荘厳なる白闇
梅雨を迎える頃。本当に、そんな短い期間にだけ、霧が現れる。五メートルも先も観えない程に濃い霧だ。
昔は、そんな事は無かった。霧など数年に一度位だった。雪は降ったが。盆地でも無いのだから、普通はそんなものだろうと思っていたのに、五、六年程前から、恰も、“空気”の流れを報せるかの如く、想いの在るが事を報せる如くに、極自然に、然し、何かを悟らせる様に揺蕩う靄は、人の気が晴れるまで中空を埋め尽くしている。放っておけば、やがて消える其れは、果たして無視して好い物なのだろうか。電気信号などと云えば科学的であるが、哲学的に捉えるなら、其処には無数の想いが籠められているとも云える。古くは三大元素。其の後、アリストテレスの唱えた、『火・風・水・土』などが其れに当たる。然し、哲学者は或る意味神学の肯定に尽力した面もあるからして、真向から受け止めては不可ない。正しきは信じ、悪しきは否定する。只、此処でも又問題山積なのは間違い無い。だが、此の、今の世に信ず可き正しさなど無い様にも思う。惰性で生きていようが、志を持って生きようが、ぐるりを見渡しても、其処に触れる人など居ない。霧は、其れを報せているのではないのだろうか。世界の情勢を、空気の流れに因って伝えているのではなかろうか。生きると云う事が既に形骸と化している現状を現しているのではなかろうか。其の証拠に、天晴と云う日より、霧に包まれた白闇の世界にこそ、心が顕れ、自身の正体を知る事が適う。無論、人に因って其の感覚は違って来るが、然し、そう感じるのはきっと間違いでは無いだろう。少なくとも、天上天下唯我独尊と云って構わないだろう此の世界には好い薬だ。自分が思った通りに行かない事も有るのだ。司会を遮る霧が、其れを教えている。何う生きようと、観えない物も有る。結果、躓いて泣く事も有る。そんな時、ゆとりを持っていられるか、或いは、戸惑い、嘆くのか。其れは、其々の感性、感情に委ねられる事を知らねばならない。煙と同じく、観えない状況下で、自身が自身である事が出来るのかは、個々の心に因る。だからして、そんな時にも己を失わずに、冷静に見詰めて見れば、幾らか美しくも感じるだろう。ちょっとだけ立ち止まって、しっかりと向き合い、同時に、自身を顧みる事も大切な事だろう。そんな風に生きられたなら、きっと、自身に対しての慈愛も、他人に対しての優しさも思い出す事が出来る筈だ。
白闇は幸福の流れを示している。立ち止まる事を赦して呉れる。疎ましく思わず、身を任せるのが正しい。振り払って行く強さは、却って、他人に対して厳しい、酷な事を要求する威力、強迫と成る。其れでは駄目だ。白きベールを身に纏い、美しい心持ちで接する彼氏彼女は、自身にとって、とても素晴らしい未来を示し、与えて呉れるだろう。其れを以って、“生きる”と云うのだ。何うか、忘れないで欲しい。




