章魚蘭(後)【先生のアノニマ(中)〜3】
一一月中旬。
サカマテ周辺の山々は、紅葉の最盛期を迎えた。
平日の昼下がり、
山が燃えるって──
こういう事だと、真琴は卓上一杯に並べた資料を背に、会社の自室から西中国山地の山々を眺め、また目を休めていた。最近の仕事振りは、業務に忙殺される一方で、腰を据えてかかるようになった真琴だ。
慌てても、ジタバタしても──
出来る事には限りがある。それに加えて、上が代わる度、効率だの改善だの改革だのと、そのとりあえず何かを言って何かをやった振りをしてきた経営層の、適当で無責任で独善的な思想に振り回され、被害を受け続けて来た社員達の不信感は相当に根強い。それならば、いつまで役に据えられるのか知った事ではないが、じっくりどっかりやって行く事にしたのだ。
机にかじりつく事は少なくなり、会議のための会議はやめた。工場内に出ては、現場の意見を吸い上げ続けた。社内で蔓延する不信感、特に経営層に対する疑念を晴らさなくては、多数を占める社員は何れ離れて行く。日本の半導体事業の現状は相当に厳しく、社内がブレていては未来はない。
しかし、それもいつまで
──続けられる、かな。
一昔前は、最高品質を誇った日本企業のそれが世界を席巻したのは、今となってはまさに遥か昔の過去の栄光だ。その一昔前でさえデジタルの世界は、文字通り日進月歩であったにも関わらず、ずるずると過去の栄光にすがり続けた日の丸半導体の没落は、予想以上に早かった。効率ばかりを追い求め、高い技術力と品質革新で世界を牽引していた時の努力を惜しむようになると、業界内が根拠のない虚勢と慢心で覆われるかのように空回りし始め、世界の急速なデジタル化の波に乗り遅れた事も相まって、瞬く間に品質も生産力も立ち遅れ始めた。今となっては技術力も生産力もどっちつかずの中途半端振りで、見事なまでの脆弱振りを呈している。
それこそ一昔前は、その存在を認める事すら困難だった近隣諸国の黎明企業が、今や世界市場を席巻する巨大企業に変貌しており、過去の英雄がそのお零れにすがりついている。まさに、デジタル戦国時代における下克上の敗者。それが現代日本の半導体事業の実相だ。サカマテがそれでも生き残っているのは、優秀な技術者の存在と、勤勉な社員による高品質生産力、それだけだった。
本当に──
呆れる程、それだけなのだ。旧来型の設備を継ぎはぎして、騙し騙し何とか回している。本当に首の皮一枚で繋ぎ止めている。本当にそんな状態だった。これで技術者を引き抜かれ、品質保持が追いつかなくなれば、瞬く間に生産が滞り、あっと言う間に債務不履行に陥ってしまう。今や風前の灯のグループ内のお荷物。それがサカマテの実相だった。国内勢を吸収合併し続け、二〇年前に本社を広島の片田舎へ移転させ、一大集約拠点とした。そこまでだった。そこで、止まっている。
この状態で、
人を失ったら──
終わってしまう。一人が二人、二人が三人、そんな風に海外勢に引き抜かれ始めたらもう終わりだ。何もかもが滞り、慢性的な閉塞状態に陥っている社内で、真琴が出来る事は原点回帰。つまりは現場に寄り添う事だけだった。そんな真琴のスタンスは、一部の社員の中で支持を集め始めたようだったが、一方でそれに反比例して経営層のあからさまな不興を買い始めた。お日さん西々の、典型的な事勿れ主義が席巻する、旧態然とした経営層。その殆どが巨大グループに胡座をかいて、自己都合にのみ執着している寄生虫ばかりだ。そこへ真琴に何か功績を上げられては、それまでのさばっていたその他経営層の無能振りが際立ってしまう。その程度の心配しか出来ない愚か者の集まり。それが今のサカマテの経営層だった。
その中でもやはり孤立している真琴は、赴任当初は侮られたくない一心でしゃかりきになっていたのだが、もうやめた。経営層は深刻に腐っていたのだ。如何に創業宗家出身とは言え、戦前の財閥経営めいた強さなど。それを保持しているのは母ぐらいだ。実家を嫌い抜く雇われ専務の真琴に、創業家マジックなど存在しない。そもそも現職就任が、何故突然自分に向けられたのか。そんな事すら分からないまま勤めているようなザマだ。誰の何の思惑か知らないが、この会社は、
──もうダメだ。
逆に現在の状態で、よくぞここまで来たものだ、とさえ思えてくる。最期の時の責任を取らされるために宛てがわれた、という現実味が帯び始めると、急速に自分の中で意欲が失せる。再建の道筋や、そのプランの用意がない事はない。が、それは自分一人で出来る事でもなければ、自分の頭の中だけの計画に過ぎない。何処かでサラリーマン上級職の経営層を刷新しない限り、瓦解は目に見えている。
窓の外は、本当に燃えていた。燃え上がる朱の中に、橙や黄が混ざっていて美しいのだが、火勢の強い山火事のようにも見える。専務室から見える山々は、常緑樹の緑がまるで見えなかった。
──火の車か。
景色が社内を写しているかのようだ。絶望に近い諦めが、そんな自嘲を誘う。すぐにそれを忘れる程、真琴は山々に魅入られ始めた。とにかく会社がどうあれ、真琴がどうあれ、山は只そこにある。全体が燃えるようで、只々素晴らしい。
──本当に、凄い。
その圧倒的な朱に飲み込まれる一方で、一緒に思い出すのは、やはり山小屋の箱庭だ。
先週はホント──
思い出すと、何処かしら沈鬱な心中が和らぐのだが、そのコミカルな記憶に思わず真琴は失笑した。先週訪ねた山小屋は、殆ど予想外の見合いのような体裁だったのだ。訪問時は、やはり既に真っ暗で寒く、とても縁側で何とかいう気にはなれず、従前の宣言通り
「上がるわよ」
と、縁側下の靴脱石で脱靴すると、居間に上がり込んだ。そこまではよかった。が、待っていたのは、ぎこちない静けさだった。会話らしい会話が出来ず、出る音と言えば、たまにお茶を啜る音だけ。
何もいらない、と言った手前、先生がいつも通り出してくれたお茶をゆっくり啜り続けたのだが、
──何よ、これ?
そんな、予想外の静けさ。
居間に上がって、縁側のガラス障子を閉めると、火鉢一つでも意外に暖かかった。が、普段と打って変わって耳を突くような静寂。思いがけないそれに動揺し、正直、
間が──
もたない。認めざるを得なかった。
ガラス障子の向こうは真っ暗闇で、目のやり場がない。耳は普段の縁側とは比べ物にならない程敏感になっている。そしてお茶を啜る二人の距離感は、畳半畳程度の直径しかない正円形の座卓を隔てた隣合わせでしかない。手を伸ばせば簡単に
届く──
その近さ。
何か月か前、先生に言及された迂闊のフレーズが色濃く想起されたところで後の祭り。せめてもの救いは、真琴は客人で、庭に対面する上座に位置し、それに合わせて先生が目の前に座らず、左側のやや下座寄りに座って、更に二人の間に火鉢を置いた事だ。これなら向かい合わず、予期せぬ視線の交錯も起こりにくい。先生に限って何か事を起こすなど考えにくかったが、そうは言っても火鉢は防波堤代わりにはなった。が、だからといって、それが滞在時間を凌ぐようなアイテムになるかと言うと、全くならない。
先生はこれまでのように、本を開く事はなかった。流石に客の目の前で本を読む訳にもいかない、と思ったのだろう。堪り兼ねたようなその横の男が、
「──だから真っ暗なだけって言ったじゃないですか」
と、ボソボソ恨み節を吐いた。
「だからライトアップしたらって言ったじゃないの」
お互い、言うに事欠いて皮肉を言い合ったが、本当はもう少しまともな事を口に出来ると踏んでいた真琴だ。始めから先生のボキャブラリーなど、期待していなかった。普段はまるで冴えないこの男の事だ。自分がリード出来る、そう思っていた。要するに、土壇場に追い込まれたのは真琴の方だ。真琴自身が予想外に何も出来ず、固まってしまったせいだ。
結果的に、二人に残された選択肢は、
予想外の──
肉弾戦、とか言う艶かしい状況。それは流石に
ちょっとまだ──
覚悟が出来ていない真琴だ。それは操の事でもあり、お家事情もある。女としても、高坂の長女としても、先生と本気で向き合うには、まだ確固たる覚悟が足りていない。まだどうしたいのか悩み、迷っている。そんな混惑の坩堝にいた真琴を目の前に、結局先生は肉弾戦も何も、胡座をかいたまま殆ど動かなかった。
まるで──
座禅のような状況だ。いっその事、足を組んで瞑想すればちょうど良いではないか。途中から開き直った真琴は、座卓の上に頬杖をつくと、
「暖かいと眠たくなっちゃうわね」
今日は目を使い過ぎたし、などと目を閉じた。一応面目を保つための格好でもあり、先生の出方を伺うスタンドプレーでもあり。主導権を先生に放り出した真琴は、結局その後、ある程度の滞在時間を心地良さそうに繕い、山小屋を後にする事が出来たつもりだ。これがもし、先生の自制が危ういものだったらどうなっていたか。それは認めざるを得ない。もっとも先生は、不意を突いてがっついて来るような人間ではないし、逆にそれをやったのは自分の方だ。そう考えると、
私が誘った──?
みたいだと気づいたのは帰りの車中だとか、人の鈍さを言えたものではない体たらく。つまらない強がりで、何やら迂闊やふしだらさを露見させたこの一件は、要するに真琴の目論見の甘さだ。それはお互い、内心では気づいている。
何かいい手は、
ないものかしらね──。
同じ空間を共有したいのは事実だ。が、山小屋の居間の現状では間がもたない。これまでのように、縁側と座卓ぐらいの間合いで、同一方向を眺めるような具合でなくては、口も開かず空間を共有する事は難しい。つまりそれは、まだその程度の距離感が二人の間には存在する、という事を意味している。
別に──
何かされても。それこそキスぐらい
──よかったのに。
などと世迷言を悶々と募らせていると、専務室のドアがノックされた。隣室の秘書課の女史だ。
「専務宛に速達です」
「速達? 私に?」
サカマテ就任以来、名指しで速達など受け取った事がない。少し構えて慎重に受け取り、とりあえず封書の送り主を確かめると、
──山下?
