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懊悩の淵  作者: 粘土
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前半はエッセイの様に成ってしまいました。

 何時か尽きる命の序列はの様に因って決まるのだろう。仏教や、儒教に因ると、長生きした者が徳の有る者とされる。けれども、実は其れが間違いである事は直ぐに解る。何故なら、産まれ出でた其の時に命のほむらが消えている事も有るからである。従って、“序列”と云う言葉を抜かせば、正しい問いと成る。僕も、サルモネラ菌に因って、一歳の頃に死にかけた。と、云う事は、産まれた時、産まれてからの人生に間違いは無いのである。然し、何うしたらそんな事が出来るだろう。きっと、答えなど無く、其の場に合わせた“おためごかし”で以って、其の場と過去の思い出を天秤に掛けるのだろう。そして、思い出は、思い出。けれども、其れ以上に必要なのが現在の、自身の命だ。僕は、此処まで書いて笑ってしまった。正しくとも、間違っていようとも、す可き事は考えるまでも無いからである。勧善懲悪。其れが答えだろうと、僕は思っている。仮に、其れが罷り通らないのなら、其の世界は既に狂っていると云える。詰まり、現代、現世界、現社会の事である。更に危惧す可きなのは、高校生、いや、中学生ですら習っている事に、世の大人達は全くの無知であり、無恥であり、無智である事だ。今更、“イデア”や、“ワイヤード”に逃げ込むのは腰抜けだ。今在る世界を経てから目指す世界へ行けば好い。

 僕は之までうでも好い事ばかり脳に詰め込んで生きて来た。いや、生存して来た。何時いつ訪れるのかも知れない死を願って。一般の人には、普通の人には理解出来ないだろう事は承知している。だからこそ、悔しい。死を望む一方で、生きたいと願う自身の気持ちが揺れ動くからだ。そうでなければ、とっくに死んでいる。自らの手に因って。けれども、現実には死の淵に居る。自らの手に因って。愈々(いよいよ)、其の時を迎えようとしている。心臓の不整脈。訳の分からない頭痛。持って産まれた持病。そして、アルコール。“縄跳び”を何回続ければ気が済むのだろう。或いは、何処どこまで走れば満足するのだろう。其の両方に、何の意味も無い事を知りつつも。さながら、僕は馬鹿の典型なのだろう。打ちやって置けば好い事に散々追及をして来た。がくも無いのに鮮やかなる愚かしさだ。何も出来ず、何もせず、単に生きて居るのは苦痛でしかない事を、社会から叩き付けられた。そして、僕は其れを否定出来ないで居る。何も出来ず、何もしない事は“罪”である事を叩きのめされる様に思い知らされた。僕は全くの馬鹿だ。

 何処どこに行けば好いのだろう。よし、其れが解ったとて、僕に何が出来るだろう。まるで、太宰の書いた『人間失格』の様な人生を送っている僕が、誰に何が出来るだろう。の様な確証も有りはしない。そんな人間が、全体、他人ひとを笑わせる事が出来るのだろうか。仮に、出来たとしても其れは上っ面の体裁ていさいだ。そらは笑っては呉れないだろう。しばし、考えてようやく解って来た。僕は只単に咆哮しているだけなのだと。ならば、読んで貰える筈も無い。いや、きっと読んで貰えるだろう。十三億の人類が居るのなら、たった一人にだけは判って貰えるだろう。其れは正に僥倖ぎょうこうであり、かつ、相応しいと云える奇跡だ。し適ったならば、僕は眠ろう。絶対の冬眠に就こう。そして、久遠くおんなる夢の中に満たされよう。もう、解らない事など何一つ無い。世界の真理に触れた僕には、最早生きる意味が無い。人は知る事を求めて生きて居るのだから。少しく笑える。世界の真理などと云う僕の知識は、僕が知った現実と、体験した事のみだからである。ともあれ、自身との決着は着いた。後は、そうだな。星空を求めてみよう。そらに微笑んで貰えるまで……。さようなら。

後半は、最期を知った人ならきっとそう思うだろうと思って書きました。

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