころか、ラウンジの入口でも一悶着していたりする。具衛の身形は、宿明けのままの普段着だ。上着は地味なフードつきのジャケットで、下はオールシーズン仕様の安物綿パン。どう考えても、最上級ラウンジに入るような格好ではない。

「私は一般ロビーにいますから」

 と言って逃げようとするのを、例によって後の先を打った仮名に腕を極められてしまい、無理矢理ソファーに座らされた。

「心配しなくてもあなたの身形なんて誰も興味ないわよ」

 堂々としてなさい、と言う仮名は、ライトグレーのロングコートとデニムパンツ姿で、相変わらず何を着ても似合っている。とは言え、やや地味にも思えるコーデは、どうやら具衛の格好に合わせたようだ。

 中に入った二人は、流石に上着を脱いでいる。ニットのセーターを着ている仮名の姿は、そのままテレビのCMにでも出られそうな見映えに対し、ライトジャージ姿の具衛は、うっかり日向に出てしまった忍者のようだ。ボヤけた色味の素朴な男がオドオドしているのだから、田舎者ですめばよい方だろう。やたら不審感を振りまくばかりだ。

「ド、ドレスコードはないんでしょうけど──」

 流石にジャージは、気後れする事甚だしい。

「普段はホント、情けないわね」

 と言う仮名は、全く取り合ってくれず、何処吹く風だ。

「そのシックな青色の統一感の何が不満な訳? 私は好きよ、あなたのセンス。それに──」

 最近のジャージは【トラックスーツ】とも呼ばれ、

「──立派な普段着として定着してるでしょ?」

「は、はあ」

 そうなんですか、と言う声が危うくひっくり返りそうになった。肯定的な意見だけならまだしも、「好きよ」とか、

 言われても──

 困る。瞬間で心臓を鷲掴みにされ、脳を殴られたような衝撃に目が回りそうな具衛だ。

 思考が強制停止され、しばらく固まっていると、ラウンジアテンダントが搭乗案内にやって来た。相変わらず慣れた調子で応対する仮名に、

「行こう」

 と声をかけられると、仮名がスマホをかざすだけの極めて簡素な搭乗手続きを経て、お次は国際線のビジネスクラスだ。

「えっ!? えっ!?」

 やはり海外へ連行されるらしい。新幹線同様窓際に座らされた具衛は、その大きなシートと整った接客に、溜息の連続だ。

「落ち着かない?」

「お陰様で」

 自慢じゃないが、グリーン車も、高級ラウンジも、ビジネスクラスも、

「──初めてですからね」

 加えて山小屋暮らしに染まったせいで、文明の人工物が眩しい事極まりない。仮名が小さく噴いた。

「それは連れ出した甲斐があったわね」

 本当はファーストクラスに乗りたかったそうだが、この路線ではそれがないとかで、

「──残念だわ」

 と嘯く仮名をよそに、一路南に進路をとった旅客機の先には、冬の寒空にはない明るい空気の層のような物が見える。

「まぁ往生して、ちょっとつき合いなさいな」

「これがちょっとですか」

「大抵の人は、私のためだって言ったら大抵の事は許してくれるんだけど?」

「もう好きにしてくださいよ」

 呆れた具衛に、珍しくあざとさを押し出す仮名が、

「今の言質とったわよ」

 と笑う、その笑顔が何より眩しい。


 同日、夕方。

 約四時間の空路でやって来たのはグアムだった。

「明るいうちに──」

 厳冬期を控えた日本から、こんな夏に来れるとは。到着後、具衛は堪らず上着のジャージを脱いだ。長袖のポロシャツ姿になっても、冬に慣れた身体に常夏の島は暑い。

「とりあえず移動しよう」

 と、先を急かす仮名も、流石に長袖シャツになっている。とにかく、日本の冬にはない蒸し暑さだ。仮名が慌ただしくタクシーを拾うと、暑さから逃れるように冷房の効いた車内に入りながらも、目的地を運転手に伝えた。空港の入国審査でもそうだったが、その口から出た流暢な英語は、外見を裏切らない聡明さを裏づけるには十分だ。そんな人種が、