とあった。
次の日。
真琴は急遽、午後から半休を取った。出張扱いも考えたがプライベートな事だ。急な休みでブーイングが聞こえて来そうだったが、休暇扱いにした。
"山仕事にて、何日か空けています"
というそれは、例の大地主武智の顧問弁護士から届いた速達の全文だ。暗号めいたそれは、一見して「山小屋の事で火急の用あり」と言っているようだった。社員に開封される恐れを考慮したのだろう。発送元と宛先は、速達・普通の別を問わず、届くスピードは殆ど変わらない距離感だ。しかも武智には、初見の折に名刺を渡している。用があれば電話やメールで済む筈なのだが、わざわざ速達なのが気になった。文面の内容の事もある。それで念には念を入れて一度自宅へ戻り、流しのタクシーを拾って最寄りのデパートを経由後、別のタクシーで武智邸へ向かった。
そのタクシーに乗ったまま大豪邸の大門を潜ると、出迎えてくれたのは山下ではなく、主人の武智だ。
「これはまた、随分と──」
「その、こういう事なのではないかと思いまして──」
と二人が交わすのは、真琴の格好と言うか、変装のお話。黒色ロングストレートのフルウィッグに、目には有名人仕様の大きなボストン型のサングラス。頭は女優帽の別称を持つワインレッドのガルボハットを被り、首元から脛までも同色の秋物ロングコートで覆っている。身体が動きを見せる度にコートの裾下から覗くのは、見事なボディーラインが浮き彫りになっているライトグレーのタイトニットのロングワンピースだ。これら全てはデパートを経由した際、大至急で店員に適当に見繕わせた物で、購入後その場で着替えた。つまり変装だ。見映えが今時のモデル風になってしまったのはこの際飲み込むとして、辛うじて真琴の趣味に合うのは、やはりワインレッドのベルベットのショートブーツぐらい。
もし尾行されているのであれば、それが難しい婦人服売場、それも若い年齢層をターゲットにしたブランドを扱う店に入ったのだから、ある程度は致し方なしだ。これでも店員が勧める物の中から、控え目の物を選んだぐらいだったが、化粧が負ける程のコーデになってしまったため、
「こんなチグハグな形じゃ店内を歩けないわ」
などと駄々を装い、特上得意様特権を駆使して、バックヤードから一階に抜けるという目眩しをかましておいた。で、化粧品売場内のパーソナルスタイリングコーナーで、顔を見れる限界まで真っ白に塗りたぐり、スカーレットのシャインリップで決めてデパートを後にしたのが今の有様の顛末だ。
「こちらの邸宅に出入りするには、そぐわない身形になってしまいまして──」
恐らくこんな派手な格好の人間など、武智邸には出入りしない。後になって押し寄せるやり過ぎ感だ。
「いや恐れ入りました。ま、立ち話も何でございます。どうぞお上がりください」
軽く会釈した真琴が、そのまままた石庭の縁側へ案内される。
「自分を悟られないための変装ですから。ただ──」
と、道すがらの武智の声が、俄かに曇る。
「──何をお召しになられても、あなた様はよく似合い過ぎます」
「そのような事は」
「いえ本当に。名乗られなければ私などは全く気づきませんで。高名な俳優のような、只ならぬオーラで思わず腰を抜かしそうに──」
「また、お戯れを」
「いえいえ本当に。はっはっは」
例によって、やたら長い縁側が見えて来ると、先月の国賊演説会の折に世話になった辺りに、同じあつらえで座布団が敷かれている。お互いそこへ座ると茶が運ばれて来て、相変わらずの行き届き振りだ。
「改めまして、夕方前のお忙しい時に押しかけてしまい、申し訳ございません」
再び二人になったタイミングで、真琴がもう一度謝罪を述べた。時計は既に午後三時を回っている。帽子とサングラスをとると、先月訪問した時と比べて明らかに低くなった西日の柔らかさに気づいた。庭園を赤く染めている落葉樹に差し込むそれが、木々の根元に穏やかな晩秋の木漏れ日を落としている。広大な庭の地面は全面玉砂利だ。美しい見た目は一方で防犯効果も高く、相変わらず隙がなかった。
「いえ、不躾な文でお呼び立てしましたのは手前共ですから。そのようにおっしゃられると困ります」
「いえ」
武智が一服したタイミングで、真琴も一口呼ばれる。また、本家本元の陳皮茶だった。
やはり──。
それが用件だ。何も言い出さない武智は、好々爺然として茶を啜っている。長引く間は、言い出しにくさの表れだろう。その深刻さを思うと、沈黙の中で真琴は喘いだ。とそこへ、
「その、大変申し上げにくいのですが──」
と、ついに武智が重い口を開く。
「どうぞご遠慮なさらず、おっしゃっていただける方が──」
気が楽だ。ここぞとばかりに食いついた真琴に、武智が横から大封筒を出した。
「実は、これなのです」
何処か悔しそうな武智が、それを二人の間に置く。表面の下部に社会福祉法人の銘が打たれたそれは、武智が理事長を勤める法人の物だろう。封はされていない。
「普通郵便で届いた物です。これが届く少し前から、警察が山小屋の主の近辺を嗅ぎ回るようになりました」
「──え?」
真琴の表情が、瞬間で目に見えて強ばった。
「あの演説会の後、一週間ぐらい経った頃からなのですが──」
その武智の言葉に、脳を揺さぶる程跳ねる心臓。声が出ない代わりに息を飲む、その鋭い呼吸音が自分の耳を突く。
「ここ一週間は、四六時中つけ回されているようです」
「そんな──」
訳が、と言いかけた口を、真琴は止めた。こういう事態を恐れていたというのに、いつも通りの先生に騙されていたという事だ。が、それを責めるのは筋違いだろう。諸悪の根源は絶対的に高千穂にある。一方で真琴は、先生から何かを配慮された格好だ。要するに、不甲斐ない自分が悪い。
「ご確認、いただけますか?」
「──はい」
封筒の中身は、A四大の白い用紙が二枚。
一枚は「不破先生」なる職員が、まだ勤めているのか、というもの。もう一枚は、やはり「不破先生」なる職員には本当に世話になった、という内容だ。いずれも黒インクの明朝体で印刷されており、フォントサイズは一二ポイント前後で、差出人名はない。
「不破とは、山小屋の主の苗字です」
「そう、でしたか」
いきなり思わぬところで苗字を突きつけられてしまい、動揺に動揺を重ねる真琴だ。
こんな形で──
知りたくはなかった。
殆ど自分の都合で伏せていたお互いの素性。それを、本人のいない所で掴もうとしている事の罪深さだ。が、武智がわざわざ、それだけのために真琴を呼び出す筈もない。当然のように、武智は続ける。
「不破の仕事はご承知の事と存じますが、夜間における有事対応職員でして──」
「はい、存じております」
それを聞いて思い出した真琴は、思わず眉間にしわを寄せた。手紙の内容は明らかに、専門性の高い介護職員の業務に対する謝辞だ。そしてその一方で、わざわざ人違いではない事を強調するように、先生の特徴を丹念に書いている。
「過去の入居者家族から、お礼をされるような業務ではないので──」
と、言いにくそうなその一言が止めだった。当たり障りのない筆運びで油断させるその文面は、宛名職員に対する一方的で作為的な虚構の当てつけだ。それをもって施設内を疑心暗鬼に陥らせようとする怪文書、つまりは脅迫文書だった。
何でアイツはこれを──
責めるつもりはないが、やはり悔しい。打ちひしがれる一方で、それと同時に何かが込み上げて来るのを、ギリギリで歯を食いしばって止める真琴だ。自分に向けられた悪意なら慣れたものだが、大切な人に対するそれは我慢ならない。そんな抑え切れない感情が、
「く」
と、喉から少し漏れ出てしまった。それを察した武智が、
「この様な形でお伝えするのは、私としましても不本意なのですが──」
顧問弁護士の山下に確認した結果、中々巧妙な手口で捨ておけないと判断した、と言う。
「そのよう、ですね」
真琴は怒りで震える手をどうにか抑えつけながら、二枚の素気ない紙を封筒に戻すと、それを静かに置き直した。握り潰さなかったのは、それが証拠資料と成り得るからだ。そうでなければ感情任せに、バリバリに破いて捨てた事だろう。
こうした内容による信書での「揺さぶり」は、生命身体に対する危害目的が明らかであれば、それをもって脅迫罪、侮辱する内容であれば侮辱罪となり得る。それが法人や組織に送られたのであれば、それをもって威力業務妨害や偽計業務妨害を論ずる事も出来る。が、先生に宛てられた内容では難しい。内容は褒めるものであって表面的に悪意がないし、送り主を特定したところで「勘違いだった」と言い逃れされてしまえばそれまでだ。が、こうした内容の文面は、わざわざ送りつける事自体が「不安」をあおるとも「つき纏い」と捉える事も出来る。これらに対する根拠は、各都道府県が制定する迷惑防止条例や、軽犯罪法、ストーカー規制法等だが、やはりそれらにしても、一見して悪意が見えないものでは、今一つ押しが弱い。つまり、この文面だけではどうしようにもなく、相手方を捕まえるネタは、その他の証拠が必須と言っているようなものだった。
状況的に高千穂は黒だろう。が、高千穂を引っ張り出すには、まずこの柔な怪文書の送り主を特定しない事にはどうしようにもない。が、それは素人には、どう考えてもハードルが高い。警察に訴えたとしても、高千穂が操っているのだから、受けつけるだけの格好になるのは言うに及ばない。様々な法や手続きを上手くすり抜ける手口・構図こそが、明らかに実情に詳しい者の介在を意味しているというものだ。が、それが分かったところで結局どうにもならない現実を突きつけられる事の無力感。
「山下の言うところでは、警察に相談しても無駄だと」
「そうでしょうね」
真琴は険しい表情のまま、小さく答えるのがやっとだった。
「これだけなら、まだよかったのですが──」
「え?」
他にも何か、と言う言葉は、もう声にならない。
「警察がつけ回す前には、柄の悪い者達の出入りや、銃声らしきものも聞こえた、という噂もありまして」
真琴はついに、片手を目頭に当て口を歪めてしまった。
──最悪だわ。
