虚しさ
“正義”って何だ? 『勝てば官軍』なんて云うが、其れは即ち、ずる賢い奴、或いは、そんな連中の事だろう。定めし彼等はパラノイアである。又、日和見主義者である。信念の欠片も無い人間が評価されるのは何故だろう。例えば、猫は水が嫌いだと云う一般論が有る。然し、『ワンキャット』と云う猫は湖を泳いで渡る。其れに、普通の猫でも平気で居る個が存在する。従って、政治家や“大きなメガホン”で叫ぶ連中が、全くの正義では無い事が証明される。解り易く云えば、マイノリティと、マジョリティである。
彼の『ジャンヌ』でさえ、最期にはカスも残らず燃やされたのだ。一つには、彼女は癲癇であったから、とも云えるだろう。所謂差別である。更に古くはソクラテス、カエサル、成否の解釈は其々だが、ナポレオン・ボナパルトもそうだ。そして、最も、気を引かれるのが、漱石の愛したドフトイェフスキーと云う存在である。
今の社会に於いては、様々な理由を下に悪しき存在とされ、生きて居るだけで、“金喰い虫”と蔑まれ、ほんの少しの隙間にしか居場所が無い。判然云うが、癲癇の患者には優れた者が多い。先述の通りに調べて貰えば好く解ると思う。例えば、私は好きではないが、一世を風靡したXジャパンのメンバーにも一人居る。即ち、活躍出来る才能を持っている者も居るのだ。之以上は、蛇足だ。止めよう。
人は人で在る限り、何物にも成り得ない。然し、生まれた以上は生きるしかない。だから、私は語り続けるのである。差別をするのは当たり前だ。何しろ、他人の手を借りないと真面に生活出来ない人も居るのだから。本来、差別とはそう云う意味である。人の命と心とを蔑ろにするのは言葉の意味を履き違えていると云える。若し其れが間違いであっても、私はそうだと信じる。目が視えない人も、耳が聞こえない人も、口が利けない人も、体の動かない人も、温度を知らぬ人も、皆、人だ。其々に出来る事は有る。無論、出来ない事も有る。只、頑張っている事には所謂健常者と違いは無い。
此処で、一つの病気を例に挙げたのは、其れを分かり易くする為だ。私は其の為に運転免許の更新には自己申告と、医師の診断書を必要とする。確かに、其の方が、都合が好い。然し、其れは社会にとってであり、私達にでは無い。
此処まで云えば解ると思うが、何うか、意味の違う差別を、必要の無い差別を止めて欲しい。社会のパラノイアに成らない為にも。