 何で俺なんかに──

 絡むのか。遥か南国に至っても、その疑問は消えない。

 タクシーで、物の十分もかからず着いた先は、如何にも壮観なビーチ沿いのリゾートホテルだった。

「うわ──」

 車寄せでタクシーから降りるなり、やはり具衛が尻込みする。と、それに合わせてやはり仮名が、わざとらしく腕を取ろうとする振りだ。

「は、入りますから」

 渋々、ソロソロと中に足を向ける具衛に、また仮名が小さく噴いた。

「あなたはロビーで待ってなさいよ」

 そのままフロントに向かう仮名を見送ると、具衛は言われた通り、手近なソファーで手足を伸ばす。天井が高く、開放的なロビー。今の時間はちょうとそこから、西日が映えるオーシャンビューが全開だ。

 ──絶景だなぁ。

 それは今朝、武智から電話を受ける直前まで、具衛には関わりのない景色だった。が、

 楽園って──

 こういう所を言うのだろう。良くも悪くも、これが「一寸先は闇」という、人生の妙のようなものだとするならば。闇の先の事というのは、悪い事ばかりでは

 ──ないモンだなぁ。

 と、口を半開きにしている具衛の所へ、仮名が戻って来た。

「温泉があるから、入ってらっしゃいよ」


 更に五分後。

 闇の先の楽園の具衛は、早速その恩恵の一つに(あずか)っていた。

「あー」

 グアムに温泉があるとは。浴槽で大の字になる具衛の目には、日没を迎えた水平線が見えている。

 この展開は──

 何なのか。

 物寂しい山小屋で、独り静かに鶏肉でも食うつもりが、気がつくと文字通りの南国リゾートに身を置いている。

 ──意外に近いモンだなぁ。

 などと思いながらも、私的な旅行などろくにした事がなかった具衛としては、

 たまにはいいか──

 とも思う。と同時に、以前の仮名が、

「リゾートの日本人が煩わしい」

 と言っていた事を思い出した。年末年始を控えた季節柄だ。壮観なホテル内も、何処か(ざわ)ついた感がある。が、不思議と日本人を見なかった。かく言う今も、浴室内は日本人どころか入浴者自体が少ない。恐らく夕食前のせいだろう。その中でチラホラ見える人影は、サイズ感が具衛より二回りは大きい、顔の彫りの深い欧米系ばかり。どうやら自国民(米国人)のようだ。

