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霜降【先生のアノニマ(中)〜1】

 一〇月に入った。

 県北の山間部に位置する高坂真琴(こうさかまこと)の会社の周辺は、急に色づき始めている。

【株式会社高坂マテリアル】という名を冠する真琴の会社は、約二〇年前、社内工場の再編に伴う移転を行った。それまで神奈川県の都境にあった本社兼主力工場を、広島県北西部の中山間地域に位置する地方都市に移した、という大移転だ。以来本社は、その片田舎にあった。

 稀に見る思い切った移転だったが、半導体を主力生産する会社として、環境の良さと豊富な山水、広大な敷地と高速道路IC傍にある交通の利便性、等々のポジティブ材料を支えに移転を断行。その結果、更に会社を発展させた上、地方自治体の雇用創生やインフラ整備を始めとする中山間地域活性化に一石も二石も投ずる事となり、国も目を見張る程の、積極的社内再編における企業と自治体の成功モデルの一つとなった。

 通称【サカマテ】と言えば、半導体の世界シェアで、圧倒的な強さを見せる米企業に対抗し、国内勢で唯一健闘を見せる【日の丸半導体】最後の砦。今やその国内シェアは、五割に達している。その本社棟の一室。

「はぁ──」

 と、溜息をつく真琴は、ファイルやペーパー資料、機械の模型などを所狭しと並べた事務机を前に、椅子にどっぷり埋もれていた。眉間に皺を寄せ、目頭を押さえて瞑想しているのか、只単に苦虫を潰しているのか。机の上の物々は、整然と並べられてはいるが、ファイルやペーパーは付箋塗れだ。そのまま卓上箒の代用に使えそうな程、中身は込み入っている様相。

 室内は真琴の自宅(タワマン)の居間と同等程度の広さで、応接ソファーつきで三〇畳はあるだろう。が、事務机だけで二畳弱。加えてキャビネットや応接もあれば、その室内は真琴の自宅の居間よりやや手狭に感じる。座高よりも頭一つ分は高いエグゼクティブチェアに埋もれたまま、椅子を半回転させた真琴は、徐に目を開いた。

 秋か──。

 緑に混ざって燃えるような朱や赤が、山を彩り始めている。日を追う毎にそれらが広がりを見せている室内から見える山々は、真琴が社内で唯一、安らぎを感じる事の出来る景色だった。四月に赴任して以来、息抜きにこの山々を眺める事幾多の真琴のそれ以前と言えば、都会暮らしの人工物に囲まれた生活が当たり前。自然に心を寄せる機会も余裕もなければ、それは荒んだ生活だった、と思うのは今だからこそだ。

 ──山はいいな。

 職場の自室から見える景色は、それらが折り重なり、重厚な奥行きを見せつける西中国山地の雄大にして圧巻のパノラマ。それでも当初は、端末や書類に目を通す生活で、近くなった目をほぐす程度の活用でしかなかった。が、梅雨真っ只中に偶然見つけた山小屋で、箱庭のような景色に心を奪われてからというもの、移り行く自然に心を寄せるようになった

 ──とか。

 ウソも大概だ。いい加減、自分の中では認めざるを得ないその中身。突如として真琴の中で芽生えた自然造詣の半分以上は、実は下心のようなものだったりする。

 梅雨時以降、週一で通うようになったその山小屋も、訪ねる度に秋が深まっていて、会社の周囲と同じく季節が何処か足早だ。真琴の自宅がある市街地のタワマン近辺では、まだ半袖で過ごす人も見かける程に、季節感に差がある。

「着る物に気をつけた方がいいですよ」

 とは、いつぞやに聞いた、山小屋に住む仙人暮らしの【先生】のアドバイスだったが、それは事実だった。職場と自宅の往復だけで、季節が一か月は違うのだ。特に寒くなる時期のそれは、一番季節の開き方が大きくなるらしい。

 瀬戸内海に接する広島の市街地は、気候的には年間を通じて晴れた日が多く、晩夏から初冬にかけては地中海性気候に近い。温暖な日が続き、近年では秋をすっ飛ばして突然冬が来るような感覚。ところが【サカマテ】が居を構える県北西部は、明らかに内陸性気候で、夏暑く冬寒い。特に秋は一日の寒暖差が大きく、ひどい時には二四時間で四季を感じる程だった。

 今日の出勤時も、冬物のコートを羽織るかどうか悩んだ真琴だったが、街の朝はまだ寒さに乏しく、結局秋物の薄いコートにした。パンツスタイルのスーツも秋物だ。が、高速道路の出勤途上、車外温度を示す車の温度計がみるみる下がって行くのを見て青ざめたところで後の祭り。結局、出社直後の余りの寒さに、全従業員に貸与されている赴任以来未着用だった会社ロゴ入りの冬用防寒ブルゾンをロッカーから引っ張り出して着る羽目になった。朝一のホットコーヒーを持って来てくれた、秘書課の女史に笑われたのも何かの洗礼だ。日頃からそれなりに体を動かし、体調体力維持を心がけているとは言え、寒いものは寒い。社内はSDGsで春から秋はクールビス、秋から春はウォームビスだ。この時期の空調の設定温度は何処もかしこも二〇℃で、寒さに慣れていない身体が暖まるには、少し弱かった。

 流石は──

 山の仙人の助言、という事だろう。

 ボンヤリとそんな事を思い出す真琴が、南側の窓に目を移し、その山小屋に至る山々を眺め始める。十四夜以後も週一ペースで通っているそこだが、あれ(・・)以後も二人の間に目立った進展はなかった。何処かへ出掛ける事もなければ、先生が自宅を訪ねて来る事もない。二度唇を重ねた割に、相変わらず二人は仮名と先生のまま。

 あの日の前日。おたふく風邪と無菌性髄膜炎の完治診断をようやく得た真琴は、嬉しさの余り、先生に長文のメールを送りつけようとした。山小屋を訪ねる機会を二度すっ飛ばした上、家政士の由美子も東京へ帰した後の、独り身の療養生活は思いの外応えた。死ぬような事はないと分かってはいたが、健康を害した状態で独り切りだと、思考が勝手に後ろ向きになってしまう事を、今回程痛感させられた事はなかった真琴だ。これまで大病に無縁だった真琴にとって、この二週間の療養は人生初の長期病欠だった。外見の垢抜けたイメージとは裏腹に、人生の大半を気合と根性で乗り切って来たこの女傑は、この二週間の療養を、日頃の激務の骨休みぐらいにしか考えていなかった。

 ビジネス上、急ぎの仕事はなかったが、懸案を上げると切りがない。いくら切れ者の即戦力で就任させられたとは言え、一人で出来る事には当然限界があった。いい加減ここら辺で、四月から自分がやって来た事の効果を試す必要があった矢先の病欠。自分が抜けても少しは仕事が回っている事を期待しつつ、戻った時に待っていたのは落胆だった。が、それでも健康を取り戻し、復帰出来た喜びの意外な大きさ。損なって気づく健康の偉大さを、この聡明な女をしても身をもって教えられたという事だ。

 病気療養中にメールをしなかったのは、押しかけられでもしてうつしてもいけない、という気遣いで、そこにウソはない。

 アイツは多分──

 妙な責任感を帯びては、必ず押しかけて来る。それでメールを送る事を憚ったのだ。

 確かに先生の言う通り、適当に取り繕うメールを真琴も送ろうとした。が、普段から事務連絡と変わらない、味気ない内容のやり取りしかしてこなかった二人だ。いきなり取り繕うと

 ──変よね、やっぱり。

 と思ったのもそうだが、それ以上にいざ打ち始めると、殊の外思いが溢れる内容に、

 ──なってしまうとか。

 そんなものをいきなり送りつける事の有り得なさ。そんな小っ恥ずかしさこそが、メールを送らなかった本当の理由だったりする。と同時に、

 ──寂しい。

 と、素直に感じる事の葛藤。日を追う毎に募る思いも、どうしようにも出来ない。結局、二週間沈鬱、ぶっちゃけ半分泣きベソをかきながらの療養を余儀なくされるとか。口が裂けても、死んでも誰にも言えないような失態を、真琴は自宅で晒していたのだった。

 で、完治を得て早速メールを打ち始めたのだが、するとやはり、療養中の鬱憤が見事に出てしまう。我に返ってみると、先生を暴走させないための苦しみを強いられた、とか言う情けない恨み節の長文を延々と打ち込んでいた事に気づく自分。それを危うく

 ──送れるかこんなの!?

 その直前でどうにかそれを思い止まり、何とか破棄出来たのはよかった。子供染みた恨み節を送りつける失態に比べれば、十四夜の出来事は殆ど真琴のペースだった訳で、全く問題にならない。思い止まった真琴は、完治を得た当日、先生の襲撃に備えて掃除や料理に勤しんだ。

 先生の非番日を狙い、十四夜当日の夕方、満を持してメールを送ったところ、先生の動きは予想通りで、内心大笑いしてしまった。しばらくは、掌の上でそんな先生を構う余裕があったのだが、途中から同時に満たされて行く感覚が芽生え始め、自分でも驚いた。当初は、夕食を済ませたら車で送って行くつもりが、次第に思いは募り、折角の機会に惜しさを感じるようになる。と、気づいたら、自分が暴走していた。

 病以上に凹んだ療養期間。知己を頼る事が出来ない辛さ。それ程までに、何処かで先生に依存した生活を送っていた自分。それはつまりは、世間一般で言われるところの、惚れた腫れただ。

 わ、私が──!?

