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章魚蘭(前)【先生のアノニマ(中)〜2】

 一一月にもなると、山小屋は急激に寒くなり始めた。日毎に寒さが厳しくなる様相は、不破具衛(ふわともえ)の周りのそれと比例しているかのようだ。

 と言うのも、これまで山小屋周辺では、ろくに見かける事がなかった町に一つある駐在所のミニパトカーを、ほぼ毎日見かけるようになった。合わせて山奥には余りに不自然な、然も色気のないセダンも見かけるようになるとか。その車内には、几帳面にも背広を着込んだ二人組の男。全ての原因は、先月の出張所前での演説会である事は言うまでもない。その劇的な変化は分かりやすく、あからさまだった。

 あの日は非番だった。昼まで大家の顧問弁護士の実家で農作業の手伝いをした具衛は、昼メシをご馳走になった帰りに、本の借り換えで出張所二階の図書館へ足を向けた。出張所前で演説会がある事は知っていたが、出入り出来ない可能性を承知の上で一応立ち寄ってみたところ、そこで思わぬ光景に出くわしてしまう。

 ──仮名さん?

 と大家とその顧問弁護士が、三人で演説を立ち聞きしていたのだ。具衛はしばらく、遠目でその様子を伺う事にした。今にして思えば、やはりそれがマズかったのだ、と思う。遠目で様子を伺っていた者が、一時を経て聴衆の輪に入れば、警察官なら何事か不審を抱くのも無理はない。只でさえ、要人警護中で気が立っている連中だ。それは理解していたが、やはり近づけなかった。

 大家の様子からして、仮名の素性を知った上で話をしているのが分かった。つまり、大家から仮名の正体が辿れるという事だ。が、それは間違いなく、仮名の本意ではないだろう。だから、近づく事を憚った。

 一方で、仮名と大家が知り合いなのであれば、自分の素性は大家から抜ける可能性が高いだろう。が、その点に関しては、実は殆ど頓着していない具衛だ。何であろうと結局のところ、所詮はその他多数の小市民に過ぎない自分。あくまでも、対等な関係を望む仮名の意向に添っているだけの事だ。己の素性など、尋ねられればいつでも答える用意がある。仮名がそれを望んでいないから、そうしているだけだ。只、素性を明かすと、恐らく引かれてしまうだろう。そんな、少し変わっ(・・・・・)た経歴(・・・)を持つ自分。

 小市民でさえ、悩ましい経歴を持つような時代だ。それを思うと、それなりの地位や身分を持つ者が気の毒になる。それなりに自由で平和な時代において、大身(たいしん)故に生じる義務や責任に縛られる事の息苦しさは、常人には堪え難いだろう。恐らく仮名もそうした人種の一人であろう事は、最早疑いようがない。ならば小市民の己など、目が覚めれば捨てられる運命だ。

 それなら──

 気の済むまで自由にさせてやろう、と具衛は思った。

 思ったんだが──

 やはりこれが、少しマズかった。大家と顧問弁護士が、仮名から離れてしばらく。周囲の護衛の目に刺激を与えないよう、ボンヤリと偶然を装って仮名に声をかけたまではよかった。が、何故かそれを事もあろうに、要人の高千穂に見咎められてしまったのだ。少し考えれば、仮名のような大物風情の女なら、議員連中とつき会いがあっても何ら不思議ではない。そんな肝心要のところを考えず、近づいた事の迂闊も後の祭り。気づいた時には、高千穂から直接指示を受けた追手(警護員)が迫っていた、と言う訳だった。

 高千穂に睨まれた瞬間、その憎悪を敏感に察した具衛は、偶然通りがかった路線バスに飛び乗った。すぐに警察の覆面車両が詰め寄って来たが、具衛はその前に、次のバス停でさっさと降車し煙に巻く。その日はそれで難を逃れたが、一週間もすると警察につき纏われるようになった、という顛末だ。

 何はともあれ、

 ──暇な連中だな。

 と、呆れたものだったが、もっと呆れたのは、その指示を出したと思われる高千穂の執念深さだ。具衛もこれで、春までは東京で暮らしていた人間。政界で悪名を鳴らすスケコ(・・・)マシ(・・)の事は、それなりに知っていた。それが今や外相を騙る高千穂は、中堅議員の出世頭で、その分だけ目の(くら)さも秀逸としたものか。遠く離れた演台から放たれた敵意丸出しの眼光は、お陰で逃げ時を教えてくれたようなものだった。

 ああでなくては──

 国家権力は牛耳(ぎゅうじ)れない

 ──モンなんだろうな。

 思い出しては侮蔑するそれは、殆ど負け惜しみだ。が、本当に負けてしまえば、何をされるか分からない。見た目程、お人好しではない具衛だ。

 それこそこっちは──

 今となってはいくらでも、つき合って余りある時間を持つ、天涯孤独の山小屋の暇人。自由自在の

 ──やりたい放題じゃい。

 精々一泡吹かせてやるから、

 覚悟しとけよ──

 この野郎、などと悪乗りをするボンヤリ男のスマホがそんな時、居間の卓上で着信音を発した。その画面に【映像一件】の表示。それをタップすると、橋を山小屋に向かってやって来る仮名のアルベールが映る。警察車両が周辺をウロウロし始めたため、密かに山小屋の周辺に設置した超小型デジタルカメラによる映像だ。立体センサーつきで、動く物に反応しては映像を具衛のスマホに送って来る。が、何しろネット通販で購入した安物だ。画質は良くない。また暗視機能はないため、夜は殆ど何も見えないなど問題もあるが、値段なりの性能は発揮していると言えた。が、今の問題はそこではない。

 ──ん?