 それはともかく、こういう事を満喫するには必ず金がいる。そう思い始めた具衛は、急に居心地が悪くなった。

 只より怖いモンも──

 ないとは世俗の常識だ。そそくさと浴槽を出ると、悪い予感が的中

「って言うか──」

 服がない。その代わりなのか、バスローブが置かれている。

「あれぇ?」

 手首につけたロッカーキーのバンドにある番号とロッカー番号を確かめるが、何度見返しても同じ番号だ。

「こんなん着た事ないんだが」

 バスローブ一枚でホテル内をウロつくのは、マナーに反しないのか。と言ったところで、今はそうするしかない。

 とりあえずフロントで貴重品を受け取ると、そのままベルマンに連れられエレベーターへ案内された。

 ──デジャヴだなぁ。

 記憶を掘り返すまでもなく、夏の花火大会の時と同じ展開だ。あの時は遅れてフロントを訪ねるなり、いきなり浴衣に着替えさせられたが、

 それがまさかの──

 真冬の異国で二番煎じとは。

 頭の中でボヤいていると、そのままエグゼクティブフロアのフロントまで連行された。

 ──やっぱり。

 その一画の部屋のドアをノックするベルマンに応じて中から出て来た仮名は、既に着替えている。

「あら、早かったわね」

 部屋に入らされた開口一番で、

また(・・)服が──」

 と言いかけると、それだけで堪り兼ねた仮名が「ぶはっ」と噴き出した。確信犯だ。

「前もあったわよねこんな事!」

 と、高らかに笑いながら、

「つい言い忘れるのよ」

 ゴメンゴメン、と、ひとしきり笑った仮名を前に、

「あなたがお気に入りの私の服は、何処へ行ったモンですかね」

 と、嫌味のようなものを挟んでおく。

「さっきから股がスカスカして落ち着かないんですが」

 何せ着なれないバスローブ一丁だ。

「はだけたら捕まるわよ?」

「よく言いますねホント」

「だから謝ってるじゃないの」

 リゾートのホテルなら、その軽装でもNGではないらしい。が、公然わいせつのリスクがあるような格好で歩かされるなど御免だ。

「バスルームに着替えが届いてるから、着替えなさいよ」

 宿直帰りで着替えがない事を見越しての配慮らしい。

「流石にその格好じゃビーチには行けないわ」

「ビーチ?」

「気に入ったのなら、そのままでもいいけど?」


 更に十分後。

 Tシャツ、ハーフパンツ、サンダル姿の具衛は、仮名と並んでビーチに面した並木道を歩いていた。下着のパンツ以外は具衛の服ではない。が、サイズ感は大体合っている。

「あなたいつも簡素な格好だから──」

 余り派手な物は避けたと言うそれらは、どうやら土産物だ。Tシャツとハーフパンツには、グアムの絵柄が入っている。サンダルは、何処でもありそうなグルカサンダルだが、具衛が持っている物より質感がいい。

「それで少しは機嫌を直してくれると嬉しいんだけど?」

 Tシャツとハーフパンツはともかく、サンダルは

「ビーチサンダルで十分だったんですが」

「まぁバスローブで笑わせてもらったから──」

 取っといて、と言う仮名は、実にあっさりしている。

「段取りと手際の良さは流石ですね」

「これぐらいの事で感心されてもね」

 仮名のようなセレブにしてみれば、金額的には極微細なものだろう。が、金はどうにかなっても、この一手間に割いた

「時間と手間は絶対に返ってこないので──」

 そこは素直に感謝しておく。

「相変わらず固いわねぇ」

 そんなところも、

「──まぁ気に入ってるんだけど」

 とか言う今日の仮名は、随分と際どいところへ踏み込んでくる。

 歩いている並木道の向こうは、ひたすら海だった。既に水平線の向こうに沈んだ太陽が、西太平洋の海と空の一角を、放心円状に赤く染めている。

「いい景色ですね」

「わざとらしい」

 はぐらかした事を許してくれない仮名が、それでも顔を夕焼けに向ける。と、そのセミロングの美しい髪が軽く風にあおられたその様は、それこそまるでリゾートのCMかドラマの一場面のようだ。

「雨が降らなくてよかったわ」

「雨? ですか?」

 常夏のグアムでも、雨季と乾季がある。概ね年の前半は乾季、後半は雨季。今時分はちょうどその境目で、グアムの雨季は、

「一日に何回かスコールがあるのよ」

 と言う事だが、今歩いている道に降雨の形跡はない。

「お陰で蒸し暑さもないし、夜は涼しいわ」

「そうですね」

「グアムは初めて?」

「ええ」

 すっかり散歩のつもりで歩いていた具衛だったが、並木の向こう側に男女のサーバーが見えて来た。そこへ仮名が、迷わず進んで行く。結局、その二人の傍にあるテーブル席に座らされた。

「ここなら──」

 飲み食いしながら気兼ねなく大話が出来る、とか。

「まさか、それでここまで──?」

「それもある」

 今の二人は、何処で盗聴盗撮、データ泥棒、つき纏いなどの被害にあっているか分かったものではない。

「だからあえて、米国系ホテルにしたの」

「日本人がいない訳ですね」

「そういう事」

 グアムにある日本人向けの日系ホテルは有名だ。言葉や風土に気後れする日本人旅行客なら、そこへ泊まった方が無難だろう。が、仮名はそうした日本人ではない。

「流石にグアムまでつけて来る程暇じゃないでしょ?」

「そうですね」

 少なくとも警察は来ないだろう。が、念には念を押して、米国系ホテルを選んだらしい。米国にある外国企業のホテルなら、日本の国家権力に忖度しないという事だ。

「ここならスマホの通信データや位置情報なんかも抜かれないし」

 海外ローミングでも契約していない限り、電波は完全に圏外。

「私は一応、広島から電源切ってたんだけど」

「あ」

 と漏らす具衛は、福岡空港まで電源を入れていた。何処へ行くのか分からない旅だったせいもある。最悪を考えれば、出国記録を見られる可能性があるが、見られたところで要するに