 内心それに驚いたが、いきなり自分の中でそれを受け止められよう筈もない。とりあえず動揺を鎮めるために、あーだこーだと、それこそ本人を前に子供染みた駄々を捏ねては、困らせるような憎まれ口を叩いてみた。それでも、湧き上がる思いを押さえつけられなかった真琴は、告白だか独白だかよく分からない、想いの暴露に至る。結局、

 暴走したのは──

 自分の方だった。

 何て事ない平凡そうな男を相手に、とは少し言い過ぎかも知れないが、確かに外見は何となく整ってはいるものの、後は只の変わり者でしかない男。

 その変わり者は、よりによって夏を迎えて以降、着る物はおろか小屋の中の至るまで、仄かにバニラのような匂いを漂わせ始めた。米糠に含まれる成分の一部が、涼しいとは言え盛夏の熱で、バニラ香の元であるバニリンを生成したのだろう。その事実は、真琴が既製品の米糠洗剤で実証済みであり、特に驚きはなかった。が、意味合いとしては、油断していると失笑が漏れそうになる。

 だって──

 何て事ない男から、

 ──バニラだとか。

 英語の比喩でバニラと言えば【凡庸】を意味するそれは、俗語でも芳しからぬ使われ方をする。それは最近、真琴自身からもしている匂いだが、真琴のそれは自分で言うのも何だが、流石に物が良く上品な香りだ。加えて凡庸とは駆け離れた立ち位置の真琴に対し、流石にそれを嘲笑するような中傷は聞こえて来ない。

 一方で先生のそれは、やはり米糠メインの匂いなのだが、気の抜けたパンと言うか。仄かに漂うボヤけた甘さは、一言で安っぽさを思わせ、余計笑えたものだった。その何処かしら垢抜けない子供っぽさに、当初は微笑ましく思っていた、そんな自分。が、気がつくと、移気をもよおし始めている自分。奇しくも以前、自分が、

 能動的に籠絡したらどうなるのか──

 と思った、その通りの行動を図らずもやってしまった結果が、あの二日間だった。が、その後の二人の立ち位置は、また元の鞘に戻ったように何も変わらず。お互いに感情的、衝動的な行動も、全く鳴りを潜めている。

 何か外的要因が、

 ──必要?

 なのか。

 ボンヤリ南の山々を眺めていると、卓上の電話が鳴った。机に向き直して壁掛け時計を確かめると、午前一〇時半を示している。

「もう、こんな時間か──」

 他に誰もいない室内で、大きな溜息を吐いた後受話器を取ると、やはり予定の来客が到着した、との連絡だった。受話器を置き、

「アイツか──」

 と舌打ちしながらも頭を抱えていると、何者かによって居室の片開きドアが、乱暴にドアノブを回すの音と共に無遠慮にも開け放たれる。

「やぁー専務! 久し振りぃ!」

 と、入って来たのは、働き盛りの四〇代と言わんばかりの、豪放磊落めいた堂々たる偉丈夫だった。

「何年振りかなぁ!」

 背広姿が板についている、身長一八〇cm超の男のフラワーコーナーには、テレビで見慣れた赤紫色のモールに金色菊花模様を配した、議員バッジ(権力の象徴)がつけられている。それがズケズケと入って来るなり、卓上にうなだれている真琴の手を勝手に取ると、委細構わずブンブン振り回しては無理矢理立たせると来たものだ。その厚かましさと言ったら、忌々しい事この上ない。真琴は盛大に顔をしかめ、空いている左手で頭を掻きむしった。

「久し振りに会ったのに、そんな顔をしなさんなぁ! ハハハハハーッ!」

「外務大臣ともなると、より一層厚かましさが増したんじゃなくて?」

 高千穂隆介(たかちほりゅうすけ)、四八歳、元外務官僚。早々に引退した父の地盤を引き継ぎ、三三歳という若さで衆院選に出馬し当選。以後、衆院五期連続当選中の若手有望株だ。出身は東京だが本籍地は広島。同地出身の元首相高千穂隆一郎たかちほりゅういちろうの二男という秘蔵っ子として、政財官で知らぬ者はいない。が、それにも増して悪名高く、父の威光を傘に威張り散らしては、今春から外務大臣を務めている。とは、何処からともなく伝え聞かれたる風評。

「まぁ、そう言いなさんなって。今日は隣の選挙区の御大将もお連れしたんだから」

 ささっ、先生! どうぞこちらへ、などと高千穂は、口八丁手八丁で一緒に連れて入って来た、七〇前後の尊大そうなバーコード頭の背広男を真琴の前に引き寄せ、無理矢理握手をさせる。

 ──うわ!

 と、思わず声を上げそうになる程の、脂に塗れたその手の持ち主は、下手泰然(しもてたいぜん)、六八歳。高千穂の隣の選挙区で傍若無人を働く、与党【自由共和党】の重鎮。こちらは選挙区に大手自動車会社を抱えるも、労連勢力を差し置き、票田、資金源を構築している中々強かな選挙屋だ。それ以外では脳もないのに金に物を言わせては、昨春から当たり障りのない【国家公安委員長】のポストを得たという権力の亡者。とは、やはり何処からともなく伝え聞かれたる風評。あだ名は苗字の読み返えから転じた【ヘタレ】。

 月並みな口上を交わした時に手に伝わる(ぬめ)りがひどく、乾燥し始める季節柄

 ──何か塗ってるの!?

 と思ったものの、保湿クリームを塗るようなタイプにも見えなければ、鼻を突くポマード混合の加齢臭が只ならない。瞬時に嫌悪感最高潮となった真琴だが、そこをどうにか堪えると、

「ほら、時間が勿体ないわ。早く工場視察に行って来なさいよ」

 と、二人のポマード臭い男達を追い払った。

「じゃあまた後で!」

 などと、意気揚々と退出した男達と、この後外出する予定になっているこの女の次なる予定は、一二もなくまずは室内の端にある洗面台だ。手を洗わない事には、何をする気にもなれない。

「──何で私があんなヤツらの相手をしなきゃなんないのよ!」

 とは言ったものの、現職の二大臣を相手取る役回りなど、社内でも限られようものだ。

 株式会社高坂マテリアル取締役専務執行役員兼CAO(最高総務責任者)。今春からその肩書きで務めている真琴は、一応その限られた人材と言って差し障りがなかった。一応上には社長も会長もいるのだが、いずれもオヤジ達だ。それも中々の古狸と来ている。それよりは、表向き見映えのする【美し過ぎる専務】が対応した方が、会社としても何処かに対して覚えがめでたいと言うものだ。そんな宛てがわれ方が、また忌々しい。

「あぁ嫌だ嫌だ!」

 呪文のように繰り返すも中々取れない(ぬめ)り気は、長年の油っこい食事と酒浸りによるものに違いない。それを可能にして余りある身分という事だ。国家に寄生し、金と権力に執着する亡霊。それが今のポマード臭い男達の正体。

「選挙期間外だってのに!」

 今日の来訪も、視察の建前で本音は単に選挙対策だ。勤務中は多忙を極めるのに、高千穂の圧力で今日はもう仕事にならない。午後からは【先生】の町の役所前で開催予定の演説会に参加させられるのだが、その前に町の有力者の豪邸で昼食会というから、重ね重ねも堪ったものではなかった。

「今の今だって、違法演説やってやるようなヤツらよ!」

 選挙運動とは、基本的に選挙期間中に限られる。だからその期間外の活動は【政治活動】であって【選挙活動】であってはならない。言葉遊びのようだが、要するに票集めに繋がるような言動さえ気をつければ、その根拠法たる公職選挙法に反しない、という訳だ。が、饒舌にして功名心旺盛の方々の事。口がよく(すべ)る。滑るのならまだいい方で、大抵は意図的だ。が、演説中にうっかり票集めに繋がるような文言が出たからといって、即座に検挙される事はない。何事もある程度は遊びがあるものだ。そこはまさに【言葉遊び】ではないが、その範疇で片づけられて行く。

「SPやら警護の人間も現職の警察官だろうに、何やってるのかしら全く!」

 真琴が憤るのも無理からぬもので、法の額面上は例え口が滑っただけでも、現行犯逮捕が可能だったりするのだ。もっとも警護の人間が、その警護対象者を選挙違反で現行犯逮捕したなど聞いた事もない。結局は国家の犬、という事なのだろう。飼い主に咬みつけば後が怖い。

 矛先を同じ穴の(むじな)に向けながらも、洗った手を嗅いでみた真琴が、

「落ちない!」

 と、また洗い直す。

「どんなモン飲み食いしたら、あんな脂っぽい手になるのよ!?」

 日頃、殆どベジタリアンに近い食生活を送っている真琴にとって、その(ぬめ)りは到底受け入れられない(けが)れだった。


 同日、午前一一時四〇分。

 ピカピカに磨き抜かれた黒塗りの国産高級ミニバン二台と、それを取り巻く数台が、車列をなして仰々しく【サカマテ】を出発した。高千穂外相と下手国家公安委員長は、それぞれ別車だ。両方とも【自共党】の車で、別々乗車は万が一を考えての事、という事らしい。

 これと全く同じ型の車に追われた事が、

 ──あったっけな。

 それは実に早いもので、あれから(花火大会)もう三か月だ。先生の山小屋へ向かう際に使う、通い慣れた道を走り始めた車内で、真琴が花火大会を思い出しては表情を和らげる。と、

「やっと機嫌が直ったか」

 とか、ちゃっかり隣に座っている高千穂が如才なく表情を読み、馴れ馴れしくも思考に割り込んで来た。真琴は殆ど無理矢理、高千穂の車に同乗させられている道中だ。

「しかしその年で大企業の専務とは、出世したな」

 何歳になった、などと年を計算する素振りを見せるその男に、口を開いた真琴が鋭い舌鋒を浴びせようとする刹那、

「相変わらずの美貌だしな」

 などと、上手くすかす手口も相変わらず(・・・・・)で、憎たらしい事極まりない。

「何処かの悪徳大臣と違って、こっちは全うに生きて来たから、精々雇われ専務の身なのよ」

 大臣専用の高級公用車はどうしたのよ、と容赦ない真琴だ。

「公用じゃないのに公用車使っちゃマズいだろう」

「あら、少しはまともな事を言うようになったじゃない?」

「外務大臣ともなればな。そう悪さばかりもしておれん」

「お巡りさんがいるのによく言うわ」

 助手席に目を怒らせて乗車している警察官は、背広のフラワーコーナーにSPバッジをつけた大臣専属の警護官。大臣が行く所なら、国内は元より地球の裏側までも着いて行くという、文字通りの【動く壁】だ。それらの大抵は、警視庁警護課所属の護衛のスペシャリスト。因みに前後を挟むセダンは、地元警察の護衛であり、地元の警察官である場合が常だ。この日は、地元に地盤を持つ大臣が二人同時に帰広し、しかも帯同するという事で、広島県警の護衛警察官達が四台十数名体制で護衛に当たっていた。

