文学とは
ボキャブラリーは少なければ少ない方が好い。現在(川端以降)の文学は一々難しい言葉を遣って己の心を隠しているからである。其れを読み解くのは悪い事では無い。けれども、絵本の様な、子供達に訴える可き文学性は、判然云って無い。あれこれと考えさせる文学は、太宰で終っている。川端は其れを良しとはしなかったが。私は、川端、三島は“ラノベ”の源泉であると考えている。其処に本来の文学性は無い。所詮、masturbationだ。
ならば、と云うと、宮沢賢治、新見南吉などが現代に通ずる文学を書き、描いている。特に、新見南吉が先生をしていた学校出身の私としては、大いに彼を尊敬している。何も知らない子供の頃に読んだ『ごんぎつね』に感動し、目を潤わせた記憶は、生涯消えないだろう。そして、指針にも成るだろう。
一方の宮沢賢治に関しては、余りに有名な『銀河鉄道の夜』が有る。残念ながら、未完に終わっているが、読み手に対しての礼儀と強い想いが籠められている。きっと、彼は其れを見越して書いていたのだろうと思う。人生と云う柵を優しく伝えている。其のオマージュとしてのアニメさえ有り、其れが評価されるのなら尚更である。
ともあれ、難しい言葉を遣わなくとも、文学と云える物は書けるのである。其の見解に於いて、私の評価する二者は、好い意味で辞書を引かせて呉れる。漢文や候文。其れ等にも似た特徴が有るが、少しく難しい。其の意味する処は、初心者が楽しく読める文学であるか否かである。もっと解り易く書いているのが、山中恒氏だ。彼は児童文学の先駆者とも云える。『ぼくがぼくであること』と云う小説を読んだ時、私は感激した。非情に面白いのだ。勿論、文学性をも備えている。女性的でも無く、男性的でも無い。確かな文学なのだ。だからこそ、其の時にきっと、私の書き物への“種”が植え付けられたのだろう。従って、親とも云える存在なのである。先生は漱石と太宰、其れに、社会学者の井上治子氏。糧は宮沢賢治と新見南吉。友は上谷暢大君。残念ながら、彼はもう此の世に居ない。生きていれば、丁度同い年位だ。私は其れが悔しい。非情に悔しい。彼の闘病生活を知ったなら、きっと、誰しもが自身の考えを改める事だろう。他にも沢山の命の上に、私は書いている。そして、皆の命を無駄にしない為に、自身の命と想いを書いている。後ろ向きだと批難されても、或いは、誰かの真似だと揶揄されても気にしない。私は私なのだ。だから、云いたい事を云う。
最早ターミナルであるかも知れない此の体が生きようとしている限り、私は書き続ける。誰にも読まれずとも。此処に、確かに在る事を信じて。