 目視すると確かに仮名の車だ。そこで初めて、腹に響くようなエンジン音が耳に届く。普段なら、遥か遠くから轟くその音だけで接近を認識していたところだ。それに気づかず考え込んでいた、という事が問題だったりする。

 それにしても──

 妙な事になった。それこそ以前、仮名に絡まれる事で、同時に厄介事に絡まれる可能性をボンヤリと危惧していた具衛だが、そんな嫌な予感が的中した格好だ。然しもの世捨て人も、流石に気鬱というものを思い出したらしく、僅かに口を歪める。が、それでも何処かのんきに見えるのは、それがこの男の本質だからだろう。

「こんにちは」

 気がつくと、目の前に仮名が立っていた。

「あ、どうぞお掛けになってください」

 流石に夏につけていたタープは、既に収めている。お陰で居間の奥まで明かりが届くが、もう日没も早い。庭木はまだ葉を散しておらず、只でさえ弱々しくなった日光を遮っている。つまり、辺りは既に薄暗かった。

「まだ開けっ広げてるの?」

 などと呆れる仮名が、

「寒くないの?」

 と言いながらも、相変わらず縁側の右隅に腰を降ろす。

「昼間は火鉢さえあれば、そこまで寒くないんですよ」

 それに締め切っていると、一酸化炭素中毒が怖い。そんな説明臭い具衛に、

「隙間風で大丈夫なんじゃないの?」

 と、失笑する仮名は普段通りだ。が、実のところ、開けっ広げているのは、相手(警察)の出方を探るためでもある。

 具衛の行動パターンは、恐らく抜けている。それなら、在宅中は下手に締め切るよりも、開けっ広げた方が牽制になる、と考えての事だ。近寄らせなければ、別にいくら覗かれようと減る物でもない。が、近寄られると何をしでかすか分からない。今、具衛の周辺を嗅ぎ回っているのは、レベルこそ低いがそういう手合いだ。それが今は、見える範囲にいない。

「すっかり秋ね」

「ええ」

 いつも通り粗茶を出すと、座卓に戻る具衛だ。

 周辺の緑は、ほぼ赤に染まった。残る緑は常緑の物だけで、紅葉は最盛期を迎えている。

「朝晩は冷えるようになりました」

 物干し部屋側には、縁側と室内を仕切るガラス戸の戸袋があり、

「夜は流石に──」

 それを締めるようになった。

「そりゃそうでしょ」

 素直に突っ込んでくれる仮名の傍にもその敷居があるのだが、その戸は【横額障子(よこがくしょうじ)】と呼ばれる、真ん中部分にガラスがはめ込まれた物だ。出番は春に越して来た直後以来で、一か月もしないうちに暑くなって収めた切り。よって、梅雨時以降来るようになった仮名は、その使用状態を知らない。問題は、間もなく訪れる冬だ。