恐れていた事が現実になってしまっている。問題を先延ばしにし続け、その場限りを面白おかしく過ごして来たツケだ。それが見事に、この状況に集約されてしまっている。それは先月からの高千穂絡みもそうだし、突き詰めれば、何十年来の母親との確執もそうだ。真琴が起因となっているいざこざに、物の見事に一庶民の先生を巻き込んでしまった構図とその罪深さ。
こうなってしまっては──
何よりもまずは謝罪だ。が、目頭が濡れて手が離せない。自分の体裁を気にする事など許される状況ではない事は分かっている。が、何かを口にしようものなら、自分の浅はかさを憎む余り何を口走るか分かったものではない。やむなく、目頭を押さえたまま、
「申し訳、ございません」
と、無礼を承知で差し当たりの謝罪を述べた。それでも、情けない程に声が震える。が、
「ああ! そう言う事ではないのです!」
と、武智が一言で深刻さを取っ払った。思いがけずグズつく真琴に、武智の方がより動揺したようだ。その動揺を乗せた口が、
「私共は謝罪を求めている訳ではありません──」
少なくとも不破は、そんな事露程も考えてはいない、と言う。
「え?」
「年寄りの心配性は自己認識しているつもりなのですが──」
と、武智の声色が急に明るくなる。それがまた我ながら、
──情けない。
叱責する相手が女で、それが泣き崩れていたら。叱る側の男は大抵、色々と弱いし難しいし参るだろう。それは真琴が忌み嫌っていた構図だ。が、物の見事に、それにはまっていた事に今更気づく。
それに──
甘えてはいけない。
「本当に、申し訳ございません!」
真琴は形振り構わず、グズグズの顔を晒して武智に土下座をした。それを受けた武智が更に狼狽する。
「そ、速達でご連絡してまでお呼びした本当の理由は、実はあなた様が心配になったからです」
「私が、ですか?」
思わず顔を上げると、それを見る事を憚るような武智が、慌てて目を逸らした。
「ええ。不破はあれで、中々の男ですから。実はこうしたいざこざに関しては、全く心配していません」
と言うと、最後に白状する。
「いやぁ、あなた様は本当に。どんな形も絵になりますな」
ジジイめには毒です、と武智が笑った。
同日午後五時過ぎ。
真琴は武智に連れられて、先生が勤める施設の理事長室を訪ねていた。折角、この山奥まで変装までして出直して来たのだから、
「ついでに施設を見て行かれませんか?」
と、誘われたためだ。先生の事で引け目があったが、同時にその勤め先も気になっていた真琴は断れなかった。が、今更だが、施設見学をするにしても、到底相応しくない派手な身形で来てしまった事を小さく後悔する。
「ご愛嬌ですよ」
真琴の勘違いでなければ、今晩は先生が宿直に就く日だ。恐らく今頃は、山小屋から施設へ向けて歩いている事だろう。
「弊施設がお世話になっている慈善団体の方、という体裁で行きましょう」
「しかし、それにしては格好が派手過ぎるかと」
とにかくそこを気にする真琴は、要するに今更、己の突飛さが恥ずかしい。
「慈善団体の方々でも、身形の良い方は多いですよ」
もっともあなた様程の方は見た事がありませんが、と言われると、もう何も言えなくなってしまった。これ以上は、嫌味に聞こえてしまいそうだ。
「ですから、本の少しだけ偽装致しましょう」
「は、はあ」
武智の前では、真琴もすっかり普段の先生のようなキレの悪さだ。サングラスは先天性の羞明、マスクは感冒対策。極めつけは、
「ろうあ者という事で」
つまり、耳が不自由になり、それにより声を失った、という設定。社会福祉法人の理事長にあるまじき、あざとさのようなものを感じるのは気のせいだろう。
「あくまでも設定です」
と言い切る武智に、それらの症状に苦しむ人々に理解がないとは思えない。事実、一応視察の手前、法人や施設の概要の説明を受けた真琴の印象として、介護施設を始め、母子施設、障害者施設等数々の福祉施設は、どれもこれも中々行き届いていた。実際に真琴は、慈善団体の会員だ。内情は理解している。
驚いたのは、武智の法人は施設の充実を図るあまり、殆ど赤字経営だった事だ。それは別に珍しい事ではなく、積極的な寄付を募る事もなければ、他の事業で釣り合いを取っているという。問題はその中身だ。文字通りの帳尻合わせ的に突然黒字化する帳簿は、最後の最後で個人的な寄贈により大逆転している。
「これはひょっとして──?」
「土地の方々に対する恩返しのつもりです」
細やかながら、というその他の事業というか、個人の寄贈というのが、武智家の個人的な投資によるものだったのだ。
「高坂家程ではありませんが、私共もそれなりに時代の波に揉まれて来ましたので──」
錬金術には覚えがあるとか何とか。只の好々爺ではない一面がまた一つ、といったところだろう。
そんな調子で施設を整えていれば、職員の待遇も中々で、報酬は業界内の水準など比にならなかった。が、その一方で、職員としての在り方には、それなりにやかましいと言う。
「自己を律する事の出来ない者が、他者を思いやる事など出来ませんから」
真琴は、右手の人差し指を右こめかみ辺りに一度当てた後、両掌を胸の前で上に向け、人差し指と親指を二回摘む仕種をして見せた。手話で意味するところの「同感」だ。これも設定上の事だが、真琴は実際に手話が使えた。
これ程の変装と偽装に事実を加味していれば、先生に気づかれる事もないだろう。ついでにその仕事中の顔を
「──見て行かれては?」
と勧められるそれは、要するに全て、先生の仕事振りを見るためのお忍び視察だった。
何でこんな事に、
──なっちゃったのかしら?
真琴の前でもそうだが、武智によると先生は、仕事振りも全く変化はないらしい。いざとなると急に肝が太くなる先生の姿は、真琴も何度か目の当たりにしている事ではある。が、それにしても、
銃声は流石に──
捨て置けない。ズバリ、高千穂絡みの反社勢力による一悶着だろう。が、武智によるとそれらは、警察が積極的に先生につき纏うようになってからというもの、入れ替わるように姿を消したらしい。それを武智は、
「不破の仕業でしょう」
と、呆気らかんと言ったものだった。つまり、
──あの先生が?
裏社会の人間を黙らせた、とか言う事のようだ。が、それならそれで、
アイツは一体──?
どういう人間なのか。
確かに花火大会の時にも、真琴はそれに接している。が、具体的にどうやってあの局面を切り抜けたのか。真琴は詳細を知らないし、先生も教えてくれなかった。結果として分かっている事は、獣のように猛る男二人の記憶を消した、という事ぐらいだ。普段フニャフニャしている
──あの男が?
いくら急に肝が太くなる性質を持っているとは言え、贔屓目に見ても、その何かの技のようなものは普通ではない。
武智は、不思議そうな顔をする真琴に差し当たり、
「私なら、あれは敵に回したくはありません」
とだけ言った。素性を語っては二人に水を差す、とも。
「ああ見えて、あれは虎ですから」
と、一言だけ添える。その瞬間で、堪え切れない真琴が、
「フフ」
と、小さく噴き出した。
「──あ、いえ」
先生と出会った頃、
「男はみんな虎狼の輩だと、説諭された事がありまして」
あのボンヤリした男にそれを言われたところで、
「説得力に乏しくて──」
とは、これでも言葉を選んだ真琴だが、今はそうは思わない。薄々感じていた事だ。
「それを言うなら、あれ程の虎は──」
中々いない、と重ねて言い切る武智に、真琴はまた「同感」の意を示した。争いを好まず、普段は平和主義的。だが、不正な侵害が及ぶと、大胆にもそれを相手の土俵で覆すような不敵さがある男。だからこそ武智も、先生が助けを求めない限り、今回の騒動も静観している、と言う。
「それよりも、心配だったのはあなた様でして──」
この状況の外で、悪化する事情を知らずにいる真琴が気になったらしい。
「不破の周りでさえこの状況です。あなた様の方こそ裏で何をされているか──」
最悪を考慮した結果があの速達、との事だった。
真琴自身、身の回りに感じる異変は今のところない。が、それは見た目の話だ。武智が言う通り、裏では何をされているか分かったものではない。
「少し探ってみます」
「それがよろしいでしょう。それこそ薔薇の棘ではありませんが──」
見せておかれた方が、と、朗らかに頷く武智は、一方で不敵な図太さを見せる。
何処かしら──
先生に似ている武智が、その親代わりである事を疑った事はない。が、そんな気質がそれを裏づけるかのようだ。
確かにこれでは──
心配されて当然かも知れない。先生を心配していた真琴だが、一方で、自分の周辺に対する注意は散漫だった訳だ。返す返すも自分の迂闊さ。それを飲み込むために、とりあえず出されたお茶を啜る。
「お恥ずかしい限りですが、そろそろ中をご案内致しましょう」
腰を上げる武智が、
「視察の手前、宿直業務だけを見ていただく訳にはいきませんし」
と、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
これは中々──
恥ずかしい。どうやらすっかり何かを見透かされてる真琴は、うなだれながらもまた手話で「同感」の意を示した。
施設の中は、何処もかしこも行き届いていた。築三〇年と言うから、それなりに使い込まれていて決して新しくはない。が、製造業界ではよく言われる【5S】が励行されている事が一目瞭然で、綺麗にして整っている。使い込まれた末に生まれる
「風合いがあって、いいですね」
「分かりますか?」
それは運営サイドの真摯さと暖かみが為せる技だ。過去から現在に至る歴々の職員の、手仕事の確かさと大きさだろう。ここで驚いたのは、それを担う職員の殆どが非正規職員ではない事だった。ありがちな外注や派遣の形態を採用せず、運営上の管理は各職員が責任を持つ。手に負えない事物だけ他の人手を頼むスタンスだ。
「人任せにしない心がけが、馴れ合いもたれ合いを防ぐようです」
と、人ごとのように言う武智は、その頂点にしてその支柱。どうやらそこに、一つの精神があるらしい。
更に驚いたのは、施設生活の中心となる食事と入浴、更にはそれらを含めた日課時限だ。例えば今はちょうど夕食時で、そのテーブルに並んでいるのは、どう見ても陶器の器ばかり。
──え?
