人殺しでないポジティヴは純然たる悪
私は、誰かを救えるなら、本当に救えるのなら、此の命に価値を見出さない。解り易く云えば、己の命に特別な何かを装飾する気が無いのである。
国際的な組織の末端に属し、世界を観て回ってみると、実に不平等である事が好く解る。人助けをしに行くのに、現場に着いたら、或る程度居心地の好い寝床を用意され、充分な栄養を食事に因って摂れる。……何だ? 其れ。と、思わざるを得ない。秒単位で死に逝く子供達や、そんな子供を護る為に、必死になっている親達に何と云えば好いのか。たとい、此方に金銭を求めなくとも、先述の通り、特別扱いで飯を喰っているではないか。苦渋の決断すら、安易に考えている。何しろ、“自分は死なない”なんぞと高を括っているからだ。然し。何を何うしようとも、何んなに願っても、人は、何れ死ぬ。必ず死ぬのだ。生き物である以上、其れを否定する事など出来ない。だから、人は、自身に、今現在の自身に出来る事を探すのである。“最期”を迎えた時、胸を掻き毟られる様な後悔をしないように。其処には確かに一理の正義、整合性が有ると云える。私は其れを憎む気は無い。然し。
ポジティヴとは何だ? 人が死のうが、他人なら特段の配慮は要らぬと云う。彼等はネガティヴを忌む。ならば、彼等は世界の為に何れだけの苦労と努力をしているのだろう。私には、彼等が自身の自由を得る為に、肌の色、瞳の色、言葉に宿る想いを無視し、更には、コミュニケーションの可能な人と云う生き物の本質をすら棄てている様に思う。実際、深みの無いポジティヴを掲げる人と話をした事が有るので、此の推理は先ず間違い無いと自信を持つ。簡単に解説するならば、ポジティヴな思考に因って考え、生きる者達は、左右と後ろを鑑みていないのである。只々、自身を信じ、他人の云う事には勝手な解釈を加え、注釈し、益に成らずば、即刻排除しているのである。本来なら、身の回りの凡てをしっかりと見据え、其の上で出す筈の結論が蔓延しているのが、現時代の本当である。無論、其れは間違いだが。
結論としては、ポジティヴな連中は周りに見合ったマジョリティに身を染め、少数派のマイノリティを責めて立てている、と云うのが事実である。判然云って、彼等の個々がマイノリティであるにも拘らず。或いは、インディビジュアルとでも云う積りかも知れない。命のデジタル化が出来ないのなら、其れはエゴだ。何かが気に入らないから泣いている赤子と同じだ。
此処で冒頭に戻るが、己の命を捧げる事で、助ける事の出来る命を救う事はネガティヴかな? 私は、やはり、そうは思わない。順番に死ねば好いのだ。救う可き命が己よりも若いのなら尚更だ。死にたがりだろうが、死に損なった人間だろうが、命を救いたいと思う気持ちに、ポジティヴな(基本的には彼等は勘違い野郎共だ。本当のポジティヴを有しているのは全体の一割から二割位だろうと思う)自己中心的な馬鹿者に文句を云われる筋合いは無い。
折角なので、好い事を教えて差し上げよう。ネガティヴは単体で存在出来る上に、何うすれば現状を打破出来るかを知る事が出来る。然し、ポジティヴは所詮、猪突猛進。砕く事の出来ない壁に向かって突進するだけだ。やがて、訪れる(経済的破綻、人間同士での不和、男女関係の崩壊)死を知らずに。
光在る処には必ず影が在る。其の事を知らず、或いは、無視するのなら、ポジティヴとは自身は下より周りを囲って呉れていた親しい連中や、近しい連中をも巻き込み、観えぬ霧と闇に包まれる事だろう。