「今、邪魔されなければいい訳だし──」

 この密会が何だって言うのよ、と言う仮名は、事が微妙なところへ踏み込んでも、いつもの仮名だ。

「素人臭い失敗で──」

「あら、素人じゃないの?」

「あ、その──」

「フフ」

 と笑う仮名は、やはり武智から具衛の事を聞き出しているのだろう。何処か、

 吹っ切れてる──

 ような。

 そこで、飲み物とコース料理がやって来た。

「ホテルのレストランのドレスコードで堅苦しくやるより、この方が気楽でしょ?」

「それは、そうですね」

 それでも仮名が着ている紺色のワンピースは、具衛の素人目で見ても、恐らくドレスコード対応だろう。つまりそれは、降雨時の備えだ。具衛は急ごしらえの貸衣装などで何とでもなるが、仮名の衣装は恐らくそうではない。

 ホント──

 良く気が回る。

 世の人間が何と言おうと、具衛といる時の仮名は、出会った頃から今の今に至るまで、

 ──出来過ぎた女。

 でしかない。

 サーバーが仮名と具衛のグラスに赤ワインを注ぐと、またすぐに何処かへ下がった。

「チップはいらないんですね」

 ベルマンにしても、サーバーにしても、そのような素振りを全く見せない。

「あら、少しは心得があるようね?」

 と、一言含ませたような仮名が、エグゼクティブはサービスチャージが含まれる事を教えてくれる。

「そうなんですか?」

「払いたければ払ってもいいけどね」

 仮名は面倒だから、事前にそれなりの心づけをしているらしい。

「そう考えると、日本は凄いと思うわ」

「そうでしょうね」

 世界を飛び回る人間は、そうした文化の違いに気を遣っている。仮名もその類いという事だろう。

「伝票にサービスチャージを書き忘れたら、額の上乗せが凄いってホントですか?」

「あら、よく知ってるわね」

 それでも近年のチップはキャッシュレス化が進み、そんな事も少なくなっている、とか。

「サービスが無料って国は、日本ぐらいですか」

「予め含まれてるって事ね。日本の価格表示の確かさとも言えるわ」

 海外は気をつけないと、と言う仮名は、エグゼクティブがスタンダードらしい。

 それを理由に──

 エグゼクティブを使うところが、地を這う具衛などとは違い過ぎる、雲の上の感覚。そんなところの格差が、密かに寂しいとか悔しいとか思う男は、だからと言って、

 ──どうしたいんだろう。

 と、改めて思う。

「まぁここまで来て、周りに気を遣っても仕方ないわ」

 飲むわよ、と景気づけの仮名がグラスを持つ一方で、具衛は手を振ってそれを拒む。

「私は酒は──」

「いいじゃない。もう節制の理由はなくなった筈よ?」

「──え?」

「武智さんにせがんで教えてもらったわ」

「そう、でしたか」

 それはいつか話す時がくるかも知れないと思っていた、我が身の上話。知られて引かれて当然と思っていた因縁にして、業のようなものだ。が、今となっては、それを自分の口で言えなかった事の後悔のようなものが、予想外に押し寄せる。