 ──どうしよ。

 冬は流石に、開けっ広げた縁側に座らす訳にもいかないだろう。そこでのもてなしは、今時分が限界だ。仮名が立ち寄る夕方時ともなると、冷え込みを強く感じる。

「やっぱり夕方ともなると──」

 と言いかけた仮名の傍に、具衛は火鉢を置いてやった。

「ありがとう」

 と、仮名が、早速それに手を伸ばす。

 ──マズい。

 この様子では、寒さに乗じて「ガラス戸を締め切って居間に上げろ」と言い出すのではないか。密かに生唾を飲み込む具衛だ。

 人気のない山奥の小屋の事とは言え、今までは開けっ広げた縁側でのもてなしだった。その開放感と外の気配は、何かの防御線というか、最後の砦のようなもの

 ──だったんだが。

 居間に上げてガラス戸まで締め切るとなると、日没が早くなった秋の夜長の密室で二人切り。

 ──うーむ。

 夜長とか密室とか。妖しいフレーズが並び始める、秋のロマンスというヤツだろう。

 勝手にそれに慄いている具衛が、悶々と悩んでいると、

「あの、さ」

 と言う、仮名のその一言は、唐突だった。纏わりつくような迷いが滲んだ、

 声なんか──

 聞き覚えがない具衛だ。そのか細さに、瞬間で雑念が消し飛び緊張が走る。

「はい」

 そんな、平生を装った自分の声が僅かに掠れ、途端に

 動揺が──

 動揺を呼ぶ展開。

「何か、さ」

「何でしょう?」

「困った事、ない?」

「困った事、ですか?」

「うん」

「そう、ですね──」

 仮名の声は、甘さを装う一方で深刻だ。対して具衛は、わざとらしく顎をさすりながらの悩む振りで、

「近くに安い散髪屋がない事、ですかね」

 などと、ズレた事(・・・・)をボソりと漏らす。

「散髪屋ぁ?」

 当然、仮名が求めていた答えではなかったらしい。突然険しくなる声と共に、その紅顔が歪む。

「安い散髪屋は山を降りないとないので──」

 バスで往復していると、結局はトータルで、この町の散髪屋の値段程かかってしまう。

「この町の散髪屋のおじさんはいい人なんですが、今時のカットはどうも苦手のようでして──」

「いや、そうじゃなくて!」

 ごちゃごちゃ理由を述べる具衛を、仮名がばっさり切って遮った。

「だって──」

 困っている事を答えただけなのに、と言う具衛のそれは、当然わざとだ。

「鈍いあなたに遠回しな言い方をした私がバカだったわ──」

 大体がその髪型でカットがどうのとか、

「──よく言えるわね」

 と、失礼も大概の仮名だが、確かに具衛のその髪型と言えば、裾を刈り上げて、後は長いところを適度に切ってすいただけの、極ありふれた髪型だ。

「う」

 などと、痛いところを突かれたと言わんばかりの具衛を、仮名は相手にしない。

「誰かにつき纏われたりしてない?」

「つき纏い、ですか?」

 そうですねえ、とまた、のんきに顎をさする具衛だ。

「施設の子供達から、仕事中なのに遊べ遊べと──」

 つき纏われて大変だ、と言うそれは事実だが、それも違うだろう。

「はぁ? 子供ぉ?」

 ますます顔をしかめる仮名のそれは、新領域を思わせる般若面だ。が、やはり美しいとかいうおまけつきで、目のやり場に困る具衛の目が逃げる。

「仕事中に子供達とゲームする訳にもいかないので──」

 とか言う白々しさは、本当に事実なのだが、当然仮名は納得しない。

「何言ってんの?」

 と、冷たく言い放ったその後の句は、

「人気者とかの自慢話に興味はないの」

 と容赦ない。

「ストレートに聞くわ。嫌がらせを受けてない?」

「嫌がらせですか?」

 うーん、と追い詰められる具衛が、また顎に手を伸ばす。と、

「その顎には、ネタか何か詰まってる訳?」

 と、ついに釘を刺されてしまった。それでも、

「何も──」

 ない、と答えるしかないだろう。

「ホントに?」

「はい」

「そんな事言って、何か隠してないでしょうね?」

「どうしたんです? 一体?」

「いや、ちょっと──」

 気になってと、腑に落ちない様子で俯く仮名は、何処となく悔しそうでもある。

 ──高千穂の事なんだろうな。

 当然具衛は、最初から分かった上で剥ぐらかしている。仮名もそれを承知の上での念押しだ。

 何にしても──

 どちらかが「高千穂の嫌がらせ」を口にしてしまえば、仮名と高千穂が浅からぬ関係である事を認めてしまう事になる。執拗に追いすがった仮名が最後までその名を出さなかったのは、

 ──認めたくないんだろうな。

 そんなところは流石に気づく具衛だ。それを察したなら、余計何かを言うべきではない。普段は歯切れのよい絶美が、珍しくも何かを言い淀む横顔は、

 ちょっと気の毒だけど──

 それを尻目に啜る茶は、何処か味がボケている。

 ──今は黙っトコ。

 その実、高千穂の魔の手は中々早かった。


 話は少し遡る。

 演説会で高千穂の命を受けた護衛の警察官に追われた具衛は、その日のうちに迎え撃つ(・・・・)準備を始めた。高千穂がすぐに護衛を動かしたその異常さに、身に迫る危機を感じたのだ。既に山小屋の周囲に設置済みの超小型デジカメもその一環。少ない資金で、二日に一直をこなしながらの手弁当だったが、準備を終えた頃、警察の内偵が山小屋周辺に姿を見せるようになった。

 やれやれ──

 間に合った、と思った矢先の一〇月末。勤務中にスマホへメールが届く。それこそ普段メールなど殆ど届かない具衛にとって、夜勤(宿直)中に届いたそれは、ズバリ侵入者を知らせるそれだ。

 デジカメはブルートゥース仕様で、センサーに反応する度映像を転送する。山小屋にいる時は直にそれをスマホでリアルタイム受信・再生するが、外出中は遠過ぎて電波が届かない。それを中継するのが、具衛の所持品の中で数少ない高額用品の一つ、ミニノートPCだ。自宅(山小屋)に置いているそれにデジカメの映像を一度受信させ、その都度メールで録画データを転送させる。留守の時も監視は怠らない。デジタル全盛の昨今の事なら、その程度は素人でも出来るだろう。当然、この男の手業はそれで終わらない。

 ──ノラ狸かノラ猪かねぇ。

 仮眠中の丑三つ時の真夜中だ。のんびり起きて、一応映像を確かめたところ、映っていたのは外ならぬ

 ──いきなり飼い犬(・・・)かよ。

 というあからさま振り。それが素人臭さ全開で、川土手を文字通りの抜き足差し足で忍び寄っているというから、噴き出さずにはいられない。

 いやいやこれは──

 設置者冥利に尽きる、と一人失笑した具衛は、早速スマホで自宅PCのOSを遠隔操作し始めた。メールの映像はあくまでも録画直(・・・)()のデータだ。リアルタイムではない。よってまずは、自宅周辺に張り巡らせているデジカメを、PC経由で待機状態から起動させる。そのリアルタイム映像をスマホへ転送させると、数個のカメラに真っ暗闇の山間を切り裂く灯りが一つ。小刻みに鋭く揺れ動くそれは、誰の目に見ても人魂には見えない。怪談を語るには、

 ──時期が遅過ぎるわ。

 そんな人工的な灯りは、足元をライトで照らしながら忍び寄る素人仕事だ。まさかとは思うが、今時唐草模様の

 ──ほっかむりとかしてねーだろーな?

 そんなザマを勝手に想像して失笑しながらも、具衛は次なる作戦に入る。ここからが通常人にないこの男の手業の一つで、それは文字通りの罠だった。二通り仕掛けたそれらは、自動式と手動式に大別される。前者は文字通り自動で作動する物で、人間の動線になり得ない所に設置した。一方後者はその逆だ。動線上に張り巡らせたそれを、遠隔で作動させる。手動である理由は、敵以外(・・・)の来訪者に対する配慮だ。であるからして、素人の敵が来襲のこの場面では、必然的に後者を選択。早速自宅PC経由で、灯りの動きを見ながら手近な罠を作動させると、それが山小屋の庭の入口辺りで不自然に跳ねた。ひっくり返ったのだろう。

 ──よし。

 手応えアリ。やる事をやった具衛は、

 俺は眠いんで──

 と、また仮眠に入った。ナイフぐらいは携帯しているだろうが、今使った罠は鎖だ。それが足に絡まった素人ならば、恐らく外せない。もし外して動き出したとしても、その時はまた何処かのセンサーが教えてくれる。

 因みにこうした罠は、設置に関してやはり法を頼みとする。一般的には、鳥獣保護や害獣対策を論じた狩猟法を根拠の拠り所とするケースが多い。基本的には無闇に鳥獣を捕獲してはならず、如何に害獣対策といえども、農地保護に限り罠の種類によって免許、許可、届出を要する。つまり、農地でも何でもない山小屋に罠を張り巡らす行為などは、根本に近い部分でNG。仮に家庭菜園を営んでいたとしても、そのレベルでは罠の設置を認めない解釈だ。人を捕まえるための罠など論外。防犯対策といえども、防御権を逸脱する罠は即座に過剰防衛に直結する。具衛の罠などその最先鋒だが、攻めて来る相手は、恐らく高千穂の息のかかった裏の組織。非合法で来る相手ならこちらもそうしたもので、躊躇しなければ良い。こんな状況でも、普段鷹揚なこの男は何処かのんきだ。この程度は、そんなレベルの楽観視案件だったりするものだから、「人は見かけによらぬもの」とはよく言ったものだろう。