「コイツらは手下だからいーんだよ! 後ろの車にゃコイツらの親分が乗ってるんだし」

 なあ? と悪態を吐く高千穂に対して、

「はっ」

 と、慇懃いんぎんに返事をするSPの心中や如何ばかりか。国家公安委員長とは、つまり事実上の警察大臣の事だ。

「ハハハハハーッ!」

 と、得意げに笑うそれは暴君に外ならず、とは車内の誰もが認めているところではある。

 それにしても──

 会社の所在地が、

 コイツ(高千穂)の選挙区だって事を──

 忘れてたのは、真琴にしてみれば近年稀に見る痛恨事だ。その忌々しさに、自分自身にも高千穂に対しても腹が立ち、

「まさに【虎の威を借る狐】ね」

 と言う真琴は、いつもにも増して言いたい放題だった。

「相変わらず手厳しいな」

 そう言うなよ、と高千穂は尚も馴れ馴れしい。

「それよりもな──」

「アンタ少しは黙ってられないの? 車内の人達みんな閉口してるわよ!」

 真琴は相手が大臣とは思えない物言いで、車内で王様気取りの男を容赦なく罵倒する。

「わーかったよ! 少し黙る」

 流石に憮然とした高千穂だったが、それにもめげず小声で何事か真琴に囁くと、

「何訳の分からない事言ってんのよ!?」

 とか叫んだのは、外ならぬ真琴だ。

「コラコラ、少し静かにしろよ」

 しれ顔の高千穂が真琴の口を手で塞ぐと、瞬時にその手を取った真琴が、あっと言う前にその腕を捩り上げた。

「あだだだだ!」

 無様な悲鳴を上げる高千穂を、SPや同乗している党員が慌てて見咎める。

「ちっ!」

 真琴が舌打ちをしてその腕を緩めると、高千穂の悲鳴が収まると共にその視線も収まるという忌々しさだ。今やまさに、一挙手一投足が注目される御大尽とは、こういうところでもそれが炸裂する。

「気をつけた方がいいぞ。俺は昔の俺じゃない」

 しかし相変わらずだなその腕前は、などと強がる高千穂を、

「フン!」

 と、盛大に侮蔑する真琴だ。大臣の立場を傘に横暴の限りを尽くせる、と脅しているそれが面白かろう筈もない。

「まぁ考えといてくれよ。そのうちお義母(かあ)様からも話がある」

「誰がまたアンタなんかと!」

「俺はやり直したいんだよ、真琴」

 などと、甘い声を出して真琴を呼びやる、この一見してろくでもない男と、不覚にも真琴は夫婦だった事があった。

 ──クソ!

 可能であれば人生をその婚前まで巻き戻したい。それが無理なら当時の記憶を消し去りたい。思い出しただけでも虫酸が走るその痛恨事は、外務省が発端だった。

 元外務官僚の経歴を持つ真琴は、二五歳の時、人生最大級の黒歴史を刻む出来事に遭遇した。当時、外務官僚だった先輩の高千穂に、その美貌を見染められてしまったのだ。高千穂は、中々の偉丈夫にして良い男振りで、真琴が見てもそれなりの仕事振りだった。自身の美貌に絶対の自信があった若かりし頃の真琴は、その分かりやすいステータスがソコソコ気に入り、とある事情を内包した上で、さっさと結婚してしまった。真琴も若かった、と言う事だ。高千穂は元首相の子というサラブレッドでもあり、中々人気を博していた。が、その裏で【スケコマシ】の異名を持ち、その毒牙に泣いた女は数知れず、というだらしなさでもまた有名だった。が、真琴としては、それでも自分の美貌に平伏しない男など存在しない、という自負があり、ちょうどその頃、実家から婚期を心配する声も上がり始めていた事も相まって、ここらで一度結婚しておくのも一つの手だろう、とか言う軽い気持ちも手伝っての判断だったその結婚は、翌年一人息子を出産前後に、このろくでもない男の不倫によってあえなく瓦解する。激怒した真琴は、出産直後に離婚(結局は高千穂が駄々を捏ねたため、法廷闘争の末協議離婚)。一人息子はその後独りで育てた、という、拭い難い黒歴史を背負わされる羽目になった。その一人息子は現在、本人立っての希望で、東京在住の唯一の実兄に預けている。離婚にまつわる屈辱は、高千穂よりも真琴に向けられる向きが多く、自暴自棄に陥り自殺が頭をよぎった事すらある、そんな痛恨時。が、

「あんたが欲しいのは、私じゃなくてうちの実家でしょ!」

 と、真琴が怒鳴り散らすこのスケコマシは、そんな真琴の懊悩など知る由もない。

「当然それも欲しいが──」

 などと、変わらずキザを振りまく高千穂が、

「欲張りな俺は、お前も欲しいのさ」

 と、すかした事をぬかすその裏で、欲しがるその真琴の家とは、旧財閥高坂家の宗家だった。

 江戸時代に武家から商家に転じ、莫大な富を築いた豪商として名を馳せる同家は、系図を辿れば戦国時代までは確実に辿れるという、数百年の歴史と伝統を誇る武門だ。その後商人に転じたとは言え、金で士分も維持していたその一族は、明治維新を経て瞬く間に政商に成り上がり栄華を極めた。が、先の大戦後、財閥解体の憂き目に合い一度は没落。それでも当時の当主の先見性と商才で不死鳥の如く復活する。一から興した別会社で一財産を築き上げると、瞬く間に旧財閥系グループをまとめ上げ、新生高坂グループを再興。以来、今に残るその創業宗家は【日本一の金持ち】とも称される、国内有数の大富豪だ。とは言え、高坂グループのその創業宗家の影響力は、近年先細りの傾向にある。一族から優れた人材が出たり、グループ側から要請されれば経営に参画する程度だ。真琴はその手腕を見込まれ抜擢された手合いの、そんな高坂宗家の一員にして現当主の長女だった。が、如何に有能といえども、今時血筋による企業統治の、その時代錯誤に対する反感は大きい。複雑かつ肥大化した現代の巨大企業の経営に、世襲は馴染まないとする向きの声は真琴の耳まで届く。

 招聘されたのは、決してその才を頼ったのではなくむしろ媚び、という理由の一つに、宗家が握るグループ企業の膨大な株がある。将来の有事に備え、グループが宗家にそっぽを向かれたくない、当然の予防線だ。真琴はサカマテ専務の他にも【株式会社高坂総合研究所取締役】【高坂財団理事】などの肩書きを合わせ持っているが、高千穂の狙いは真琴ではなく、それを足掛かりとした真琴の実家の財産と権力。高千穂が言う【お義母様】とは、真琴にとっては外ならぬ実母で、それこそ政財官では知らぬ者はいない、真琴の天敵だったりする。

 母は【高坂美也子(こうさかみやこ)】と言い、今や高坂宗家の影の当主と称される辣腕だ。才智に溢れ、努めて体裁は影ながら当主たる夫を支え続けている。が、その実体が大物フィクサーである事は、今や公然の秘密のようなもの。出自は、知る人ぞ知る武家故実の大家にして、やはり数百年の系譜を誇るも、今や没落寸前という旧家三谷(みたに)家にあり、家を継ぐ必要がなかったその女は、その有り余る気概から国防を志す。その意気たるや、当時女性に門戸を開いていない防衛大学を始めとする世界各国の士官学校入りを画策したというゲナゲナ話で、結局やむなく(・・・・)東大に入学。卒業後は、安全保障学者として世界的なシンクタンクの渡り歩く。が、しばらく後、その才を後の首相である高千穂の父が求めたため帰国。そのまま政策秘書となる。この頃、真琴の父と結婚し、出産も経験するなど公私共に多忙を極めたが、大変な知恵袋として重宝され、国政の舞台裏で数々の難局を支援。高千穂の父をして「望めば国が取れる」と言わしめたが、公私両立のためあくまでも秘書に徹した。子離れして家が落ち着くと、首相となった高千穂から殆ど無理矢理駐仏大使、国連軍縮大使を矢継ぎ早に命ぜられ、還暦を過ぎた身で約一〇年間、時の人となった。その中途半端な論功行賞的計らいは、裏で名を伏せたまま暗躍される事を首相が恐れた、とも言われる。世間に身を晒したのはこれが最初で最後であり、以後は政治的関与が疑われないよう、グループ内では事実上の閑職。が、その実今でも、未だ国際的な影響力を持つ高千穂元首相や、仏が誇る世界的コングロマリットの現会長にして元仏大統領のフェレール氏とは、元仕事仲間(・・・・・)として密接なつき合いが続いている大物中の大物。とは、ネット辞書で勝手に掲載されている情報だ。が、何処の誰が調べて書いたものだか知らないそれは、全て正しかったりする

 ──のよねぇ。

 真琴を取り巻く周囲とは、こんな実家で、こんな母だ。余談だが、この影の大物の整った容姿と洗練された立居振舞は有名で、真琴のルーツは間違いなくここだったりする。が、その実娘たる真琴は、そんな母とは幼少期から衝突の連続で、ここ何年は実家に近寄りもしない反目の関係とは、知る人ぞ知る内情。

 真琴にしてみれば、

 考えるだに──

 気が狂いそうな、獅子心中の虫の如き実家で母。そんな家を狙い母に媚びるとか、世の中物好きもいるものだと思う真琴は、正直なところ実家も母もくれてやってもよいとも思う。が、自分がその野望に巻き込まれて掻き回され、平穏を害されるのは当然許せない。結局のところ、望みもしない争いに巻き込まれ、辟易させられる構図。生まれてこの方、いつになったら、こんなどうでもよい事で悩まなくてもよくなるものか。

「あんまり欲を張ると、ろくな事にならないと思うけど」

 それは忠告というより、殆ど諦めだった。

「心配してくれるのか?」

「誰が!? 寄生虫も程々にしとけって警告よ!」

「言ってくれるな」

 議員バッジをつける者に違わず、大概にプライドが高く、その名の通りの見栄っ張りのろくでもない男は、そんな元妻の言葉で止まるような人間ではない。精々野心家らしく、

「いずれは日本一の財力と権力を、俺の物にしてやるさ」

 と、不敵に笑った。

 殺せるモンなら──

 殺してやりたい。

 そんな男は目下バツ三で、女癖の悪さも然る事ながら、あちこちに子種を振りまくろくでもない【ひも】男でもある。


 自共党の車で連行された先生の町の有力者が住む大豪邸は、国道沿いに位置する役所の出張所前から伸びる一直線の道路の突き当たりにあった。農村には似つかわしくない、白色実線で整えられた幅広の対面通行路は、周囲の道路に比べて明らかにアスファルトの舗装が上質で、経年劣化を感じさせない。田園を貫くその一本道が既に有力者の力の大きさを物語っているにも関わらず、加えてその終点に聳える屋敷は周囲よりやや小高い丘陵上にあり、まるで辺りを見下ろし従える趣きの、ちょっとした城のようだった。