見慣れた者ならまずそこに目がいく、その違和感だ。
「プラスチックの食器は使いません」
驚く真琴の横で、武智が先回りした。
「普通のご家庭では、それを使う事は殆どない筈です」
確かに一般家庭では、それは幼児向けだ。言われてみれば、軽くて丈夫なプラスチック容器は、施設の象徴かも知れない。
もっと驚いたのは、提供されている食事の内容だった。盛りつけられているそれは、
どう見ても──
洒落た西洋料理仕立てだ。
「これで酒でもあれば、ちょっとしたコース料理に見えない事もないでしょう?」
「十分見えますよ」
それを当然、介護度の高い高齢者向けに食べやすくしている訳で、その手間暇は大変だろう。
「世の中には、物好きがいるもので──」
何でも、長年仏国で活躍したシェフ上がりの厨房職員がいるらしい。今日はたまたま洋食仕立てで、日によって当然和食もあれば中華もある、とか。
「好き好きに作ってくれますよ」
法人内の管理栄養士と共に、法人内の全施設の献立を
「──牛耳られてましてね」
当然、食費のやり繰りが大変らしい。後で覗いた厨房で、シェフ本人から転職動機を聞いたところ、医療介護に繋がる食の奥深さの追求、
「──とは、まぁ建前で」
日本に帰りたくなったタイミングで、たまたま武智から、調理師業界に比べ断然整った労働環境と福利厚生をチラつかされたらしい。
「当然、手抜きはしませんよ」
と語ったそのシェフが在籍していた店が、何と世界的なグルメガイドの常連だった事はまた別の話。そんな職人の引き抜き以前に、
──どうやって知り合ったの?
そんな山奥の施設にして法人だ。
「まぁそこは」
と武智に濁されたが、一般家庭を凌駕する食事が提供されれば、入所者は喜ぶだろう。
「医食同源ですから」
それは言う程簡単ではないのだが、それを高いレベルで実践しているこの施設は、その一事だけで既に国内指折りの施設と言っていい。
驚いたのも束の間。次に案内された風呂は、
「温泉です」
と、武智が、またあっさり言った。
そういえば──
先生の山小屋も温泉だ。やはり源泉も同じらしく、施設の裏山から引いているらしい。
「私共の山ですので──」
因みに近辺の山は、殆ど全て武智家の私有林だという事実はまた別の話。
──林業やってたのよね。
山小屋の大家さんが、それを営んでいたと教えてくれたのは、出会った頃の先生だ。
その温泉は、介護施設であるため入浴をサポートする機材こそ散見されるが、それでも一般的な施設とは比べ物にならない程すっきりしている。それどころか、温泉宿のようなあつらえだ。
「入浴は湯治場感覚でやってます」
入所時は車椅子を使っていた人が、歩行器で歩けるようになったり、歩行器だった人が杖になったり。介護度が下がるケースが多いという。因みにいつでも入浴出来るらしい。まさに温泉宿だ。
「特養にしろ老健にしろ、農園じゃございませんので──」
と言う武智のそれは、この業界に対する痛烈な皮肉だった。特養は【特別養護老人ホーム】、老健は【介護老人保健施設】の事で、両者の違いは利用目的にある。前者は終身利用を前提とし、利用者の介護度も高い。一方で後者は、リハビリを行いながら退所・復帰を目指す一時利用のための施設。その両施設でよく見る光景が【農園】スタイルだ。利用者を畑の作物の如く、栄養と健康を徹底管理するだけの施設になり下がる。
「死ぬのを待つ所ではない。生きるための施設です」
と言ってくれるものの、そこが非常に難しい。大抵の施設は建前こそ後者だが、本音は前者だ。そうした雰囲気は、日課時限を見れば分かる。大抵の施設はそれがきっちり決まっていて、一律平等で一元管理されているものだ。
──けど?
施設内に漂う不思議な高揚感。例えば夕食後などは、後は寝るだけという施設ばかり見て来た真琴だ。が、その耳に何やら
「楽しそうな、声が──?」
聞こえてくるそれは、幻聴ではない。
「行ってみますか?」
と、笑みを浮かべる武智に案内されると、広い寄り合いスペースで入所者がテレビを見ていた。それはたまに見かける、珍しくない光景だ。が、それは本の一部で、驚くのはそれ以外。
──マ、マージャンに、花札!?
等のボードゲームやカードゲーム、所謂一般的なテレビゲームまで楽しんでいる入居者がいるではないか。しかもその中に子供が混ざっている、
と言うか──
入り乱れている。それに限らず、よく見ると四肢が不自由な人、認知機能に衰えがある人、酸素を吸入している人、知的障害を持っている人等々。どうやら施設の垣根のようなものが、この場にはない。
「えっ? ええっ!?」
驚いた真琴が、つい声を上げた。ろうあ者の設定を思い出して、無様にも慌てて手で口を塞ぐ、それ程の衝撃だ。
「こ、ここって何です?」
「各施設の真ん中なんですよ」
何と特養、老健に限らず、母子施設や障害者施設とも棟続きで行き来出来るようにしている、その真ん中のスペースらしい。
「大所帯ですね、これは」
「ええ、いつも大変な賑わいですよ」
それは分かるが、
「色々と問題が──」
あるような、ないような。起きるような、起きたら大変なような。そんな真琴の渦巻き思考を、武智が一言でひっくり返してくれた。何か起これば
「──私が責任をとるだけの事ですよ」
それに重大な問題が起きた事はないらしい。
「おっしゃりたい事は分かります」
が、管理と干渉は違う、と言う。それがこの光景で、
「見ていて何かを期待したくなるでしょう?」
と言われて気づく、一種の共生型のコミュニティーだ。確かにお互いをよく知る良い場だろう。この場にいる全員の、刺激と想像力が増す事だろう。それは分かる。
分かるんだけど──
これを地で実行している事の凄さだ。
「理念や建前なんて、どうでもいいんです」
いいと思った事はやる。
「あくまでも施設という体裁こそありますが──」
利用者にとっては生活の場であり、
「──家ですからね」
普通の家庭に日課時限などないのだから、ここにもそんなものはない、と言う。
「──斬新です」
「その分、職員には色々と苦労をかけているようですね」
と、人ごとの武智が、
「まぁ、私の法人ですから」
と、言い切る事の据わり様だ。
「思いついたらやってみて。良いものを残して。只その繰り返しです」
「それはそうですが──」
当たり前を当たり前に突き進む事の難しさは、何も福祉業界に限らない。真琴が七転八倒している仕事向きの事もまさにそうだ。要するにこの施設は、武智の器の大きさを表していると言える。
「償いのようなものなのです」
一族がこの地で、長き年月に渡り君臨して来た。その年月とはつまり、主として搾取し続けた年月だ。その極僅かばかりの
「還元なのです」
と言う武智の顔が、少し曇った。
いつまでもこの地に居座り、寄生し続ける井の中の蛙。しかし、それを捨て去る事が出来ない一族の歴史と伝統の束縛は、少なからず真琴にも覚えのある無念だ。
「お察し、致します」
本当に、意外な所に人物はいるものだ。真琴は改めて、この僻地での出会いに感謝した。そんな真琴の迷いを察したような武智が、また少し胸襟を開く。
「思うように生きれば良いのです。自分が納得出来れば、それで良い」
何をやっても、良くも悪くも注目を集める御大尽。それは武智にも真琴にも共通する、捨て去り難い名家の業だ。その一方で武智は、今でこそそれなりの人格を帯びているが、
「誰しも若い頃というのは、良くも悪くも色々あるもので──」
とても口に出来るものではないので、と口を濁す。
「そうなのですか?」
「ええ」
お恥ずかしながら、と照れを隠す武智が、その後ろ頭を何度か軽く叩いて見せた。その叩く手が、手刀だ。それなりに波乱はあった、という事らしい。
「ただ私は、後悔だけはしたくなかった。本当にそれだけでして」
ハハハ、と乾いた笑いを浮かべると、
「人間なんて、失敗ばかりする生き物ですからね──」
後悔の仕方が大事なのだ、とかで、気がつくと、何だか励まされている。
「──はい」
何の因果が思いがけぬ果実をもたらすものか。本当に
──分からないものね。
と、この偶然の産物にまた感謝する真琴が、
──あ。
と、小さく息を飲んだ。
もしかして──
今日の事は全て、武智に仕組まれたのではないか。真琴を心配する向きの武智の言っている事が事実なら、似た様な懊悩を抱える者として、この状況はその一端を、
教示しようと──?