 明けて非番。何処にも寄らずに真っ直ぐ自宅(山小屋)に帰ると、庭の木にもたれて眠り呆けている若いチンピラ風の男を発見した。片足の足首に、鎖が何重にも締まっている。犬の散歩用の物なのだが、締まり方がキツければ、一度締まるとちょっとやそっとでは解けないものだ。具衛の接近にも気づかず、寝落ちしているその男の身の回りを軽く調べてみると、着ているジャンパーのポケットから、小型ナイフと折り込まれた紙が出てきた。

 やっぱり──

 精々この程度の手合いだ。ナイフでどうにか外そうものなら、肉を切る勢いで鎖を断つ覚悟がいる。そんな度胸がない男は、諦めてその場で寝ていたと言う訳だった。

 ──ごくろーなこって。

 男の寝顔を撮影した後で、バケツの水をぶちまけて起こしてやった具衛がやった事と言えば、挨拶がてら倉庫から持ち出した薪割り用の斧で盛大に脅したぐらいだ。用件を確認すると、あっさり男を解放してやった。

「知り合いに頼まれて、張り紙をしに来ただけじゃ」

 と、強がっていた男を解放する前、こっそり仕込んだ紛失防止タグが辿り着いた先は、市街地に拠点を構える武闘派の暴力団組事務所。

 ありゃりゃ──

 花火大会(交通トラブル)でお世話になった、あの組員の組事務所だ。

 ──縁だねぇこりゃあ。

 その下っ端組員と思われる男が持っていた紙の内容は、

「あの女から手を引け」

 とか言う、ストレートな一文のみ。

 ──あの女ねぇ。

 それは、高千穂の戦線布告と見てよいのか、それとも単なる脅しなのか。どちらにせよ、それで具衛が屈すると思っての事だろう。

 何にしてもまあ──

 ヒステリックな事だ。少なくとも具衛のような、名もなき一般人にやるような所業ではない。つまり仮名は、高千穂がそれをせざるを得ない程の何かを持っている、という事だ。それが何なのか知った事ではないが、少なくとも高千穂のやり方は好意的になれない。

 今でこそ山奥に住む具衛だが、春先までの都会暮らしでは、必ずしも無縁ではなかったこのスケコマシ。元首相の父を始め、政財官に張り巡らされた高千穂一族の血脈を背景に好き放題のご乱心振りは、注目するつもりがなくても耳目に入って来たものだ。その上更に、黒い交際(・・・・)の噂が絶えない男が、

 何で──?

 野放しなのか。メディアやネット情報を全部鵜呑みにするのは、それこそ乱暴と言えなくもないが、精々誤差を修正するレベルの話だろう。事実、警察に内偵をさせて情報を掴み、ヤクザを使って実力行使に出る、その質の悪さは中々手慣れている。二つの組織が連携するなど有り得ない話だが、その力を両方握る者がいれば、こんな使い分けが出来たりするものだ。

 これは意外に──

 根が深いのかも知れない。高千穂の噂の実情は、小チンピラの脅しで済むような柔なものではないだろう。何なくそれを撃退した具衛は次に備えた。

 次の襲撃は、貼り紙男を追い返した翌日の昼下がりだった。例によって仰々しくも、何処かで見覚えのある黒塗りの国産高級ミニバンが、山小屋前の橋を渡って来たかと思うと、勝手に庭先まで入って来て止まる。と、中から出て来たのが、絵に描いたような柄の悪さの、三人の大男だ。

「こりゃまた──」

 本当にせっかちだ。

「──何の御用で?」

 のんきな具衛が、居間の縁側から用件を尋ねると、その内の一人にいきなり拳銃を突きつけられる気の短さ。仕方なく両手を上げて庭に降りると、残る二人がそれぞれ具衛の腕を取って、羽交い締めにしてくれた。

「いてててて」

 と言う具衛の声は、ご愛嬌だ。それを降参と受け取ったらしい拳銃男が、ようやく口を開こうとしたその瞬間。突然、庭の両側からその男に向かってロケット花火が炸裂し、形勢逆転。当然、具衛が仕掛けた罠だ。慌てふためく男達の中で、唯一秩序的に動く具衛が瞬間で羽交い締めを外す。と、両脇の男達は、それぞれの頭を掴んでごっちんこ(・・・・・)させて沈黙。その勢いで、一息に拳銃男に肉薄すると、銃を持つその手を蹴り上げてやった。庭木の隙間を抜け、高らかと宙に舞う拳銃。その持ち主の顎を殴りつけて沈黙させた入れ替わりで、最高点に達したそれ(拳銃)が主人の元へ落ちて来る。それを何なく受け取った具衛は、躊躇なく安全装置を解除して、平伏す男達に突きつけた。花火から向こう、僅かに一〇秒足らずの早業だ。

「最近のヤクザモンは、洒落た銃使ってんなぁ」

 イタリア製の名のあるそれを何なく使うギャップの凄まじさに、男達が呆れる間もなく今度はそののんびり男が、まさかのそれを発射する。

「さぁさ、何処に当たるか分からないよー?」

 続け様に悪い冗談を口にする具衛が、男達の足元を狙って全弾撃ち尽くすと、何処からともなく取り出した薪割り用の鉈で、いとも簡単に拳銃を砕いてしてしまった。その思い切りと柔な外見が、どう見ても釣り合わない。ややもすると、何かの感情が欠落した危ないヤツだ。事実三人の男達は、そんな具衛の狂気に恐れをなして声を失っている。

 一人余裕を振りまく具衛が、また証拠写真を撮る中で、男達は縛っている訳でもないのにいつまで経っても立ち去らない。どうやら予想外の敗北に、腰を抜かしているようだ。

「しゃーねーな」

 と、また倉庫から斧を持ち出し盛大に脅して気合を入れてやると、失禁しながらも四つん這いで車まで戻り、文字通りの慌てふためき振りで退散して行った。これが二回目。やはり密かに忍ばせたタグが、例の組事務所に辿り着くのは、最早お約束だ。因みに余談だが、拳銃と空薬莢は、全て粉々にして分解破壊し、資源ごみの日に金属ごみで出した。それを持って来た男達の目の前で破壊したのは、回収不能である事を教えるためだ。持っているとよからぬ連中が群がり、ろくな事にならない。