 外周を白い土塀が囲っており、土台は石垣。敷地の広さはちょっとした学校のそれと遜色なく、遺漏なく囲われた塀の端から端までは、軽く二、三〇〇mはあろうかという呆れた広さだ。と言っても正面から見ただけで、側面や裏手はまだ目が届かないため、詳細な広さは分からない。表がこれだけ広いのだから奥行きも相当なものだろう。盆踊り会場だった程近くのグラウンドよりも、

 ──広いわねこれは。

 と密かに思っている真琴は、また先生と出掛けた時の事を思い出しては、今度は一々うるさい高千穂に気づかれないよう顔を背けた。ちょうどその時、車に乗ったまま潜った正門が、まさに城門のあつらえだ。普通の一戸建て住宅より遥かに大きい、今時出鱈目な大きさのその門の構えに、然しもの真琴も少し呆れる。

 うちの実家より──

 広いのではないか。

 真琴の実家も相当なものだが、それでも東京の郊外の事だ。ここまで野放図な広さはない、と思う。

 それもその筈で、御当家は【安芸武智(たけち)】氏という、広島の郷土史に明確にその名を残す、由緒正しき有力豪族の末裔だ。江戸時代は庄屋で、その邸宅は本陣にもなった。更に辿れば、戦国期は安芸国人衆の一角。中世においては、荘園領主から名田を預かる名主だったとか何とか。とは、忌々しい隣のスケコマシ(高千穂外相)が、車中で予備知識として開示した情報だ。それにしても荘園の時代とは、真琴の実家と、

 ──似たり寄ったりねぇ。

 としたものらしい。こんな地方の片隅にも、凝り固まったどうしようにもないのが

 ──いるものねぇ。

 などと閉口したのは、その美女の頭の中だけの話。

「高坂と申します」

 初見の挨拶で、スケコマシに紹介されて名刺を差し出した折の相手方は、中肉中背の一見平凡そうな好々爺だった。が、その物腰柔らかそうな老紳士を認めた真琴が思わず、

 ──あ。

 と出そうになったその声を、密かに慌てて飲み込んだのは、これ以上高千穂に隙を与えたくない一心だ。実はこの二人。初見ではなく、

 ──二回目だったりするのよねぇ。

 では初見はと言えば、それは外ならぬ盆踊りの折だった。先生の施設に入所する少年被害にかかる恐喝事件、所謂【ショウタ】事件の折。真琴の意見を参考に実行委員会の総意をまとめ、被害者と加害者の間を仲介し話をつけたのが、実は目の前の老紳士だったりした。盆踊りの実行委員会本部にいながら無役だったこの人は、しかして要所で何故だか采配を諮問されていたお爺さん

 ──よね絶対。

 という、思いがけない再会。あの時の真琴は、半狐面を被って身分を偽っていた手前、自己紹介もあったものではなかったが、ここでそれ明かしたところでスケコマシ他の目が煩わしいだけだ。とりあえず、シラを切る事にする。

 武智氏は高千穂の先代、つまり元首相の代では後援会長だったそうだ。が、子の代になるとその座を降りたらしい。今では只の平会員だが、かと言って放置出来る御大尽でもない。それ故の立ち寄りにして、昼メシの無心という事のようだった。

「武智です。御高名は承っております」

 立ち話も何ですので、と早速案内された室内は、これまた呆れた長さの縁側と、広大な石庭に面した三〇畳前後の座敷だ。

「いやぁ、いつ見ても立派ですなぁ」

 高千穂が手放しで褒めちぎるのは、頗る正しい。まるで、古都の寺院のような景観だった。そこの主人に案内された三人が座敷に座るなり、早速昼食が運び込まれて来る。

「演説会は一時からでしたな。ささ、箸を進めましょう」

 サカマテでの二大臣による視察名目での遊説に力が入り過ぎた影響から、予定より時間が少し押している。運ばれて来た膳は、意外に普通と言っては語弊があるが、邸宅の構えの割に明らかに見劣りする、昼食懐石を模したと言わんばかりの松花堂弁当だった。

「いやぁ、これはまた美味そうですなぁ。皆さん頂きましょうか」

 何かにつけて仕切りたがる高千穂は、真琴が見たところガッカリしている。派手好きのこのろくでなしは、すぐ顔に出るのだ。特に目は覿面(てきめん)で、その冷え冷えした目つきは、殆ど不満を口にしているようなものだった。

「武智さんには、父の代から大変お世話になりまして──」

 などと、わざとらしい口上を述べる高千穂をよそに、真琴は何となく箸を進めながら、ボンヤリ縁側を眺めていた。そこから望む石庭は、松、紅葉、銀杏、桜などが植えられており、季節毎の景観に飽きが来そうもない見事なものだ。今は常緑の松のみ色がはっきりしたものだが、間もなく到来する紅葉時分ともなれば、燃えるような色で石庭を彩る事だろう。

 山小屋も良いけど──

 ここも中々だ。

 真琴が上の空で、ボンヤリしていると、

「高坂様は、庭に関心をお持ちのようですね」

 と、武智がそれとなく声をかけて来た。政治家共のがなり声を掻き分けて真琴の様子を伺うその声は、片田舎の老人と言っては失礼極まりないが、そこに不釣り合いな品があり、かつ力強く、不思議な魅力を帯びている。第一印象から、意外な紳士振りに意表を突かれた真琴だったが、何処となく整った立居振舞は認めざるを得ないその紳士の中に、この場にいる二大臣を上回る風格を見ていた。

「──え? ええ。余りに素敵なお庭で、つい見惚れておりました」

「では、少し眺めて行かれては如何ですか? 大臣方は、そろそろお時間でしょう?」

 武智が何かを促すように言うと、

「あ、これは思わず長居してしまいましたな!」

 などと、白々しくそれに呼応したような高千穂が、半分も箸をつけていない弁当に雑に蓋をしては早々に立ち上がる。

「下手先生と俺は先に行く! お前は後から警護の車で連れて来てもらえ」

 SP以下警護員は、隣室を始め周囲で控えている。警護の車は中に二台、外に二台止められ、それぞれが邸内外で目を配っていた。

「私は護衛の対象者じゃないわ。歩いて行くから全部引き連れて行ってよ」

 と、真琴が然も嫌そうに言い放つが、

「いずれはお前もそうなろう。そろそろ慣らしておけ」

 とか言う高千穂は、とことん自分中心だ。

「おい! 武智さんのお宅に一台残れ! 二人でいい!」

 誰に言うともなく怒鳴る高千穂のそれは、当然黙して控える警護員達に言っている。その高飛車に瞬間で煮えた真琴が、反射で噛みついた。正直なところ、警察の警護員は好きではない真琴だが、だからと言って高千穂に私物化されるような存在でもない。まして、それを恩着せがましく当てがわれるなど、勘違いもいいトコだ。

「勝手な事言わないで! 警護には公金が動いているのよ!」

「聞き分けが悪いな──」

「この際だから、私が大嫌いなものを二つ教えてやるわ!」

 高千穂が被せようとするのを、更に凄んだ真琴が有無を言わさず被せた。

「政治家と、国家権力よ」

 と、一歩も後に退かないどころか、

「分かったら、さっさと行きなさい!」

 などと、ぐいぐい詰め寄る真琴を前に、明らかに劣勢な高千穂だ。その屈辱でそのろくでなしが一気に顔を赤らめたその時。絶妙なタイミングで剣呑を切り裂いた拍手が、わざとらしく

"パン、パン──"

 と五回、座敷の中で静かに響き渡った。

「これは一本取られましたな」

 はっはっは、と合わせて笑った武智は、まるで一昔前にお茶の間を席巻した勧善懲悪ドラマの御隠居様のようだ。

「高千穂先生、高坂専務は私が後で責任を持ってお連れします。ここはどうぞ、皆様お連れくださいませ」

 そんな好々爺が飄々と場を上手く収め、畳んでみせる。

「──では、宜しくお願いします」

 その助け舟のようなものに無遠慮に飛び乗った高千穂は、

「次いくぞ! ボヤボヤするな!」

 と、またしても誰にともなく当てつけのように罵ると、罵られたらしい警護員共々、騒々しく邸宅を後にした。その無遠慮な向きの船頭以下は、他人の家を他人の物とも思わないような有様で、盗人猛々しいとはよく言ったものだ。その不調法が取り除かれると、邸内はようやく、本来の美しい静謐を取り戻したようだった。

 それにしても──

 意外な所に人物はいるものだ。盆踊りの時もそれを感じた真琴が、改めて感心していると、

「──さて。邪魔がいなくなったところで、縁側でしたな」

 と、その意外な人物が、わざとらしくも少し意地悪そうに微笑む。それに合わせて仲居が出て来ると、膳を引き払って行った。実に熟れたその所作が、主人の薫陶を思わせる。それに比べて、それこそ自分の不調法不作法を恥じる真琴だ。

「お見苦しいところをお見せ致しまして──」

 と堪り兼ねた真琴が、早速縁側に置かれた座布団に座る前に、その横で正座をした。それを、

「いえいえ。ここからは堅苦しいのは抜きに致しましょう」

 ささ、どうぞどうぞ、と座布団を勧める武智は、相変わらず柔らかい。その言葉通り、傍の湯飲みを手にするなり勝手に一服したその老紳士が、

「流石に高坂宗家の御息女でいらっしゃいますな」

 と、のんびりと言って目を細め、真っ直ぐ石庭を見据えた。

「出来損ない、とよく叱られたものでして。お恥ずかしい限りです」

「いえいえ。拙めが言える事ではございませんが、あの高千穂の(せがれ)なんぞより、何倍も大きくていらっしゃる」

 と、真琴の心中に寄り添うような一言を吐いた途端、

「──あ、元の御亭主でしたな。申し訳ありません」

 などと、悪気なく謝するところなどは、本当に熟れている。それを真琴が、

「いいえ、あんなヤツ」

 と言い捨てると、

 これはやはり──

 その為人(ひととなり)に感心しつつ、湯飲みに呼ばれた。が、それにこそ武智の悪戯心がある事を、真琴はその瞬間まで知らない。

「あっ!?」

 それを啜った瞬間の真琴が、それこそ堪り兼ねて、不調法不作法もクソもなく叫んでしまった。

「どうかなさいましたか?」

「なんちゃって陳皮茶──」

 驚きついでの不用意で、間抜けにも安直な名称を口にしてしまう。その茶の本当の名前は、少なくとも山小屋の先生が口走ったその名ではないだろう。その男がたまに出す、蜜柑の皮のお茶そっくりのそれが、山小屋の物よりも明らかに品が良い。

「こちらが本家本元です」

 思わせ振りな武智が、真琴を見て笑った。


「山小屋の主から、特に何事か聞いた訳ではないのですが──」

 とか、茶が二服三服と進んでも、武智の語り口は相変わらずだったが、真琴にとってその内容は赤面ものだった。盆踊りの事件や、おたふく風邪の顛末の一切はおろか、そもそもが、真琴が山小屋に立ち寄っている事自体が筒抜けだったのだ。

 それにしても何で──?

