僕の生は
之まで、生活の面、衣食住に関しては全く不自由無く過ごして来た。情操教育としての書物も沢山与えられた。其の生活の中で、一々、感動し、感激し、一々、失望し、絶望した。有体に云うと、僕には僕である自由が無かったのである。父は無神経で感傷などと云う言葉とは掛け離れていて、何時まででも血の繋がりを重んじて、いや、其処に甘えていた。母は母で、戦争に行った事に因って罹患したPTSDに悩まされた父を、詰まり、僕の祖父を憎んでいた。そんな家族に平定など求めようが無い。クソッタレの両親を持った僕は、かつて与えられた書物を読み、人の在り方を見定めた。然し、其れを与えた両親は、オポチュニズムに従い、日和見主義を、黒い布で隠し、イエスマンとして生きて来た。果たして、其処に人の信ず可き理が有ろうか。考える可きも無い。鑑みる事実も無い。人と云う生き物は、理想論で生きる可きであり、其れを失った時、所謂“ヒト”と云う、世間や社会の歯車に成るのである。或いは、パズルのワンピースであろう。
手を取り、仲良くしよう。皆で幸せに成ろう。そう社会は宣うが、不座けるなと、判然云って遣る。不良品として、所謂障害者を食い物にし(之は世間一般の健常者にも当て嵌まる)、勝手な解釈で以って、憲法や法律やら、条令なんかを作って、ぐるりを気にせず振る舞っている。そもそも、健常者と障碍者の双方とも、同じ税金、年金を払わなくてはならないのは何故か。何処へ行っても雇って貰えない障害者が、何うやって金を用意すればいいのか。其処に到る結論は、云うまでも無い。“足を引っ張る連中”はさっさと死ねと云っているのだ。大いなる民主主義とはそういうものなのだ。社会主義の方がよっぽど好い。金さえ有れば一般と見做されるのだから。即ち、民主主義とは理想を掲げるが、其れは金や権力を牛耳っている奴等に根回しをして初めて認められる人権であると、小さな声で言っているのだ。仮初の正義である事がバレないように。だから、社会主義の方がマシなのだ。言いたい事が有るなら金を用意しろと、そう判然云っているのだから。然し、困った事に、日本国に於いても、実は社会主義者達が国の運営を行っている。古い話だが、一次大戦から、二次大戦に於いて生き残った政治家や軍人は、秘密裏に取引をしている。そうでなくば、今日に日の目を見る筈が無い。只、もう直ぐ争いが起こりそうなので、僕は戦地へ行こうと思う。大義名分、天上天下唯我独尊。そんなものは無い。単なる殺し合いだ。其処に守ろうとす可き者が居るか何うかだ。
僕には護りたい物が有る。其れは、此の星だ。たとえ、凡ての人類が消滅したとしても、此の星は命の続く限り、廻り続けるのだ。いや、人類など要らない。生きて居たいのなら構わないが、此の星は、人類を特別だとは思っていない。繁栄する種も在れば、滅びるしか無い種も居る。詰まりは、僕等は、いや、僕は今奇跡的な可能性の元に呼吸をしているのだ。世間、社会、裏社会、そして、結社。君達は少しばかり図に乗り過ぎた様だね。立って居られなければ、意味は無いだろう? 空間が無ければ、いくら君達が存在意義を示した処で、やはり、意味は無いだろう? こうして書いている事が、如何にも馬鹿馬鹿しい。生まれを呪い、親を騙し、憎み、友を愚弄し、主張した僕の生は……。紛い物だ。




