村上氏
もう何年も彼がノーベルを受賞すると、小説好き、純文学好きの方が多い。然し、彼が受賞するにはあと十年は必要であると私は思う。何故なら、社会性が無いからである。只、単に文学や純文学を綴っても、世界の人々には何うでも好い事だからだ。自身の事や其の廻りの出来事を飾ってみても、其れは畢竟、自己満足と云う現実に帰着するからである。原稿料と、知名度。其処で自身を誇るなら、何を何うしても、人々に指針なり、自己啓発を促す事が無ければ、其れは既に文学ではない。登場するキャラクターの面白さを気取っているに過ぎないのである。故に、彼は賞を頂けないのである。解り易く云うと、自身の体験や、聴いただけの情報を小説にしても、其れは報道の遣る事と一般であるのだ。勿論、彼は、私の何十倍もの小説を読んでいるのだろう。然し、彼の何十倍もの映画を私は観ている。其処に違いが有るのだ。想像力のみ、かつ、自身の眼と精神を頼りとする小説と、映像、演技、カメラワークを追及する観察力。私は、之まで少なくとも千本以上の映画を観て来た。少なくともなのであるから、其れ以上なのは間違い無い。其の証拠に、一本。『カスパー・ハウザーの謎』と云う映画を挙げよう。まず間違い無く、皆知るまい。当時の私には文学と云う観念も無く、又、知らず、何が美しいのかも解らず、其の映画を素晴らしいと思った。心から、原作者、脚本、俳優、そして、彼等を支えた裏方。彼等を讃えたいと思った。事実、彼の作品は然る可き賞を得ている。私は敢えて、其の理由は語らない。観たいなら調べて見ると好いだろう。詰まり、彼の作品には社会性と、人の根源たる凄まじき哲学性を兼ね備えていた、と、云う訳だ。
而して、何うだろう。『村上』先生は其れ程の創作意欲が有るのだろうか。私にはそうは思えない。沢山の知識を脳に取り込んで、心と繋げているのは間違い無いだろう。其処は大いに尊敬す可き処である。然し、先述の通りである。小説を千本読んでも、映画を千本観ても、同じ事なのである。双方の違いは、……最早云うまでも無いだろう。
“夢”を見る者なら、誰だって苦労する。現実には“黒”でも“白”と云わねばならない事が有る。其処で打つかってでも信念を貫くか、或いは、保身に捉われてしまうのか。
あらゆる人間関係。其れは人に因って違う。だからこそ、好く視なければならないのだ。自分が何んな形で、何んな色をしていて、何んな人の役に立つのか、若しくは、誰を求めれば好いのか。
本筋を逸らす気は無いのだが、何うやら私は舌が廻らないらしい。『御前は結局何が言いたいんだ』と、そう云う意見が殺到している事は“舌然に尽くし難い”美しき事実である。因みに、理解して呉れる人と、そうでない人が居る。ならば、理解して呉れる人に心からの“メッセージ”を送り続けたい。
そろそろ、判然と本題に戻ろう。村上氏を支持する読者は三島由紀夫を読んだ事が有るだろうか。之は大きなヒントである。他人の体験を漱石も一つ書いているが、三島は更に事実を歪曲した“素敵”な下品な物を発表している。其れが赦されたのは、川端の存在が有ったからである。繰り返すが、漱石、子規、虚子、鴎外、芥川、続いて、太宰(彼は私にとって、漱石、芥川に継ぐ第三氏であると任じている)。太宰は第一回の芥川賞の次席となったが、彼の文学を愛する者にとっては賞など必要無いのではないかと思われる。従って、ノーベルなど必要無いのだ。形骸でしかない証など、寧ろ恥である。三ツ星だろうが、星無しだろうが、安くて美味い店の方が好い。皆もそう思わないか?