 他の事は分かるが、

 おたふく風邪の事を──

 知っているのか。色々あった先日(十四夜)の事を、先生が暴露するともを思えない。真琴が密かに疑問を飲み込んでいる、その横の武智が、

「何分、刺激の少ない山間地域の事ですので」

 と、淡々と続ける。今更だが、言われて思い知らされる、己の迂闊。いくら森林迷彩を施したような場所とは言え、真琴が乗り回している車はアーバンスポーツの高級クーペだ。目立たない訳がなく、明らかに周囲に染まっていない。そんな車が周辺の田畑の間を走るだけで、農家の人々にしてみれば、庭先を土足で踏み荒らされているような感覚だろう。

「メンコやベーゴマがお強いようで」

 当然、盆踊りの事などは、行状の詳細が把握されている。

「お、お恥ずかしい限りです」

 真琴は、耳の先から顎の先まで真っ赤にして、俯くしかなかった。仕事では常に完璧を求められる辛い立場で、常にそれに答えるべく実際そうして来た。が、プライベートは、その帳尻合わせのような、

 何と言う──

 粗相だ。返す返すも客観性の欠如がもたらした恥晒しとしか言い様がない。

「いえいえ。こう申しましては何でございますが──」

 全てにおいて完璧な人間など面白味も何も、と言う微妙なフォローは、一方で真琴の迂闊を認めている。止めが、

「──私は楽しませて頂いた身ですから」

 何も何もと笑われる真琴は、まな板の上の何とかだ。

「お家柄、息苦しさはお察しします。──まぁご愛嬌でございましょう」

 と、カラカラ笑うその紳士は、一方で笑いっ放しではない。

「あなた様のご身上に気づいている者は、数える程しかおりませんので──」

 全く問題にする事ではございませんよ、とか、只ならぬ言葉をさらりと口にされたそれに、反射でしがみつきそうになった真琴が密かに堪えた。

 それって一体──?

 どの程度なのか。

 じゃあ──?

 その他多数の人々は、

 私の事を──

 どう認識しているのか。

 尚も俯いたままの真琴は、俄かに突きつけられたこれまでの自己の迂闊のツケに、ひたすら唾を飲み込み続けるだけだ。

「サカマテの専務さんだと気づいているのは、私の他は数人しかおりません」

 その他は、何処かのお金持ち程度の認識です、と武智がにっこり答えた。

「──そう、ですか」

「その数人に対しては口止めをしておりますので、ご安心ください」

 大した情報屋だ。

 そ、そりゃそうよね──。

 やはりその土地の有力者、という事なのだろう。大体が、これ程の財持ちだ。一介の好々爺がそれを守れる訳がない。それは真琴自身、骨身に染みるレベルで理解している事でもある。

「当然、山小屋の主にも、何も話してはおりません」

 これ程の財と、整えられた庭に植えられた木々。何処かで見たそれと似ている事に、今更ながら気づく。と、その辺りを察したような武智が、

「私が大家です」

 と、呟いた。

「──や、やっぱり」

 立板に水が自慢の真琴のその口が、ようやくその一言漏らすと、入れ替わりで小さく相好を崩して見せる老紳士は、中々熟れたユーモアを持っている。

 そういう──

 顛末だったとは。

 庭の木々の配置と山小屋の庭。更にはその小屋の前にある神社の境内の類似性。山小屋の大家は、先生の勤務先施設の理事長で、神社の神主でもある。

 それを今更──

 思い出した真琴だった。


 同日、午後一時。

 昼間は気温が上がり、先生の町でも秋物のスーツで汗が滲む程だった。遅ればせながら武智邸をその主と、その人よりやや若い初老の従者の男と、そして真琴の三人がゆったりと出発して、道草を食うようなのんびりとした足取りで、歩いて演説会場へ向かう。

「収穫期の忙しい時に来おって」

 と武智が愚痴る、その周囲に広がる田園には、まだ半分程度稲穂が残っていた。党員によって町の人達が聴衆役として動員され、今日は収穫作業を中断したらしい。

「自共党は、農家に寄り添っているイメージでしたが」

「それは遥か昔の話です」

 今は高齢化と跡継ぎ不足の足元不安に加え、安価な輸入農産物に押される零細農家は衰退の一途、だとか。

「昔は日本の農業を支えている実感が得られたものでしたが──」

 戸別単位の農業は時代遅れの遺物扱いで、今や票稼ぎの頭数ぐらいにしか見られておらず、

「口車で票を集め、当選してしまえば公約どころか陳情に至るまで放ったらかし。詐欺師と何ら変わりません」

 と、急に容赦ない武智が言い切った。

「これで詐欺罪で捕まらず、逆に権力を傘に傍若無人の有様とくれば、政治に失望する者が出て当然」

 と思うのは、確かに何もこの紳士だけではないだろう。

「あなたが高千穂に言い放った事は、頗る正しい」

「つい、感情的になる悪い癖がありまして」

 真琴がまた、少し俯き加減になる。

「まぁ折角の道中です。もっと有意義な事をお話しすると致しましょう」

 出張所前まで伸びる一本道は一km前後の行程で、歩く気があれば然程の事ではないだろう。が、

「老骨ながら、本当はまだまだ歩けるのですが、余り早く着いても退屈です」

 と言って憚らない武智は、演説会には興味がないらしい。言動の端々で政治を風刺する以上に、そもそもが高千穂自体を好かないようだった。

 この人も多分──

 体よくたかられているのだろう。派手好きの高千穂は金に汚い。過去の被害者たる真琴も、その辺りの痛みは察するところだ。然も惜しむように、ゆっくりとした足運びで歩を進める武智のその姿が、そんな無念さを滲ませる。演説会場までの道のりは、実測以上に遠い。

「因みにこれなるは、あなた様のご身上を知る者の一人でして。顧問弁護士なのですが、執事のような事までやる物好きなのですよ」

「顧問弁護士さん──」

 そこにまた、思い当たる節がある真琴だ。

「山下と申します」

「ひょっとして──?」

「宿直さんには、毎度実家の農作業を手伝ってもらっておりまして。──本当に助かっています」

 主人に似て穏やかな山下と名乗る弁護士は、如何にも信の厚そうな人物だった。が、真琴のその反応で、自身の素性が先生により開示されている事を敏感に察するなど、これまた中々聡い。

 類は──

 何とかというヤツで、

 これって奇しくも──?

 先生のスマホの電話帳登録三人衆が、

 ──揃い踏み!?

 の構図。密かにそんな思い出し笑いをしそうになったところで、

「農村の収穫期に演説会などとぬかすたわけに興味はありませんので──」

 本題に入りましょう、と、まるで武智に見透かされたように、話に引き戻された。

 本当に──

 片田舎と言っては失礼極まりないが、そんな所に不釣り合いの、中々の人物のようだ。

 高千穂を先に行かせた事は、何か伏線めいたものを感じていた。お互いの素性を認識した初見の折とくれば、

 ──ビジネスか。

 という事になる。この町にも会社の(サカマテ)従業員は、それなりに住んでいるだろう。その会社の専務にしかける内緒話となれば、芳しからぬ内容かも知れない。が、直後に武智が話し始めた内容は、

「あなたと山小屋の主は、どうやらお互いの素性を隠して交流しておられるご様子なので」

 私共も少しマスキングをする、とか宣言される。

「──え?」

 先生の電話帳トリオの本題とは、まさかの

 ──先生の話?

 らしい。またしても意表を突かれる真琴だ。

「実は、私とこちらに控える顧問弁護士は、不肖ながらも山小屋の主の──」

 親代わりのような存在、とか。

「そう、でらっしゃるんですか?」

 重ね重ね意表を突かれる真琴の心臓が、嫌な動悸をもよおす。

 天涯孤独なんじゃ──

 なかったのか。当然初耳の真琴だったが、それならそれで少し安心する。この世に所在なさそうな先生の事だ。それを繋ぎ止めるのがこの主従なら、悪い事にはならないと思う。

「とは申しましても、あやつもいい加減な年ですし、今更子供扱いする訳ではないのですが──」

 言い淀んだ最後に出てきたのは、不憫という言葉。

「不憫──?」

 とは、どういう事なのか。

「彼はこれまでの人生が、全体的にやや特殊でして」

 疑問を呈する真琴に、すかさず山下が補足した。が、今度は、

「特殊、ですか?」

 と、それこそ芳しからぬフレーズが立て込み始める。特殊な人生が不憫とは、つまり苦難の道のりだった、と考えるのが自然だろう。

「あなたにも、消したい過去の一つや二つお有りでしょう」

 先生も同じ、だとか。

「悲壮感が目に余ると申しますか」

「潔過ぎるよ、あれは」

「いつか殉難し兼ねません」

「あれで頑固だからな」

 山下と武智が交互に紐解く先生の、

 消したい過去──

 とは。確かに真琴にも、高千穂の事を含め消し去りたい過去が何個かあるが、もうどうしようにもない。何せ真琴の家柄は、ネット辞典で経歴が掲載されているような家系だ。真琴自身、そのフルネームで検索すれば、詳細な経歴が長々と掲載されているページに行き着く事が出来る。しかも質が悪い事に、何処で調べたのか知った事ではないが、中々正確とくるからやってられない。が、今やネット辞典は立派な情報源の一つだ。世に受け入れられている。つまりはもう、どうしようにもなかった。そのネットに、素朴を絵に描いたような

 先生が──?

 載っているとは思い難い。が、過去を消したい気持ちは、やはり痛い程よく分かる真琴だ。そんな過去は、

 殉難って──

 つまり、死にかける程の悲壮だと言っている。それを口にした山下が、話を盛るとも思えない。

「良くも悪くもその人間の現在は、その過去の積み重ねが築き上げたもの」

 でも今のあやつを見たところで、と言う武智の前振りに、

「何だか時代劇の傘張り浪人のようで──」

 と、忌憚なく漏らした真琴に、入れ替わりで主従が失笑を漏らした。が、実はそれこそ前振りだ。

「悪い意味ではないんです」

 侍なのだ。何処かしら。それを口にするための真琴の突き落としを理解した主従が、すぐ真顔になる。

「あの人の本来の姿を、私は存じません。ですが──」

 と、そこまで言って、

 何を──?