 三回目は──

 どんな趣向で来るのか。筋者が負けっ放しでは終わらないだろう。何処までものんきに構えていると、次は一一月に入ってすぐの夕方だった。非番日に晩メシの支度を準備していると、例によって近辺に似つかわしくない黒塗りのミニバンと、その前をやって来るのは何とバキュームカーだ。一見してそれは、住宅を回る糞尿収集用途のそれであり、それが橋を渡って庭先まで来ると、流石に山小屋の中まで臭って来る。これで山小屋は、

「──下水道完備だっつうの!」

 とはつまり、明らかに招かれざる客だ。堪らず具衛は、台所のタオルで顔の下半分を覆面して出迎える。それが庭先で一旦止まると、エンジンを激しく空吹かし始めた。闘牛の牛の如き、威嚇のつもりだろう。それがしばらく後、何を宣言するともなく山小屋に突っ込んで来る。が、途中、最も木々の密度が高い庭の真ん中辺りで、突然車体前部が沈み込んで沈黙。ドン臭い音を伴って土壌に埋もれてしまったそこは、具衛謹製の落とし穴だった。仮名が出入りするため、普通車クラスの荷重には耐え得るよう、中・大型車の突進防止で備えていたそれだ。が、流石に臭いだけは、

「どうにもならん!」

 と堪らず叫んだ具衛も、流石にこれにはブチ切れる。早速、落ちた衝突の衝撃で目を回している乗員二人の男達に対する仕打ちは、何かのホラー映画の如き【斧攻撃】だ。

「お前ら、ええ加減にせぇや」

 中性的な声に近い具衛の怒声など、全く迫力がない。が、例によってそんな男がフロントガラスを豪快に割り、ボディーをめった打ちにしているその凄まじさだ。慌てて加勢に駆けつけたミニバンの男が二人。それがまた例によって拳銃を手にしている。対する具衛が腰から引き抜いたのはスリングショットだ。それを肉薄してくる拳銃男二人に連射する。と、一弾指(いちだんし)の内に加勢も、短いうめき声と共に沈黙。まるで寸劇の殺陣の如き早業だ。最後に、バキュームカーの中で盛大に喚いている二人におもちゃの手榴弾を一個投げ入れてやると、逃げようのない連中が恐怖で失神したのと同時にそれが

"パン!"

 と、素気ない音で破裂し、紙吹雪を散らして終幕。

 数分後。ロープです巻きにした四人の筋者を庭で正座させた具衛が、

「アンタら、寄ってたかって市民を襲撃して──」

 ヤクザ失格を告げながらも、お決まりの斧と拳銃の脅しだ。

「流石に三回も襲撃されると──」

 いい加減、煩わしい。

「反転攻勢の大義は十分だよなぁこりゃあ? ん?」

 などと、襲撃の元凶を吐かせ、それが組長の命である事を掴むと、その弱みをまた吐かせ。後はネチネチ脅した挙句、落とし穴の片づけまでさせた勢いそのまま、夜陰に乗じて反撃に出る。

 三人は人質で、庭木に縛りつけておき、残り一人に組長の情婦方まで案内させると、マゾヒストの組長が情婦とSMに勤しんでいるところへ正面切って単身突撃。戦利品の拳銃で盛大に脅しながらも、その様にならない格好を激写し、呆気なく作戦終了。その写真をネタにそのまま休戦協定を結んで、一連の騒動はここに終結する。このSM組長、実は広島の裏社会では中々の大物らしい。が、花火大会での組員の不始末で、組自体は大きなケチがついている。これ以上の醜聞は組の存続に関わり兼ねない、と判断したようだ。

 その組長が、具衛の飄々たる無茶苦茶振りに感心し、

「悪い事は言わん──」

 という忠告が、何と仮名の素性だったりしたものだから、本当に人生とは、何処で何があるものやら分からない。

「──サカマテの専務からは手を引いた方がええ」

「何でです?」

 と惚けた具衛だが、実はここ数年来最大級の動揺に襲われていた事は、本人だけの秘密だ。

「ヤクザは止められても、国家権力の闇は止められん」

「まぁ、手を引いたって事にしといてください」

 襲撃さえ無くなれば面子に関わる事はしない、と言い残した具衛は、筋者の運転よりは自分で運転した方が確かだとして、自らミニバンを運転して帰宅。人質解放以下、後片づけを済ませると、急転直下の本題に入った。

 ──サカマテの専務。

 他人による暴露を、仮名も少しは想定していただろう。が、その原因が高千穂になる事まで想像出来ていただろうか。これまでの、せっかちで、あからさまで、強引な高千穂の手管は、ヤクザ者の攻め口同様まさに節操がなかった。それを思うと、演説会で見咎められた瞬間から、想像が及んでいたかも知れない。その手の機微に聡い仮名の事だ。それを思うと、仮名を気の毒に思う気も湧いてくる。が、その正体の手がかりを掴んだ以上、我慢出来るものでもなければ、その心底に巣食っているものを調べる絶好の機会だ。何もしないなど有り得ないし、

 そもそも──

 もう我慢出来ない。

 それにしても、確かに町の北隣に国内有数の大企業があった事を、今更思い出す具衛だ。今までそこに考えが至らなかった、自分の愚鈍さだろう。洗練された身形とあの車。山小屋近辺で会社勤めなら、それに見合う企業は、まさに今更だがサカマテ以外に考えられないではないか。すると、【サカマテ専務】の画像を検索しただけで、何枚も何枚も、仮名の美貌がヒットする有様だった。

「こ、こりゃあ──」

 まさに、灯台下暗しというヤツだ。思いがけない所から出てきた正体に、呆れると同時に見惚れて身体が固まってしまう。髪の長さが違う事から、画像の年代に多少バラつきがあるようだが、どれを見ても外見はアラサーにしか見えない。そこがまた、らしいと言えばらしい美魔女だ。

 本名は、サカマテのホームページであっさり分かった。

 ──高坂真琴。

 専務だから、ご丁寧にも顔写真つきで紹介されている。重ね重ねも、こんな近くに答えがある事の意表だ。加えて何やら、専務以外にも、やたら様々な肩書きの羅列。

 これはもしや──

 そのまま名前で検索したら、

 ──ウ○キに載ってる?