したとか、言えたりしないか。
「どうかされましたか?」
思いを巡らす真琴の様子を察したような武智の声は、いつも柔らかい。
「いえ」
為るようにしか為らない、と言ったその人の施設は、達観どころかむしろその逆だ。その野心的な雰囲気は、逆に百折不撓めいた突貫力すら覚える。
「為す者は常に成り、行く者は常に至る、とも申します」
「そう、でしたね」
先程案内された理事長室に掲げられていたりしたその原文は、古代中国が誇る名相の名言だ。
「虚から実を引くですね、まさに」
それを思い出した真琴は、密かに消沈した。何と言う鈍さだ。
「私はそうやって、何度も失敗してきた口ですから」
演説会の時にも説諭されたその格言を、この施設は地で行っている。今更ながら恐れ入る、その説得力。
良い人を──
親代わりに持っているものだ。未だ先生の事を詳しく知らない真琴だが、この時ばかりは少し羨ましく思う。
「恐れ入ります」
自分など偉そうなばかりで、何の結果も残せていない。
「空回りばかりの私としましては──」
本当に身に染みる。
「ご心配には及びません」
それはこのジジイめも同じだ、と無邪気に笑う武智に、何処か救われる単純な自分がまた情けない。
「この老骨の無茶は、職員にとっては悩みの種でしょうね」
と、矛先を職員に向けると、少し意地悪そうに笑って見せた。が、その武智の無念を内包した施設の試みの果実は、間違いなく職員にももたらされている。低賃金の不規則労働でストレスフルというこの業界において、現場の大抵は欠員塗れだ。その現実の中で、武智の施設の職員数は明らかに多い上に厚遇。待遇が良いのだから、それに見合ったより高いレベルの仕事を要求して何が悪い。
「そこで文句は言わせませんよ」
と、武智は嘯く。
入居者を主眼に進められる数々の試み。それはより一般的に、「寄り添う」との看板文句に置き換えられ、その提供レベルの高さに比例して増大するのは、言うまでもなく職員負担だ。不満の一つや二つ隠し持っているだろう職員達を、
どうやって──?
前向きに妥協させているのか。理想でメシが食えれば何処もかしこもそうなっている。が、そうではない現実は、人が現金である事の証左だ。綺麗事でメシは食えない。つまり、アメとムチの使い分けで、待遇の良さはその一つ。
ここに限って──
それだけではないような気がする訳は、先程来目の前で明らかにされている。
「職員の皆さんは、ひょっとして──?」
私服だ。と言うのも、周囲をてきぱき動き回っている数々の様々な服を着た人々は、どう見ても利用者ではない。大抵は法人指定のユニホームを着ているものだが、
「自宅でユニホームは着ないでしょう?」
そんなところも既成概念に囚われないその施設では、着衣は個々の職員の良識に任せるという預け振りだ。
「夏などは、皆開放的と言っていいでしょうね」
その代わり、やるべき事はやってもらう。そこはブレない。これに限らず、決まり事は全て就業規則で定めており、それ以外の事は、
「──自由裁量を認めています」
と言い切る武智は、明らかに少数派の経営者だろう。労使の関係性を目に見える形できちんと定め、双方が純粋にそれを履行する姿勢は言う程簡単ではない。言葉の一人歩きや美辞麗句を並べるばかりの企業が少なくない中、その組織力の高さという事だ。
「勉強になります」
「吹けば飛ぶような、零細企業の事でございますから」
参考にもなりません、と言うが、厳冬期を控えているというのに、アロハシャツでハーフパンツの開放的な職員の姿が目に入る。空調が整っている施設内は、動き回る職員にとって暑いのだろう。
そんな職員と共に、シェアハウス感覚の施設中を縦横無尽にウロついているのが、母子施設の子供達だ。
「分け隔てるのは、嫌いなものですから」
各施設の垣根もなければ出入りも制限していないらしい。その小さな好奇心が、それこそ様々な既成概念をことごとく打ち破ってくれるとかで、
「彼らは宝ですよ」
と笑う武智は、
ホント──
年若で柔軟だ。
「母子施設には、学校の子供達も遊び来ますので──」
殆ど児童館化しているらしい。事実、介護施設に児童館が併設されている事例は、全国でもそれなりに存在する。要するに異世代交流がもたらす、ポジティブな変化を期待しての事だ。それはつい先程、施設の真ん中で見た通りなのだが、
「実は、あそこにいた子供達は、殆ど入所者じゃないんですよ」
「そうなんですか?」
「入所中の子供達には──」
日課時限があるらしい。
「え?」
それはないと聞いたばかりだったが、
「宿題をせずに、遊び呆けるものですから」
という事で、入所中の子供達に限っては、遊んでもよい条件の一つに「宿題を済ませる」という大前提にして、彼らにしてみれば大問題が存在するらしい。
「要するに──」
日課時限は、宿題の時間と言い換える事が出来るそうだったが、それにしては、次に案内された母子施設は妙に静まり返っていた。
「お母様方は、まだお仕事中ですよね」
と言ってはみたが、子供達はとっくに下校していていい時間だ。が、施設の真ん中で遊んでいるのが入所中の子供でなければ、今住んでいる家にもいない。
となると──
また何かあるのか、と俄かに思案を巡らす真琴の横で、
「──仕方のないヤツらじゃ」
と、武智が盛大に嘆息した。
小言のようなそれば、どうやら思い当たる節があるらしい。そのまま法人本部や付属施設など、全ての施設の入口を兼ねる正面玄関まで戻った。
「見学は以上なんですが──」
と言う目が、こっそりある一点に向けられる。玄関ロビーは三方向に廊下が延びており、理事長室は正面を進んだ所にあった事を覚えている真琴だ。左右の一方には事務室。もう一方は、受付めいた小部屋だ。が、何やらそこに、見た目にそぐわない
──人の気配?
のようなものが満ち満ちている。
と言うか──
きっちり閉められた扉や窓の内側から聞こえてくる音は、明らかに室外の気配を気にして息を潜めている様相だ。施設に来た時には気にも留めなかった、そこの片開きドアを、武智が矢庭に開け放つと、
「こりゃあ! 宿題の時間じゃろうが!」
と怒鳴り散らした。改めて中を見ると、小学校の低学年から高学年ぐらいまでの十数人が、六畳一間の狭い和室で、おもちゃに塗れている。その中の一人が、
「理事長先生じゃ!」
と、飛び出したかと思うと、文字通りの蜘蛛の子を散らす勢いで、室内がもぬけの殻だ。
「──お見苦しいところをお見せ致しました」
「いえ──」
何かのアニメ映画で見た、
「──まっくろ○ろすけみたいですね」
そんな憎めない愛くるしさに、つい噴き出すと共に何処かホッとさせられる。
「子供達には、ある程度の社会性を身につけさせるためにも、日課時限を守らせるようにしておるのですが──」
只押しつけるのではなく、人材豊富な職員の中には元教員や元塾講師等もいるとかで、少なくとも宿題の面倒をバックアップする体制は充実しているそうだったが、
「二日に一度は、いつもこのザマでして」
困っているらしい。
二日に一度──?
それを耳にした真琴の心臓が跳ねた。それを裏づけるように、まっく○くろすけ達がいなくなった室内に、取り残された人影が一つ。それに向けて武智が、
「アンタも何とか言いんさい」
と軽く叱責するその人は、紛れもない先生だった。子供に纏わりつかれて
埋もれてたって──
どれ程じゃれつかれていたのか。以前それに困っている
──とか言ってたっけ。
そんな事まで裏づけてくれた格好だ。
「いやぁ面目ありません」
如何にもうだつが上がらない調子は、こんな所でも変わらないらしい。のんびり頭を掻きむしりながら、
「お陰様で憑き物がとれました」
などと、肩や首の凝りをほぐすついでで、その目がようやく真琴を見る。
「あっ──」
と、一瞬驚いた顔を見せた先生だったが、どうやら気づいた様子はない。
「ご来客でしたか。これは失礼致しました」
慌てて頭を下げる抜け作振りは、テキパキ動き回っている職員達の只中で、唯一のご愛嬌とも言うべき隙だらけの異質だ。
──相変わらずねぇ。
密かに呆れる真琴は、それでいてこの男の本質が別にある事を掴みかけている。
「ああ、視察でいらっしゃった慈善団体の方で──」
と、武智が手話で先生に伝えると、先生は真琴に向かって、肩の高さで両掌を見せた。
──ん?
いきなり降参かと思ったのも束の間、先生は続いてそれぞれの掌を交差させるように宙で弧を描き、その後で人差し指を立てた両手を、やはり肩の高さで向かい合わせて第二関節を折り曲げて見せた。
──あっ!
と、危うく声を上げかけた真琴がどうにかそれを飲み込み、武智の設定を維持する。驚く真琴をよそに、先生は最後に会釈した。緩慢でゆったりとしたその手話は、夕方以降の挨拶を意味するのだが、いつもの先生の、気の抜けたような声が聞こえてくるかのようだ。
「弊施設の宿直専門職員でして。一応彼も手話が使えます」
驚いて偽装を忘れかけた真琴を察したらしい武智が、上手く間に入った。それで我に返った真琴が、慌てて会釈を返す。
ちょっと──
手話が使えるとか、
──聞いてないんだけど!?
と、密かに驚きの連続の真琴の前で、
「──以上が弊施設の概要になります」
と、武智はいきなり状況を畳み始めた。宿直室の案内を最後に、建前の視察はもう終わりにするらしい。すると続け様の武智が、詫びを入れながらそそくさと携帯を取り出した。それが演技なのか本物の電話なのか知らないが、
「申し訳ありません──」
急用が入った旨で、先生に真琴のタクシー手配を指示すると、何と武智はいともあっさりその場を立ち去って
──しまわれる、とか?
それはいくら何でも、あからさまに畳み過ぎではないのか。そんな急展開で呆然とそれを見送る真琴に、一緒に取り残された先生がフラフラと、真琴の目線に片手を泳がせて来る。外ならぬ、手話で相手の注意を引く時の仕種だ。
「お見苦しいところをお見せしまして──」
と、武智をなぞるように、愛想よく謝罪する先生が、まずは玄関ロビーにある応接ソファーを勧めてくれた。緩慢な動きながら、確かな手話だ。真琴がそれに応じて座ると、次に宿直室内の電話でタクシーの手配を始める。
折角見に来たのに──
大した仕事振りも見ぬまま、タクシーが来れば退散とは。
これはこれで──
何だか惜しいような気がしないでもない。仕事中の先生を見る機会など、中々ないのだ。
と言っても──
子供達にじゃれつかれていても成立するような仕事とは、一体、
──ホント仕事中に何やってるのかしら?
