神様
神様は何時だって不公平だ。真剣に生きている人間に残酷で、楽をして、他人を騙す人間に平等だ。何だってそうなのかと問うと、仏教にしても、密教にしても、キリスト教えにしても、誠実なる者にこそ試練を課すと云う。
生き地獄たる此の世界に於いて、何をそう、求めるのか。ルシファーにしても神を裏切ったではないか。裏切りを認むるなら、アダムと、イヴでさえ、蛇の云う事を聞いて何も咎められる事は無かった筈だ。蛇は四肢を失う事など無かったのだ。林檎だか何だか知らないが、成っている実を食べた事に罪は無い。人は食が無ければ生きて行かれないのだから。例え、其れが禁断の知恵の実であったにしろ、セフィロトとは云うまい。何故なら、其れは人の人智を超えた物だからである。そもそも、喰う自由を与えたのは神だ。其れを何故責めるのか。詰まり、神は何も禁じてはいなかったのである。仏教に例えるなら、断食などもっての外。日々の供養を以って、命を頂いているからだ。断食など、所詮、自己満足。いっそ、即身仏にでも成れば好い。然し、生きようとする。其れが人の性なのだ。因みに、全然関係無いが、密教を題材としたアニメで『バジュラ、オン』、とか言っているには凄まじくガッカリさせられた。逆だ。オン、バジュラ、何とか、ソワカだ。本来なら梵語に当て嵌まる言葉だが、無知なる私には好く解らない。「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と云う呪いも有る。此の解釈は、兵である者は皆、陣の前に、列に在り、闘いに臨むと、そう云う解釈が出来る。詰まり、主を前にす可からず、と云う意味であると捉えられる。主とは勿論神だ。即ち、此の九種が示す処は、主人を妖の前に晒す可からず、と云う意味であると考えられる。少なからず、身に覚えの有る人も居るだろう。
此の国では殆どが仏教に染まっているので解り難くなっている現実が有る。其れは、神に対するに下法など無い、と云う事だ。宗教など何でも好い。一神教でも、多神教でも好い。関係無いのだ。例えば、八百万は神と称される事も有れば、妖と称される事も有る。次いで、怪の類も同様だ。相応しく神であると称される物も、同じくしているのだ。畢竟、理解の幅と、其のパーセンテージなのだ。人の念に因り、幾らでも神は誕生する。正しくも、卑しくとも。其れを理解出来ない者は、真なる心に魂を預ける事など出来はしないだろう。幾ら信心深くとも、届かねば意味は無い。神を神聖視するのは、好いが、祟り神と云うのも居る。だから、人は差別するのだろう。祟られたくないから。然し、実は其処に間違いが有るのだ。神は神として芯を全うす可く、力を遣う。詰まり、祟り神にも存在意義が有るのだ。だからこそ、在るのだ。努々、忘るる事莫れ。我らは神に活かされるのでは無く、共存しているのだと云う事を。そして、感じる可きだ。神羅万象に宿る息吹を。私は何うしても其れだけは言って置きたい。