 レベルなのではないか。早速フルネームで検索したところ、

「ぐげ!?」

 と、無様な独り言が盛大に漏れる程、案の定だった。

 旧財閥高坂宗家嫡流長女──。

 都心郊外の高級住宅街に居を構える、由緒正しき出自の御令嬢。そんな有名人がこの大田舎をウロついていながら、何故全く噂にならず、この近辺は平穏を期しているのか。それが外ならぬ自分の大家によって箝口令が敷かれている事を、具衛は当然知る由もない。そもそもが、人づき合いをしない具衛だ。知り得る訳もない。

 実家のグループ企業の役職を幾らか兼務しているその御令嬢の経歴は、いきなり衝撃的で、中卒後進学せず、とある。が、その反動が凄まじく、

 ──独学で司法試験を突破?

 ──十代で弁護士登録?

 しかも学歴は、高校と大学をすっ飛ばし、英オックスフォード大学院卒とか。

 あ、あそこって確か──

 御皇族方の留学先として、

 ──よ、よく聞く所か。

 それよりも何よりも、そんな女と多少のなりとも法律談義をしていた自分の墓穴を、今更掘りたい具衛だ。

 し、しかしまぁ──

 無茶苦茶な就学期がまた、仮名の捻くれ具合と言えばそうかも知れない。が、ますます分からないのは成人後の職歴で、何故かいきなり、民放大手テレビ局のキー局

 ──アナウンサー?

 とか。通りで滑舌の良い美声な訳だ。見た目の受けも申し分ないだろうが、人前に進んで出たがるような

 ──人じゃないと思うんだがなぁ?

 その辺りの謎は、本人に聞いてみない事には分からないだろう。この頃の具衛と言えば、成人前のドタバタしていた頃で、これ程の美人なら見ていれば絶対覚えていただろうが、幸か不幸か今が初見だ。大体が、

 ──アイドル扱いされるようなタマ(・・)かよ。

 その違和感通り、仮名のアナウンサー時代は【最恐の才媛】などと、凄まじい持て囃され方をされながら、僅か二年で終わっている。手癖の悪い大物コメンテーターからセクハラ被害を受け、相手を投げ飛ばしたらしい。それこそ以前、その女が言っていた通り、

 ちょっと肉を切らせて──

 盛大に骨を断ったのだろう。

 次なる経歴は外務官僚で、

「バ、バツイチ!?」

 だ。高千穂と職場結婚で子持ちとか、

「ウソぉ!?」

 その婚姻歴もそうだが、当然子供など見た事も聞いた事も、その存在を感じた事もない。

 その外務省も三〇で退官すると、以後はエリート街道一色。渡欧し仏フェレール財団出資の世界的シンクタンク

【フェレール平和基金】主席研究員──

【国連軍縮研究所】法務官──

 等々。そのステータスの高さだ。

 数年前に、実家グループの役員就任に伴い帰国。他、慈善団体役員もいくつか兼ねており、その肩書きは多忙振りを連想させて余りある。

「こ、こりゃあ──」

 具衛の手に余るどころか、触れるのも憚られる、紛れもない女傑だ。

 俺は一体誰と何を──

 やっていたのか。返す返すもその一念が、頭の中をぐるぐる巡る。家柄、経歴、肩書き、どれもこれも不釣り合いもいいトコだ。普通の人間など無法者に見えて当然だ。リゾートで羽目を外す日本人に嫌気が差したとか、八月六日に黙祷するとか、それよりも何よりも、

 そりゃあ野郎なんて──

 猿に見えて当然だ。最後は腕力頼みの獣など。それすら覆すこの女は、合気道六段の手練れらしい。

 通りで──

 強い訳だ。

 日頃の胆力は、こんなところの結実だろう。いくら賢いとは言え、武道の道は一日にしてならずだ。その形のようなものが六段なのであれば、バカにされても仕方ないだろう。そこまで努力出来る人間の少なさを思えば、それはもっと誇っていい。が、

「何でこんな人が──」

 高千穂などと結婚したのか。そこはやはり家柄絡みの政略結婚で、大物フィクサーの実母の影響なのだろうか。ネット辞典はご丁寧にも、その母娘の確執まで掲載していたが、当然高千穂との結婚理由などは載っていない。

「何で──?」

 あんなスケコマシなんかと。要するに、それがどうしても腑に落ちない具衛だ。いくら政略婚だとしても、あの仮名が高千穂を認めるとは思えない。しかもその間に子供だとか。二〇代に出産しているのだから、今頃は高校生ぐらいだ。

「うわわわ」

 煩悩がつまらぬ想像をさせ、具衛を苦しめる。今の仮名では色々とあり得ないそのギャップだ。とても高千穂になびくような軽薄な女には、

 ──見えないんだが。

 人の秘密を覗き見る事の、何という後味の悪さだ。仮名の底で(うごめ)く暗い影は、間違いなくこれらだろう。それを知りたかった筈なのに、知ったら知ったで、

 ──後悔するとか。

 何と自分は、色々と据わっていないのか。こんな自分の

 何処を気に入って──

 仮名は自分に絡んでくるのか。永遠に解けそうにない謎解きのようだ。

 何にしても──

 この素性なら、人に知られたくはないだろう。その気持ちは理解出来る。ネットには【優性人種】などとあげつらう、誹謗中傷も多い。と言うか、ネット辞典以外の情報は、全て批判や誹謗中傷だ。アナウンサー時代に全国区になった事が、悪影響をもたらしているのだろう。

 まさに──

 彼岸花の如きの、忌み嫌われようだ。他にも、狼だとか、女狐だとか。中には【うどん】と蔑むものも。髪の赤い仮名が女狐の蔑称を持っていれば、即席麺大手の商品名をなぞらえたものらしい。