ついそんなところを詳しく聞きたくなる、そんな中。
──あら?
先程のまっくろくろ○けの一人が、抜き足差し足で宿直室に戻って来るではないか。鬼が引っ込んだ事を確かめるそれは、どうやら斥候だ。
何か──
安っぽいコントでも見るようなコミカルさが微笑ましい。先生が電話を終える頃には、結局元の木阿弥になってしまう機敏さは、どうやら毎度のイタチの何とかなのだろう。
「お前らまた──!」
と、先生が叱りつけるも、多勢に無勢で全く言う事を聞かない。それどころか、
「裁判所饅頭まだ食っとらんけえ」
などと、部屋の中に入るなり、聞き慣れない和菓子を囲んでいるらしい。
今時の子が──?
得体の知れない饅頭目当てなのか。気になった真琴が、子供達の邪魔をしないよう、それこそ抜き足差し足で宿直室に近づいてみたところ、受付カウンター越しに見えた室内はおもちゃの山だった。ぬいぐるみ、人形、模型、ままごと、ブロック、パズル、カード等々。極めつけは、宿直室のテレビでゲームをしている子までいる。どうやらそこは、宿題をやらずに遊ぶための避難場所のようだ。
「あーもう、落ち着かねーなー」
などと愚痴る先生が、覗き込んでいる真琴の姿に気づくと、
「一〇分程度で来ますから」
と、手を動かした。
"ありがとう"
"どういたしまして"
そんなたあいもない手話を交わすだけで、
ドキドキするとか──。
視覚的に言語化するそれで見ているのは、何も手の振りだけではないという事だ。そういえば話をする時、ろくに相手を見ていない自分を今更思い出す真琴に、今の先生との手話は、色々と思いが溢れそうになる。
そんな真琴をよそに先生は、子供達の喧騒の中で、宿直室内の座卓に載せたおもちゃの数々を前に何やらしかめっ面だ。よく見ると、どうやら座卓上にあるおもちゃは、何処かしら故障しているようで、先生はそれを修理している。真琴のその視線にまた気づいた先生が、
「一つ直してやったらこの有様でして──」
と苦笑いした。ここの宿直員は、平時では見回りと留守番ぐらいしか仕事がないらしい。それを見かけたある子が、
「暇ならおもちゃ直してよ」
と声をかけて来て、たまたまそれが上手く修理出来てしまったのが不幸の始まり、とか。
「おもちゃの修理なんて、した事なかったんですが──」
今ではすっかり経験値が上がり、
「──大抵の物は直せるようになりまして」
と、また先生が苦笑いする。
──通りで。
射的のおもちゃの銃やコルクの弾を見る目が、玄人めいている訳だ。小さな子供達に頼られるのは満更でもないのだろうが、玄関ロビーを挟んだ向こう側には職員の事務室がある。余り騒いでいると同僚の目が痛いだろう。
それにしても──
よく懐かれている。一見ギャアギャア言い合っているようだが、深刻さはなく何処か微笑ましい。その寛容さが如何にも先生らしく、真琴は勝手に噴き出しそうになった。その中には、盆踊りの時の【ケンタ】や【ショウタ】が当たり前のようにいて、被害品となった野球盤や、その見返りで先生がせしめたすごろくもある。そんな思い出から三か月だ。
何だか──
遠い過去のようで、つい先日のような、不思議な感覚。季節はすっかり寒々しく
──なったのに。
二人は相変わらず、先生と仮名のままだ。その立ち位置の変わらなさが、時間軸を狂わせている。
ホント──
鈍い男だ。どうやら先生は、真琴の変装に気づいていない。それがもどかしくてイライラする。
いい加減──
名乗りたい。秘密を抱える事に飽きたというより疲れてしまった。自分を明かせない事の辛さの予想外。それと合わせて、明かす事を想像するだけで押し寄せる恐怖にも似た感情と、その後突きつけられるであろう、受け止めてもらえない事の絶望感の半端なさだ。
さっきから私──
宿直室を覗いていると、何やらモヤモヤと只ならぬ感情が湧いてくる。動揺した真琴は、ロビーのソファーに退いた。
苗字を知ってしまうと、今度は名前が知りたくなる。
──マズいな。
それまでは平気だったのに、一つ知ってしまうとその欲求が抑えられなくなる。
大体アイツは──
ニブ過ぎるのだ。真琴のようなちょっと調べれば分かるような人間の事を、いつまでも放置し続けている。
気づかないのか、気にならないのか。そもそも気にするような相手と思っていないのか。
──マズい。
抑えが利かなくなる。
──こんなの子供だ。
ついさっきまで噴き出しそうになっていた自分が、今度はサングラスの中で密かに目を潤ませている。もう傍にいるだけでは、
──物足りない。
気がつくと、目の前で人差し指を立てた先生の右手が揺れていた。タクシーが着いた事を知らせる手だ。
──見られた!?
我に返った真琴が不用意に立ち上がると、足を踏み出す間もなくいきなりフラついた。晩秋の早い夕暮れ。室内で不慣れなサングラス。日頃着なれないタイトニットのロングワンピース。止めが密かに泣いていて、周りなどろくに見えていない真琴だ。
──あっ!
と、声にならない声と共に足がもつれ、予想外に平衡感覚がついてこない。と、それを
「おっと」
と、先生があっさり受け止めた。普段のボンヤリした緩慢さの中に、深刻さを伴わない意外な身軽さは、施設職員らしく入居者の転倒防止の素養があるという事なのか。
──違う。
一見頼りない体躯は、嬉しい誤算で受け止められると意外に逞しい。物足りないと思った矢先のそれに、没入しそうになる。
──う、うわ!
その寸前で引こうとすると、
「急に動いちゃ危ないです」
と、その華奢な腕が、また意外な力強さで真琴の両肩を離さない。
「今度は後ろのソファーに引っかかりますよ」
そう言う先生は、手話をやめている。
──バレてる。
途端に込み上げてくる恥ずかしさだ。有り得ない変装の自分に対して、相変わらずボヤけたパンのような匂いを漂わす男の、優しさのようなものが染みてくる。
「いつから気づいてたの?」
大して厚くもないその胸から顔を離す事の名残り惜しさを感じるなど。その腹いせで先生のポロシャツの胸の辺りを、しわが寄る程掴んでやる。僅かに震える声は自分のものなのか。サングラス越しの視界がボヤけるなど有り得ないにも程がある。離れないといけないのに離れたくないとか、チグハグもいいトコだ。
「そんなの──」
最初からだと、いつもののんきな声があっさり口にする。
「ウソ」
「他の目はごまかせても──」
私は騙されない、と言い切る決めつけに心が揺れる。
「何よそれ──」
何を根拠に。その答えを期待して反駁する。
こんなの──
拗らせて甘えるとか、まるで世間のツンデレのような、そんな時。
「あー! なんか抱きついてるし!」
宿直室の子供達に気づかれると、途端に始まる冷やかしの大合唱だ。
「やかましい! 違うわ! この人は目が悪いんじゃ!」
とか怒鳴り散らす先生に、とりあえずまたソファーに座らされると、
「いい加減にしとかんと、おもちゃ直してやらんで!」
とは、ここぞの殺し文句らしい。波が引くように騒がしかった子供達が、渋々宿直室を後にした。
「やれば出来るじゃない」
「ホントは怒鳴る前に気づいて欲しいんですよ」
と言いながらも、そっぽを向く真琴の手を取る先生が、
「タクシーを待たせてますので」
と誘う。ブーツを置いている土間は目と鼻の先だ。が、差し出す手に、いつもの拙さはない。
「行きましょう」
「そうね」
今の真琴は耳目が不自由な身だ。そこは職員として、あくまで介助を躊躇しないスタンスだろう。掴んでみると、やはり意外な確かさに動揺が走った。日頃弄んでいるツケだろう。
手が──
嫌に脈打つ。土間までの僅か数mが近くて遠い、恥じらいと嬉しさだ。その手が手近な椅子に座らせてくれると、ブーツまで履かせてくれる。
「何の意図か、様子を見てたんですよ」
と、ささやく男は膝を折ってしゃがんでいる。
「でも、只のお忍び視察のようだったので──」
「だから何で──」
それに気づいたのか。
ブーツを履かせてくれた先生が、最後に自分のズボンのポケットから、ハンドタオルを差し出した。
「外ならぬあなたの事ですから、って言うと生意気ですかね」
と、悪戯っぽく微笑む男が、恭しくも片膝立ちをする。今度は
まるで──
従僕のようだと思うと、真琴が我に返った。
そういう無理を──
この男に課そうとしている自分。二人の間に厳然と存在する絶望的な格差を、
私は──
この男に乗り越えさせようとしている、のか。
──危うい。
自分の願望の、何という罪作りだ。一人で勝手に盛り上がって、勝手に感極まった真琴の両頬を涙が伝う。
「粗末な物ですが、とりあえずこれで拭いときましょう」
泣く女を前に、少しは動揺していい場面で、不思議な据わり方をするこの男は逆にブレない。心を乱されたばかりのその手にハンドタオルを掴まされると、涙を認めるしかなかった。
「ホント生意気」
負け惜しみの強がりが無様だが、言い返さないどころか
「すみません」
と謝る男の優しさに、また甘える。
「ハンカチは借りとくわ」
ありがとう、と言い捨てた真琴は、そのままタクシーに乗り込むと施設を後にした。
乗り込むなり、精一杯我慢していたものが噴き出すと、
「うっ」
と、予想外の嗚咽だ。堪らずサングラスを外し、借りたばかりのハンドタオルで顔を覆うと、もう外せなくなる。
──バカね。
それなりに身形を整えた女が、ハンカチを持ち歩いていない訳がないのだ。それでも真琴は、相変わらずボヤけたパンのような匂いがするそのハンカチを、顔に押しつけ続ける。寒くなったせいだろう。夏の頃に香っていたバニラのような甘さは薄らいでいる。そんな些細な事に一抹の不安を覚える自分は、きっと感傷的になっている。一方で、それを嗅いでいると、不思議と落ち着く自分。
──ホント生意気。
澄んでいく脳内の意識の中で、真琴は決意を固める。
その夜。
自宅に戻った真琴は、実家に電話をかけた。何処にいた時もそうだったが、極々稀に実家からかかってくる事はあっても、自分からかけるなど本当に記憶がない。家政士が出ると、母を呼び出した。直接携帯にかけてもよかったが、嫌がって出ない可能性を排除出来ない。それを考慮し、わざわざ固定電話へかけた。今となっては限られた者しか知らない、名家のホットラインだ。人伝てなら、少しはその目を気にして我儘を控えるだろう。
「珍しいわね、電話なんて。何年振りかしら?」
電話向こうの母の、その鼻にかかったような声に、瞬間で嫌悪感が満たされる。それだけで電話を切りたくなったが、それでは何も始まらない。どうにか飲み込むと、
「要件だけ言うわ」
と、早速本題に入った。
「なぁに?」
小馬鹿にしたような声は絶対わざとだ。一気に喉まで罵声が迫り上がるのを、今度は深呼吸でやり過ごす。
「高千穂が私の周りで小悪さしているのを、やめさせてもらえないかしら?」
悔しいが、この母という人間は全て御見通しだ。この女を出し抜ける人間など、真琴が知る限りこの世には殆ど存在しない。本家に帰した由美子の事もある。真琴の周辺事情など丸裸だ。
「今度は婿養子になるって言うし、結構な事じゃないの」
「何を──」
訳の分からない事を。
初婚の際、真琴は高千穂性を名乗った。スケコマシが父親の地盤を継いで政界に出る事は決まっていたし、真琴は真琴で実家を継ぐ必要もなければ未練も何もなかったためだ。それが今回は、復縁に当たり高千穂が養子になる、と言う。高坂宗家の地位と名誉と財産目的であることは明白だ。
──白々しいにも程がある!