「あなただって、私の会社まで来ちゃってるし──」

「何か、すいません──」

 色々と今更ながらに、己の素性のひどさを痛感させられる具衛は、言葉がない。 

「ホント詐欺師よね、絶対」

 色々納得だわ、と言う割に、仮名はサバサバしている。早速あおったワインが早くも回ったのか、

「毛嫌いする人種もいるんだろうけど、私はそれなりに人柄を見た後だったから──」

 むしろ好意的と言うか、

「余計、好きになっちゃったかなぁ──」

 と、いきなり直球ド真ん中だ。

 ──や、やれやれ。

 一緒につられて酒をあおっていたら、今頃盛大にむせていただろう。密かに安心する具衛だ。

「──飲まないの?」

「え?」

 既にグラスを開けた仮名が、手酌で二杯目に入る。ボトルではなく、デカンタに入れられたそれをよく見ると葉っぱ入りだ。

「美味しいわよ?」

 事前にホテルに作らせた、高級サングリアらしい。日本でなければ酒税法は大丈夫なのだろうが、ではグアムだとどうなのか。と、具衛が口を開く寸前で、

「作ってくれたから、まぁ──」

 大丈夫なんでしょ、と言うそれは、仮名の好きな赤ワインで一夜漬けしたものらしかった。

「あなたと一緒に飲んだらどうなんだろうと思って──」

 と言うそれは、また思わせ振りの仮名が愛飲するには、

「意外に大衆的なんですね」

 などと、思わず具衛が余計な事を突っ込みたくなる程、庶民に愛される南西欧州の酒だ。

「いけないかしら?」

「いや、悪い意味では──」

「どうかしらね」

 と、自嘲する仮名のピッチが早い。もう三杯目のそれは、駆けつけ三杯と言うよりヤケ酒感が強いように見える。

「こんな事をね──」

「え?」

「お互い──」

 もう少し早く話していたら。

「どうなって──」

 いたのか。

「──たられば話は虚しいわね」

 と言う顔が、寂しそうに笑っている。

「そういえば、今日はお休みなんですか?」

「何、急に?」

「いや、ごまかすつもりでは──」

 あるのだが、日本の大企業の冬休みは、大抵クリスマスの後だ。今時分は有休を使わなくては

「──休めないのでは?」

 ないか。というそれは、

「下手にごまかすから──」

 見事な藪蛇となる。

「──私、辞めるの。年内一杯で」

「えっ──?」

 とは、文字通りの絶句というヤツだ。思いつきの言い逃れをした罰だ。いきなり本人から、その事実を突きつけられる事の衝撃だ。

「ここで何か、一言出ないか」

「──あ、いや」

 何と言ってよいものか。今は分からないし、何を言ってもウソ臭い

 気が──

 する事すら、口に出して伝える事が出来ない具衛だ。それに呆れたような仮名が、大きく息を吸い込むと、それを盛大に吐き出した。

「昨日ね──」

 離任の挨拶で武智を訪ねた折、具衛の話になったらしい。

「最後だから、色々と聞かせてもらったわ」

 その、最後(・・)という言葉が、具衛から音を遠ざける。

 無力って──

 こういう事だ。結局のところ具衛のやった事など、中途半端な希望と引き換えに圧倒的な絶望感を与えただけだ。結果が変わらないのなら、いくら高千穂の悪巧みを掴んだところで無意味だ。

 まさか──

 そのネタを掴んだ具衛自身が、

 足枷になって──

 しまうという皮肉。

 仮名の息子は高坂の大事な跡取りで、しかもそれは高千穂の実子だ。つまり、人質になり得ない。

 俺が──

 非力だから気を遣われた。下手に首を突っ込んだ分だけ、具衛の罪は大きい。

「ほら、乾杯」

「え?」

 訳も分からぬまま、仮名がグラスを合わせて来た。

「辛気臭いわね。ようやく自由になれたんでしょう?」

「自由?」

「おめでとう、でよかったのかしら?」

 何もめでたくない。

「それとも、お疲れ様かしら?」

 別に疲れていない。

「これはあなたの祝いでもあるんだから、最後だし折角だから飲んでよ?」

 さっきから、

「最後──?」

 と言うそれは、何がどう最後なのか。

「もう会社には出ないの」

 東京の実家に戻るらしい。

「引っ越しは少し後になるんだけどね」

「え──」

 次々出てくる、衝撃的な事実。

「──もう、全部終わり」

 それをこの女が口にする事の、何という悔しさだ。そもそもが、いつの間にそれが悔しくなったのか。

「いい加減、飲みなさいよ」

「い、いや──」

 今飲んでしまうと、具衛の方こそヤケ酒になりそうで怖い。これ程の悔しさと不甲斐なさも久し振りだ。が、

「これが最後なんだから──」

 そんな消え入りそうな声を絞り出す仮名を、今この期に及んでも苦しめている自分が何より情けない。

「いただきます!」

 堪らず具衛は、グラスに注がれたワインをあおった。赤ワインの筈なのに、濃厚なバニラの甘やかな香りと、その裏で仄かに添えられたミントの爽やかさだ。アルコール分が含まれているせいだろうか。以前、仮名に飲まされたノンアルコールのサングリアにはない味わいの分だけ、やり切れなさがあおられるようだった。

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