 自分が言い出そうとしているのか分からない。考える前に何やら急に(あふ)れ出てしまった

 ──肯定?

 のようなものを、慌てて追いかける。が、言い淀む自分の脳裏に浮かんだのは、事もあろうに二度唇を重ねた仲だという、ハレンチな記憶。

「うわっ!?」

 少し溜めを含んでおきながら、出てきたのが恥ずかしさ余った素頓狂(すっとんきょう)な声だとか。我ながら何という間抜けだ。

「どうか、されましたか?」

「──あ、いえ」

 気遣わしい武智に、慌てて濁すついでで、

「あの意外性は、興味深いです」

 などと、何とか捩じ込めれば上出来だろう。仮にも親代わりを名乗る人達の前で

 私ったら──!?

 何を(とぼ)けた事を考えているのか。予想外に慌てる自分。そもそもが「あの人」呼ばわりなど。そんな自分の言葉に動揺したのだ。

「実は、あやつが未だに独り身なのも、酒を断っているのも、冴えない生活をしているのも──」

 全部同じ理由なのだ、とか。

「せめて、嫁を(めと)るよう勧めておるのですが、中々どうして──」

「それは──」

 と、言い出した後の言葉がまた出てこない。が、今度のそれは間違いなく、その分かり切ったフレーズを認めたくない自分のせいだ。確かに一見して冴えない貧乏人だが、為人は悪くないあの男に、

 そんな話──

 十分有り得る事だろう。

 素気ないが身形はこざっぱり整っている。普段はボンヤリしているせいで飄々して掴みどころがないが、その鷹揚さは草食系好みなら放っておかないだろう。それでいて、時として覗かせる知性と意外なまでの胆力。いざと言う時の、予想外の甲斐性。

 頭の中で思い浮かべるそんな先生が、いつの間にか溢れ出すと、年甲斐もなく心臓の辺りが苦しくなる。

 胸焼けが──

 するだとか。隣に親代わりの二人がいなければ、真琴は胸の辺りを掻きむしっていただろう。

「実は、何人か名乗りを上げておるのですが」

「肝心の宿直さんが乗り気でない」

 そこで話が切れて、いつまで経っても続きが出てこない。

 私の出方を──

 探っているのは分かったが、

 こんな行き摺りで──

 何を言えというのか。見合いぐらいなら

 ──やればいいのに。

 と思った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような嫌な衝撃が走った。まるで肯定を拒むようなショックに、合いの手すら口に出来ない自分。かと言って、それを否定出来る程の事が先生との間にある訳でもない自分。その葛藤が、予想外に真琴を沈黙させる。

「──いやいや、これは失礼しました」

 こんな所でする話ではなかった、と気さくを装った武智が途端に畳んだ。が、

 明らかに──

 瞬間的に頑なになった自分を見透かされている。が、

 今言える事なんて──

 何もない、自分。

 はっきり言って、先生に好感を持っているのは事実だが、それだけなのだ。お互いが素性を隠したままのつき合いなど。

 ──何の仮面舞踏会なんだか。

 実際に盆踊りの時は、そんなザマを見られている真琴だ。遊びの延長だと思われても仕方がない。現に、遊びの延長で好感を持ってしまったのだから、その事実は変えようがないのだ。そして、その延長上に何があるのか。

 ──そんな事。

 現時点ではっきり言える事は、自分の素性を明かせば先生は間違いなく引くという事だ。それ程までの社会的格差。百歩譲って、仮に二人がそれを乗り越えられても、真琴の家柄的に難がある。更に突っ込んだ言い方をすれば、要するに(天敵)が何をするか分かったものではない。

 ホント──

 自分でも呆れ返る程、何と面倒な家に生まれたのか。実は真琴の懸念は、その一点だけだった。(なり)振り構わず全てを投げ打っても、政財界の大物たる母の魔の手からはとても逃げ切れない。その一点だけなのだ。その野望、自己の信念のためなら何者ぞ、と言って憚らない真琴の母。その母にとってみれば真琴など、野望の道具に過ぎない。実家は未だに、幼児教育から朱子学を学ばせるような苔むした家だ。その古臭い一方的な押しつけが嫌で嫌で、それに抗うために独学であらゆる哲学めいた文献を読み漁った。真琴の口達者の根幹はそこにあり、それは理論武装の源流にもなった。

 私って──

 そんな面倒臭い女にして、ややこしい出自の人間なのだ。

 こんなザマだから──

 何れは先生も離れて行くだろうし、真琴も離れざるを得ないだろう。先生の身の大事を思えば、こんな遊びはさっさと解消すべきだ。が、分かり切ったそれが中々出来ないでいる自分。そのせいで、生まれて初めて男に「好き」だとか、世迷言を吐いてしまった。

 まだ──

 間に合う、とも思う。何も言えないのは肯定的な事だけで、

 一言、遊びだと──

 吐いてしまえば。先生の親代わりを名乗るこの主従に、金持ちの男遊びだと軽蔑されれば、全てが丸く収まる。

 それは──

 分かる。

 分かるけど──

「──んぐっ」

 迫り上がって来たそんな思いは、喉が痙攣して上手く吐き出せなかった。先程来、胸といい喉といい、中々拗らせてくれる。

「やはりお加減が悪いのではありませんか?」

 異変に気づいた山下が、主人(武智)に続いて気遣わしげな表情を見せた。

「い、いえ、そうではありません」

 先程来、妙な独り言を連発していれば、何かを疑われるのは当然だ。

 ホント──

 何をやっているのか。

「何でもありませんので」

 それこそ、そんな何でもない言葉は普通に出るとか。

 これって一体──!?

 何の拒絶反応か。身体は素直という事なのだろう。もうそれ程、存在が大きくなってしまっている先生だ。時に比例してくすぶり続けた小さな火が、今や胸を焦がしている、とも言えようか。何であれ、

 子供染みた──

 色事だ。一人の時ならモヤモヤしたものを溜息と一緒に吐き出すのだが、それが人前で出来る訳もない。密かに深呼吸して、急いで息を整える。

「しかしあやつめ、この先どうするつもりなのやら」

 呆れたように漏らした武智の否定的な一言に、取り戻しついでの真琴が、

「そうですね──」

 と、人ごとのように口にした。

 年齢不相応に、良くも悪くも何処か観念的な男。力感や熱量に乏しく、独特の浮遊感を帯びるそれは、現世に対する執着の薄さのようにも思える。

「──正直、気になります」

 何があの男をそうさせるのか。今この二人にそれを聞けば、答えは得られるだろう。このチャンスを逃せば、次はいつだ。

 ──聞きたい。

 それを求める言葉が、焦がれる胸から迫り上がってくる。それをどうにか、身体を震わせながら、唾と一緒に音を立てて飲み込んだ。また他二人が不審に思っただろうが、それこそ形振り構っていられない。それ程の葛藤だとか、

 ど、どんだけ──

 拗らすか、

 ──あの仙人!?

 こんなザマでは、次に先生に会う時に八つ当たりしそうだ。それが自分に非がある事ぐらい痛い程分かっている。だからこそ、余計腹立たしい。そもそもが、自分の都合をゴリ押しする格好の仮面交流だ。なのにその本人を飛び越して、その素性を他人から聞き出すのがフェアではない事ぐらい

 ──分かってるわよ!?

 そんな心の声を、正直な身体は中々受け入れてくれないのか。居座り続けては、口がまた勝手に動いてしまいそうだ。出来る事ならこの場から逃げ出したいが、それも出来ないこの状況とは。

 な、何の──

 修行だというのか。己が抱える業の深さという事なのだろう。

「本当に──気になります」

 それは今の真琴が口に出来る、精一杯の答えだった。

 本当に──

 気になっている。遊びの延長の間柄だとしても。未だに仮面の知己だとしても。もう、遊んでいる感覚は、

 ──ない。

 が、それを堂々と、他人に対して言えるような関係ではない二人。要するに、

 もう少し──

 時間が、欲しい。

「そうですか」

 武智は、そう答えただけだった。


 一〇分後。

 三人はついに、演説会場に辿り着いてしまった。マイクでがなり立てる高千穂の演説は殆ど騒音だ。一様に顔をしかめた三人は、聴衆の端っこに立つのがやっとだった。

「どうして、ああも厚顔なのだろう」

 堪らず武智が漏らす中、出張所前に準備された急(ごしら)えの演台の真ん中で、マイクを片手に派手なジェスチャーの高千穂は自分に酔っている。

 それにしても──

 この片田舎だというのに、集まった聴衆は、四、五〇〇人はいるだろう。

 よく──

 集まったものだ。出張所の駐車場に所狭しと押し寄せた人々は、大人しく高千穂の詐欺師めいた演説に耳を傾けている。派手好きの高千穂は田舎嫌いだ。人の集まらない田舎の演説会など、絶対に受け入れられない。党員や後援会は大変だった事だろう。

「人は所詮、人でしかないというのに」

 と、憐れむような武智が、演台を望む。

「見た目を取り繕っても、もっともらしい言葉で理論武装をしても──」

 人は人だ、と言う武智のその言葉が、真琴の何処かに刺さった。それから逃げるように、演台に目をやる理論武装派の真琴は、高千穂側の人間という事だ。

 あんなヤツと──

 同類とは。忌々しくもボンヤリ演台を眺めていると、聴衆の端っこに立っている三人の姿を、高千穂がさり気なく捉えた素振りを見せた。どうしようにもない男だが、この辺りの目の良さは流石としか言いようがない。聴衆を前に高らかと演説する肝の太さと、その中から一部の人間を見つけ出す注意深さを同居させるなど。図太さと繊細さを兼ね備える、何かの職人めいている。仮にもそれなりに政治の世界で渡り歩いて来た、という事なのだろうが、相変わらず武智の表情は暗い。