 ──色々ひでぇなこれ。

 名誉毀損とか侮辱が成立するようなネタばかりだ。一々訴えたところで切りがないため放置しているのだろう。ネット犯罪捜査は手間がかかる。が、その労の割に罰は軽い。それを警察が積極的に捜査したがる筈もなく、しかして犯行は迅速にして大量だ。根絶など出来ないのだから諦める外ない。その無念を思うと、素性を隠せるものなら隠したいと思うのは当然だ。

 何にしても、過去の黒歴史はもう変えられない。恐らく今後も、暇を持て余す根暗な連中に仮名は中傷され続ける。

 それなら──

 誰かが支えてやらないと、身がもたないだろう。こんな事を聞き出そうとした十四夜から、季節は随分と進んだ。あの時仮名の口からこれを聞き出したところで、どうにもならなかった事を思うと、無責任にも安心する具衛だ。世間ではこんな事を、

 身の程知らず──

 とか言うのではなかったか。そんな具衛を、可愛いだとか罪だとかで失笑してくれた仮名の奥底の悔しさを思うと、自分自身に腹が立つ。

「もう一戦交えちゃったしなぁ」

 黒歴史全部は取り除けなくとも、高千穂の魔手ぐらいは何とか出来るのではないか、とも思う。普通の人間なら退場する場面だが、幸いにも具衛は天涯孤独で、しかも今は

「それなりに暇だしなぁ」

 そしてこの男はこの男で、実は全く縁がない訳ではなかったりする周辺事情。

 色々ヤバいんだろうけど──

 まさかの巡り合わせに驚きながらも、具衛は己の波乱の相に呆れつつ、密かに一つの決意をする。

 ──喧嘩上等。

 釣り合わないなりにも、一人ぐらい支持してやらないと、

 ──かわいそ過ぎるってモンだわ。

 と思ったのは、実は本の数日前の話。


 話は戻る。

 火鉢の傍で寒そうな素振りを見せつつも、仮名は相変わらず縁側に座り続けている。一一月ともなると、日の入りは午後五時過ぎだ。仮名が訪ねる頃には、太陽は既に西の峰の向こうに沈んでいる。縁側から外に目を向けたところで、日没後の残光が辺りをボンヤリ照らすのみだ。それを見て思う事といえば、刻々と迫る寒々しい夜ぐらいの事だろう。

「夕暮れも素敵ね──」

 移り行く秋は、その夕暮れが如実に語る。もう一、二週間もすれば、同じ時刻では辺りは殆ど暗闇だ。

 縁側はもう──

 限界だろう。

 それはつまり、仮名が縁側に腰を下ろす根拠を失うという事だ。つまり、立ち寄ったところで部屋の中、という事になる。それは景色も何もあったものではない、山奥の山小屋で男女が密会、という構図。

 いやいや──

 有り得ない。会話を嗜むという趣味を持たない具衛にとって、それは息が詰まる密会だ。そんな空間を、

 この女と──?

 それは嬉しさ余った拷問、と言って差し支えないような気がしないでもない。

 そんな今日の御令嬢のお召し物は、シンプルでスッキリとした、ライトグレーのロングコート。仕事帰りなのだろうからコートの中はスーツだろう。が、それは膝から下に覗くチャコールグレーのスラックスしか見えない。一見地味だが、そう見せないのがこの美女の凄さだ。

 それに比べて俺ときたら──

 上はジャージ、下は年中変わらずの綿パンという、色気もクソもあったものではない庶民感。そんな事でクヨクヨして口に出そうものなら、目の前のその美女に、

「いい若いモンが──」

 とか突っ込まれそうだ。何気にそこが一番、凄い事なのかも知れない。

 ──年上なんだよなぁ。

 どう見てもアラサーにしか見えないに仮名の実年齢は、ネットによると、本当に今年で四二を迎えるようだった。アナウンサー時代や、外務省時代の露出画像をよく見ると、確かに少し若いような気がしないでもない。典型的な大人顔というヤツで、若い頃は逆に老けて見られていたようだ。甘さのない冷艶さで、綺麗どころの女優と遜色ないどころか、その上を行っている。チヤホヤされて当然の容貌だ。が、若かりし頃の仮名は、鋭さばかりが目立つ。

 でも、今は──

 年齢を重ねただけ少しは往生した、という事だろうか。角が落ちているような気がする。良くも悪くも、様々な経験がそうさせたのだろう。

 俺は今の方が──

 好きだ、と脳内で勝手に白状した具衛が、また勝手に動揺する。いつも何処かしら上から目線だったのは、年上と分かっていたからに違いない。加えて具衛などは、仮名に比べると明らかに箔がない。

 そんな姉御(あねご)に──

 それなりに好意を持たれている、とか。それは嬉しさよりも戸惑いの方が強い。仮名の周囲を巡る戸惑い。その子供に対する戸惑い。何より今の仮名には、母性が感じられない。その外見通りの知性と、意外な徳のようなものに接してきた具衛だ。そんな女が、何故我が子をおざなりにして、

 こんな所で──

 中年男を慰み者扱いしているのか。

「縁側は流石に冷えるわね」

 具衛が悶々と戸惑っている中で、仮名がついにそれを呟いた。そこからは二択だ。立ち寄らなくなるのか、居間に招く必要に迫られるのか。押しかけられ始めて実に約五か月。具衛は正直、どちらも辛いと思う。

「次からは、中に上がらせて欲しいんだけど」

 後者のための伏線だったようだ。何処かで安心する具衛だったが、それがすぐ、只ならぬプレッシャーに変わる。

「でも、居間からは何も見えませんし──」

 もういい加減、日も短い。

 そうなると──

 山奥の山小屋で微妙な男女が、とか口にしようものなら、また十四夜のようになっても困る訳で、後の句が続かなくなる。

「別に構わないわよ」

「え?」

「だって、息抜きだもの」

「はあ」

「景色は見えなくても、一息つければいいの」

 こんな山奥で男の住処に上がり込む事の意味が

 ──分かってんのかよ?