以前なら間違いなく、ここでキレていた。我慢出来たのは、ここ数か月で随分入れ込んでしまった、山奥の変わり者のボンヤリがうつったせいだろう。肝心な事を聞き出すためにも、ここは我慢だ。
「一体、どんなお土産を掴まされたのかしら?」
素行不良のスケコマシの復縁を許す上、名門高坂家の養子になる事を認めるような手土産だ。それ相当なものに違いないそれが、果たして何なのか。今の真琴には検討もつかない。
「それが分からないから、あなたは甘いの」
電話向こうで勝ち誇る母に、真琴は歯の丈夫さを感謝した。が、悔しさ余った歯ぎしりの音が漏れているのかも知れない。母は常に余裕で、憤るのはいつも真琴だ。とても聞き出せそうにない。
「──まぁいいわ。年内一杯猶予をあげるから、身の回りの事を清算しておきなさい」
年内一杯よ、と重ねて宣言した母が、そのまま電話を切った。相変わらずの傲慢さだ。脳内でその声を反芻するだけで、
「あぁ胸クソ悪い!」
などと、ここぞとばかりに悪態を吐き出す。
「年内、一杯──」
それまでに高千穂の土産の中身を調べ、その上を行くものを準備して再婚を防ぐ。そうでもしないと再婚云々言う前に、先生の身が危うい。今分かるのは、そんな状況整理程度の不甲斐なさだ。
真琴の離婚により、高坂は高千穂に一度汚名を着せられている。その二番煎じどころか、今度は養子に迎え入れるなど。
そんなの──
いくら何でも有り得ないそれを覆す高千穂の土産とは何なのか。仮にそれが分かったとしても、それを超えるような土産が用意出来るものか。
あの寄生虫のような男を──?
高坂が迎えるような土産だ。
──無理ね。
簡単に覆せるとは思えない。それなら初めから母に狙いを絞った方がいいだろう。それを思っての電話だったのだが、
私があの女を説得とか──?
それこそ有り得ない。
これでなす術なしとか──
いい年してこの程度の手管しか持ち合わせない自分に嫌気が差す。
いっその事、実家などこの世から消えて欲しいとまで思うのだが、御年八三の母は忌々しくも頗る健康体とくる。俗に言う、憎まれっ子世に憚るだ。呆れて失笑が漏れると、バカバカしくなる。が、ここで投げ出しては、今までと同じだ。
──どうする。
すぐに思いつくといえば、
逃げるか──
とかいう、分かりやすさでしかない。自分だけなら今すぐにでも、全てを捨てて逃げるぐらいの事は出来る。が、それでは残された先生が何をされるか分かったものではない。
それなら──
一緒に逃げるという選択肢もある。が、コソコソ逃げ回るような生活で、先生が寄り添ってくれるのか。少なくとも母が死ぬまでは、文字通り隠棲だ。
ってそんなの──
今の先生の生活自体が、殆ど隠棲状態である事を今更思い出す。人の事をニブいとか散々バカにしておいて、いざとなると
──私も同じね。
そんな自分も大概だ。そんな高飛車で面倒臭い女と逃げてくれるような男など
いる訳が──
ない。例え相手があの何処かしら据わったような先生であったとしても、そもそも二人は未だにお互い素性すら明かしていないのだ。考えれば考えるだけ、
──無茶な話ね。
そのおかしさに笑えてくる。
何の因果か知らないが、世が羨む名門に生まれた事を恨むだけの人生。世の妬みや僻みに悩まされ、腹を立てては逃げ回るばかりの人生。そんな因果が嫌で嫌で家を遠ざけたが、それでも最後はそんな家を捨てられない、意気地なしの人生。そんな自分に向き合わず、逃げ回ってきたツケが、
こんなところで──
またしても自分を追い詰める。それに先生を巻き込むのは、どう考えても筋違いで、虫が良過ぎるというものだ。
大体が──
自分など、もう四〇過ぎの女なのだ。後はもう、転がり落ちるように枯れて行くだけの女なのだ。
それをあの男が──?
望むだろうか。しかもおまけにバツイチ子持ちで、そんな自分の何処を誇ってどの口が、
一緒に逃げて欲しいとか──
言えたものか。
自分で勝手に巻き込んでおいて、今更自信をなくして揺らいでいる
──とか。
何もかも、据わっていない自分。そんな状況で、タイムリミットは二か月を切っている事の有り得なさ。
──絶望感しかない。
が、タイムリミットが分かっただけでも収穫だ。そう思える自分は、今までとは少し違うと思いたい。それと同時に、母の呪縛を当然のように受け入れる自分を改めて思い知る。
唯一丸く収まる道は、いつも母のシナリオだ。結局いつも敵わない。掌の上で弄ばれた挙句、最後は煮湯を飲まされる。そんな間抜けで従順な自分など、
──もう嫌だ。
真琴は居間のソファーの背もたれに身体を預け、先生のハンドタオルを顔から被った。
翌週、真琴は山小屋を訪ねなかった。
仕事をこなしながら、母や高千穂周辺を嗅ぎ回りつつ、改めて先生をどうしたいのか考えていたら、とても余裕がなくなってしまったのだ。
すると週末の夕方、初めて先生から
"今週はお越しにならないのですか?"
と、メールが届いた。
会社の自室で相変わらずの書類塗れだった真琴は、片手で目頭を押さえながら一息入れる。就業時間は仕事、就業後からが対婚工作だ。国内で下手に立ち回ったところで母の息がかかっている事は分かり切っている。どの道、アラサー時分まで日本で暗黒時代を過ごした真琴だ。国内に母を出し抜けるような人脈などない。つまり、情報収集の主戦場は必然海外。それも欧州時間での様々な人脈を活かした接触がメインだった。当然直に会う訳ではなくリモートだ。が、情報提供者達の都合に合わせて動くため、日本時間では午前様が続く。只でも日々仕事に忙殺される真琴だ。仕事の後のそれは、一週間も続けると想像以上の疲労をもたらした。しかも、全く成果が上がらないというおまけつきだ。海外の事象に気を配りつつ、海外経由で国内を探るのは無理があった。
真琴の母は、典型的な保守派の防衛族だ。よって高千穂の土産は、その方面の事で間違いない。政治権力で何かを捩じ曲げ利益を生み出す。そんな分かりやすさの筈だ。が、国防に関わる事は、基本に話が漏れにくい。国家の大事に触れるのだから、当然と言えば当然だ。それを、海外経由で迫る真琴は無謀だろう。只でさえ母は、尻尾を見せない事に関しては超一流だ。それでもネタはそれなり集まるが、どれもこれも
──パッとしない。
それならそれこそ、高千穂本人を籠絡すればいい話だ。が、妊娠中に不倫をしたような畜生を相手に、それこそ今更生理的に無理がある。結局は時間ばかりが過ぎ、何も得られない日々に焦燥するばかり。そんな中の、先生からのメールだ。単純に
──嬉しい。
別に心に響くような文言など何一つない、只の連絡文なのに、
それに──
ときめくとか。惚気も大概だろう。
とりあえず、そんな感情は押し殺して、
"今週は忙しくて"
とだけ、返信する。とにかく先生には心配をかけたくないし、今は会ってしまうと何を言い出すか分からない自分が怖い。
"分かりました。またのお越しをお待ちしております"
すぐに届いた返信は、接客用語の定型文ようで、思わず噴き出した。そんなよそよそしいメールでも、やっぱり胸が熱くなるとか、殆ど病気だ。
そんなこんなで気がつけば、一一月下旬。会社の自室から見える山は、色を失いつつあった。
──紅葉狩りに行きたかった、かな。
明けても暮れても公私に追われ、目頭を押さえる事が増えた。まだ師走前だと言うのに、忙し過ぎて笑いが出そうだ。真琴は、夕暮れ時の色褪せた山に向かって溜息を吐き出す。
次に目を開いたら、すっかり陽が落ちて真っ暗になっていた。
「──あれっ?」
慌てて時計を確かめると、終業時刻を少し過ぎている。
──い、いけない。
相変わらず仕事中は多忙を極めるが、最近は割り切って、極力定時上がりを貫いて来た真琴だ。業務量ベースでも働き方改革を考えたいところだが、それを問答無用でやってくる終業時間に阻まれる始末で、要するに仕事のための仕事など今は考える暇がない。
「専務、今日は残業されますか?」
早速秘書課の女史が、それとなく顔を覗かせた。役員に就業規則も残業もないのだが、だからと言って好き放題やっていては、大多数の一般従業員に示しがつかない。サカマテの残業は、大抵の企業の例に違わず、事前申請を要する許可制だ。
とりあえず──
端末をシャットダウンしてなくては、内部監査の時など各部署で数値化されたそれで、とにかくうるさい。
「いえ、帰ります」
言いながら真琴は、慌てて端末のマウスを動かしつつ、卓上の片づけに入った。
次に気がつくと、自宅マンションの地下駐車場入口で、シャッターが開くのを待っている。
──え?