「社会的なステータスは、確かにその人間を知る手がかりには成り得るでしょう」

 が、それはあくまでもきっかけに過ぎず、その段階で既に目が曇っている、と言い切る。

「この男の話を聞かされている、この聴衆のように」

 その人を推し量る時、情報は多い方がいいに決まっている。肩書きはその中の一部の、分かりやすい情報だ。だからこそ世の人々は、それだけで人を判断しがちになる。

「肩書きは確かに、評価の対象とは成り得る。曲がりなりにも、それを得るために、何らかの力を注いだ物差しの一つと言える。しかし──」

 それはその人の全てではない。逆にデータ化されない部分にこそ、理性ある人間としての意義深さがある。が、それは分かりにくく、評価されにくい。

「昨今の殊更な成果誇張主義と申しましょうか──」

 それらのアピールの押しつけで、人から支持を得ようとする姿は、果たして理性ある人間として正しいと言えるのか。

「驕慢になるのでしょうね」

 その悔しさを察した真琴が、つい横から口を挟んだ。

「年を取ると愚痴っぽくなっていけません」

 と自嘲する武智は、後援会員として、口にするべきではない反意のようなものを、当の本人を前に我慢出来ないらしい。要するに、

「──歯痒いのです」

 何かの片棒を担がされて、なす術がないもどかしさ。

「分かります」

 少なからず真琴にも覚えがある。確固たる地位の人間におもねる者達は、その人間に媚びているのではない。その地位にすり寄っているのだ。が、その地位にいる者は人間。かしづかれる事に慣れると驕慢になる。それこそが権力構造の魔物だ。その結果、

「出来上がったのが、あのたわけです」

 それは様々な思惑で担がれた、人の形をした化け物だ。

「すがり過ぎると──」

 権力は腐敗し、暴走する。

 国家や政治、役人に対する依存、所謂御上依存体質は、二一世紀を迎えた現代において尚続いている、日本の悪弊の一つだろう。

「自立出来ない日本人の象徴的体質です」

 それが更に権力を集中させ、増長させる訳だ。が、古来の慣習として、知らず知らずのうちに刷り込まれたそれは、中々修正出来ない。それこそ権力を持つ者の思う壺だ。

「国民が自立してこそ、国家や政治は目を覚ますのです」

 政治家に自浄作用などない。地位や立場にその意を託したつもりが、只の欲深い亡者によって蹂躙される、という負の連鎖。そんな哀れな構造が支持され続けている事の不思議。

「こんな事がいつまで続くのでしょう」

 そう言って呆れる武智の皮肉のようなものが、痛烈に真琴のド真ん中を貫いた。高千穂と同類の真琴。実家は権力と財産の上に成り立つ、欲深い一族だ。そこに出自を頼む身が、自分だけは例外だと言える訳もない。そしてそれは、

「あなたを責めているのではないのです」

 と言う、武智自身に対する痛烈な皮肉でもあった。何せ未だに、この辺境において、幾年月に渡り繁栄を築き上げて来たその末裔にして、その影響力を維持し続けている家柄だ。

「いやいや、失礼致しました」

 何やら三人の間で重苦しい雰囲気が漂う中、武智は急に言葉だけ相好を崩した。演台からの目を気にしたのだろう。

「何分、このジジイめがお話をさせて頂きますのは初めてでしたので。試すつもりはなかったのですが──」

 ご容赦を、と、辺境の御大尽が素直に詫びる。

「本当に、御高名通りの御仁(ごじん)にて。安心致しました」

「いえ、そのような事は──」

 そもそもその御高名の出所は何処のもので、どんな真琴を言っているのか。他人からの品定めには慣れている真琴だが、先生の親代わりのような人物にそれをされる事の動揺だ。

 ──けど。

 盆踊りの時もそうだったが、今日にしても、何処かしら好意的な受け止められ方をされているような気がするのは、どうやら気のせいではない。

 それが──

 せめてもの救いだ。

あなた方(・・・・)の間柄には、実は興味があるのです」

「あなた方、とは──?」

「山小屋です」

「は、はあ」

 再三に渡るまさかの本題に、身体が痺れる。ネット辞典で経歴が晒されているような真琴だ。とっくの昔に、自分の秘部を覗かれる感覚など麻痺しているものと思っていたが、

 こ、これは──

 中々辛い。それが真琴に、更なる迂闊を重ねさせる。

「今更不躾を承知であえてお願いをしたいのですが──」

 武智も先生には真琴の事を伝えていないと言っていた事ではあるが、

「出来ればこのまま、その、先生には内密に──」

 とか、念押しをする情けなさだ。が、そこまで言っても自分の迂闊に気づかない真琴は、やはり動揺していたという事だろう。

「先生?」

「あっ!? いや──」

 とか、もつれた口は取り戻せない。ここまでバレているのだから別に隠すつもりはないのだが、それでも相手の呼び方を他人に知られる事の、これまた思いがけない恥ずかしさだ。

「勤め先の施設で、そう呼ばれていると聞きまして──。それで私もそのように──」

「ああ、そういえばそうでしたな」

 ハハハ、と笑う武智を前に、堪らず顔を伏せる真琴が密かに轟沈する。

 こ、こんなの──

 いい年増の女が、相手の親(代わり)と相手の事を話すなど。

 それこそ──

 お見合いのようではないか。不意に以前、盆踊りに誘った時にその男から「お見合いみたいだ」と言われた事を思い出す、自分の記憶力が忌々しい。迂闊にもギクシャクしたお互いが、

 何という──

 青臭いつき合いをしていた事か。そんなところを他人に肉薄されて思い知る己の拙さに、身体が硬直する。

「本当のあやつは──」

 こんな所でボンヤリしている生やさしい男では、

「──なかったり、するんですが?」

 と、急に思わせ振りな武智に、

「そ、そうでしょうね」

 と、俄かに声が震える真琴だ。

「やはり、そう思われますか?」

「そ、それはもう」

 明らかに、山奥に染まっていない、

「──ので」

 ボンヤリしていれば、

「田舎に染まれると思っている節が、なくはないような──」

 気がする先生は、自分が思っている程、山奥に馴染んでいない。

「いや全く、その通りですな!」

 ハハハ、と重ねて笑う武智にも、思い当たる節があるのだろう。何せ三月までは、東京にいた人間だ。何処となく人擦れしている雰囲気は隠せない。飄々とした鷹揚さで、当たり障りのない様子などまさにそれだ。その柔い印象のまま、外見を覆す太々しさは意外性を通り越している。それが別人でないなら大した詐欺師振りだ。

「虚実が怪しいと言いますか──」

 それこそ繋ぎ止めておかないと、ふと何処かへ消えてしまいそうな軽さがある男。

「知りたくはないですか?」

「え?」

「あの男の正体を」

 相変わらず演台の目を気にする武智の声が、今度は急に冷えた。先程来、高千穂が目で催促している。そろそろその傍に向かう頃合いだろう。

「そう、ですね──」

 真琴はその状況に感謝した。面と向かって答える度胸がない、自分の弱さに改めて気づかされる。この年になっても新たな自分を見出すとか。

 ──有り得ない。

 それがあの、ボンヤリした男によって起こる事の不思議。

 知りたい──

 と言えば、武智は教えてくれるだろうが、同時にそれは卑劣を公言するようなものだ。それでも本人の知らない所で知る事が出来れば、自分の事を明かす必要に迫られない。その思いがけない好機。しかも今度は、おあつらえ向きにも、親代わりの人にわざわざ水を向けられる事の僥倖(ぎょうこう)というヤツだ。

 ──けど。

 そんな姑息を真琴は許せないし、ますます自分が嫌になるだろう。しかも相手の男は以前、素性を隠したつき合いだからこそ「偽りなくありたい」とか、

 生意気にも──

 言っていた事でもある。何処か負けたような気がしないでもない、そんな負けず嫌いな自分が重ね重ねも嫌になるが、密かにそんな潔さに打たれた

 私は、ここで──

 何と言えばいいのか。こんな事がすぐに、

 答えられない──

 弱い自分。才色兼備だと持ち上げられて浮かれていないつもりが、いつの間にかちゃっかりそれを当然だと思っている高慢な自分。それこそそんな虚像を、思いがけないところでつきつけられる鈍い自分。

「──いつかは」

 その一言は、殆ど祈りだった。

「いつか?」

「お互いに素性を明かせる時が来て欲しいと──」

 今はそう思う。何よりこれ以上、後ろめたい事をしたくないし、先生に軽蔑されたくない。只でも二人は、素性を隠したせいで、未だにお互いの事を何も知らないのだ。趣味も嗜好も、それこそお見合いめいた事を殆ど知らない前から、

 ──嫌われるとか。

 そんなのは絶対嫌だ。

 先生の事は、それこそ喉から手が出る程知りたい。が、逆に先生は、こんな自分を理解してくれるのか。急にそれが怖くなる。こんな面倒臭い女の傍にいて

 いい事なんて──

 何があるというのか。

 密かに懊悩する真琴の横で、

「やはり興味を持たざるを得ない」

 そんな武智の声は優しい。

「はぁ」

 そんな自分の間の抜けた声はどうした事か。急に思い当たった真琴が、慌てて片手で口を塞いだ。それは外ならぬ、ボンヤリしたあの男が出す音色だ。そんな声が騒音(・・)の中、武智の耳にも届いていたようで、小さく笑われる。

「容姿は生き様、仕種や声は思想、言動は哲学、と申します」

 そんな事を口にする武智には、真琴の失態など筒抜けという事らしい。

「は?」

「順を追って、目で見て、耳で聞いて、心で感じてこそ、為人は分かるもの」

「誰の言葉でしたでしょうか?」

 真琴でも瞬時に思いつかない。

「田舎のジジイの戯言(たわごと)です」

「──いえ、恐れ入ります」

 理論武装の悪癖が、自嘲を誘った。名言は本来、それだけで説得力を有する。が、無意識のうちに人はそれを、語る人にも求めてしまう。それは今日これまで、延々武智が語っていた事なのに、ここへ至った真琴は

 相変わらず──

 至らない。

「素性を伏せたつき合いというのは、実にいいですな」

 それは相手の為人を直接見つめる事だ、とか。

「そこまで深く考えた訳では──」

 返す返すも最初は殆ど火遊び感覚だったのだ。とても褒められたものではない。

「──全ては、私の身勝手が招いた事です」

 その身勝手が、凄まじい時間差でブーメランとなって、こんな所で真琴を苦しめる。

「虚は実を引くとも申します」

「申し訳ございません!」

 ことごとく鈍い自分に、今更の真琴が瞬間で腰を折った。やはり(うそ)だと思われて当然の事を自分はしていて、そう思われていたのだ。ここまで言われないとそれに

 気づかないなんて──

 そんな自分の厚かましさが本当に嫌になる。

「最初に謝罪を申し上げるべきでした!」

「いや、今は色々とマズいので──」

「──あっ!? も、申し訳ございません!」

 言われた真琴が、また瞬間で身を繕った。周囲の目もそうだが、何より演台の下衆(・・・・・)の目の煩わしさだ。何より以前、自宅マンションに押しかけた先生にそんな事を言った自分だというのに。そんなところまでブーメランが真琴を(えぐ)る。