 と思った具衛だが、子持ちの仮名の事だ。

 ──分かって言ってんだろーなぁ。

 と、頭の中ですぐ修正する。つまり、

 ──参った。

 その状況は、想像だに妖しい。

「部屋に入ってしまったら、何も変わった趣向はないんですが」

 気マズさ満点の室内になる事請け合いだ。大体が、客を目の前に本を読む訳にもいかないだろう。

「だから別にいいんだって」

「いや、でも──」

「もう、普段のあなたときたら──」

 呆れた仮名が、小さく嘆息した。

「何もいらないのよ。その、同じ空間を──」

 とか、か細い世迷言が、また具衛の動揺を誘う。

「同じ空間って──」

「ああもうっ! 何もないって言うんなら、庭をライトアップすればいいじゃない!」

 自分の言った事を他人におうむ返しされて、ようやくその痒さに気づいたらしい仮名が、俄かに固まる具衛を前に「このニブ!」と悪態を吐くと、

「真っ暗になったからもう帰るわ!」

 とか言う捨て台詞と共に、さっさと車に乗り込んだ。そのまま、つい先日バキュームカーが転落したばかりの落とし穴跡に気づいた様子もないアルベールが、颯爽と庭を後にする。

「ライトアップねぇ──」

 それなら目のやり場が担保出来る

 ──のか?

 と(いぶか)しむ具衛は、立ち去るアルベールを目で追い続けた。


 ヤクザ者の襲撃が収まった次は、やはり国家権力だった。多くても日に何度か見かける程度だった駐在所のミニパトカーや、私服警察官が乗る素気ないセダンが、張りつきになってしまったのだ。文字通り四六時中、具衛の行動を監視するようになったのは、仮名に庭のライトアップを勧められた次の日。ヤクザと休戦して一週間も経っていない事で、やはり高千穂の命だろう。

 中々──

 しつこいこのつき纏い。セダンの私服二人組がメインらしく、具衛が行く所なら何処でもついて来る、という徹底振りだ。

 俺の行く所なんて──

 知れているというのに、それでもこの二人組は、延々とついて来る。

 所謂尾行というヤツは、その対象者に気づかれた段階で、軽犯罪法に定める

 ──【追随等の罪】なんだがなぁ。

 それは捜査機関といえども、その行為に正当性(正当職務行為)が認められない限り、違法性は阻却(そきゃく)されない。が、この場合、それを警察に訴えたところで、取ってつけたような理由を根拠に、正当性を主張する事は目に見えている。それ以前に、

「捜査上の秘密だ」

 とかで、取り合わないだろう。で、あるから捨て置いている。つけ回されるだけと分かっていれば、別に気にはならない具衛だ。が、こう言う展開は、その周囲が騒ぎ出す。何せ具衛が動く度に、ご丁寧にも一定の間隔を空けてつけ回してくれるのだ。誰の目に見ても狙いは明らかな訳で、好奇の目や根も歯もない噂が刻々と状況を変えていく。

 それにしても──

 日本の国家権力も辛抱強いというか、

 ──暇というか。

 神経戦、と言われる手法だ。これが大抵の国ならば、動くのは諜報機関だろう。間違っても精密さの観点において、素人に毛が生えたような稚拙な暴力集団は使わない。両者の共通点は、「何をしでかすか分からない」という事で、その点において遵法的な日本警察は分かりやすいと言える。つまり、このあからさまな遠巻きの状況は、今のところ「見ているだけ」というメッセージであり、警告と捉える事も出来た。手を下す前に手を引け

 ──って事なんだろうな。

 ヤクザの次は、本物の闇が攻めて来る。今の状況はその繋ぎだ。

 ──って、どんなのが来るのかねぇ。

 あくまでのんきな具衛は、ちょうど宿直中なのだが、その目線の先には、やはりセダンが止まっている。

「先生、今日も止まっとるよ!」

 晩メシ時の宿直室へ容赦なく雪崩れ込んで来る元気印少年ケンタに、遠慮という言葉はない。

「勤勉な人達だからなぁ」

「護衛も大変なんじゃねぇ」

「風呂にも入らず、徹夜で張り込みじゃけぇの」

「徹夜するん?」

「大人になったら、そういう仕事もあるって事よ」

「ふーん。大変なんじゃねぇ」

 と、たわいないやり取りだが、噂の張本人に対するこうした声は少ないのが世の中というものだ。大抵の場合、噂話は尾ひれをつけて水面下で広まり、気づいた時には本人以外のところでそれが真実となっている。それがゲナゲナ話なら、事実は一つでも、真実は人の数だけあるようなものだ。ケンタのような無邪気な声は、実は貴重だったりする。

「次のシュッテイ(・・・・・)はいつなん?」

「守ってもらっとる人間が、秘密を漏らせる訳なかろーが」

 命を狙われる可能性がある程の重要事件の証人になってしまい、私服警官に護衛されている、とか言う、それこそゲナゲナ話だ。ケンタはこれで、事情を知らない第三者としての役目を十二分に果たしてくれている。

「ふーん。今度行った時、なんかお土産買って来てよ」

「裁判所でか?」

「うん」

 年端もいかない善意の第三者を都合よく使っている具衛だ。その無心を渡りに船で、ここはご褒美をやる場面だろう。

「じゃあ売店で、小六法でも買って帰ってやろうか?」

「しょーろっぽう?」

「法律の辞書みたいなモンじゃ」

 判型の小さい素人向けの、言わば家庭の法律辞典であるそれは、法の実務家が使うには内容が薄い。が、ネットが普及する一昔前には、大抵の家庭に一冊はあったものだ。

「法律は少なからず、我が身の行く末を助けてくれるで?」

「うえ。饅頭とかでいーんじゃけど」

「裁判所饅頭か?」

 今時、饅頭をねだる子供とか。そんなケンタの中に、昔懐かしの腕白少年を見る具衛が、一旦箸を置く。

「──まぁ何かあったら買って帰ってやるよ」

 と、その愛すべきいがぐり頭撫で回してやると、毎度期待を裏切らず、ジョリジョリといい音がした。

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