車で帰った記憶はあるが、完全に人ごとだ。きちんと運転して帰って来たのかどうか、非常に怪しい。通勤経路は殆ど高速道路だ。余程下手を打たない限り事故など起こさないだろうが、高速を降りれば数分でも一般道を走る。そこできちんと信号を守ったのか。その自信がない。もっとも、おかしな運転をすれば優秀なナビがやかましいので、大丈夫だったのだろう。
──疲れた。
我に返った真琴は、それでもボンヤリと駐車枠へ向かい、車を止めた。そこで一息。
「フゥ──」
真琴は最近、溜息が増えた。ここ最近は、変わり映えのないプレッシャーに晒された日常の繰り返しだ。焦りが諦めになりつつある日常。ジワジワと首を絞められる感覚を、この時ばかりと思い知らされる。窒息に喘ぎ、気が遠退いて脱力する。今日の帰宅時などは、まさにそれだったのかも知れない。何れは脱力し切って失神するのか。
車庫から出て、いつも通りシャッターを閉めようとした時、内壁の一部が赤点滅している事に気づいた。
──あれ?
慌ててシャッターを途中で止めて確かめると、インターホンの留守機能だ。家政士の由美子がいた頃は、こんな事に気を配る必要などなかったが、実はこんな所にそんなものがある事を、今更ながらに思い知る。
再生すると、コンシェルジュが宅配を預かっている、との内容だった。基本的に集合ポストがないタワマンだ。外部から届く郵便物等は、まず裏口に詰めている管理会社が受け取る。それを配達要員の社員が各戸に配達。留守宅の荷物は、コンシェルジュが預かる事になっていた。が、
──宅配?
など、頼んだ覚えがない。部屋違いだろうと思いつつ、面倒を押し殺してコンシェルジュカウンターに足を向ける。
「六〇階の高坂ですが──」
宅配など覚えがない、と言いかけたところで、いきなりコンシェルジュから荷物を突きつけられた。真琴の認知度の高さ故だろうが、それにしても五号大のホールケーキが二段重ねで入っていそうな大きさだ。
「こちらでございます」
「はあ」
白いダンボールで、どうやらケーキなどではなさそうなその上面に貼りつけられた送り状は、一見してよく見かける宅配業者のそれではない。フォーマットもクソもない、
──手書き?
の送り状だ。見方によっては見れない事もないが、良く言えば味がある一方で、記載内容は素気ないと言わざるを得ない。
宛名はマンション名、部屋番号、苗字のみの記載。送り主は【峠茶屋山小屋】とあった。記事欄には、
"お忘れ物をお届けに上がりました"
との短文が一行のみ。
──怪しい。
一見して山小屋、つまり先生からの物だと容易に推測出来る。が、周辺事情がきな臭いこの頃の事だ。どの手合いの何の策なのか、分かったものではない。肝心の物品欄は
──植物?
とあった。コンシェルジュが持って来た感触を見ても、一見して軽そうだ。衝撃で何かが起こるような物でも無さそうに見える。
けど──
危険物であれば、後は開封時か時限式を警戒しておく必要があるだろう。そうでないなら嫌がらせ目的で、物自体に
メッセージを──
含ませているか。コンシェルジュも何事か怪しんだようで、不審物に対する確認を一通りやったそうだが、保管条件を逸脱するような物ではなかったようだ。で、残るは真琴の意向を確認して判断、という事らしい。
持参した人物像を確認したところ、「細面のスッキリとした男性」との事で、どうやら
──先生本人?
の、ようでもある。
とりあえず真琴は、荷物を受け取る事にした。そのまま自宅へ戻ると、とりあえず荷物を内側のベランダのテーブルの上に置く。で、
──とりあえず、とりあえず、ね。
ここで迂闊を踏めば、それこそまた先生が心配するだろう。迂闊を踏まないよう、何か起きてもすぐ行動出来るよう。自分に言い聞かせる真琴は、仕事着のまま手荷物も傍に置いて開封準備に入った。異物の飛散を考慮し、サングラスにマスク、エプロン、防寒用手袋を装着する。慎重に箱の側面に耳を近づけるが、特に中から音もなければ匂いもしない。ガムテープで隙間という隙間に封をされているため、これを上からいきなり剥がさず、まずはダンボールの上面と側面の接合部の一部を、カッターで静かに裂いた。爆弾処理など当然未経験の真琴だ。完全に見様見真似というか、慎重に事に臨んでいるだけで、恐らく専門家に言わせれば、この時点までの何処かで既に何度か爆発しているだろう。そんな稚拙さを思いながらの開封作業だ。
とりあえず──
開封時に何らかのトラップはなさそうだった。軽く隙間が開いたので、その隙間から漏れ出る空気を手で扇いで嗅いでみる。が、特に刺激は感じない。強いて言えば、品物通りの植物臭の青臭さだ。
ここまで確かめれば──
開封時に何か起きる可能性はないと判断してよいのではないか。真琴は少しずつ、上部中央のガムテープをカッターで真っ二つに切った。すると、開封方向に癖がついていたダンボールの上部が、勝手に軽く開く。それを覗いてみると、鉢に入った緑の葉の
──植物?
と、
──横封筒?
が、一つずつ。
「うーん」
何なのか。
慎重に中身を取り出してテーブルの上に置くと、箱自体に仕掛けはないようだった。植物には、緑色の細くて固そうで、
──長い葉?
が、七、八枚ついているが、花はついていない。茎高は三〇cm程度だ。
「──何だろう?」
次に、もう一つの横封筒を確かめてみると、封がされていない。今更それに何か仕掛けがあるとは思えないが、とりあえず素人装備のまま慎重に中を確かめると、手紙が一通入っていた。
"頂き物ですが、山小屋では寒過ぎるので、よろしければご笑納ください。彼岸花様をお相手に恐れ多いのですが、日頃の謝意を表して"
山小屋の仙人、とある。
「──ちょっと何よこれ!?」
途端に真琴は、全ての装備品を乱暴に取っ払った。文面は明らかに真琴と先生にしか分からない内容だ。しかも彼岸花のネタは、高千穂がウロつき始める前の二人だけの秘事だけに、それをもって警戒を全面解除する。
「もう!」
こんな時に何を。盛大に悪態を吐く真琴が、早速スマホで植物の正体を調べると、
「アングレカム──」
とあった。
アフリカ南東部及びマダガスカルで原産する、ラン科の観賞用の花だ。南半球の熱帯で咲くため寒さに弱く、開花時期も一一月から二月。つまり、基本的に日本では温室栽培。認知度は低く、国内の生花店では手に入りにくい花、とある。それを、
──頂き物?
だとか。そんな筈がない。その花の事は詳しく知らないが、原種が自生する地域は、慢性的な内戦や飢餓に晒され、花どころではない土地柄ぐらいの事は理解が及ぶ真琴だ。国内で手に入りにくいのであれば、原種など尚更だろう。生で見るのは真琴も初めてだった。
これが──
そうなのか。真琴が知るその花の事は、一一月二二日の誕生花という事ぐらいだ。日本国内では近年【いい夫婦の日】として知られ、真琴にとっては忌々しいその日が、実はこの女の誕生日だったりするのだからやり切れない。
──そうか。
それでようやく思い出す、今日その日だ。スマホの検索結果には、当然のように花言葉も載っていて、それが、
祈り──
とか、
いつまでもあなたと一緒──
とか。
「──もう!」
最近、涙脆くて仕方がない。真琴は傍に置いていたバッグの中から、慌てて先生のハンドタオルを取り出した。施設にお忍び視察して以来、先生には会えておらず、洗濯しながら勝手に使っているそれだ。本人の言う通り、一見して良い物には見えず、きっと安価な物なのだろう。が、
こんな物が──
愛しくて手放せない。そのハンドタオルのせいもあるのだろう。目元をいくら拭っても、次々に溢れ出てくる。
──わざとらし過ぎる!
と憤慨する一方で、感情の昂りが収まらない。が、今はどうせ一人だ。感情に任せて泣いてしまおうとも思う。
随分と探し回った事だろうその拗らせ振りは、如何にも自分の誕生花らしい。その自虐と共に、真琴は素性の漏洩を悟った。
いつ──
バレたのか。それが気になる以上に、今はその花を眺めて送り主に想いを寄せる。とは言え、まだ花をつける前のそれは、少し物寂しい。
──早く花が見たいな。
それ以前に、他人から誕生日プレゼントを貰うなど、いつ以来だ。
──ダメだ。
眺めようにも、目の前がボヤけてしまう。ここ数週間の疲弊も手伝ってか、こんなに嬉しい【いい夫婦の日】は初めてだ。
──ホント生意気!
サプライズを考えての事だろうが、それでも驚かせ過ぎだろう。後刻、不審物件を責め立てるメールを先生に送りつけた真琴だった。