 確かに最初は火遊びだった。が、今となっては明らかにそうではないと言い切る真琴がいる。とは言え、何かが結実した訳ではない。それこそ精々、どさくさ紛れに膝枕をして口を塞ぐ程度の、実どころか種程もないそれが何だと言えるのか。

 結局は──

 今は何を言っても世間知らずの御令嬢の

 火遊びのまま──

 だと断じられても仕方がない。しかもそれを、親代わりの人に指摘されて、今更ながらに思い知る自らの不明だ。

 何という──

 不甲斐ない自分。そこに世間が褒めそやす才女の姿など微塵もない。実家に怯え、母に怯え、先生との別れに怯え、そうして今、その親代わりの人達の反応に怯えている。

「──最早、弁明の仕様がありません」

 とりあえず取り戻した真琴が、殊勝を装い重苦しく吐き出した。この主従にしてみれば、今の今まで悪い女に息子をたぶらかされていたのだ。そんな悪い女の自分に、今更言える事など何も思い浮かばない。が、武智は、

「これは随分とせっかちな事を申されますな」

 などと、淡々としたものだった。

「昔の事ならさて置き──」

 今は自由なご時世下だ。必要以上に身を追い詰める考え方には感心し兼ねる、と、その老紳士の静かな言葉が、またしても真琴の何処かを貫く。

 先回りされて──

 救われるとか。ややもすれば、理解をねだるかのような動揺を見せている自分に、ますます嫌気が差す。

「世の大抵の理など、突き詰めればもっともらしいウソなのですから──」

 その声は力感に乏しく、まるで先生を見るようだ。が、一方でその声は、真琴と【仮名】の両方の懊悩を見透かしている。

「──そこから(まこと)を掴めばよいだけの話ですよ」

 不幸にも、こうした人物(・・)に縁が薄い真琴だ。そこまで言った武智が、

「そろそろ参りませんと、また後が面倒なので──」

 と言い残すと、山下を連れて渋々演台の傍へ足を向けた。後援会の重鎮は、演台直下を固めている。その片棒を担がされるその背中に、滲む無念。

 私はいつも──

 いざとなると頼りにならない。慰めの言葉一つ伝えられない、ダメな自分。

 ──まことを掴めか。

 会場の端っこに一人残された真琴が、騒音に紛れてようやく盛大に嘆息した。真琴は自分の名前が嫌いだ。

 冗談のうちに──

 真実の言葉は語られる事が中々多いもの。そんな観念論の名言をボンヤリ思う真琴は、何を見聞きするともなく、ボンヤリ立ち尽くす。

 

 しばらくして、ようやく高千穂の演説が終わると、下手(しもて)の番になった。

 どんだけ──

 あのバカ(高千穂外相)は怒鳴ってたのか。てっきり高千穂が二人目かと思っていただけに、真琴はあからさまに嘆息した。只でさえ今日は、社を代表してこの後も、二大臣にくっついて回らされる真琴だ。最終目的地は市街地の中心部で行われる政治資金パーティー会場とくれば、本当に堪ったものではない。

 ──クソ忙しいってのに。

 高千穂ががなり声なら下手はダミ声だ。どちらにせよ品のない騒音に、いい加減我慢ならなくなったそんな時。

「仮名さん?」

 と、最近聴き慣れた声が、突然背後から耳を躍らせてくれた。ストレスを感じさせない、相変わらずの飄々振りだ。だからこそ何処からともなく、

 ──湧いて出るとか!?

 身構えていないと、実は一瞬で沸騰しかける真琴だったりする。無様を晒す寸前でどうにか踏み留まった、

 つもりだけど──

 無理があったかも知れない。

「あらセンセ」

 冷静さをどうにか装い、「どうしたの?」と言いかけてやめた。本を入れた袋をぶら下げていれば、図書館に行く途中らしい。

「現役大臣が二人来るとは聞いてましたが──」

 多いなぁ、と言う先生は、相変わらずのんびりしている。その安定感に何処か安心した真琴が、つい小さく噴き出した。今の今まで、この男のせいで散々悩まされていたというのに。瞬間でそんな事はどうでもよくなってしまう、そんな愛すべき素朴さだ。が、

「図書館って、ここ?」

 つい先程まで、武智と話をしていたなど言える訳もない。話題をはぐらかす一方で、身体は素直だ。何やら顔が熱い。

「ええ、そうなんですけど──」

 どうやら先生は、そんな真琴には気づかないでくれている。

「入れそうにないかぁ──」

 出張所の出入口は演台の真後ろだ。素人目にもそこは警護の急所にしか見えず、その周辺には警護の警察官が当然控えている。移動の時にはいなかった制服の警察官までおり、出張所に入りたくても難しそうだった。

「こりゃ今日は無理ですね」

 図書館はその二階にあるらしい。

「一時的とは言え──」

 出入口を塞ぐとか、午前中に来とくんだった、などと、先生の恨み節は、やはり何処かのんきだ。と、油断していると、

「──しかし、珍しい所で会いましたね」

 そんな一言で、急転直下の真琴がまた煮えそうになる。

 そういえば──

 外出先で先生と偶然出くわすのはこれが初めてだ。今更ながら、他人に先回りされてばかりの今日の自分は、驚かされるばかりで調子が出ない。それよりも何よりも、出くわした時の口実を、

 ──どうしよう。

 と頭の中でぬかすだけの、迂闊な自分。

 よりによって──

 こんな所で、あのスケコマシとの腐れ縁を知られては。今までの苦労が水の泡ではないか。と思ったところで、また只ならぬ動悸が真琴の心臓を襲う。

 ──何の苦労?

 そんな事より今は、この場にいる事の返事が先だ。が、勝手に動揺している真琴はそれどころではない。

 ──何だこれ!?

 テンパっているとか、本当にどうした事か。

「街の方も、少しは涼しくなりましたか?」

「──え? うん」

 あっさり話を転じた先生に、意識を戻されて気づく優しさの一方で、深く踏み込んでこない事のもどかしさが、少し寂しいと思う自分。

 我ながら──

 我儘だ。

 先生の配慮のようなものを、焦らされていると思ってしまう自分が何処かにいる。配慮するくらいなら、珍しい所で会ったとか、

 ──言わなきゃいいのに。

 ──会わなきゃいいのに。

 などと、自分勝手が募る一方で、外で出くわす事もある事を、

 ──教えてくれたとか?

 と考えるのは、ちょっと考え過ぎかも知れない。一人の男の事で考え過ぎだとか、

 我ながら──

 殆ど病気だ。

「この辺じゃ朝霜が降りますよ」

 先生は相変わらず、何処吹く風のように話を続ける。そんな鈍さが、今は嬉しい。

 最初のうちは、冷やかし半分だった。日頃から晒され続けた人生だ。他人に秘密を抱える事は快感だった。しかしそれは、次第に苦痛を伴い始める。自分の事を言えないもどかしさ。予想外のそれは、今ではストレスでしかない。秘密は蜜の味とは、誰の言葉だったか。

 ──話が違う。

 素性を隠す事で続いている曖昧な関係。明かせば瓦解する脆い間柄を、何とか出来ないものか。あるいは少しずつ自分の何かを匂わす事が出来れば、いきなり破局を迎える事はないのではないか。改めてそう考えると、この場面はよい機会だったのだ。が、先生は既に引き下がってしまっている。

 この前──

 十四夜の次の日に、二度目のキスをしたあの日。

 聞く事は出来るとか──

 言ってくれたその言葉に、救われた気がした

 ──のに。

 それ以来先生は、足を踏み入れてこない。

 ──もどかしい。

 が、今は際どい状況でもある。何よりそうした事に何かと聡い、スケコマシの目がある場面だ。

「もうすぐ霜降ですから」

「山の秋は足早ね」

 自宅と会社でまるで違う季節感。会社は会社で一日の中に四季がある。山小屋もそうなのだろうが、季節に順応し切っていない身体にそれは、

 堪える──。

 季節柄、翻弄されるのはどうやら身体だけではないらしい。

「あの目も」

 と、突然呟いた先生の目が、珍しく少し冷えている。

「え?」

「せっかちそうだな」

 言われてその視線を追うと、演台の真ん中でダミ声を上げている下手の、その斜め後ろに控えている高千穂が、険しい目つきでこちらを睨んでいるではないか。

 ──気づかれた!?

 並んで立っていた真琴と先生だが、その陰険な視線が先生だけに向けられている。高千穂が、また護衛を動かして何かしでかすのではないかと思った瞬間、

「今日は諦めて帰ります」

 と、まるでそれを察したような先生が、猫のように(なめ)らかに身を引いた。

「うん、またね」

 しかしそれを見た高千穂は、早速演台の上にいるSPに耳打ちをしている。SPが背広の袖を軽く口に近づけると、周囲の護衛が俄かに動き始めた。SPや護衛は、袖に携帯無線機のマイクを忍ばせ、耳にはイヤホンをつけている。

 ──マズい!

 先生の素性を確かめたいがための不審者扱いは、高千穂による国家権力の明白な私的濫用だ。唾をつけた真琴に不用意に近づいた、その程度の理由だろう。存在自体が国の行く末を左右する大臣であれば、こじつけなどいくらでも出来る。

「何かされましたか!」

 先生が立ち去るや否や、入れ替わりで護衛が一人、真琴の元へすっ飛んで来た。

「は?」

 と、わざと呆けて、盛大に睨みつける。

「不用意に寄って来ないでいただけないかしら?」

 あの男と同類などと。警察にも周囲の人達にも思われたくもない。自分の傍を許す人間を選ぶのは自分自身だ。決して、

 エゴイストのスケコマシなんかに──

 自由にさせない。それは対決姿勢の表明だ。が、それをしたところで、今の真琴には止めようがない。護衛の何人かは、既に先生に肉薄している事だろう。あるいは既に、捕まったかも知れない。

 ──クソ!

 真琴は、演台で得意げな笑みを浮かべる高千穂を、(まばた)きを忘れて睨みつけた。

 あの男に何かしたら──

 許さない。そう、目を怒らせていると、

「バスに乗った!」

「一車追え!」

 などと、小声ながらも忙しげな護衛の声が耳に入って来た。

 真琴が振り返ると、出張所前のバス停を再出発する路線バスが、黒煙を吐きながら出張所前を後にするところだった。

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